兵衛志殿御書(親父入信の事)

兵衛志殿御書(親父入信の事)

 弘安元年(ʼ78)9月9日 57歳 池上宗長

背景と大意

本抄は、建治3年(1277年)9月(一説には1278年)、日蓮大聖人が身延において、池上兄弟の弟である池上兵衛志宗長(いけがみひょうえのさかんむねなが)に与えられ、父・左衛門大夫康光(さえもんのたゆうやすみつ)の入信に対する喜びを表されたお手紙です。

長年にわたり、康光は息子たちの信仰に頑なに反対し、兄の宗仲(むねなか)を2度にわたって勘当して二人を分断しようとし、宗長が大聖人の教えを捨てるならば家督を継がせると約束していました。この試練の間、宗仲は毅然として信仰を捨てることを拒み続けましたが、宗長は時折心が揺れ動きました。しかし、大聖人からの度重なる激励のお手紙のおかげで、宗長は父の要求に抵抗し、強盛な信心を決定することができたのです。兄弟二人がついに父の反対を乗り越え、父に法華経を信じさせることができた今、日蓮大聖人は特に宗長に対し、信仰と兄に対して誠実であり続けたその決断を讃え、心から祝福されています。

しかし追伸(添え状)に示されているように、本抄は宗長だけでなく、大聖人の門下全般に向けられたものでした。より一般化された内容は、「実経の説のごとくんば、後五百歳、仏法滅尽の時にあたりて聖人世に出で給うべし」という御文から始まります。これは法華経の「神力品(じんりきほん)」を指しており、そこでは釈尊が末法に法華経を広宣流布させるため、上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)に法華経の結要(要分)を付嘱しています。他の仏教の教えが衰退する邪悪な末法においてであっても、法華経の精髄である妙法は広まり、栄えていくのです。

 

 

第一章(兄弟の団結を讃親父の入信を喜ぶ)

本文

久しくうけたまわり候わねば、よくおぼつかなく候。何よりもあわれにふしぎなることは、大夫志殿ととのとの御事、ふしぎに候。
つねざまには、代すえになり候えば、聖人・賢人もみなかくれ、ただ、ざんじん・ねいじん・わざん・きょくりの者のみこそ国には充満すべきと見えて候えば、喩えば、水すくなくなれば池さわがしく、風ふけば大海しずかならず。代末になり候えば、かんばち・えきれい・大雨・大風ふきかさなり候えば、広き心もせばくなり、道心ある人も邪見になるとこそ見えて候え。されば、他人はさておきぬ、父母と夫妻と兄弟と諍うこと、れっしとしかと、ねことねずみと、たかときじとのごとしと見えて候。
良観等の天魔の法師らが、親父・左衛門大夫殿をすかし、わどのばら二人を失わんとせしに、殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちいありしゆえに、二つのわの車をたすけ、二つの足の人をになえるがごとく、二つの羽のとぶがごとく、日月の一切衆生を助くるがごとく、兄弟の御力にて親父を法華経に入れまいらせさせ給いぬる御計らい、ひとえに貴辺の御身にあり。
また真実の経の御ことわりは、代末になりて仏法あながちにみだれば、大聖人世に出ずべしと見えて候。喩えば、松のしもの後に木の王と見え、菊は草の後に仙草と見えて候。代のおさまれるには賢人見えず、代の乱れたるにこそ聖人・愚人は顕れ候え。あわれ、平左衛門殿・さがみ殿の日蓮をだに用いられて候いしかば、すぎにし蒙古国の朝使のくびはよも切らせまいらせ候わじ。くやしくおわすらん。

現代語訳

長い間、便りもありませんでしたので、非常に心配しておりました。しかし、なんといっても、尊く不思議なことは、お兄さんの大夫志殿とあなたとの仲のことで、本当に不思議に思っております。

常例では、世が末になれば聖人とか賢人といわれる人は皆かくれて、ただ讒人や、佞人や、表面は和やかだが陰にまわって人を陥れる和讒の者や、理を曲げて我意を通す曲理のものばかりが国中に充満するようになると経文に書かれています。たとえば、水が少なくなれば池が騒がしく、風が吹くと大海の面が静かではないようなものです。こうした末法の代になると、旱魃や疫癘が起こり、大雨大風が吹き重なり、そのため心の広い人も狭くなり、求道心ある人も邪見の者となってくるのです。それゆえに他人とのことはさておいて、父母、夫婦、兄弟等の肉親までが相争い、その姿はちょうど猟師と鹿と、猫と鼠、鷹と雉とが争うようなものであると経文に見えます。

彼の極楽寺良観等の天魔の法師たちが、父親の左衛門大夫康光殿を騙してあなた方兄弟二人を迫害し退転させようとしましたが、兵衛志殿の心が賢明で、日蓮が諫めたことを用いられたがゆえに、あたかも二つの輪が車をたすけ、二本の足が人を担うように、また二つの羽で鳥が飛ぶように、日月が輝いて一切衆生を助けるように、兄弟二人の力によって、父親を法華経の信心につかせることができたのです。この計らいは偏に兵衛志殿の信心によるものです。

