四条金吾殿御返事(不可惜所領の事)

四条金吾殿御返事(不可惜所領の事)

 建治3年(ʼ77)7月 56歳 四条金吾

背景と解説

この御書は、日蓮大聖人が56歳の時に身延で認められ、鎌倉の四条金吾に送られたお手紙である。金吾は、執権北条氏の一門である江馬氏に仕えており、医術と武術の両方に通じていた。

1277年(建治3年)6月、四条金吾は鎌倉の桑ヶ谷で行われた法論を聴聞した。この桑ヶ谷問答において、大聖人の弟子である三位房が、良観(忍性)の秘蔵っ子であった竜象房を破ったのである。金吾に対して嫉妬を抱いていた他の江馬家の同僚たちは、江馬氏(主君)に対して「金吾が武力をもって法論の場を混乱させた」と虚偽の報告をした。その結果、主君・江馬氏は金吾の領地(所領)を没収すると脅したのである。桑ヶ谷問答の後、金吾が主君から「法華経の信仰を捨てるという起請文(誓約書)を書け」と命じる公式の手紙を受け取った際、金吾はその手紙を、決してそのような起請文は書かないという自身の誓いを記した手紙とともに、身延の大聖人のもとへ送り届けた。

日蓮大聖人は、金吾を励ますためにこのお手紙(御書)を認められた。また同時に、金吾を弁護し、彼がこれまで主君に対して尽くしてきた忠義の奉公を称える、江馬氏宛ての状(下書き)も送られた。この嘆願書は『頼基陳状(よりもとちんじょう)』と呼ばれている(頼基とは、四条金吾の本名の一部である)。それから間もなくして、主君・江馬氏は病に倒れた。最終的に主君は金吾に医術の助けを求めるほかなくなり、金吾の治療によって回復を遂げた。これによって主君は再び金吾を深く信頼するようになった。その後、四条金吾は主君から、それまで保持していたものの3倍にも及ぶ広大な所領を賜ることとなった。

このお手紙(御書)の中で大聖人は、「たとえいかなる惨めな乞食の身になったとしても、決して法華経を辱めてはならない」と仰せになり、信心の根本的な姿勢を定義されている。すなわち、どのような社会的立場に置かれようとも、いかなる逆境に直面しようとも、法華経の持経者としての気高き精神を妥協させることなく、信心を貫き通すことこそが肝要である、との教えである。

 

 

第一章(金吾の決断を讃える)

 本文

   去月二十五日の御文・同月の二十七日の酉の時に来りて候、仰せ下さるる状と又起請かくまじきよしの御せいじやうとを見候へば優曇華のさきたるをみるか赤栴檀のふたばになるをえたるか、めづらし・かうばし、三明六通を得給う上・法華経にて初地・初住にのぼらせ給へる証果の大阿羅漢・得無生忍の菩薩なりし舎利弗・目連・迦葉等だにも娑婆世界の末法に法華経を弘通せん事の大難こらへかねければ・かなふまじき由・辞退候いき、まして三惑未断の末代の凡夫が争か此経の行者となるべき、設い日蓮一人は杖木・瓦石・悪口・王難をも忍ぶとも妻子を帯せる無智の俗なんどは争か叶うべき、中中・信ぜざらんはよかりなん・すへ・とをらずしばしならば人に・わらはれなんと不便にをもひ候いしに、度度の難・二箇度の御勘気に心ざしを・あらはし給うだにも不思議なるに、かく・おどさるるに二所の所領をすてて法華経を信じ・とをすべしと御起請候事いかにとも申す計りなし、普賢・文殊等なを末代はいかんがと仏思し食して妙法蓮華経の五字をば地涌千界の上首・上行等の四人にこそ仰せつけられて候へ・只事の心を案ずるに日蓮が道をたすけんと上行菩薩・貴辺の御身に入りかはらせ給へるか又教主釈尊の御計いか、彼の御内の人人うちはびこつて良観・竜象が計ひにてや・ぢやうあるらん、起請をかかせ給いなば・いよいよかつばらをごりて・かたがたに・ふれ申さば鎌倉の内に日蓮が弟子等一人もなく・せめうしなひなん、凡夫のならひ身の上は・はからひがたし、これを・よくよく・しるを賢人・聖人とは申すなり、遠きをば・しばらく・をかせ給へ、近きは武蔵のかう殿・両所をすてて入道になり結句は多くの所領・男女のきうだち御ぜん等をすてて御遁世と承わる、とのは子なし・たのもしき兄弟なし・わづかの二所の所領なり、一生はゆめの上・明日をごせず・いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず、されば同くは・なげきたるけしきなくて此の状に・かきたるが・ごとく・すこしも・へつらはず振舞仰せあるべし、中中へつらふならば・あしかりなん、設ひ所領をめされ追い出し給うとも十羅刹女の御計いにてぞ・あるらむと・ふかくたのませ給うべし。

