盂蘭盆御書

盂蘭盆御書

 弘安元年(ʼ78)または同2年(ʼ79)の7月13日 57歳または58歳 治部房の祖母

背景と解説

このお手紙(御書)は、大聖人の弟子の一人である治部房日位(じぶぼう にちい)の祖母が、毎年の先祖供養(お盆の法要)の直前にお供え物を届けたことに対する御返事として認められたものです。

伝統的には建治3年(1277年)に著されたと考えられてきましたが、近年の研究では、本書は弘安2年(1279年)に認められたものであることが示唆されています。

本書の中で大聖人は、当時すでに定着した習わしとなっていた供養(お盆の法要)の起源について、詳細な説明を施されています。大聖人は、この伝統のルーツを、目連尊者(もくれんそんじゃ)が亡き母を救おうと尽力した物語に求められています。釈尊の最も優れた弟子の一人であった目連が、当初、母親の(餓鬼道での)苦しみを和らげることができなかった理由について、彼が小乗仏教を信仰し、戒律を遵守することに執着していたために、自身がまだ成仏していなかったからであると説明されています。そして、目連がそれまでの戒律を捨てて南無妙法蓮華経と唱えて成仏を遂げたとき、彼の亡き父母もまた同時に成仏することができたのである、と大聖人は述べられています。

治部房の祖母は、駿河国庵原郡(するがのくに いはらぐん)に住んでいたと考えられています。日興上人の御本尊授与の記録(『本尊分与帳』)によると、治部房はもともと駿河の四十九院(しじゅうくいん)の天台宗の僧侶でしたが、大聖人の教えに帰依し、後に大聖人の六老僧の一人となる日持(にちじ)のもとで仏法を学びました。詳細は定かではありませんが、祖母に大聖人の教えへの信仰を勧めたのは、この治部房であったと信じられています。

 

 

第一章(盂蘭盆の起源を示さる)

 本文

  麞牙一俵・やいごめ・うり・なすび等仏前にささげ申し上候畢んぬ。

  盂蘭盆と申し候事は仏の御弟子の中に目連尊者と申して、舎利弗にならびて智慧第一・神通第一と申して須弥山に日月のならび大王に左右の臣のごとくにをはせし人なり、此の人の父をば吉懺師子と申し母をば青提女と申す、其の母の慳貪の科によつて餓鬼道に堕ちて候しを目連尊者のすくい給うより事をこりて候、其の因縁は母は餓鬼道に堕ちてなげき候けれども・目連は凡夫なれば知ることなし、幼少にして外道の家に入り四ゐ陀・十八大経と申す外道の一切経をならいつくせども・いまだ其の母の生所をしらず、其の後十三のとし舎利弗とともに釈迦仏にまいりて御弟子となり、見惑をだんじて初果の聖人となり修惑を断じて阿羅漢となりて三明をそなへ六通をへ給へり、天眼をひらいて、三千大千世界を明鏡のかげのごとく御らむありしかば、大地をみとおし三悪道を見る事冰の下に候魚を朝日にむかいて我等がとをしみるがごとし、其の中に餓鬼道と申すところに我が母あり、のむ事なし食うことなし、皮はきんてうをむしれるがごとく骨はまろき石をならべたるがごとし、頭はまりのごとく頚はいとのごとし腹は大海のごとし、口をはり手を合せて物をこへる形は・うへたるひるの人のかをかげるがごとし、先生の子をみてなかんとするすがた・うへたるかたちたとへを・とるに及ばず、いかんがかなしかりけん。

  法勝寺の修行舜観が・いわうの嶋にながされてはだかにてかみくびつきにうちをい・やせをとろへて海へんに・やすらいてもくづをとりてこしにまき魚を・一みつけて右の手にとり口にかみける時、本つかいしわらわのたたづねゆきて見し時と、目連尊者が母を見しといづれかをろかなるべきかれはいますこしかなしさわまさりけん。

  目連尊者はあまりのかなしさに大神通をげんじ給ひ・はんをまいらせたりしかば、母よろこびて右の手にははんをにぎり左の手にては・はんをかくして口にをし入れ給いしかば、いかんが・したりけんはん変じて火となり・やがてもへあがり、とうしびをあつめて火をつけたるがごとくぱともへあがり、母の身のごこごことやけ候しを目連見給いて、あまりあわてさわぎ大神通を現じて大なる水をかけ候しかば、其の水たきぎとなりていよいよ母の身のやけ候し事こそあはれには候しが、其の時目連みづからの神通かなわざりしかば・はしりかへり須臾に仏にまいりてなげき申せしやうは、我が身は外道の家に生れて候しが仏の御弟子になりて阿羅漢の身をへて、三界の生をはなれ三明六通の羅漢とはなりて候へども、乳母の大苦をすくはんとし候に・かへりて大苦にあわせて候は、心うしとなげき候しかば、仏け説いて云く汝が母は・つみふかし・汝一人が力及ぶべからず、又何の人なりとも天神・地神・邪魔:外道・道士・四天王・帝釈・梵王の力も及ぶべからず、七月十五日に十方の聖僧をあつめて百味をんじきをととのへて母のくをはすくうべしと云云、目連・仏の仰せのごとく行いしかば其の母は餓鬼道一劫の苦を脱れ給いきと、盂蘭盆経と申す経にとかれて候、其によつて滅後末代の人人は七月十五日に此の法を行い候なり、此は常のごとし。

 

現代語訳

 

米一俵、やきごめ、うり、なすび等を御仏前にお供えいたしました。

そもそも、盂蘭盆ということについては、仏の御弟子の中に目連尊者といって、舎利弗尊者と並んで、舎利弗が弟子中の智慧第一目連は、神通第一といって、須弥山に日月が並ぶように、大王に左右の臣が侍るようにしていた人です。この人の父を吉懺師子といい、母を青提女といいました。その母が、生前の慳貪の科によって餓鬼道に堕ちていたのを、目連尊者が救い出されたことから始まっています。

その因縁は、目連尊者の母は餓鬼道に堕ちて嘆き苦しんでいましたが、目連尊者も凡夫なので知ることはありませんでした。幼少にして外道の家に入って、四韋陀・十八大経という外道の一切経を修学し尽くしましたが、それでもその母のいる所を知りませんでした。その後、十三歳の時に舎利弗とともに釈迦仏を訪ね、その御弟子となって、修行して見惑を断じて初果の聖人となり、修惑を断じて阿羅漢となり、三明六通を得ました。そして天眼を開いて三千大千世界を、明鏡に影を映すようにして御覧になったところ、大地を見すかして三悪道を見ること、私達が、氷の下に泳いでいる魚を朝日に向かって通し見るようでした。その中の餓鬼道というところに自分の母がいたのです。その有様は飲むものはなく、食べるものもない。皮膚は金鳥の毛をむしったようであり、痩せ衰えて骨は丸い石を並べたようであり、頭は鞠のように、首は糸のようであり、腹だけが大きく大海のようでした。口を張り、手を合わせて物を乞う姿は、飢えた蛭が人の香をかぎつけているようです。そして、先生の子を見て泣こうとする姿、飢えてひもじそうな様子は、たとえようもないくらいで、目連尊者はどんなに嘆かわしく、悲しく思ったことでしょう。

