兵衛志殿御書(親父入信御書)2011:04月号大白蓮華より。先生の講義
団結第一で「弟子の勝利劇」を 悪世を照らす「人間革命の宗教」
団結は力なり。信心で結ばれた団結は、この世で最も尊く美しい。正義の強固な絆であり、勝利の力です。
日蓮大聖人の御在世に、“「団結勝利」を示したドラマ”があります。池上兄弟の二人とその夫人たちが信心で力を合わせ、父親からの勘当事件を乗り越えて、大勝利を勝ち取った逆転劇です。困難な環境をはね返した兄弟の凱歌は、後に続く日蓮門下にとって、永遠に信仰の鑑と光っています。
この兄弟の体験談は私たちに、障魔を破る信心の利剣の重要性を教えてくれています。そして、団結がいかに大事であるかを示している。また、大聖人の御指導通りに戦う「師弟直結」の信仰を貫く大切さが伝わってきます。更には、「一家和楽」の実現という信仰の手本があります。兄弟を支えた夫人たちの立派な信心も忘れてはならない。
大聖人は「未来までの・ものがたりなに事か・これにすぎ候べき」(1086:08)さらに「設ひこれより後に信ずる男女ありとも各各にはかへ思ふべからず」(1088:17)と讃嘆されています。兄弟と夫人との実践は、信仰の不屈の戦いの軌跡として後世の模範となっています。
そして、この「ものがたり」を現代に蘇らせ、勝利の旗を一人一人の人生において打ち立ててきたのが、わが創価学会です。学会員の体験談には、御書の仰せのままに信仰を貫き、難を乗り越え、各人が幸福を実現し、一家和楽、絶対勝利、健康長寿の大道を築き上げてきた無数の人間劇場があります。日本中に、「創価の池上兄弟」が誕生しています。
仏法を持ち、使命に目覚めて立ち上がった一人は、自身の内に秘めていた「偉大なる可能性」を開くことができる。その一人の生命変革が必ず周囲に激動を広げ、人間の可能性を開発していく歓喜のうねりを広げていく。「自分が変われば世界が変わる」ことを証明しているのが、学会員の体験談です。
一人一人が人生において勝利するための信仰です。そのための仏道修行はどこまでも自身の「信心」を深めていくなかにあります。今回は池上兄弟の勝利の足跡を通して、逆境を打ち破る「信心」の在り方を学んでまいりたい。父親が入信したとの報告に対して、兄弟の信心が賞讃されている「兵衛志殿御書」を拝します。
本文
久しくうけ給わり候はねば.よくおぼつかなく候、何よりも・あはれに.ふしぎなる事は大夫志殿と殿との御事・不思議に候、
現代語訳
長い間、便りもありませんでしたので、非常に心配しておりました。しかし、なんといっても、尊く不思議なことは、お兄さんの大夫志殿とあなたの仲のことで、本当に不思議に思っております。
「不思議」と賞讃された兄弟の信心
弟子の勝利を誰よりも喜んでくださるのが、日蓮大聖人であられます。
二人の苦闘は、数年間にわたりました。兄弟の父が、法華経の信仰を捨てるように強硬に迫り、兄・右衛門大夫志は2度にわたって勘当を受けたのです。
池上家は鎌倉幕府に仕えていた武士で、有力な工匠、おそらくは棟梁のような存在でした。兄・宗仲にとって父から勘当されることは、そうした社会的立場を失うことはいうまでもなく、経済的基盤などの一切を失うことにもなります。しかし、それでも兄の宗仲は、大聖人の仏法を貫くことを選び、不退転の決意で臨んだ。
一方、弟のほうにしてみれば、兄の勘当は、自分に家督が譲られることを意味します。また親孝行という観点からも、表面的な次元では父の意向に背くことは不孝となってしまう。苦しい立場にいた弟・兵衛志宗長に対して、大聖人は、兄弟同心して信心を貫くところにその真の幸福と繁栄があると、幾度も激励・指導されています。
親を思う兄弟の真心の深さに、やがて父も気づいたでしょう。勘当も取りやめ、さらには自らも法華経への信心を受け入れます。この劇的な勝利の報告を受けられた大聖人は、本抄の冒頭で「これほど見事で不思議なことはない」と、喜ばれています。
ここで、大聖人が兄弟に示されてきた勝利への信心の要諦を確認しておきたい。これは、私たちにとっても、絶対勝利の方程式となるからです。