  日蓮はながされずして・かまくらにだにも・ありしかば・有りし・いくさに一定打ち殺されなん、此れも又御内にては・あしかりぬべければ釈迦仏の御計いにてや・あるらむ、

 

現代語訳

  先月二十五日付のお手紙が、同月二十七日の午後六時頃に着きました。主君の江馬氏から仰せ下された書面と、法華経を捨てるという起請を書かないという、あなたの御誓状をみましたが、優曇華の花が咲いたのを見るか、赤栴檀がはじめてふたばとして芽をだしたかのようにめずらしく尊いことであり、芳しく思いました。

三明六通を得た上、法華経によって、初地初住の位にのぼった証果の大阿羅漢であり、無生忍の位を得た菩薩であった舎利弗・目連・迦葉等でさえも、この娑婆世界で、末法の時、法華経を弘通することの大難を耐え忍ぶことができないので、弘通の資格がないといわれ、辞退したのである。まして、見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑を未だ断じていない末法の凡夫が、どうして此の経の行者となることができようか。

たとえ日蓮一人は、杖木・瓦石・悪口・王難を忍ぶことができたとしても、妻子をもった仏法の道理を知らない在家の人達は、どうして耐え忍ぶことができようか。かえって信じない方がよかったのではないか。最後まで信心を貫き通せず、わずかの期間の信心であるならば、人に笑われるであろうと、不便に思っていた。しかるに度度の難、二度の御勘気の折に不動の信心をあらわされたことさえ、不思議であるのに、このように自身がおどされた時に二か所の所領をすててまでも、法華経を信じ通しますという誓状を書かれたことは、とうていことばでは言いようがないほど立派なことである。

釈尊は、普賢菩薩、文殊師利菩薩等でさえも、末法には、おぼつかないと思われて、妙法蓮華経の五字を地涌千界の上首である上行菩薩等の四人に仰せつけられたのである。ただ、このたびのことの意味を考えると、日蓮の弘通をたすけようとして、上行菩薩があなたの御身に入りかわられたのだろうか。または、教主釈尊の御計い事であろうか。江馬氏の身内の人々が増長しているのは、良観や竜象房が、きっと画策しているのにちがいない。

もし、あなたが信仰を捨てるという起請を書いたならば、彼らはますます驕り高ぶって、方々に、それを吹聴するであろう。その結果、鎌倉にいる日蓮の弟子等は、一人も残らずせめられ、いなくなってしまうであろう。凡夫の常として、自分の身の上のことは、計りがたいのであり、それを熟知するのを賢人・聖人というのである。

遠くの事例はしばらくおいて、近くの事でいえば、武蔵の守殿が、二か所の領地をすてて入道になり、結局は、多くの所領、息子や娘、また妻等を捨てて御遁世なされたと聞いている。あなたには子供はない。また頼みとする兄弟もない。ただあるのは、わずか二か所の領地である。人間の一生は夢の上の出来事のように、はかないもので、明日の命もわからないものである。いかなる乞食になっても、法華経にきずをつけてはならない。それ故、同じ一生であるならば、嘆いた様子を見せないで、この誓状に書かれたように、少しも、へつらわずに振舞い、語っていきなさい。なまじ、へつらうようなことがあれば、かえって悪くなるであろう。たとえ、所領を没収され、追い出されても、それは十羅刹女の御計いであるのだろうと思って、深く信をとり、諸天にゆだねておきなさい。

日蓮は、流罪されないで、鎌倉にでもいたならば、あの戦いの折りに、きっと打ち殺されていたにちがいない。あなたが、御内を追い出されたこともまた、主君の御内にいてはよくないであろうという釈迦仏の御計らいなのであろう。