かの法勝寺の執行であった俊寛が、硫黄の島に流されて、裸の体に、髪が首つきをおおい、痩せ衰えた姿で海辺をさまよい、藻くずを取って腰に巻き、魚を一尾見つけて右手でつかみ、口で噛んでいる時、元・仕えていた童子が訪ねてきてその姿を見た時と、目連尊者が母を見た時と、どちらが愚かで、哀れでしょうか。彼のほうが、童子が俊寛の姿を見た時よりもいま少し、悲しみが勝っていたでしょう。

目連尊者は、あまりの悲しさに大神通力を現じて飯を差し上げたところ、母は喜んで右の手で飯をつかみ、左の手で飯を隠して口に入れたところ、どうしたことか飯が変じて火となり、灯心を集めて火をつけたようにぱっと燃え上ってしまい、母の体がごこごこと音をたてて焼けるのを目連尊者が見て、あまりにあわてて、さらに大神通力を現じて大水をかけたところ、その水が薪となってますます母の体が焼けたさまは、まことに哀れでした。その時、目連尊者は自らの神通力がかなわないので、走り帰ってすぐに仏の前に参り、「私は外道の家に生まれましたが、仏の御弟子となって阿羅漢果を得、三界の生因を離れ、三明六通を得て羅漢になりましたが、いま乳母の大苦を救おうとしたのにかえって大苦にあわせてしまい、心苦しく残念でなりません」と嘆きながら申し上げたのです。目連の嘆きを聞いて仏は「汝の母は罪深い人だから、汝一人の力では到底救うことはできない。また、どのような人でも、たとえ、天神・地神・邪魔・外道・道士・四天王・帝釈・梵王の力でも救うことはできない。どうしてもと願うなら七月十五日に十方の聖僧を集め、百味の飲食を供養して母の苦を救うべきである」と説かれたのです。目連尊者が仏の仰せのままに行ったところ、その母は餓鬼道一劫の苦を免れることができたと、盂蘭盆経という経に説かれています。

そのことによって、仏滅後、末代の人々は七月十五日にこの法を行うようになり、今ではこの日に盂蘭盆会を行うことは世の常のようです。

 

語釈

 

麞牙

白米のこと。「しらよね」「しょうげ」とも読む。牙麞の牙が米に似ているところから、このように書く。

 

やいごめ

保存用の食糧で、米の加工品。新米を籾のまま炒り、ついて殻を取り去ったもの。炒米ともいう。

 

盂蘭盆

俗にいう「お盆」のこと。梵語、ウランバナ(Ullambana)の音写。「救倒懸」と訳すが、「倒懸」とはさかさづりの苦しみの意で、餓鬼道の苦痛をあらわす。もとは夏安居の終りの日・715日に十方の聖僧に供養された。

 

目連尊者

梵語でマハーマウドガルヤーヤナ(Mahāmaudgalyāyana)といい、摩訶目犍連、目犍連とも書き、菜茯根、采叔氏などと訳す。釈尊十大弟子の一人。神通第一といわれた。仏本行集経巻四十七等によると、マカダ国の王舎城の近くのバラモンの出で、舎利弗と共に六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、更に真実の法を求めて釈尊の弟子になったという。法華経授記品第六で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。盂蘭盆経上によると、餓鬼道に堕ちた亡母を釈尊の教えに従って救ったといわれる。

 

舎利弗

梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。

 

須弥山

古代インドの世界観の中で世界の中心にあるとされる山。梵語スメール(Sumeru)の音写で、修迷楼、蘇迷盧などとも書き、妙高、安明などと訳す。古代インドの世界観によると、この世界の下には三輪(風輪・水輪・金輪)があり、その最上層の金輪の上に九つの山と八つの海があって、この九山八海からなる世界を一小世界としている。須弥山は九山の一つで、一小世界の中心であり、高さは水底から十六万八千由旬といわれる。須弥山の周囲を七つの香海と金山とが交互に取り巻き、その外側に鹹水(塩水)の海がある。この鹹海の中に閻浮提などの四大洲が浮かんでいるとする。

 

青提女

目連の母。生堤女とも書く。盂蘭盆経によると、目連は亡くなった母・青堤女が餓鬼道に堕ち、飲食も自由にならず、骨と皮ばかりになって苦しんでいる姿を見て、神通力で救おうとしたが叶わず、釈尊の教えどおりに盂蘭盆会を修して母を餓鬼道の苦しみから救ったという。

 

慳貪

慳悋に貪著すること。強欲であって物を慳み、人に布施をしないことをいう。清浄心を覆う六種の悪心、即ち慳貪・破戒・瞋恚・懈怠・散乱・愚癡の六蔽の一つ。慳貪は餓鬼界の生因となる。末法今日においては、折伏をしないことはこの科に当たる。

 

餓鬼道

梵語プレータ(preta)の訳。薜茘多と音写し、鬼とも訳す。福徳のない者が陥り、常に飢餓感を持ち苦しむ生命の実感をいう。三悪道、四悪趣の一つ。

 

外道

仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。

 

四ゐ陀

古代インドのバラモン教の文献。四ヴェーダのこと。ヴェーダは知識の意で、韋陀、吠陀などと音写され、智論などと意訳されている。西暦前十数世紀のころ、アーリア民族が北方からインド半島へ南下し、先住のドラビダ族を征服したとき、勝利を祝ってうたい、また自然の美しさや、自分たちの信ずる神などをたたえたが、それらをまとめたものとみられている。①リグ・ヴェーダ(太古の賛美歌集)、②サーマ・ヴェーダ(賛美歌に歌をつけた歌詠集)、③ヤジュル・ヴェーダ(祭詞を集めたもの)、④アタルバ・ヴェーダ(呪法の句を集めたもの)の四つ。

 

十八大経

インドバラモン教の経典である四韋陀、六論、八論の総称。十八明処ともいう。「四韋陀」①リグ・ヴェーダ(太古の賛美歌集)、②サーマ・ヴェーダ(賛美歌に歌をつけた歌詠集)、③ヤジュル・ヴェーダ(祭詞を集めたもの)、④アタルバ・ヴェーダ(呪法の句を集めたもの)「六論」夜叉論・毘迦羅論・柯剌波論・竪底沙論・闡陀論・尼鹿多論は文法や天仙の因縁、天文、地理、算数、一切の名の語源などが記されている。「八論」肩亡婆論・那邪毘薩多論・伊底呵婆論・僧佉論・課伽論・陀菟論・揵闥婆論・阿輸論。諸法の是非や道理、音楽、医方などが説かれている。

 

見惑

三惑のうち見思惑の一つ。見思惑は思想上の惑いのことで、三界六道の苦果を招く惑をいい、見惑と思惑とに分けられる。見惑は物事の理法に迷う妄見のことで、後天的、知的な迷いであり、辺見・邪見等をいい、四諦の理を覚ることによって滅することができるとされる。倶舎論では八十八使の見惑を立てている。

 

初果の聖人

声聞の悟りの初位。四沙門果の最初の須陀洹果を得た小乗教における聖人の意。欲界・色界・無色界を断じつくした聖人のこと。

 

