四条金吾殿御返事(世雄御書)
建治3年(ʼ77)7月または8月 56歳 四条金吾
背景と大要
このお手紙が認められた建治3年(1277年)当時、四条金吾は主君である江馬氏の怒りを買い、身に大きな危険が及ぶ窮地に立たされていました。四条金吾に対する江馬氏の敵意は、1277年6月に行われた「桑ヶ谷問答(くわがやつもんどう)」にさかのぼるものでした。同僚たちは、この主従の不和につけ込み、金吾を亡き者にしようと機会をうかがっていたのです。自身が置かれた窮状についての金吾からの報告を受け、日蓮大聖人は金吾に代わって江馬氏への陳状(四条金吾陳状)をしたためられ、桑ヶ谷問答の顛末や仏法の教えの勝劣を説明されました。
本抄において大聖人は、仏法と世間政治(政事)の違いを明確にされています。賞罰は政治がその目的を達成するために用いる手段であり、そこには意図的な操作がありますが、仏法の世界にはそのような作為的な操作は存在しません。絶対の法に基づく仏法においては、その法を支持するか、あるいは反対するかによって、「勝負」――言い換えれば「幸福」か「不幸」か――が厳然と決まるのです。そしてお手紙の末尾において、大聖人は金吾に対し、敵からの襲撃を避けるために細心の注意を払うよう強く注意を促されています。
第一章(仏法と王法の相違)
本文
御文あらあらうけ給わりて長き夜のあけ・とをき道をかへりたるがごとし、夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり、故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり、中にも天竺をば月氏という我国をば日本と申す一閻浮提・八万の国の中に大なる国は天竺・小なる国は日本なり、名のめでたきは印度第二・扶桑第一なり、仏法は月の国より始めて日の国にとどまるべし、月は西より出で東に向ひ日は東より西へ行く事天然のことはり、磁石と鉄と雷と象華とのごとし、誰か此のことはりを・やぶらん。
現代語訳
あなたのお手紙の内容を概略うけたまわり、長い夜が明け、遠い道を歩いて、帰りついたように、安心いたしました。
そもそも、仏法というのは勝負を第一とし、王法というのは賞罰を本としている。故に、仏を世雄と号し、王を自在と名づけるのである。この世界の国々のなかでも、天竺国すなわちインドを月氏といい、わが国を日本という。一閻浮提中にある八万の国のうちでも、大なる国は天竺であり、小なる国は日本である。しかし、その国の名のめでたさでいうならば、インドは第二であり、扶桑は第一である。
仏法は月の国から始まって、日の国にとどまるであろう。月は西から出て東に向かい、日は東から出て西へ行くことが自然の道理であるように、このことは真理であり、あたかも磁石が鉄を吸い、雷が鳴って象華が成長するようなものである。誰がこの道理を破ることができようか。
語釈
王法
①国王・君主が定める国の法令。②憲法・法律③社会の習慣・規範
世雄
仏の異名。仏は世間において最も勇猛で、一切の煩悩苦を取り除くというところから世雄という。〝世〟とは、この現実社会であり〝雄〟とは、その中で力をあらわし、リードしていく人のこと。法華経化城喩品第七には「世雄に等倫無し 百福もて自ら荘厳し 無上の智慧を得たまえり」「世雄両足尊よ 唯だ願わくは法を演説し 大慈悲の力を以て 苦悩の衆生を度したまえ」とある。世雄両足尊とは、両足を有する有情の中で最も尊い存在という意味。
自在
なんの障りもなく、束縛もなく、思いのままの意。一切のものに通達して障りなきこと。自由自在という。真実の自由の境涯。
天竺
古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前三世紀後半ごろ中央アジアに、月氏という民族がおり、その地を経てインドから仏教が中国へと伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとしてみていたようである。また月氏の名称は、玄奘の大唐西域記によると、西天に月の出づる国としている。「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。
扶桑
日本の国の別称。もとは中国の書にあり、のちに日本書紀などでも用いている。呂氏春秋には「東は扶木に至る」と述べ、淮南子には「東、日出の次、榑木の地、青土樹木の野に至る」と、日本書紀には「天下無為、扶桑の域仁に帰す」とある。
名のめでたきは印度第二、扶桑第一なり
国の名がめでたいことは、インドが第二であり、日本が第一であるとされる。諫暁八幡抄(0588)にいわく「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」と。日寛上人は当流行事抄で、この文は勝劣を明かすのであり「亦三意有り」として「一には国名に寄す。謂く、月氏は是れ迹門の名なり。故に脱迹の仏応に出現すべきなり。日本は即ち本門の名なり。下種の本仏、豈出現せざらんや。国名寧ろ勝劣に非ずや。二には順逆に寄す。謂く、月は西従り東に向かう、是れ左道にして逆なり。日は東従り西に入る、是れ右繞にして順なり。順逆豈勝劣に非ずや。三に長短に寄す。月は光、明らかならず、在世は但八年なり。日は光、明らかにして、末法万年の闇を照らす。長短寧ろ勝劣に非ずや」とある。
象華
芭蕉の一種である象牙草のことと思われる。花弁が大きくて、象牙に似ているところからこの名があるという。本草綱目巻十五に「其の花大にして象牙に類す。故にこれを牙蕉と云う」とある。雷鳴によって成長するともいわれている。
講義
苦境にある四条金吾に対して、日蓮大聖人は、仏法と王法の相違と、必ず仏法が勝つことを、歴史的事実によって示し、激励されている。ここに挙げられている歴史的事実とは、日本に仏教が伝えられたときのことと、中国に仏教が伝わったときとの二つの例である。そこには、王法すなわち政治権力と結びついた土着の宗教の、外来新来の宗教たる仏教に対する激しい排撃があった。しかし、結局、仏法はその法自体の持つ力によって勝利を収めたのである。
いま、四条金吾が日蓮大聖人の仏法を、他の人々に先がけて受持し、主君・江馬氏やあるいは鎌倉中の人々から迫害されているのは、日本に、中国に、はじめて仏教が伝えられ、広まろうとしていた時と全く同じである。どのように激しい苦難があろうと、必ず仏法は王法に勝つのであり、いまの苦しみは先駆者としての栄光に変わる時が来る。全魂をこめた激励の中に、大聖人の愛弟子を思う深い慈愛と、万年の未来まで民衆を救う大仏法の広宣流布への大確信を拝することができる。
夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば世雄と号し、王をば自在となづけたり
〝仏法は勝負をさきとす〟ということは〝王法は賞罰を本とす〟との対比におい解されなければならない。〝勝負〟とは、権威によらず、法自体および法を持った人自身の力によって、いずれが勝れ、いずれが劣るか、いずれがより人間の幸福と尊厳のために尽くし得るかを決することである。これに対して〝賞罰〟とは、権威により、社会的権力によって、功ある人を賞し、罪ある人を罰するのである。
したがって〝仏法は勝負〟ということは、仏法は人間の本源的な生命の力を重んじ、それをより強めていくものであるということになる。この主体は、個の人間としての存在である。それに対し、王法は、社会的権威と、その権威に服従する人々の忠誠心によって支えられた社会的力の反映である。その主体は王や独裁者という個人にせよ、内閣という集団にせよ、いずれにしても、個の人間ではなく集団的な力にほかならない。
このように、王法の賞罰と対比して仏法の原理を勝負として示されたなかに、仏法が人間に焦点をあて、人間としての力を中心にすえていく精神と読みとることができる。
しかも、細かいことのようだが、仏法は勝負を〝さき〟とし、王法は賞罰を〝本〟とするという言葉の使い方にも注意しなければならない。〝さき〟とは、前後の〝前〟ではない。〝本〟に対するのであり、草木の梢とか葉先にあたる。根っ子が〝本〟である。したがって、勝負を先とすということは、勝負を何よりも優先すべきだということでなく、結果として勝負としてあらわれるということである。
仏法の実践において大事なことは、法の正義を守り、それを全魂こめて実践しきることである。勝負にこだわり策を弄して、正義を歪めるようなことが微塵もあってはならない。この誠意の戦いが、長い展望でみたときに必ず勝利を結果とすることが証明されるであろう。
王法が賞罰を〝本〟とするということは、真に功ある人が賞せられ、真に罪ある人が罰せられることによって、それが秩序の維持と、人民の行動を律する規範となっていくのである。つまり賞罰とは、手本であって、全ての人々の行動に対する結果ではありえない。王の権力がいかに緻密に人々の上に行きわたっていようと、全ての人の、全ての行動を網羅することは不可能である。賞せられなかった人でも、賞せられた人より功のある人もいよう。罰せられた人よりはるかに大きい罪を犯しながら、罪を免れる人もありうる。これは、全体的統括を司る王法のもつ限界ともいえよう。ともあれ、ここに、王法と仏法の根本的相違があるのである。
月は西より出で東に向ひ……
天文学上からみると、月の日周運動は、地球の東より出て西へ沈んでいくことになるが、肉眼で見える月は、新月、上弦、満月、下弦の時によりいろいろ変化する。
月は白道上を一日平均13・2度進むが、このために月の出入りの時刻が一日ごとに平均約51分おくれることになる。
つまり、新月の頃は月は太陽と大体同時刻に出入りする。だんだんおくれて上弦の頃は正午に東から出て夕方に南天、夜半に沈む。満月の頃は太陽と反対になり、夕方東に上って明け方沈む。下弦の月は夜半に上って正午に沈む。
ところで太陽より弱い月の光は、太陽のある時間には、いつ東から出て、西へ沈もうと、われわれの目には映りにくい。
したがって、太陽が沈んで、月の見えはじめる夕方の時刻を月の出としてみるゆえに、新月から満月にいたるまでの月の光りはじめる位置は西から東へ移動する。