 

語釈

 起請

祈請文のこと。神仏に誓いを立てて、自分の行為、言説に偽りがないことを表明した文書・誓紙・厳守すべき事項を記した前書き部分と、もしこれに違背すれば神仏の罰を受ける旨を記した神文からなるもの。

 

優曇華

梵語ウドンバラ(Udumbara)の音写「優曇波羅」の略。霊瑞と訳す。①インドの想像上の植物。法華文句巻四上等に、三千年に一度開花するという希有な花で、この花が咲くと金輪王が出現し、また、金輪王が現れるときにはこの花が咲く、と説かれている。法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く」とあり、この花を譬喩として、仏の出世に値い難いことを説いている。②クワ科イチジク属の落葉喬木。ヒマラヤ地方やビルマやスリランカに分布する。③芭蕉の花の異名。④クサカゲロウの卵が草木等についたもの。

 

赤栴檀

栴檀は白檀の異称であり、インドに産する香木で、赤、白、紫等があるが、赤栴檀を最高とする。

 

三明六通

小乗教において最高位の阿羅漢が得る神通力。三明とは、宿住智証明、死生智証明、漏尽智証明のこと。六通とは、六神通のことで、神足通、天眼通、天耳通、他心通、宿命通、漏尽通のこと。

 

初地初住

別教においては十信、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚の五十二位を立て、十地の最初の歓喜地を初地とし、この初地以上を無明惑を断じた位とする。また円教では、別教の五十二位を借りて十住の最初の発心住を初住とし、悟りの段階は異なるが、初住以上を不退転の位とする。

 

証果の大羅漢

六神通を得た阿羅漢のこと。すなわち、天眼通(何でも見通せる通力)・天耳通(何でも聞ける通力)・他心通(他人の心を見通す通力)・宿命通(衆生の宿命を知る通力)・神足通(機根に応じて自在に身を現わし、思うままに山海を飛行しうる通力)・漏尽通(いっさいの煩悩を断じつくす通力)のこと。仏道修行の根本は漏尽通の薪を焼き菩提の慧火に転換していくのであり、阿羅漢は声聞の四種の聖果の最高位。無学・無生・殺賊・応具と訳す。この位は三界における見惑・思惑を断じ尽して涅槃真空の理を実証する。また三界に生まれる素因を離れたとはいっても、なお前世の因に報われた現在の一期の果報身を余すゆえに、紆余涅槃という。声聞乗における極果で、すでに学ぶべきことがないゆえに無学と名づけ、見思を断尽するゆえに殺賊といい、極果に住して人天の供養に応ずる身なるがゆえに応供という。また、この生が尽きると無余涅槃に入り、ふたたび三界に生ずることがないゆえに無生と名づけられた。仏弟子の最高位であるとともに、世間の指導者でもある。仏法流布の国土における一般論としては、聖人とは仏法の指導者であり、羅漢はその実践者である。聖人を智者、羅漢を学者・賢人と考えることもできる。

 

得無生忍の菩薩

無生忍を得た菩薩。無生忍とは、無生無滅の実相を覚知して安住する位。初地・初住あるいは七・八・九地の位に入った菩薩をいう。

 

舎利弗

梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。

 

目連

梵語でマハーマウドガルヤーヤナ(Mahāmaudgalyāyana)といい、摩訶目犍連、目犍連とも書き、菜茯根、采叔氏などと訳す。釈尊十大弟子の一人。神通第一といわれた。仏本行集経巻四十七等によると、マカダ国の王舎城の近くのバラモンの出で、舎利弗と共に六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、更に真実の法を求めて釈尊の弟子になったという。法華経授記品第六で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。盂蘭盆経上によると、餓鬼道に堕ちた亡母を釈尊の教えに従って救ったといわれる。

 

迦葉

釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある

 

三惑未断の末代の凡夫

三惑(見思惑・塵沙惑・無明惑)をまだ断じ尽くしていない末法の凡夫のこと。

 

王難

王命・国家権力の迫害のこと。般泥洹経の八難「①或被軽易②或形状醜陋③衣服不足④飲食麤疎⑤は求財不利⑥生貧賎家⑦及邪見家⑧或遭王難」のひとつ。佐渡御書には「善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり」(0960:04)とある。