修惑

思惑のこと。貪・瞋・痴等の煩悩による本能的な迷いのことで、三界の事物、事象を感受して起こす惑いをいう。声聞、縁覚、菩薩の三乗の聖者が修道でこの惑いを断ずるので修惑という。

 

阿羅漢

羅漢のこと。無学・無生・殺賊・応供と訳し、小乗教を修行した声聞の四種の聖果の極位。一切を学び尽くして、さらに学ぶべきがないので無学、再び三界に生ずることができないので無生、見思の惑を断じ尽くすので殺賊、衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。

 

三明

小乗の仏、阿羅漢果の聖者が得る三種の明智、神通力をいう。長阿含経、倶舎論巻二十七などに説かれる。①宿住智証明(自他の過去世における生死の相に通達する智慧)、②死生智証明(自他の未来世における生死の相に通達する智慧)、③漏尽智証明(現世に通達し、一切の煩悩を断滅する智慧)のこと。

 

六通

仏や三乗の聖者が有する六神通のこと。神足通(自由に望む所に行く通力)、天眼通(よく見通す通力)、天耳通 (よく聞き分ける通力)、他心通(他者の心を読みとる通力)、宿命通(過去を知る通力)、漏尽通(現在の煩悩を除く通力)のこと。倶舎論巻二十七等に説かれる。

 

天眼

①五眼の一。天界の衆生がもつ眼で、昼夜遠近を問わず物を見ることができる。②天眼通のこと。六通の一。衆生の未来の生死の姿を自在に見ることのできる通力。

 

三千大千世界

古代インドの世界観の一つ。倶舎論巻十一、雑阿含経巻十六等によると、日月や須弥山を中心として四大州を含む九山八海、および欲界と色界の初禅天とを合わせて小世界という。この小世界を千倍したものを小千世界、小千世界の千倍を中千世界、中千世界の千倍を大千世界とする。小千、中千、大千の三種の世界からなるので三千世界または三千大千世界という。この一つの三千世界が一仏の教化する範囲とされ、これを一仏国とみなす。

 

三悪道

三種の悪道のこと。地獄道・餓鬼道・畜生道をいう。三善道に対する語。三悪趣、三途ともいう。

 

きんてう

雉のこと。金色の羽毛があるところから、この名がある。

 

法勝寺

平安京の東郊(現在の京都市左京区岡崎法勝寺町)にあった寺院。承暦元年(107712月、白河天皇の勅願寺として建立された。六勝寺の一つで九重塔などの伽藍をそなえた大寺であったが、鎌倉時代以後火災にあい衰退、天正18年(1590)勅命により比叡山坂本の西教寺に併合され、法勝西教寺と称したが、のち廃絶した。

 

俊寛

11431179)。平安時代後期の真言宗の僧。僧位の「僧都」を冠して俊寛僧都と呼ばれることも多い。村上源氏の出身で、父は木寺(仁和寺院家)の法印寛雅、母は宰相局(源国房の娘で八条院暲子内親王の乳母)。姉妹に大納言局(八条院女房で平頼盛の妻)。後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にあったが、安元3年(1177)、藤原成親・西光らの平氏打倒の陰謀に加わって鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われた。だが、密告により陰謀は露見し、俊寛は藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島(鹿児島県)へ配流された。

 

いわうの嶋

鹿児島県大隅諸島の北西方にある島。霧島火山帯の活火山で、硫黄岳がある。鬼界が島。喜界島。硫黄島ともいう。

 

須臾

時の量、斬時、刹那、瞬間。

 

天神

①天界の衆生の総称。②諸天善神のこと。

 

地祇

大地を司る神。大地を堅牢にする神。

 

邪魔

①正理に背く見解をもって、菩提の正道を妨げる働き。②誤った教えを説き修行を妨げ、目的成就の気持ちをくじけさせる働きをもつ者の総称。③天魔のこと。

 

外道

仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。

 

道士

①道教を修めてその道に練達した者。②神仙の術を行う者。③仏道を修業する者。

 

四天王

四大天王のこと。帝釈天の外将、須弥山の中腹に由犍陀羅山があり、この山に四頭があって、ここを欲界欲天の最下、四王天といい、その王を四天王という。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。

 

帝釈

梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indra)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。

 

梵王

大梵天王のこと。仏教の守護神。色界の初禅天にあり、もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされたブラフマン(Brahman)を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。

 

十方

上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のこと。

 

百味

種々の美味・珍味のこと。百味の餚膳・百味の飲食などともいう。

 

一劫

一つの劫のこと。劫は梵語のカルパ(Kalpa)で劫波・劫跛ともいい、分別時節・大時・長時などと訳す。きわめて長い時限の意で、仏法では時間を示す単位として用いられる。劫の長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を一小劫としている。

 

盂蘭盆経

西晋の竺法蘭訳。方等部に属する経典。盂蘭盆の起源およびその供養法が説かれている。餓鬼道に堕ちた母を救おうとしてかなわなかった目連尊者に対し、釈尊が十方の聖僧を集め、百味の飲食をもって供養するよう説いたことが説かれている。

 

講義

  本抄は、日蓮大聖人の弟子・治部房日位の祖母が盂蘭盆をまえにした713日に米・焼米・瓜・なすなどを御供養したのに対して、盂蘭盆の由来を述べられた御消息である。

建治3年(1277)の御述作とされてきたが、現在では弘安2年(1279)と考えられている。なお、弘安3年(1280)とする説もある。御真筆は京都・妙覚寺にある。

本抄をいただいた治部房の祖母は、駿河国(静岡県)庵原郡に住んでいた信徒と思われる。治部房は、日興上人の御本尊分与帳に「駿河国四十九院の住治部房は蓮華阿闍梨の弟子なり」と記されているところから、天台宗の四十九院の住僧で蓮華阿闍梨日持の弟子となった人で、日興上人の孫弟子であったことがわかる。大聖人御入滅の後には墓輪番の一人にも加わっているが、同帳に「聖人御入滅後に背き了んぬ」と記されているように、五老僧の側について日興上人に背いたようである。

その祖母は、四十九院で日持の弟子となった治部房に導かれて入信したものと思われるが、詳しいことは明らかではない。

本抄の内容は、初めに盂蘭盆経の意を引いて盂蘭盆の起こりを述べられ、目連尊者が神通力をもちながら餓鬼道に堕ちた母の苦悩を救うことができなかったことを明かされ、目連が法華経によって自身が成仏するとともに父母も成仏させることができたことを述べられている。そして、平清盛の大悪が子孫の苦悩を招いた事例を挙げられ、反対に法華経を信じた大善は無量世にわたる父母や子孫を成仏させうることを示されている。

最後に、治部房の祖母が孫を法華経の行者としたことによって必ず成仏へ導かれるであろうと励まされている。

 

盂蘭盆の起こりについて

 

毎年715日(地方によっては一か月遅れの815日)に、先祖の供養を行う仏教行事を盂蘭盆という。本抄では、その起源について盂蘭盆経の意をとって詳しく述べられている。

盂蘭盆とは梵語ウランバナの音訳で、倒懸と訳し、逆さづりの苦しみを意味しており、餓鬼道の飢えや渇きの苦しみがそれに似ているところから用いられた。盆の字をあてるのはその苦しみを救うための器を意味する。すなわち、餓鬼道に堕ちて苦しんでいる者を救うため、百味の飲食を盆に盛り、衆僧を通じて仏に供養し、その苦しみを取り除いて成仏に導くという儀式を盂蘭盆というのである。