新月の頃は、太陽と同じであるから日没の時刻に月の位置は西である。西へ月の入る時間は毎日51分ずつおくれるから、翌日は日没時の月の位置は、西より少し南へ寄る。すなわち、月が西へ沈む時間がおくれるのである。毎日少しずつ、このようにして南寄りとなり、上弦の頃は真南となる。さらに、だんだんと東へ寄って、満月の頃は、日没時の月の位置は東となるのである。
しかも、月は自分で光を発せず、太陽の光を反射させて光るのであるから、西から昇って東を照らしているように見えるのである。
一方、太陽は、いまさらいうまでもなく、毎朝東天に昇り、日中は南天に輝き、夕方は西天に没していく。
この月と太陽の動きと同じく、まず釈迦仏法は西に位置する月の国インドより発祥し、東へ東へと伝わっていった。中国に伝わり、朝鮮半島に伝えられ、日本へ渡って来たのであった。
今、大聖人は東の日本より発祥した大聖人の仏法が、太陽のごとく中国、インドと西の国々に広まり、全世界を照らしていくことは、天然の理であるとの大確信を述べられているのである。
第二章(日本への仏法渡来)
本文
此の国に仏法わたりし由来をたづぬれば天神七代・地神五代すぎて人王の代となりて第一神武天皇・乃至第三十代欽明天皇と申せし王をはしき、位につかせ給いて三十二年治世し給いしに第十三年壬申十月十三日辛酉に此の国より西に百済国と申す州あり日本国の大王の御知行の国なり、其の国の大王・聖明王と申せし国王あり、年貢を日本国にまいらせし・ついでに金銅の釈迦仏・並に一切経・法師・尼等をわたし・たりしかば天皇大に喜びて群臣に仰せて西蕃の仏を・あがめ奉るべしや・いなや、蘇我の大臣いなめの宿禰と申せし人の云く西蕃の諸国みな此れを礼す・とよあきやまとあに独り背やと申す、物部の大むらじをこし中臣のかまこ等奏して曰く我が国家・天下に君たる人は・つねに天地しやそく百八十神を春夏秋冬に・さいはいするを事とす、しかるを今更あらためて西蕃の神を拝せばおそらくは我が国の神いかりをなさんと云云、爾の時に天皇わかちがたくして勅宣す、此の事を只心みに蘇我の大臣につけて一人にあがめさすべし、他人用いる事なかれ、蘇我の大臣うけ取りて大に悦び給いて此の釈迦仏を我が居住のおはだと申すところに入まいらせて安置せり、
現代語訳
この日本国に仏法が渡ってきた由来をたずねてみれば、天神七代、地神五代、すなわち神代の時代をすぎて、人王の時代となって、第一代神武天皇より第三十代目に欽明天皇という天皇がおられた。この天皇は位につかれて32年間、世を治められたわけであるが、その第13年目壬申10月13日辛酉に、日本国の西方に百済国という州があり、日本国の天皇が統治されていた国であるが、その国の大王で聖明王という国王がいた。この王が年貢を日本国につかわしたおりに金銅の釈迦仏、ならびに一切経、法師、尼等を渡らせたので、天皇は大いに喜んで群臣にむかって「西蕃の仏を崇め奉るべきかどうか」と問われた。
すると、蘇我の大臣で稲目の宿禰という人が「西蕃の諸国はみな、これを礼拝しています。とよあきやまとひとりだけが、どうして背くことがありましょうか」と申しあげた。物部の尾興、中臣の鎌子等は「わが国家・天下の君主である人は、つねに天地、社稷、百八十神を春夏秋冬に祭拝するのをならいとしています。それをいまさら、あらためて西蕃の神を拝するならば、おそらくは、わが国の神は怒りをなすでしょう」と申しあげた。
その時に天皇は判断しがたくて「この仏を試みに、ただ蘇我の大臣一人に崇めさせることにしよう。他の者は用いてはならない」と勅宣を下した。蘇我の大臣は、これを受け取って、大いに喜ばれ、この釈迦仏を自分の居住しているおはだというところに迎え入れ、安置した。
語釈
天神七代
地神五代より前に高天原に出た七代の天神。陽神(男神)と陰神(女神)がある初めは抽象的だった神々が、次第に男女に別れ異性を感じるようになり、最終的には愛を見つけ出し夫婦となる過程をもって、男女の体や性が整っていくことを表す部分だと言われている。①国常立神②国狭槌尊③豊斟渟尊(以上、独化神三世代)④泥土煮尊・沙土煮尊⑤大戸之道尊・大苫辺尊⑥面足尊・惶根尊 ⑦伊弉諾尊 ・伊弉冉尊。
地神五代
日本神話の神々。天神七代のあと地上に降りて人王第一代の神武天皇に先立って日本を治め、皇統の祖神となったとされる五代の神。日本書紀には天照大神、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、天津彦火瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、鸕鷀草葺不合尊をさす。
神武天皇
第一代の天皇。神日本磐余彦天皇のこと。神武天皇は後世の諡号。神日本は美称、磐余は大和の地名をいう。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の第四子である。15歳で太子となった。日向を出発して瀬戸内海を東に進み、一度は難波に上陸したが、生駒の長髄彦に妨害され、海上を南に回って熊野から吉野を経て大和に入り諸豪族を征服し、ついに長髄彦を倒して大和を平定した。橿原宮で即位した。崩じて、畝傍山東北陵に葬られた。
欽明天皇
(~0571)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(0552)10月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。
百済国
古代、朝鮮半島の南西部にあった王国。正しくは「ひゃくさい」というが、日本では「くだら」と呼びならわされている。三国志東夷伝にある馬韓54国中の伯済国がその前身とされる。史料に初めて登場するのは0345年、近肖古王即位前年からで、以後、勢力を拡大して高句麗・新羅と朝鮮半島を三分した。古くから中国文化の影響を受けて仏教が栄えた。日本との交流も深く、大陸文化の日本への伝来に大きな役割を果たした。0660年、義慈王の時代、唐と新羅の連合軍の攻撃を受けて滅んだ。
日本国の大王の御知行の国
四世紀中ごろから大和朝廷は、朝鮮直轄領地として任那を成立させ、日本府を設置して、朝鮮を支配する形をとっていた。百済は新羅・高句麗の圧迫を避けるため、日本と親交を結んでいたので、このようにいわれたものであろう。
聖明王
(~0554)。百済国の王。0523年に即位し、中国・南朝の梁との通交を深めて諸文物・仏教を輸入し、国内整備に努めた。一方、日本との関係を強めるため、0552年に釈迦仏像や経典類を大和朝廷に献上して公式に仏教を伝え、その後の日本文化の発展に多大な影響を及ぼすことになった。0554年、新羅に領土を奪取されて激怒した王は、大軍を率いて新羅に攻め入ったが、逆に討たれて非業の最後を遂げた。
金銅の釈迦仏
晴明王が献上したのは、日本書紀では「釈迦仏の金銅像」としている。しかし扶桑略記では「阿弥陀仏像」となっているが、おそらく後世、阿弥陀にすりかえられたものであろう。
西蕃
甘粛・四川・雲南地方の中国人が、隣接するカム地方のチベット人を指して用いた蔑称。
蘇我の大臣いなめの宿禰
蘇我稲目(~0570)のこと。大臣は官職、宿禰は敬称。蘇我高麗の子といわれる。宣化天皇の時代から大臣として勢力を伸ばし、欽明天皇の時にほぼ権勢を確立した。その間、屯倉の新設ならびに経営に力を入れ、仏教の受容を主張し自邸を寺とした。また娘を天皇の妃として皇室との姻戚関係を固めた。
とよあきやまと
日本の国の古名。日本のことを古くは、秋津島、豊秋津島、豊葦原千五百秋瑞穂国等と呼んだ。また、やまとは、大和と書き、これもわが国の古名である。これらの古称を略して、「とよあきやまと」とされたのであろう。
物部の大むらじをこし
物部尾輿のこと。生没年不詳。大連は官職名。大伴金村、蘇我稲目と並んで欽明天皇を支えた有力な中央豪族。対韓問題で大伴金村を失脚させ勢力をのばした。また仏教受容の際に排仏派の中心人物となり崇仏派の蘇我氏と対立した。諸国に疫病が流行した時、尾輿はこれを国神の怒り、たたりとみて、寺を焼き仏像を難波堀江に捨てたと伝えられている。
中臣のかまこ
当時の中臣氏の中心人物とみられるが不詳。
しやそく
しやは万物を生ぜしめる国土の神。そく(稷)は五穀の神。最も尊敬するものとして、社稷を祭ることを国家の最大の礼とした。
百八十神
日本国を守護するとされる数多くの神々。
勅宣
天皇の命令を宣べ伝える公文書。臨時に出すものは詔書・平常に出すものは勅書という。
おはだ
「おはりだ」ともいう。飛鳥の同地異名。ただし、飛鳥は広く今日の明日香村のほとんどをさすが小墾田はもっと狭い地域をさしており、今日の奈良県高市郡明日香村豊浦附近をいったようである。この日本最初の寺は、向原寺、豊浦寺、小墾田寺ともいわれた。
講義
この段から、わが国に仏教が渡来し受容されるにいたった様相について述べられている。歴史的記述については、大聖人当時の社会で唯一の資料として一般に信じられていた日本書紀に依っておられる。したがって、今日の歴史学による成果からみれば、官撰記録ということからくる歪曲もあろうが、古来の神への信仰があり、そこへ仏教が定着するには、幾多の困難があったことは疑いない。
ここに記されているのは、仏教の受けた苦難と、それをのりこえていかにして勝利を収めたかを示すためであって、したがって、それ以外の問題の真偽にこだわるべきではない。
ただ参考までに、仏教公伝の古来ある論議について一言すると、本抄の仏法渡来の年次は「欽明天皇の第十三年壬申十月十三日辛酉」となっているが、これは日本書紀の欽明天皇13年壬申の条に「冬十月に、百済の聖明王、更の名は聖王。西部姫氏達率怒唎斯致契等を遣して、釈迦仏の金銅像一軀・幡蓋若干・経論若干巻を献る」とあるのによっている。
すなわち、日本書紀では、公伝を欽明天皇13年壬申(0552)としているわけであるが、今日では、これには有力な異説がある。それは聖徳太子関係の史料を集成した「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺伽藍縁起並流記資財帳」にある「戊午の年(0538)」説である。
