種々御振舞御書1

種々御振舞御書

 建治2年(ʼ76) 55歳 (光日尼)

  1. 【背景・解説】
  2.  はじめに
    1. 第一 御述作の由来
    2. 第二 本抄の大意
    3. 第三 本抄の元意
  3. 第一章(予言の的中と迫害)
    1.   本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 西戎・大蒙古国より日本国ををそうべきよし、牒状をわたす。日蓮が去ぬる文応元年太歳庚申に勘えたりし立正安国論、今すこしもたがわず符合しぬ
      2. 此の書は白楽天が楽府にも越へ、仏の未来記にもをとらず。末代の不思議、なに事かこれにすぎん
      3. 其の年の末十月に十一通の状をかきて・かたがたへをどろかし申す
      4. 政道の法
  4. 第二章(死身の弘法を説いて弟子を励ます)
    1.   本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 法華経は一法なれども機にしたがひ時によりて其の行万差なるべし
      2. 死身弘法について
      3. 仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心云云
  5.  第三章(念仏者等の讒言と平左衛門尉の敵対)
    1.   本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. さりし程に念仏者・持斎・真言師等・自身の智は及ばず、訴状も叶わざれば、上郎・尼ごぜんたちに・とりつきて、種種にかまへ申す
      2. 日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし。梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて、遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて、此の御一門どしうちはじまるべし。其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし
      3. 自界叛逆難と予言
  6. 第四章(二度目の諌暁と御勘気)
    1.   本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 法華経の第五の巻
      2. 日蓮・大高声を放ちて申す。あらをもしろや、平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをす
      3. 良観が雨ふらさぬ事
      4. 一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか
  7.  第五章(若宮八幡での諸天善神の諌暁)
    1.   本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 神天上の法門
      2. いかに八幡大菩薩はまことの神か
      3. 今日蓮は日本第一の法華経の行者なり
  8.  第六章(竜の口法難と発迹顕本)
    1.   本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 四条金吾の信心とわれらの決意
      2. 此にてぞ有らんずらんと・をもうところに案にたがはず兵士どもうちまはり・さわぎしかば、左衛門尉申すやう只今なりとなく、日蓮申すやう不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそくをば・たがへらるるぞと申せし時云云
      3. 江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる
  9. 第七章(月天の不思議と弟子檀那への迫害)
    1.   本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 追状に云く此の人はとがなき人なり今しばらくありてゆるさせ給うべし・あやまちしては後悔あるべし
      2. 宝塔品にして仏勅をうけ給い嘱累品にして仏に頂をなでられまいらせ「世尊の勅の如く当に具に奉行すべし」と誓状をたてし天ぞかし
      3. 依智にして二十余日・其の間鎌倉に或は火をつくる事・七八度・或は人をころす事ひまなし、讒言の者共の云く日蓮が弟子共の火をつくるなりと、さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて二百六十余人しるさる、皆遠島へ遣すべしろうにある弟子共をば頚をはねらるべしと聞ふ、さる程に火をつくる等は持斎念仏者が計事なり其の余はしげければかかず
  10.  第八章(塚原三昧堂での御法悦)
    1.   本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 一間四面の堂
      2. 在世は今にあり今は在世なり、法華経の肝心は諸法実相と・とかれて本末究竟等とのべられて候は是なり
  11.  第九章(塚原問答と自界叛逆難)
    1.   本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
    4. 講義
      1. 眼には止観・法華をさらし口には南無妙法蓮華経と唱へ
      2. 日蓮不思議一云はんと

【背景・解説】

本抄は、竜の口の法難の直前から、2年半にわたる佐渡流罪、そして最終的な身延山への入山に至るまで、日蓮大聖人の生涯における極めて重要な時期の出来事を記した自叙伝的な記録である。この9年間にわたる闘争の中で、大聖人は法華経に説かれた「法華経の行者」に関する予言を成就し、言動と振る舞いの両面において、御自身が「末法の仏」であることを名実ともに確立されたのである。

本お手紙は建治2年(1276年)に認められたもので、大聖人の故郷である安房国(千葉県南部)に住んでいた未亡人、光日尼(こうにちあま)に送られたものである。彼女の息子は以前から大聖人の教えに帰依しており、その息子を通じて彼女自身も入信した。入信からしばらくして息子は亡くなったが、彼女はその深い悲しみを乗り越え、生涯を通して大聖人の仏法を貫く純粋な信徒であった。

一連の出来事の記録は、1268年(文永5年)、モンゴル帝国(元)が日本に対し臣従を求める使節を送ってきた時から始まる。これにより、『立正安国論』で予言された「他国侵逼難(たこくしんぴつなん)」が現実のものとなり始めたのである。大聖人は再び鎌倉幕府の当局者や諸宗の指導者たちを諌暁(かんぎょう)されたが、彼らは度重なる警告を無視し、かえって大聖人とその門下に対して迫害を加えた。この時、大聖人は弟子たちに対し、決して迫害に屈することなく、妙法弘通に一生を捧げるよう促されている。

大聖人の不屈の闘争は、幕府や他宗派からのさらなる怒りを買い、ついに「竜の口の法難」へと至った。後に大聖人は『開目抄』の中で、この命に及ぶ迫害こそが、御自身が「末法の本仏」としての正体を明かす(発迹顕本)直接の契機であったと指摘されている。続く一節で、大聖人は佐渡での生活について触れ、法華経の予言にある「数回にわたって流罪される行者」の経文を、自身こそが唯一、身読(しんどく)し成就したことへの喜びを表明されている。

1274年(文永11年)に鎌倉へ戻られた後、大聖人は三度目の国家諌暁を行われた。幕府が再びその勧告を退けたため、大聖人は鎌倉を去り、身延山の深山へ入られた。本抄はこの地で認められたものである。入山からわずか5か月後、蒙古軍が日本を襲撃した。大聖人は、その原因は国全体による「法華経への誹謗(謗法)」にあると述べられている。結びに、大聖人は身延の寂しい隠棲の地まで手紙を届けてくれた光日尼に対し、深い謝意を表されている。

 

 

 はじめに

  種種御振舞御書の講義にあたり、その序講として

第一に、本抄御述作の由来を明かし。

第二に、本抄の大意を論じ、

第三に、本抄の元意を論ずることとする。

 

第一 御述作の由来

 

本抄は、別名「佐渡抄」ともいい、建治2年(12763月、聖寿55歳の時の御述作である。この時は、日蓮大聖人が文永11年(12745月身延に入られてから三年目にあたり、当然、本抄を御執筆なされたのは身延においてである。本文(0952)に、

「此の山の体たらくは西は七面の山・東は天子のたけ北は身延の山・南は鷹取の山・四つの山高きこと天に付き・さがしきこと飛鳥もとびがたし、中に四つの河あり所謂・富士河・早河・大白河・身延河なり、其の中に一町ばかり間の候に庵室を結びて候」と身延での住居の地理的状況について、述べられていることで明らかである。

本抄は安房の国(千葉県)の光日房に与えられた御書である。この対告衆の光日房については、清澄山の下の天津の住人で、夫は武家の出であるといわれるが、経歴等の詳細は不明である。詳しくは次の「光日房御書」等の三抄の序講を参照してほしい。

光日房が本抄のような大事な御書をいただいたのは、夫に先立たれ、また子の弥四郎をも若くして失い、そのなかにおいても、なお純真な信心をまっとうしたがゆえであると思われる。

本抄では、文永5年(1268)に蒙古襲来の牒状が日本にもたらされたことに筆を起こされ、「立正安国論」の予言の少しも違わぬことを示されてから、身延入山までの9年間の大聖人のお振舞いについて述べられている。

いうまでもなく、日蓮大聖人のご一生そのものが、聖人御難事に、

「況滅度後の大難は竜樹・天親・天台・伝教いまだ値い給はず……而るに日蓮二十七年が間・弘長元年辛酉五月十二日には伊豆の国へ流罪、文永元年甲子十一月十一日頭にきずをかほり左の手を打ちをらる、同文永八年辛未九月十二日佐渡の国へ配流又頭の座に望む、其の外に弟子を殺され切られ追出・くわれう等かずをしらず、仏の大難には及ぶか勝れたるか其は知らず、竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし、日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人・多宝・十方の諸仏は大虚妄の証明なり、仏滅後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人・但日蓮一人なり」(1189:09)と述べられているとおり、釈迦の予言した末法の御本仏のお振舞いであるが、とくに、本抄に記された九年間は、大聖人ご一生のなかでも最も大事な時期である。そのゆえは、開目抄に「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて」(0233:16)と述べられているごとく、大聖人の発迹顕本のお姿を示されたときだからである。

また松葉ヵ谷の法難、竜の口、佐渡流罪と続く大難など、三類の強敵の猛り狂うなかに、折伏を行じ、国家諌暁を重ねて、敢然と戦われた大聖人のお姿は、まさしく法華経を身業読誦されるお姿にほかならないのである。

今、本抄を拝読するに際し、この文永5年(1268)から建治2年(1276)にいたる大聖人のお振舞いの記述は、末法の御本仏のお振舞いの記述であることを、心に深く銘記して臨むべきである。

 

第二 本抄の大意

 

本抄は題号の示すとおり、日蓮大聖人の文永5年(1268)より建治2年(1276)に至る9年間の御本仏としての御振舞いを、年次をおいながら回想して記された御抄である。

ここでは本抄の大意を分段を追って順次講ずることにする。

① 大聖人が文応元年(1260)にしたためられた国家諌暁の書、「立正安国論」のご予言が、見事に的中したことを述べられ「仏の未来記にもをとらず末代の不思議なに事かこれにすぎん」と断言されている。

文永5年(1268)、蒙古より日本襲来の使いが来たとき、幕府は当然、大聖人のお言葉の正しかったことに気づき、大聖人に教えを請うべきであったのである。しかるに、その沙汰もなく、かさねて諌暁された大聖人に対し、かえって悪口をいい、迫害して用いようとしなかった。この狂った世相の本源は、長い間、日本中の人々が法華経の強敵となってきたので悪鬼がその身に入り、正しい判断ができなくなってしまったことにある。十一通の御状による重ねての諌暁にも、幕府は、ただ迫害を強化することによって報いるすべしか知らなかった。

② 難のますます大きくなることは「本より存知の旨」で、末法において折伏を行ずればそれは当然の道理なのである。したがって大聖人の弟子となった以上は、断じて憶したり、家族の身を案じて弱気になったり、目先の利欲に迷ってはならない。妙法広布のために命を捨てることは、石を金に変え、糞を米に変えるように、即身成仏の法なのである。未曽有の大法である妙法五字を、この末法の世に全世界に弘めるために日蓮大聖人は出現したのである。故に大聖人門下は、この大聖人の法戦をついで二陣・三陣とつづき、勇敢に進まなければならない。この段は、弟子檀那に対する師子王の激励である。

③ 大聖人の十一通の御状に対し、念仏・律・真言等の僧達は、真っ向から大聖人に当たれば破折されてしまうので、幕府高官の未亡人や、夫人達にとりいり、大聖人を讒言して、権力によって大聖人を亡き者にしようと図ったのである。

取り調べに対し、大聖人は国を想う情熱を披露され、邪宗の僧等との対決を迫られる。そして、もし、幕府が彼ら僧達の意のままになって、大聖人を流罪・死罪に処するならば、仏の御使いを用いないのであるから、必ず北条一門には自界叛逆難が起こり、国には他国侵逼難といって、四方とくに西の方から外国によって攻められるであろうと、取り調べに当たった幕府の権力者・平左衛門尉を強折されたのである。だが、平左衛門尉は、かえって狂ったように猛りたつばかりであった。

④ それから3日後の文永8年(1271912日、平左衛門尉は、数百人の武士を率いて、大聖人を召し捕りに来た。このとき平左衛門尉の一の家来である少輔房は、大聖人めがけて走り寄り、大聖人が懐中に持っておられた法華経の第五の巻をいきなり奪うと、それで大聖人のお顔を三度打ち、経巻をまき散らした。ほかの家来達も、残りの九巻の法華経を散らし、足で踏みつけ、家中をひっくり返すような騒ぎとなった。この平左衛門尉達の狂乱の姿に、大聖人は「あらおもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをす」と大声でいわれたのでかえって兵士達が色を失ってしまったことが記されている。

さらに、この出来事の直接の動機となった良観の祈雨の失敗に言及され、これを破折すると共に、彼の讒言の非を明らかにされたので平左衛門尉らは、一言もかえせなかったのである。

⑤ 12日の夜半、大聖人は頸を斬られるため、大勢の武士に囲まれて竜の口へ向かわれる。途中、若宮小路の八幡神社で、馬から下り、天照・八幡が諸天善神でありながら、法華経の行者である大聖人を護っていないことを厳しく叱咤される。

⑥ 由比の浜まで来たとき、熊王を使いとして四条金吾を呼び出し、別れを告げられる。四条金吾は兄弟4人して、大聖人の馬の口にとりすがり、ともに死ぬ覚悟で竜の口までお供をした。大聖人が悠々と頸の座に着かれたとき、江の島の方角から、夜空の月のような光り物があらわれる。武士達は目がくらみ恐れおおのいて逃げ去ってしまう。かえって大聖人の方から「頸切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐるしかりなん」と役人を促されたのであるが、遂に斬ることはできなかった。

明けて13日、武士達は相談の上、大聖人の身柄を相模の依智の本間六郎左衛門の家に預けることにした。同日、昼ごろ到着、武士達のなかには、大聖人のお姿を拝し、念仏を捨てる者も出た。四条金吾はここで別れて鎌倉へ帰っていった。

⑦ 同じく13日の夕刻、鎌倉から使いが来て、大聖人には罪がないから、過ちがあってはならないという趣旨の幕府の指示があった。その夜、皓々と輝く月に向かって、月天の怠慢を責められたところ、明星のような光る玉が下りて来て、庭の梅の木にとまった。武士達は、重なる不思議な現象に、庭にひれ伏してしまう。

さらに翌14日、十郎入道という人が来て昨日の夕刻、執権時宗邸で騒ぎがあり、陰陽師に占わせたところ、国に乱れがあるのは、大聖人を迫害しているためだから、急いで召し返すようにいったという。しかし、依智滞在が長びくにつれ、鎌倉では念仏者等の陰謀によって放火・殺人があいつぎ、それを大聖人門下の罪にして迫害を強化するなどといった不穏な情勢がつづいていた。このため、遂に佐渡流罪の決定がなされた。

⑧ 1010日に依智を出発して、111日佐渡の塚原に配流の身となられた大聖人は、ここで言語を絶する苦難の生活を過ごされる。しかし、大聖人は妙法のゆえにこの苦難を受けることを心から喜ばれ、法華経の予言がことごとくわが身の上にあらわれたのであると申されている。相模守北条時宗は大聖人にとって善知識であり、平左衛門は釈尊の化導を逆の立ち場から助けた提婆達多のようなものであるといわれている。

また、三障四魔の原理を引かれ、法華経を正しく修行すれば必ず三障四魔が起こる。そのなかで最も大きいのは天子魔で、今、大聖人を苦しめている難が、この天子魔に当たる。しかし、結局、世間の例でも、人を大きく成長させるものは、味方よりも敵である。大聖人を法華経の行者すなわち末法の御本仏たらしめたのは、大聖人を迫害した元凶である良観や道隆や平左衛門尉等であると申されているのである。

⑨ 塚原のあばら屋のなかで、迫りくる酷寒に耐え、一心に止観・法華を読み、題目を唱えながら日を過ごされるうちに、文永8年(1271)は暮れていった。

おりから、佐渡の念仏等の僧達の間で、大聖人の噂がひろまり、数百人が集まって、本間六郎左衛門に訴えた。これに対し、六郎左衛門は、幕府から「殺してはならない」との副状があることを楯に、法論で責めるよう説得した。こうして、正月16日、佐渡はもとより、越後・越中・出羽・奥州・信濃と東北・北陸全土の僧等数百人が塚原に集まって、大聖人一人を相手に法論が行われたのである。

しかし、大聖人の前には物の数ではなく、各宗とも、見守る本間一族や百姓達の眼前で「利剣をもて・うりをきり大風の草をなびかすが如く」ことごとく論破されてしまった。このありさまに、皆、色を失い、なかには即座に念仏の袈裟と念珠を捨てて、もう念仏は称えないと誓いを立てる者も出る始末であった。有名な塚原問答の一幕である。

問答が終わって、皆が退散していくとき、大聖人は本間六郎左衛門を呼び戻し、鎌倉に合戦が起ころうとしているのに、どうしてすぐ鎌倉へ上り、武士の面目を果たさないのかといわれる。彼には寝耳に水の話だが、何か思い当たるものがあったのか、返事もせずに急ぎ帰った。この予言は百日もたたずに的中することとなる。

⑩ このあと、大聖人は「開目抄」を認められる。これは、大聖人こそ日本国の人の生命であり、柱である。すなわち末法の本仏であることを人に約して開顕されたもので、四条金吾に託された。

218日、本土から船が着き、鎌倉と京都で合戦が起こったとのニュースを伝えてきた。116日にいわれたことが見事に的中したわけで、本間六郎左衛門は、その夜のうちに早舟を仕立てて鎌倉へ向かった。出発に先立って、六郎左衛門は、大聖人に掌を合わせて、永久に念仏は称えないと宣言した。それに対して大聖人は「なんといっても北条時宗等の幕府の要人が正法を用いなければ、日本国中の人も用いまい、従って、国は必ず滅びるであろう」と申され、大聖人は梵釈・日月等さえも家来として従える法華経の行者である。もし、大聖人を用いたとしても「あしくうやまはば国亡ぶ」であろう。また、これまでは大聖人が厳然とひかえてこられたから、国は護られてきたけれども、その大聖人を皆で迫害し、度が過ぎたから、罰が当たったのである。このたびも、大聖人の教えを用いないならば、蒙古から軍勢が寄せて来て、日本は滅ぼされるであろうと申される。

大聖人のご予言の的中に、佐渡の在家の人々は、この御房は神通の人に違いないと噂し、念仏や律等のこれまでの信仰を捨てる者が続出した。念仏や律等の僧達は、この御房は謀反人の仲間だったのに違いないと悪口した。

⑪ この騒ぎは、しばらくして鎮まったが、念仏・律等の僧達は、このままでは信者がいなくなって自分達が飢え死にすると寄り集まって相談し、鎌倉の武蔵守宣時に訴えた、守殿の独断で、勝手に私製の命令書が出され、大聖人の味方をする者は、追放または投獄されるという事態にさえなった。

しかし、こうした画策に反して、幕府からは文永11年(12742月14日付で赦免の状が出され、3月8日、佐渡に達した。佐渡の念仏者達は、大聖人を生きて帰らせてはならないと、さまざまに妨害を謀るが、順風でも3日かかるところを、忽ちに渡り、本土でも越後や信濃の念仏者達が妨害しようとしたが、大勢の武士に守られて、無事、3月26日に鎌倉に帰られたのである。

⑫ 4月8日、平左衛門尉に会い、三度目の諌暁をされる。平左衛門尉の質問に、この年中に蒙古が攻めてくると断言され、真言で祈ればかえって亡国を招くと厳しく破折される。しかし、平左衛門尉は大聖人のお言葉を用いなかった。

⑬ 4月10日、幕府は真言の阿弥陀堂法印に依頼して、祈雨を行なった。これが忠諌への幕府の答えであった。法印は東寺第一と評判されていた僧である。11日目に雨が降ったので、かねて真言を破折されていた大聖人に対し、世間は誹謗し、弟子は動揺した。それについて、もう少し待てばわかることだと話されているうちに、大風が吹いてきて家々を倒し、人を吹き殺した、被害の最も大きかったのは、鎌倉であり、そのなかでも、幕府、若宮、建長寺、極楽寺等であった。これをみて初めて、皆、大聖人の正しかったことを悟った。

⑭ 幕府の態度を見極められ「三度・国をいさめんに・もちゐずば国をさるべし」と、512日、鎌倉を出て身延の山に入られた。10月、かねて平左衛門尉に断言されていたとおり、蒙古が襲来した。この国難の根本原因は、大聖人の教えを守らず、法華誹謗をつづけていることにあると鋭く指摘されている。

⑮ さらに個人における謗法の罰の現象として、臨終の相をあげられ、謗法の僧を、知らずに高僧と仰いできた世の迷妄を破折されている。そして、人間として生まれてきた以上、善神に守られるのが当然なのに、現在のように苦悩におおわれているのは、謗法に迷い、邪師の弟子が充満しているからである。

⑯ 法華経の行者を怨むものは頭破七分とあるのに、大聖人を謗っても頭が破れないのは、大聖人が法華経の行者でないことを意味するのではないかと設問されている。それについて、法然、弘法との対比から、当然大聖人が法華経の行者であること、また、頭破七分とは、刀で斬ったように割れるということではなく、機能の障害であり、皆、気がつかないのだと申されている。

⑰ この娑婆世界の主である第六天の魔王が法華経の行者を怨む道理を示され、大聖人がこれまで、あらゆる難を受けてこられたのも、このゆえであるといわれている。そうしたなかで、はるばる不便な身延の山奥にまで、大聖人に便りをさしあげた光日房を「釈迦仏の御使か過去の父母の御使か」と、その信心をほめられている。

これまで、章を追って、ほぼ本抄の大意を述べてきたが、本抄全体を通じて感ぜられることは、大難を敢然とうけ、かつ、悠々とお振舞いになられた大聖人は、まさしく御本仏なりということである。そして、本書をとくに光日尼に賜わったのは、年老い、かつ孤独な光日尼に、それを感得せしめて「われ御本仏とともに在り」の充実感に満ちみちた、歓喜の人生を完成させようとの深きご配慮があられたのではあるまいか。

 

第三 本抄の元意

 

本抄は、題号の示すとおり、日蓮大聖人のご生涯で、最も重要な時期にあった9年間のお振舞いを記されたもので、それはまさしく、末法の主師親三徳具備の御本仏としてのお振舞いにほかならない。日蓮大聖人こそ、末法万年尽未来際の一切衆生を救済すべく、この日本国に出現なされた御本仏であることは、本抄並びに他の御抄を拝して余りにも明らかである。しかしながら、いまだに釈迦仏を本尊とし、『日蓮』の名を冠にいただきながら謗法を犯している極悪宗派がある。「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」とは、末法の衆生が本尊とすべき当体に迷い、日蓮大聖人を崇敬するようでいながら、実は大聖人の真実のお姿を見誤っているときは、一個人のみならず、一家族、社会、国家にまで災いを招きよせ、無間大城の苦をうける、との意である。謗法の徒は、恐懼してこの御金言を拝し、我執を捨てその罪を悔い改めるべきである。

本抄を拝読して、そのご境涯に驚嘆する人は少なくない。明治の文豪、高山樗牛も「世界最高の文章なり』と絶賛している。また大聖人の偉大さを述べるとき、みな異口同音に、これほどの大難をよく忍ばれたものだといって讃嘆をしている。しかし、これらは、いまだ大聖人の真意を理解していない人の言葉である。

しからば日蓮大聖人の本抄御述作の真意はなにか。大聖人が難を忍ばれた理由は奈辺にあったのであろうか。

「経王殿御返事」にわく「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(1124:11)と。さらに、聖人御難事にいわく「仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり」(1189:03)と。報恩抄に「日蓮が慈悲曠大ならば 南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(0329:03)と。

すなわち、日蓮大聖人の御一生は、末法万年の外まで一切衆生を救済せんがための法体の広宣流布にある。弘安2年(12791012日御図顕の一閻浮提総与の大御本尊を遺すためであったのである。このゆえに、数々の大難を受けられ、不思議を現ぜられたのである。

これこそ「日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(0202:開目抄上:08)と仰せの日蓮大聖人の大慈大悲であり、出世の本懐なのである。

池田先生は、「観心本尊抄講義」の序講に次のように述べている。

「日蓮大聖人一代の仏法の大網は、三大秘法であるが、なかでもその要は大御本尊にある。この要を知らずして、いかに大聖人の弘通せる法門を千万言を尽くして論じようとも、それは実に群盲評象のたぐいであり、木石の衣鉢を帯持しているようなものである。故に、弘安2年(12791012日の大御本尊建立より立ち還り、大聖人ご一代の弘教を拝するならば、いっさいのご説法、お振舞いの真意は明白となる」と。

 

 

第一章(予言の的中と迫害)

  本文

去ぬる文永五年後正月十八日、西戎・大蒙古国より日本国をおそうべきよし、牒状をわたす。日蓮が去ぬる文応元年太歳庚申に勘えたりし立正安国論、今すこしもたがわず符合しぬ。この書は白楽天が楽府にも越え、仏の未来記にもおとらず。末代の不思議、なに事かこれにすぎん。賢王・聖主の御世ならば、日本第一の勧賞にもおこなわれ、現身に大師号もあるべし。定めて御たずねありて、いくさの僉義をもいいあわせ、調伏なんども申しつけられぬらんとおもいしに、その義なかりしかば、その年の末十月に十一通の状をかきて、かたがたへおどろかし申す。
 国に賢人なんどもあるならば、「不思議なることかな。これはひとえにただ事にはあらず。天照太神・正八幡宮のこの僧について、日本国のたすかるべきことを御計らいのあるか」とおもわるべきに、さはなくて、あるいは使いを悪口し、あるいはあざむき、あるいはとりも入れず、あるいは返事もなし。あるいは返事をなせども上へも申さず。これひとえにただ事にはあらず。たとい日蓮が身のことなりとも、国主となり、まつりごとをなさん人々は、取りつぎ申したらんには政道の法ぞかし。いおうや、このことは上の御大事いできたらんのみならず、各々の身にあたりて、おおいなるなげき出来すべきことぞかし。しかるを、用いることこそなくとも、悪口まではあまりなり。これひとえに、日本国の上下万人、一人もなく法華経の強敵となりてとしひさしくなりぬれば、大禍のつもり、大鬼神の各々の身に入る上、蒙古国の牒状に正念をぬかれてくるうなり。
 例せば、殷の紂王、比干といいし者いさめをなせしかば、用いずして胸をほり、周の文・武王にほろぼされぬ。呉王は伍子胥がいさめを用いず自害をせさせしかば、越王・勾践の手にかかる。これもかれがごとくなるべきかと、いよいよふびんにおぼえて、名をもおしまず命をもすてて強盛に申しはりしかば、風大なれば波大なり、竜大なれば雨たけきように、いよいよあだをなし、ますますにくみて、御評定に僉議あり。「頸をはぬべきか、鎌倉をおわるべきか。弟子檀那等をば、所領あらん者は所領を召して頸を切れ、あるいはろうにてせめ、あるいは遠流すべし」等云々。

 

現代語訳

去る文永五年のちの正月十八日に、西の侵略者・大蒙古の国から、日本の国は蒙古に臣従しないなら攻め取るという通知の国書を送ってきた。これによって、日蓮が去る文応元年太歳庚申に勘えて幕府に奏上し諌めた立正安国論の予言が少しも違うことなく合致した。この安国論はかの唐土の白楽天が時の政治を諷刺して国を諌めた楽府よりも勝れ、釈迦仏の未来記にも劣るものではない。このような重大な予言が事実となって顕われたのであるから、末法の世としてこれを超える不思議がまたとあるであろうか。これは国に対する大きな功績であるから賢王や聖主の御世であるならば日本一のおほめの賞状にもあずかり、自分の生存中に大師号をも贈られるに違いない。また必ずや蒙古の来襲について詳しく質問を受け、防戦の仕方についての軍議の相談も受け、蒙古調伏の祈りなども依頼されるであろうと思ったのに、幕府からはなんの音沙汰もなかったので、その年の末十月に十一か所へ「誤った宗教をやめて日蓮に帰依するように」という手紙を書き送ってそれらに警告をした。

国に賢人がいるならば「予言と蒙古の通知と一致した、まことに不思議なことである。これはただごとではない。天照太神と八幡大菩薩がこの僧に託宣して日本の国が助かる方法を計られたのではないか」と思われるべきであるのに、そうではなくて、ある者はこの十一通の状を持っていった大聖人の使いの者に悪口をし、ある者は嘲り、ある者は手紙を受け取りもせず、ある者は返事も与えなかった。ある者は返事はよこしたが執権へそれを取りつがなかった。こういうありさまであったから異常なことであった。たとえこの手紙の訴えの内容が、日蓮の一身上の私事であったとしても、国主となって一国の政治を司る立ち場の人々は、それを執権職へ取り次いでこそ政道の法に叶う行為ではないのか。

ましてこのことは、政府にとって大事件が勃発しようとしているばかりでなく、幕府や寺々の各人の身に当たって大きな嘆きが起こるべき大事件である。それなのに、この忠告を用いることはなかったとしても、悪口を加えるとはあまりにも常軌を逸脱したことであった。これはひとえに日本の国の上下全部の人々が残らず法華経の強敵となって長い年を経たので誹謗の大罪がつもり重なって、大悪鬼神が各人の身に入ったうえに、蒙古の通告状に正念を抜かれて、精神が狂ったのである。

正しい諌めを用いなかった前例として、殷の紂王は、忠臣比干が死をもって諌めたのに対して、それを用いずに彼の死体の胸を割って恥ずかしめ、結局、周の文王の子・武王に亡ぼされてしまった。呉王は伍子胥の諌めを用いずに、かえって伍子胥に死を賜わり、伍子胥は亡国を見るに忍びないと嘆きながら自殺してしまった。そのため呉王は越王勾践の手にかかって亡ぼされてしまった。