そうした儀式が行われるようになったのは、釈尊の十大弟子の一人で神通第一といわれた目連が、仏の教えによって母の青提女を餓軌道の苦しみから救ったことに由来する。

目連は幼い時に母と死別したが、母の青提女は慳貪の科によって餓鬼道に堕ちていたのである。慳貪とは欲が深く物を惜しんで人に与えないことで、法華文句巻四には慳貪の科は餓軌道に堕ちる原因とされている。

初めバラモンの修行をした目連は、後に釈尊の弟子となり、仏道修行に励んで阿羅漢果の悟りを得、三明六通という神通力をもつに至った。それによって餓軌道に堕ちて苦しむ母の姿を知ることができたのである。それは「のむ事なし食うことなし、皮はきんてうをむしれるがごとく骨はまろき石をならべたるがごとし、頭はまりのごとく頚はいとのごとし腹は大海のごとし、口をはり手を合せて物をこへる形は・うへたるひるの人のかをかげるがごとし」という姿であった。

母の餓鬼界の姿を見た目連の心境を、大聖人は鬼界島に流された俊寛の哀れな姿を見た、従者だった少年の悲しみにも勝るだろうと述べられている。

俊寛は平安末期の天台僧で、法勝寺の執行を務め、後白河法皇に信任され、鹿ヶ谷の山荘で藤原成経・平康頼等と平清盛の討滅を企てたことが発覚し、治承元年(1177)に捕らえられ、成経・康頼とともに九州の南にある鬼界島(硫黄島)へ流されている。翌年、清盛の娘・中宮徳子の安産を祈願するための特赦によって他の二人は許されたが、俊寛は首謀者とみられたためか、一人だけ残され、治承三年に島で死んだと伝えられている。ただ一人怨みをのんで島に残された俊寛の姿も、餓鬼界そのままの哀れなものだったのである。

目連は神通力で食物や水を送って母を救おうとしたが、かえって苦悩を増すばかりだったので、嘆いて釈尊に指導を求めたところ「七月十五日に十方の聖僧をあつめて百味をんじきをととのへて母のくをはすくうべし」と教えられ、そのとおりにしたところ、母は餓鬼道の苦悩を免れることができたというのである。

西晋の竺法護訳の仏説盂蘭盆経によれば、その後で目連は「未来世の一切の仏弟子で孝順を行ずる者にも、この盂蘭盆によって、現在の父母から七世の父母に至るまで救わせたい」と願ったところ、釈尊は「私の欲するところである」と重ねて盂蘭盆の供養を勧めた、とある。

実際の盂蘭盆会は、中国では梁の大同4年(0538)に同泰寺で最初に行われて以後、唐代に広まったといわれ、日本では斉明天皇の3年(0657)に飛鳥寺で行われたのが初めとされ、宮中でも盆供が供えられるようになり、後に民間の行事となったとされている。

なお、盂蘭盆会が715日に行われたのは、インドで夏の雨期約3か月間は激しい降雨のために修行僧達は一定の場所に閉じこもって修行し、それを雨安居といったが、その終了時に衆僧に供養したことからきたものとされる。

 

 

 

第二章(目連が母を救えなかった理由)

 本文

日蓮案じて云く目連尊者と申せし人は十界の中に声聞道の人・二百五十戒をかたく持つ事石のごとし、三千の威儀を備えてかけざる事は十五夜の月のごとし、智慧は日ににたり・神通は須弥山を十四さうまき大山をうごかせし人ぞかし、かかる聖人だにも重報の乳母の恩ほうじがたし、あまさへほうぜんとせしかば大苦をまし給いき、いまの僧等の二百五十戒は名計りにて事をかいによせて人をたぼらかし一分の神通もなし、大石の天にのぼらんと・せんがごとし、智慧は牛にるいし羊にことならず、設い千万人を・あつめたりとも父母の一苦すくうべしや、せんするところは目連尊者が乳母の苦をすくわざりし事は、小乗の法を信じて二百五十戒と申す持斎にてありしゆへぞかし、されば浄名経と申す経には浄名居士と申す男目連房をせめて云く汝を供養する者は三悪道に堕つ云云、文の心は二百五十戒のたうとき目連尊者をくやうせん人は三悪道に堕つべしと云云、此又ただ目連一人がきくみみにはあらず、一切の声聞乃至末代の持斎等がきくみみなり、此の浄名経と申すは法華経の御ためには数十番の末への郎従にて候、詮するところは目連尊者が自身のいまだ仏にならざるゆへぞかし、自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし・いわうや他人をや。

 

現代語訳

日蓮が考えるに、目連尊者という人は、十界のなかの声聞道の人で、二百五十戒を堅く持つことは石のようであり、三千の威儀を備えて欠けないことは十五夜の月のようでした。智慧は日輪に似て、神通力は須弥山を十四層に巻き、大山を動かすほどの人でした。このような聖人でも、重恩ある母の恩に報いることは難しく、そればかりか、恩を報じようとして、かえって大苦を増してしまったのです。それに比べ今の僧等は、二百五十戒は名ばかりで、持戒ということに事を寄せて人をたぶらかし、一分の神通力もありません。大石が天に昇ろうとしてもできないようなものです。智慧の劣っていることは牛や羊のようで、たとえ千万人集めたとしても父母の一苦をも救うことができるでしようか。

所詮、目連尊者が母の苦を救えなかったのは、小乗の教えを信じて、二百五十戒という持戒の人であったからです。ゆえに、浄名経という経典には、浄名居士が目連房を責めて、汝を供養するものは三悪道に堕ちる、と言ったと説かれています。これは、ただ目連尊者一人を指していわれたのではなく、一切の声聞乃至末代の持斎等を指していわれたのです。この浄名経というのは、法華経に比べると、数十番も末につながる郎従のようなものです。つまりは、目連尊者自身が未だ成仏していないからです。自身が成仏せずして、父母を救うことは難しく、ましてや他人を救えるでしょうか。

 

語釈

十界

地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏界をいう。観心本尊抄には「或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり」(0241:07)「四聖も又爾る可きか試みに道理を添加して万か一之を宣べん、所以に世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや、無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ、法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」涅槃経に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す」等云云、末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり」(0241:11)とある。

 

声聞道

「声を聞く者」の意で、弟子と訳す。二乗・三乗のひとつ、声聞乗のこと。自己の悟りのみを求め、仏の声を聴き修行する人々をいう。四諦の法門によって阿羅漢果の悟りを得、灰身滅智して無余涅槃に入ることを目的とする。

 

二百五十戒

小乗教を修業する比丘が受持すべき戒律のこと。四部律行事鈔巻中一等に説かれる。四波羅夷・十三僧残・二不定・三十捨堕・九十単堕・四提舎尼・百衆学・七滅諍、合わせて二百五十の戒をいう。なお、戒数については経典によって多少違いがある。

 

三千の威儀

比丘の威儀作法(規律にしたがう行動)を細かく分けたもの。法華三大部補註によると、四威儀(行住坐臥)のおのおのに比丘の持つべき二百五十戒を乗じて一千戒となり、さらに三定聚(衆生を修道上の見地から三種に分けたもの)を乗じて三千威儀となるとしている。

