本文
さては・なによりも上の御いたはりなげき入つて候、たとひ上は御信用なき様に候へども・との其の内にをはして其の御恩のかげにて法華経をやしなひ・まいらせ給い候へば偏に上の御祈とぞなり候らん、大木の下の小木・大河の辺の草は正しく其の雨にあたらず其の水をえずといへども露をつたへ・いきをえて・さかうる事に候。
此れもかくのごとし、阿闍世王は仏の御かたきなれども其の内にありし耆婆大臣・仏に志ありて常に供養ありしかば其の功大王に帰すとこそ見へて候へ、
現代語訳
さて何よりも、主君・江間氏の御病気のことは、嘆かわしく思っております。
たとえ主君は法華経を信仰していないようであって、その御恩のおかげで法華経を供養しておられるのであるから、その功徳はひとえに主君の病気平癒のための祈りとなるでしょう。
大木の下の小さな木や、大河のほとりの草は、直接雨にあたることがなく、直接水を得ることがなくても、自然に露を伝え、水気を得て栄えるのである。あなたと御主君との関係も、このとおりです。
あなたと、御主君との関係も、この通りです。
阿闍世王は仏のかたきでしたがその身内の耆婆大臣が釈迦仏を信じて常に供養していたので、その功徳が阿闍世王に帰したと説かれています。
講義
「内薫外護」の実践で境涯を開く
ここで大聖人は「内薫外護」という仏法の肝要となる法門を説かれます。
内薫外護とは、一切衆生の生命に内在する仏性が内から薫発し、外から自己を守り助け「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ」(0557:法華初心成仏抄:06)
御本尊に向かって唱題することは、じつは万物と己心に具わる仏性を呼び現し讃嘆することと同義なのです。つまり自分の仏性を顕現させる唱題の音声に応じて、全宇宙の諸天善神も動き、私たちの生命を護ってくれる。この法理には、ほかの他力本願的な信仰とは一線を画する。日蓮仏法の特質が端的に現れています。
内薫とは、内発の力です。仏の生命といっても、それを外に求めては内道の教えである仏法にはなりません。煩悩に迷い、生死の苦しみを味わっている自分の中こそ、仏の常楽我浄の生命が厳然と具わっている。その功徳を現実に呼び現すのが日蓮仏法です。
すなわち、あらゆる人々が仏の性分を具えているがゆえに、一念を定めて祈ることで仏の生命が「よびよばれて」現れる。自分が仏界を薫発しているからこそ、外に守護が現れるのであります。すべては自身の一念によって決まるのです。
この「内薫外護」の法理に照らせば、いかなる環境も、一念を変革し、自らの仏性を薫発することで、必ず変えることができる。“自らの人生のドラマの脚本を描くのは、ほかならぬ自分自身である”と確信した瞬間から、恐れるものなど一切なくなります。
大聖人は引き続き、「かくれたる事のあらはれたる徳となり候なり」(1171:01)と仰せです。「目には見えない徳が、はっきりと現われた徳となる」 妙法を実践すること自体が勝利の道程を歩むことであり、すべての徳が目に見える形に必ず現れてくることは間違いない。そう深く強く確信し、進むときに、自身の未来は予想だにもしない形で大きく開けます。それが、御本仏の御確信であられ、御断言にほかならないのです。
事実、その大境涯を、学会員の一人一人は確立しているのです。「人を敬う振る舞い」その王者こそ、わが学会員です。法華経の万人尊敬の思想が、まさしく薫習する如く学会員の生き方の中に染みわたっている。
困った人を見たら放つておけない。心配な人を見たら励まさずにはいられない。苦しんでいる人を見たら抱きかかえずにはおられない。相手の可能性を信じ、善のかかわりあいを深めていく。「人を敬う振る舞い」において、わが学会員こそ、その体現者、体得者です。
それはとりもなおさず、仏菩薩の生命が薫習している証しです。これに勝る功徳はありえません。そこに薫風が限りなく広がります。学会員こそ、庶民の英雄なのです。偉大なる生命の王者なのです。