 

無智の俗

仏法の道理をわきまえない在家の人。

 

度度の難

①松葉ケ谷の法難。立宗宣言後の文応元年(1260年)の秋、鎌倉に移られた日蓮大聖人が、名越に構えられた草庵で念仏者らに襲われた法難のこと。草庵があった地は松葉ケ谷と伝承される(現在、松葉ケ谷の地名はない)。文応元年716日、大聖人は宿屋入道を仲介として、念仏などの謗法の諸宗を捨て正法に帰依するように勧めた「立正安国論」を北条時頼に提出し、第1回の国主諫暁を行われた。しかし、このことが幕府の権力者たちの怒りにふれ、念仏者をはじめ諸宗の僧らも大聖人に恨みを抱いた。その後間もなく、念仏を信仰していた北条重時ら権力者を後ろ楯とした念仏者らが、深夜に大聖人の草庵を襲撃した。大聖人はこの難を逃れ、一時、鎌倉を離れられた。②小松原法難。文永元年(1264年)1111日、日蓮大聖人が安房国東条郡(千葉県鴨川市)天津に住む門下、工藤氏の邸宅へ向かう途中、東条の松原大路で、地頭・東条景信の軍勢に襲撃された法難。東条松原の法難とも呼ばれる。門下が死亡し、大聖人御自身も額に傷を負い、左手を折られた。その時の模様は「南条兵衛七郎殿御書」(1498㌻)に記されている。他。

 

二箇度の御勘気

①弘長元年(1261511日~弘長3年(1263222日までの110ヵ月間の伊豆の伊東(静岡県伊豆市伊東)への流罪=伊豆流罪②文永8年(12711010日~文永11年(1274313日までの25ヵ月間の佐渡(新潟県佐渡市)への流罪=佐渡流罪。

 

普賢

普賢菩薩のこと。梵名をサマンタバドラ (Samantabhadra)といい、文殊師利菩薩と共に迹化の菩薩の上首で釈尊の脇士。六牙の白象に乗って右脇に侍し、理・定・行の徳を司る。普は普遍・遍満、賢は善の義。普賢の名号は、この菩薩の徳が全世界に遍満し、しかも善なることをあらわしている。法華経普賢菩薩勧発品第二十八では、法華経と法華経の行者を守護することを誓っている。

 

文殊

文殊師利菩薩のこと。梵語マンジュシュリー(maJjuzrii)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。

 

地涌千界の上首上行等の四人

地涌の菩薩の上首・唱導の師である上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩、なかんずく上行菩薩のこと。法華経従地涌出品第十五に「仏は是れを説きたまう時、娑婆世界の三千大千の国土は、地皆な震裂して、其の中於り無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり」とある。この地涌の菩薩の出現は、釈尊の滅後の布教を誓った本化の菩薩のこと。滅後末法の弘通を勧める釈尊の呼びかけに応じて、大地から湧き出てきたゆえに、地涌の菩薩といい、この四菩薩の上首・上行菩薩の再誕こそ末法の御本仏である。

 

良観

12171303)。真言律宗の僧。法号が良観、諱を忍性といった。建保五年、大和国(奈良県)に生まれ、17歳のとき東大寺で戒を受け、のちに奈良西大寺の真言律宗の祖叡尊(の弟子となった。叡尊は律宗を再興するために、戒を重んじ、加えて真言の祈禱、念仏の弥陀称名を取り入れて一派を立てた。弟子の良観は、のちに関東に下向し、北条一門の帰依をうけた。文応元年(1260)には重時が極楽寺を創し、7年後の文永4年(1267)、重時の子業時が良観を招き開山とした。良観は以後37年間、極楽寺に止住した。彼は政治的手腕と経営力をもって幕府と結び、自らの安泰をはかった。そして彼を非難する日蓮大聖人をことごとに迫害した。また粗衣粗食と慈善行為を行ない、聖者の名をほしいままにした。大聖人は彼を法華経勧持品第十三にある三類の強敵中、第三の僭聖増上慢であると厳しく糾弾した。

 

