四条金吾殿御返事(世雄御書)

Screenshot

四条金吾殿御返事(世雄御書)

 建治3年(ʼ77)7月または8月 56歳 四条金吾

背景と大要

このお手紙が認められた建治3年(1277年)当時、四条金吾は主君である江馬氏の怒りを買い、身に大きな危険が及ぶ窮地に立たされていました。四条金吾に対する江馬氏の敵意は、1277年6月に行われた「桑ヶ谷問答(くわがやつもんどう)」にさかのぼるものでした。同僚たちは、この主従の不和につけ込み、金吾を亡き者にしようと機会をうかがっていたのです。自身が置かれた窮状についての金吾からの報告を受け、日蓮大聖人は金吾に代わって江馬氏への陳状(四条金吾陳状)をしたためられ、桑ヶ谷問答の顛末や仏法の教えの勝劣を説明されました。

本抄において大聖人は、仏法と世間政治(政事)の違いを明確にされています。賞罰は政治がその目的を達成するために用いる手段であり、そこには意図的な操作がありますが、仏法の世界にはそのような作為的な操作は存在しません。絶対の法に基づく仏法においては、その法を支持するか、あるいは反対するかによって、「勝負」――言い換えれば「幸福」か「不幸」か――が厳然と決まるのです。そしてお手紙の末尾において、大聖人は金吾に対し、敵からの襲撃を避けるために細心の注意を払うよう強く注意を促されています。

タイトルとURLをコピーしました