上宮聖徳法王帝説には「志癸嶋天皇御世戊午年十月十二日。百済国主明王始奉度仏像経教並僧等」とあり、元興寺伽藍縁起並流記資財帳には「創自斯帰嶋宮治天下天国案春岐廣庭天皇御世。蘇我大臣稲目宿禰仕奉時。治天下7年歳次戊午12月度来。百済国聖明王時。太子像並灌仏之器一具及説仏起書巻一篋度而言」とあり、これらは欽明天皇7年(0538)としている。
これらの史料は、ともに奈良時代の作であって、上宮聖徳法王帝説は、古事記・日本書紀とは別の伝説を伝える貴重な資料であるから、その説は重要な価値を有するものとされている。
また元興寺伽藍縁起並流記資財帳は、天平19年(0747)に、諸大寺に命じて縁起並流記資財帳を作った時の資料となったもので、奈良時代の古伝を録したものである。とくに用いられた仮名が周代の古音によっており、当時慣用の仮名の古音である。上宮聖徳法王帝説と符合するところがあって、貴重な伝説とされている。
ところが、この戊午説を日本書紀にみると、宣化天皇3年(0538)になって、欽明朝のことではなくなってしまう。これをどう説明するかについては、歴史学者たちによってさまざまな試みが行なわれてきた。
そのなかで、もっとも有力とされているのが、当時の大和朝廷の実権を握っていた豪族たちによって起こされた内乱による両朝分立説である。
その根拠になるものは上宮聖徳法王帝説の欽明天皇の治世説で、それから計算していくと、継体天皇の崩御されたのは辛亥の年に当り、欽明天皇元年(0532)も辛亥の年に当る。したがって、継体朝の次は、欽明朝となり、仏教公伝の戊午年は欽明7年(0538)となる。
ところが、この欽明天皇の即位をみとめぬ勢力があって、安閑、宣化と即位させ、ここに両朝分立となって各勢力が争い、宣化天皇の没後合一したのであろうという見方である。加えて日本書紀の継体朝の記に重複の記録があるために、年代に誤りを生じたものであるとの説が有力となっている。
この時期を辛亥の変とか、内乱期と称する学者もあるくらいだから、複雑な当時の状況を、後々になって記述するということは、見方によって差異が生じてくるのは当然考えられることである。
大聖人が本抄で欽明天皇13年壬申(0552)説をとられたのは、当時の定説となっていた日本書紀の欽明天皇13年説にもとづかれていると考えられる。
ところで、ここにあげられているのは、仏法渡来といっても、あくまで公に渡来したものであって、その以前に帰化人などによって仏教が入っていたことは、当然考えられることである。
六世紀の中頃には、北九州や瀬戸内の族長の間に、帰化人を通して仏教信仰が行なわれていたようだとの見解を述べる学者もある。4世紀頃から帰化人による大陸文化の導入が各地に行なわれ、神功皇后の時代から、度々の朝鮮出兵もあったことから、一般民衆が仏教にふれるチャンスはかなりあったことが考えられる。
当時の日本の、中国や朝鮮との密接な交渉ぶりからみて、仏教が公伝以前に伝わった可能性を考える方が常識的であろうとする歴史学者もいる。
仏教公伝以前の、いわゆる私伝とされる最初の文献で、必ず紹介されるのが、延暦寺の僧・阿闍梨皇円(~1169)が、国史や古史、僧伝縁起などを年代順に編集した扶桑略記の文である。
この国史書において、仏教私伝を記録した部分は、平安時代の朱雀天皇(在位0930~0946)の頃で、やはり比叡山延暦寺の薬恒という人の書いた「法華験記」によっているが、今日、法華験記は現存していない。
ところが、この法華験記も、仏教私伝については、延暦寺の僧禅岑の記を引用しているのである。
ゆえに扶桑略記の文には「日吉山薬恒法師の法華験記に云く、延暦寺の僧禅岑の記に云く、第廿七代継体天皇即位16年壬寅、大唐漢人で鞍部村主の司馬達止、此の年の春二月に入朝、則ち草堂を大和国高市郡坂田原に結ぶ、本尊を安置し、帰依礼拝す、世を挙げて皆云う、是れ大唐の神之、このこと縁起に出ず、隠者此の文を見る、欽明天皇以前に、唐人仏像を持ち来る、しかれども流布せず」とある。
この文中に「縁起に出ず」とあるのは、坂田寺の縁起のことで、この寺は飛鳥寺や豊浦寺などとともに七世紀の中ごろ非常に栄えた寺であるらしい。
したがって、扶桑略記の引用文である法華験記は、禅岑の文を引用し、この禅岑はさらに坂田寺縁起を引用していたことになる。
また、これらの引用文の原典は現存せず、しかも記述された年代が明快ではないので、引用文をめぐってさまざまな論議がなされてきた。
一つは、継体天皇16壬寅(0522)となっているが、仏法公伝を欽明天皇13年壬申(0552)説としているから、これを欽明天皇の七年戊午(0538)の説にもとづいてみれば、継体天皇の時代ではなくなってしまう。また、司馬達止は帰化人ではないという説、扶桑略記の記事は、干支一巡の誤りで敏達天皇の11年の事とする説もある。
一方、この坂田寺縁起は非常に信頼しうるものであって、司馬達止は中国から招かれた工人であり、その子孫が出家したり仏師となったことなどから、信憑性を重んじる説もある。
いずれにしても、こういった文献の在否や、年代の少々の差こそあれ、ともかく、多くの帰化人や民間人を通し、公伝とされた国家の政治外交上の問題とは別に、仏法は、わが国に六世紀の中頃には、渡ってきたことは、ほぼまちがいない事実である。
第三章(崇仏・排仏の争い)
本文
物部の大連・不思議なりとて・いきどをりし程に日本国に大疫病おこりて死せる者・大半に及ぶ・すでに国民尽きぬべかりしかば、物部の大連・隙を得て此の仏を失うべきよし申せしかば勅宣なる、早く他国の仏法を棄つべし云云、物部の大連・御使として仏をば取りて炭をもつてをこし・つちをもつて打ちくだき・仏殿をば火をかけて・やきはらひ僧尼をば・むちをくわう、其の時天に雲なくして大風ふき・雨ふり、内裏天火にやけあがつて大王並に物部の大連・蘇我の臣・三人共に疫病あり・きるがごとく・やくがごとし、大連は終に寿絶えぬ・蘇我と王とは・からくして蘇生す、而れども仏法を用ゆることなくして十九年すぎぬ。
第三十一代の敏達天皇は欽明第二の太子・治十四年なり左右の両臣は一は物部の大連が子にて弓削の守屋・父のあとをついで大連に任ず蘇我の宿禰の子は蘇我の馬子と云云、此の王の御代に聖徳太子生給へり・用明の御子・敏達のをいなり御年二歳の二月・東に向つて無名の指を開いて南無仏と唱へ給へば御舎利・掌にあり、是れ日本国の釈迦念仏の始めなり、太子八歳なりしに八歳の太子云く「西国の聖人・釈迦牟尼仏の遺像末世に之を尊めば則ち禍を銷し・福を蒙る・之を蔑れば則ち災を招き寿を縮む」等云云、大連物部の弓削・宿禰の守屋等いかりて云く「蘇我は勅宣を背きて他国の神を礼す」等云云、又疫病未だ息まず人民すでにたえぬべし、弓削守屋又此れを間奏す云云、勅宣に云く「蘇我の馬子仏法を興行す宜く仏法を卻ぞくべし」等云云、此に守屋中臣の臣勝海大連等両臣と、寺に向つて堂塔を切たうし仏像を・やきやぶり、寺には火をはなち僧尼の袈裟をはぎ笞をもつてせむ・又天皇並に守屋馬子等疫病す、其の言に云く「焼くがごとし・きるがごとし」又瘡をこる・はうそうといふ、馬子歎いて云く「尚三宝を仰がん」と・勅宣に云く「汝独り行え但し余人を断てよ」等云云、馬子欣悦し精舎を造りて三宝を崇めぬ。
天皇は終に八月十五日・崩御云云、此の年は太子は十四なり
現代語訳
物部の大連は「これは意外なことである」といって、憤っていたところ、日本国に大疫病がおこって、死んだものは大半に及んだ。やがて国民が死につくしそうな様子であったので、物部の大連は、この時とばかり、この仏像をなくすべきであることを申したてたところ、「すみやかに、他国の仏法を捨てよ」との勅宣が下された。物部の大連は天皇の命をうけた使いとして、仏像を取り上げて、炭をおこして焼き、槌でうちくだき、仏殿には火をつけて焼きはらい、僧尼にはむちを加えた。
その時、天には雲もないのに、大風がふき、雨がふり、内裏は落雷によって炎上し、天皇ならびに物部の大連、蘇我の臣の三人とも、疫病にかかったのである。その苦しみは、身を切られるごとく、焼かれるようであった。
大連はついに命絶えてしまい、蘇我の臣と天皇とは、ようやくのことで生命を全うし、治った。けれども仏法を用いないままで十九年が過ぎたのである。
第三十一代の敏達天皇は欽明天皇の第二子で、十四年間国を治められた。その左右の大臣は、一人は物部の大連の子で弓削の守屋といい、父の跡をついで大連に任じられた。もう一人は蘇我の宿禰の子で、蘇我の馬子といった。
この天皇の御代に聖徳太子がお生まれになった。太子は、のちの用明天皇の御子であり、敏達天皇の甥であった。御年二歳の二月に東に向かって無名の指を開いて、南無仏と唱えられると釈迦の御舎利が掌にあった。これが日本国の釈迦念仏のはじめである。
聖徳太子が八歳になられたときに、その八歳の太子がいわれるには、「西国の聖人である釈迦牟尼仏の遺像を末世に尊べば、すなわち禍を消し、福を蒙る。またこれを蔑れば、すなわち災を招き、寿命を縮めるであろう」と。
大連物部の弓削・宿禰の守屋等は怒って「蘇我は勅宣に背いて、他国の神を礼拝している」と奏聞した。また疫病はいまだやまず、すでに人民は死に絶えてしまいそうな様相であった。弓削の守屋は、またこれをざん奏した。そこで「蘇我の馬子は仏法を興行礼拝している。この仏法をよろしく退けるべきである」との勅宣が下った。
そこで守屋及び中臣の勝海らの両臣は、寺に向かい、堂塔を切りたおし、仏像を焼きこわし、寺には火を放ち、僧尼のけさをはいで、笞をもって責めた。
この結果、また天皇ならびに物部の守屋、蘇我の馬子らは疫病にかかった。その時の言葉にいわく「身を焼かれるようである。身を切られるようである」と。また、皮膚病がおこった。疱瘡という。馬子は嘆いて「やはり三宝を信奉しましょう」と奏上した。勅宣は「汝一人でうやまえ、ただし、他人のうやまうことは禁ずる」と下った。馬子は大いに悦んで、精舎を造って三宝をうやまったのである。
敏達天皇は、ついに八月十五日に崩御された。この年、聖徳太子は十四歳であった。
語釈
内裏
天皇の住む宮殿。御所。皇居。
天火
①落雷によって起こる火災。雷火。また、自然に起こる火災。②日本各地に伝わる怪火の一種。江戸時代の奇談集『絵本百物語』や、松浦静山の随筆『甲子夜話』などの古典に記述があるほか、各地の民間伝承としても伝わっている。
敏達天皇