竜象

竜象房のこと。比叡山延暦寺の堂塔内に住む僧で、人目を忍び洛中に下っては餓死者をあさり、朝に夕に人肉を食して常用していたことである。これに気づいた山門の衆徒は行状を厳しく追及し彼の住房を焼き払われ、建治3年(1277)頃に鎌倉に下り、良観の後援によって桑ヶ谷に居住している。日蓮大聖人の弟子・三位房との法論に破れ、その後病に倒れている。

 

武蔵のかう殿

12421282)北条義政のこと。初名は時景。文永2年(1265)に引付衆、同4年に評定衆、同7年に引付頭人を経て同10年(1273)に執権北条時宗を補佐する連署となる。だが建治3年(1277)には連署職を辞して出家。信濃国(長野県)に赴き、その所領・塩田で没する。行年40歳。

 

十羅刹女

鬼子母神の十人の娘。羅刹女は梵語ラークシャシー(Rākasi)の音写で、悪鬼と訳す。法華経陀羅尼品第二十六において法華経の行者を誓っている。十人の名は、藍婆・毘藍婆・曲歯・華歯・黒歯・多髪・無厭足・持瓔珞・皐諦・奪一切衆生精気である。

 

講義

  本抄は、頼基陳状の添書ともみられるが、別名を「不可惜所領事」といい、建治3年(12777月、日蓮大聖人が56歳のとき、身延において四条金吾に対し、したためられたお手紙である。

この当時、四条金吾は最大の苦難に直面していた。文永11年(1274)に主君・江馬氏を折伏して以来、金吾を憎む同僚の讒言、中傷は一段と強まっていた。

とくに建治2年(1276)より主君の圧迫がひどくなり、恩命と称して事実上は減俸となり、越後へ領地替えの内命が下った。その時、金吾は領地替えを受諾しなかったので、主君の命に従わない家臣の領地は没収せよと上申する者もあった。

建治3年(1277)には有名な桑ケ谷問答が起こり、金吾は法座を攪乱したと讒奏され、主君から法華経を捨てるという誓約を書くよう命令された。しかし、金吾は決して誓約は書かないと大聖人にお誓いしたのである。

本抄は金吾のこの報告に対する御返事である。厳しい境遇にある金吾に対し、短文ではあるが信心の凝縮ともいうべき珠玉の指導が数多く織り込まれている重要な御書である。

本章は、冒頭において、誓約書を書かないと誓った金吾の信心の厳格さを称賛され、さらに今後起こり得る難に対し「いかなる乞食にはなるとも、法華経にきずをつけ給うべからず」と信仰を貫く上の基本姿勢を厳しく指導されている。

 

優曇華のさきたるをみるか、赤栴檀のふたばになるをえたるか、めづらしかうばし

 

人生の岐路に立たされたとき、大切なことは、いずれの道をとるべきかについて、正しい判断をし、決断することである。判断を誤ってはならないし、判断に誤りがなくても決断が下せなければ、それは苦悩を増すばかりである。この英知と勇気が、人生を勝利の栄光に導くか、敗北の闇におとしいれるかを決定する。

とくに、究極の人間完成の道である信心の過程において、目先の利害に迷わされて、苦悩から苦悩へと続く悪道におちこんではなるまい。外からおそいかかった苦難のときこそ、自己の生命の中に、どちらの道に進むのかの決定的要因をつくる時なのである。いま四条金吾に難が起こっているのは、まさにそうした大事な岐路を意味し、彼が信心の大道を選んだことは、未来の成仏を決定づけたものとして、このように最大の讃辞をもってたたえられているのである。

 

舎利弗・目連・迦葉等だにも、娑婆世界の末法に法華経を弘通せん事の大難こらへかねければ、かなふまじき由辞退候いき

 

舎利弗等の声聞十大弟子たちが、末法にこの娑婆世界で法華経を弘通することを自ら辞退したということは、直接、経文には記されていない。ただ法華経勧持品に「五百の阿羅漢の記を受くるを得たる者」が「異の国土に於いて、広く此の経を説かん」と申し出ており、学・無学の八千人の人々は「世尊よ。我れ等も亦た当に他の国土に於いて、広く此の経を説くべし。所以は何ん、是の娑婆国の中は、人に弊悪多く、増上慢を懐き、功徳浅薄、瞋濁諂曲にして、心は不実なるが故に」と言っている。このことから、本文のように述べられたものと思われる。