まず、法華経の実践にあたって最重要なことは「不退転の信心」を貫くことです。大聖人は、「捨つる心」を起こさせたものは、第六天の魔王の働き、すなわち元品の無明であると喝破されています。
元品の無明とは、要するに、自分自身が妙法の当体であることへの無知です。自身の中に、あらゆる困難を乗り越えることができる尊い仏の生命が具わっていることを教えられても、どうしても納得し切れない。それゆえに、不安や疑いが自分の心を覆い、あきらめや絶望に包まれます。
この元品の無明を破るのが、「信」の力です。まさに「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(0751:御義口伝:15)「仏法の根本は信を以て源とす」(1244:日女御前御返事:15)と仰せの通りです。
学会員の体験談で言えば“もう駄目だ”と思うような時に、御書を開き、学会指導を学び、また同志の励ましを受けて、あらためて「信」を奮い起していくことです。
胸中の妙法を確信して、御本尊に向かって真剣に唱題行を貫いていけば、必ず、我が胸中から変革が始まります。自身の仏性が開かれ、歓喜と確信が込み上げ、挑戦する勇気が湧いてくる。そこに絶対勝利への仏の無限の智慧と力が現れるのです。
まじめに信行学を貫く学会員は、こうした体験を幾重にも重ね、何度も困難を乗り越え、確固たる不撓不屈の自分自身を築いていける。もう何も恐れるものはない。何も怖いものはないという多宝会の友の確信ある姿は、言うならば“仏の境涯”です。
要するに、“我が身は、本来は、妙法の当体である。だから、題目を根本にすれば必ず勝利の智慧と勇気が現れる”との「以信代慧の確信」が鍵となる。これが日蓮仏法の不退転の要諦です。
「魔との戦い」を忘れるな
悪縁・悪知識のもつ魔性の恐ろしさは、私たちの「信」そのものを破壊しようとして、さまざまな姿を通して働きかけてくれることにあります。
兄・宗仲は、一度勘当を許された後、また再び父からの勘当を受けます。しかし、心の定まっていた兄は一歩も退かなかった「えもんのたいうの志殿は今度法華経の行者になり候はんずらん」(1091:兵衛志殿御返事:03)と仰せの通り、信仰を貫く覚悟が決定していました。
しかし、弟の心は、まさに重ねてこの悪縁によって揺れ動いた。大聖人は2度目の勘当があることを予測し、前もって宗仲の妻に用心を促されています。その際に、宗長については「をぼつかなし」(1090:兵衛志殿御返事:11)と心配されている。
大聖人は、事の本質を「魔との戦い」「元品の無明との戦い」と捉えていくべきことを繰り返し教えられていた。魔を魔と見破り、悪縁・悪知識に紛動されない確固たる自分を築きあげることが、不退転の信仰の根幹です。
信心とは常に、魔との戦いです。兄弟に対する大聖人の一貫した御指導は、三障四魔を見破り、恐れずに前へ前へ進みなさいという一点に尽きます。恐れれば信心が破壊されます。退けば魔性にのみ込まれます。勝利の要諦は、「月月・日日につより給へ」(1190:聖人御難事:11)です。
大聖人は兄弟にたいして「がうじやうにはがみをしてたゆむ心なかれ」(1084:07)と教えられています。“私が戦ってきたように、恐れずに戦っていきなさい”とも仰せです。
信仰とは、常に自分の心の揺さぶりを蕩かす魔性との戦いがあるがゆえに、絶えず自分の心を磨き、勇気を奮い起していくことにしかありません。それゆえに、大聖人は「たゆむ心なかれ」(1084:07)「すこしもたゆむ事なかれ」(1090:01)と繰り返し仰せられています。“いよいよ”の精神で、“昨日より今日、今日より明日”と常に前進していく中に、本物の信心が磨かれていくのです。
三障四魔との戦いで重要なことは、断固、魔を打ち破っていく「攻めの姿勢」です。
大聖人は「すこしも・をづる心なかれ」(1084:08)「すこしも・ひるむ事なかれ」(1090:02)「すこしも・をそるる心なかれ」(1091:14)と、重ねて兄弟を励まされている。受け身になり、退いてしまえば、魔は増長する。反転攻勢し、魔を攻め続ければ、その獅子吼の前に、魔は必ず退散する。