 

小乗の法

小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。

 

浄名経

維摩経のこと。梵本は失われ,大乗集菩薩学論の中に引用文として断片を残すのみである。漢訳は鳩摩羅什訳、維摩詰所説三巻など三種がある。主人公の維摩詰は毘舎離の富豪で、大乗仏教の奥義に通達していた在家の菩薩。内容は病床にあった維摩詰と、見舞いに訪問した文殊師利菩薩をはじめとする仏弟子達との問答形式で、教理が展開されている。大乗の不可思議の妙理によって小乗教を破し、灰身滅智の空寂涅槃に執着する二乗を弾呵し、大乗に包摂することを趣旨としている。

 

講義

盂蘭盆の起源を述べられた後に、目連がなぜ母の苦を救うことができなかったのか、その理由を明かされている。

目連が二百五十戒を堅く守り、三千の威儀をととのえ、智慧に勝れ、神通力をもっていたといっても、小乗の悟りに過ぎず、「詮するところは目連尊者が自身のいまだ仏にならざるゆへぞかし、自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし」と仰せのように、自分自身が成仏できないのに父母を救うことなどできないからである。まして他人を救うことなどとうていできないのである。

そのことは、四条金吾殿御書にも「抑盂蘭盆と申すは源目連尊者の母・青提女と申す人、慳貪の業によりて五百生、餓鬼道にをち給いて候を、目連救ひしより事起りて候。然りと雖も、仏にはなさず。其の故は我が身いまだ法華経の行者ならざる故に、母をも仏になす事なし」(1111:03)と述べられている。

目連が悟りを得た小乗教とは、自己のみの悟りを求める衆生に対して説かれた教えのことで、鈍根の者を乗せて小果に到達させる教法なので、小乗といった。四諦・十二因縁の理を説き、煩悩を断じ尽くして灰身滅智し、無余涅槃に入ることを目的としている。これに対し、自利・利他の両面を満たす菩薩道を説いていたのが大乗教である。

そのために、大乗の諸経典では浄名経(維摩経)のように声聞・縁覚の二乗は自己の低い悟りに入って永久に成仏できない者なので供養してはならない等と厳しく呵責しており、大智度論でも小乗を自利狭劣の法であると破折している。したがって仏にはなれず、まして父母を救うことはできないのである。

そのことを開目抄には「舎利弗・迦葉等の二乗は二百五十戒三千の威儀・持整して味・浄・無漏の三静慮・阿含経をきわめ三界の見思を尽せり知恩報恩の人の手本なるべし、然るを不知恩の人なりと世尊定め給ぬ、其の故は父母の家を出て出家の身となるは必ず父母を・すくはんがためなり、二乗は自身は解脱と・をもえども利他の行かけぬ設い分分の利他ありといえども父母等を永不成仏の道に入るれば・かへりて不知恩の者となる」(0192:03)と述べられている。

自己の悟りのみを求めて利他を目指さない小乗の法では、自身も成仏できないばかりか、父母をも永不成仏の道に堕としてしまうので、不知恩となるのである。

なお、大聖人は目連ほどの聖人でも母の恩を報ずることはできず、救おうとしてかえって苦悩を増してしまったのだから、戒律といっても名前ばかりで、それによって人をだましている悪徳の僧や、牛や羊に等しい智慧しかもたない僧が、たとえ千万人集まっても父母の一苦を救うこともできない、と厳しく破折されている。

大聖人御在世当時は、真言律宗の極楽寺良観が、さも戒を守っているように宣伝していたが、聖愚問答抄に「今の律僧の振舞を見るに布絹・財宝をたくはへ利銭・借請を業とす教行既に相違せり誰か是を信受せん」(0476:13)と指摘されているように、幕府の権力と結託して道路や橋を造っては通行税を取ったり、港で関税を取り上げるなど、事実は戒律に背いて世人を欺き苦しめる悪行が多かったのである。律僧にかぎらず、法華経に背く諸宗の僧がいくら集まって祈ったとしても、父母を救うどころか、大苦悩を増すことになるのである。

 

 

第三章(正法による親子同時の成仏を明かす)

 本文

しかるに目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて、小乗の二百五十戒立ちどころになげすてて南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申す、此の時こそ父母も仏になり給へ、故に法華経に云く我が願既に満ち衆の望も亦足る云云、目連が色身は・父母の遺体なり目連が色身仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ。

  例せば日本国八十一代の安徳天皇と申せし王の御宇に平氏の大将安芸の守清盛と申せし人をはしき、度度の合戦に国敵をほろぼして上太政大臣まで官位をきわめ当今はまごとなり、一門は雲客月卿につらなり、日本六十六国・島二を掌の内にかいにぎりて候いしが、人を順うこと大風の草木をなびかしたる・やうにて候しほどに、心をごり身あがり結句は神仏をあなづりて神人と諸僧を手に・にぎらむとせしほどに、山僧と七寺との諸僧のかたきとなりて、結句は去る治承四年十二月二十二日に七寺の内の東大寺・興福寺の両寺を焼きはらいてありしかば・其の大重罪・入道の身にかかりて・かへるとし養和元年潤二月四日身はすみのごとく面は火のごとくすみのをこれるがやうにて結句は炎身より出でてあつちじにに死ににき、其の大重罪をば二男宗盛にゆづりしかば西海に沈むとみへしかども東天に浮び出でて、右大将頼朝の御前に縄をつけて・ひきすへて候き、三男知盛は海に入りて魚の糞となりぬ、四男重衡は其の身に縄をつけて京かまくらを引かれて結句なら七大寺にわたされて、十万人の大衆等・我等が仏のかたきなりとて一刀づつ・きざみぬ、悪の中の大悪は我が身に其の苦をうくるのみならず子と孫と末へ七代までもかかり候けるなり、善の中の大善も又又かくのごとし、目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は我が身仏になるのみならず父母仏になり給う、上七代・下七代・上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給う、乃至子息.夫妻・所従・檀那・無量の衆生.三悪道をはなるるのみならず皆初住・妙覚の仏となりぬ、故に法華経の第三に云く「願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」云云。

 

現代語訳

ところが、目連尊者は法華経という経に、正直捨方便とあるとおり、小乗の二百五十戒を立ちどころに投げ捨てて、南無妙法蓮華経と唱えたところ、やがて成仏して多摩羅跋栴檀香仏となりました。この時こそ、父母も成仏することができたのです。ですから法華経に、我が願既に満ちて、衆の望も亦足りぬ、と説かれているのです。目連の色身は父母の遺体です。そうであれば目連の色身が成仏したので、父母の身もまた成仏したのです。