自分は、幕府も紂王や呉王のようになるだろうとますます不憫に感じて、悪名をたてられるのも惜しまず命も捨てて強盛に邪法を禁止せよと主張し続けたので、あたかも風が強いほど波も大きいように、竜が大きければ雨が烈しいように、ますます日蓮に仇をし、ますます憎んで、評定衆の討議で大聖人の処置について相談があり、斬罪にするのがよかろうとか、鎌倉を所払いにするのが妥当だろうとか、大聖人の弟子檀那等については、武士で所領のある者は所領を取り上げて首を斬れとか、あるいは牢に入れて責めよとか、あるいは遠流にせよなどと、さまざまな意見が出るありさまであった。

 

語釈

後の正月

閏正月のこと。閏月は暦と季節が大きく食い違うことを避けるために、随時挿入する余分な月のこと。

 

西戎・大蒙古国

戎の語義は兵器・兵力の意で、モンゴル族は黄河流域の中国から見れば西の民でしばしば侵略してくるので西戎と呼んだ。大聖人はそのまま用いられたもの。ここでは西の侵略者大蒙古の国というほどの意味。中国では太古・黄河流域に定着するようになってから四方の異民族をその住地によって東夷・西戎・北狄・南蛮と、そのおのおのの特徴をとって呼び、これで伝統的対外基本方針を示していた。(1) 夷は礼儀正しいの意。東方はたいてい入貢国であったので東夷とし、手厚く待遇するのを国策とした。日本はその一つに当たる。(2) 戎は兵・転じて入寇の意を含む。強力な騎馬軍団を構成してしばしば侵入して来るゆえに西方の遊牧諸民族を西戎とし、警戒を国策とした。文献成立以後では西周の康王以降の分が記載され、だいたい山西陝西の山間に住む玁狁や、西周を滅亡させた犬戎が強力であったとされている。(3) 狄は化外の意、北方の移動狩猟諸民族をさし、毛皮や加工肉魚など有益な産物を持っているため、将来化導服従させる方針を国策とした。文献にあらわれるのは春秋以降の分で、山西・河北の山間や満州方面の部族をさす。(4) 蛮は極度な未開の意。主に揚子江南部山間の半狩猟移動火田民の各部族をさして南蛮とし、把握困難で、得るべき産物を持たない民だったから放置を国策とした。なお、日本では「えびす」は奈良時代までは外国人を意味し、中国が日本を東夷と呼ぶ故「えびす」に「夷」の字を転用し、その後意味が再転して、中央から離れた民度の低い部族を「夷」と蔑意を含めて呼ぶようになった。同時に「戎」は外国人・とくに外国商人をさす場合に用いた。

 

牒状

まわしぶみ、国書。国の元首が他国に送る書。

 

太歳

中国の戦国時代の半ばごろに、木星が天を一周するのに約12年かかることが観測され、木星の位置を明示して一般の共通紀年法とすることから始まった。すなわち、黄道赤道に沿った一周天を卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥・子・丑・寅の順に12等分し、年ごとに木星のあるところの干支を順序に従って、その年に命名することにしたのである。木星を歳星といったので、これを歳星紀年法という。ところが、当時すでに周天には歳星の運行とは逆の向きに12支が配されていたので、歳星は寅から丑・子・亥……と逆方向に進むことになり、混乱を生ずることとなった。そこで、歳星と逆方向に進行する歳星の影像を仮想し、これを太歳または歳陰と名づけ、歳星が丑にあるときは太歳は寅にあり、翌年歳星が子にあるときは太歳は卯にあるということにした。このように太歳の所在によって、正しく子・丑・寅……の順序に進むようにしたのが、太歳紀年法または歳陰紀年法である。この12支だけでは12年で一周してしまうので、10干を組み合わせ、60年周期にして年紀を示したものである。この1012支の方法は、中国殷代につくられた10進法で、10干は一太陰月を上中下の3旬に分け、その一旬10日の毎日につけた記号から始まったといわれる。12支は一年12か月を示すための記号から起こったという説がある。ただし、12支の子をネズミ、丑を牛というように動物をあてはめたのは中国・戦国時代からである。干支は殷・周時代はおもに日を数えるのに用いられ、年月を数えるために用いられるようになったのは戦国時代から、さらに一日を等分して時間を示すために用い始めたのは漢代からといわれる。また方向を示すために用いられるようになったのは、戦国時代からである。1012支とは幹と枝に見立てた呼称で、母子に見立てて1012子と呼ばれたこともある。現在、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10干を甲・乙・丙・丁……と呼ぶのは陰陽五行説の影響で、木・火・土・金・水の5行に兄弟を付して「木の兄」「木の弟」……というように10干に呼び名をつけたものである。 (木)甲・ 木の兄・乙・木の弟  (火)丙・火の兄・丁・火の弟  (土)戊・土の兄・己・土の弟 (金)・庚・金の兄・辛・金の弟 (水)壬・ 水の兄。・癸・水の弟。

 

庚申

干支の組み合わせの57番目で、前は己未、次は辛酉である。陰陽五行では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和である。

 

立正安国論

文応元年(1260716日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で109答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。

 

白楽天

07720846)白 居易のこと。中唐の詩人。字は楽天。号は酔吟先生・香山居士。弟に白行簡がいる。

 

楽府

中国,韻文のジャンルの一つ。もともとは,前漢の武帝のとき設けられた,各地の民謡を集めて記録する役所の名であったが,のちにその記録された楽曲や歌謡を楽府の名で呼ぶようになったもの。本来は作者不明の民謡が多かったが,やがてその旋律に合せた歌詞を替え歌として創作するようになり,さらにその旋律がわからなくなって歌詞だけがつくられたが,それらもすべてもとの旋律の題名で呼ばれた。

 

賢王

政教に通じ正法をもって国を治める王。

 

聖主

知徳にすぐれ万事に通達し、万人がこぞって主と仰ぐ君主。

 

御世

一人の天皇が治める世。

 

権状

功労者を賞し、官位や勲章をさずける証書。

 

大師号

大師とは大師範・大導師のことで、帝王が諡号として与えた号。

 

僉義

多人数で評議すること。また、その評議。衆議。

 

調伏

仏に祈り仏力によって、怨敵や魔を降伏することであるが、謗法による調伏は悪い結果をもたらす。

 

十一通の状

文永5年(12681011日、日蓮大聖人が国諫のため、幕府・要人11人に送られた書。宛先は北条時宗・宿屋左衛門光則・平左衛門尉頼綱・北条弥源太・建長寺道隆・極楽寺良観・大仏殿別当・寿福寺・浄光明寺・多宝寺・長楽寺である。

 

天照太神

日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。

 

正八幡宮

天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。

 

国主

一国の主君。国王。天子。権力者。

 

政道の法

政治により定められた法規。

 

上の御大事

国家存亡にかかわる大問題。

 

大禍

大きな禍。

 

大鬼神

鬼神の中でも大変暴悪なものや、神通力などの能力が大きいものをいう。鬼神とは、目に見えない超人的な力を有する働きをもつものに付けられた総称。仏法では夜叉・羅刹などをさす。人の功徳・生命を奪い、蝕む働きをする悪鬼神のこと。

 

殷の紂王・比干

紂王は紀元前12世紀ごろの中国殷代最後の王。帝辛ともいう。智力・能力・腕力ともに勝れたが、妲己を溺愛してからは淫楽にふけり、盛んに宮苑楼台を建築し、珍しい禽獣を集め、妲己のいうがままに酒を池とし、肉を木にかけて林とし、長夜の宴を張った。側近が諌めるのを全くとりあわず挙句は刑罰を重くし、炮烙の刑を新設した。また、自分のいうことを聞かない臣下を殺して塩漬けの肉としたり、それを諌めた家来を乾し肉にしたり、少しでも、敵意をもつ者は捕え、逆に讒言の上手な家来を用いるなどの悪行に、民心は完全に離れていった。このような紂王の乱行に、王子の比干は再三の諌言をしたが、全く聞き入れられず、ついに比干は「人臣たる者は、死を賭してお諫めしなければならない」と面をおかして紂王を諫めた。すると紂王は「聖人の心臓には七つの穴があるそうだな」といって比干を殺し、その心臓を解剖したという。こうした悪行の連続で、すでに民心は紂王のもとにはなく、ために周の武王が僅か800騎で攻めてきたのに、紂王70万の軍は寝返りを打つ者、戦意皆無の者ばかりで武王に敗れたのである。

 

周の文・武王

中国上代の王朝で、文王とその子武王のこと。①文王紀元前11521056)は、中国の周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。父は季歴、母は太任であり、虢仲および虢叔が兄である。周の創始者である武王の父にあたる。「寧王」とも呼ばれる。②周朝の創始者。殷を滅ぼし、周を立てた。文王の次子。

 

越王勾践

中国春秋時代の越の王(紀元前0465)。父の允常が、呉王闔閭との戦いの最中に死んだので、その子勾践が立って越王と称した。呉王は、允常の死を聞くとただちに兵を起こして越王を攻めたが勾践は奇略を用いて呉軍を破り、闔閭は戦死した。闔閭の子夫差は、越に復讐するため、2年のあいだ兵を備えていた。勾践は、夫差の力が強くなる前にこれを討とうとした。臣の范蠡が勾践を諌めたが、聞かずに呉を攻め、逆に大敗して、残兵5000と共に会稽山(浙江省紹興市)に籠り、呉に降伏を申し出たが、内心はこれに取り入って再起をうかがう腹であった。呉王夫差は、臣の伍子胥の「いま越を亡ぼさなければ、あとで後悔するでしょう。勾践は賢君で、范蠡は良臣です。許されて国へ帰ったなら、必ず反乱を起こすでしょう」との諌めも聞かず、越王勾践を許し戦いを止めて帰国した。国において勾践は、苦い肝をいつも側において嘗めては「汝は会稽の恥を忘れたか」と叫び、身を苦しめ心を痛めた。また、自ら畑を耕し、粗衣粗食に甘んじ、国民と労苦を共にして、国力の充実を図ったので、国民は皆その恩を感じて呉に報復しようとした。一方、呉の国では「越は国力が増して危険な存在になったから滅ぼしてしまおう」との伍子胥の諌めを聞き入れず、かえって讒言を用いて、伍子胥を自害させるはめにおいこんでしまった。そのとき、伍子胥は「自分の死んだのちに、わが眼を呉の東門にかけておけ、敵国越が呉を亡ぼすさまを見届けよう」といって自害した。そして10数年後、越は呉の油断をついて攻め、呉の太子を殺したが、まもなく講和した。越はその後4年目に、再び呉を攻め、呉の都を包囲した。夫差は、伍子胥の諌めを用いなかったことを後悔し、「あの世で伍子胥に会わせる顔がない。私の首は布で包んでくれ」と言い残し自らの命を絶ち、呉は越に亡ぼされた。その後勾践は、揚子江の東一帯に勢威をふるい、覇王と称した。

 

御評定

①物事を評議して決定すること。②鎌倉・室町時代に執権や評議衆が幕府の立法・行政上の重要事項を決定したこと。

 

遠流

都から遠いところに流罪すること。

 

講義

 

西戎・大蒙古国より日本国ををそうべきよし、牒状をわたす。日蓮が去ぬる文応元年太歳庚申に勘えたりし立正安国論、今すこしもたがわず符合しぬ

 

日蓮大聖人が立正安国論を著わされ、時の前執権北条時頼に奏上した文応元年(1260)は、蒙古ではフビライが皇帝に即位した年であった。この出来事は、実に深い意味をもっている。つまり、世祖フビライの即位と共に、この年、蒙古は占領国高麗に日本侵略の命令を発したのである。しかも、不思議なことに、この同じ年、日蓮大聖人は立正安国論において、他国侵逼難の警告を発せられているのである。

その御文を拝するならば、立正安国論(0031:10)にいわく「若し先ず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば速に情慮を回らし悤で対治を加えよ、所以は何ん、薬師経の七難の内五難忽に起り二難猶残れり、所以他国侵逼の難・自界叛逆の難なり、大集経の三災の内二災早く顕れ一災未だ起らず所以兵革の災なり、金光明経の内の種種の災過一一起ると雖も他方の怨賊国内を侵掠する此の災未だ露れず此の難未だ来らず、仁王経の七難の内六難今盛にして一難未だ現ぜず所以四方の賊来って国を侵すの難なり云云」と。だが、日本民族にとって、はるか大海原のかなたで起こったこの出来事については、全く想像だにもできなかったであろう。しかし、蒙古の日本侵略への計画は、この年より、本格的に開始されていたのである。

ここで、蒙古が日本に牒状をもたらすまでの経過をみることにする。

フビライはジンギス汗と並び称される英傑で、種族に流れる世界征服の野望の巨歩は、彼の時代になって、また大きく進められていったのである。すなわちアジアの大部分、中央アジア、東ヨーロッパにまたがる広大な領域を支配し、西ヨーロッパ・インド・日本を除いて、世界の大部分の地域がその支配下におさまった。これは人類の歴史始まって以来の空前の大帝国であった。

そして、蒙古の日本侵略も世祖フビライの世界征服の構想の一画として、文永3年(1266)には黒的と殷弘を、かねてより日本と通交のあった朝鮮半島の高麗に派遣し、日本の降伏を迫る詔書を届けるよう命じたのである。

そのときの日本国王への詔書は「大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉る。朕思うに、古来国というものは、小国同士でも近所づきあいしたものである。いわんや、わが大蒙古国は朕が祖宗天命を受けて中国を奄有し、遠方の外国も畏を恐れ徳を慕ってつき従うもの数え切れないほどである。万国は全て朕の国に好みを通ずべきである。朕が即位以前、高麗は、朕が国の兵を受け、無辜の民は戦禍になやんでいたが、朕が即位するや、戦さをやめて兵を本国に召喚し、旗を引き上げさせた。高麗の君臣らは、感激感謝して朕のもとに来朝し、今や高麗とは、義は君臣であるが、仲の良いこと父子のごときである。このことは、思うに日本の君臣もすでに承知のことであろう。

日本は、朕の東方の藩である高麗のまじかにあって、開国以来、しじゅう中国に使いを通じているのに、朕の朝廷に対しては、まだ一人の使者をも遣わして好みを通じようとしない。

願くは、自今以往、たがいに使者を交わしあい、好みを結んで相親睦しよう。聖人は四海をもって家となす。仲良く交際しなければ四海一家とはいえない。兵を用いるようなことは朕はしたくない。王はよく思案せよ。不宣」というものであった。

蒙古の使者である黒的と殷弘、そして日本への案内をつとめた高麗の重臣宋君斐・金賛等は、これを日本国王へ渡すため、まず巨済島に渡った。ところが巨済島から望む日本への海路は、風濤きびしく、海になれない蒙古の使者等は、そのすさまじさに肝を冷やしたのである。そして巨済島より先へ行くと、さらに山のような波濤が続くことを、案内にあたった高麗の重臣達が黒的等にいって聞かせたため、蒙古の使いは驚いて巨済島より先へ進むことを断念したのである。ところがフビライはこれを聞いて激怒し、つづいて翌文永4年(1267)には、再度高麗へ黒的・殷弘を遣わした。今度は高麗が単独で交渉するよう命じたのである。

これは高麗が日本侵略の先兵を命ぜられたのと同じであるが、このフビライの構想は、彼が即位した年(1260)以来のものであったのであろう。高麗と蒙古とは、1219年ごろから外交関係を生じ、蒙古の使者は頻繁に高麗にやって来て、そのつど莫大な貢物を要求していたのである。一二二五年、蒙古の使者が鴨緑江のほとりで殺害される事件が起こり、蒙古はこれを高麗の責任として国交を断絶したため両国は臨戦態勢に入った。蒙古軍は勢力にまかせて高麗に侵略し、高麗も必死の抵抗をみせたが、ついに1259年、高麗王朝は陥落し、蒙古陣営の東の要塞として編入されてしまった。すなわちフビライが高麗を攻め落とさなければならなかったその背景には、日本侵略という戦略図が彼の脳裏に終始去来していたことが推側されるのである。

さて、フビライから日本への使いを命ぜられた高麗王は、藩阜を使者にたてて、蒙古の詔書に自国の国書を添えて日本に派遣したのである。藩阜が、九州の筑前博多に着いたのは、文永5年(1268)正月1日であった。そしてそれが太宰府を経て、鎌倉に着いたのが閏正月18日である。恐らく、未曽有の出来事に、どの部署も決断を決しかねたことであろう。

ここに日蓮大聖人が文応元年(1260)、立正安国論に予言された他国侵逼難が的中したのである。

しかるに幕府は、この的中をいかに受け取ったか。

日蓮大聖人は「立正安国論」の予言が的中してまもなく、「安国論御勘由来」をしたためられ、再び幕府を諌められている。「而るに勘文を捧げて已後九ケ年を経て今年後の正月大蒙古国の国書を見るに日蓮が勘文に相叶うこと宛かも符契の如し……而るに当世の高僧等謗法の者と同意の者なり復た自宗の玄底を知らざる者なり、定めて勅宣御教書を給いて此の凶悪を祈請するか、仏神弥よ瞋恚を作し国土を破壊せん事疑い無き者なり。日蓮復之を対治するの方之を知る叡山を除いて日本国には但一人なり」(0035:04)と。

蒙古の牒状到来に、日本国は天下一同に物情騒然となった。幕府は国難を払う祈りを各寺社に命じ、神仏の加護をまつとともに、挙国一致の防備に狂奔したのである。だが悲しいかな、他国侵逼難の真因を知らぬ無智迷妄の為政者、権力者達は、邪法の祈りを命じて、かえって謗法を重ね、国難を招くのみであった。

幕府は、この「安国論御勘由来」をも顧みなかったのである。すなわち、念仏や真言や律宗の信者が幕府の要人に多かったため、日蓮大聖人の至誠の国難も用いられなかったのだ。邪法に染まった為政者というのは哀れにも愚かしい。厳に戒めるべきは邪宗教の害毒である。立正安国論(0024)に「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」と述べられているとおりである。

 

此の書は白楽天が楽府にも越へ、仏の未来記にもをとらず。末代の不思議、なに事かこれにすぎん

 

この御文は、「立正安国論」が一大の予言書で、しかもその予言が見事に的中している事実こそ、白楽天の楽府にも仏の未来記にも超過する論であることを明示されている。

さて日蓮大聖人の御抄のなかには、「開目抄」、「観心本尊抄」、あるいは「御義口伝」、「本因妙抄」、「百六箇抄」等、重要な御書がある。しかし、これらの諸御抄は法門の上ではきわめて重要であるが、対外的な意味では、「立正安国論」に比肩する書はないといえよう。

さらにまた、大聖人のご化導は「立正安国論」に始まり「立正安国論」に終わるともいわれている。

日寛上人は、安国論文段において、安国論こそ、三大秘法流通の始めである旨をこの御文を用いて次のように仰せである。

「この論首に居る事。凡そ此の論は是れ国主諫暁の書・兼讖不差の判なり、況や句法・玉を潤し義勢・地を震う、故に師自賛して云く『白楽天が楽府にも越へ仏の未来記にも劣らず』と。此れに三意あり、一には彼は前代に託して諷諭し、此れは直ちに災難の起こりを示す。二には彼はその言用捨あり、此れは強言を以って暁諌す。三には彼は但・世間政道の謬りを糾し、此れは現当の為に謗法の罪を糺す、豈、楽府に勝るに非ずや。他国侵逼・自界叛逆の兼讖・秋毫も差わず。寧ろ仏の未来記にも劣らざるに非ずや。この論首に居ること誰か之を疑う可けんや」と。

故に、安国論は、単に念仏禁止を訴えられた諌暁の書に止まらず、いっさいの不幸の原因は誤れる宗教にあり、これを捨てて日蓮大聖人の仏法に帰依すれば、永遠に崩れることのない平和な世界を建設することのできる旨を明かされた、一大宣言書である。

しかも安国論は、単なる災難治術の指南書というものではない。経文を引いての予言は、ことごとく的中したのである。故にこれほどの不思議はない。よって「末代の不思議なに事かこれに過ぎん」と仰せである。

 

其の年の末十月に十一通の状をかきて・かたがたへをどろかし申す

 

さきに日蓮大聖人は、文応元年(1260)前執権北条時頼に対し、宿屋入道を通じて、国諌の書・「立正安国論」を上奏され、自界叛逆・他国侵逼の二難を予言されたが、文永5年(1268)正月に蒙古の牒状が到来したことによって、それが的中し、同年4月、「安国論御勘由来」において予言の的中を示されて再び幕府を諌められたが、幕府はこれをも無視してしまったのである。

そこで、大聖人は、ご自身の危険をも顧みず、同年10月、幕府と諸大寺に対し、法の正邪を決すべく十一通の書状をもって公場対決を迫られたのである。いまその一編を次に掲げよう。

「北条時宗への御状」にいわく、「謹んで言上せしめ候、抑も正月十八日・西戎大蒙古国の牒状到来すと、日蓮先年諸経の要文を集め之を勘えたること立正安国論の如く少しも違わず普合しぬ、日蓮は聖人の一分に当れり未萠を知るが故なり、然る間重ねて此の由を驚かし奉る急ぎ建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めたまえ、然らずんば重ねて又四方より責め来る可きなり、速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給え、彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり、諌臣国に在れば則ち其の国正しく争子家に在れば則ち其の家直し、国家の安危は政道の直否に在り仏法の邪正は経文の明鏡に依る。(中略)三国仏法の分別に於ては殿前に在り所謂阿闍世・陳隋・桓武是なり、敢て日蓮が私曲に非ず只偏に大忠を懐く故に身の為に之を申さず神の為・君の為・国の為・一切衆生の為に言上せしむる所なり、恐恐謹言」(0169)と。

すなわち諸宗との堂々たる公場対決こそ真に宗教の正邪を決する道であり、これを行なうことが、国の最高指導者たる鎌倉幕府のとるべき態度であると諌暁されたのである。

日本国の天下万民が謗法であり、しかも幕府の権力者には、念仏や真言等の強信者が多いなかにあって、このような書状を出すことは、あえて大難を自ら求めて呼び起こすようなものであった。案の定、幕府や主な寺院は、大聖人迫害への魔手をさらに伸ばしはじめたのであった。また、大蒙古国の襲来という国史に例を見ない大事件に、天下万民が全く動転し、正気を失ってしまったのである。そして、ついにはなんの罪もない大聖人を僉議にかけ、流罪・死罪等の重罪に処さんとしたのであった。

しかしながら、これら謗徒のいっさいの動きは十一通の状を認められたときに、すでに大聖人は見通しておられたのである。それは次の「弟子檀那中への御状」をみることによって拝察できる。

「大蒙古国の簡牒到来に就いて十一通の書状を以て方方へ申せしめ候、定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん少しも之を驚くこと莫れ方方への強言申すに及ばず是併ながら而強毒之の故なり、日蓮庶幾せしむる所に候、各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切って仏果を遂げしめ給え、鎌倉殿・宿屋入道・平の左衛門尉・弥源太・建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿・長楽寺已上十一箇所仍って十一通の状を書して諌訴せしめ候い畢んぬ、定めて子細有る可し、日蓮が所に来りて書状等披見せしめ給え、恐恐謹言」

日付も、十一通の書状と同じく1011日である。

すなわち、これら十一箇所への強諌の書状を認めたについては、必ずわが門下に対しても想像を絶する迫害が競うことであろう。そのときの心構えとして「妻子眷属を憶うこと莫れ」「生死の縛を切って仏果を遂げしめ給え」等といい含められたのである。では一体、なぜこのような生命におよぶ大難を予見されながら、あえて日蓮大聖人は、堂々と公場対決を迫られ、幕府や諸宗に強諌されたのであろうか。これこそ、ひとえに国を思い一切衆生を思われたがゆえにほかならない。とくに「敢て日蓮が私曲に非ず只偏に大忠を懐く故に」云云のご文には、御本仏の大慈大悲がほうふつと感ぜられるではないか。国を思い、一切衆生を思われる大聖人の徹底した慈悲の真心は、十一通の書状による不惜身命の国諌となってあらわれたのである。

ここで思い起こされるのは、あの忌まわしい太平洋戦争に直面した当時の軍部の独裁による神本仏迹の思想である。ときの軍部は、700年前、蒙古襲来のとき、神風が吹いたように、今度も天照太神を祭って祈ればこの戦争に勝てるという誤った思想に陥ってしまっていたのである。したがって、日本の国全体が謗法の国土と化してしまい、悪鬼の乱入した寺社に祈りをかけ、ますます国土が混乱していくのであった。もはや為政者、権力者には正常な者はいなかった。すなわち、もし神道帰依を拒んだならば、その人は軍部の手によって獄に繋がれ、その宗派全体が無謀な国家権力の弾圧にあってしまう、国をあげて神がかり的狂信になっていた。

これに対し、創価学会初代牧口会長は、日蓮大聖人の教えを純粋に守り通して、国家神道に敢然と反対し「いまこそ大御本尊の流布以外に国を救う道はない」と、身をもって主張したのである。ところが軍部は、宗派の統合という暴政を考え出して、日蓮正宗にもその魔手を伸ばしてきたのである。すなわち昭和16年(19417月に創刊した機関紙「価値創造」は、当局によって、昭和17年(1942510日付第9号をもって廃刊を命ぜられた。

昭和18年(1943)になると空襲警報発令で集会はできなくなり、座談会には刑事がやってきた。だが、このような厳しい弾圧下にあっても折伏活動は止まることなく続けられ、全国には5000人を数える学会員が正しい宗教への確信に立って活動をしぬいていたのである。そして、6月には特高警察がやって来て2名の学会員が逮捕されるに至った。さらに迫害弾圧の手は、7月牧口初代会長の投獄へと伸びていったのである。このときの牧口会長の心境を拝察するならば、さぞや日蓮大聖人の御金言を恐れ、仏罰を恐れ、日本民族が滅びることを恐れておられたことであろう。「一宗がほろびることではない、一国がほろびることを、なげくのである。宗祖大聖人のお悲しみを、おそれるのである。いまこそ、国家諌暁のときではないか。なにをおそれているのか」と。

厳然といいきられた牧口会長のご精神こそわが学会精神の源流である。700年前、日蓮大聖人が立正安国論をもって鎌倉幕府を諌められたが、ときの幕府は、念仏宗・禅宗・律宗に執着していっこうに法華経を信じようとせず、したがって立正安国論に予言された他国侵逼難が的中し、蒙古の襲来を呼び起こした。いま、時代こそ違え、法華経弘通の旗頭として立たれた初代牧口会長、また第二代戸田会長を投獄した罪は必ずや日本国に帰す、この仏法の峻厳なる方程式は、太平洋戦争における歴史始まって以来の大敗戦となって現われたのである。

 

政道の法

 

鎌倉幕府の根本法典は御成敗式目である。これは、貞永元年(1232)に、北条泰時が作成したものであり、貞永式目ともいう。

日本には、この御成敗式目制定以前に、聖徳太子の作といわれている十七条憲法があるが、御成敗式目は、この十七か条を天地人に配して五十一か条としたものであるといわれている。十七条憲法の内容は、儒教の教えを中心とした徳治主義と韓非子や管子などの中国古典に説かれた法治主義をも、比較的濃く加味したものである。すなわち儒家・法家の両説を採用して十七条憲法は作成されたのである。ちなみにこれはわが国では聖徳太子が最初である。したがって五十一か条から成る御成敗式目も、泰時が重時にあてた消息状に「この式目を作られ候ことに、なにを本説として、被注載之由、人さだめて謗難を加事候歟、まことにさせる本文にすがりたる事候はねども、ただだうりのをすところを被記候者也」と述べているように、法律の形式をとりながら、その底は道理であったのである。また、律令が、中国の法律を色濃く受け入れた法典であるのに対して、式目はわが国の慣習が法制化されたもので、その意味では高く評価できよう。式目に流れる道理とは、平安朝時代以来の武人の間に自然と発生発達した、現実的な封建道徳をさしている。

日蓮大聖人が、「設い日蓮が身の事なりとも国主となりまつり事をなさん人人は取りつぎ申したらんには政道の法ぞかし」と申されているのは、こうした道理を重んずるという式目の根本精神からいっても、大聖人の至誠の国諌を執権北条時宗へ取り次ぐのが当然のことではないか、と仰せられているのである。

この御文より、拝するならば当時の政治がいかに乱れていたか明らかである。本来、社会の乱れを是正するために制定された法が、一部の権力者の手によって、ふみにじられ、無視されていたのである。いつの時代においても、政治が腐敗し、権力が横暴化しているときには、法律はその根底の精神を失い、民衆のためではなく、為政者の具とされ、勝手に改変され、歪曲され、踏みにじられてきた。今日においてその姿が顕著にあらわれていることも、残念ながら事実である。

 

 

第二章(死身の弘法を説いて弟子を励ます)

  本文

日蓮悦んで云く本より存知の旨なり、雪山童子は半偈のために身をなげ常啼菩薩は身をうり善財童子は火に入り楽法梵士は皮をはぐ薬王菩薩は臂をやく不軽菩薩は杖木をかうむり師子尊者は頭をはねられ提婆菩薩は外道にころさる、此等はいかなりける時ぞやと勘うれば天台大師は「時に適うのみ」とかかれ章安大師は「取捨宜きを得て一向にすべからず」としるされ、法華経は一法なれども機にしたがひ時によりて其の行万差なるべし、仏記して云く「我が滅後・正像二千年すぎて末法の始に此の法華経の肝心題目の五字計りを弘めんもの出来すべし、其の時悪王・悪比丘等・大地微塵より多くして或は大乗或は小乗等をもつて・きそはんほどに、此の題目の行者にせめられて在家の檀那等をかたらひて或はのり或はうち或はろうに入れ或は所領を召し或は流罪或は頸をはぬべし、などいふとも退転なく・ひろむるほどならば・あだをなすものは国主は・どし打ちをはじめ餓鬼のごとく身をくらひ後には他国よりせめらるべし、これひとへに梵天・帝釈・日月・四天等の法華経の敵なる国を他国より責めさせ給うなるべし」ととかれて候ぞ、各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず、をやををもひ・めこををもひ所領をかへりみること・なかれ、無量劫より・このかた・をやこのため所領のために命すてたる事は大地微塵よりも・をほし、法華経のゆへには・いまだ一度もすてず、法華経をばそこばく行ぜしかども・かかる事出来せしかば退転してやみにき、譬えばゆをわかして水に入れ火を切るにとげざるがごとし、各各思い切り給へ此の身を法華経にかうるは石に金をかへ糞に米をかうるなり。
  仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり、わたうども二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし、わづかの小島のぬしらがをどさんを・をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき、仏の御使と・なのりながら・をくせんは無下の人人なりと申しふくめぬ、