いずれにせよ、妙法を現実の社会の中に弘めるには、その生命が即、妙法である人でなければならない。すなわち、法に即して人、その法を自らのうちに体現した人でなければ弘めることはできないのである。

もとより、本来、全ての人は、その本質は妙法の当体である。しかしながら、自身、それを覚知してはじめて人法一箇となるのである。舎利弗は三明六通といい、阿羅漢果、無生忍を得たといっても、その悟りは妙法の一部分であるにすぎず、これを得たという立場では、妙法を弘める資格は、とうてい持ち得ないのである。これは、人間的に差別する意ではなく、その持っている法・悟りによって必然的に生れる力の相違を述べているのである。

 

妻子を帯せる無智の俗なんどはいかでか叶うべき

 

自己の信念を種々の迫害や苦難に耐えて貫き通すうえにおいて、最も越えがたい障害として出てくるのが、一つは妻子等の家族の苦しむ様であり、一つは自身の仏法への無知から生ずる迷いである。妻子によって出てくるものは人間的な情愛であり、無知ということの意味するものは知的な判断ということであろう。これらの知・情にからまる障害が意思を鈍らせ迷いを生ずるのである。

したがって、信心の根本的な姿勢は「妻子眷属を憶うこと莫れ」(0177:弟子檀那中への御状:03)と戒められるように、難をのりきるか否かの瀬戸際では、情愛に縛られてはならない。それが、ひるがえっては、妻子眷属を永遠の幸福に導くことになるのである。そして、全てにわたって根源的に大切なことは、仏法を正しく深く弁える〝智〟であり、教学の研鑽が要請される所以はここにある。大聖人が幾多の御書をしたためられ、弟子に手紙を書かれているのも、この〝智〟を与えるためであったといえよう。

 

すへとをらず、しばしならば人にわらはれなん

 

信心において最も大事なことは、生涯の最後まで信じきり、実践を貫くことである。

摩訶止観第五に「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起こる」とあり、日蓮大聖人は「真実の法華経の如説修行の行者の師弟檀那とならんには三類の敵人決定せり」(0501:如説修行抄:05)といわれているように、正法を行じていく上には、非難・中傷・迫害など三類の敵人が起ってくることは必然である。

だが、「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」(1136:05)といわれるように、成仏の要諦は、不動の信心を確立し、それを生涯持続することにあるのである。

 

凡夫のならひ、身の上ははからひがたし。これをよくよくしるを賢人・聖人とは申すなり

 

自分のこと、自分はどう生きるべきかを知っているのが賢人・聖人である、ということである。

外の世界のこと、他人のことを幾ら知っていても、それは真の賢人・聖人ではない。外の世界のことを知っている人は、学者ではあるが賢人ではない。他人のことを知っているのも、批評家ではありえても、賢人ではない。人間として最も尊い、自己の人間的価値に結びついている〝知〟とは「身の上」のこと、つまり、自己自身についてのそれである。

その意味において、この一文は、古代ギリシャの賢人ソクラテスが叫んだ「汝自身を知れ」との言葉と、全く軌を一にするものといってよいであろう。

 

いかなる乞食にはなるとも、法華経にきずをつけ給うべからず

 

〝乞食〟とは、この場合、社会的にみた人生の敗北者という意味であろう。とくに四条金吾のこの時の立場は、所領をとりあげられ、主君・家臣という絆をたちきられて、あすから路頭に迷わなければならないかも知れないような状況であった。文字どおり〝乞食〟になることも覚悟しなければならないような状態だったのである。

しかし、社会的には、どのような立場になろうとも、人間として卑屈になり、へつらうようなことがあってはならない。卑屈になることこそ、法華経にきずをつけることになるのだ、との厳しい戒めの言葉である。

誤解してならないことは〝乞食〟になることが、法華経にきずをつけることではない、ということである。つまり、法華経にきずをつけるということは、社会的評価の問題ではない。社会にあって敗北を喫し、それによって、世間が更に仏法の悪口をいい、大聖人の一門へ批判の声を高めたとしても、それは法華経のきずではない。あくまでも、人間としての尊厳を失い、卑屈になり、信心を失うことが〝法華経にきずをつけ〟ることなのである。ゆえに「されば……すこしもへつらはず振舞仰せあるべし」と励まされているである。