詮ずるところ、魔との戦いにあっては、勇気ある信心が不可欠です。どこまでも魔と戦う覚悟、いわば「腹を決める」ことが大切となります。それゆえに大聖人は「せんずるところひとすぢにをもひ切つて兄と同じく仏道をなり給へ」(1091:兵衛志殿御返事:06)「よくよくをもひ切つて」(1093:兵衛志殿御返事:09)「いよいよ・はりあげてせむべし」(1090:兵衛志殿御返事:01)「いい切り給へ」(1091:兵衛志殿御返事:12)と幾度も重ねて御指導されています。
魔と戦う中にこそ、信心は更に研ぎ澄まされ、深まっていきます。そして、磨き抜かれた「信の利剣」によって、一切の魔性に勝利することができるのです。その強盛な信心、「強き心」こそが、仏界の境涯そのものです。何ものにも揺るがぬ確固たる自分を築いていく人間革命の信仰によって、未来まで語り継がれ、全世界の同志の励ましとなる金剛不壊の信仰体験が生まれるのです。
三障四魔は、いかなる時に出来するのか。「行解既に勤めぬれば」と仰せです。成仏へと進みゆく道程の中でこそ、三障四魔が出来するのです。
大聖人は仰せです。
「しをのひると・みつと月の出づると・いると・夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび 愚者は退くこれなり」(1091:兵衛志殿御返事:15)
魔が競い起ったその時こそが、自身の境涯革命の境目であると得心すれば、勇気と確信に満ちて、勇んで魔に立ち向かっていく挑戦が生まれます。反対に、魔におびえて、魔にやぶれてしまえば、絶望と不信の中で成仏の道から退去せざるをえません。
兄弟は大聖人の仰せ通りに戦ったがゆえに勝利しました。師弟の信仰勝利の軌跡を綴られた御書は、人生勝利の源泉となる一言です。
本文
常様には世末になり候へば聖人・賢人も皆かくれ・ただ・ざんじむ・ねいじん・わざん.きよくりの者のみこそ国には充満すべきと見へて候へば、喩えば水すくなくなれば池さはがしく風ふけば大海しづかならず、代の末になり候へば・かんばちえきれい大雨大風ふきかさなり候へば広き心も・せばくなり道心ある人も邪見になるとこそ見へて候へ、されば他人はさてをきぬ父母と夫妻と兄弟と諍う事 れつしとしかとねことねずみとたかときじとの如しと見へて候、
現代語訳
では、世が末になれば聖人とか賢人といわれる人は皆かくれて、ただ讒人や佞人、表面は和やかだが陰にまわって人を陥れる和讒の者や、理を曲げて我意を通す曲理のものばかりが国中に充満するようになると経文にも書かれています。たとえば、水が少なければ池が騒がしく、風が吹くと大海の面が静かではないようなものです。こうした末法の代になると、旱魃や疫癘が起こり、大雨大風が吹き重なり、そのため心の広い人も狭くなり、求道心のある人も邪見の者となってくるのです。それゆえに他人のことはさておいて、父母、夫婦、兄弟等の肉親までが相争い、その姿はちょうど猟師と鹿と、猫と鼠、鷹と雉とが争うようなものであると経文に見えます。
講義
「一家和楽」は永遠の指標
通常、時代が末法になれば、賢人・智人がいなくなるとされます。代わりに、悪世には、讒人や佞人、和讒の者、曲理の者ばかりが国に充満する。
「讒人」とは讒言する者のことです。「佞人」は、口先が上手で、心が邪な人であり、邪智にたけた人、へつらう人、また「和讒」は、一方で和らぎ親しんで、他方で事実を曲げて悪く言うこと。「曲理」とは、道理を曲げることをいいます。いわば、人間の相互不信を募らせようと画策する人々が、悪世には跋扈する。大聖人は、この悪世の時代の特徴として、一般の人々はもとより、父母・夫婦・兄弟といった肉親の中での争いが激しくなることを強調されています。
大聖人の兄弟に対する御指導においても、父親が極楽寺良観等の悪知識にすかされ、信仰の「心」を堕そうとする三障四魔の働きを起こしたと洞察されています。
大聖人は透徹した信心の眼で極楽寺良観らの魔性の謀略に対しては徹して戦い抜かれました。
その一方で、池上兄弟には、誤った指導者に誑かされている父親に対して真の孝養を尽くし、妙法の力用でしっかりと最後は成仏へ導いていくよう教えられています。