 

現代語訳

これを聞いて日蓮は悦んで次のようにいった。「このような留難が降りかかることははじめからよく承知していたことである。雪山童子は半偈のために鬼神へ身を投げ与え、常啼菩薩は法を求めるために身を売り、善財童子は求法のために高山から火のなかに飛び込み、楽法梵士は仏法の悟りの句を書き残すために自分の身の皮を剥いで紙とし、薬王菩薩は臂を焼いて燈明とした。不軽菩薩は正法を説いて増上慢の者に杖木で打たれ、師子尊者は壇弥羅王に首を斬られ、提婆菩薩は法論に負けた外道の弟子に殺された。以上の実例はどういう時期に起こったのであろうかと考えてみると、天台大師は文句に『摂受か折伏かは時に適って行なうのである』と書き、それを受けて章安大師は涅槃経の疏に『摂折二門は時に拠って取捨宜しきを得て片寄るべきではない。すなわち、正像末で変わるものである』と記している。であるから法華経自体は一法であるけれども、衆生の機根に従い、時によってその修行の方法はさまざまに差別があるべきである。

釈尊が記していうには『我が滅後・正法・像法二千年をすぎて末法に入るとその始めに此の法華経の肝心である題目の五字だけを弘める人が出現するであろう。其のときには悪王や悪僧等が大地の土よりも数多くいて、あるいは大乗・あるいは小乗をもってこの法華経の行者と競い合うであろうが、此の題目の行者に折伏をもって責められるために、在家の檀那等をさそい合わせて、あるいは悪口し、あるいは打ち、あるいは牢に入れ、あるいは所領を取り上げ、あるいは流罪、あるいは首を斬るなどといって脅迫するが、にもかかわらず退転せずに正法を弘めるならば、これらの仇をする者は、国主は同士打ちをはじめ、国民は餓鬼のように互いにその身を食い合い、のちには他国から攻められるであろう。この他国侵逼難はひとえに梵天・帝釈・日天・月天・四大天王等が、法華経の敵である国を他国からその謗法の罪を責めさせるのである』と説かれている。

各々日蓮の弟子と名乗る人々は一人も臆する心を起こしてはならない。大難のときには親のことを心配したり妻子のことを心配したり所領を顧みてはならない。無量劫の昔から今日まで親や子のためまた所領のために命を捨てたことは大地の土の数よりも多い。だが法華経のためのゆえにはいまだ一度も命を捨てたことはない。過去世に法華経をずいぶん修行したけれども、このような大難が出て来た場合には退転してしまった。それは譬えば、せっかく湯を沸かしておきながら水に入れてしまい、火をおこすのに途中でやめておこしきれないようなものである。それではなにもならないではないか、今度こそ各々覚悟を決めきって修行をやりとおしなさい。命を捨てても此の身を法華経と交換するのは、石を黄金と取り換え、糞を米と交換するようなものである。

仏滅後二千二百二十余年たった今日までの間に、迦葉・阿難等の小乗教の付法者や、馬鳴・竜樹等の権大乗教の付法者、または南岳・天台等、妙楽・伝教等の法華経迹門の弘法者達でさえも、いまだに弘通しなかったところの法華経の肝心・諸仏の眼目である妙法蓮華経の五字が、末法の始めに全世界に弘まってゆくべき瑞相として、今、日蓮がその先駆をきった。わが一党の者、二陣三陣と自分に続いて大法を弘通して、迦葉・阿難にも勝れ天台・伝教にも超えなさい。わずかばかりの小島である日本の国の主等が威嚇するのをおじ恐れるようであっては、退転して地獄に堕ちたときに閻魔王の責めを一体どうするというのか。せっかく仏の御使いと名乗りをあげておきながら今さら臆するのは下劣な人々である」とよく弟子檀那達に申しふくめた。

 

語釈

雪山童子

釈迦が、過去世に雪山で菩薩道を修行したときの名。あるとき、鬼神から「諸行無常・是生滅法」の半偈を聞き、あとの半偈「生滅滅已・寂滅為楽」を聞くために、その鬼神にわが身を与えた。だがそのときの鬼神は帝釈であり、雪山童子の求道心を試みたのである。

 

常啼菩薩

大般若波羅蜜多経巻三百九十八に「常啼菩薩摩訶薩は本般若波羅蜜多を求むる時身命を惜まず珍財を顧みず名誉に徇わず恭敬を希わずして般若波羅蜜多を求む」とある。また常啼の名の因縁については、大智度論巻第九十六に「其の小時に喜んで啼きしを以ての故に常啼と名づく」とあるように、啼いて法を求めたためにこの名がある。

 

善財童子

南方を遊行して五十五人の善知識を歴訪したとき勝熱婆羅門の教えを受けるため、身を火中に投じ菩薩安住三昧を得たと華厳経入法界品に説かれている。福運があって、生まれるとき、種々の珍宝が自然に涌出したので、善財の名がある。

 

楽法梵士

釈迦が過去世に菩薩道を修行していたときの名。仏の一偈を聞くために皮を剝いで紙とし、骨を砕いて筆とし、血を墨として書写した。大智度論巻第四、弘決等にでている。

 

薬王菩薩

法華経薬王菩薩本事品第二十三にある。過去、日月浄明徳仏の世に、一切衆生憙見菩薩といわれ、仏から法華を聞いて、現一切色身三昧を得た。そして身を以って供養しようと、身を焼いて法華経および日月浄明徳仏に供養した。そののちふたたび生まれて日月浄明徳仏から付嘱を受け、日月浄明徳仏の涅槃に際しては、七万二千歳のあいだ臂を灯して、これに供養した。

 

不軽菩薩

法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、「御義口伝」(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。

 

師子尊者

師子、師子比丘ともいう。釈迦滅後千二百年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について法を学び、付嘱を受けて仏法を弘めた。付法蔵の二十四人の最後の伝灯者である。師子尊者が、罽賓国において仏法を流布していたとき、その国王檀弥羅は邪見が強盛で、婆羅門の勧めで多くの寺塔を破壊したり、多くの僧を殺害したりした。そしてついに師子尊者の首を斬ってしまった。だが、師子尊者の首からは一滴の鮮血も流れず、白い乳のみが涌き出たという。なお師子尊者を付法蔵の二十五とあるのは釈迦仏を含めている。

 

提婆菩薩

迦那提婆のこと。迦那とは片目の意。釈迦滅後750年ごろ、南インドの婆羅門の出身で、付法蔵の第十四番目の伝灯者。竜樹菩薩の弟子となり、各国を遊化して広く法を求めた。南インド王が外道に帰依していたので、王を救うために外道を徹底的に破折した。だがひとり凶悪な外道の弟子がいて、自分の師匠が提婆に屈服させられているのを怨んで、提婆を殺害した。しかし提婆はかえってその狂愚をあわれみ、外道の救済を弟子に命じて死んだ。

 

説法を受ける所化の衆生の機根。

 

正像二千年

仏滅後、正法時代1000年間と像法時代1000年間のこと。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは正法時代の次に到来する時代。像は似の義とされ、形式化して正しい教えが失われていく時代。

 

法華経の肝心

法華経本門寿量品の肝心。久遠名字の南無妙法蓮華経のこと。

 

在家の檀那

自らの生計を営みつつ仏道に帰依する者。

 

どし打ち

味方同士が相あらそうこと。

 

餓鬼

梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。

 

梵天

仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。

 

帝釈

梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indra)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。

 

日月

日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。

 

四天

四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。

 

無量劫

量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)。

 

仏滅後・二千二百二十余年

日蓮大聖人御在世当時で、文永年間後期から、建治・弘安年間がこれにあたる。

 

迦葉

釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある

 

阿難

梵語アナンダ(Ānanda)の音写。十大弟子の一人で常随給仕し、多聞第一といわれ、釈尊所説の経に通達していた。提婆達多の弟で釈尊の従弟。仏滅後、迦葉尊者のあとを受け諸国を遊行して衆生を利益した。

 

馬鳴

梵名アシュヴァゴーシャ(Aśvaghoa)の漢訳。付法蔵の第十二番目の伝灯者。一世紀から二世紀にかけての、中インド出身の大乗論師。はじめ外道を信じて論を張り、負けたならば舌を切って謝すと慢じていたが、富那奢に論破され仏教に帰依した。のちに大いに仏教を宣揚し、よく衆生を教化したという。著書に「仏所行讃」5巻、「犍稚梵讃」1巻などがあり、「大乗起信論」1巻なども馬鳴の作といわれている。

 

竜樹

梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。

 

南岳

中国、南北朝時代末期の僧。名は慧思。慧文について法華三昧を体得した。大蘇山(河南省)に拠ったとき、智顗(天台大師)に法華経・般若心経を講じた。晩年に南岳衡山(湖南省)で坐禅講説に努め、南岳大師といわれた。

 

妙楽

07110782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。

 

伝教

07670822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。

 

諸仏の眼目

諸仏は三世十方のすべての仏をいい、眼目は肝要、三大秘法の南無妙法蓮華経をいう。

 

一閻浮提

閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。

 

瑞相

きざし、前知らせ。必ず物事の前にあらわれる現証。天台は法華玄義巻第六の上に神通妙を釈したなかに「世人は蜘蛛掛るときは則ち喜事来り、鳱鵲鳴くときは則ち行人至ると以ふ。小尚徵あり。大焉んぞ瑞無からん。近を以て遠きを表するに、亦応に是の如くなるべし」と。

 

わづかの小島のぬし

日本国の執権・政権・天皇。

 

閻魔王

閻魔は梵語ヤマ(Yama)の音写。炎魔・琰魔・閻魔羅とも書く。死者が迷い行く冥界の主である。一説によると、死者は五週間に閻魔法王のところに行く。王は猛悪忿怒の形相で、浄頬梨鏡に映った死者の生前の業を裁くという。

 

無下の人人

仏の使いであると名乗りながら、ちょっとした弾圧や迫害に屈して、退転していく臆病な人々。

 

講義

法華経は一法なれども機にしたがひ時によりて其の行万差なるべし

 

この御文は仏道修行の根本精神を説かれたものである。今このことを述べるにあたって、日妙聖人御書を引用したい。

「章安大師云く『取捨宜しきを得て一向にすべからず』等これなり、正法を修して仏になる行は時によるべし、日本国に紙なくば皮をはぐべし、日本国に法華経なくて知れる鬼神一人出来せば身をなぐべし、日本国に油なくば臂をも・ともすべし、あつき紙・国に充満せり皮を・はいで・なにかせん」(1216:09)と。

この「日妙聖人御書」の文は、雪山童子や薬王菩薩等の修行と末法の修行の相違を明かされたものであるが、末法今日には、文底の妙法があらわれ、一切の民衆は、妙法を信じて直達正観するときである。したがって、われわれは、雪山童子・薬王菩薩のような修行をする必要は全くないのである。

しかして大聖人が、ここで雪山・薬王等の例をあげられているのは、仏道修行の根本精神は、ひたすらな求道心にあることを教示されんがためである。

今末法においては、久遠元初の自受用報身如来・日蓮大聖人がご出現になり、文底の南無妙法蓮華経が厳然と流布している。したがって民衆は、久遠の本仏・久遠の本法を信受して成仏することができるのである。

また正像二千年は、すでに過去世において釈迦の仏法にあって修行を積んで本已有善の衆生であり、したがって釈迦仏法を行じて成仏することができたのである。

この場合、しいて三大秘法の南無妙法蓮華経を説けばかえって反発し、衆生は過去にせっかく修行を積んでいてもその功を失うので折伏は良策ではない。すなわち正像二千年間は摂受によって救われる機なのである。

しかるに末法に入れば、本未有善の衆生であり、釈迦仏法は全くその功徳力を失ってしまう。すなわち、末法の民衆が救われる道は、唯一つ日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経によってのみ成仏の道が開かれていくのである。

「開目抄」にいわく、

「夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし……無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし」(0235:09)と。

日寛上人は、この文を「今且らく五義に約す」と述べられて、大要次のように釈されている。

一には教法に約せば、     法華はまさしく折伏の教法である。玄文第九に「法華折伏・破権門理」とあるごとくである。

二には機縁に約せば、     本未有善の衆生のためには折伏門をもって之を強毒するのである。

三には時節に約せば、     末法の逆縁の衆生のためには不軽品のように折伏でなければならない。

四には国土に約せば、     今の文の意である。悪国においては摂受を前とするが、日本は謗法の国土であるから折伏を前とするのである。

五には教法流布の前後に約せば、前々に流布した教法を破して当機益物の教法を弘めるのである。したがって、今末法においては、前代流布の爾前迹門を破して末法適時の大白法本門寿量の肝心を弘めるのである。

故に末法の仏道修行の要諦は、唯折伏の二字に尽きることが明らかである。

よって天台は法華文句に「時に適うのみ」と説き、章安は涅槃経疏に「取捨宣きを得て一向にすべからず」と釈しているが、いずれも仏法を弘める上において、摂受と折伏の二法を論じたものであり、その内奥においては末法は折伏以外にないことを述べているのである。

次に「法華経は一法」ということについて述べてみよう。この法華経とは釈迦の二十八品の法華経でも、天台の理の一念三千の法華経でもない。寿量文底事の一念三千の南無妙法蓮華経である。それは、正法時代における仏道修行の目的も、像法時代におけるそれも、しょせんはこの文底の妙法を覚知することにあったのである。

釈迦在世においては結縁しただけで得脱できなかった衆生は、正法・像法の二時代に得脱するが、まず正法時代に生まれた衆生は、小乗教、または権大乗経を縁として得脱した。

この場合、小乗教あるいは権大乗教に力があって得脱したのではなく、在世に、すでに法華経に結縁していたため、この両教を助縁として根源の種子である南無妙法蓮華経を覚知したためである。すなわち「教行証御書」に「夫れ正像二千年に小乗権大乗を持依して其の功を入れて修行せしかば大体其の益有り、然りと雖も彼れ彼れの経経を修行せし人人は自依の経経にして益を得ると思へども法華経を以て其の意を探れば一分の益なし、所以は何ん仏の在世にして法華経に結縁せしが其の機の熟否に依り円機純熟の者は在世にして仏に成れり、根機微劣の者は正法に退転して権大乗経の浄名・思益・観経・仁王・般若経等にして其の証果を取れること在世の如し」(1276:01)と。

また像法時代は、同じく在世に得脱できず、天台の迹面本裏の法華経、理の一念三千によって成仏する機根の衆生である。

そして末法には、釈迦仏法に縁のある衆生は悉く失せて、日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経によってのみ、久遠元初の下種を覚知し成仏できる機根の衆生である。

「曾谷入道殿許御書」には「正像二千余年には猶下種の者有り……今は既に末法に入って在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ彼の不軽菩薩末世に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり」(1027:12)と。

日寛上人は依義判文抄にこの文を次のように釈されている。

「今謹んで案じて曰く文に互顕あり、謂く『正像二千余年』等とは但過去下種を挙げて而して在世の結縁を略す、『今既に末法に入り』等とは但在世の結縁を挙げて過去の下種を略し互いに之を顕わすなり、『権実の二機』とは権は即ち熟益の機・実は即ち脱益の機なり・『毒鼓』は即ち是れ下種の機なり」と。

故に末法今日においては、釈迦仏法はいっさいを用をなさないのである。すなわち末法の衆生は南無妙法蓮華経によってのみ救われること明らかである。しかし、本未有善であるためにこの下種に対して恨みをいだき、本抄に示されたごとくに留難をなし、治罰をうけてから救われることになる。

 

死身弘法について

 

いま、創価学会の勢いは、旭日のごとくであり、その折伏の波動は、全世界におよんでいる。人種、国境、階級を越えて、大聖人の仏法が流布し、その力強い潮流は、誰人も、おし止めることはできない。まさに、順縁広布の時代というべきであろう。

しかし、この偉大なる今日の大発展は、ひとえに、三代にわたる創価学会会長の死身弘法の実践によって築かれたのである。

本章は、この死身弘法の信心とは、いかなるものか。大聖人のお振舞いを通して、お示しになられているのである。

「をやををもひ・めこををもひ、所領をかへりみること・なかれ」と。なんと厳しいお言葉であろうか。そして大慈大悲の御本仏・日蓮大聖人が、弟子檀那に対して、ここまでいいきられたそのご心境は、いかばかりであったろうか。

困難に直面したとき、妻子、眷属、所領をもかえりみず、ただただ、死身弘法に徹しきれる信心こそ、本当の信心というべきであろう。

大聖人は、かかる逆縁広布の最も困難な時代にあって、弟子檀那に、信心というものの至高至善のご境地をお示しになられたのである。「各各思い切り給へ」のお言葉のなかに、妙法広布以外のなにもないという、まさに、純粋な信心の結晶のようなものを感じるではないか。

また、「無量劫より・このかた・をやこのため、所領のために、命すてたる事は大地微塵よりも・をほし。法華経のゆへには・いまだ一度もすてず」との御文は、永遠の生命のうえから、死身弘法の信心を述べられているのである。

どんなに家庭の幸福を思い、自分の財産のために努力しても、そこには、絶対的解決はない。ただ、迷いから迷いに流転する人生にすぎない。しかし、仏法は永遠である。仏法による人間革命、家庭革命こそ永遠に崩れない根本からの解決なのである。はかない今世の欲得にとらわれて、永遠不滅の絶対的幸福を見失うことほど、不幸なことはない。人間・一度は死ぬ生命である。しかし、現代世相をみるならば、戦争で失う生命、交通事故など現代文明の犠牲となって失われる生命など、全くあわのようにはかなく生命は失われていく。人々は、かかる生命軽視の風潮のなかで、真に、人生の充実感を味わえる哲理を求めている。しかし、一体、いずこにそのような哲理があるであろうか。

大聖人は、「法華経のゆへには・いまだ一度もすてず」とお述べになっている。まさに、生涯、永遠不滅の哲理である大聖人の仏法を奉持し、広宣流布の大目的達成のために生き抜くことのできる人生こそ、最も価値のある人生というべきであろう。

「わたうども二陣三陣つづきて、迦葉・阿難にも勝ぐれ、天台・伝教にもこへよかし」との仰せも、現代に約すならば、大きな広布への使命感に立って、勇往邁進する人材が陸続と輩出することを示す御文と拝するのである。

いかなる事業も、その草創期における建設は非常な難事を極めるものである。まして、全民衆の幸福をめざす広宣流布の大業における、草創期の困難は、想像を絶するものであった。いま、この御文を拝するとき、その一端をうかがえる思いがするではないか。

時代は、自然に変わるものではない。それには、常に、弊害の発生源である旧体制との死力を尽くした戦いによって築かれるのである。

今こそ、わが生命の宝搭を、妙法によって、輝かせ、あらゆる分野で、大法弘通の新しい前進のために団結し、随力弘通をしていくことこそ、現代の死身弘法というべきであろう。

 

仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心云云

 

釈迦は、大集経のなかで、月蔵菩薩に対して未来の時を次のように説いた。

「我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固・次の五百年には禅定堅固已上一千年次の五百年には読誦多聞堅固・次の五百年には多造塔寺堅固已上二千年次の五百年には我法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん等云々」(0258:撰時抄:03)と。このように釈迦は、未来を三時に分け、さらに正法一千年を五百年ずつ、像法一千年をやはり五百年ずつに区切り、右のとおり予言しているのである。

迦葉が釈迦の滅後、付嘱をうけ、次に阿難が付嘱をうけ、商那和修・優波崛多・提多迦の付法蔵の第五まで各二十年、以上百年間はただ小乗教のみが弘通された。次の弥遮迦より仏陀難提・仏駄密多・脇比丘・富那奢までは正法のさきの五百年・解脱堅固の時代に小乗教を表とし、ごくわずかの大乗教を弘通した。次の馬鳴より禅定堅固の時代に入り、毘羅・竜樹・迦那提婆・羅睺羅多・僧伽難提・僧伽耶奢・鳩摩羅駄・闍夜那・婆修槃陀・摩奴羅・鶴勒那夜・師子、これに阿難から旁出した摩田提を入れて付法蔵の二十四人といい、釈迦の付嘱をうけ、その予言に応じて出現し、正法を説いた行者である。

また像法時代に入って、中国には南岳・天台・妙楽が出現し、わが日本には伝教が出現して、法華経迹門を弘通した。

だが、これら人師・論師は、いずれも法華経の肝心である南無妙法蓮華経は説かなかったし、弘めなかったのである。

「開目抄」にいわく、

「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり」(0189:02)と。

「観心本尊抄」にいわく、

「問うて曰く竜樹天親等は如何、答えて曰く此等の聖人は知って之を言わざる仁なり」(0245:04)と。

ここに明らかなごとく、正法時代後の五百年、禅定堅固の時代には、竜樹・天親は妙法を内鑑冷然し、外に向かってはいわなかったのである。

さらに像法時代に入り、天台・伝教等によって法華経の迹門は弘通されたが、法華経本門の肝心たる南無妙法蓮華経は説かれなかったのである。それは、南無妙法蓮華経は末法適時の要法なるがゆえに、正像の人師・論師には、その弘通は堪えられなかったのである。

すなわち、これらの人師・論師は自身では仏道を修行し、成仏の本種である妙法を覚知していたが、「自身堪えざる故、所被の機無き故、仏より譲り与えられざる故、時来たらざる故」の四つの理由をもって、妙法を外に向かっては説かなかったのである。しかしてまた、迹化の菩薩なるが故に末法には出現しなかったのである。

しかるに、天台自身は妙法を唱題していたことは、伝教の著作である修禅寺決には「天台大師行法日記に云く読誦し奉る一切経の惣要毎日一万遍」とあり、玄師伝に「一切経の惣要とは所謂妙法蓮華経の五字なり」とあるとおり明らかである。

大集経の予言のなかで、第五の五百歳は「闘諍言訟して白法穏没せん」とある。これは、末法は、邪智の者が多く、争いが絶えず、怒りっぽい者が充満する世の中であるという意味である。五濁悪世の時代で、民衆の心はすさびきってしまっているのである。したがって本已有善の衆生を対象とした釈迦仏法はその功力を隠没してしまうとの予言である。

そして釈迦仏法滅尽ののちに、末法の要法である文底秘沈の大法が興り、民衆は、この大法によって根本的に救済されていくのである。

釈迦は法華経の文において、処々に南無妙法蓮華経の弘まるべき時を明かしている。

薬王品にいわく、

「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶して、悪魔、魔民、諸天、竜、夜叉、鳩槃荼等に、その便を得せしむること無かれ」

分別功徳品にいわく、

「悪世末法の時、能く此の経を持たん者」

安楽行品にいわく、

「後の末世の、法滅せんと欲せん時に於いて、法華経を受持すること有らん者」

また法華経の文を釈して、

天台は「後の五百歳遠く妙道に沾わん」

妙楽は「末法の初め冥利無きにあらず」

伝教は「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り法華一乗の機今正しく是れ其の時なり。何を以て知ることを得る、安楽行品に云く末世法滅の時なり」と。

このように天台・妙楽・伝教はともに像法時代の導師であるが、いずれも末法をさして法華経流布の時であることを明かしているのである。

そして、この釈迦の予言どおり、また天台・伝教等の釈のとおり末法に御本仏日蓮大聖人がご出現になり、一切衆生のために南無妙法蓮華経を説かれたのである。

 

 

 第三章(念仏者等の讒言と平左衛門尉の敵対)

  本文

さりし程に念仏者・持斎・真言師等・自身の智は及ばず訴状も叶わざれば上郎・尼ごぜんたちに・とりつきて種種にかまへ申す、故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し道隆上人・良観上人等を頸をはねよと申す、御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし、但し上件の事・一定申すかと召し出てたづねらるべしとて召し出だされぬ、奉行人の云く上のをほせ・かくのごとしと申せしかば・上件の事・一言もたがはず申す、但し最明寺殿・極楽寺殿を地獄という事は・そらごとなり、此の法門は最明寺殿・極楽寺殿・御存生の時より申せし事なり。
  詮ずるところ、上件の事どもは此の国ををもひて申す事なれば世を安穏にたもたんと・をぼさば彼の法師ばらを召し合せて・きこしめせ、さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行わるるほどならば国に後悔あるべし、日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし、梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし、其の時後悔あるべしと平左衛門尉に申し付けしかども太政入道のくるひしやうに・すこしもはばかる事なく物にくるう。

 

現代語訳

こうしているうちに、念仏者や持斎・真言師等は、大聖人と法論で戦っても自分の智慧では勝つ見込みがなく、幕府へ訴え出ても目的を果たせなかったので、卑劣にも幕府高官の夫人や尼になった未亡人達に取りついていろいろ讒言をした。そこで彼女達が高官や奉行人に対して「諸宗の訴えによれば、日蓮は故最明寺入道時頼殿と極楽寺入道重時殿を無間地獄へ堕ちたといい、この方々が建立した建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等を焼き払えといい、道隆上人・良観上人等の首を斬れといっているという。それでは、評定衆の会議で処置が決まらなかったとしても日蓮の罪は免れないではないか。だから本人を召し出して以上の件を間違いなくいったかどうか直接たしかめるように」といいつけたため、九月十日に問注所へ召喚された。

その席上、奉行人が「お上の仰せは以上のとおりである。それに間違いないか」といったので、それに答えて「そのとおり、以上の件については一言も違わずいった。但し最明寺入道殿と極楽寺殿とを地獄へ堕ちたといったというのは訴人の作りごとである。此の法門は最明寺殿・極楽寺殿が御存生のときからいっていたことである。

詮ずるところ上の一件の事どもは此の国の前途を思っていっていることであるから、世を安穏にたもとうと思われるならば、彼の諸宗の法師達を召し合わせて自分と公場対決をさせてお聞きなさい。そうしないで彼の法師達に代わって理不尽に自分を罪におとすようならば、国に後悔する事件が起こるであろう。日蓮が幕府の御勘気を蒙るならば仏の御使いを用いないことになる。その結果、梵天・帝釈・日天月天・四大天王のお咎めがあって、日蓮を遠流か死罪にしたのち、百日・一年・三年・七年の内に、自界叛逆難といって北条幕府の御一門に同士打ちがはじまるであろう。そののちは他国侵逼難といって四方から、そのうち殊に西から攻められるであろう。そのとき、日蓮を罪におとしたことを後悔するに違いない」と平左衛門尉に申しつけたけれども、太政入道が狂ったように、彼は少しもまわりをはばからず怒り猛り狂った。

 

語釈

念仏者

念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。

 

持斎

斎とは戒法の一つで、一般には八斎戒を持つことを持斎という。八斎戒とは一に不殺、二に不盗、三に不淫、四に不妄語、五に不飲酒、六に不座高大牀、七に不作倡妓楽、八に不過中食で、この八斎戒は釈迦仏法における小乗の戒法であり、末法の修行には必要ない。しかし律宗等においてはこの戒法を持って、無智な大衆の間に広まった。ここでは戒律を持つことを強調した極楽寺良観の真言律宗をさす。

 

真言師

真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。

 

訴状

訴えの趣旨を記載した文章。

 

上郎

①修行を多年積んだ僧。②身分の高貴な人。上位に座すべき官位の高い人。

 

尼ごぜん

執権や高官の未亡人。

 

最明寺入道

北条時頼(12271263)のこと。最明寺で出家し法名を道崇と称したので、最明寺殿とも最明寺入道とも呼ばれる。鎌倉幕府の執権である。時氏の子、母は安達景盛の娘である。初め五郎と称し、のち左近将監・相模守に任じられた。兄経時の病死によって北条氏の家督をつぎ、寛元4年(1246)執権となる。ときに叔父名越光時が前将軍頼経と通謀して、自ら執権たらんと企てた。時頼は鎌倉を厳戒してこの陰謀を察知して光時を召喚したが、光時は謝罪出家した。結局光時を伊豆に流し、前将軍藤原頼経を京都に追放した。宝治元年(1247)舅の景盛と謀って幕府成立以来の豪族三浦氏を滅ぼし、建長元年(1249)には引付衆を設けて訴訟制度の能率化を図り、同4年将軍藤原頼嗣を廃して、宗尊親王を京都から迎えるなど、幕政の刷新と執権北条氏の権力確立に努力を傾けた。宋僧道隆について禅法を受け建長寺を建立した。出家の前日執権職を重時の子長時に委ね、最明寺を山内に造りそこに住んだが依然として幕政にたずさわっていた。当時鎌倉においては、法然の念仏宗をはじめ、禅、真言等の邪宗邪義がはびこり、政界にも動乱たえまなく、地震、大風、疫病等の天変地夭により、民衆は塗炭の苦しみにあえいでいた。ここに大聖人は、文応元年(1260716日に、宿屋入道を通じて、立正安国論を最明寺時頼に上書し、為政者の自覚をうながし、治国の者が邪宗に迷い正法を失うならば、必ず国の滅びる大難があると、大集経、仁王経、金光明経、薬師経等に照らされて訴えられた。しかし時頼は反省せず、かえって弘長元年(1261512日に、長時により大聖人は伊豆に流罪される。同3年に赦されたが、「聖人御難事」(1190)に「故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり」とあるように、時頼の意図であったことがわかる。

 