例えば、日本国第八十一代の安徳天皇の治世に、平氏の大将・安芸守清盛という人がいました。度々の合戦に国敵を滅ぼして、上は太政大臣まで官位をきわめ、今上(安徳天皇)は孫にあたります。一門は雲閣月卿につらなり、日本六十六か国・島二つを掌中におさめ、人を帰順させることは大風が草木をなびかすようでしたが、しだいに憍慢の心が起き、つけあがって、結句は神仏を蔑視し、神人と諸僧をも掌握しようとしたので、比叡山の僧や七大寺の諸僧を敵にしてしまったのです。つまりは、治承四年十二月二十二日、七大寺の中の東大寺、興福寺の両寺を焼き払ってしまったのです。その大重罪は太政入道の身に報いとなって現れ、翌年、養和元年閏二月四日、熱病にかかり身は炭のようにこげ、顔は火がおこったようになり、結局は、体中から炎が上がって熱死してしまったのです。そして、その大重罪は二男の宗盛にも及び、壇ノ浦の合戦に敗れ西海に沈んだと思われたが東天に浮かび、捕らえられて右大将頼朝の前に縄をつけられたまま引き据えられたのです。三男知盛は壇ノ浦の海に沈んで魚糞となってしまい、四男重衡は一ノ谷の合戦に敗れ身に縄を付けられて、京都、鎌倉を引き回されたあげく、奈良の七大寺に引き渡されて、十万人の大衆等に、我等が仏敵なりと一刀ずつ切り刻まれてしまったのです。

これらをもってみるに悪の中の大悪は、その罪の報いを我が身に受けるだけでなく、子と孫と末代に七代までもかかるのです。善の中の大善もまた同じです。目連尊者が法華経を信じられた大善は、目連尊者自身が仏になっただけでなく、目連尊者の父母も仏になったのです。また父母のみならず上七代、下七代に及び、ひいては上無量生、下無量生の父母達までが存外に成仏することができるのです。さらには、子息、夫妻、所従、檀那、その他無量の衆生までも三悪道を離れることができただけでなく、皆、ことごとく初住・妙覚の仏となったのです。ですから、法華経の第三の巻に、「願くは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」と説かれているのです。

 

語釈

正直捨方便

法華経方便品第二の「今我れは喜んで畏無し、諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」の文である。これはまさしく権教方便を捨て、実教、一仏乗の教えを説く、という意味である。

 

多摩羅跋栴檀香仏

目犍連が授記品で受けた未来成仏の授記の名号。同品に「是の大目・連は当に種々の供具を以て八千の諸仏に供養し、恭敬尊重……号を多摩羅跋栴檀香如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と曰わん」とある。

 

安徳天皇

11781185)。第81代天皇。高倉天皇の第一皇子。諱は言仁(。母は平清盛の娘・徳子(建礼門院)。治承4年(1180)四4月に3歳で即位。寿永2年(1183)源義仲の入京によって、平宗盛に擁せられて西国に逃がれ、大宰府に入った。その後、讃岐屋島に移ったが、寿永4年(1185219日、平家は屋島の戦いで源義経の軍に敗れ、324日、壇ノ浦で平家が滅んだ時、一門とともに入水した。吾妻鏡には次のように記されている。「廿四日 丁未 長門国赤間関壇浦の海上において、源平相逢い、おのおの三町を隔てて舟船を漕ぎ向う。平家は五百余艘を三手に分ち、山峨兵籐次秀遠、ならびに松浦党等をもって大将軍となし、源氏の将帥に挑み戦う。午の尅に及びて、平氏ついに敗傾す。二品禅尼宝剣を持し、按察局先帝を抱きたてまつり、共にもって海底に没す。建礼門院の入水したまうのところ、渡部党源五馬允、熊手をもってこれを取りたてまつる。按察局も同じく存命す。ただし先帝はついに浮かばしめたまわず。若宮は御存命と云々」。

 

安芸の守清盛

11181181)。平清盛のこと。平安時代後期の武将。忠盛の長男。法号は浄海。大相国と呼ばれた。36歳で平氏武士団を率い、保元・平治の乱を経て著しく権勢を伸ばし、仁安2年(1167)には太政大臣となったがほどなく辞した。娘の徳子を高倉天皇の中宮として皇室の外戚となり、全国の半ばを超える知行国と五百余の荘園、そして対宋貿易の利益を経済的基盤に六波羅政権を築いて専横を極めた。同3年(1168)病気となり出家して福原に隠棲していたが、治承元年(1177)、鹿ケ谷での平家討伐計画が露見するや急遽帰京し、反平氏勢力の一掃を図った。治承3年(1179)、後白河法皇を幽閉して完全に独裁政治を行ったが、かえって各地の反対勢力の反感を募らせ、源頼政・頼朝の挙兵を導くこととなった。治承5年(1181)、台頭する源氏軍の情勢に平氏の未来を憂慮しつつ熱病で苦悩のうちに亡くなった。

 

太政大臣

律令官制の最高官で,左右大臣の上に位置する太政官の長官であるが,特に職掌は定められておらず『大宝令』では適任者がなければおかない則闕の官であった。

 

雲閣月卿

雲閣は平安時代の中期以降に清涼殿に昇ることを許された人。殿上人。月卿は公卿のこと。禁中を天に、天子を日に、公卿を月になぞらえていった。

 

六十六国

北海道、琉球及び壱岐・対馬の2島を除く日本全土を66か国に分割して数えたもの。畿内五か国、東山道八か国、東海道15か国、北陸道7か国、山陽道8か国、山陰道8か国、南海道6か国、西海道9か国である。

 

島二

壱岐・対馬の二島のこと。

 

神人

じんにん・しんじん・かみびと、などとも読む。古代から中世の神社において、社家に仕えて神事、社務の補助や雑役に当たった下級神職・寄人である。社人ともいう。神人には、神社に直属する本社神人と、諸国に存在する神領などの散在神人とがある。神人は社頭や祭祀の警備に当たることから武器を携帯しており、平安時代の院政期から室町時代まで、僧兵と並んで乱暴狼藉や強訴が多くあったことが記録に残っている。

 

山僧

①山寺の僧。古来寺院は、山に建てられ、寺号とともに山号をつける習慣がある。②比叡山延暦寺の僧のこと。延暦寺を山門という。③僧が自分をへりくだっていう語。愚僧。

 

七寺

奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。

 

東大寺

聖武天皇の天平13年(0741)に国分寺の建立が計画され、天平15年(0743)に本尊廬舎那仏の造立が発願され、天平21年(0749)に完成し、天平勝宝4年(0752)盛大な開眼供養が行われた寺院。奈良の大仏のこと。

 

興福寺

法相宗の大本山で、南都七大寺の一つ、斉明天皇3年(0657)藤原鎌足の発願によって、山城国山科(京都府京都市山科区)に造立が始められ、没後の天智天皇8年(0669)鎌足の夫人・鏡女王の手で落成・山階寺と号した。本尊は丈六の釈迦仏。その後天武天皇の飛鳥遷都にともなって大和国飛鳥厩坂(奈良県橿原市石川町)さらに平城京遷都のときに、大和国平城京左京(奈良県奈良市登大路)へと二度の移転を経て現在に至っている。藤原家の氏寺であったが、後には春日神社を管掌下に置くなどして、平安時代には延暦寺につぐ荘園と僧兵を有する大寺となり、僧兵の狼藉は朝廷・公卿に対する脅威となっている。

 

宗盛

11471185)。平宗盛のこと。平安時代の武将、平清盛の第三子。養和元年(1181)清盛の死後、平氏の家督を継ぎ、権大納言・内大臣を経て従一位に叙せられた。寿永2年(1183)木曽義仲と戦い、敗れて安徳天皇等を奉じて太宰府に逃れた。その後、一の谷・屋島で源氏の軍と戦って敗れ、壇ノ浦で大敗を喫した。宗盛は捕らえられて鎌倉に送られ、京都に送還される途中、近江の篠原(滋賀県近江八幡市篠原町)で斬殺された。

