本文
返す返す今に忘れぬ事は頚切れんとせし時殿はともして馬の口に付きて・なきかなしみ給いしをば・いかなる世にか忘れなん、設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずらめ、暗に月の入るがごとく湯に水を入るるがごとく冰に火を・たくがごとく・日輪にやみをなぐるが如くこそ候はんずれ、若しすこしも此の事をたがへさせ給うならば日蓮うらみさせ給うな。
現代語訳
返す返すも忘れられぬ事は、文永8年(1271)9月12日、竜の口で日蓮が首を切られようとした時、あなたが私の供をし、馬の口にとりついて、泣き悲しまれたことである。これはいかなる世にもわすれることはできない。もし、あなたの罪が深くて地獄に堕ちるようなことがあれば、日蓮を仏になれと、どんなに釈迦仏がいざなわれようとも、従うことはないであろう。あなたといっしょに地獄に入ろう。
日蓮とあなたと共に地獄に入るならば、釈迦仏も法華経も必ずや地獄におちるにちがいない。そうすれば、ちょうど闇の中に月が入って輝くようなものであり、また湯に水を入れさますようなものであり、氷に火をたいてとかしてしまうようなものであり、また太陽に闇を投げつければ闇が消えてしまうようなもので、地獄即寂光の浄土となるであろう。
もしこのことを少しでもたがえて取り返しのつかないことになったならば、日蓮をお恨みになってはなりません。
講義
「師弟不二」の原点を忘れるな
「行き詰まったら原点に戻れ」 初代会長・牧口常三郎先生が示してくださった至言です。
法華経の根幹は「師弟不二」です。日蓮仏法は「師弟の宗教」です。したがって、私たち信仰者の原点は、師匠との共戦の誓いにあります。常にこの師匠の原点に立ち戻れば、決して行き詰まることはありません。
この御文では、師弟の原点が確認されています。それは、竜の口の法難で、大聖人が処刑の場へ連行される際に、金吾が馬の轡にとりついて殉教の覚悟を示した出来事です。
大聖人は、この時の金吾の信心を讃えて、「かりに、もし、あなたが地獄にはいることがあったとするならば、その時は、たとえ釈迦仏が私に『仏になりなさい』といったとしても、あなたとともに地獄に入ろう」とまで仰せられています。
弟子の赤誠の真心に最大に応えてくださる。まさに「人間の宗教」たる日蓮大聖人の仏法の極致がここにあります。
妙法への信を貫かれる大聖人と金吾の師弟が共に地獄に行くならば、釈迦仏・法華経も地獄におられることは間違いない。さればもはや地獄ではなく、仏界となっていることを明かされています。地獄即寂光の法理です。
いかなる場所でも、仏界の輝きを現わすことができる。これが日蓮大聖人の仏法です。その通りに身読されたのが、牧口先生と戸田先生の師弟でした。
牧口先生は「寒さの絶頂」の獄中で綴られました。
「心一つで地獄にも楽しみがあります」
お供した戸田先生は語られました。
「私は、仮に地獄に堕ちても平気だ、そのときは地獄の衆生を折伏して寂光土とする」
これが信心の極意です。
四条金吾が、大聖人とともに戦う心を忘れない限り、この地獄即寂光の原理で、いついかなる場所でも勝利していくことが可能です。しかし、自分の弱い心に負けて、短気を起こし、周囲への配慮を怠ってしまえば、「不二」の道から外れたことになる。それゆえに、大聖人は重ねて戒められているのです。
「もし少しでも、これまで申し上げてきたことに背かれるならば、どのようなことになっても日蓮を恨んではなりません」
勝利への要諦は、どこまでも、法を体現し弘通する師匠の「心」と、わが「心」を合致させることです。師匠の指導をないがしろにして、揺れ動く自分の心を基準にすれば、険しい仏道修行を成就することはできないからです。
「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」(1088:兄弟抄:15)です。「師弟の心」を忘れてしまえば、わが一生成仏ではありません。