極楽寺入道

鎌倉幕府第二代の執権北条義時の三男・北条重時(11981261)のこと。執権泰時の弟。駿河・相模・陸奥守を兼任。寛喜2年(1230)から宝治元年(1247)まで、北方の六波羅探題をつとめた。宝治元年、三浦泰村の死後、鎌倉に帰り、執権北条時頼の連署(執権の補佐役)となった。その後陸奥守になり、康元元年(1256)に職を辞し、入道し、観覚と号した。極楽寺の別業となり、故に世に極楽寺殿と称された。日蓮大聖人が重時を破折したのに対し、重時は、自分が生来の念仏の信者であること、また、安房における東条の領家の問題とからんで、大聖人をひじょうに憎み、文応元年(1260)に起こった松葉が谷の草庵焼き討ちの事件を黙認した。その翌年5月、重時の子の長時が中心になって、日蓮大聖人を伊豆、伊東へ流罪した。その翌月、弘長元年(12616月、にわかに病気になり、苦しみのすえ地獄の相を現じて死んだ。

 

無間地獄

八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。

 

建長寺

神奈川県鎌倉市にある臨済宗建長寺派の本山。鎌倉五山の首位。巨福山と号す。建長元年(1249)第五代執権・北条時頼が建立を発願し、栄僧・蘭渓道隆を開山として建長5年(1253)に完成した。仏殿は尺六の地蔵を本尊とし、脇士に千体の小地蔵を置く。吾妻鏡の建長51125日の条には落慶の模様が「建長寺の供養なり。尺六の地蔵をもって中尊となし、また同象千体を安置す。相州殊に精誠を凝さしめたまう(中略)願文の草は前大内記茂範朝臣。清書は相州。導師は栄朝の僧道隆禅師」と記されている。

 

寿福寺

神奈川県鎌倉市にある臨済宗寺院。正治2年(1200)北条政子の発願によって建立。栄西が開山。初期の禅宗の発展に重要な位置を占めた。吾妻鏡の正治2年(1200)閏213日の条には「亀谷の地を葉山房律師栄西に寄付せられ、清浄結果の地たるべきの由、仰せ下さる。午の剋、結衆等その地に行道す。施主監臨したまう。所右衛門尉朝光、御輿に供奉す。義清仮屋を構え、珍膳を儲くと云々。未の剋、堂舍造作の事始なり。善信・行光等これを奉行す」と寿福寺の造営の始めについて記している。開山の栄西は興禅護国論巻上に「戒律は是れ令法久住の法なり。今此の禅宗は戒律を以って宗となす」と述べており、寿福寺では、戒律が重んじられたと思われる。

 

極楽寺

神奈川県鎌倉市にある真言律宗の寺院。霊鷲山感応院または霊山寺と号す。奈良・西大寺の末寺。元享釈書、縁起等によると、正元元年(1259)創建。幕府の重臣・北条重時の子の長時・業時の協力を得て開き、弘長元年(126112月、長時が良観を招いた。建治元年(12753月、火事で堂舎が灰塵に帰し、後に復興された。弘安4年(1281)蒙古調伏の祈禱を行ったことから、北条時宗によって祈願寺となり、元弘2年(1333)には後醍醐天皇の勅願寺になる。また極楽寺は飯島津=和賀江島を管轄し、六浦で通行税を徴収する特権を得ていた。

 

長楽寺

法然の弟子・隆観が住んでいたという。北条の一門である名越家の建立で現存しない。

 

大仏寺

大霊山浄泉寺と号する。建長寺の持分で、坐像長三丈六尺といわれ、阿弥陀仏であるから念仏宗である。寛元元年に浄光が建立した。

 

道隆

鎌倉時代の禅僧(12131278)。中国西蜀涪江の人。姓は冉氏。諱は蘭渓。13歳で出家し、陽山の無明慧性に禅を学んだ。33歳の時、日本渡航をこころざし、寛元4年(1246)、紹仁と共に九州大宰府に着いた。はじめ筑前円覚寺、ついで京都の泉涌寺に留まり、のちに北条時頼(12271263)の帰依を受け、時頼が建長5年(1253)建長寺を建立すると、迎えられて開山一世となった。門下に告げ口されて前後2回にわたり甲斐に配せられた。二度目に赦されて鎌倉へ帰ったがまもなく病を起こし弘安元年(1278724日没した。道隆は良観と共に日蓮大聖人に師敵対した張本人であり、北条執権を動かし、平左衛門尉と謀って迫害・弾圧のかぎりを尽くした。日蓮大聖人は、文永5年(126810月、「立正安国論」に予言した他国侵逼難が、蒙古からの牒状到来で的中した旨を、十一通の書状に認めて北条時宗をはじめ、時の権力者に諫暁をなされたのであった。このとき、道隆にも書状を送り、法の正邪を決すべく公場対決を迫られたのである。しかし、道隆はこれに応ぜず、卑劣にも幕府に働きかけて、文永8年(12719月、竜の口の法難となったのである。道隆については、一般に高僧とみられているが、実際は堕落僧であったことは、筑前在住時代に官位を金で買おうとして失敗し世人の嘲笑をかったことや、二度の告げ口が自分の門下より出たことから考えても明らかである。

 

良観

鎌倉時代の律宗の僧(12171303)。良観は法号で、諱を忍性といった。日蓮大聖人ご誕生より5年前に大和国に生まれた。17歳の時東大寺で受戒して出家し、のちに奈良西大寺の真言律宗の祖叡尊の弟子となった。叡尊は、律宗を再興し戒律を重んじ、二百五十戒、五百戒等を守ることをすすめ、それに真言の祈禱と弥陀の名号を称えることを加えるというでたらめな教義を作って一派をたてた。良観は後に、関東へ下り鎌倉へ入る。文応元年(1260)には北条時頼の連署であった重時が鎌倉の西南の景勝の地に極楽寺を創設し、自ら極楽寺入道重時と称した。重時が尊敬していた法然の教えは、日蓮大聖人によって徹底的に破折され選択集の邪義も明らかにされたので、彼はなにかに取り付かれたように大聖人の迫害に狂奔した。松葉が谷の草庵焼き打ち、伊豆流罪の黒幕であった。良観が最もとりいったのはこの重時である。文永4年(1267)には重時の子業時が良観を招いて極楽寺の開山とした。良観51歳の時であり、以後37年間にわたってここに住んだ。彼は幕府に巧妙にとり入って、自らの身の安泰をはかるとともに、日蓮大聖人に敵対する迫害の元凶となった。また良観は、粗衣粗食にして慈善事業を行ない、二百五十戒を堅く持った聖者であるがごとく振舞ったが、それはあくまでも見せかけであり、売名行為であった。「極楽寺良観への御状」(0174)に「良観聖人の住処を法華経に説て云く「或は阿練若に有り納衣にして空閑に在り」と、阿練若は無事と翻ず争か日蓮を讒奏するの条住処と相違せり併ながら三学に似たる矯賊の聖人なり、僣聖増上慢にして今生は国賊・来世はに堕在せんこと必定なり」とあるとおり、実に良観こそ法華経勧持品第十三に予言された三類の強敵中の第三僭聖増上慢であり、仏と共に出現し、仏のような姿で世人を幻惑して、内心には怨嫉をもち仏法を破壊しようとする、第六天の魔王の働きそのものである。

 

奉行人

奉行の役人。鎌倉幕府以降に置かれた職名。安堵・評定・恩沢・問注などの総称。

 

御勘気

主人または国家の権力者から咎めを受けること。

 

自界叛逆難

仲間同士の争い、同士討ちをいう。一国が幾つかの勢力に分かれて相争うこと。一政党の派閥、家庭内で、互いに憎みあうこと。現代においては、同じ地球共同体である国家と国家の対立も、自界叛逆難である。金光明経に「一切の人衆皆善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」大集経に「十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん」とあるように、民衆の生命の濁り、貧瞋癡の三毒が盛んになることから自界叛逆難は起こる。また、更にその根源は仁王経に「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とあるように、鬼神、すなわち思想の混乱が、全体の利益、繁栄しようとする統一を阻害し、いたずらに私欲、小利益に執着させ、利害が衝突し、争いが起こるのである。

 

他国侵逼難

他国から侵略される難。もとよりこれは武力による侵略であるが、政治的・経済的・精神的侵略があると考えられる。金光明経には「我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも 皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」「多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」仁王経には「四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん」大集経には「一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも 人随従せず常に隣国の侵嬈する所と為らん」等とある。

 

平左衛門尉

日蓮大聖人に敵対した鎌倉幕府の実力者(~1293)。名を頼綱という。執権北条氏の家司で侍所の司を兼ねていた。鎌倉幕府の機構は、評定制度であるが、最後の決定権は執権職が握っていた。しかるに平左衛門尉は、北条家の家司であるから、身分は評定衆よりはるかに下だが、実際の政治上、司法上の陰の実力は、政所の執事二階堂氏、問注所の執事太田氏などよりも強力であり、くわえて侍所の実権も握っているため、政兵の大権を自由にしていたことがわかる。終始、日蓮大聖人迫害の中心となり、大聖人を伊豆伊東、佐渡に流罪したのも、熱原の三烈士を斬首したのも彼であった。だが日蓮大聖人は、この平左衛門尉を「平左衛門こそ提婆達多よ」(0916)と、大聖人成道の善知識であると述べられている。

 

講義

さりし程に念仏者・持斎・真言師等・自身の智は及ばず、訴状も叶わざれば、上郎・尼ごぜんたちに・とりつきて、種種にかまへ申す

 

日蓮大聖人との祈雨の勝負に惨敗した良観は、自説の誤謬を認めるどころか、卑劣にも鎌倉在住の僧を結集して、大聖人に対抗する謗法の衆徒の一大連盟まで結集するに至ったのである。その中心人物は良観をはじめ光明寺の念阿良忠、浄光明寺の行敏、さらに長楽寺、大仏殿別当、寿福寺、多宝寺、建長寺等であった。

このうち、文永8年(127178八日に浄光明寺の行敏が大聖人に対論を挑んできた。「行敏初度の難状」がそれである。

「未だ見参に入らずと雖も事の次を以て申し承るは常の習に候か、抑風聞の如くんば所立の義尤も以て不審なり、法華の前に説ける一切の諸経は皆是妄語にして出離の法に非ずと是一、大小の戒律は世間を誑惑して悪道に堕せしむるの法と是二、念仏は無間地獄の業為と是三、禅宗は天魔の説・若し依って行ずる者は悪見を増長すと是四、事若し実ならば仏法の怨敵なり、仍て対面を遂げて悪見を破らんと欲す、将又其の義無くんば争でか悪名を痛ませられざらんや、是非に付き委く示し賜わる可きなり」(0179:01)と。

これに対して大聖人は同月13日、行敏に返書されている。

「聖人御返事」にいわく、

「条条御不審の事・私の問答は事行き難く候か、然れば上奏を経られ仰せ下さるるの趣に随って是非を糾明せらる可く候か、此の如く仰せを蒙り候条尤も庶幾する所に候」(0179:01)と。

大聖人に敵対する鎌倉仏教界の先兵のような形で大聖人に対して公場対決を申し入れた行敏であったが、その背後関係を見抜かれた大聖人は、いまや行敏ごときと私的な問答をする段階ではないことを書き送られているのである。

この返書を受け取った行敏は主謀の良観にさっそく謀り、ここにおいて問注所宛に訴状を提出したのである。ところが、もとより根拠なきものであるから、取り上げられようはずがない。

そこで、良観等は上郎・尼御前に讒言を構えたのである。讒言の内容は次のとおりであった。「故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し道隆上人・良観上人等を頚をはねよと申す、御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし、但し上件の事・一定申すかと召し出てたづねらるべし」と。

いつの世にあっても高位の大奥御殿女中や権力者の未亡人という者は、隠然たる実権を持っていた。ちょうどこの当時は、尼将軍政子の例もあって、とくにそのような傾向が強かったのである。夫のとむらいに念仏を称えていた尼御前達、あるいは念仏信者の上郎達は、これによって執権や連署に泣きついたのであろう。こうして、いよいよ大聖人は評定所に召喚され、事の次第を聞かれたのであった。まことに良観の存在というものが大聖人の仏法流布を阻止するためにのみ出現した魔の本質であることを、われわれはこの文から痛切に感ずるではないか。

 

日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし。梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて、遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて、此の御一門どしうちはじまるべし。其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし

 

この文は、法華経の行者・日蓮大聖人を迫害したならば、諸天善神が怒りをなして、遠流・死罪ののちに必ず自界叛逆難が起こり、さらには他国より攻められるということを明かされ、警告されている御文である。

このことについて、日蓮大聖人は、文永5年(12684月、「安国論御勘由来」を記されて、二難到来の原因を明かされている。

すなわち「法然・大日とて二人の増上慢の者有り悪鬼其の身に入って国中の上下を誑惑し代を挙げて念仏者と成り人毎に禅宗に趣く……諸大善神法味を飧わずして威光を失い国土を捨て去り了んぬ、悪鬼便りを得て災難を致し結句他国より此の国を破る可き先相勘うる所なり」(0034:15)と述べられて、一国謗法の失が、他国侵逼・自界叛逆の根本原因なることを明かされているのである。

この二難のうち、他国侵逼難については、第一章において触れておいたように、文永5年(1268)の蒙古の牒状到来によって的中し、さらには文永11年(1274)の文永の役、および弘安4年(1281)の弘安の役によって現実となったのである。また自界叛逆難は、文永9年(12722月の北条時輔の反乱によって、これも大聖人のご予言のごとく見事に的中したのである。

 

自界叛逆難と予言

 

日蓮大聖人は、文応元年(1260716日に「立正安国論」を時の得宗北条時頼に内奏し、はじめての国家諌暁をされた。文中には近年うち続く災難の根本原因を明かされ、念仏等の諸教を禁ずることこそ、国家安穏の唯一の道であると示されたのである。すなわち、立正安国の立正とは破邪に対する言葉であり、日蓮大聖人御建立の三大秘法こそ、要中の要、正中の正なのである。また安国とは、一往は日本および現在にあるが、再往は全世界および未来永劫に通ずるのである。また、薬師経、仁王経等の諸経の文を引かれて、三災七難の起こる原因を説き明かされたのである。すなわち一国謗法の国土となった日本の国こそ、安国論の文に照らして三災七難の起こる条件を備えた国であることは明白である。そして、すでに七難のうち、五難は次々と現われ、二難もまた安国論の予言どおり的中するであろうことは、理の当然であったといえよう。しかして、本抄においては、他国侵逼難・自界叛逆難の二難が見事に的中したことが述べられている。

さて、自界叛逆難の起こることを予言なされたのは、文応元年(12607月、「立正安国論」が最初であった。本章においては、「平左衛門尉に申し付けしかども云云」とお示しのごとく、竜の口法難の時、前後二度にわたって、大聖人迫害の張本人である平左衛門尉に対して堂々と申し付けられたのである。

さらに本抄の第九章に「日蓮不思議一云はんと思いて六郎左衛門尉を大庭よりよび返して云くいつか鎌倉へのぼり給うべき、かれ答えて云く下人共に農せさせて七月の比と云云、日蓮云く弓箭とる者は・ををやけの御大事にあひて所領をも給わり候をこそ田畠つくるとは申せ、只今いくさのあらんずるに急ぎうちのぼり高名して所知を給らぬか」と述べられているが、これは文永9年(1272)正月16日のことである。しかるに、北条時輔の乱は211日であり、わずか20数日後にこの予言は的中したのであった。

また、竜の口の法難は文永8年(12719月であるから、自界叛逆難が目前なることが御本仏の胸に感ぜられたからであろう。まことに凡夫の思慮すべからざるご境涯がひしひしと胸に迫ってくるではないか。

およそ、予言とは、一般的には未来に起こりうる物事を前もって推測していう言葉である。故に神秘的な言葉でも、啓示でもない。それは現実を透視した上での未来への洞察・予見である。これをなす人を予言者という。歴史上、予言者といわれる人は数多くいる。だが、それらの予言の大半ははずれている。それはなにゆえかといえば、彼らの予言は正しい史観、科学、哲学に裏付けられたものでなく、ただ情的な判断でなされたものであったり、現実の社会体制を分析してくだされた結論でしかなかったためである。

それに比して大聖人のご予言は、三世にわたる仏法史観、因果の理法、生命哲学の上から打ち出されたものである。

ここに「立正安国論講義」の文を引用する。

「不思議なことである。釈尊と日蓮大聖人とは二千年の隔りがある。だが、その経文と日蓮大聖人との間には、まったく隔りがないのである。経文の文々句々は、ことごとく大聖人の身に、また大聖人の時代の世相に、厳然と現われている。これほど偉大なことがあろうか。これほどすばらしいことがあろうか。仏にあらずんば、誰人が、二千年後の未来を予言できるであろうか。いわんやそれを寸分もたがえず的中させうるであろうか。これ、仏法こそ生命の奥底の真実を説ききり、かつは、大宇宙の鉄則をあますところなく説き窮めた証拠なりと確信してやまない。

およそ、予言の的中ほど、その法則なり、学説の偉大さを証明するものはない。ましてや、その予言、それが自然科学上の予言であれ、社会科学上の予言であれ、また生命の科学ともいうべき宗教的予言であれ、その根底には深遠な理解力と洞察力が必要なことはいうまでもない。

その期間の長さといい、スケールの大きさといい、仏法で説かれた予言ほど偉大なものはない。西洋のキリスト教や、マルクス・レーニン主義の予言などは、みんな、ほとんど的中せず、仏法の予言には足元にもおよばないものである」と。

また、予言を仏法の五眼の立ち場よりみるならば、その最高度の予言は、仏眼であり、この仏眼をもって未来を予見することである。

次に五眼とその働きとを列記してみよう。

① 肉眼  普通の人間の眼である。肉眼は近くは見えても遠くは見えない。前は見えても後ろは見えない。明るい所は見えても暗い所は見えない。

② 天眼  天界の衆生が持つ眼である。遠近、明暗を問わず物事を見る。

③ 慧眼  二乗所具の眼である。空理を遠見する眼である。われわれに約せば、深い知識体系、智慧の眼で、物事を判断することになろう。

④ 法眼  菩薩が所有する眼である。一切衆生に法を伝えるために法門を知る智慧の眼で、われわれに約せば仏法の法則からいっさいの事象を見ていく眼である。

⑤ 仏眼  三世十方を具さに見とおす仏の眼である。仏眼には、肉眼・天眼・慧眼・法眼を備えている。

この五眼に予言者をあてはめてみるならば、仏は最高の予言者であり、それ以外は、どこかに欠陥をもつ予言者か、または限定された基盤の上に立った推測者にすぎないといえまいか。

「聖人知三世事」にいわく、

「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う」(0974:01)と。

日蓮大聖人がご出現になられて、釈尊の数々の予言は全て真実となった。しからば未来における、広布の予言もまた必ずや的中することは、自明の真理といえよう。

釈尊は薬王品において、

「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布」と述べ、伝教は「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」と釈し、天台は「後の五百歳遠く妙道に沾わん」、妙楽は「末法の初め冥利無きにあらず」と述べている。

この予言に対して日蓮大聖人は次のごとく仰せである。

「諸法実相抄」にいわく、

「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(1360:09

「聖人知三世事」にいわく、

「教主釈尊既に近くは去って後三月の涅槃之を知り遠くは後五百歳・広宣流布疑い無き者か」(0974:05

以上のように広宣流布のご確信を述べられている。この大聖人の御遺命を奉ずる者の信心は、峻厳かつ勇猛でなければならない。

すなわち「日興遺誡置文」にいわく、

「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」(1618:06)と。

また、日蓮大聖人の仏法が、世界的な宗教であることにについて、「顕仏未来記」に次のように述べられている。

「此の人は守護の力を得て本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか……遵式の云く「始西より伝う猶月の生ずるが如し今復東より返る猶日の昇るが如し」等云云……仏記に順じて之を勘うるに既に後五百歳の始に相当れり仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(0507:06)。

また、「諫暁八幡抄」にいわく、

「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」(0588:18

故に、日蓮大聖人は、もともと世界広布を前提としておられたことが明らかである。

 

 

第四章(二度目の諌暁と御勘気)

  本文

去文永八年太歳辛未九月十二日・御勘気をかほる、其の時の御勘気のやうも常ならず法にすぎてみゆ、了行が謀反ををこし大夫の律師が世をみださんと・せしを・めしとられしにもこえたり、平左衛門尉・大将として数百人の兵者にどうまろきせてゑぼうしかけして眼をいからし声をあらうす、大体・事の心を案ずるに太政入道の世をとりながら国をやぶらんとせしににたり、ただ事ともみへず、日蓮これを見てをもうやう日ごろ月ごろ・をもひまうけたりつる事はこれなり、さいわひなるかな法華経のために身をすてん事よ、くさきかうべをはなたれば沙に金をかへ石に珠をあきなへるがごとし、さて平左衛門尉が一の郎従・少輔房と申す者はしりよりて日蓮が懐中せる法華経の第五の巻を取り出しておもてを三度さいなみて・さんざんとうちちらす、又九巻の法華経を兵者ども打ちちらして・あるいは足にふみ・あるいは身にまとひ・あるいはいたじき・たたみ等・家の二三間にちらさぬ所もなし、日蓮・大高声を放ちて申すあらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをすと・よばはりしかば上下万人あわてて見えし、日蓮こそ御勘気をかほれば・をくして見ゆべかりしに・さはなくして・これはひがことなりとや・をもひけん、兵者どものいろこそ・へんじて見へしか、十日並びに十二日の間・真言宗の失・禅宗・念仏等・良観が雨ふらさぬ事・つぶさに平左衛門尉に・いゐきかせてありしに或はどつとわらひ或はいかりなんど・せし事どもはしげければ・しるさず、せんずるところは六月十八日より七月四日まで良観が雨のいのりして日蓮に支へられてふらしかね・あせをながし・なんだのみ下して雨ふらざりし上・逆風ひまなくてありし事・三度まで・つかひをつかわして一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか、いづみしきぶいろごのみの身にして八斎戒にせいせるうたをよみて雨をふらし、能因法師が破戒の身として・うたをよみて天雨を下らせしに、いかに二百五十戒の人人・百千人あつまりて七日二七日せめさせ給うに雨の下らざる上に大風は吹き候ぞ、これをもつて存ぜさせ給へ各各の往生は叶うまじきぞとせめられて良観がなきし事・人人につきて讒せし事・一一に申せしかば、平左衛門尉等かたうどし・かなへずして・つまりふしし事どもはしげければかかず。

 

現代語訳

去る文永八年太歳辛未九月十二日に御勘気を蒙った。そのときの御勘気のありさまも尋常ではなく、法を越えた異常なものであった。九條堂の了行が謀反をおこしたときよりも、大夫の律師良賢が幕府を倒そうとして露見して召し取られたときにも増した無法で大がかりなものであった。そのありさまは平左衛門尉が大将となって、数百人の兵士に胴丸を著せて、自分は烏帽子をかぶって眼を瞋らし声を荒げてやってきた。大体、この事件の奥底を考えてみると、太政入道清盛が天下をとりながら非道専横を重ねて国を亡ぼそうとしたのに似ていて、ただごととも見えなかった。自分はこれを見て次のように思った。「つね日ごろ、月々に考えついていたことはこれである。ああ幸いなるかな法華経のために一身を捨てようとは。臭い凡身の首を斬られるならば砂と黄金を交換し石をもって珠を買いもとめるようなものではないか」と。

さてそのときの光景は、平左衛門尉の第一の郎従である少輔房という者がかけ寄って、日蓮が懐にいれていた法華経の第五の巻を取り出し、それで自分の顔を三度なぐりつけてさんざんに抛げ散らした。また残り九巻の法華経を兵士達が抛げ散らし、あるいは足で踏みつけ、あるいは身にまきつけ、あるいは板敷きや畳など、家の中の二三間に散らさないところがなかった。このとき日蓮は大高声で彼等にいった。「なんとも面白い平左衛門の気違い沙汰を見よ! おのおのがたはただ今日本国の柱を倒しているのであるぞ!」と宣言したところ、その場の者全部があわててしまった。日蓮の方こそ御勘気を蒙ったのであるからおじけづいて見えるべきであるのに、そうではなく逆になったので、「これは越権で悪いことだ」とでも思ったのであろう。兵士達の方が顔色を変えてしまったのがよく見えた。

十日の召し出されたときと十二日の逮捕の夜、真言宗の失や禅宗・念仏宗の邪法であること・良観が雨乞いを祈って降らすことをできなかったことを詳しく平左衛門にいい聞かせたところ、あるいは一斉にあざ笑い、あるいは怒りなどした事は煩しいので書かない。要するに、六月十八日から七月四日まで幕府の命を受けて良観が雨乞いをして、日蓮に阻止されて降らせることができず、汗を流し涙だけ流して雨が降らなかった上に逆風が吹き続けたこと、この祈りの間、三度まで使者をつかわして「一丈の堀を越えることのできない者がどうして十丈・二十丈の堀を越えられようか。和泉式部が好色不貞の身でありながら八斎戒で制止している和歌を詠んで雨を降らし、能因法師が破戒の身でありながら和歌を詠んで雨を降らせたのに、二百五十戒の持者ともあろう人々が百千人も集まってひと七日もふた七日も天を責め立て給うたのに、どうして雨が降らない上に大風が吹くのであるか。この現象をもって知りなさい。あなたがたの往生は叶うまい」と責めたので良観が泣いたこと、彼がこの敗北を逆うらみして高家の女房等にとり入って讒奏したことなどを、一つ一つはっきりと申し聞かせたところ、平左衛門尉等が良観の味方をしたが、理に詰まり弁護しきれなくなってついに沈黙してしまったことなどは煩わしいからここには書かない。

 

語釈

去文永八年太歳辛未九月十二日

竜の口の法難をいう。北条執権の内管領で侍所所司である平左衛門尉は、同日、武装した家人を率いて、松葉ケ谷の草庵を襲い、大聖人を捕え、未明に殺害しようとしたが、果たせなかった。発迹顕本の法難である。

 

了行が謀反

建長3年(1251)、9條堂の僧了行は、矢作左衛門尉、長次郎左衛門尉久連等と鎌倉幕府の転覆を謀った。だが未然に発覚し、幕府は建長3年(12511226日に了行等を逮捕し、死刑に処した。この事件が重大視されたのは、背後で、前将軍頼経や公家の藤原道家等が関係していたからである。

 

大夫の律師

鎌倉時代の武将。名は良賢という。駿河の三浦義村の子で、鎌倉幕府の滅亡を企み、陰謀を謀ったが、平左衛門尉盛時や、諏訪盛重入道等に弘長元年(1261622日に捕われ、殺された。

 

どうまろ

鎧の一種。平安時代に創始され、桶側のように胴を円く囲み、それを右脇で合わすように作ったもの。軽装で、活動に便利なため近世まで用いられた。

 

ゑぼうし

男子が用いた袋型のかぶりもの。奈良時代から江戸時代まで用いられた。その初めは天武天皇であるといわれている。

 

太政入道

11181181)。平清盛のこと。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。

 

まさご。石のきわめて細かいもの。

 

少輔房

はじめ日蓮大聖人に帰依しながら退転した僧。平左衛門尉頼綱に仕え、大聖人を鎌倉・松葉ヶ谷の草庵に襲い、法華経第五の巻で大聖人の頭を打った僧でもある。「聖人御難事」、「弁殿御消息」、「法門申さるべき様の事」、「上野殿御返事」等にも退転した少輔房のことが書かれてある。

 

法華経の第五の巻

法華経八巻の巻第五。提婆品・勧持品・安楽行品・涌出品からなる。このうち勧持品の二十行の偈には、末法の法華経の行者を迫害する三類の強敵が説かれている。

 

真言宗の失

真言宗の過失、真言亡国の所以。①大日経が法華経に勝れているとする謗法の失。②大日如来が教主釈尊に勝れているとする僻見。

 

禅宗

禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。

 

念仏

念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。

 

いづみしきぶ

和泉式部は平安時代の女流歌人。異性関係が派手で乱脈であったという。その歌は情熱奔放、想像力豊かで、わが国女流歌人のなかでは異色の存在である。「ことわりや日の本なれば照るぞかし、降らざらめやはあめが下には」という和歌を詠み、雨を降らせたという。

 

八斎戒

八関戒とも、八支斎とも、八戒ともいう。関とは禁の義である。殺・盗・淫等の八罪を禁じて犯させないという意味である。斎とは過中不食といって日中をすぎてものを食べないことをいう。八戒をもって斎法を助成し、斎法をもって八戒を成弁するのである。共に相支持するので、八支斎法と名づける。在家の男女が一日一夜修行する戒法で、受十善戒経に「若し十善を受くるも、八戒を持たずんば、終に成就せず。八斎戒とは、これ過去現在の諸仏如来、在家の人のために出家の法を制す」とある。毎月8日・14日・15日・23日・29日・30日の6日において八斎戒を行ずれば諸天相慶祥して、福禄を増し寿命を述べるという。これを六斎日といっている。1日、18日、24日、28日を加えて十斎日ともいう。この八斎戒には二意があるが内容は同じである。倶舎論によると八所応離という。①離殺生 ②離不与取 ③離非梵行 ④離虚誑語 ⑤離飲諸酒 ⑥離塗飾香鬘歌舞視聴 ⑦離眠坐高広厳麗牀座 ⑧離食非時食である。受十善戒経等はこれと同じである。

大智度論、雑阿含経等は「塗飾香鬘「歌舞視聴」を別にしている。すなわち、①不殺生 ②不盗 ③不淫 ④不妄語 ⑤不飲酒 ⑥不座高大牀上 ⑦不著華瓔珞不香塗身 ⑧不自歌舞作楽不往視聴 ⑨一日一夜不過中食 となっている。これは八戒と斎法を別にしたのである。ここで「八斎戒にせいせるうた」とは⑨の「不自歌舞作楽不往視聴」を指していると思われる。