 

西海

西方の海のこと。大聖人の御書のなかでは、壇ノ浦をさす場合が多い。

 

頼朝

11471199)源頼朝のこと。鎌倉幕府初代将軍。清和源氏の嫡流・義朝の三男。右近衛府の長官である右近衛大将になったことから右大将と呼ばれた。平治の乱に敗れて逃げる途中、平氏にとらえられて伊豆へ流された。治承4年(1180)に以仁王の命旨を受け、北条時政の援助を得て挙兵したが、石橋山の合戦で平氏に敗れ、安房に逃れた。再起を図って間もなく勢力を回復し、富士川で平氏に大勝、後、鎌倉に居を構え、関東各地を固め、武家政権の基礎の確立を図った。以来、弟の範頼・義経らを西進させて木曽義仲を討ち、文治元年(1185)壇ノ浦で平氏を滅ぼした。ついで朝廷の信任を得た義経を追放し、その追補を理由に諸国に守護・地頭を設置し、武家政権を確立した。文治5年(1189)には藤原泰衡を討って奥州を勢力下に入れた。建久元年(1190)、上洛して権大納言・右近衛大将に任じられ、同3年(1192)征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。

 

知盛

11561185)平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の四男。母は継室の平時子で、時子の子としては次男となる。同母兄に平宗盛、同母妹に平徳子がいる。世に新中納言と称された。しかし、寿永3年(1184)源義仲に敗れ、ついで一の谷・壇ノ浦でも敗れ、安徳天皇や一門の女性に入水を勧め、見届けたあと、自身も海に身を投じた。

 

重衡

11561185)は、平安時代末期の平家の武将・公卿。平清盛の五男。母は清盛の継室・平時子。三位中将と称された。平氏の大将の一人として各地で戦い、南都焼討を行って東大寺大仏や興福寺を焼亡させた。墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送された。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首された。その将才は「武勇の器量に堪ふる」と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。

 

無量生

数えきれないほど繰り返し、この世に生を受けること。無量ははかることができないという意。

 

所従

従者。家来。

 

檀那

布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。

 

初住

菩薩行52位のうち、十住の初めの位。不退転の位とされる。二乗は法華経迹門にきて、作仏を許され初住に入ったとされている。しかし、本門より望むならば、まだ初住に入ったとはいえない。当体義抄には「爾前と迹化の衆とは未だ本門に至らざる時は未断惑の者と云われ彼に至る時正しく初住に叶うなり、妙楽の釈に云く『開迹顕本皆初住に入る』」(0518:02)とある。

 

妙覚

①真の悟り、微妙・深遠な悟りのこと。また、仏の無上の悟りのこと。②菩薩の五十二位・四十二地の最上位で、菩薩が修行して到達する最後の階位のこと。妙覚の位に達した菩薩は、煩悩を断じ尽くし、智慧を完成させるとされる]。天台教義の六即と対応させると、別教の菩薩五十二位の最高位である「妙覚」は、円教の「究竟即」に相当する。一つ前の等覚の位にいる菩薩が、さらに一品の無明を断じてこの妙覚位に入る。しばしば、仏の位と同一視される。

 

講義

次に大聖人は、餓鬼道の母を救えなかった目連が、法華経によって成仏した時に父母も仏になったことを教えられ、平清盛の犯した大悪が自身も我が子をも苦悩に陥れた例を引かれ、謗法の悪業は子孫七代までも苦しませ、反対に法華経を信じた大善は無量世の父母や子孫までも仏にすることを明かされている。

爾前経では永不成仏と嫌われた目連等の二乗は、法華経に至って成仏を許され、目連は授記品第六で「当に成仏することを得べし、号づけて多摩羅婆跋栴檀香如来……劫を喜満と名づけ、国を意楽と名づけん……仏の寿は二十四小劫、正法は世に住すること四十小劫、像法も亦た住すること四十小劫ならん」と記別を与えられた。

目連が成仏したとき、同時に父母も仏になったのであり、そのわけを「目連が色身は・父母の遺体なり目連が色身仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ」と述べられている。子の肉身は父母が生み育てて遺した身体なので、子の肉身が成仏したのなら、もとの色身である父母の身も仏にならないわけはないということである。

浄蓮房御書でも「目犍尊者は悲母の餓鬼の苦を救い浄蔵浄眼は慈父の邪見を翻し給いき、父母の遺体は子の色心なり、浄蓮上人の法華経を持ち給う御功徳は慈父の御力なり……浄蓮上人の所持の法華経いかでか彼の故聖霊の功徳とならざるべき」(1434:17)と述べられ、父子同時の成仏を明かされている。

また、法蓮抄では「法華経も又一切衆生を仏になす用おはします、六道四生の衆生に男女あり此の男女は皆我等が先生の父母なり、一人ももれば仏になるべからず故に二乗をば不知恩の者と定めて永不成仏と説かせ給う孝養の心あまねからざる故なり、仏は法華経をさとらせ給いて六道・四生の父母・孝養の功徳を身に備へ給へり、此の仏の御功徳をば法華経を信ずる人にゆづり給う」(1046:10)と述べられ、一切衆生を成仏させる法華経こそ第一の孝経であることを教えられているのである。

親子同時の成仏を説かれた後で、平清盛の故事を引かれたのは、親の悪行がその子を大苦悩に堕としたように、法華経信受の大善根は反対に無量生の父母や子孫をも成仏させるという例証にあげられているのである。

平清盛が南都(奈良)の七大寺を討伐することを決定したのが治承4年(11801223日で、南都の僧兵達が源氏側について平氏打倒の旗色を明らかにしたからだった。平重衡を大将軍とした平氏の大軍は河内路と山城路の二方から奈良へ侵攻し、28日に決戦が行われた。興福寺は六万の僧兵を集めて抗戦したが敗れ、東大寺・興福寺の堂塔伽藍は平氏軍の放った火によりことごとく焼失している。それを契機として、平氏は寺院勢力や貴族を完全に敵に回すことになり、滅亡を早めたという。

平清盛は翌養和元年(1181)閏34日に死んだが、当時の記録に「動熱悶絶」とあり、このことを「あつちじにに死ににき」と仰せられたのである。

清盛の跡を承けて平氏の家督となった次男の宗盛は、一門を率いて京を離れ西国で軍を建て直したが、一ノ谷、屋島で源氏軍に敗れ、寿永4年(1185324日の壇ノ浦合戦で一族が滅亡した時には時忠・清宗などとともに生け捕りにされている。そして、鎌倉へ送られたが、再び京へ送り帰され、近江の篠原で源義経によって斬られ、首は獄門にさらされた。

三男の知盛は壇ノ浦で入水して死に、四男重衡は一ノ谷の合戦で敗れたとき捕らえられ、平氏滅亡後の文治元年(1185)に奈良へ送られ、623日に木津川で斬首された。東大寺・興福寺の宗徒はその首を奈良坂にさらしたといわれる。