(0538~0585)。諡号は渟中倉太珠敷尊という。その在位14年間は、ここに述べられている仏教の問題のほか、朝鮮との外交問題など、多難であった。皇后は、のちの推古天皇。
弓削の守屋
(~0587)。物部守屋のこと。日本に仏教が伝来したのは、第30代欽明天皇の13年(0552)10月、百済国の聖明王が釈迦仏の金銅像と幡葢、経論を献上したのが最初とされる。以後、仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏の間で争いが続き、国内は乱れ災害が続出した。第32代用明天皇の崩御のあと、0587年、物部守屋一族と、聖徳太子および曽我馬子との間に、決戦が行なわれ、太子は守屋を打ち破って、日本の仏教流布を確立したのである。日寛上人の分段には「四条金吾抄三十九を往いて見よ。ある抄にいわく『守屋も権者なり、上宮は救世観世音、守屋は将軍地蔵なり、俱に誓願に依り日本国に生るるなり、守屋最後の時太子唱えて云く“如我昔所願今者已満足”と云云。守屋唱えて云く“化一切衆生皆令入仏道”と云云、権者なること疑いなし』されば開目抄にいわく“聖徳太子と守屋とは蓮華の華菓同時なるがごとし”と云云」とある。
蘇我の馬子
(~0626)古代の中央豪族。稲目の子。蝦夷の父。敏達天皇のとき大臣となり,大連 物部守屋と朝政をとった。崇仏の可否をめぐって守屋らと対立し,諸皇子,諸臣を味方に引入れて,用明2 (587) 年排仏派を殺し,朝廷における地位を確立した。その後,自身の擁立した崇峻天皇を殺して推古天皇を立て,聖徳太子とともに朝政をとった。推古4 (596) 年法興寺を建立して子の徳善を寺司とした。また太子とともに『天皇記』『国記』などを録した。家が飛鳥川のほとりにあり庭中の小池に小島があったことから島大臣ともいわれた。
聖徳太子
(0574~0622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈諸を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。
用明
(~0587)。用明天皇。欽明天皇の第四子で敏達天皇の弟にあたる。名は橘豊日命。0585年に即位。在位中に物部の守屋と蘇我の馬子が対立し、両者の対立が深刻化する中で天皇は疫病にかかり没した。
中臣の臣・勝海
(~0587)。中臣の勝海。敏達天皇十四年、物部の守屋と共に崇仏派を攻撃し、疫病の原因が仏教崇拝にあると天皇に進言し仏教排斥の勅を得た。その後、用明天皇から崇仏の詔が出ると彦人、竹田両皇子の像を祀って仏像を呪ったといわれている。のちに舎人迹見赤檮に殺される。
瘡をこる。はうそうといふ
瘡とは、できもの、はれもののこと。疱瘡は皮膚伝染病の一種で、痘瘡が正称。天然痘のこと。このときの疫病について日本書紀に「瘡を発して」と記されている。
三宝
仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。
精舎
仏道修行者の住居で、一般に僧院、寺院ともいう。パーリ語のアーラーマȧrȧma、サンスクリット語のビハーラvihraの訳。道に精進する僧尼が住む堂舎という意味である。精舎の始まりは王舎城の竹林精舎であり、また須達長者が釈尊に寄進した舎衛城の祇園精舎とともに有名である。
講義
物部氏と蘇我氏の間で、仏教の受容の是非について行なわれた争いを記されている。この問題について、最も重要な役割を担う聖徳太子については、この段階では、まだ幼く、次の段ではじめて主役となる。
この間のいきさつおよび、蘇我・物部・聖徳太子の三者の立場について、明確にしておかなければならないことがある。もちろん、これに欽明・敏達・用明の三帝が加わるが、これらの天皇は端的にいって定見がなく、事のなりゆきによって、どちらへも動く存在であったから、一応、ここでは考える必要はあるまい。
そこで、先の三者についてみると、物部氏は排仏派、蘇我氏は崇仏派ということで、一応の立て分けができるのであるが、それは正しいかどうか。今日、客観的な歴史的分析によって明らかにされているように、この両者の争いは、決して仏教の受容問題が原因で起こったのではなく、もともと当時の政界を二分する敵対勢力であり、その権力闘争の一つの手段として、この仏教問題が絡められたにすぎない。
したがって、蘇我氏の仏教崇重も、本当の意味での崇重ではなく、おそらく崇仏の側に立つことによって、文化的先進国であった朝鮮と結び、文化移入によって自己の優位を決定的なものにしようとしたのであろう。そうした蘇我氏の本質については大聖人も、本抄のなかで暗に示されている。その一つは、前章で、欽明天皇が尋ねたときに蘇我の稲目が「西蕃の諸国みな此れを礼す、とよあきやまとあに独り背かんや」と答えた、というのがそれである。外国がやっているから、受けいれるべきだというのは、いわゆる舶来尊重と付和雷同主義だけで、仏法の偉大さへの理解など微塵もなかったことを示している。
さらに、大聖人は、仏教が受け入れられたあと、蘇我氏は傲りたかぶって自らの身を滅ぼしてしまったことを挙げられている。これも、蘇我氏は、自己の権威を増大するための手段として仏教を使ったという一つの裏づけといえる。このことが、この段にもある、蘇我氏が試みにと仏教の信仰を許されたのに、疫病がなぜ広まったか、そして、その結果、物部派の巻き返しで仏像は破壊され、蘇我氏も物部氏・天皇と同じく病気にかかったのはなぜかという疑問に答えてくれる。
これらに対し、聖徳太子の立場は、はるかにぬきんでた思考に立っている。すなわち、すでに8歳のとき、「釈迦の仏法を尊べば幸せを得、これを蔑れば災を招く」との、仏法の偉大さへの深い覚知に立っていたのである。それは、自らの権力のためではなく、あくまで日本民衆の幸福と、民族の繁栄のために、仏法を尊重する立場であった。太子は仏教の興隆のために、一応、蘇我氏と組んだが、その目的と精神は、蘇我・物部両者のそれとは遥かに異っていたことをしらなければなるまい。
第四章(崇仏派の勝利を示す)
本文
第三十二代・用明天皇の治二年・欽明の太子・聖徳太子の父なり、治二年丁未四月に天皇疫病あり、皇勅して云く「三宝に帰せんと欲す」云云、蘇我の大臣詔に随う可しとて遂に法師を引いて内裏に入る豊国の法師是なり、物部の守屋大連等・大に瞋り横に睨んで云く天皇を厭魅すと終に皇隠れさせ給う・五月に物部の守屋が一族・渋河の家にひきこもり多勢をあつめぬ、太子と馬子と押し寄せてたたかう、五月・六月・七月の間に四箇度・合戦す、三度は太子まけ給ふ第四度めに太子・願を立てて云く「釈迦如来の御舎利の塔を立て四天王寺を建立せん」と・馬子願て云く「百済より渡す所の釈迦仏を寺を立てて崇重すべし」と云云、弓削なのつて云く「此れは我が放つ矢にはあらず我が先祖崇重の府都の大明神の放ち給ふ矢なり」と、此の矢はるかに飛んで太子の鎧に中る、太子なのる「此は我が放つ矢にはあらず四天王の放ち給う矢なり」とて迹見の赤檮と申す舎人に・いさせ給へば矢はるかに飛んで守屋が胸に中りぬ、はたのかはかつをちあひて頸をとる、此の合戦は用明崩御・崇峻未だ位に即き給わざる其の中間なり。
第三十三・崇峻天皇・位につき給う、太子は四天王寺を建立す此れ釈迦如来の御舎利なり、馬子は元興寺と申す寺を建立して百済国よりわたりて候いし教主釈尊を崇重す、今の代に世間第一の不思議は善光寺の阿弥陀如来という誑惑これなり、又釈迦仏にあだを・なせしゆへに三代の天皇・並に物部の一族むなしく・なりしなり又太子・教主釈尊の像・一体つくらせ給いて元興寺に居せしむ今の橘寺の御本尊これなり、此れこそ日本国に釈迦仏つくりしはじめなれ。
現代語訳
第三十二代用明天皇は治世が二年間である。欽明天皇の太子であり、聖徳太子の父である。治世二年丁未四月に、天皇は疫病にかかられた。
皇はついに「三宝に帰依したい」と勅宣された。蘇我の大臣は、詔に随うべきであるとして、ついに法師を内裏に引き入れたのである。これが豊国の法師である。
物部の守屋の大連らは、大いに怒って、反発をまし、「天皇をのろうであろう」と言った。ついに、天皇はおかくれになった。
五月に物部の守屋の一族は、渋河の家にひきこもって、多勢の人を集めた。聖徳太子と馬子が押し寄せて、戦いとなった。五月、六月、七月の間に四回合戦が行なわれた。そのうち三度は、太子側が負けた。
第四回目の合戦のとき、聖徳太子は「釈迦如来の御舎利の塔をたてて、四天王寺を建立しよう」との願をたてた。馬子も「百済より渡ってきたところの釈迦仏を、寺を建てて安置し崇重しよう」と願った。
いよいよ合戦に入って、弓削の守屋は「これは私が放つ矢ではない。私の先祖から崇重している府都の大明神の放たれる矢である」と名のりをあげた。その矢は、はるかにとんで、太子の鎧にあたった。太子も名のり、「これは私が放つ矢ではない。四天王が放ちたもう矢である」と告げて、迹見の赤檮という舎人に射させらせると、矢ははるかに飛んで守屋の胸にあたった。そこで秦の川勝が馳せつけて頸をとった。
この合戦は、用明天皇が崩御されたあと、崇峻天皇が未だ位につかれない、その間のことである。
第三十三代崇峻天皇が位につかれると、聖徳太子は四天王寺を建立した。これは釈迦如来の御舎利を安置したのである。馬子は元興寺という寺を建立して百済国から渡ってきた教主釈尊を尊重したのである。ところが、今の代で世間に第一に不思議なことは善光寺の本尊が阿弥陀如来であるということであり、これは世間をたぶらかすものである。
また、釈迦仏に仇をなした故に、三代の天皇並びに物部一族は滅んだのである。また太子は教主釈尊の像を一体造られて元興寺に安置させた。今の橘寺の本尊がこれである。これこそ日本国で釈迦仏を造ったはじめである。
語釈
豊国の法師
百済の国から帰化した僧。生没年不詳。豊前、豊後の地方(大分県及び福岡県の一部)に仏教を弘めたので、豊国法師の名がある。後に聖徳太子が摂津国(大阪府)駒ケ嶽に中山寺を開いて、豊国法師を請じた。
厭魅
まじないで、のろい殺すこと。
渋河の家
大阪府東大阪市渋川のあたりにあった物部守屋の居館。この地で崇仏派の聖徳太子と廃仏派の物部守屋が戦っている。
四天王寺