 

能因法師

本名を橘永愷といい、平安時代の京都の歌僧。生没年は不詳。父の忠望の跡を継いで和歌を好み、藤原長能について和歌を学んだ。のちに出家して能因と称した。伊予国の大旱魃をみて、「天の川苗代水にせきくだせ天くだります神ならば神」という和歌を詠み、三島神社に納めたところ、たちまちにして雨が降ったという。

 

破戒

戒を破る者の意。ここでは能因法師は、僧の身でありながら、戒に制止している和歌を詠み、また、京都・北嵯峨にいながら東北を旅したごとく「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と虚偽の和歌を詠んでいる。故に破戒の身と評されているのである。

 

二百五十戒

男性出家者(比丘)が守るべき250カ条の律(教団の規則)。『四分律』に説かれる。当時の日本ではこれを受けることで正式の僧と認定された。女性出家者(比丘尼)の律は正確には348カ条であるが、概数で五百戒という。『叡山大師伝』(伝教大師最澄の伝記)弘仁9年(818年)暮春(3月)条には「二百五十戒はたちまちに捨ててしまった」(趣意)とあり、伝教大師は、律は小乗のものであると批判し、大乗の菩薩は大乗戒(具体的には梵網経で説かれる戒)で出家するのが正当であると主張した。こうしたことも踏まえられ、日蓮大聖人は、末法における持戒は、一切の功徳が納められた南無妙法蓮華経を受持することに尽きるとされている。

 

講義

法華経の第五の巻

 

平左衛門尉の一の郎従少輔房が、大聖人の懐中から取り出した法華経は、不思議にも第五の巻であった。第五の巻には、提婆品、勧持品、安楽行品、従地涌出品の四品が含まれている。このなかで勧持品は如来の滅後、法華経を弘通するときには三類の強敵が出現し、その弘教を妨げるという偈文が説かれている品である。したがって、ここで「第五の巻」と仰せられているが、とくには勧持品を指されているのである。

「日蓮は刀杖の二字ともに・あひぬ、剰へ刀の難は前に申すがごとく東条の松原と竜口となり、一度も・あう人なきなり日蓮は二度あひぬ、杖の難にはすでにせうばうにつらをうたれしかども第五の巻をもつてうつ、うつ杖も第五の巻うたるべしと云う経文も五の巻・不思議なる未来記の経文なり、されば・せうばうに日蓮数十人の中にしてうたれし時の心中には・法華経の故とはをもへども・いまだ凡夫なればうたてかりける間・つえをも・うばひ・ちからあるならば・ふみをりすつべきことぞかし、然れども・つえは法華経の五の巻にてまします……日蓮仏果をえむに争かせうばうが恩をすつべきや」(1557:04

未来記の経文とはまさしく勧持品である。

さて観持品については、文句巻八下に「二万の菩薩、命を奉じて経を弘む、故に持品と名づく、重ねて八十万億那由佗を勧めて経を弘む、故に勧持品と名づく、問う、何が故に爾るや。答う、二万は是れ法師品の初の別名の数なり、故に旨を奉じて受持す、八十万億那由佗等は、前に別命無し、止だ是れ通じて覓む、今仏は眼に視て其をして誓いを発し、此土に経を通ぜしむ、通経の証験は深重にして仏意は殷勤なり、是故に勧を蒙て而も弘む、故に二意有るなり」とある。

また観心の立ち場より見れば、日蓮大聖人は「御義口伝」において次のように明かされている。

「勧持の事、御義口伝に云く勧とは化他・持とは自行なり南無妙法蓮華経は自行化他に亘るなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経を勧めて持たしむるなり」(0747:第一勧持の事:04)と。

すなわち末法今日における勧持とは、南無妙法蓮華経を行じ弘めることに尽きる。ここにもったいなくも日蓮大聖人が、命をも惜しまず南無妙法蓮華経を弘通されている、その御本仏のお振舞いこそは、勧持品を身口意の三業で読まれているお姿でなくしてなんであろうか。

しかして、「寺泊御書」に「勧持品に云く『諸の無智の人有って悪口罵詈し』等云云日蓮此の経文に当れり汝等何ぞ此の経文に入らざる、『及び刀杖を加うる者』等云云、日蓮は此の経文を読めり汝等何ぞ此の経文を読まざる……『悪口して顰蹙し数数擯出せられん』数数とは度度なり日蓮擯出衆度流罪は二度なり」(0953:15)と述べられて、日蓮大聖人こそが勧持品を、文のごとく身をもって読まれたことを示されているのである。

翻って、今日においては、日蓮大聖人ご在世のように、折伏を行じて刀杖を加えられたり、流罪にあったり、身命に及ぶようなことはない。いまや、創価学会という一大和合僧団が出現して広宣流布に向かって邁進しているのである。順風に帆をはった舟のごとく、ただ広宣流布という大目的に向かって、一筋道を悠々と進んでいるのである。

ではこの勧持品の精神は、今日のわれわれの信心にあてはめてみるならば、どこに流れているのであろうか。「南無妙法蓮華経を勧めて持たしむるなり」とは「折伏」の実践に尽きるであろう。

勧持品は、釈尊にとっては、末法の法華経の行者の相貌を説き顕した予言書であり、日蓮大聖人にとっては、自らが御本仏たることの証明である。さらに日蓮大聖人は、この勧持品を観心の立ち場より、御義口伝に釈されているのである。この御義口伝の「勧持」の釈こそ末法のわれわれに対する付嘱であり、広布達成の御遺命ではないか。またわれわれの信心の明鏡である。

 

日蓮・大高声を放ちて申す。あらをもしろや、平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをす

 

まさに御本仏にして初めて喝破せる言葉である。自らの処刑を前にして、今回の大難の首謀者たる平左衛門尉に向かって、このように大高声をもって諌められるなどということは、到底凡夫のできることではない。

そして「兵者どものいろこそ・へんじて見へしか」と申されているように、この場の大聖人のあまりにも崇高な、厳然としたお姿になみいる召捕人達も「さては、この召捕りは不法かな」と、自らの行動に不審を抱き、顔面蒼白となってしまったのである。

さらに、この文は「日本国の柱云云」と申されているとおり、御本仏の確信が躍如としている。「開目抄」にいわく「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(0232:05)と。ここに主師親三徳を具した御本仏とは、日蓮大聖人御自身なることを明かされたのである。翻って本抄の「日本国の柱云云」との仰せも、御本仏と拝するになんの異議があろうか。

およそ、古今東西の先哲、偉人あるいは教祖と称される人々の行動が、いかに、世間から秀れているといわれていても、日蓮大聖人のお振舞いに比較するならば、太陽の前の蛍火にも似た存在となってしまう。

この堂々たる大聖人のお振舞いに比較するに、キリストの臨終は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と憔悴しきった哀音を発していたという。最後の最後まで奇跡を信じていた信徒達であったが、肝心の磔の刑の際には、奇跡は起こらなかったのである。大聖人のお振舞いには、御本仏としての偉大なる確信と、諸天善神の加護が厳然とあった。

それに対して、キリストが煩悶懊悩しながらその一生を終えたという明白なる事実は、動かしようがないのである。われわれは、この冷厳なる事実に眼を開き、日蓮大聖人の大師子吼を胸中に抱いて、雄々しく広宣流布の大道を邁進していきたいものである。

 

良観が雨ふらさぬ事

 

文永8年(1271)の2月ごろから6月にかけて起こった全国的な大旱魃は国土を荒廃させ、民心を疲弊させた。そこで618日、良観は祈雨の法を行じて、万民を助けようと公言したのである。良観が祈雨の法を行ずると聞いた大聖人は、いまこそ良観の邪法ぶりを天下に知らしめんと、法の勝負を挑まれたのである。「七日の内にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし」(1157:頼基陳状:17)と。

これを聞いた良観は喜んだ。良観は、弟子百二十余人を集結して、念仏を称えたり、請雨経を読んだり、法華経を読んだり、あるいは八斎戒を説いたりして、あらゆる祈雨の法を行じたのである。

ところが、4日たっても5日たっても、雨の降る気配が全く見えない。約束の日が目前に迫っている。良観は気違いのようになって多宝寺の弟子等を数百人呼び集めて肝胆をくだいて祈禱したが、約束の7日が経過しても、露ほどの雨も降らず、ここに良観の悪法邪法ぶりが弾劾されたのであった。

良観はさらに7日の猶予を大聖人に願って修法を続けた。「今の祈雨は都て一雨も下らざる上二七日が間前よりはるかに超過せる大旱魃・大悪風・十二時に止む事なし」(0350:10)その結果、以前よりももっとひどい大旱魃に見まわれ、さらに大悪風を招来してしまったのである。

卑劣極まる良観は、この勝負の明らかな敗戦にもかかわらず、自らの非を悔い改める気配など微塵もなかった。それどころか、この一件によってさらに大聖人への怨みを深め、讒言を用いることによって大聖人を竜の口の法難にまで追い込んだのである。「持戒・持律の良観房は……数百人の衆徒を率いて七日の間にいかにふらし給はぬやらむ、是を以て思ひ給へ一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越えてんややすき雨をだに・ふらし給はず況やかたき往生成仏をや」(1158:09)と。

日蓮大聖人は、日本に知らない人がいない天下に並びなき法華一乗の行者であり、良観は、慈善行為によって身を飾り、やはり天下に知れたる虚飾の僧である。衆目は、当然この法の勝負に集まったことであろう。敢然とお一人で勝負を挑まれた大聖人、祈っても祈っても雨が降らず魂を抜かれた良観、数百人もの衆徒を集結し、盛大な修法を試みるが、しょせんは邪法の祈りである。諸天が怒りをなし、悪風・旱魃を増大するのも当然である。

そして大聖人は、良観らの邪法によってはむずかしい往生成仏など絶対にできないぞ、と強折された。このとき良観の邪法の根は大聖人の正法の利剣によって断ち切られたといって過言ではない。

 

一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか

 

ここに「一丈のほり」とは雨を降らすことであり、「十丈・二十丈のほり」とは往生成仏である。

良観は、すでに祈雨の勝負で日蓮大聖人の正法に阻止されて雨を降らすことができず、その法の低級ぶり、邪教ぶりを天下にしらしめたのであった。そこで大聖人は、良観のもつ法では、往生など絶対に叶わないぞ、と痛烈に破折されたのである。

この文をわれわれの生活にあてはめて論じてみるならば、「十丈・二十丈」とは個人にとっては絶対的な幸福生活の確立、すなわち成仏であり、社会的にみれば広宣流布である。そして「一丈のほり」とは、われわれの日常生活・行動となろう。

われわれの日常生活・行動が、御本尊を根本にした毎日であるか、あるいはほかのなにかを根本とした毎日か、この違いが、その人の将来を大きく左右するのである。いうなれば、仏法は瞬間瞬間が勝負である。その瞬間の勝負を信心根本に乗り越え、勝ってこそ、未来の大きな勝利の栄光があるのである。その勝負は塵芥のごとき極少のものかもしれない。だが大山も塵芥の集積によってなっていることをしらねばならない。

したがって個人個人の最終目的である成仏も、瞬間瞬間の勝負を信心の二字でもって勝っていったときに、その人の頭上に燦然と輝くのである。さらに、われわれの信心の実践とは、広宣流布に通ずるものである。公布の大願成就も所詮、地道な粘り強い戦いによってかちとられていくことを知らなくてはならない。

 

 

 第五章(若宮八幡での諸天善神の諌暁)

  本文

さては十二日の夜・武蔵守殿のあづかりにて夜半に及び頸を切らんがために鎌倉をいでしに・わかみやこうぢにうちいでて四方に兵のうちつつみて・ありしかども、日蓮云く各各さわがせ給うなべちの事はなし、八幡大菩薩に最後に申すべき事ありとて馬よりさしをりて高声に申すやう、いかに八幡大菩薩はまことの神か和気清丸が頸を刎られんとせし時は長一丈の月と顕われさせ給い、伝教大師の法華経をかうぜさせ給いし時はむらさきの袈裟を御布施にさづけさせ給いき、今日蓮は日本第一の法華経の行者なり其の上身に一分のあやまちなし、日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間大城におつべきを・たすけんがために申す法門なり、又大蒙古国よりこの国をせむるならば天照太神・正八幡とても安穏におはすべきか、其の上・釈迦仏・法華経を説き給いしかば多宝仏・十方の諸仏菩薩あつまりて日と日と月と月と星と星と鏡と鏡とをならべたるがごとくなりし時、無量の諸天並びに天竺・漢土・日本国等の善神・聖人あつまりたりし時、各各・法華経の行者にをろかなるまじき由の誓状まいらせよと・せめられしかば一一に御誓状を立てられしぞかし、さるにては日蓮が申すまでもなし・いそぎいそぎこそ誓状の宿願をとげさせ給うべきに・いかに此の処には・をちあわせ給はぬぞと・たかだかと申す、さて最後には日蓮・今夜・頸切られて霊山浄土へ・まいりてあらん時はまづ天照太神・正八幡こそ起請を用いぬかみにて候いけれとさしきりて教主釈尊に申し上げ候はんずるぞいたしと・おぼさば・いそぎいそぎ御計らいあるべしとて又馬にのりぬ。

 

現代語訳

さて十二日の夜は、武蔵守宣時の預かりで夜半に達し、それから首を斬るために鎌倉を出発したが、若宮小路に出たとき、四方を兵士が取り囲んでいたけれども日蓮は「みんな騒ぎなさるな、ほかのことはない、八幡大菩薩に最後にいうべきことがある」といって馬からおりて大高声で次のようにいった。「本当に八幡大菩薩はまことの神であるか。和気清磨呂が道鏡の策謀によって首を斬られようとしたときはたけ一丈の月と顕われて守護し、伝教大師が宇佐八幡宮の神宮寺で法華経を講じられたときは紫の袈裟をお布施としておさずけになった。今日蓮は日本第一の法華経の行者である。その上身に一分の過失もない。いま法のために首を斬られようとしているがこれは日本の国のいっさいの衆生が法華経を誹謗して無間大城に堕ちるべき者を助けようとして申している法門である。また大蒙古国からこの国を攻めるならば天照太神・正八幡であっても安穏ではおられようか。その上、釈迦仏が法華経を説いたときには多宝仏・十方の諸仏・菩薩が集まって、そのありさまが日と日と月と月と星と星と鏡と鏡とを並べたようになったとき、無量の諸天並びに天竺・漢土・日本国等の善神・聖人が集まったとき、仏に『おのおの法華経の行者に対して疎略な守護をいたしませんという誓状を差し出しなさい』と責められて一人一人の誓状を立てたではないか。である以上は日蓮が申すまでもない。大いそぎで誓状の宿願を果たすべきであるのにどうして此の大難の場所には来合わせないのか」と朗々と申しわたした。そして最後には「日蓮が今夜首を切られて霊山浄土へ参ったときには、まず、天照太神・正八幡こそ起請を用いない神であったと名をさしきって教主釈尊に申し上げよう。それを痛いと自覚されるならば、大至急お計らいなされ」と言ってまた馬に乗った。

 

語釈

武蔵守殿

武蔵守北条宣時のこと。佐渡の知行者。良観の熱心な信者であったらしい。

 

あづかり

重大犯人に対しては幕府の法則では「預かり」と「使い」を設けていた。預りは身柄を保護監督し、使いは護送や判決の執行をしたものらしい。この場合は預かりが北条宣時、使いは平左衛門尉。

 

わかみやこうぢ

鎌倉鶴岡八幡宮の前の街道。

 

和気清丸

称徳天皇時代の廷臣。一般に清麻呂と書く。道鏡の天皇の位をねらう謀略を阻止しようとして、彼の怒りにふれ、大隅に流された。これだけで満足できない道鏡は、人を遣わして清丸を殺そうとしたが、にわかの雷雨に目的が果たせなかった。道鏡失脚後、その至心忠誠によって再び登用され、平安遷都に尽力した。

 

無間大城

無間地獄のこと。八大地獄の一つ。間断なく苦しみを受けるので無間といい、周囲に七重の鉄城があるので大城という。五逆罪の一つでも犯す者と正法誹謗の者とがこの地獄に堕ちるとされる。

 

釈迦仏

釈迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。

 

多宝仏

東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。多宝仏はみずから法を説くことはなく、法華経説法のとき、必ず十方の国土に出現して、真実なりと証明するのである。

 

十方の諸仏

十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。

 

菩薩

菩薩薩埵(bodhisattva)の音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。

 

諸天

諸天善神のこと。法華経の行者を守護する神をいう。梵天・帝釈・八幡大菩薩・天照太神・四天王等の総称。諸天善神が法華経の行者を守護することは、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す」とある。

 

天竺

古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。

 

漢土

漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。

 

善神

梵天・帝釈・天照太神・八幡大菩薩等で、福をもたらす神。仏法の上では正法の行者を守る働きとなる。正法の行者を守ることが、真実に民族・国土を守護することになるのである。ただし、この善神の威力は、正法の法味を食することによって支えられるので、所詮は、民衆が正法を持ち、その功徳を回向することによって、善神が力を増し、かえって民衆も国土も守られるという方程式になる。諸天善神が法華経の行者を守護する約束は、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し」また「天の諸の童子、以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」等とある。日蓮大聖人がその御生涯において数多くの大難にあわれ、諸天善神の功力がすぐに現れなかった理由については「富木殿御返事」に「一には諸天善神此の悪国を去る故か、二には善神法味を味わざる故に威光勢力無きか、三には大悪鬼三類の心中に入り梵天帝釈も力及ばざるか」とあり、このうち第一の理由を「立正安国論」、第二の理由を「諌暁八幡抄」、第三の理由を「開目抄」で述べられている。

 

聖人

①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。

 

霊山浄土

釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。

 

起請

祈請文のこと。神仏に誓いを立てて、自分の行為、言説に偽りがないことを表明した文書・誓紙・厳守すべき事項を記した前書き部分と、もしこれに違背すれば神仏の罰を受ける旨を記した神文からなるもの。

 

教主釈尊

一代聖教の教主である釈尊のこと。釈尊には六種、蔵教・通教・別教・法華迹門・法華本門・文底独一本門の釈尊があるが、釈尊教主は教法の主導の意で、法華文底独一本門の教主、日蓮大聖人のこと。ただし御文によってまれに、インド応誕の釈迦仏をさす場合もある。

 

講義

神天上の法門

 

神天上とは、「立正安国論」に「倩ら微管を傾け聊か経文を披きたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」(0017:02)とあるように、その国が、正法に背き、邪法がはびこって謗法の世となったとき、法華経の行者を護るべき諸天善神が、南無妙法蓮華経の法味に飢えて神威を失い、守護すべき国土を捨離するのである。

日興上人は、「日興遺誡置文」に後学の者のため、広宣流布の金言を仰がんがためにと仰せられて、「檀那の社参物詣を禁ず可し、何に況や其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ず可けんや、返す返すも口惜しき次第なり、是れ全く己義に非ず経文御抄等に任す云云」(1617:10)と訓誡されている。

さらに、第三祖日目上人の申し状をみても「それ我が朝は神朝なり、神は非礼を受け給わず」と述べられているように、南無妙法蓮華経の法味のほかは、すべて非礼であり、威光も失せてしまうのである。

わが日本の国には、古来氏神信仰といって、各部族あるいは集団には、それぞれ独特の祖先神を伝承し、形成して祭祀信仰していた。そして国家統一の神として天照太神と正八幡大菩薩があったのである。

ところが、欽明天皇の時代(0538)に、百済より仏教が渡来し、ここで仏教を受け入れようという崇仏派と仏教を排斥しようという排仏派との30数年間の争いの結果、崇仏派が勝って日本は仏教国としての第一歩を踏み出したのであった。すなわちこのときの排仏派というのは神道崇拝派なのである。

神道信仰の根本的欠陥は、神を信仰の対象とするところにある。神は正法の法味を嘗めて威勢を増長するのであるから、正法が流布することによってのみ神は守護の国土を護るのである。

この原理から見るならば、排仏派が滅亡したのも当然の結果なのである。さらに、翻って太平洋戦争における日本の敗戦も、上からの命令で一国あげて天照太神を祭らせ、拝ませた罰であることが判然とするのである。

 

いかに八幡大菩薩はまことの神か

 

この文は、日本第一の法華経の行者である日蓮大聖人が、このような大難にあっているのに八幡大菩薩の守護の働きがないのはどういうわけか、と叱咤されているのである。安国論の神天上の法門によるならば、そのとき八幡宮には、八幡がいなかったことは明らかである。では大聖人が八幡を叱咤された元意はどこにあるのか。

ここで八幡大菩薩という神は、一個の実体を指すのではなく、働き、作用をいうのである。したがって、八幡宮に神がいるとかいないということは問題ではない。しかるに、このとき大聖人は己心の八幡を、そこにまいらせてはっきりと念をおされたのである。すなわち大聖人己心の八幡とは、宇宙に弥漫する生命であるからそのまま通ずるのである。

諸天善神は、法華経の序品第一で、釈尊の説法がはじまると、すぐにその会座に勢揃いする。すなわち序品に「爾の時、釈提桓因は、其の眷属の二万の天子と倶なり。復た名月天子・普香天子・宝光天子・四大天王有りて、其の眷属の万の天子と倶なり。自在天子・大自在天子は、其の眷属の三万の天子と倶なり。娑婆世界の主の梵天王・尸棄大梵・光明大梵等は、其の眷属の万二千の天子と倶なり」とあり、日本の守護神である天照太神、正八幡大菩薩もこの会座に列なっていたのである。そして、これらの諸天善神は、法華経の行者を守護することを、安楽行品および嘱累品において誓っているのである。

すなわち安楽行品に「諸天は昼夜に、常に法の為めの故に、而も之れを衛護し」と。また同品に「天の諸の童子は、以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」と。さらにまた嘱累品に「世尊の勅の如く、当に具さに奉行すべし」と。

日蓮大聖人の御在世、あるいは今日においても寺社といえば完全に謗法である。すなわち日興遺誡置文のとおりである。このような悪鬼乱入の寺社に赴くことは、われらの生命に地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界の三悪道・四悪趣が染まり、苦しむのみである。

よって大聖人が八幡宮の社前での叱咤は、悪鬼乱入の鶴岡八幡宮に対してではなく、宇宙即我・我即宇宙の原理から、生命論の上からと拝すべきである。

 

今日蓮は日本第一の法華経の行者なり

 

また「日蓮は日本第一の法華経の行者なり」の御文は、御本仏としての大確信をお述べになった文である。すなわち「御義口伝」(0760)に「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(0760:第廿五建立御本尊等の事:02)と述べられているように、日蓮大聖人の一身の当体が即御本尊なのであり、大聖人が末法の人本尊なることを述べられた御文なのである。さらに日蓮大聖人のお振舞いとは、久遠元初の自受用報身如来のお振舞いそのままなのである。

このことについて日寛上人は「人の本尊とは、即ち是れ久遠元初の自受用報身の再誕・末法下種の主師親・本因妙の教主・大慈大悲の南無日蓮大聖人是れなり」と述べられ、また「事を事に行ずるが故に事と言うなり」と申されている。「事を事に行ずるが故に事と言う」とは、これは、久遠元初における自受用報身如来のお振舞いを末法今日において芥爾ほども異なることなく、そのまま行ずることである。

さらに文証をあげるならば、

「本因妙抄」に「釈尊・久遠名字即の位の御身の修行を末法今時・日蓮が名字即の身に移せり」(0877:06)と。「百六箇抄」にいわく「今日蓮が修行は久遠名字の振舞に芥爾計も違わざるなり」(0863:03)と。同じく「久遠元始の天上天下・唯我独尊は日蓮是なり」(0863:05)と。

 

 

 

 第六章(竜の口法難と発迹顕本)

  本文

ゆいのはまに・うちいでて御りやうのまへに・いたりて又云くしばし・とのばら・これにつぐべき人ありとて、中務三郎左衛門尉と申す者のもとへ熊王と申す童子を・つかわしたりしかば・いそぎいでぬ、今夜頸切られへ・まかるなり、この数年が間・願いつる事これなり、此の娑婆世界にして・きじとなりし時は・たかにつかまれ・ねずみとなりし時は・ねこにくらわれき、或はめこのかたきに身を失いし事・大地微塵より多し、法華経の御ためには一度だも失うことなし、されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養・心にたらず国の恩を報ずべき力なし、今度頸を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん其のあまりは弟子檀那等にはぶくべしと申せし事これなりと申せしかば、左衛門尉・兄弟四人・馬の口にとりつきて・こしごへたつの口にゆきぬ、此にてぞ有らんずらんと・をもうところに案にたがはず兵士どもうちまはり・さわぎしかば、左衛門尉申すやう只今なりとなく、日蓮申すやう不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそくをば・たがへらるるぞと申せし時、江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ人の面も・みへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥し兵共おぢ怖れ・けうさめて一町計りはせのき、或は馬より・をりて・かしこまり或は馬の上にて・うずくまれるもあり、日蓮申すやう・いかにとのばら・かかる大禍ある召人にはとをのくぞ近く打ちよれや打ちよれやと・たかだかと・よばわれども・いそぎよる人もなし、さてよあけば・いかにいかに頸切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐるしかりなんと・すすめしかども・とかくのへんじもなし。
  はるか計りありて云くさがみのえちと申すところへ入らせ給へと申す、此れは道知る者なし・さきうちすべしと申せどもうつ人もなかりしかば・さてやすらうほどに或兵士の云く・それこそその道にて候へと申せしかば道にまかせてゆく、午の時計りにえちと申すところへ・ゆきつきたりしかば本間六郎左衛門がいへに入りぬ、さけとりよせて・もののふどもに・のませてありしかば各かへるとて・かうべをうなたれ手をあざへて申すやう、このほどは・いかなる人にてや・をはすらん・我等がたのみて候・阿弥陀仏をそしらせ給うと・うけ給われば・にくみまいらせて候いつるに・まのあたりをがみまいらせ候いつる事どもを見て候へば・たうとさに・としごろ申しつる念仏はすて候いぬとて・ひうちぶくろよりずずとりいだして・すつる者あり、今は念仏申さじと・せいじやうをたつる者もあり、六郎左衛門が郎従等・番をばうけとりぬ、さえもんのじようも・かへりぬ。

 

現代語訳

由比の浜に出て御霊社の前にさしかかったとき、また「しばらく待て殿方、ここに知らせるべき人がいる」といって、中務三郎左衛門尉という者のところへ熊王という童子を遣わしたところ彼は急いで出てきた。

「今夜首を斬られに行くのである。この数年の間願ってきたことはこれである。この娑婆世界において雉となったときは鷹につかまれ、ねずみとなったときは猫に食われた、あるときは妻子の敵のために身を失ったことは大地微塵の数よりも多い、だが法華経のためにはただの一度も失うことがなかった。そのために日蓮は貧しい僧侶の身と生まれて父母への孝養も心にまかせず国の恩を報ずべき力もない、今度こそ首を法華経に奉ってその功徳を父母に回向しよう、その余りは弟子檀那に分けようと申してきたのはこれである」といったところ、左衛門尉の兄弟四人は馬の口に取りついて御供をし、腰越竜の口に行った。

首を斬るのはここであろうと思っていたところが、案にたがわず兵士どもが自分を取りかこんで騒いだので、左衛門尉が「今が御最期でございます」といって泣いた。それをさとして日蓮が「不覚な殿方である。これほどの悦びを笑いなさい、どうして約束を違えられるのか」といったとき、江の島の方向から月のように光った物が鞠のように東南の方から西北の方角へ光り渡った。十二日の夜明け前の暗がりで人の顔も見えなかったが、これが光って月夜のようになり人々の顔も皆見えた。太刀取りは目がくらんで倒れ臥してしまい、兵士共はひるみ怖れ首を斬る気を失って一町ばかり走り逃げる者もあり、ある者は馬から下りてかしこまり、また馬の上でうずくまっている者もある。日蓮が「どうして殿方、これほど大罪ある召捕人から遠のくのか、近くへ寄って来い寄って来い」と声高高に呼びかけたが急ぎ寄る者もない。「こうして夜が明けてしまったならばどうするのか、首を斬るなら早く斬れ、夜が明けてしまえば見苦しかろうぞ」とすすめたけれどもなんの返事もなかった。

しばらくしてから「相模の依智という所へお入り下さい」という。「自分の方には道を知る者がいない、案内しなさい」といったけれども先立ちする者もないのでしばらく休んでいると、ある兵士が「そこがその道でございます」といったので道にまかせて進んだ。正午ごろに依智というところへ行き着いたので本間六郎左衛門の邸へ入った。酒を取り寄せて、ついてきた兵士に飲ませていたところ、彼等が「帰りますが」といい出し、頭を下げ合掌して申すには「今まではどんなお方であるか存じませんでしたが、われわれが頼んできた阿弥陀仏を誹っていると聞いたので憎み申し上げておりましたが、直接に拝顔して昨夜来のお振舞いを拝見しました所、あまりにも尊いので、長年称えてきた念仏は捨てました」といって火打ち袋から珠数を取り出して捨てるものがあり「今後は念仏を申しません」と誓状を差し出す者もあった。六郎左衛門尉の家来達が警護の役目を受け取った。左衛門尉も帰っていった。

 

語釈

ゆいのはま

現在の神奈川県鎌倉市にある海岸をいう。日蓮大聖人が竜の口の頸の座にのぞまれるとき、この浜を通って行かれた。

 

御りゃう

特定の人の霊を祭ったやしろ。ここでは、平安末期の武士で、後3年の役(10831087)に、源義家に従って奥羽で戦い、有名をはせた鎌倉権五郎景政の霊を祭った社である「御霊社」のこと。今の鎌倉長谷山の近くにある。

 