 

 

第二章(禍を転じて幸となすを示す)

 本文

  陳状は申して候へども又それに僧は候へども・あまりのおぼつかなさに三位房をつかはすべく候に・いまだ所労きらきらしく候はず候へば・同事に此の御房をまいらせ候、だいがくの三郎殿か・たきの太郎殿か・とき殿かに・いとまに随いて・かかせてあげさせ給うべし、これはあげなば事きれなむ・いたう・いそがずとも内内うちを・したため・又ほかの・かつばらにも・あまねく・さはがせて・さしいだしたらば若や此の文かまくら内にも・ひろうし上へもまいる事もやあるらん、わざはひの幸はこれなり。
  法華経の御事は已前に申しふりぬ、しかれども小事こそ善よりは・をこて候へ、大事になりぬれば必ず大なる・さはぎが大なる幸となるなり、此の陳状・人ごとに・みるならば彼等がはぢあらわるべし、只一口に申し給へ我とは御内を出て所領をあぐべからず、上より・めされいださむは法華経の御布施・幸と思うべしと・ののしらせ給へ、かへすがへす奉行人に・へつらうけしきなかれ、此の所領は上より給たるにはあらず、大事の御所労を法華経の薬をもつて・たすけまいらせて給て候所領なれば召すならば御所労こそ又かへり候はむずれ、爾時は頼基に御たいじやう候とも用ひまいらせ候まじく候とうちあて・にくさうげにて・かへるべし。
  あなかしこ・あなかしこ・御よりあひあるべからず、よるは用心きびしく夜廻の殿原かたらいて用ひ常には・よりあはるべし今度御内をだにも・いだされずば十に九は内のものねらひなむかまへて・きたなきしにすべからず。

       建治三年丁丑七月                    日蓮花押

     四条金吾殿御返事

 

現代語訳

あなたの主君への陳状は、したためておいたが、また鎌倉にも、弟子の僧はいるけれども、あまりにもおぼつかないので、三位房をつかわそうと思っていたところ、まだ病状の方が、はかばかしくないので、かわりにこの御房(だれかは不明)を参らせた。

大学の三郎殿か、滝の太郎殿か、富木殿かに、ひまをみて浄書させて、差し出しなさい。これを主君に差し出せば、一切決着がつくでしょう。それほど急がずとも、内内に御内を整理し、またほかの法敵の者にも、騒ぐだけ騒がせて、差し出したならば、もしかしたら鎌倉中にこの陳状のことが伝わって鎌倉殿のところへ入ることもあるかもしれない。わざわいが転じて幸いとなるというのはこのことである。

法華経のことについては、これまでにも申しておいたとおりである。しかしながら、小さな事こそ、小さな善事からおこるが、大事になったならば、必ず大きなさわぎが大いなる幸いとなっていくのである。

この陳状を人々が見るならば、彼らの誤りがはっきりわかるであろう。あなたは、ただ一口に申しなさい。「自分から主君の御内を出て所領をさしあげる気持ちはありません。主君から召し上げられ、出すのならばそれは法華経への御布施であり、幸いと思います」といいなさい。

くれぐれも奉行人にへつらうような様子があってはならない。「此の所領は、主君よりいただいたものではない。主君の御病気を法華経の大良薬をもって助け奉って、いただいた所領なのであるから、それを召し上げるならば、また御病気が再発するでしょう。そのときになって頼基に謝罪されても、もはや用いません」と、いいおいて、憎憎しげに帰りなさい。

決して、決して御寄合にいってはならない。夜は用心を厳しくして、夜廻りの人々と親しく交わって用い、常日頃互いに寄り合っていきなさい。今度、もし主君の御内を出るようなことがなければ、十に九は御内のものがねらうであろう。決して見苦しい死に方をしてはならない。

建治三年丁丑七月    日 蓮  花 押

四条金吾殿御返事

 

語釈

三位房

三位房日行のこと。下総(千葉県)の出身。長く比叡山に遊学した博学の僧。大聖人の門下で重きをなし才気煥発のため諸宗破折に活躍した。しかしのちに、自己の才知にうぬぼれ、熱原の法難のときは、竜泉寺院主代・行智の甘言にのって日興上人に叛き、迫害者を煽動した。弘安2年(1279)に変死を遂げている。