天王寺、荒陵寺ともいう。聖徳太子の建立した寺で元興寺とともに日本最古の寺院。物部の守屋が亡んだ翌8月、崇峻天皇が即位し、聖徳太子は、難波玉造の岸の上の地を選んで四天王護国の寺を創立した。この時馬子は、物部氏の類族273人を寺の奴婢とし、荘園136,890代を寺領として寄進したといわれる。推古天皇の元年に、荒陵の地に移したが、中門、塔、金堂、講堂を南北に一直線にならべてあるので、この様式を四天王寺式と呼ぶ。初めは八宗兼学の道場であったが、後に天台宗に属するようになった。戦後は単立寺院となっている。
府都の大明神
物部氏の氏神で、奈良県天理市布留町にある石上神宮の祭神・布都御魂大神のこと。神体は、神武天皇が物部氏の祖である饒速日命の子・宇摩志麻遅命に与えた神剣であると伝えられる。
迹見の赤檮
聖徳太子の勇猛な従臣。生没年不詳。舎人とは天皇や皇族に近侍し雑事等に従った官人。蘇我の馬子の下にいた官人でもあった。用明天皇二年、崇仏論争の後、物部の守屋と同じく排仏派の中心人物であった中臣の勝海を殺し、さらに馬子に従って物部の守屋をも討滅している。
はだのかはかつ
秦河勝。生没年不詳。山城(京都府)の葛野の秦氏の出身である。推古朝から大化のころにかけて朝廷に仕えたらしく、聖徳太子の信任を得た。太子没後、太子を偲んで山城国葛野郡太秦の蜂岡(京都市右京区太秦)に蜂岡寺を建立した。
崇峻
(~0592)。泊瀬部天皇、長谷部若雀天皇ともいう。欽明天皇の第十二皇子。母は蘇我稲目の女の小姉君。崇仏派の蘇我馬子の後見で用明天皇2年(0587)8月に即位した。だが物部氏の失脚で蘇我氏が強大な勢力を築き横暴になったので、天皇はこれを除こうとしたが、崇峻天皇5年(0592)11月、逆に馬子の臣東漢直駒によって暗殺された。
御舎利
舎利は梵語(śarīra)没利羅・室利羅・実利ともいう。漢訳すると身骨・骨分の意。仏教上、とくに戒定慧を修して成った堅固な身骨のことをいう。この舎利に二種がある。生身の舎利と法身の舎利とである。生身の舎利にはさらに全身の舎利と砕身の舎利があり、多宝の塔のごときは、全身の舎利を収めたことを意味している。釈尊の舎利でも、これを各地に分けてしまえば砕身の舎利になってしまう。次に法身の舎利とは仏の説いた経巻のこと。これまた全身と砕身にわかれる。すなわち法華経は全身の舎利であり、その他の経典は砕身の舎利である。法華経を全身の舎利とすることは、法華経法師品に「薬王、在在処処に、若しは説き、若しは読み、若しは誦し、若しは書き、若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾ならむべし、復、舎利を安んずることを須いず、所以は何ん。此の中には已に如来の全身有す」とある。末法御本仏、日蓮大聖人に約せば、大御本尊こそ大聖人の全生命、全身法身の舎利である。
元興寺
奈良市にある華厳宗の寺院。飛鳥寺のこと。南都七大寺のひとつ。曽我馬子の発願によって飛鳥の地に建立された。
善光寺
長野市にある。宗旨は天台宗、浄土宗に両属す。善光寺縁起には欽明天皇の時、百済の聖明王より朝廷に献上された阿弥陀一光三尊が物部氏などによって何度か捨てられたり、また安置されたりしたが、0560年ごろ信濃国の本田善光によって長野の地に移されたと記されている。だが、欽明天皇の13年に聖明王から献上された像は、阿弥陀如来ではなく釈迦像であったのに、阿弥陀仏と名を変えて世間を惑わしているので、大聖人はこれを破折されているのである。
橘寺
奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺院。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。
講義
これまで天皇は、崇仏とも拝仏ともどちらともつかず、蘇我・物部両氏の抗争のなかでどちらへでも動く存在であった。というよりせいぜい許しても、蘇我氏が単独で仏法を信仰するのは認めるという程度であったから、むしろ排仏的であった。しかるに用明天皇が自身の病のために仏法を自ら受け入れ、さらにその後、聖徳太子が長じて力をもつに及んで、朝廷の主流は崇仏に傾いたのである。
すでに述べたように、聖徳太子の仏教への信仰に立った崇仏と、蘇我氏の政治主義に立った崇仏とは、はるかにその基盤を異にするものであった。だが、排仏派の物部氏と対抗するため、太子は蘇我氏と組み、この結果によって、遂に崇仏派が勝利を収めることができたのである。
このことからも、いわゆる排仏派が、あなどりがたい勢力をもっていたことがうかがわれる。おそらく、皇族のなかにも、古くからの有力な貴族や豪族たちも、まだ仏教というものがどのような教えかは知る由もなかったし、古来の神々への信仰は根強いものがあったに違いない。そして、古来の神への畏れから、外来の新しい宗教を受け入れることには、心中、激しい抵抗があったことは、容易に想像されるところである。
ところで、このような仏教の受容に関してはっきりしておかなければならないことは、仏教を受容したからといって、決して古来の神を祀ることが廃止されたのではない、という点である。仏教自体、そのような排他的な教えではなかったし、古来の神々をその体系のなかに包摂する裕りをもっていた。ちょうど、インドの場合、梵天・帝釈等の民族神が仏教の守護神と位置づけられたように、日本の天神・地祇も、守護神として受け入れられ、神を尊崇する素朴な心情は、仏教を信仰した場合にも、そのまま継承されていったのである。
また、天皇自ら、仏教を信仰したということ、さらにさかのぼって、仏教の受容問題について決断を迫られたということは、当時、天皇が決して自ら神格化された存在ではなかったことを示している。天皇自身の神格化はむしろ後世になってからのことで、もし当時天皇が現人神であったとすれば、天皇が外来の宗教を信ずるか否かなどということは、問題にもなりえなかったであろう。当時の天皇は、もっともっと人間的な存在であったといえるのではないだろうか。
第五章(漢土への仏法渡来)
本文
漢土には後漢の第二の明帝・永平七年に金神の夢を見て博士蔡愔・王遵等の十八人を月氏につかはして仏法を尋ねさせ給いしかば・中天竺の聖人摩騰迦・竺法蘭と申せし二人の聖人を同永平十年丁卯の歳迎へ取りて崇重ありしかば、漢土にて本より皇の御いのりせし儒家・道家の人人数千人此の事をそねみて・うつたへしかば、同永平十四年正月十五日に召し合せられしかば漢土の道士悦びをなして唐土の神・百霊を本尊としてありき、二人の聖人は仏の御舎利と釈迦仏の画像と五部の経を本尊と恃怙み給う、道士は本より王の前にして習いたりし仙経・三墳・五典・二聖・三王の書を薪に・つみこめて・やきしかば古はやけざりしが・はいとなりぬ、先には水にうかびしが水に沈みぬ、鬼神を呼しも来らず、あまりのはづかしさに褚善信・費叔才なんど申せし道士等はおもい死にししぬ、二人の聖人の説法ありしかば舎利は天に登りて光を放ちて日輪みゆる事なし、画像の釈迦仏は眉間より光を放ち給う、呂慧通等の六百余人の道士は帰伏して出家す、三十日が間に十寺立ちぬ、
現代語訳
漢土では後漢の第二の明帝が、永平七年に金神の夢を見て、博士蔡愔・王遵等の十八人を月氏に派遣して、仏法を求めさせたところ、中天竺の聖人摩騰迦・竺法蘭という二人の聖人を同じく永平十年丁卯の歳に迎えることができて崇重したのである。
すると、漢土で昔から皇室の祭祀をしていた儒家、道家の人人数千人が、この事を嫉んで訴えたので、同永平十四年正月十五日に、双方を召し合わせて、勝劣を決することとなった。
漢土の道士は喜んで、唐土の神、百霊を本尊とし、一方、摩謄迦・竺法蘭の二人の聖人は仏の御舎利と釈迦仏の画像と五部の経を本尊となし、その力を頼りとした。
漢土の道士は、昔から王の前で行なってきた習わしどおり、仙経・三墳・五典・二聖・三王の書を薪と一緒に積んで焼いたところ、仏法渡来以前は焼けなかった書が、この度はことごとく灰となってしまった。また以前には水に浮かんだものが、今は水に沈んでしまった。鬼神を呼んでも、それも来ず、あまりの恥ずかしさに褚善信・費叔などという道士は思い悩んで死んでしまった。
一方、仏教の二人の聖人が説法をすると、仏舎利は天に登って光を放って、日の光すらみえないありさまであった。そして画像の釈迦仏は眉間から光を放たれたのである。
呂慧通等の六百余人の道士は、その場で仏法に帰伏して出家し、三十日の間に十箇寺が建立された。
語釈
後漢の第二の明帝
(0028~0085)後漢第一代光武帝の第四子、顕宗孝明皇帝をいう。内治外征に力を尽くし、班超を西域につかわして鎮撫し国威を宣揚した。仏祖統記には明帝7年(0064)に、帝が丈六の金人が庭の上を飛行するのを夢に見て醒めて群臣に問うたが、誰も答えられなかった。その時、太史傅毅が進み出て、周の昭王の時代に西方に聖人が出現し、その名を仏というと聞いていると申し上げた。そこで帝は、中郎将の蔡?、秦景、博士の王遵ら18人を西域に遣わし、それを求めさせたとある。また、金湯編には、これらの18人が天竺の隣の月氏国に行ったとき、摩謄と竺法蘭に会い、仏像ならびに梵語の経典60万言を得、それを白馬にのせて、摩謄と竺法蘭も連れて洛陽に帰った。帝はおおいに喜び、摩謄をまず鴻臚寺に迎え、ついで洛陽の西に白馬寺を建てたという。
博士蔡愔
博士は学識博通人をいう。 明帝のとき、郎中に任ぜられ、秦景らとともに仏法を求めて西域におもむいた。天竺にいたって摂摩騰・竺法蘭のふたりの高僧に出会い、同道して帰国した。このとき、仏教がはじめて中国に入ったともいう。
王遵
新代から後漢初期にかけての政治家、武将。字は子春。司隷京兆尹覇陵県の人。父は上郡太守で、諱は不詳。
摩騰迦
迦葉摩騰、摂摩騰ともいう。中天竺の人で、よく大・小乗経を解した。西インドにいったころ、一小国王のために金光明経を講じて敵国の侵害を防ぎ、大いに名をあらわしたといわれている。後漢の明帝の請をうけ、竺法蘭と共に中国に入ってからは四十二章経などの翻訳をし、また、洛陽に特に建立された白馬寺で中国仏教開宣の端をひらいた。
竺法蘭
中天竺の僧で後漢の明帝の請をうけ、竺謄迦と共に中国に入って仏法を伝えた。
儒家
儒者・儒者の家。
道家