中務三郎左衛門尉

四条中務三郎左衛門尉頼基(1230頃~1300)。一般に、四条金吾という。当時の慣例で唐官によって金吾と通称され、北条の支族江馬家の代々の忠臣で武道に通達、学問にも優れ、医術の心得もあり名医の誉れが高かった。建長年間、大聖人の折伏教化を受け、池上兄弟と共に壇越となる。そして文永8年(1271)、竜の口の法難のときは大聖人の馬の口に取りすがり殉死の覚悟でお供した。信心強盛のためにまた性格の率直により度々同輩と衝突し、建治3年(1277)には讒言をもって陥れられ苦境にたったが、頼基は所領・身命を捨てて主家を諌めた。このとき大聖人よりご代筆をもって与えられた陳状が「頼基陳状」である。最終的に主家にその至誠が通じ、かえって所領が倍増した。しかして金吾の信心は終始一貫して輝き、大聖人の外護の任にあたった。すなわち、佐渡に、身延に常に供養を怠らず、その後入道して所領たる甲州内船に隠居し、正安2年(1330315日寂す。妻日眼女もその子月満・経王もともに大聖人の熱心な信者となった。

 

熊王と申す童子

熊王丸のこと。大聖人の法難の際、お供をした小童。

 

娑婆世界

娑婆とは梵語サハー(Sahā)の音写。忍土、忍界、堪忍土と訳す。この世はあらゆる苦難を乗り越え、また耐え忍ばなければならない故に娑婆世界という。

 

貧道の身

身に一物もないことをいい、一般的に僧侶が自分の謙称として用いる。

 

左衛門尉・兄弟四人

四条金吾の兄弟については詳細は不明であるが、左衛門尉頼隆、四郎頼李、七郎頼實がいたといわれている。

 

こしごへ

現在の神奈川県鎌倉市腰越の地のこと。文永8年(1271912日、日蓮大聖人が頸の座に坐られ発迹顕本なされた竜の口刑場は、七里が浜の西端、腰越の地にある。昔は、相模国鎌倉郡で、鎌倉時代は、鎌倉の門戸として重要な関所となっていた。

 

たつの口

現在の神奈川県藤沢市片瀬にあった地名で、鎌倉時代、幕府の刑場があった。文永8年(1271912日、幕府は、大聖人をここで斬首しようとしたが、諸天の加護が厳然としてあり、斬ることはできなかった。これを竜口の法難と言うが、この時に大聖人は発迹顕本なされたのである。

 

月のごとく・ひかりたる物

よほどの大流星であったと思われる。一般に流星は月のない晴れた夜、突然星が一秒か二秒光り、消えてしまうが、その光りも満月くらいの明るいものもあれば、やっと望遠鏡で見えるものもある。色もいろいろあり、一般的に青いものは速く、赤みがかったものはゆっくりと動く。とくに明るいものは火球と呼ばれ、その一部は隕石となって地上に落ちてくる。流星が光りはじめる高さは地上100㌖から150㌖であり、地上60㌖から80㌖で消える。

 

辰巳

方位のひとつ。南東をいう。

 

戌亥

方位のひとつ。北西をいう。

 

太刀取

斬首刑の執行者。

 

召人

捕らえられている人。

 

さがみのえち

地名。現在の神奈川県厚木市依智。本間六郎左衛門重連の邸宅があったところで、大聖人は文永8年(1271913日から約1ヶ月間滞在されている。

 

さきうち

道先案内人。

 

午の時

時刻。現在の正午~午後2時をいう。

 

本間六郎左衛門

生没年不詳。佐渡国の守護であった武蔵守・北条(大仏)宣時に仕えた武士。佐渡国の守護代(代官)を務めていた。相模国愛甲郡依智郷(神奈川県厚木市北部)にも所領があり、依智六郎左衛門尉とも呼ばれた。日蓮大聖人は文永8年(1271)の竜の口の法難の後、流罪先の佐渡へ出発するまでの約1カ月間、依智の本間邸に滞在されている。佐渡到着後の111日、大聖人は配所としてあてがわれた塚原の三昧堂に到着されるが、そこは「六郎左衛門が家のうしろ」(916㌻)で、佐渡における重連の館とは至近にあったようである。念仏者を中心とする佐渡の道俗は、「阿弥陀仏の大怨敵」(917㌻)として大聖人の命をねらったが、重連は管理責任上これを制し、法門によって責めるようにと促した。その結果、文永9年(1272)正月の対論(塚原問答)が行われたが、逆に大聖人の正義を知らしめることとなった。この問答の際、重連は大聖人から近いうちに内乱が起きるからと鎌倉への出仕を促されるが、それが同年2月に起きた「二月騒動」を予見したものであったことを重連が後で知るに及び、大聖人へ心を寄せるようになったようである。文永10年(1273127日、武蔵前司(北条宣時)は本間重連に命令書を与えた。これは大聖人を一層厳しく取り締まる内容であったが、正式・公的なものではなく私的なものと思われる。大聖人はこの全文を3カ月後に著された「法華行者逢難事」(09660967)に転載されている。おそらく重連もしくはその周囲の者を通じて披見できたものと思われ、重連の好意を示すものと理解されている。

 

阿弥陀仏

梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。

 

ひうちぶくろ

火を得るための道具。携帯用として持参するもの。

 

講義

この章は、竜の口の刑場に臨まれた大聖人のお振舞いを中心として、その前後の模様を述べられている、この時こそが大聖人発迹顕本の時である。すなわち一行が、刑場への途中、由比が浜に出て、御霊社の前にさしかかったとき、大聖人はちょうどその近辺の長谷に住居を持つ四条金吾の許へお供の熊王丸という小童をやって、法難のようすを知らせたのである。金吾にとってみれば、いざというときの覚悟は、当然できていたとしても、あまりの事態の重大さにその驚きは尋常ではなかったであろう。とにかく、おっとり刀で駆け付けたのである。

 

四条金吾の信心とわれらの決意

 

四条金吾は、門下のなかでも、池上宗仲・富木胤継等と並んで最も強盛な信者の一人である。しかも竜の口の法難という、重大な事件のおりにも日蓮大聖人のおそばについて殉死の決意で同行したのは数多い門下のなかでも四条金吾のみである。

したがって、ここで四条金吾の信心を学ぶことは、700年後の今日においても大いに意義があると思う。

四条金吾は、詳しくは語訳に示したが四条中務三郎左衛門尉頼基といい、名門の武家の出である。

金吾の主君、江馬入道光時は、北条義時の孫で、遠江守朝時の嫡子である。だが光時は大聖人迫害の張本人である極楽寺良観の熱心な信者であった。このような悪環境にあってなおかつ信心強盛を貫き、門下でも最も大聖人の信頼を得たのであるから、金吾の勇気、信心は後世の鏡とする。このように今日においても輝く名をとどめえたのも、ただただ日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、お慕い申し上げ、外護しきっていくとの不自惜身命の精神が金吾の全身に脈打っていたからにほかならない。

とくに竜の口の法難時における金吾の覚悟は、後世の信者の鏡ともいうべきであろう。日蓮大聖人は、このときの金吾を次のようにおほめになっている。

「去る十二日の難のとき貴辺たつのくちまで・つれさせ給い、しかのみならず腹を切らんと仰せられし事こそ不思議とも申すばかりなけれ……かかる日蓮にともなひて法華経の行者として腹を切らんとの給う事かの弘演が腹をさいて主の懿公がきもを入れたるよりも百千万倍すぐれたる事なり、日蓮・霊山にまいりて・まづ四条金吾こそ法華経の御故に日蓮とをなじく腹切らんと申し候なりと申し上げ候べきぞ」(1113:四条金吾殿御消息:01)と。

弘演は、中国の春秋の世に、衛国の主君であった懿公の臣である。主命を奉じて遠く使いし、帰ってみれば衛国は北狄に攻められ、懿公は殺されて肝が捨ててあった。弘演は、主君の恥をかくすためにその主君の肝を、わが腹を裂いて、その中に入れて死んでいったという。大聖人は、金吾の信心は、それに勝れること百千万倍であると讃嘆されている。

このような金吾の純真な信心に対して日蓮大聖人は、30数編ものお手紙を与えられている。そしてそれらは生活のこと、家族のこと、また宮仕えのあり方等々、実に細やかなことにまで配慮されたお手紙が数多い。これからみても、日蓮大聖人が金吾をいかに信頼し、愛されていたかがしれるのである。

 

此にてぞ有らんずらんと・をもうところに案にたがはず兵士どもうちまはり・さわぎしかば、左衛門尉申すやう只今なりとなく、日蓮申すやう不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそくをば・たがへらるるぞと申せし時云云

 

この文は、一行が刑場の地に到着したので、金吾は「只今なり」といって泣いた。おそらくそのときの金吾は、「只今なり」というのが精一杯ではなかったろうか。大聖人はその金吾の姿をみて「不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそくをば・たがへらるるぞ」と叱咤された。

このなかに師弟の無限の愛情が感ぜられるではないか。

日蓮大聖人は、この竜の口の法難によって発迹顕本され、久遠元初の自受用報身如来すなわち御本仏の御身を顕現なされたのである。「開目抄」に「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて云云」と申されているのは、まさに御自身が凡夫の御身を払われて久遠の本仏と顕われたことを明かされた明文である。したがって大聖人が処刑の場に臨んで「これほどの悦び」(0223-16)と金吾に申されたのは、御自身が法華経の勧持品の文を身をもって読んだという喜びであり、さらには御本仏としての大確信に立たれたからにほかならない。

また、随行の四条金吾はどうであろうか。やはり法華経に命を捧げ、不惜身命の信心に立脚していた。したがってこのとき、金吾の成仏も決定したといっても過言ではあるまい。

さて「いかに・やくそくをば・たがへらるるぞ」とは日蓮大聖人がつね日ごろ門下に対して法華経のために命を捨てることの尊さを指導されてきた。そして金吾をはじめ数々の弟子は大聖人に不惜身命の信心を誓ってきたのである。そして今、命におよぶ大難に遭遇して、日ごろ誓ってきた「不惜身命の契り」が、眼前になったのである。よってこれは突発的な事故でもなければ、全く予期せぬ出来事でもない。法華経の文に照らせばすべて明らかであるという意をこめた文である。金吾としても、門下の方々と共に、不惜身命の誓いを度々かわしあってきた。だが、師の日蓮大聖人の処刑を眼前にして思わず泣き伏してしまったということは、凡夫の金吾の振舞いとして、けだし当然ではあるまいか。また大聖人が、御自身処刑を眼前にしながら、なおかつ金吾に「不かくのとのばらかな」と申されたのは、御本仏の大確信が脈々と伝わってくるとともに御本仏と不惜身命の信心に立った弟子とのあまりにも深く暖かい関係が感ぜられるではないか。

 

江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる

 

この文は、日蓮大聖人の留難を諸天善神が守護した実証である。時刻はまさに子丑三世の諸仏成道のときである。光り物が東南の方向から西北の方向へと光り渡り、斬首刑にあたった太刀取りは目がくらむほどの大きなものであった。

この光り物については、「四条金吾殿御消息」に「三光天子の中に月天子は光物とあらはれ竜口の頚をたすけ、明星天子は四五日已前に下りて日蓮に見参し給ふ、いま日天子ばかりのこり給ふ定めて守護あるべきかとたのもしたのもし、法師品に云く『則遣変化人為之作衛護』疑あるべからず……強盛の信力こそありがたく候へ」(1114:01)、また「御義口伝」に「末法に於て法華を行ずる者をば諸天守護之有る可し常為法故の法とは南無妙法蓮華経是なり」(0750:第五有人来欲難問者諸天昼夜等の事)と述べられている。

三光天子とは、太陽と月と星の三つで、諸天善神である。法華経の会座では、序品にこの三光天子はそろって列座している。すなわち「名月天子・普香天子・宝光天子・四大天王有りて、其の眷属の万の天子と倶なり」と。

日蓮大聖人が八幡大菩薩を叱りとばされたのは、嘱累品の「如世尊勅当具奉行」との誓言をもってその怠慢を責められたのであるが、この大聖人の叱声に呼び覚まされて出現したのが三光天子のなかの月天子である。したがってこのときの「光り物」が月天子の眷族であることは明らかである。

そこで次に八幡大菩薩と月天、そして「光り物」について若干の考察を加えてみたい。

大聖人が竜の口の刑場において八幡大菩薩を叱咤されたのは、大聖人己心の八幡大菩薩であることは、第五章で述べたとおりである。この八幡大菩薩の働きは、法華経を信ずる者を守護することにあるが、妙法を信ずればあらゆる諸天の加護があることはいうまでもない。諸天善神の働きの本質は、大宇宙それ自体が妙法を守り、妙法の信者を守護するのである。ならば、ここで大聖人が大宇宙に偏満する八幡大菩薩に向かって諌められたということは、大宇宙のあらゆる諸天が、大聖人をお護りするために働くことなのである。

次に「光り物」であるが、この光り物の実体はなんであったかは、当時の記録が明らかでないため判然としないが、火球であったことは文中より察せられる。それも「太刀取目くらみ」とあるから、そうとう巨大なものであったのであろう。

この現象をみて科学者は、いろいろ説明するであろう。また科学的に説明されて当然である。だが、日蓮大聖人が、諸天を叱られたあと、しかも、まさに斬首刑が実行されようとしたその刹那に、こうした現象が起きたということは、仏法の因果より見る以外にない。

科学的説明は、この現象を物理化学的な側面より分析と統合の結果として導き出された帰結であって、その現象全体の説明とはいえない。すなわち、大聖人がまさに斬首されんとしたときに、この現象が起きたという不思議な「時」の一致の問題については、科学の範疇を超え、仏法によって解決されているのである。

この竜の口の現象および依智の本間邸における不思議な現象について、池田会長著の「立正安国論講義」には次のように説明されている。

「この現象を科学者であれば、いろいろと説明を加えるであろう。たとえば、その光り物は、いわゆる火球とも説明されよう。火球とは隕石が地球に落ちてくるときに、大きく燃えているような球が、光った煙のような尾を引きながら、すごい速さで飛ぶ現象をいう。

火球は、あたりを明るく照らし出す。その明るさは、時としては数十億燭光に達するといわれる。それが消えるときには、爆発か砲撃のような、猛烈な音がするとのことである。1908年に、シベリア北部に巨大な隕石が落ちてきた。見た人の言葉によると、朝の7時ごろに空に現れた火球は、太陽のようにあざやかに光っていたということである。隕石は、部落の近くにある密林に落ち、破裂し、そのため、森林は広い地域にわたってなぎ倒されたとのことである。

竜の口の現象も、あるいは『物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ』とあるからこの火球がそれであったかもしれない。それならば、隕石が空気中で燃えて火球となったので、奇跡でもなんでもないではないかと人はいうかもしれない。なにもわれわれは奇跡とはいわない。科学的に証明できるのは当然と考える。ただ、大聖人が諸天善神に対し加護せよとしたあと、しかも首を斬られる寸前にこの現象があったという事実、そして幕府の役人たちが、大聖人の頸をついに斬れなかったという動かすことのできない事実、これは科学で説明できるわけがない。また科学の取り扱う分野でもない。科学の眼で見ることのできぬものである。これこそ仏法の眼によらなければ絶対に明らかにならないのである。

さらに、死刑を脱した大聖人が、依智の本間六郎左衛門の邸宅において、再び諸天善神を叱咤された時にも、すぐさま不思議な現象が起きている。同じく「種種御振舞御書」に『いかに月天いかに月天とせめしかば、其のしるしにや天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝に・かかりてありしかば・もののふども皆えんより・とびをり或は大庭にひれふし或は家のうしろへにげぬ、やがて即ち天かきくもりて大風吹き来りて江の島のなるとて空のひびく事・大なるつづみを打つがごとし』と。

これもまた流星であるとか、空気中の放電現象である等と説明されるであろう。だが、そのような説明は、分析と綜合による現象の物理科学的な面の説明であって、現象それ自体のすべての説明ではない。大聖人の御生命が危機にさらされている時、しかも諸天を叱られたあとに、なにゆえこのような現象が起きたか。さらにまた、先の竜の口における現象とを合わせ考えるならば、このような現象が立て続けに二回起きるということは、確率のうえからいっても、それこそ何億分の一、何兆分の一であろう。これを単に偶然といってすまされるであろうか。この事実を明確に説ききれるものは、仏法の依正不二の原理以外にないのである」と。

 

 

第七章(月天の不思議と弟子檀那への迫害)

  本文

 其の日の戌の時計りにかまくらより上の御使とてたてぶみをもちて来ぬ、頸切れという・かさねたる御使かと・もののふどもは・をもひてありし程に六郎左衛門が代官右馬のじようと申す者・立ぶみもちて・はしり来りひざまづひて申す、今夜にて候べし・あらあさましやと存じて候いつるに・かかる御悦びの御ふみ来りて候、武蔵守殿は今日・卯の時にあたみの御ゆへ御出で候へば・いそぎ・あやなき事もやと・まづこれへはしりまいりて候と申す、かまくらより御つかいは二時にはしりて候、今夜の内にあたみの御ゆへ・はしりまいるべしとて・まかりいでぬ。
  追状に云く此の人はとがなき人なり今しばらくありてゆるさせ給うべし・あやまちしては後悔あるべしと云云。
  其の夜は十三日・兵士ども数十人・坊の辺り並びに大庭になみゐて候いき、九月十三日の夜なれば月・大に・はれてありしに夜中に大庭に立ち出でて月に向ひ奉りて・自我偈少少よみ奉り諸宗の勝劣・法華経の文あらあら申して抑今の月天は法華経の御座に列りまします名月天子ぞかし、宝塔品にして仏勅をうけ給い嘱累品にして仏に頂をなでられまいらせ「世尊の勅の如く当に具に奉行すべし」と誓状をたてし天ぞかし、仏前の誓は日蓮なくば虚くてこそをはすべけれ、今かかる事出来せばいそぎ悦びをなして法華経の行者にも・かはり仏勅をも・はたして誓言のしるしをばとげさせ給うべし、いかに今しるしのなきは不思議に候ものかな、何なる事も国になくしては鎌倉へもかへらんとも思はず、しるしこそなくとも・うれしがをにて澄渡らせ給うはいかに、大集経には「日月明を現ぜず」ととかれ、仁王経には「日月度を失う」とかかれ、最勝王経には「三十三天各瞋恨を生ず」とこそ見え侍るに・いかに月天いかに月天とせめしかば、其のしるしにや天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝に・かかりてありしかば・もののふども皆えんより・とびをり或は大庭にひれふし或は家のうしろへにげぬ、やがて即ち天かきくもりて大風吹き来りて江の島のなるとて空のひびく事・大なるつづみを打つがごとし。
  夜明れば十四日卯の時に十郎入道と申すもの来りて云く・昨日の夜の戌の時計りにかうどのに大なるさわぎあり、陰陽師を召して御うらなひ候へば申せしは大に国みだれ候べし・此の御房御勘気のゆへなり、いそぎいそぎ召しかえさずんば世の中いかが候べかるらんと申せば、ゆりさせ給へ候と申す人もあり、又百日の内に軍あるべしと申しつれば・それを待つべしとも申す、依智にして二十余日・其の間鎌倉に或は火をつくる事・七八度・或は人をころす事ひまなし、讒言の者共の云く日蓮が弟子共の火をつくるなりと、さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて二百六十余人しるさる、皆遠島へ遣すべしろうにある弟子共をば頸をはねらるべしと聞ふ、さる程に火をつくる等は持斎念仏者が計事なり其の余はしげければかかず。

 

現代語訳

その日の午後八時ごろに鎌倉からお上の使いということで立て文を持ってきた。首を斬れという再度のお使いかと武士達が思っていたところ、本間六郎左衛門の代官・右馬尉という者が立て文を持って走って来てひざまづいて申すには、「斬首は今夜であろう。なんとも情けないと思っておりましたのに、このようなお悦びの手紙が参りました。武蔵守殿は今日卯の時に熱海の湯へお立ちになりましたから、理不尽なことがあっては大変だと思い、急いでまずこちらへ走って参りましたと申しております。鎌倉から使者は四時間で走って参りました。そして、今夜のうちに熱海の湯へ走って参りますといって出発いたしました」と。追状には「此の人は罪の無い人である。今しばらくしてから赦されるであろう。あやまちをしたならば後悔するであろう」と認めてあった。

その夜は十三日で、兵士達が数十人、坊のあたりと大庭にならんでひかえていた。九月十三日の夜であるから月が実によく晴れていたので、夜中に大庭へ出て月に向かって、自我偈を少し誦み奉り諸宗の勝劣と法華経の文を概略申し述べて「そもそも今の月天は法華経の御座に列席している名月天子ではないか。宝塔品で仏勅を受けられ、嘱累品で仏に頂を摩でられて『世尊の勅のとおりまさに正確に実行する』と誓状を立てた天神ではないか。仏前の誓いは日蓮がいなかったならば虚しくなってしまうであろう。だが今こういう大難が出てきたのであるから、急いで、悦んで法華経の行者にも代わり、仏勅をも果たして誓言の験を果たしなさい。一体どうしたのか、今験がないのは実に不思議なことである。なに事も国に起こらなければ鎌倉へも帰ろうとも思わない。たとえ験を現わさないにしても嬉し顔で澄み渡っているのはどうしたわけであるか。大集経には『日月は明るさを現さず』と説かれ、仁王経には『日月は平静を失う』と書かれ、最勝王経には『三十三天がおのおの瞋りを生ずる』と明らかに見えているではないか。いかに月天、いかに月天!」と責めたところが、その験であろうか、天から明星のような大星が下ってきて前の梅の木の枝にかかったので、武士たちが皆縁側から飛び降り、ある者は大庭に平伏し、ある者は家のうしろへ逃げてしまった。間もなく一天かき曇って大風が吹いてきて、江の島が鳴るということで空が鳴りひびくありさまは大きな鼓を打つようであった。

夜が明けると十四日で、午前六時ごろに十郎入道という者が来て「昨夜の八時ごろに執権相模守殿の邸に大きな騒動があり、陰陽師を呼んで占わせたところが、彼がいうには『大いに国が乱れましょう。それはこの御房をご勘気にしたためである。大至急召し還さなければ世のなかがどうなるか判りません』といったので、『すぐ赦されますように』という人もあり、また『大聖人が百日の内に軍が起こるであろうと申していたからそれを待ちましょう』という者もあったとのことでございます」と告げた。

依智に滞在すること二十余日、その間、鎌倉で、あるいは放火が七、八度あり、あるいは殺人が絶えなかった。讒言の者どもが「日蓮の弟子どもが火をつけたのである」というので、役所ではそういうこともあろうということになり、日蓮の弟子達を鎌倉に置いてはならぬとの方針で二百六十余人の名が記された。その者達は皆遠島へ流されるだろう。すでに入牢中の弟子達は首を斬られるだろうと聞こえてきた。ところが真相は放火などは持斎や念仏者の計りごとである。そのほかのことは繁くなるから書かない。

 

語釈

戌の時

時刻。現在の午後8時~午後10時。

 

たてぶみ

① 折らずに全紙そのままを横長に用いて書いた書状。立て紙を用いて書いた書状。② 書状を礼紙で包んだ上を別の紙で細長く包み、上下の余った部分を筋交いに折ったのち、さらに裏側へ折ったもの。ひねりぶみ。

 

代官

主君の代理として職務に当たる者。

 

卯の時

時刻。現在の午前6時~午前8時。

 

あやなき事

筋道が通らないこと。わけがわからないこと。

 

追状

前の手紙に追って出す手紙。文章。

 

自我偈

寿量品の自我得仏来から最後の速成就仏身にいたる偈文をいう。始めと終わりで自身となり、自我偈全体が、別しては日蓮大聖人御自身のことを説かれたものであり、総じては信心修行をする者の自身の生命をあらわしている。始めの自と終わりの身を除いた中間の文字は受用、すなわち活動であり、法・報・応の三身如来の所作、活動を説いているのである。

 

名月天子

月天のこと。本地は大勢至菩薩で、その応身の姿とされ、月天子ともいわれる。

 

宝塔品

妙法蓮華経見宝塔品第11のこと。この品において七宝の塔が大地の中から涌出して虚空に在住する人々が見えることから見宝塔品という。まず、この宝塔の中から大音声があって、皆これ真実と称歎したのに人々は驚き、大楽説菩薩は「何の因縁によって、塔有り、涌出し、音声を発す」と三問をすれば、すなわち釈尊から三答があった。つづいて、十方分身を召し、三変土田のことがあって二仏並座し、仏は神通力をもって、人々を虚空におき、大音声に唱募し「付属の時至る、付属して在るあり」と三箇の鳳詔をなし、のちの上行菩薩などが涌出する密説をなしている。また品末には六難九易を示して流通を勧めている。この宝塔品から嘱累品までの12品は、虚空で説かれたから虚空会といい、前後の霊鷲山とならべて二処三会という。

 

仏勅

仏の勅命。仏のおおせのこと。

 

嘱累品

法華経嘱累品第二十二のこと。はじめに「我れは無量百千万億阿僧祇劫に於いて、是の得難き阿耨多羅三藐三菩提の法を修習し、今以て汝等に付嘱す。……汝等は当に受持・読誦し、広く此の法を宣べて、一切衆生をして普く聞知することを得しむべし」と一切の菩薩への付嘱を明かした。これを神力品の上行菩薩への別付嘱に対して総付嘱という。諸菩薩は付嘱を受け、「世尊の勅の如く、当に具さに奉行すべし。唯だ然なり。世尊よ。願わくは慮いしたまうこと有らざれ」と誓った。嘱累品で宝塔品より始まった虚空会は終わり、分身の諸仏、地涌の菩薩も本土へ還り多宝の塔も閉じてもとの霊鷲山会に移行した。

 

大集経

方等部に属する経典で、欲界と色界の中間・大宝坊等に広く十法の仏・菩薩を集めて、説かれた大乗教である。欲界とは、下は地獄界から上は天上界までのすべてを含み、食欲や物欲、性欲などの欲望の世界である。色界とは、欲界の外の浄妙の色法、すなわち色質だけが存在する天上界の一部、十八天をいう。これに対して、精神の世界で、天上界の最上である四天を無色界という。大宝坊は欲界と色界の中間にあるとされたのである。漢訳には六種ある。①大方等大集経三十巻、北涼の曇無識訳。②大乗方等日蔵経十巻、高斉の那連提耶舍訳。③大方等大集月蔵経十巻、高斉の邦連提耶舍訳④大乗大集経二巻、高斉の邦連提耶舍訳⑤仏説明度五十校計経二巻、後漢の安世高訳⑥無尽意菩薩経、宋の智厳・宝雲共訳.大聖人の引用は③大方等大集月蔵経。法滅尽品には仏滅後における仏法の推移を五箇の五百歳に分けて説いた予言がある。すなわち「わが滅後に於いて五百年の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固(已上一千年)、次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固(已上二千年)、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」とある。

 

仁王経

釈尊一代五時のうち盤若部の結経である。恌秦の鳩摩羅什(03340413)訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、唐の不空三蔵(07050774)訳の「仁王護国般若波羅蜜経」がある。羅什訳のほうが広く用いられている。この仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持し政道を行ずれば、三災七難が起こらず「万民豊楽、国土安穏」となると説かれている。このゆえに、法華経、金光明経とともに、護国の三部経として広く尊崇された。般若波羅蜜とは、菩薩行の六波羅蜜の一つであるが、般若とは智慧で、その実体は法華経文底秘沈の大法を信じ、以信代慧によって知恵を得ることである。末法においては、この三大秘法を受持して広宣流布することが般若波羅蜜を行ずることになる。法蓮抄には「夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・ 小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・ 大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く『聖人去らん時は七難必ず起る』等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を」とある。

 

最勝王経

中国・唐代の義浄訳の金光明最勝王経のこと。1031品からなる。金光明経漢訳5本の一。仏が王舎城耆闍崛山に住していた時に説いたとされる方等部の経、この経は諸経の王であり、護持する者は護世の四天王をはじめ、一切の諸天善神の加護を受けるが、逆に、国王が正法を護持しなければ、諸天善神が国を捨て去るため、三災七難が起こると説かれている。

 

三十三天

忉利天のこと。梵語トラーヤストゥリンシャ(Trāyastriśa)の音写。三十三天と訳す。六欲天の第二天。閻浮提の上、八万由旬の処、須弥山の頂上にある。城郭は八万由旬、喜見城と名づけ、帝釈天が住む。城の四方に峰があり、各峰の広さが五百由旬、峰ごとに八天があり、合わせて三十二天、喜見城を加えて三十三天といわれる。この天の有情の身長一由旬、寿命については倶舎論巻十一に「人の百歳を第二天の一昼一夜とし、此の昼夜に乗じて、月及び年を成じて彼れの寿は千歳なり」と説いている。この天の寿命を人間の寿命に換算すると、三千六百万歳にあたる。

 

十郎入道

本間重連の家人と思われる。

 

陰陽師

中国から伝わった陰陽および五行の思想にもとずいて、ぼくちく・天文・暦あるいは疾病治療などのための技術的知識を持った人のこと。我が国に陰陽道が伝えられたのは推古天皇の時代に、百済の僧観勒がつたえたのがはじまりといわれる。その後、奈良・平安時代には律令制度のもと、中務省の所管におかれ、次第に盛んに行われるようになった。

 

讒言

告げ口・悪口をいうこと。

 

講義

竜の口の法難を諸天の加護によって堂々と乗り切られた大聖人は、本間六郎左衛門邸にひとまず身を寄せられたのである。ここで幕府の沙汰を待っていたが、ここでも、第六章で諸天を叱咤されたように諌暁されている。とくにこの章の前半では、鎌倉から執権の命令書を持った使いが来て、大聖人の刑の執行について「ゆるさせ給うべし」との書面の内容を知ったとき、まわりの警護の役人や六郎左衛門もほっと安堵したことであろう。また、とくに金吾の喜びたるやいかばかりであったろうか。