 

だいがくの三郎殿

比企大学三郎能本(12021286)のこと。京都で儒学を学び、順徳天皇に仕えた。のちに鎌倉に下り日蓮大聖人に帰依した。

 

たきの太郎殿

日蓮大聖人の檀那の一人。儒官であったといわれているが詳細は不明。ここの文章により達筆で学識のある人と思われる。

 

とき殿

富木五郎左衛門尉常忍のこと。因幡国富城庄の本主で、父蓮忍の代から下総国八幡荘若宮に移り、千葉氏に被官したとつたえられている。その後、入道して常忍と称した。建長5年(1253)ないし翌6年に入信して以来、房総方面の門下の中心とした活躍し、鎌倉の四条金吾とも力を合わせて外護の任にあたった。大聖人より日常と法諱をいただいている。大聖人より観心本尊抄、法華取要抄、四信五品抄等数十編にのぼる御書をいただいている。

 

奉行人

奉行の役人。鎌倉幕府以降に置かれた職名。安堵・評定・恩沢・問注などの総称。

 

夜廻の殿原

夜廻り警備の役をもった者達。「崇峻天皇御書」(1172)に「況や此の四人は遠くは法華経のゆへ、近くは日蓮がゆへに、命を懸けたるやしきを上へ召されたり」と、信仰の故に迫害され、屋敷までも没収された人々のことが記されている。この人達が四条金吾のもとに身を寄せていたのであろう。

 

講義

前段において、根本的な信心の上から、四条金吾の決意を讃え、激励されたのに対し、この段では、具体的な行動について種々、教示されている。

まず、金吾の苦境を救うために、金吾に代わって大聖人が自らしたためた陳状を、いつどのようにして提出すべきかということ。次に、金吾自身、現在の所領問題について、どのように発言すべきかということ。さらに、日常の行動のあり方について、である。

これらの御教示のなかに、大聖人が愛弟子のために、実に細かい点にまで心を配り、弟子の気質からその置かれている状況を分析したうえで、指示されていることがうかがわれる。

また、前段で、信心根本の確固たる心の姿勢を教えられながら、この段では具体的な行動について示されている。この全体を通して、信心と生活、根本の信念と具体的な行動のあり方についての、日蓮大聖人の明快な指南が拝せられる。

すなわち、仏法の原理への確信に立った精神的な強靭さ、大胆さ――これは内心の問題である。そして、それは大前提でもある。しかし、だからといって、具体的な行動においては、粗雑であってはならず、細心の注意を払い、知恵を働かして臨まなければならない。これらは、一見、相反するように見えるが、実は、前者つまり仏法への深い確信が、後者つまり具体的行動への英知となって発露するのである。したがって、行動は細心であっても、微塵も卑屈さがないのである。

 

小事こそ善よりはをこて候へ。大事になりぬれば必ず大なるさはぎが大なる幸となるなり

 

誤解してならないことは〝善〟は小事しか生まないというのではないということ、また「大なるさわぎ」つまり大きい災いは、それ自体で必然的に「大なる幸」になるというのではないということである。

大きな苦難にぶつかった場合、人間はそれをのりこえるために、これまでの行き方を再検討し、根本的に改めてこれに対処しようとする。快調で、成功が続いている場合は、そうした反省は起こらない。そうした根本的な再検討と改革が、大きな次の成功の因となっていく。この原理は、個人においても、社会においても同じである。

しかし、逆に「大なるさはぎ」が、より大なる苦悩へとつながっていく場合もある。それは、災いによって絶望したり、あるいは慌てふためくのみで英知が働かなかったり、あるいは失敗の責任を互いになすりつけ合って不信の泥沼におちこんだりした場合である。

現在の成功も失敗も、それを次の〝善〟を生み出す基盤にしていけるかどうかは、それに対処する人間の知恵と勇気と生命の力にかかっていることを知らなけばなるまい。

そして、このいかなる苦境をも、かえって大なる幸へと転ずる生命の主体性と知恵、その基盤としての生命変革の原理を説き明かしたのが、法華経の十界互具・一念三千の法門なのである。

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