大聖人がこうした歴史的事実を引かれたのは、「悪の中の大悪は我が身に其の苦をうくるのみならず子と孫と末へ七代までもかかり候けるなり」と教えられるためであった。

当時はすでに末法に入っており、清盛が東大寺や興福寺を焼き、比叡山延暦寺に敵対したからといって謗法にはならないともいえるが「神仏をあなづりて神人と諸僧を手に・にぎらむとせしほどに」と仰せのように、仏法そのものを手中に収めようとした増上慢が大悪業となったといえよう。

「悪の中の大悪」とは、世間の悪事をいうのではなく、仏法中の悪、すなわち謗法の大悪業を仰せられている。

顕謗法抄に「謗法とは法に背くという事なり……法に背かばあに謗法とならざらん謗法とならば・なんぞ苦果をまねかざらん」(0455:06)と仰せになり、また西山殿御返事に「うつりやすきは人の心なり、善悪にそめられ候、真言・禅・念仏宗等の邪悪の者にそめられぬれば必ず地獄にをつ、法華経にそめられ奉れば必ず仏になる」(1474:02)と述べられているように、正法に背く邪法邪義を信じることは、生命を汚染されて地獄の苦悩を受ける原因となるのである。しかもその苦悩は、自分のみではなく、妻子・眷属から子や孫など七代の末にまで至るとされている。まことに謗法の悪業こそ恐るべきである。

したがって「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべし」(1056:07)との御金言のごとく、謗法の誤りを呵責する折伏の実践が大切となるのである。

そして「善の中の大善」もそれと同じ方程式で、目連が法華経を信じたという大善は、自分自身が仏になっただけではなく、父母も成仏させ、さらに「上七代・下七代・上無量生下無量生の父母等」までも皆成仏させることができたと仰せになっている。

つまり、自分自身が仏になることが肝要であり、その功徳を回向することこそ、真の盂蘭盆供養となるのである。しかも、末法今時においては、釈尊の法華経ではなく、日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経こそ一切衆生が成仏できる唯一の正法であり、御本尊に題目を唱えたときに、境智冥合して成仏の境界を得るのであり、その功徳によって先祖も成仏できるのである。

よって常盆・常彼岸といって、毎日がお盆でありお彼岸であると心得て、朝晩の勤行の際に先祖の追善供養をしていくのが本義である。にもかかわらず715日に盂蘭盆会の法要を行うのは、先祖の供養と同時に信心の新たな発心の機とするためであり、また誤った教えで盂蘭盆会を行っている人々に本当のお盆を教え、成仏に対する認識を改めさせるためなのである。

 

 

第四章(妙法ゆえの成仏を約し激励される)

 本文

されば此等をもつて思うに貴女は治部殿と申す孫を僧にてもち給へり、此僧は無戒なり無智なり二百五十戒一戒も持つことなし三千の威儀一も持たず、智慧は牛馬にるいし威儀は猿猴ににて候へども、あをぐところは釈迦仏・信ずる法は法華経なり、例せば蛇の珠をにぎり竜の舎利を戴くがごとし、藤は松にかかりて千尋をよぢ鶴は羽を恃みて万里をかける、此は自身の力にはあらず。治部房も又かくのごとし、我が身は藤のごとくなれども法華経の松にかかりて妙覚の山にものぼりなん、一乗の羽をたのみて寂光の空にもかけりぬべし、此の羽をもつて父母・祖父.祖母・乃至七代の末までも・とぶらうべき僧なり、あわれ・いみじき御たからは.もたせ給いてをはします女人かな、彼の竜女は珠をささげて・仏となり給ふ、此女人は孫を法華経の行者となして・みちびかれさせ給うべし、事事そうそうにて候へば・くはしくは申さず、又又申すべく候。恐恐。

       七月十三日 日蓮花押

      治部殿うばごぜん御返事

 

現代語訳

それゆえ、これらをもって考えてみますと、貴女は治部殿という孫を僧にもっておられます。この僧は無戒、無智で二百五十戒の一戒も持つことはなく、三千の威儀の一つも満たしてはいません。智慧は牛馬の類で、威儀の整わないことは猿のようですが、その仰ぐところの仏は釈迦仏であり、信ずる法は法華経です。これを譬えれば、蛇が珠を握り、竜が舎利を戴いているようなものです。藤は松に懸かって千尋をよじ登り、鶴は羽の力によって万里を飛ぶことができます。これらは自身の力ではありません。治部房もまた同じです。我が身は藤のようでも法華経という松の木に懸かれば妙覚の山にも登ることができ、一乗妙法の羽をたのんで寂光の空を自由に翔ることもできるのです。この羽をもって父母、祖父、祖母、乃至七代の末まで弔うことのできる僧なのです。立派な、素晴らしい宝をお持ちになっている女人です。彼の竜女は珠を仏に供養して成仏されました。この女人は孫を法華経の行者にして、寂光浄土に導かれていくことでしょう。あれこれ忙しく、詳しくは申し上げません。また申し上げます。恐恐。

七月十三日              日 蓮  花 押

治部殿うばごぜん御返事

 

語釈

治部殿

日蓮大聖人の門下で、中老の一人・日位であるといわれる。生没年、略伝等は明らかでない。墓輪番帳に六老僧に次ぐ十二人の門下に数えられたが、日興上人の弟子分本尊目録には「一、駿河国四十九院の住治部房は蓮華阿闍梨の弟子なり、仍て日興之を与え申す、但し聖人御滅後に背き了ぬ」とあるように、大聖人御入滅後は離反した。

 

虵の珠をにぎり

出典は文選にある曹子建の「楊徳祖に与うる書」の「人びとは自ら謂えらく、霊虵の珠をにぎれりと。家いへは自ら謂えらく、荊山の玉をいだけりと」と思われる。

 

妙覚の山

妙覚は菩薩の修行位である五十二位の最高位で、これを山にたとえたもの。

 

寂光の空

仏の住む寂光世界を広い空にたとえたもの。

 

講義

最後に大聖人は、孫の治部房を法華経の行者としたことによって、その祖母が必ず成仏に導かれるであろうと励まされて本抄を結んでいる。

治部房は目連に比べれば無戒であり智慧も劣るかもしれないが、釈迦仏・法華経を信じ仰ぐ者であるから、その功徳によって必ず成仏の山に登り、寂光の空をかけるであろうとされ、さらに父母・祖父母から七代の末の子孫に至るまでその功徳を回向する僧であると仰せである。

成仏は自身の力や修行によって得られるものではなく、妙法の偉大な功力によるのである。ここで「あをぐところは釈迦仏・信ずる法は法華経なり」と仰せになっているのは、末法の釈尊・法華経の意であり、文底の釈尊たる御本仏日蓮大聖人と末法の法華経である三大秘法の南無妙法蓮華経を指している。

末法における成仏への唯一の直道は、人法一箇の御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることに尽きるのであり、しかも、その功徳は同時に過去の先祖への回向となり、また子孫への福運となって遺されるのである。

その偉大な妙法を受持した孫をもった祖母は、すばらしい宝をもった女人であり、竜女が仏に珠を捧げて成仏したように、孫を法華経の行者としたことによって成仏に導かれることは間違いないと励まされて、本抄を終えられている。

タイトルとURLをコピーしました