崇峻天皇御書(三種財宝御書)2009:10、11,12月号大白蓮華より。先生の講義 

本文

  孔子と申せし賢人は九思一言とてここのたびおもひて一度申す、周公旦と申せし人は沐する時は三度握り食する時は三度はき給いき、たしかに・きこしめせ我ばし恨みさせ給うな仏法と申すは是にて候ぞ

現代語訳

 孔子という賢人は九思一言といって九度思索して後に、一度語ったという。また周の文王の子、公旦という人は、髪を洗っている時、客人があれば、途中でも髪をにぎって迎え、また食事中であれば、食事を中止(口中の食を吐く)しても、客を待たせず、対応した。このことをしっかりとおききなさい。仏法というのは、このことをいうのです。

講義

仏法の根幹は誠実な対応に

 現実を離れたところに仏法はありません。金吾の気性をそれはそれは心配なされた大聖人は「第一秘蔵の物語ありかきまいらせん」と前置きしたうえで、崇峻天皇の故事を紹介されます。人を憎んでいるという感情を、そのままあらわすことへの教訓です。

 大聖人は、その話に続けて。九度思索して一度語るほど発言に慎重であった孔子の話や、沐浴や食事の最中であっても、来客を決して待たせることがなかった周公旦の話を通して、人間にとって、熟慮することや誠実に振る舞うことが重要であることを述べられておます。

 大聖人は「たしかに・きこしめせ」しっかり聞きなさいと、金吾の胸奥に注ぎ込まれています。金吾が、身を滅ぼしかねないこの欠点を克服して「心の財」を築かなければ、人生の真の勝利を勝ちとることはできない。それゆえに、「仏法と申すは是にて候ぞ」とまで、大聖人は仰せです。

 仏法は人間としての振る舞いに極まります。孔子や周公旦がそれぞれの哲学を行動に現したように、「仏性の薫発」という仏法が明かす究極の「心の財」も、信仰者の振る舞いとして現していかなければ、仏法を実証することも、弘めることもできません。

 ゆえに、本抄では、最後に、仏法における「人の振る舞い」の重要性を述べられていきます。

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