老子,荘子を代表とする諸子百家の一つ。『漢書』芸文志には道家者流 37家を載せる。儒家や墨家における人為性を排し,宇宙の根源的存在としての「道」にのっとった無為自然の清浄な行いを重視する思想。老子は,これを小国寡民的原始社会への復帰という形で,一種の政治的提言として主張したが,荘子においては,それは現実の相対世界を超越した絶対自由の境地として,きわめて個人主義的かつ逃避的な性格をもつものとなっている。漢の初期には,秦の苛政の反動からこの思想は一時非常に尊ばれた。のち,道家思想は神仙の術と結びついて道教を成立させ,また六朝以後は,知識人の観念的逃避の理論 (慰めの哲学) としても強い影響力をもった。
道士
①道教を修めてその道に練達した者。②神仙の術を行う者。③仏道を修業する者。
五部の経
十地断結・仏本生・法海蔵・仏本行・四十二章のこと。
仙経
道教の経典のこと。
三墳
孔子が編した五経のひとつ、書経の序に、三皇の書をまとめたもの。
五典
孔子が編した五経のひとつ、書経の序に、五帝の書をまとめたもの。
二聖
五帝の中で、とくに堯・舜の二帝をさして二聖といっている。
三王
中国古代、夏の禹王、殷の湯王、周の文王の三王をいう。異説には周王を武王ととるものがある。三王とも善政を施したことで特に尊敬を集めた。
褚善信・費叔才
いずれも詳細不明
呂慧通
後漢時代の道士。仏教と道教の対決の際の代表であったが、仏教に信伏し、600余人の道士を引き連れて出家得度し、わずか1ヵ月の間に10寺を建立し仏教の布教を行ったといわれている。
講義
本章では、漢土すなわち中国に仏教が渡来した由来及び、どのようにして儒教道教の国である中国の中に仏法が広まっていったかについて述べられている。
そこで、中国への仏教伝来について少し述べておく。
中国への仏教伝来について
中国に仏教が伝えられた年代については、文献によっていくつかの説がある。
古くは、周代すなわち西周の5代穆王(BC1000年頃)、すでに仏教が伝えられ、王が寺を建立して仏像を造ったというのがある。また東周の26年(BC0745)に、阿育大王が仏塔建立を行なった時、中国にも仏塔を造立したという説もある。
次に、秦の始皇帝の4年(前0243)に、西域の沙門が仏教を伝えたとの説、前漢の武帝が元狩2年(前0121)に匈奴を討ったが、匈奴の王が祭っていた金人すなわち仏像を武帝に奉ったところ、武帝が朝夕礼拝した。これが仏教の伝来であるとの説もある。この武帝より約40年後の成帝の時、宮廷から仏経典がみつかったとの説もある。さらに、哀帝の元寿元年(前0002)に大月氏王の使者より、経典を口授されたという説もある。
本抄に述べられているのは、永平10年(0067)明帝が金人の夢をみて、蔡愔ら18人を西域に派遣し、迦葉摩騰、竺法蘭の二僧とともに、経典をもって帰ったところ、明帝は大いに喜んで、洛陽に白馬寺を建立して二僧を住わせ、経典の訳出をさせたという説である。
これら数百年のへだたりをもった種々の伝来説に対して、その文献の真実性、時代背景からの考察が、古くからなされてきたが、今日では前漢の哀帝元寿元年の説が、かなり有力な裏付けのある説とされている。
ところで、どうしてこのように、数百年にも渡る仏教伝来の説があるかというと次の二つの理由が考えられる。
東洋に生れた古代文化を代表するのはインド文化と中国文化である。この二つの文化は、地理的にほとんど人類の生活を拒否し、また古代人に交通の道をあたえなかった巨大な山脈や高原、また砂漠や海洋によって遮断されていたので、久しく交流がなく孤立状態にあったとえる。
だが、そうした段階においても、東西文化のきわめて細い交流は、おそらくは両方の為政者の知らないところで、かなり古くから行なわれていたことが認められている。
インドの仏教は紀元前3世紀にマウリヤ王朝の阿育大王が出現し、その仏教外護によって、ほとんど全インドにわたって人々の帰依するところとなったばかりでなく、西北インドから国境を越えギリシア植民地国家にまで伝播していった。
こうして西域諸国が仏教の中心として栄えた頃、西紀前2世紀末になって、長い間の内乱がおさまった中国が急速に対外拡張を行なうようになり、ここに中央アジア横断の東西交通路が花やかに歴史の舞台に登場したのである。すなわち、前漢の武帝が匈奴を討つために、はるか西方の月氏と結ぼうとして使者を派遣した。この張騫の遠征を皮切りに以後、中国と西域の間に政治上、貿易上の交渉が頻繁となり、東西文化交流の歴史が始まったのである。
したがって仏教は、この東西交流開幕の当初からこうしたルートを通して、次第に中国に浸透していったと考えられる。否、武帝が匈奴を挟撃にするために西方の月氏国と結ぼうとしたことは、そもそも以前から月氏の存在が知られていた故であり、なんらかの交渉がそこにあり、仏教が伝えられていた可能性もないとはいえない。そのような東西文化の媒介役は、貿易商人いわゆる隊商であったろうが、中国には、このような隊商による仏教伝播に関する記録は全く残っていない。年次を決定することの困難さはここにあるといえよう。以上が第一の理由である。
二つ目の理由は、中国に伝わった仏教と、中国に古くからあった、土着信仰ともいうべき道教との抗争が史料の混乱を招いたことがあげられる。両者の勢力が強大になるにつれて、その優劣論争が展開され、仏教側は伝来の古いことをもって優位に立とうとして、流入の時を漢代からさかのぼって秦代に、さらにはもっと古く周代にまで求める説が出現したのである。
ところで、これらの諸説の信憑性についていうと、周代の説については、全く証明されるものがないから、今日では、ほとんど認められていない。次に秦の始皇帝四年の西域沙門の伝来説については、その出拠が「朱子行経録」などという、存在したかどうかさえ疑問とされている書物なので、事実の確定ができない。
また、前漢の武帝の金人礼拝説も、匈奴の王が祭っていた金人を武帝に奉ったという史実はまちがいないが、その金人が仏像といえる根拠はなく、匈奴における一つの民俗神であろうともいわれている。
また、成帝の時、宮廷から仏典がみつかったという説も、あまり信じられない。
次に、従来一般常識化した定説となっていたのが、本抄にもある永平10年(0067)伝来説である。
この説は、近年諸学者の研究によって、史実を伝えるものではなく、仏教伝来の説話にすぎないと考えられるようになった。たとえば、現存する迦葉摩騰・竺法蘭共訳の四十二章経についても、訳者、その年代など異論が多く、東晋以後の抄出であろうという説や、あるいは初期の外国宣教師によって説かれた仏教の要鋼や仏伝などが、仏教に関心をよせていた中国人によって筆録されたものが、四十二章経の原型であろうという説もある。あるいは迦葉摩騰や竺法蘭という二沙門についての存在や年代についても諸説があり、白馬寺宣伝のための縁起説だろうという学者もある。ともかく、明帝の漢朝と西域諸国との公の親和交流が当時断絶していた史実からみても、この明帝感夢求法説が史実でないことだけは、明確となっている。
だが、仏教が中国として初めて盛んになった東晋時代(0318~0385)には、すでに南北の仏教界では明帝の求法説は仏教初伝の史実として公に認めるところとなっていたし、その後、南北朝時代(0386~0580)には、仏教初伝の史実として広く全てに容認されていたのである。
こうした説話の誕生したことから考えてみて、明帝の時代には、すでに西域からの渡来僧もあったのではないか、そして、これより早く、すでに仏教はかなり古代中国社会に広がっていたのではないかということが考えられる。このことは、前漢の哀帝の元寿元年(前0002)説が現在学会でも最も妥当な説とされていることと関連している。
この説は「魏略」の一文に、前漢の末哀帝の元寿元年に博士弟子景盧が大月氏王の使者伊存から、浮屠経を口授されたということが記録されていることである。「魏略」というのは、陳寿の「三国志」中の「魏志」西戎伝の中にあるもので、魏人魚豢の記録になるものである。史料としての信憑性も高く、仏教伝来に関する最も古い資料として、高い評価を有している。
以上のごとく、中国仏教の伝来は、今日では紀元前二年の前漢の哀帝の時に始まるとされているが、これはあくまでも文献の上のことであって、この時をもって、仏教が初めて伝来されたというのではない。
文化の伝来については、画然と年次やルートを定めて論ずることはむずかしい。あくまで自然のうちにもたらされるのであって、文献上に現われた時は、かなり時日を経た場合が多いといえよう。
なお大聖人が明帝の求法説を採用されたのは、当時の漢土の仏教伝来説として、最有力な定説であったがゆえである。
第六章(仏法は賞罰正しいことを説く)
本文
されば釈迦仏は賞罰ただしき仏なり、上に挙ぐる三代の帝・並に二人の臣下・釈迦如来の敵とならせ給いて今生は空く後生は悪道に堕ちぬ。
今の代も又これに・かはるべからず、漢土の道士・信費等・日本の守屋等は漢土・日本の大小の神祇を信用して教主釈尊の御敵となりしかば神は仏に随い奉り行者は皆ほろびぬ、今の代も此くの如く上に挙ぐる所の百済国の仏は教主釈尊なり、名を阿弥陀仏と云つて日本国をたぼらかして釈尊を他仏にかへたり、神と仏と仏と仏との差別こそあれども釈尊をすつる心はただ一なり、されば今の代の滅せん事又疑いなかるべし、是は未だ申さざる法門なり秘す可し秘す可し、又吾一門の人人の中にも信心も・うすく日蓮が申す事を背き給はば蘇我が如くなるべし、其の故は仏法日本に立ちし事は蘇我の宿禰と馬子との父子二人の故ぞかし、釈迦如来の出世の時の梵王・帝釈の如くにてこそあらましなれども、物部と守屋とを失いし故に只一門になりて位もあがり国をも知行し一門も繁昌せし故に高挙をなして崇峻天皇を失いたてまつり王子を多く殺し結句は太子の御子二十三人を馬子がまご入鹿の臣下失ひまいらせし故に、皇極天皇は中臣の鎌子が計いとして教主釈尊を造り奉りてあながちに申せしかば入鹿の臣並に父等の一族一時に滅びぬ。
此をもつて御推察あるべし、又我が此の一門の中にも申しとをらせ給はざらん人人は・かへりて失あるべし、日蓮をうらみさせ給うな少輔房・能登房等を御覧あるべし、
現代語訳
このように、釈迦仏は賞罰が正しい仏である。前にあげた三代の天皇と二人の臣下は、釈迦如来の敵となったので、今生には命を捨て、後生には悪道に堕ちたのである。