 

追状に云く此の人はとがなき人なり今しばらくありてゆるさせ給うべし・あやまちしては後悔あるべし

 

日蓮大聖人が無実であったことは、この文において明白である。そして今回の大難も平左衛門尉や良観等の陰険な策謀によるものであったことも明らかである。

この事件を知った北条時宗は武藏守宣時に立て文を出した。内容は刑の執行中止を命じたものであった。ところが武藏守はその日の早朝6時に熱海の湯へ静養に行ったあとのことであったので、本来なら時宗から宣時へ、宣時から本間六郎左衛門へ、そして大聖人へと回るべき立て文が、このような事情によって、立て文の内容は、まず大聖人に知らされたのである。宣時は情勢悪しと見て、責任上、熱海へ急遽逃避したのではあるまいか。

この文は、立て文の追状の内容である。これを見ると、時宗は大聖人を「とがなき人なり」と明確に無罪を認めている。そこで、この竜の口の法難を考えてみるに、これは平左衛門尉の独断でなされたことであることがわかる。これは当然、平左衛門尉の越権行為であるが、平左衛門尉は、このころ北条一門のなかでも相当権力を持つ存在であったので、刑の執行などもときとして独断で裁定することがあったのであろう。

平左衛門尉は正式には、平頼綱といい、左衛門尉は官名である。

執権・北条家の家司で専ら家政を司る、いわば執事のごとき立ち場である。故に、もともとは御家人より低い身分であり、幕府の役職者でないから、幕府そのものを牛耳る立ち場とは到底ならない。

しかし鎌倉幕府は三代将軍、源実朝以後は北条氏が執権としてその実権を握り、次第に幕府機構を独占専制化するにつれて、北条家被官の上首である内管領の発言力も増大していったのである。

実朝の没後の幕府内勢力関係は、必ずしも北条一門のみが最大の実権派ではなかった。東国豪族と呼称される三浦、千葉、小山、後藤氏等の勢力も大きかったのである。

当初の幕府の職制が、評定衆などのように合議制・集団指導制であったのは、これら豪族や御家人の意思を無視しえず、その立ち場と権益を擁護するという名分が必要だったからである。いわば北条執権は、これら有力豪族の指示をとりつけて、初めてその存在を保障されていたのであり、豪族間の勢力均衡の上にかろうじて安定を保っていたのである。

しかし執権時頼が、宝治の乱で、北条氏と比肩するこれら有力豪族を倒して無力化させ、一族の名越氏をも斥けることに成功してのちは、北条一門で幕府要職のことごとくを独占してしまったのである。

それは北条氏嫡流家の支配力強化の方向をひらき、また合議制が次第に廃されて権力のことごとくが執権の一身に集中することになった。

幕府の政務決定は評定衆の合議制であったが、時宗が執権となったころには評定制は無力化してしまい、名目だけとなっていた。そして北条氏嫡流家の従者である得宗の被官達の寄り合いによって、重要政務が決定されていく得宗専制政治が現出することになった。また北条氏は幕府の独占支配を推し進め、一門や得宗の被官を幕府の要職に登用するにおよんで、得宗の被官達は隠然たる政治勢力を形成するようになった。そして平左衛門尉はこの得宗の被官の上首として絶大な権勢を誇るようになったのである。具体的には、内管領と侍所頭人として、得宗のもとに軍事・警察権を握り、全国御家人の統括権・検断権も掌握した。また執権の家司として政務決定にも強大な発言権を持ち、常に最高決定機関である寄り合いの席に臨むなど、幕府全体にその権力を発揮するほどの強力な実権を握ることになった。

しかも頼綱のときは、父祖三代にわたって内管領を務めてきており、その権威は不動のものとなっていた。ときには執権を上回る権勢をもち、重要政務の裁定を独断で行なうなど横暴をきわめていた。

したがって評定制が確立し、御成敗式目にのっとった評定がなされていたら、大聖人は、このような大難にあわれなかったであろう。

ここでさらに考えられることは、第六章で述べられているように、本間六郎左衛門の邸にひとまず身を寄せられ、警固の役人達にお酒などをふるまわせているうちに、まわりの役人達は、大聖人の威厳にうたれ、引き上げるころには、大半の役人達が大聖人に帰伏してしまったことである。

このありさまはこの章でも浮き彫りにされている。すなわち「六郎左衛門が代官右馬のじょうと申す者・立ぶみもちて・はしり来りひざまづひて申す」と述べられているのは、日蓮大聖人の威厳にうたれ、帰伏した姿でなくしてなんであろうか。そもそも代官が罪人にひざまずいて立て文を手渡すことなど考えられるわけがない。御本仏日蓮大聖人のお姿がほうふつとしてくるではないか。

 

宝塔品にして仏勅をうけ給い嘱累品にして仏に頂をなでられまいらせ「世尊の勅の如く当に具に奉行すべし」と誓状をたてし天ぞかし

 

この御文は、法華経の行者には諸天の加護が絶対にあることを明かされた文である。

ここで日蓮大聖人が、月天に対して嘱累品の「如世尊勅当具奉行」の文をもって諌暁されたのは、まさにこれ迹化の菩薩が、法華経の行者守護の誓いをなした言葉であるが故である。すなわち日蓮大聖人はこの文を文底観心の立ち場から御義口伝において「如世尊勅当具奉行の事、御義口伝に云く諸の菩薩等の誓言の文なり、諸天善神菩薩等を日蓮等の類い諌暁するは此の文に依るなり云云」(0772:第三如世尊勅当具奉行の事)と述べられている。

さて宝搭品の仏勅とは、宝搭品三箇の勅宣のことである。すなわち見宝搭品第十一の「爾の時に多宝仏、宝搭の中に於いて、半座を分ち」に始まって「誰か能く此の経を受持し読誦せん、今仏前に於いて自ら誓言を説け」で終わる文をいう。

また、嘱累品第二十二では釈尊は、迹化他方の菩薩をはじめ一切衆生に付嘱するのである。この付嘱を三摩の付属という。三摩とは、仏が三たび、諸の菩薩摩訶薩の頂を摩でることである。

この三摩の付嘱について、日蓮大聖人は「御義口伝」に文底観心の立場から次のように釈されている。

すなわち「御義口伝に云く起とは塔中の座を起ちて塔外の儀式なり三摩の付嘱有るなり、三摩の付嘱とは身口意三業三諦三観と付嘱し給う事なり云云」(0772:第一從法座起の事)また「御義口伝に云く此の品には摩頂付属を説きて此の妙法を滅後に留め給うなり、是れ又妙法の付属なれば十界三千皆付属の菩薩なり、又三摩する事は能化所具の三観三身の御手を以て所化の頂上に明珠を譲り与えたる心なり、凡そ頂上の明珠は覚悟知見なり頂上の明珠とは南無妙法蓮華経是なり云云」(0800:一嘱累品)と。

法華経見宝搭品第十一に至って、七宝の搭が地より涌出し、空中に住在する。すなわちこれより儀式が霊鷲山会より虚空会に移るのである。そしてこの虚空会の儀式のなかの寿量品第十六において、滅後末法の要法たる三大秘法の南無妙法蓮華経が説き明かされ、神力品第二十一において本化地涌の菩薩に対する本化付嘱、次の嘱累品第二十二において、迹化の菩薩に対する迹化付嘱がなされるのである。この一連の儀式は、いずれも三大秘法の南無妙法蓮華経をめぐって展開されたことは当然である。

さらにこれは観念の上の付嘱ではない。仏が三業・三諦・三観にわたって、迹化の菩薩および一切衆生に付嘱したのである。だが、この嘱累品の付嘱も、文底観心よりみるならば、その本意は上行菩薩にあることが明らかである。すなわち日蓮大聖人は、嘱累品の「如来是一切衆生之大施主」の文を文底観心の立ち場より次のように釈されているのである。「御義口伝に云く如来とは本法不思議の如来なれば此の法華経の行者を指す可きなり、大施主の施とは末法当今流布の南無妙法蓮華経主とは上行菩薩の事と心得可きなり、然りと雖も当品は迹門付嘱の品なり上行菩薩を首として付嘱し給う間上行菩薩の御本意と見たるなり云云」(0772:第二如来是一切衆生之大施主の事)と。

 

依智にして二十余日・其の間鎌倉に或は火をつくる事・七八度・或は人をころす事ひまなし、讒言の者共の云く日蓮が弟子共の火をつくるなりと、さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて二百六十余人しるさる、皆遠島へ遣すべしろうにある弟子共をば頚をはねらるべしと聞ふ、さる程に火をつくる等は持斎念仏者が計事なり其の余はしげければかかず

 

北条時宗からの処刑中止の命令書が届いて、その後の大聖人の処遇を決めるのに役人の間で相当な論議が交わされたのであろう。大聖人は依智の本間邸で、二十数日もの間、なんの音沙汰もなく過ごされたのである。本来ならば、執権からの刑の執行中止の命令が下ったならば、ただちに無罪放免となるべきはずである。ところがわざとこのように二十数日も本間邸で過ごさせたのは、一体なぜであろうか。

思うに、一つには執権の権力がかなり弱体化していたということであり、もう一つには、もともと今度の法難は平左衛門尉の独断で実行したことである。そしてその本質は釈迦在世の提婆達多のごとき、魔の首領のごとき存在である。日蓮大聖人をなんとか亡き者にせんとの悪意から出た行為であることは、火を見るよりも明らかである。

われわれはこの文から、平左衛門尉、良観等の悪辣極まりない謀略に心の底から憤りを覚えるではないか。

持斎や念仏者たちが共謀して、鎌倉の家々に火をつけ、これを大聖人の弟子の仕業であるなどといいふらすとは、なんと卑怯な、悪心に満ちた策謀であろうか。彼らは、ただただ大聖人を迫害するために今世に生を受けた魔の眷属としかいいようがない。結局は、こうした讒言がいいふらされて260余人もの弟子が牢に入れられたのである。結局、この策謀で罪なき大聖人を無理に佐渡流罪にもち込んだものであろう。

このときのようすは「土籠御書」に「日蓮は明日・佐渡の国へまかるなり、今夜のさむきに付けても・ろうのうちのありさま思いやられて・いたはしくこそ候へ……法華経を余人のよみ候は口ばかり・ことばばかりは・よめども心はよまず・心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ……籠をばし出でさせ給い候はば・とくとく・きたり給へ、見たてまつり見えたてまつらん」(1213:01)と述べられている。

これは、佐渡へ発たれる前日、すなわち109日に相模の依智より日朗に与えられたものである。まことに御本仏の慈悲が胸にこみあげてくるではないか。御自身、厳寒の地へ配流の身となる日を翌日にひかえて、なおかつ弟子の身を案じておられる大聖人の境涯たるや、御本仏にして初めてなせる、悠々たる境涯であると拝するのである。

 

 

 第八章(塚原三昧堂での御法悦)

  本文

 同十月十日に依智を立つて同十月二十八日に佐渡の国へ著ぬ、十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし、かかる所にしきがは打ちしき蓑うちきて夜をあかし日をくらす、夜は雪雹雷電ひまなし昼は日の光もささせ給はず心細かるべきすまゐなり、彼の李陵が胡国に入りてがんくつにせめられし法道三蔵の徽宗皇帝にせめられて面にかなやきをさされて江南にはなたれしも只今とおぼゆ、あらうれしや檀王は阿私仙人にせめられて法華経の功徳を得給いき、不軽菩薩は上慢の比丘等の杖にあたりて一乗の行者といはれ給ふ、今日蓮は末法に生れて妙法蓮華経の五字を弘めてかかるせめにあへり、仏滅度後・二千二百余年が間・恐らくは天台智者大師も一切世間多怨難信の経文をば行じ給はず数数見擯出の明文は但日蓮一人なり、一句一偈・我皆与授記は我なり阿耨多羅三藐三菩提は疑いなし、相模守殿こそ善知識よ平左衛門こそ提婆達多よ念仏者は瞿伽利尊者・持斎等は善星比丘なり、在世は今にあり今は在世なり、法華経の肝心は諸法実相と・とかれて本末究竟等とのべられて候は是なり、摩訶止観第五に云く「行解既に勤めぬれば三障・四魔・紛然として競い起る」文、又云く「猪の金山を摺り衆流の海に入り薪の火を熾にし風の求羅を益すが如きのみ」等云云、釈の心は法華経を教のごとく機に叶ひ時に叶うて解行すれば七つの大事出来す、其の中に天子魔とて第六天の魔王或は国主或は父母或は妻子或は檀那或は悪人等について或は随つて法華経の行をさえ或は違してさうべき事なり、何れの経をも行ぜよ仏法を行ずるには分分に随つて留難あるべし、其の中に法華経を行ずるには強盛にさうべし、法華経を・をしへの如く時機に当つて行ずるには殊に難あるべし、故に弘決の八に云く「若し衆生生死を出でず仏乗を慕わずと知れば魔・是の人に於て猶親の想を生す」等云云、釈の心は人・善根を修すれども念仏・真言・禅・律等の行をなして法華経を行ぜざれば魔王親のおもひをなして人間につきて其の人をもてなし供養す世間の人に実の僧と思はせんが為なり、例せば国主のたとむ僧をば諸人供養するが如し、されば国主等のかたきにするは既に正法を行ずるにてあるなり、釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり、眼前に見えたり此の鎌倉の御一門の御繁昌は義盛と隠岐法皇ましまさずんば争か日本の主となり給うべき、されば此の人人は此の御一門の御ためには第一のかたうどなり、日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんば争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ。

 

現代語訳

同十月十日に依智を立って同十月二十八日に佐渡の国へ着いた。十一月一日に三昧堂へ入ったが、ここは本間六郎左衛門の家のうしろの塚原という山野のなかの、洛陽(京都)の蓮台野のように死人を捨てる場所にある一間四面の堂で仏もない。上は板間が合わず、四面の壁は荒れ果てて、雪が降り積もって消えることがない。こういう所に敷皮をしき蓑を着て夜を明かし日を送った。夜は雪・雹・雷電の絶え間がなく、昼は日の光もさしこまず、心細いのが当たり前の住居である。彼の李陵が胡国へ入って巌崛に閉じ込められたのも、法道三蔵が徽宗皇帝に責められて顔にかな焼きを押されて、江南に放逐されたのも只今だと感じた。

ああ嬉しいことである。須頭檀王は阿私仙人に責め使われて法華経の功徳を得、不軽菩薩は増上慢の比丘等に杖で打たれて一乗の行者といわれた。今日蓮は末法に生まれて妙法蓮華経の五字を弘めてこういう責めに遇った。仏滅後二千二百余年の間・恐らくは天台智者大師も「一切世間多怨難信」の経文は行じられず「数数見擯」の明文を行じたのは但日蓮一人だけである。「一句一偈・我皆与授記」に当たるのは自分である。「阿耨多羅三藐三菩提」を得ることは疑いない。相模守時宗殿こそ善知識であることよ、平左衛門こそ提婆達多よ、念仏者は瞿伽利尊者・持斎等は善星比丘である。在世は今にあり今は在世である。法華経の肝心は諸法実相と説かれていて本末究竟等と宣べられているのはこれである。

摩訶止観第五にいわく「行解すでに勤めたならば三障四魔が紛然として競い起こる」文と、またいわく「三障四魔の働きは猪が金山を摺ってますます光らせ、沢山の流れが海に入っていよいよ海水を増し、薪が火をますます熾んにし、風が吹いて迦羅求羅という虫を太らせるようなものである」等と。この釈の心は、法華経を教えのとおりに機根に叶い時に叶って信解し修行すれば七つの大事が出てくる、そのなかに天子魔といって、第六天の魔王があるいは国主あるいは父母あるいは妻子あるいは檀那あるいは悪人等にとりついて、あるいは行者に随って法華経の行者をさまたげあるいは反対するはずである、どの経を行ずるにもせよ仏法を修行するならば分々に随って留難があるはずである、そのなかでも法華経を行ずるならば、強盛にさまたげるであろう、法華経を教えのとおりに時と機根に適合して行ずるならばとくに強く難があるはずである、ということを述べているのである。

故に、弘決の八にいわく「若し衆生が生死を出離せず仏乗を慕っていないと知れば、魔はこの人に対して親のような想いを生ずる」等と。釈の心は、人が善根を修しても念仏・真言・禅・律等の修行をして法華経を行じなければ、魔王が親のような想いを起こして人間についてその人を優遇し供養をする、それは世間の人に真実の僧だと思わせるためである。例えば国主が尊敬する僧をあらゆる人が供養するようなものである、といっているのである。

であるから、国主等がかたきにするのはこちらが正法を行じている証拠なのである。釈迦如来のためには提婆達多こそ第一の善知識ではなかったか。今の世間を見ると人を良くするものは味方よりも強敵が人をよく大成させている。その実例は眼前に見えている。この鎌倉幕府の繁昌は和田義盛と隠岐法皇とがおられなかったならばどうして日本国の主となられたであろうか。故にこの人々は北条御一門のためには第一の味方である。同じく日蓮が仏になるための第一の味方は東条景信であり、法師では良観・道隆・道阿弥陀仏であり、彼等と平左衛門尉・時宗殿がいなかったならばどうして法華経の行者になれただろうかと悦んだのである。

 

語釈

佐渡の国

新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(127110月~文永11年(12743月までである。

 

塚原

日蓮大聖人が佐渡に流罪され最初に住まわれたところ。

 

洛陽の蓮台野

洛陽は中国・古代王朝の都で河南省西部にある。歴代の天子が政治の中心とした。我が国の京都はこれに模して都をつっくている。蓮台野は墓地。地名にもなり,特に京都市北区船岡山の西麓にあった死人捨場。

 

一間四面なる堂

主柱4本からなる建築様式の建物。

 

李陵が胡国に入りて

李陵は中国前漢の武将で字を少卿という。将軍・李広の孫で、幼いときから弓術に長じており、下士をよく愛した。時に武帝に請い部下5000人を率いて匈奴と戦い、よく敵軍をやぶり、兵を返すときに敵方、単于の率いる80,000の大軍に囲まれ、矢尽き刀折れて匈奴に捕われた。李陵の降参したこと、さらに李陵が匈奴に兵術を教えていることを聞いて、武帝は怒り、李陵の一族を皆殺しにした。李陵はこの報を聞き、実は兵術を教えていたのは李緒であり、李緒のために家族が皆殺しにあったとして、人を遣わして、李緒を殺す。さらに、武帝の行ないに李陵は、単于の娘をめとって報い、故郷に帰ることなく没した。胡国は北方の北狄の一部で、匈奴のこと。漢の北方に位置する遊牧騎馬民族の匈奴の領地をさす。

 

がんくつにせめられし

「法蓮抄」(1052)には「李陵が巌窟に入って六年蓑をきて」とあり、李陵は、胡国で6年間捕われの身として巌窟にとじこめられていたのである。

 

法道三蔵の徽宗皇帝にせめられて

法道三蔵は宋の徽宗皇帝時代の高僧。宣和元年、帝が詔して仏僧の称号を改めようとしたときに、法道は上書してこれを諌め、これにより帝は怒って法道の面に火印をおし江南の道州に放逐した。せめられてとはこのことをさす。なお、法道はその後、同7年に許されてかえった。

 

檀王は阿私仙人にせめられて

檀王とは須頭檀王のことで、釈迦の過去世における因位の修行をしたときの名。正法を求めるために王位を捨てて、阿私仙人に従い仏道修行をしたときのことをさす。

 

上慢の比丘

法華経常不軽菩薩品第二十に説かれている。威音王仏の像法時代の末に出現して折伏行に励んだ不軽菩薩に、杖木瓦石、悪口罵詈等の迫害をした高慢の僧をいう。

 

一乗の行者

法華経の行者のこと。種種御振舞御書には「あらうれしや檀王は阿私仙人にせめられて法華経の功徳を得給いき、不軽菩薩は上慢の比丘等の杖にあたりて 一乗の行者といはれ給ふ、今日蓮は末法に生れて妙法蓮華経の五字を弘めてかかるせめにあへり」(0916:08)とある。

 

一切世間多怨難信

安楽行品の文。末法の法華経の行者には怨嫉が多くて、一切衆生は信じがたいというということを予言した文。

 

数数見擯出

法華経勧持品第十三の二十行の偈文。「数数擯出せられ」と読む。「数数」とは、しばしばという意。「見擯出」とは所を追われるという意。日蓮大聖人は、この経文どおりに二度まで流罪された。一度は弘長元年(1261512日伊豆国伊東、二度目は文永8年(12711010日佐渡。日蓮大聖人は、仏滅後にこの「数数見擯出」の経文を身業読誦されたのは御自身のみであると述べられている。

 

一句一偈・我皆与授記

法華経法師品第10に「妙法華経の一偈一句を聞いて、乃至一念も随喜せん者には、我皆記を与え授く」とある。法華経のなかの一句一偈を聞いて、信心の心を起こしたものは、仏がみな、その人たちへ、仏になる証明を与えるということ。

 

阿耨多羅三藐三菩提

梵語anuttarasamyak sambodhiの音訳。無上無編知・無上正覚等と訳す。無上きわまりない仏の覚知、仏智が一切の迷いを明らかにして、深く諸法の義を極め、円満自在であること。すなわち、仏の智慧は無上清浄で、正等に偏頗なく一切にゆきわたるという意。分けると阿耨多羅(anuttara)は無上または無答、三藐(samyak)は正等または正徧、三菩提(sambodhi)は正覚、正知と訳す。

 

相模守殿

相模国(神奈川県)の国司の敬称。鎌倉時代には相模国は幕府の所在地であったので、執権や連署などの重職にある者が国司を兼ねるのが常であった。ここでは鎌倉幕府第八代執権・北条時宗をさすが、時宗は文永元年(1264)に連署となり、翌年相模守に任じられている。

 

善知識

善友と同意。正法を教え、ともに修行し、また正法を持ちきるよう守ってくれる人。

 

提婆達多

提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。

 

瞿伽利尊者

瞿伽利は梵語。悪時者、守牛と訳す。釈迦族の出で、浄飯王の命令により出家して仏弟子となったが、のちに提婆達多を師として舎利弗・目連を誹謗し、生きながら地獄へ堕ちた。

 

善星比丘

釈尊の出家以前の三子の内、第三夫人・釈の長者の娘鹿野の子。羅睺羅の庶兄。善星は出家し仏道を修行して第四禅定を得たが、これが真の涅槃の境涯であると思い、のち苦得外道等に近づいて退転した。そして仏法を否定する邪見を起こし、釈迦に対しても悪心を懐いたため、現身に地獄の大苦を受けた。このことから闡提比丘、四禅比丘の名がある。

 

諸法実相

諸法はそのまま実相であるということ。法界三千のいっさいの本然の姿は、妙法蓮華経の当体であるということ。諸法実相の仏とは、十界互具・一念三千の仏のことであり、三十二相をそなえた色相荘厳の仏ではなく、凡夫そのまま、ありのままの仏である。諸法実相抄には「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり」(1358:01)「実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり」(1359-03)とある。

 

本末究竟等

本と末は一貫して等しいこと。

 

三障・四魔

仏道修行を妨げ善心を害する三種の障りと四種の魔のこと。三障は①煩悩障(貪瞋癡等の惑によって起こる障)。②業障(五逆・十悪等によって起こる。また妻子等によって起こる障)。③報障(三悪道・謗法・一闡提の果報が仏道の障礙となること。また国王や父母、権力者からの障礙)である。四魔は①煩悩魔(貪瞋癡等の惑によって起こる魔)。②陰魔(衆生は五陰の仮和合したものであるからつねに苦悩の中にあるゆえに五陰を魔とする)。③死魔(死の苦悩で、死がよく命根を断つので魔という)。④天子魔(他化自在天子魔の略称。他化自在天王がよく人の善事・善行を害すること。権力者による迫害等がこれにあたる)である。

 

猪の金山を摺り

大智度論第三十、あるいは摩訶止観第五にある。猪が金山の輝いているのを憎み、自分のからだをこすりつけて、その輝きをなくそうとするが、かえって金山の輝きは増す。すなわち、正法を教えのとおり時機にかなって修行すれば、必ず三障四魔が競い起こってくるが、それによっていよいよ信心が強盛になることを譬えている。大智度論巻第三十に「忍は從瞿たり、能く瑩いて諸徳を明らかにす。若し人悪を加ふるも、豬が金山を摺ればますますその明を発するが如く、仏道を求め衆生を度するの利器なり」とある。

 

風の求羅を益す

求羅とは梵語の迦羅求羅の略称で、黒木虫と訳す。インドに棲息するトカゲの一種。大智度論巻第七に「譬えば迦羅求羅虫は其の身微細なれども、風を得ば転た大となり、乃至よく一切を呑食するがごとし」とあるように、風を得て成長するといわれる。

 

七つの大事

三障四魔のこと。

 

天子魔

他化自在天のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六天にあるので第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王とも天子魔ともいう。三沢抄には「第六天の魔王・此の事を見て驚きて云く、あらあさましや此の者此の国に跡を止ならば・かれが我が身の生死をいづるかは・さてをきぬ・又人を導くべし、又此の国土ををさへとりて我が土を浄土となす、いかんがせんとて欲・色・無色の三界の 一切の眷属をもよをし仰せ下して云く、各各ののうのうに随つて・かの行者をなやましてみよ・それに・かなわずば・かれが弟子だんな並に国土の人の心の内に入りかわりて・あるひはいさめ或はをどしてみよ・それに叶はずば我みづから・うちくだりて国主の身心に入りかわりて・をどして見むに・いかでか・とどめざるべきとせんぎし候なり」(1487:12)とある。

 

第六天の魔王

他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。

 

弘決

天台大師の摩訶止観に妙楽大師が注訳を加えた「止観輔行伝弘決」のこと。明楽は諡を湛然といい、出身地をとって荊州大師とも呼ばれる。天台宗の第9祖で、天台大師より6世の法孫にあたる。

 

善根

善い果報を招くべき善因。根とは結果を生ずべき因。題目を上げること、折伏・弘教への実践活動が最高のである。一生成仏抄には「然る間・仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり(0383:14)とある。

 

鎌倉の御一門

北条氏一門のこと。

 

義盛

和田義盛のこと。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の御家人で、初代侍所別当。三浦氏の一族で源頼朝の挙兵に参加。鎌倉に頼朝の初期武家政権がつくられると初代侍所別当に任じられる。治承・寿永の乱では源範頼の軍奉行となり、山陽道を遠征し九州に渡り、平家の背後を遮断した。平家滅亡後は奥州合戦に従軍して武功を立てた。頼朝の死後、梶原景時の変での景時弾劾追放では中心的な役割を果たし、比企能員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では北条氏に与した。しかし、二代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦うが敗死し、和田一族も滅亡した(和田合戦)。館は若宮大路にあった。

 

隠岐法皇

11801239)。第82代後鳥羽天皇のこと。高倉天皇の第四皇子。寿永2年(1183)に安徳天皇が平氏とともに都落ちしたのち、同年8月、祖父・後白河法皇の院旨で即位し、三種の神器を持たぬ天皇となった。その治世は平安時代末の動乱期で源平の対立、鎌倉幕府成立の時期であった。天皇は19歳で土御門天皇に位を譲って院政をしき、幕府に対しては外戚坊門信清の娘を源実朝の室とし、その子を次の将軍とすることを密約したが、実朝の横死で果たさなかった。実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、政権を朝廷に奪回しようと、順徳上皇や近臣と謀って、承久3年(1221)義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈祷をさせたが効なく、敗れて出家し隠岐に流された。このため隠岐の法皇と呼ばれた。

 

景信

生没年不詳。鎌倉時代、安房国東条郡(千葉県鴨川市)の地頭。熱心な念仏者であった。入道となって蓮智と称した。建長5年(1253年)428日、日蓮大聖人が立宗宣言を行った際に浄土教を破折したことから、清澄寺の住僧であった円智房や実城房と共に大聖人に迫害を加えた。この結果、大聖人は道善房から勘当され、清澄寺を出ることとなった。また、景信は清澄寺内で鹿狩りをして殺生禁断を冒し、清澄寺の寺僧を浄土教の所従にしようとし、さらに清澄寺や二間の寺を支配下に置こうとするなどの非法を行った。こうした景信の侵犯に対して、かつて両親が領家から御恩を蒙ったとして、大聖人はこの地の領主であった領家の尼について訴訟を勝利へと導き、景信の侵略を退けている。文永元年(1264年)、大聖人は安房に帰郷された。これに対して、大聖人への怨念をはらすべく待ちかまえていた景信は、同年1111日に東条松原の大路で数百人の念仏者をひきいて大聖人一行を襲撃し、弟子の一人を殺害し、二人には傷害を負わせた。また、大聖人にも頭に疵と左手を打ち折る重傷を与えた(小松原の法難)。景信の没年は明らかではないが、「報恩抄」(323㌻)によれば大聖人が佐渡へ流罪されるまでに死んだようである。

 

道阿弥陀仏

念仏宗の僧と思われるが詳細は不明。四信五品抄では、盲目になったと記されている。

 

講義

日蓮大聖人が佐渡に着かれたのは、1028日であった。そして111日には塚原三昧堂に住まわれている。ここに翌文永9年(1272年)42日まで、5か月にわたって住まわれ、その後43日に一の谷入道の邸に移られ、ここで文永11年(12743月、赦免され佐渡を発たれる日までお暮らしになられるのである。

この塚原三昧堂のあたり一帯は、死人を捨てる地であり、とても人間が生活できるような場所ではない。佐渡流罪は罪人のなかでも、政治犯や殺人犯など、とくに重犯罪者に対して科せられたのであり、この地に流罪となったということは、すでに死罪を宣告されたに等しいものであった。