大聖人が、兄弟に示された孝養観は、たとえ一時は父の言葉に背くようでも、自分が仏になってこそ、本当の意味で親を導くことができるとする考え方です。最後はどう父親を導くか。その一点を決して外されることなく、兄弟を指導されています。そして、幾度も「浄蔵・浄眼」の兄弟の例を取り上げ、この二人が父の妙荘厳王を導いたように、最後は、和楽の一家を築き上げるべきことを示されています。
「親父は妙荘厳王のごとし兄弟は浄蔵浄眼なるべし、昔と今はかわるとも法華経のことわりは・たがうべからず」(1091:兵衛志殿御返事:07)と仰せです。戸田先生もよくこの浄蔵・浄眼の話を通して、未入会の家族のいる青年を励まされました。
「浄蔵・浄眼の兄弟は、現実のうえで、妙法の力用を示して父王を納得させた。あわてて、信心の理屈を話す必要はない。時間がかかっても、かまわないから、まず自分自身が立派になって親を安心させていくことだ。そして本当に親を愛し、慈しみ、親孝行してもらいたい」と。
戸田先生が示された「一家和楽の信心」とは、本当に重要な信仰の指標です。また、戸田先生は、家庭にあって、信心のことでいさかうことがあってはならないとも言われていました。最も大切なのは誠実です。誠心誠意を尽くすことです。まず自分から、いつも朗らかに、楽しく、希望に燃えて、聡明に周囲を大きく包み込んでいく、この和楽を目指す姿の中に、信心の勝利があり、仏法の智慧が光っています。
妙法を信ずる人々の人間革命、家庭革命を通して、「皆が仏」「万人が尊極なる存在」という法華経の思想が末法に復権していけば、争いの絶えない末法の宿業を大きく転換することができます。やがてはこの悪世末法を慈悲の暖流で包み返す希望の哲学が、社会へ世界へと広がりゆくのです。
本文
良観等の天魔の法師らが親父左衛門の大夫殿をすかし、わどのばら二人を失はんとせしに、殿の御心賢くして 日蓮がいさめを御もちゐ有りしゆへに二のわの車をたすけ二の足の人を・になへるが如く二の羽のとぶが如く日月の一切衆生を助くるが如く、兄弟の御力にて親父を法華経に入れまいらせさせ給いぬる御計らい偏に貴辺の御身にあり、
現代語訳
彼の極楽寺良観等の天魔の法師たちが、父親の左衛門大夫康光を騙してあなた方兄弟二人を迫害し退転させようとしましたが、兵衛志殿の心が賢明で、日蓮が諫めたことを用いられたがゆえに、あたかも二つの輪が車をたすけ、二本の足が人を担うように、日月が輝いて一切衆生を助けるように、兄弟二人の力によって、父親を法華経の信心につかせることができたのです。この計らいは偏に兵衛志殿の信心によるものです。
講義
師匠の仰せ通りに戦った勝利
大聖人は、池上兄弟が天魔の謀略に打ち勝った要因として、兄弟二人の「団結」の力をあらためて強調されています。ここで「殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちゐ有りしゆへ」といわれているのも、まさしく兄弟二人の団結の力によって父親を入信に導いたのであり、それは、ひとえに弟・宗長の戦いによってであると賞讃されています。
ここに、広宣流布は「団結」の力によって築かれる重要な原理が示されています。
現実に大聖人は、苦境に立たされた宗長に対して、“私は兄につきます。兄を勘当されるのならば、私も兄と同じだと思ってください”と、父親にはっきりと言い切りなさいと指導されたことがあります。
この毅然とした姿勢があればこそ、事態を大きく打開できたことは間違いないでしょう。魔が分断を狙う以上、兄弟二人が団結している限りは、魔の入る隙はりません。逆に兄弟の心に隙があれば、魔はいくらでも侵入可能だったといえます。
大聖人は兄弟に対しては団結の重要性を繰り返し指導されています。「兄弟抄」の後半に説かれる故事・説話はすべて団結の重要性を物語ったものです。また兄を捨てて父の側についても、千万年も栄えることはできないと示された御書もあります。父親が入信し、亡くなった後も、大聖人はこの池上兄弟に重ねて、団結して仲良く前進しなさいと指導されています。さらにまた、漁夫の利の故事を通して、二人が不和になってはならないと御指導されています。
「内から言い争いが起ったら、鷸蚌の争いとなって漁夫の利益となってしまう。南無妙法蓮華経ととなえてつつしみなさい。つつしみなさい」とあります。