現代にあってもこれと変るところがない。漢土の道士・褚善信、費叔才等、また日本の守屋等は、それぞれ漢土・日本の大小の神祇を信じ用いて、教主釈尊の御敵となったので、神は仏に随って、そのため行者は皆亡んだのである。
今の時代も、それと同様である。前にあげた、百済国伝来の仏は教主釈尊である。しかるにその名を阿弥陀仏だといって、日本国をたぼらかし、釈尊を他仏にすりかえたのである。
かつて仏法渡来の時は神と釈迦仏、今の鎌倉時代は阿弥陀仏と釈迦仏と、そのちがいこそあっても、釈尊を捨てる心は同じである。それゆえ、今の代が滅びることもまた疑いないのである。
これは今までに申したことのない大事な法門である。深く秘していくべきである。
また別しては、吾が一門の中の人であっても、信心がうすく、日蓮の申したことに背いたならば、蘇我一門のようになるであろう。
その理由は、仏法が日本に受け入れられたのは、蘇我の宿禰と馬子との父子二人がいたからであった。仏法を守護したのであるから、釈迦如来の出世の時の梵王・帝釈のような立場となるはずであった。だが、蘇我氏は、物部の尾輿や、その子の守屋を滅ぼしてしまったために、大きな勢力をもった朝臣はただ蘇我一門だけになり、位も上がり、国をも知行し、一門も繁盛したため、おごりたかぶった心を起こして、ついには崇峻天皇を殺し、王子を多く殺し、結局は、聖徳太子の御子二十三人を、馬子の孫にあたる入鹿の臣下が殺してしまったのである。
そこで皇極天皇は中臣の鎌子の計いで、教主釈尊を造って、逆臣の亡びることを強盛に祈って討伐したので、入鹿の臣ならびに、その父等の一族は一時に皆滅びてしまったのである。
この蘇我氏の興亡の例を以って推察しなさい。
また我が一門のなかでも、信仰が浅薄で信心を貫き通せない人々は、かえって仏の罰を蒙るのである。その時になって日蓮をうらむことがあってはならない。少輔房・能登房、門下で退転した人々の姿を御覧なさい。
語釈
信・費
褚善信と費叔才のこと。
高拳
おごりたかぶること。
入鹿
(~0645)。蘇我の入鹿のこと。蘇我の蝦夷の子で生年不明。帰朝した僧旻について学び、皇極天皇のときに、父に代わって政治を執ったが、その暴虐ぶりは、父の蝦夷すら慨嘆するほどであった。皇極天皇の2年(0643)、かねてから入鹿の専横ぶりをこころよく思っていなかった山背大兄皇子を斑鳩宮に襲い、自殺させた。皇極天皇の4年(0645)6月、ひそかに打倒入鹿の計画をめぐらしていた中大兄皇子、中臣鎌子らによって、大極殿で朝鮮からの貢ぎ物を奉る儀式の最中に斬り殺された。父蝦夷も自宅で自殺し、ここに蘇我氏は滅亡した。
皇極天皇
(0594~0661)。第35代天皇。女帝。在位0642~0645。敏達天皇の孫の茅渟王の王女で、舒明天皇の皇后。天智・天武両天皇の母。舒明天皇の死後、即位。皇居は小墾田宮。のち、飛鳥板蓋宮に移した。大化元年(0645)弟の孝徳天皇に譲位し、その没後、重祚して斉明天皇となった。
中臣の鎌子
のちの藤原鎌足(0614~0669)のこと。内大臣、大織冠となる。法興寺の蹴鞠会で舒明天皇の皇子中大兄皇子と君臣水魚の誓いをし、蘇我氏を、皇極天皇の4年(0645)6月、三韓上表のときに宮中の大極殿において葬る。そののち、孝徳天皇、斉明天皇、天智天皇の三代に仕え、国政を担当し、大化改新を推進した。また大津京の遷都、近江令の制定等の重責を果たし、律令体制の基盤を築くなど国政を刷新した。また藤原朝臣の姓を賜わり、平安時代に栄華を極めた藤原氏の祖でもある。
少輔房
はじめ日蓮大聖人に帰依しながら退転した僧。平左衛門尉頼綱に仕え、大聖人を鎌倉・松葉ヶ谷の草庵に襲い、法華経第五の巻で大聖人の頭を打った僧でもある。「聖人御難事」、「弁殿御消息」、「法門申さるべき様の事」、「上野殿御返事」等にも退転した少輔房のことが書かれてある。
能登房
文応元年(1260)7月、松葉ヶ谷の法難においては「御弟子能登公並に檀那進士太郎疵を蒙る云々」と日蓮聖人年譜にあるように、傷を負いつ、大聖人を守護しようとした。しかし、後に退転し大聖人にも敵対するようになった。「弁殿御消息」(1225)に「のと房はげんに身かたで候しが・世間のをそろしさと申し・よくと申し・日蓮をすつるのみならず・かたきとなり候ぬ、せう房もかくの如し」とある。
講義
中国と日本との、仏教伝来の時にみられた仏法と王法および土着信仰との抗争の例から、仏法に敵対した人々が必ず身を滅ぼしてゆくことを教えられている。
仏法は生命自体の法を説き明かしたものである故に、社会体制の法にすぎない王法や土俗信仰よりもはるかに力があり、しかも、これから免れることはできないのである。
釈迦仏は賞罰ただしき仏なり
冒頭の「仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」との文に矛盾するようであるが、勝負の結果としてあらわれるのは、この現実の人生・社会においてであり、仏は精神の世界からの指導者であり王であるとの立場から、賞罰という概念を釈尊に付されたのであろう。
この賞罰が正しいということは、賞を受けるにふさわしい人が賞せられ、罰をこうむるにふさわしい人が罰せられるということである。それは、王法におけるような、手本とか見せしめとしての賞罰ではなく、人々がその精神と行動の結果として、もらさず受けていくものなのである。したがって、ここで「釈迦仏」とあるのは、一応、〝人〟としての仏の名をあげられているが、〝法〟の力を讃えているのである。
又吾が一門の人人の中にも、信心もうすく日蓮が申す事を背き給はば蘇我が如くなるべし
蘇我氏は、崇仏派の中心として、一貫して仏教を支持し、わが国における仏教の受容に大きい役割を果たした氏族である。しかしながら、その本質は、すでに述べたように、信心ではなく、己れの権勢以外のなにものでもなかった。仏教の〝一門〟でありながら、信心はうすく、しかも、仏教の精神とかけはなれた、増上慢を示していったのである。すなわち、崇峻天皇とその王子たち、聖徳太子の子たちを殺したのが、この思いあがりのあらわれである。
おそらく蘇我氏の心中には、物部氏という長年の対抗者を滅ぼして権力を一手におさめたうえ、仏教に対しても、自分が日本への伝来と興隆を可能にしてやったのだという自負があったに違いない。この仏教に対する傲慢が恐れを知らぬ権勢欲となり、天皇、皇族であっても意に従わない者は殺すという暴虐となってあらわれたのであろう。根本は、仏教に対する慢心が禍いの因であったことを知らなければならない。
社会的立場や名声がどうであろうと、仏教のためになした功績がいかほどであろうと、宇宙大の仏法からみれば、一国における興隆や、ひいては地球における弘教すら、芥子粒のようなものであって、仏法に対して自己の優越を主張できるような人間は、ありえないというべきであろう。
又我が此の一門の中にも申しとをらせ給はざらん人人は、かへりて失あるべし云云
これは先の蘇我氏の例と別種で、先の例が形だけは一門でありながら信心うすく大聖人に背いた人であるのに対し、これは一旦は信じながら退転した人のことである。
信心において大切なことは、生涯、最後まで貫き通すことである。ある時期まで信じ、それなりに功を積んだとしても、退転してしまったならば「かへりて失あるべし」となるのである。「かへりて」とは、最初から信じないで敵対した物部氏のような例より、また形だけ仏教のもとにありながら信心のない蘇我氏のような例よりも、さらに深い、恐るべき苦しみを受けていくということである。
第七章(仏法は道理が必ず勝つことを示す)
本文
かまへて・かまへて此の間はよの事なりとも御起請かかせ給うべからず・火は・をびただしき様なれども暫くあればしめる・水はのろき様なれども左右なく失いがたし、御辺は腹あしき人なれば火の燃るがごとし一定・人にすかされなん、又主のうらうらと言和かにすかさせ給うならば火に水をかけたる様に御わたりありぬと覚ゆ、きたはぬ・かねは・さかんなる火に入るればとくとけ候、冰をゆに入るがごとし、剣なんどは大火に入るれども暫くはとけず是きたへる故なり、まへにかう申すはきたうなるべし、仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なりいかに・いとをし・はなれじと思うめなれども死しぬれば・かひなし・いかに所領を・をししと・をぼすとも死しては他人の物、すでに・さかへて年久し・すこしも惜む事なかれ、
現代語訳
充分に用心して、当分、たとえ他の事であっても、御起請を書くようなことがあってはならない。
火の勢いは、ものすごいようであっても、しばらくすれば消える。水はのろいようであっても、その流れは簡単にはなくならない。あなたは短気であるから、火の燃えるようなところがある。必ず人に足をすくわれるであろう。また、主君がのどかに、言葉やわらかにいいくるめようとするならば、火に水をかけたように、主君に説き伏せられてしまうだろうと思われる。
鍛えていない鉄は、燃えさかる火の中に入れればすぐにとけてしまう。氷を湯の中に入れるようなものである。剣などは大火に入れても、しばらくはとけない。これは鍛えられているからである。
あなたに事前に、こう申すのは、あなたを鍛えるためである。仏法というのは道理をもととするものである。道理というものは主君のもつ権力にも必ず勝つのである。いかに愛おしい、離れまいと思う妻であっても、死んでしまえばどうしようもない。また、いかに所領を惜しいと思っても、死ねば他人のものとなってしまう。
あなたは所領をいただき、すでに栄えて年久しいことである。少しも所領など惜しむ心があってはならない。
語釈
御起請
今でいう誓約書。この場合、頼基は主君江馬氏から怒りをかい信仰を捨てる旨の起請文を書くようにいわれていた。
腹あしき
怒りっぽい、短気であるとの意。
講義
これまで、仏教の中国と日本への伝来の歴史を通して、仏教が必ず王法に勝つことを示されたのであるが、この段では、四条金吾自身の性格を踏まえて、いま金吾が直面している問題にどのような態度で臨むべきかを教えられている。
「御辺は腹あしき人なれば」といわれているように、四条金吾は直情径行で、思ったことをすぐに出す性格だったようである。そのため人に足元をすくわれる恐れが多分にあったのであろう。また「主のうらうらと云々」とあるように、情にもろく、柔らかく出られると簡単に同情してしまうところがあったに違いない。