また、とくに大聖人の御身にとっては、佐渡は念仏者達のひじょうに多い国土世間であり、鎌倉の大罪人あるいは念仏無間を唱える天地にゆるすべからざる罪人であるなどの風評も、讒人によって流されていたであろうから、殺意をもって近づく者も多かった。

今日、われわれの信心の鏡ともいうべき阿仏房夫妻も、もとはといえば、そうした佐渡における念仏の強信者の一人であった。ところが日蓮大聖人を論詰せんとして、塚原の三昧堂へ行き、大聖人にお会いするや、その威厳にうたれて、それまでの念仏を捨て大聖人に帰伏したのである。以後、阿仏房夫妻は、佐渡においてご不自由な生活をなされる大聖人の許へ風雪をいとわず、危険を顧みず、お給仕を務めたのである。

さらに、大聖人が到着されたころは、まさに厳冬を迎える直前で、とくに極寒の佐渡にあっては、寒さが膚身に沁みるような毎日であったであろう。「富木入道殿御返事」にいわく「相州鎌倉に候し時の思には四節の転変は万国皆同じかるべしと存候し処に此北国佐渡の国に下著候て後二月は寒風頻に吹て霜雪更に降ざる時はあれども日の光をば見ることなし、八寒を現身に感ず」(0955:01)と。

この寒さを防ぐものとしては、板間の合わぬ天井、荒れ果てた壁、床に敷皮を敷いて着るものは蓑しかない状態であったから、常人なら数日もしない内に凍死してしまったであろう。もったいなくも御本仏日蓮大聖人は、かくも厳しい環境のなかでご生活なさっていたのである。

 

一間四面の堂

 

塚原三昧堂は、その広さ一間四面と述べられている。一間四面というのは、建築用語で四本柱の堂ということである。ふつう一間というと尺貫法で六尺(1.8㍍)と換算するが、それをこの一間四面に応用して六尺四方の堂と理解するのは早計である。なぜなら、六尺四方というとちょうど畳2枚の広さになる。ここに「堂の仏もなし」と仰せられているから祭壇はあったのであろう。したがって畳2枚では内部はさらに狭くなり、日常の起居さえもおぼつかなくなってしまう。故にここの「一間四面の堂」は、尺貫法で換算するのではなく、建築用語として理解すべきである。ただ付言するならば、塚原三昧堂はそんな大きなものではなかったと思われる。

また「上はいたまあはず四壁はあばらに」と申されているから、相当に古びた建て物であったと思われる。「住居」は、このように貧しかったのである。

また「食」については、一の谷に移られてからでさえも「預りより・あづかる食は少し付ける弟子は多くありしに・僅の飯の二口三口ありしを或はおしきに分け或は手に入て食し」(1329-02)と申されているように、とうてい凡人では飢えも忍べぬほど、ごく少量であった。このような厳しい状況の下にご生活なさる大聖人を、佐渡の人達は、いつか飢え死にするのではあるまいか、と思っていたことであろう。

「道にても・又国にても・若しはころすか若しはかつえしぬるかに・ならんずらんと・あてがはれて有りしに」(1333:08)のお言葉のなかに、当時の食生活の困窮がしのばれるではないか。

食べるものも、着るものもなく、厳寒といっても火の気もないところで過ごされた大聖人のご境涯は想像を絶するものであった。まさにそのご生活の環境をしのぶに、それは凡夫の立ち場ではとうてい、切り抜けられるものでないことがひしひしとわかる。

人間が生活していく上における最も基本的な条件は、衣食住であるといわれている。佐渡流罪中の大聖人は、この三つの条件が、凡人の思慮には到底およばぬ最悪の状態にあられた。なかんずく塚原三昧堂での五か月間のご生活は、どんなにか苦闘苦難の連続であったことであろうか。

われわれ凡夫は、寒い冬に氷柱を見ただけでも身を縮めるし、また突如の雷雨の襲来に肝を冷やすのである。

しょせん、いかなる恐ろしい環境をもってしても、大聖人の塚原三昧堂でのご生活を振り返るとき、まだ天地の開きがある。ましてや罪人として最も罪重き者の流罪される場所である佐渡におけるご生活である。本抄には、また「日蓮房・此の国にながされたり・なにとなくとも此の国へ流されたる人の始終いけらるる事なし、設ひいけらるるとも・かへる事なし、又打ちころしたりとも御とがめなし、塚原と云う所に只一人ありいかにがうなりとも力つよくとも人なき処なれば集りていころせかしと云うものもありけり」とお述べのように、大聖人ご自身の危険は、自然との戦いだけでなく、謗徒の突然の襲撃も考えられ、瞬時たりとも、安らかなときはお過ごしになれなかったこととご推察申し上げるのである。

だが、大聖人はこのようななかで数々の重要な御書をお認めになっているのである。

次に佐渡期にお認めになった御書を掲げてみたいと思う。

文永8

佐渡御勘気抄(10月)

富木入道殿御返事(1123日)

文永9

法華浄土問答抄(117日)

開目抄上下(2月)

生死一大事血脈抄(211日)

八宗違目抄(218日)

草木成仏口決(220日)

阿仏房御書(313日)

佐渡御書(320日)

富木殿御返事(410日)

最蓮房御返事(413日)

同生同名御書(4月)

四条金吾殿御返事(52日)

真言諸宗違目(55日)

日妙聖人御書(525日)

真言見聞(7月)

辧殿御消息(726日)

四条金吾殿御返事(9月)

経王御前御書

祈祷抄

文永10

祈祷経送状(128日)

観心本尊抄(425日)

観心本尊抄送状(426日)

顕仏未来記(511日)

諸法実相抄(517日)

義浄房御書(528日)

如説修行抄(5月)

土木殿御返事(76日)

土木殿御返事(113日)

波木井三郎殿御返事(83日)

経王殿御返事(815日)

辧殿尼御前御書(919日)

当体義抄

当体義抄送状

小乗大乗分別抄

呵責謗法滅罪抄

妙法曼陀羅供養事

文永11

法華行者逢難事(114日)

「佐渡御書」には「佐渡の国は紙候はぬ」(0961:07)と申されている。お手紙を書くにも事欠くご不自由ななかで「開目抄」、「観心本尊抄」、「当体義抄」など30数篇にのぼる重要な御書を著わされたのである。その御境涯たるや、われわれの想像もおよばぬお振舞いであり、ひとえに末法の民衆を救済せんとなされる御本仏の大慈悲を深く痛感するのである。

 

在世は今にあり今は在世なり、法華経の肝心は諸法実相と・とかれて本末究竟等とのべられて候は是なり

 

仏法は、生命の究極の実相を説いた大哲理であり、大宇宙の本源の原理である。在世というも末法今時というも、時代の底流となり、本質をなしているものは、生命それ自体である。

時代の変遷、社会の変貌も、様々な、複雑な因果がからみ合いながら進展してくるものであるが、その究極の根底には厳然たる生命の法則が貫かれている。この生命の法則こそ、一念三千の大哲理であり、法華経の哲理である。

在世といっても、それは過去のことではない。そこに展開された姿は、そのまま末法今時の実相でもある。そしてこの現在の瞬間それ自体に、すでに未来をも写し出しているといえる。いまここでは仏と魔との戦いを、生命の本源に言及して述べられている。釈迦と提婆達多の関係も、日蓮大聖人と平左衛門の関係も、まったく過去のことではない。仏と魔との峻烈な戦いは、生命の実相であり、本末究竟して等しく、そのまま今日の姿である。

しかして、魔にかつものは、つねに仏の生命しかない。その生命の本質を見抜くとき、いかに、創価学会の戦いが、最も生命の本源に根ざした、時代の底流を築く、偉大な革命であるかを知るのである。

 

 

 第九章(塚原問答と自界叛逆難)

  本文

 かくて・すごす程に庭には雪つもりて・人もかよはず堂にはあらき風より外は・をとづるるものなし、眼には止観・法華をさらし口には南無妙法蓮華経と唱へ夜は月星に向ひ奉りて諸宗の違目と法華経の深義を談ずる程に年もかへりぬ、いづくも人の心のはかなさは佐渡の国の持斎・念仏者の唯阿弥陀仏・生喩房・印性房・慈道房等の数百人より合いて僉議すと承る、聞ふる阿弥陀仏の大怨敵・一切衆生の悪知識の日蓮房・此の国にながされたり・なにとなくとも此の国へ流されたる人の始終いけらるる事なし、設ひいけらるるとも・かへる事なし、又打ちころしたりとも御とがめなし、塚原と云う所に只一人ありいかにがうなりとも力つよくとも人なき処なれば集りていころせかしと云うものもありけり、又なにとなくとも頸を切らるべかりけるが守殿の御台所の御懐妊なれば・しばらくきられず終には一定ときく、又云く六郎左衛門尉殿に申してきらずんば・はからうべしと云う、多くの義の中に・これについて守護所に数百人集りぬ、六郎左衛門尉云く上より殺しまうすまじき副状下りてあなづるべき流人にはあらず、あやまちあるならば重連が大なる失なるべし、それよりは只法門にてせめよかしと云いければ念仏者等・或は浄土の三部経・或は止観・或は真言等を小法師等が頸にかけさせ或はわきにはさませて正月十六日にあつまる、佐渡の国のみならず越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国国より集れる法師等なれば塚原の堂の大庭・山野に数百人・六郎左衛門尉・兄弟一家さならぬもの百姓の入道等かずをしらず集りたり、念仏者は口口に悪口をなし真言師は面面に色を失ひ天台宗ぞ勝つべきよしを・ののしる、在家の者どもは聞ふる阿弥陀仏のかたきよと・ののしり・さわぎ・ひびく事・震動雷電の如し、日蓮は暫らく・さはがせて後・各各しづまらせ給へ・法門の御為にこそ御渡りあるらめ悪口等よしなしと申せしかば・六郎左衛門を始めて諸人然るべしとて悪口せし念仏者をば・そくびをつきいだしぬ、さて止観・真言・念仏の法門一一にかれが申す様を・でつしあげて承伏せさせては・ちやうとはつめつめ・一言二言にはすぎず、鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりも・はかなきものどもなれば只思ひやらせ給へ、利剣をもて・うりをきり大風の草をなびかすが如し、仏法のおろかなる・のみならず或は自語相違し或は経文をわすれて論と云ひ釈をわすれて論と云ふ、善導が柳より落ち弘法大師の三鈷を投たる大日如来と現じたる等をば或は妄語或は物にくるへる処を一一にせめたるに、或は悪口し或は口を閉ぢ或は色を失ひ或は念仏ひが事なりけりと云うものもあり、或は当座に袈裟・平念珠をすてて念仏申すまじきよし誓状を立つる者もあり。
  皆人立ち帰る程に六郎左衛門尉も立ち帰る一家の者も返る、日蓮不思議一云はんと思いて六郎左衛門尉を大庭よりよび返して云くいつか鎌倉へのぼり給うべき、かれ答えて云く下人共に農せさせて七月の比と云云、日蓮云く弓箭とる者は・ををやけの御大事にあひて所領をも給わり候をこそ田畠つくるとは申せ、只今いくさのあらんずるに急ぎうちのぼり高名して所知を給らぬか、さすがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし、田舎にて田つくり・いくさに・はづれたらんは恥なるべしと申せしかば・いかにや思いけめあはててものもいはず、念仏者・持斎・在家の者どもも・なにと云う事ぞやと恠しむ。

 

現代語訳

このような心境で過ごしていたが、庭には雪が積もって人も通わず、堂には荒い風のほかは訪ずれるものもない。眼には止観や法華をさらし口には南無妙法蓮華経と唱え夜は月星に向かって諸宗の違いと法華経の深義を講じている間に年が改まった。

どこでも人の心のあさはかさは同じことで、佐渡の国の持斎や念仏者の唯阿弥陀仏・生喩房・印性房・慈道房等数百人が寄り合って協議していると伝わってきた。「有名な阿弥陀仏の大怨敵・一切衆生の悪知識の日蓮房がこの国に流されてしまった。特別な罪人ではなくてもこの島へ流された人で最後まで活かされたためしがない。たとえ活かしておいても元の国へ帰れた例がない。また流人を打ち殺したとしてもお咎めはない。彼は塚原という所にただひとりでいる。いかに剛の者でも力が強くても人のいない場所なのだから集まって射殺してしまえ」という者もあった。また「いづれにしても首を斬られるはずであったが相模守時宗殿の夫人がご懐妊なのでしばらく斬罪を延ばしているがやがて必ず執行されると聞いている。だから放っておくがよい」とか、また「地頭の本間六郎左衛門尉殿に斬ってもらうように訴えて、斬らなかったならわれわれで謀ろうではないか」という者もあり、さまざまな意見が出たあげく、この問題について守護所へ強訴に数百人集まった。

これに対して六郎左衛門尉が「お上から殺してはならぬという副状が下っていて、軽蔑すべき流人ではない。彼の身にあやまちを起こしたならば重連が大きな罪になる。だから殺すなどということは考えないで、それよりもっぱら法門で攻めるように」と答えたので、念仏者等があるいは浄土の三部経、あるいは摩訶止観、あるいは真言の経釈等を小憎等の首にかけさせ、あるいは小脇に挟ませて正月16日に集まった。佐渡一国だけではなくて越後・越中・出羽・奥州・信濃等の国々から集まった法師等なので、塚原の堂の大庭から山野へかけて数百人、それに六郎左衛門尉と兄弟一家やそれ以外の者、百姓の入道等が数知れず集まった。

念仏者は口々に悪口をいい、真言師は怒りのために面々に顔色を失い、天台宗は自分達こそ勝つのだと声高に騒いだ。在家の者どもは「かねて聞き及ぶ阿弥陀仏のかたきめ」と罵り、この騒ぎが響きわたるさまは地震か雷鳴のようであった。日蓮はしばらく騒がせて置いてから「おのおのがた静まりなさい。法論のためにこそおいでになったのではないか。悪口等は無益である」と申したところ、六郎左衛門を始め多数の人々が「そうだ」といって悪口した念仏者を首根をつかまえて突き出した。

さて、止観・真言・念仏の法門を、一一相手がいうことを念を押して承知させておいてから、ちょうとばかりにつき詰めつき詰めすると、相手はみな一問か二問しか問答できずに詰まってしまった。鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりもたわいがない者共であるから問答の様子は想像してごらんなさい。それはまるで利剣で瓜を切り大風が草を靡かせるようなものであった。彼等は仏法に暗いばかりでなく、あるいは自語相違し、あるいは経文を忘れて論といい、釈をわすれて論というありさまであった。善導が首をくくって柳から落ち、弘法大師が三股の金剛杵を投げたとか大日如来と現れたとか等について、あるいは妄語あるいは気違い沙汰である点を一一くわしく責めたところ、ある者は悪口し、ある者は口を閉じてしまい、ある者は顔色を失い、あるいは「念仏は間違いであった」という者もあり、あるいはその場で袈裟や平珠数を捨てて念仏は称えまいという由の誓状を立てる者もあった。

皆帰って行くので六郎左衛門も帰り一家の者もかえっていった。このとき日蓮は不思議を一ついおうと思って、六郎左衛門を大庭から呼び返して「いつ鎌倉へ上られるのか」というと、彼が答えるには「下人どもに農事をさせてからで、七月ごろになりましょう」という。日蓮は「弓箭取る者は主家の御大事に間に合って、ほうびに所領の一つも賜わることこそ田畠を作るとはいうものではないか。ただ今いくさが起ころうとしているのに、急いで鎌倉へ駆け上り手柄をたてて領地を賜わらないか。なんといってもあなたがたは相模の国では名の知れた侍である。それが田舎で田を作っていていくさにはずれたならば恥であろう」といったところ、なんと思ったのであろうか、帰り急いでものもいわなかった。見ていた念仏者・持斎・在家の者どもも、これは一体どうしたことかと恠しんだ。

 

語釈

諸宗の違目

諸の宗派の教義上の相違点。

 

法華経の深義

日蓮大聖人は竜口法難以後、久遠元初の御本仏として説かれた法門。

 

唯阿弥陀仏

日蓮大聖人が佐渡流罪中、迫害を加えた佐渡の念仏者。

 

生喩房

日蓮大聖人が佐渡流罪中、迫害を加えた佐渡の律宗の僧。

 

印性房

日蓮大聖人が佐渡流罪中、迫害を加えた佐渡の念仏僧。佐渡の念仏者の中心的存在。

 

慈道房

日蓮大聖人が佐渡流罪中、迫害を加えたなかの一人。

 

悪知識

善知識に対する語。悪友と同語。仏道修行を妨げ、不幸に陥れる友人。唱法華題目抄には「悪知識と申してわづかに権教を知れる人智者の由をして法華経を我等が機に叶い難き由を和げ申さんを誠と思いて法華経を随喜せし心を打ち捨て余教へうつりはてて一生さて法華経へ帰り入らざらん人は悪道に堕つべき事も有りなん」(0001:08)とある。

 

守殿の御台所

北条時宗の奥方。

 

守護所

源頼朝が地方警備のために諸国に置いた役所。

 

副状

何かを命じたり、物を送った時に、副えておく文章。書簡。

 

浄土の三部経

念仏宗が依経としている三部の経典。無量寿経2巻・観無量寿経1巻・阿弥陀経1巻をいう。

 

小法師

小僧、修行中の僧。

 

越後

北陸道7か国の一。現在の新潟県の、佐渡を除く全域にあたる。越の国を天武天皇の時代に3分して成立。古称、こしのみちのしり。

 

越中

北陸道7か国の一。現在の富山県にあたる。越の国を天武天皇の時代に3分して成立。古称、こしのみちのなか。

 

出羽

令制国の一つ。東山道に属する。現在の山形県・秋田県。

 

奥州

東北、福島、宮城、岩手、青森をいう。エゾはアイヌ民族のこと。

 

信濃

かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。現在の長野県。

 

天台宗

天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。

 

在家

①在俗のままで仏法に帰依すること。またその人。②民家、在郷の家、田舎の家。③中世、領事の所轄内で屋敷を与えられ、居住し、在家役を負担していた農民。

 

自語相違

自ら言った言葉のなかで矛盾があること。

 

仏が説いたもの。

 

①経文の意を論議して明らかにしたもの。②法門について問答採決したものを集大成した書。

 

人師が経論を注釈したもの。

 

善導

善導(06130681)は中国唐代の浄土宗の僧。その出生は明らかでないが、幼くして出家し、太宗の貞観年中に西河の玄中寺に赴いて、道綽の弟子となり、観経を信仰して正雑二行の判を立てて専修念仏を主張し人々に称名念仏を勧めた。こうして浄土の法門を演説すること三十年、ついに気が狂って寺前の柳の木で自殺をはかり、極楽往生しようとしたがはたさず、地面に落ちて腰を打ち、十四日間苦しみぬいて死んだと記録されている。唐の高宗の永隆二年のことであった。おもな著には「観経疏」「往生礼讃」があり、浄土の謬義を拡張した。

 

弘法大師

弘法(07740835)は日本の真言宗の祖で、空海という。弘法大師とは醍醐天皇よりの諡号である。15歳の時京都へ上り、18歳で大学に入って漢籍を学び、20歳の時出家した(25歳出家説、31歳とする説もある)。夢のなかで、大日経こそ自分の求めている経であるとの教えを受け、それを一部手に入れ、唐へ渡って勉強しようと決意したというが、もとより後世の作り話である。唐の長安青龍寺に行き、慧果より胎蔵・金剛両部の秘奥の法を学び、毘盧遮那・金剛頂等の経およびもろもろの新訳の経論をもち、帰朝した。天長時代に少僧都に任命され、承和2年(083562歳のとき、病で死んだ。弘法の墓はない。のち、天安2年(0858)に大僧正、延喜21年(0921)に弘法大師と勅諡された。世間に有名だが、真言の邪義が与えた影響は大きく、まれにみる仏法破壊者となった。ここに「三鈷を投たる」とあるのは、三鈷は真言密教の祈禱に用いる道具で、先端が三つに分かれている金剛杵のこと。弘法が帰朝するさいに、中国明州の浜より海上に向かって投げた三鈷が後日、高野山において発見され、高野山こそ感応の地であるとして寺を建立し、真言宗の道場とした、という弘法の邪義である。また「大日如来と現じたる」というのは、弘法の弟子真済(08000860)、が述べたことばで、弘法が帰朝して、朝廷において諸宗の高僧と対論したさいに、手に印を結んで大日如来の姿を現じてみせたという作り話。

 

平念珠

平型の珠でつくった数珠。浄土宗で用いる。日寛上人は当家三衣抄に「応に知るべし、木槵子の円形は是れ法性の妙理を表するなり。玄文第一に云く『理は偏円を絶するも、円珠に寄せて理を談ず』云々。弘の五の上に云く『理体欠くる無し。之を譬うるに珠を以ってす』云々」と説かれた上で、「土宗の平形大いに所表に違うなり」と平念珠の使用を禁じられている。

 

高名

①名声が高いこと。有名。②手柄をたてること。

 

所知

所領・知行・領地。

 

講義

この章は、有名な「塚原問答」の模様を示され、自界叛逆難を予言なされたところである。

「阿弥陀仏の大怨敵・一切衆生の悪知識の日蓮房」が佐渡の国に流罪されてきたということを伝え知った佐渡の国の持斎、念仏者等数百人がいきり立ち、「とにかく生かしておいてはならない」と、騒いでいたが、本間六郎左衛門から「上から厳重にいわれているので、危害を加えては困る。法門で攻めよ」と諭されて、法論をせんものと集まって来る。佐渡の島のみならず、越後(新潟)越中(富山)出羽(山形、秋田)奥州(福島・宮城・岩手・青森)信濃(長野)という、実に広い範囲から邪宗の僧らが集まった状況をみても、いかに日蓮大聖人のお名前が当時の日本にとどろいていたかが知れるのである。

敵意と憎しみに満ちみちた数百人を相手に法論し、これを見事に圧倒し、屈服させることは至難中の至難である。ここにわれわれは日蓮大聖人の御本仏としての大生命力を驚嘆せざるを得ない。

そればかりではない。皆帰っていくとき、本間六郎左衛門を呼びとめて、俗に二月騒動といわれている自界叛逆難をハッキリ予言され、しかもそれが1か月もたたぬうちにピタリと的中しているのである。

大聖人は流罪中の御身で、いっさいの情報を断たれているにもかかわらず、天地の実相を観察されてこれを知られた自受用報身の御仏智は、まさに本有無作の虚空不動慧そのものであり、問答における大生命力は無作の応身の御示現である。

また、衣食住を欠く厳寒の佐渡を生き抜かれた事実は無作法身を示して余りあるのではないか。

こうしてみると、大聖人の人本尊としての事行の一念三千のお振舞いは、すでに佐渡御流罪の初頭において、はっきりと事実をもって世に顕現されたのである。

 

眼には止観・法華をさらし口には南無妙法蓮華経と唱へ

 

日蓮大聖人が、学問の立ち場では法華経を読まれたが、修行としては、法華経一部の読誦ではなく、唱題に励まれていたことを示す重要な文証である。

日寛上人は、身延派等の邪宗が、日蓮大聖人の御聖意に背いて、法華経の一部読誦の修行を行なっていることを破折せられて、六巻抄の末法相応抄に、次のように述べられている。

「問うて云く日辰が記に云く『連祖身延九箇年の間読誦する所の法華経一部手に触るる分・黒白色を分つ、十月中旬二日・九年読誦の行功を拝見せしむ』云云、此の事如何、

答う人の言謬り多し但文理に随わん、天目日向問答記に云く『大聖人一期の行法本迹なり毎日の勤行・方便寿量の両品なり御臨終の時・亦復爾なり』云云、既に毎日の勤行は但是れ方便寿量の両品なり何ぞ九年一部読誦と云うや、又身延山抄十八初に云く『昼は終日一乗妙典の御法を論談し夜は竟夜要文誦持の声のみす』云云、既に終日竟夜の御所作・文に在りて分明なり何ぞ一部読誦と云うや、又佐渡抄十四ノ九に云く『眼に止観法華を曝し口に南無妙法蓮華経と唱うるなり』云云、故に知りぬ並びに説法習学の巻舒に由って方に触手の分有り那ぞ一概に読誦に由ると云わんや」と。

大聖人の仏法の真髄を知らずに、いまだ、徒らに法華経一部の読誦に固執する者は、御本尊の偉大な功力を知らないためであるといえよう。

では、大聖人の御本意に叶う仏道修行とはなにか。

末法のわれらの修行に二つある。すなわち正行と助行である。助行とは方便寿量の両品を所破所用の立ち場からする読誦であり、正行とは文底下種・事の一念三千の南無妙法蓮華経の唱題にある。法華経二十八品の肝要たる方便寿量の両品といえども、正行の甚深の功徳を助顕するためのものであり、故に助行というのである。

唱法華題目抄に「法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり」(0013:03)と。

この御文を、日寛上人は「宗祖の元意二十六品は方便寿量の両品に納まり、方便寿量の両品は妙法の二字に収まる。故に但此の肝要を取って応にこれを修行するなり」と釈されているのは、その意である。

故に、「報恩抄」にも「日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(0328:16)と仰せなのである。

大聖人ご所持の法華経が手あかで汚れていたのは、読誦のためではなく、説法習学のために用いられたことによる。さらに付言すれば、説法習学といえどもその正意は題目の五字にあり、法華経はあくまでも助証として用いたのである。

また「曽谷入道等許御書」の「此の大法を弘通せしむるの法には必ず一代の聖教を安置し八宗の章疏を習学すべし」(1038:13)との仰せを拝せば、助証として、一切経すなわちいっさいの学問が用いられ、それを活かされていることを知るべきである。

 

日蓮不思議一云はんと

 

日蓮大聖人が、本間六郎左衛門尉重連に対して自界叛逆難を予言したのは佐渡で、文永9年(1272116日のことであった。そして現実に合戦が起きたのは同年211日である。いわゆる「二月騒動」と呼ばれるもので、執権北条時宗の異母兄の時輔の陰謀がもちあがったのである。

時輔は、時宗の兄に当たるわけであるが、正妻の子でないという理由で、家督を弟の時宗にとられてしまった。それを恨んで秘かに謀反を企てたのが露見してしまい、ついに合戦となったものである。時宗はすぐさま大蔵頼季を遣わし、陰謀に加担した名越時章、教時等を倒し、ついで北条義宗に時輔と合戦させこれを滅ぼした。かくして、一応は合戦が治まったものの、執権とその兄が醜く争い合う姿は、そのまま世相に反映し、人心の動揺は深刻なものがあり、社会の混乱はエスカレートするばかりであった。

大聖人から初めて聞かされた六郎左衛門は、軍があろうなどとは夢にも思っていなかった。だからこそ、のんびり構えて「下人共に農せさせて七月ごろ……」などといったのであろう。ところが大聖人は「いまにも戦いが起こる」と仰せられた。はたして一か月を待たずして合戦が起きた。それも幕府の土台をゆさぶるような同士討ちである。六郎左衛門はびっくり仰天した。彼は鎌倉の中央から遠く離れ、さらに海を隔てた地方の佐渡にあっては、世情にも疎かったであろうが、大聖人の予言がこれほどまでに確実に、的中したので、大聖人に対して畏敬の念を持ちはじめた。

不思議といえば、これほどの不思議はなかろう。六郎左衛門ならずとも驚くのは当然といえる。しかし、大聖人が的確に世情を予見されたそのもとは、いわゆる世間一般にあるような祈禱師や陰陽師が、よくする世相を占うような、利根や通力によるものではない。それは、すでに文応元年(1260716日、国家諌暁の書として、時の前執権時頼に提出した「立正安国論」に示されたとおり、厳密な仏法哲理に透徹したうえでの予言である。すなわち仏法こそ真実の生命観を説き、大宇宙の生命を余すところなく説ききわめた大生命哲学であり、生命科学なのである。かくして御本仏の深遠なる理解力と洞察力は寸分も違わぬ偉大な予言として実証されたものである。

大聖人は、文永9年(1272525日付で、佐渡から乙御前の母に与えた「日妙聖人御書」に、二月騒動前後の世相を次のように認められている。

「相州鎌倉より北国佐渡の国、其の中間一千余里に及べり。山海はるかにへだて、山は峨峨、海は濤濤、風雨時にしたがふ事なし。山賊海賊充満せり。すくすくとまりとまり民の心虎のごとし犬のごとし。現身に三悪道の苦をふるか。其の上当世の乱世、去年より謀叛の者国に充満し、今年二月十一日合戦、其れより今五月のすゑいまだ世間安穏ならず」(1217:12

竜の口の法難が文永8年(1271912日、その竜の口を出発されてから佐渡へ上陸されたのが文永8年(12711028日、途中依智の本間六郎左衛門の邸で約一ヵ月ほど留まっていたが、とにかく相模の鎌倉から武蔵、上野、信濃、越後の各国を通過して一か月半にわたって具さに地方の様子を見聞きされている。また大聖人を訪ねる門下の人々が持ちよる各地の動きなどを聞くにつけ、当時の社会情勢は「立正安国論」に示したとおりに悪化の一途を辿り、大聖人が最も心配されていた七難のうち残る一難、「他国侵逼難」、すなわち外国からの侵略が襲い来る様相を色濃くしていたのである。「日妙聖人御書」に「いまだ世間安穏ならず」(1217:12)と認められた、その大聖人のご胸中には門下の子弟の生活を安じられ、日本の行く末を案じて、ますます大法流布への熱血は、激しく燃えていたと拝さずにはいられない。

大聖人は、「御義口伝」に「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」(0758:05)と仰せである。苦悩の民衆を幸福と繁栄へと導かんとする、この偉大なる責任感、この大慈悲があればこそ、大聖人は厳しい迫害と弾圧の渦中にあっても、瞬時も休まれず大折伏を敢行されたのである。ここに日蓮大聖人の予言の真髄があることを知らねばならない。

 

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