大聖人は、また兄弟だけでなく、それぞれの夫人たちにも団結を呼びかけられたことは有名です。婦人たちには「一同して夫の心をいさめば竜女が跡をつぎ 末代悪世の女人の成仏の手本と成り給うべし」(1088:13)と仰せです。このお心にお応えして夫人たちは立ち上がりました。慈父にも誠実に尽くしたことでしょう。
大聖人は、特に弟の宗長については、夫人の兵衛志女房をこまやかに激励されました。広布に生きる夫婦は「妙法の同志」であり「共戦の友」です。この原理は、大聖人の御在世も今も変わりません。池上兄弟の勝利は夫人たちの勝利でもあったのです。
女性には、どこまでも「人間尊敬」「生命尊厳」の根本から、ものごとを捉える賢さがあります。聡明な宗長の妻も、大聖人こそが、末法の闇を照らし、万人の幸福の道を開いていかれる方であると心から尊敬し、師と仰いで戦ったことは間違いありません。この師弟不二の心が、兄弟夫妻の勝利をもたらしたのです。
「久遠の友」の団結
広宣流布は仏と魔との闘争です。異体同心の団結がある限り、魔を打ち破って、広宣流布は前進します。団結は、広宣流布の永遠のテーマです。大聖人も、門下が仲良く前進できるように、さまざまに御配慮されています。
異体同心の「心」とは、広宣流布を力強く推し進めていく「心」です。その意味で、仏の願いである広宣流布という「大いなる目的」のもとに、人々が集結されていくのです。言い換えれば、異体同心の「心」とは、仏の心を我が心とすることであり、それでこそ真実の団結であります。
悪人たちは、一度は「反法華経」を結集軸に結託はしますが、もともと、永続的・普遍的な目的ではなく、一過性の野合に過ぎません。善の勢力が強ければ、最後は必ず瓦解していくことは間違いありません。
妙法を持った一人一人が、唱題を根本に自身の仏性を開けば、久遠の誓いが呼び覚まされ、真実の地涌の団結が可能になるのです。
戸田先生は言われました。
「あの晴れやかな世界に住んだわれわれが、いままた、この娑婆世界にそろって湧出したのである。思いかえせば、そのころの清く楽しい世界は、きのうのようである。なんで、あのときの晴ればれとした世界を忘れよう。ともに自由自在に遊びたわむれた友をば、どうして忘れよう。またともに法華経の会座に誓った誓いを忘れえましょうか。
この娑婆世界も、楽しく清く、晴ればれとしたみな仲のよい世界なのだが、貧・瞋・嫉妬の毒を、権、小乗教、外道のやからにのまされて狂子となったその末に、互いに久遠を忘れてしまっていることこそ、悲しい、哀れなきわみではあるまいか」
私たちは久遠以来の異体同心の同志です。元初の生命を呼びさまし、久遠の誓いを果たす地湧のスクラムで前進していきましょう。
本文
又真実の経の御ことはりを代末になりて仏法あながちに・みだれば大聖人世に出ずべしと見へて候、喩へば松のしもの後に木の王と見へ菊は草の後に仙草と見へて候、代のおさまれるには賢人見えず代の乱れたるにこそ聖人愚人は顕れ候へ、あはれ平の左衛門殿さがみ殿の日蓮をだに用いられて候いしかば、すぎにし蒙古国の朝使のくびは・よも切せまいらせ候はじ、くやしくおはすらなん。
現代語訳
また、真実の経の理によれば時代が末法となり、仏法が非常に乱れたときには、大聖人が必ず世に出現されるとあります。
たとえば、松は霜が降りてのちも枯れないので木の王といわれ、菊はほかの草が枯れたのちにも、なお花を咲かせるので仙草というのと同じです。世の中が平穏なときには誰が賢人であるか分からないが、世の中が乱れているときこそ、聖人と愚人はあきらかになるのです。気の毒にも、平左衛門尉殿や相模守殿が日蓮のいうことを用いられていたならば、先年蒙古からの使いの首を、よもや斬ることはなかったでしょう。今になって後悔していることと思います。
講義
「偉大な聖人」が悪世を変革
法の道理に照らせば、悪世末法であつて、仏教の教えが激しく乱れる大悪の時代こそ、「偉大な聖人」、すなわち大聖人が出現することが説かれています。本抄の冒頭で、悪世では聖人・賢人も隠れるとあります。仏法がいよいよ乱れた時に、悪世末法を救う「偉大な聖人」が出現することは、経文に説かれている道理にほかなりません。