また、真実の経の理によれば時代が末法となり、仏法が非常に乱れたときには、大聖人が必ず世に出現されるとあります。

たとえば、松は霜が降りてのちも枯れないので木の王といわれ、菊はほかの草が枯れたのちにも、なお、花を咲かせるので仙草というのと同じです。世の中が平穏なときには誰が賢人であるか分からないが、世の中が乱れているときにこそ聖人と愚人はあきらかになるのです。気の毒にも、平左衛門尉殿や相模守殿が日蓮のいうことを用いられていたならば、先年の蒙古からの使いの首を、よもや斬ることはなかったでしょう。今になって後悔していることと思います。

 

語釈

 すぎにし蒙古国の朝使

建治元年(12544月、蒙古国からの使者として杜世忠ら5人が到着したが、時宗はこの5人を9月に竜の口で斬殺した。

 

講義

  本抄は、池上宗仲・宗長兄弟が、力を合わせて信心を貫き、ついに父の左衛門大夫康光を正法に帰依せしめたことを心から喜ばれている。とくに、兵衛志宗長は、兄宗仲に比べると信心が弱かったので、かねてから懇切に指導をつづけてこられたのであるが、ついに家庭革命をなしとげることができたいま、よく大聖人の御指導どおり頑張った宗長に対して、あたたかい祝福を与えられている。

しかしながら、本抄は、末尾に「此の文は別しては兵衛の志殿へ、総じては我が一門の人人御覧有るべし、他人に聞かせ給うな」と仰せのように、重大な内容を含んでいる。

前半においては、末法濁世の姿と、そのような世に大聖人すなわち末法の御本仏が出現することを示されている。そして、後半では、そのような濁乱の根源をなすものとして、真言の大悪法をあげられている。しかも、この大悪法に気づかず、御本仏たる大聖人を迫害したことによって、大罰を受けるであろうと断言されているのである。

 

常さまには世末になり候へば聖人・賢人も皆かくれ云云

 

末法の世相を明確に示された御文である。「聖人・賢人」とは、別していえば天台、伝教等の正法の持者であるが、総じては正しく仏法を持った、勝れた指導者である。

すでに、釈迦仏法はその力を失い、したがって、釈迦仏法を持った聖人・賢人といわれる人も、みな、かくれてしまった。

さらに、仏法の衰滅は、それを根底とした政治、経済、文化等の各分野にも、衰滅を惹き起こしていく。かくして、あらゆる分野において、旧来の思想・理念による旧来の指導者は、かくれていってしまうのである。

本来、指導者としての資格のある人が占めるべき地位は、互いに、謗り合い、権謀術数に明け暮れる、邪悪な人々によって奪われる。いわゆる王道は没し、覇道の世となり、戦国乱世を迎えるに至るのである。

 

又真実の経の御ことはりを代末になりて仏法あながちに・みだれば大聖人世に出ずべしと見へて候云云

 

大聖人とは、前に「聖人・賢人」といわれたのに対し、それよりはるかに偉大な方であることを示されている。すなわち、釈迦仏法の正義が没し、いわゆる闘諍堅固、白法隠没の時代になったとき、苦悩のどん底にあえぐ一切衆生を救うため、偉大なる仏法の指導者が出現される。これが末法の御本仏である。

「真実の経の御ことはり」といわれているのは、法華経神力品の末法弘通の付嘱の儀式をさすのである。その儀式で地涌の菩薩として付嘱を受けられた日蓮大聖人が、末法の御本仏として出現されることは、明々白々だからである。

なおこの文のあとに「喩へば松のしもの後に木の王と見へ」云々、と譬えを説き、「代のおさまれるには賢人見えず代の乱れたるにこそ聖人愚人は顕れ候へ」と申されているのは、釈迦仏法がことごとく衰えてしまったあとに、ただ、末法の正法たる日蓮大聖人の大仏法のみが栄えていくさまを示されているのである。

濁乱の世には、たとえ、正しい心をもっていても、既成の理念、既存の権威による指導者は、奸智にたけた邪悪な人々に押しのけられて、姿を消していく。こうして邪悪な指導者のもとにあって、民衆は塗炭の苦しみを味わうことになる。

これを救うものは、ただ過去の理念、思想よりもはるかに高い哲学、時代に相応した力ある理念による、新しい指導者以外にない。これは、そうした時代の転換、歴史の発展法則を示された御文と拝することもできよう。この御文は、全く現代の社会を映し出しているといえよう。

またこの御文は、人生、社会における深い指針でもある。

個人の人生にあっては、苦難にあったときが、大きく成長し、人間形成をなしていくチャンスである。社会にあっては、みんなが苦しんでいるとき、行き詰まったとき、真剣に人々の幸福と、その社会の発展のために立ち上がっていく人が、真実の人材であり、指導者であるといえよう。

ともあれ、末法の御本仏日蓮大聖人を大導師と仰ぎ、いかなるときも妙法を根本に、さらに妙法の清流を汲む創価学会のもとに広宣流布を目指すことが肝要である。

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