この点が大聖人としてもっとも心配しておられたようで、これをまとめて、火と水の譬えをもって、どちらかというと火のように熱しやすくさめやすい金吾に対し、懇切に指導されている。苦境にあって必死の戦いをしている同志に対し、たんなる仏法の原理からの一方的指導にとどまるものでなく、相手の心の隅まで知り尽くし、相手の身になって共に考え、共に進んでおられる大聖人の姿勢が如実にうかがわれる一段である。
きたはぬかねは、さかんなる火に入るればとくとけ候……まへにかう申すはきたうなるべし
真実に鍛えられた人は、いざ苦難にあったときに、その強さを発揮する。鍛えられていない人は、苦難にあって敗れていくのである。では「きたえる」とは何か。もちろん総体的な観点からいえば、肉体が、強健であることも大事である。しかし、それは補助的な条件であって、主体は精神の強健さである。
精神の強健さとは、自立の精神である。なぜなら、この四条金吾の場合もそうであるように、信仰を貫くか否かの試練に立たされたとき、頼りとするのは自己以外にない。他人ができることは励ましだけなのである。社会の中にあってもそうであるように、より根本的に、人生にあってもまた然りである。この、自主自立のうえで、自己の信念を曲げず貫いていくこと――これが人生の試練といってよい。したがって、「鍛える」とは、まず何よりも、他人に頼る心を捨て、自己の主体性、責任性に立って、いかなる苦難ものりこえる強い意志と信念を養い育てることである。
また、自己の弱さ、特質をよく知り、起こりうる事態をあらかじめ知り、その時になっていかにすべきかを、心の中に準備しておくことも勝利のための不可欠の要因であろう。大聖人が、ここに四条金吾の性格等を指摘し、そのうえで、対処の仕方を指摘されているのは、まさに、この意味での「鍛える」ためなのである。
仏法と申すは道理なり。道理と申すは主に勝つ物なり
道理とは、人間としての道理、人間の正しい生き方ということである。仏法は、この人間としての道理を教え、また、その道理を裏づける生命の哲理を究めたものである。したがって、人間としての道理をはずれた考え方は仏法にかなっているとはいえないことを知らなければならない。
古来、宗教の堕落をもたらしたのは、宗教の権威をカサに着た指導者の、道理を無視した横暴であったといって過言ではない。自己に特別の宗教的権威が付与されていると錯覚し、自己の欲望や気まぐれ、ときには妄想をさえ押し通すことが許されていると思い込んで、他の人々を抑圧し、踏みにじり、犠牲に供していく。
他人の人間としての尊厳に対する蹂躙は、非道の典型といえる。そうした非道が、宗教の場合、その神秘主義のヴェールに守られて堂々とまかり通ってきたのである。それが、あらゆる宗教改革をよびおこした原因であり、広くいえば、民衆の心が宗教から離反してきた根本要因であった。仏法は、どこまでも道理を重んじ、非道を排するのである。
また、主というのは〝権力〟である。権力は、人間を支配し、人間を手段化するメカニズムを、それ自体の本性として持っている。その権力がいかに強大であろうと、人間の道理を無視した場合には、所詮、道理の前に敗れ去らずにはいない。なぜなら、権力といい政治といっても、人間を母体とし、人間の生命の発動の一分野にすぎないからである。
いかにいとをし、はなれじと思うめなれども、死しぬればかひなし
妻に対する愛着、所領つまり財産に対する執着も、信心を貫くかどうかという瀬戸際に立ったときには、毅然としてのりこえていきなさいとの厳しい御文である。
これらは、いずれも今世限りのものであり、死後には何の益もない。死に直面するときは己れ一人であり、ただ自身の内に秘めた信念だけが勇気と力の支えである。
ただし、仏法を社会に、この人生に実証するうえにおいては、幸福な家庭生活いわゆる一家和楽の建設と、物質的な裏づけを無視できるものではない。自身が信心を貫くかどうかという場合と、仏法の功力を社会に実証するかどうかという場合とでは、おのずから異なるのであり、一人の社会人として仏法を生活の上に実証しなければならないときに、家族も財産も顧みないということは、信仰を観念化し、幻の世界に遊んでいるようなものであることを知るべきであろう。
第八章(身の用心を勧める)
本文
又さきざき申すがごとく・さきざきよりも百千万億倍・御用心あるべし。
日蓮は少より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり、されども殿の御事をば・ひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり其の故は法華経の命を継ぐ人なればと思うなり。穴賢・穴賢あらかるべからず・吾が家に・あらずんば人に寄合事なかれ、又夜廻の殿原は・ひとりも・たのもしき事はなけれども・法華経の故に屋敷を取られたる人人なり、常はむつばせ給うべし、又夜の用心の為と申しかたがた・殿の守りとなるべし、吾方の人人をば少少の事をば・みずきかずあるべし・さて又法門なんどを聞ばやと仰せ候はんに悦んで見え給うべからず、いかんが候はんずらん、御弟子共に申してこそ見候はめと・やわやわとあるべし・いかにも・うれしさに・いろに顕われなんと覚え聞かんと思う心だにも付かせ給うならば火をつけて・もすがごとく天より雨の下るがごとく万事をすてられんずるなり。
又今度いかなる便も出来せば・したため候し陳状を上げらるべし、大事の文なれば・ひとさはぎは・かならずあるべし、穴賢穴賢
四条金吾殿 日蓮花押
現代語訳
また以前にも申したように、今は身に危険がある時であるから、以前より百千万億倍、用心していきなさい。
また以前にも申したように、今は身に危険がある時であるから、以前より百千万億倍、用心していきなさい。
日蓮は若い時から、今生の栄えを祈ったことはない。ただ仏になろうと思い願うだけである。しかしながらあなたの事は、絶えず法華経、釈迦仏、日天子に祈っているのである。それは、あなたが法華経の命を継ぐ人だと思うからである。
決して争いごとをしてはならない。わが家でなければ、人と寄り合ってはならない。また夜廻りの同志の人達は一人も頼りがいがあるとはいえないが、法華経のために屋敷を取られた人々であるから、平常は親しくしていきなさい。夜の用心のためにもなり、また殿の守りにもなろう。わが味方の人々には少々の過ちがあっても、見ず聞かずのふりをしていきなさい。
また、主君等より法門などを聞きたいとの仰せがあっても、軽率に悦んで出ていくようなことがあってはならない。「さあ、どうでありましょうか。日蓮大聖人の御弟子達に聞いてみましょう」と、ものやわらかにして、答えていなさい。いかにも、うれしそうな様子を顔色に顕し、法門を聞こうとの主君の心に乗ぜられたならば、火をつけて燃すように、天から雨が下るように、いままでの努力の全てを無にすることになろう。
また今度、なにかの便宜がおきたならば、先ごろしたためて差し上げた陳状を、主君に奏上しなさい。大事なことをしたためた文であるから、一騒ぎは必ずおこるでしょう。穴賢穴賢。
日 蓮 花 押
四条金吾殿
語釈
穴賢穴賢。あらかるべからず
穴賢の本来の意は「おそれおおい」の義であるが、この場合は、「くれぐれも、決して」争いごとをしてはならない、の意。なお、本文最後の「穴賢穴賢」は本来の「おそれおおい」との意であり、書状の末尾としてつつしみを表わしている。
夜廻の殿原
夜廻り警備の役をもった者達。「崇峻天皇御書」(1172)に「況や此の四人は遠くは法華経のゆへ、近くは日蓮がゆへに、命を懸けたるやしきを上へ召されたり」と、信仰の故に迫害され、屋敷までも没収された人々のことが記されている。この人達が四条金吾のもとに身を寄せていたのであろう。
講義
具体的な行動について、繰り返し用心するよう戒められている。冒頭に「さきざき申すがごとく、さきざきよりも百千万億倍御用心あるべし」とあるように、ここでいわれていることは、この前の同年七月のお手紙の末尾に書かれている注意と同じ内容である。しかし、周辺の状況について、いよいよ緊迫したものを感じられていたのであろう。「さきざきよりも百千万億倍御用心あるべし」と強調されている。
日蓮は少より今生のいのりなし。只仏にならんとをもふ計りなり。されども殿の御事をばひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり云云
日蓮大聖人は幼少のころから、現世の幸せのために祈ったことはない。ただ、成仏という永遠の目的のためにのみ祈ってきた。ただ今は、苦境にある四条金吾のために、その現世の安穏を祈っている、との仰せである。
ここに、信心の最も根本的な姿勢が示されている。自身のためにとって、信心の目的は、仏になることである。成仏とは、自己の人間としての究極の完成である。それは、幸福とか不幸とかという問題を越えた高次元の目標である。そのためには、苦難もあえて身に引きうけ、のりこえなければならない。安逸に堕すことなく、自らを厳しく鍛えなければならない。自己にとっての信心の本質は、ここにある。
しかし、だからといって、自己の完成ということは、自分の内だけに閉じこもっていくことによっては達成されない。むしろ、自己をかえりみず、人の幸福のために尽くしていこうとする、開かれた発動性のなかに、真の完成がもたらされるのである。つまり、これが〝菩薩道〟である。
カントが「人間にとって同時に義務であるところの目的は何か。――自己の完成と他人の幸福である」と述べたように、自分のために追及すべきものは〝完成〟であり、他人のために求めるのは〝幸福〟である。これを逆転して、自分のために〝幸福〟を求めるのは利己主義につながり、他人のために〝完成〟を求めるのは、他人への侵害しかもたらさないであろう。
仏法が菩薩道とその究極として成仏を修行のために説いているのは、まさに、このカントのいっていることと軌を一にする。否、カントが提唱したことに、現実的な裏づけを与えるのが仏法であるともいえる。大聖人の生涯は、また、この仏法の原理と、西欧の英知が理想としたところを、身をもって示しきった御一生でもあったのである。