松は霜が降りる季節になっても枯れることはありません。また菊は、あらゆる草が枯れた後に花を咲かせます。まさに世の中が乱れ切った寒々とした時代だからこそ、本当に人々を救う偉大な聖人の存在が輝きを放つのです。これは言うまでもなく、濁悪の末法を救う教主として日蓮大聖人が出現されたことを示されていると拝されます。
混乱の時代には、人々の判断が狂い、正義の人、真の賢人、真の聖人をまっすぐに見ることができず、かえって迫害を加えます。しかし、人々の誤った判断によって、いよいよ世の中が行き詰まった激動の時代には「聖人愚人は顕れ候へ」と仰せのように、本物と偽物の違いが明瞭になります。本抄で大聖人は、当時の鎌倉幕府の宗教に対する判断の当否がやがて明瞭となる。その時に、だれが真の賢人か、愚人かが浮き彫りになると仰せです。
池上兄弟は草創からの弟子です。まだ、大聖人の智慧と慈悲が世間から誤解され、非難されているなかで信心を貫いてきました。それだけに、混乱の世の中で、いよいよ大聖人の正義が証明される時が来たとの確信も強くなってきたと思います。
なぜ、賢人と愚人が明瞭になるのか。それは、濁世を救うために力ある哲学をはっきりと叫ぶ賢人・聖人が出現するからです。
人間不信の乱世だからこそ、究極の「人間尊敬」の思想を説く法華経の真価が発揮されます。十界互具が説かれない爾前経は、霜の季節や晩秋の季節に多くの草が枯れるように、民衆を救う根本的な力がない。したがって、この法華経を弘める真の聖人の存在こそが、最終的に輝きを放つようにもなります。
この原理は現代も変わりません。戸田先生は常々、「民族が復興するには、かならず哲学が必要となる」とっていました。また、物質文明が行き詰まる時に、根本の哲学が必要となると言われたこともあります。哲学や精神性こそが、時代を根本的に動かしていく原動力です。言い換えれば、その哲学の持つ人間観、目的観、精神性こそが、問われてくる。牧口先生は、究極の目的が定まらなければ、何も定まらない。それは、交番に行って「私の行く先はどちらですか」と聞くようなものだと語っておられたといいます。
「今の時代にとって必要なものは、けちな狡い卑怯な乞食根性を人間の魂から払い落とすような剛毅な精神の人々である」とは、ベートーヴェンの叫びです。まさに現代は、人間性を高めていく崇高な精神の人々の登場を待ち望んでいるのではないでしょうか。
自他共に人間の可能性を見いだし、その力を発揮させ、万人尊敬の「自他供の幸福」を目指していく人間の出現、まさに、法華経に説かれる地涌の菩薩の人間群像を時代は待望しています。
21世紀の世界の諸宗教は、人間の内なる尊極性に目を向けていくことは間違いありません。人間自身の中に、人間を超えた崇高な精神性を発見したのが法華経の真髄です。「大聖人世に出ずべし」と大確信を示された如く、この法華経の人間観を体現した偉大な民衆群が出現すれば、時代の闇を照らす灯台の存在になることは疑う余地がありません。
人間に希望を与える宗教。
人間に意味を与える宗教。
民衆の幸福と地球の平和をリードする連帯。
世界の宗教が切磋琢磨していく時代を迎えていると言えます。
末法という濁流の中で、人間の可能性を開き、内なる尊極性に万人が目覚める方途を確立されたのが日蓮大聖人です。池上兄弟をはじめ、自他共の幸福の大道を開いた門下たちの信仰体験は、日蓮仏法の真価を生活と社会の中で証明しています。今、創価学会もまた、人間の中で、生命根源の力を証明する実践を繰り広げています。
万人の善性と開発という仏の大願を現代に継承した、創価の地涌の信仰体験こそ、末法の民衆の大いなる希望となることは間違いありません。末法万年への「未来の物語」を作っていける学会員一人一人の挑戦こそ、“何ものにも代えがたき人々”として世界から絶讃される時代が到来し始めています。
「一人一人の人間革命」が、「人類の運命を変える」壮大な試みとなっていくのです。
絢爛たる100周年へ、凱歌の時代を築くためにも、見事なる創価の同志の勝利劇を飾っていきたい。広宣流布という崇高な大目的に立ち、皆、仲良く信頼をもって、異体同心で勝ち進もう。
「団結また団結
これが創価三世の家族なり」