本文
一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ
現代語訳
釈迦一代の説法の肝心は法華経である。そして、法華経の修行という点で、その肝心をいえば、それは不軽品である。不軽菩薩が人ごとに敬ったということは、どういうことをいうのであろうか。教主釈尊の出世の本懐は、人として振る舞う道を説くことであった。穴賢穴賢。振舞いにおいて、賢いものを人といい、愚かなものを畜生というのである。
講義
「人の振る舞い」が仏法の根本目的
大聖人は、本抄の結論として、釈尊一代の教えの肝要は法華経に説かれており、その法華経の修行の神髄は、不軽品にとかれる。あらゆる人の仏性を信じ抜き、礼拝し続けた不軽菩薩の振る舞いにあるとのべられます。
“誰人たりとも、生命の次元から見れば仏にほかならない”との真理を深く信解し、いかなる迫害に遭おうとも万人を礼拝し続けた不軽菩薩の振る舞い、これこそ、法華経の精神の体現者の姿にほかなりません。
法華経は、釈尊の「出世の本懐」の経典であると言われます。この法華経の精神を体現する不軽菩薩の実践が説かれたということは、釈尊の出世の本懐は、「人の振る舞い」を示すことにこそあったのです。
「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」(0856:脱益の妙法の教主の本)との仰せのごとく、「法」は結局「人の振る舞い」として現わされてこそ、その尊さが知られ、弘められていくのです。
「心の財」といっても、それは目にみえません。具体的に「人を敬う振る舞い」として現われてこそ、「心の財」は妙法と仏性の力を人々に示し、証明していくことができます。
「心の財第一」は、人生にあって何が最も大事であるかという価値観を示したものです。そして「人を敬う振る舞い」は、その価値観に基づく仏法者としての行動規範を示したものです。
万人の尊敬という不軽菩薩の「振る舞い」は、万人の成仏という仏の真意を説く法華経の思想を体現したものです。それゆえに、不軽菩薩の「人を敬う振る舞い」は仏の真意そのものなのです。
妙法を信じ仏性の顕現という妙法の功徳を身に体現した「人の振る舞い」こそが、妙法の尊さを証明することができる。そして、妙法の功徳を身に現わした「人の振る舞い」は、必ず「人を敬う」という特色をもつものです。
ここで、釈尊の過去世の姿である不軽菩薩がどうか、人を敬う生き方を貫いてきたかを、経文を通して再確認しておきましょう。
不軽品の冒頭、釈尊は法華経を誹謗する人は大きな罪報を得ること、法華経ゆえに誹謗される人は六根清浄の功徳を得るという原理を説き、その例として不軽菩薩の実践を紹介しています。
不軽菩薩が出現した時は、威音王仏の滅後の像法時代、増上慢の比丘が大勢力をもっていた法滅の時代です。この時に、不軽菩薩が比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の増上慢の四衆すべての人を礼拝します。
「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし」
この時不軽菩薩の唱えた言葉は、法華経の皆成仏道の思想を端的にまとめたものであり、いわゆる「二十四文字の法華経」とも称されます。不軽菩薩の実践は、一貫して、この言葉を発して万人を礼拝するものでした。
しかし、四衆は悪口罵詈、杖木瓦石をもって不軽菩薩を迫害し続けます。それを耐え忍ぶことで、不軽菩薩自身は其罪畢已して、自身の宿命を転換します。
この不軽菩薩は亡くなる時に、虚空からつぶさに法華経を説く仏の言葉を聞き、その功徳で六根清浄の功徳を得て、二百万億那由他歳の寿命を延ばし、さらに法華経を説き続けます。そして成仏して、現在の釈尊となるのです。
一方、不軽菩薩を迫害した四衆は、その罪によって千劫もの長い間、大苦悩を受けます。が、その罪を終えた時、再び不軽菩薩にめぐりあい、その教化を受けます。
このように「人を敬う振る舞い」に徹していくことこそ、宿命転換・六根清浄という生命変革をもたらす力です。この法華弘通の振る舞いを生涯貫くことによって、成仏という根本の勝利を成就できるのです。
それは「万人に仏性あり」との哲学を信解しぬく「信念の実践」です。そして、難をこえて信念を貫くことにより、わが身にその哲学を体現し、成仏を勝ち取る「成仏の修行」でもあります。のみならず迫害者の無明・謗法の生命すらも赫々と照らして、生命内奥にひそむ仏性を揺り動かす「民衆救済の戦い」でもあります。
要するに、不軽菩薩の「人を敬う振る舞い」とは、「成仏の根本因」です。一個の人間が成仏していくために不可欠な実践なのです。この「人の振る舞い」を説かなければ、万人の成仏も画餅に帰します。ゆえに、「教主釈尊の出世の本懐」であるといわれているのです。
日蓮大聖人御自身の実践もまた「人を敬う振る舞い」で貫かれました。いかなる悪世であっても、妙法への信を起こし、貫いていく人の心は、必ず仏性が薫発します。その人の人間としての振る舞いは、必ず「人を敬う」という根本的な実践哲学の智慧が脈打っているのです。厳しく悪を責める大聖人の折伏行も、相手を思い、民衆を慈しみ、国土の安穏を願う実践であられる。万人の仏性を尊敬するがゆえの破邪顕正なのです。
「人を敬う」という哲学を根底にしつつ、そうであるがゆえに悪を責めるのが大聖人の折伏です。そのうえで、本抄の御指導は、末法の悪世においても「人を敬う」行動を表に立てるべき時があることを示されていると拝することができます。
折伏といっても悪を責めることだけではない。真実を言い切ることも折伏です。「人間蔑視」「生命軽視」の不信と不安の渦巻く末法にあって、敢然と「人間尊敬」「生命尊極」の旗を掲げて一人立つ。それも勇敢な折伏です。
常々、確認しているように、21世紀の世界にあって、人類的諸問題の解決の鍵は「人間」に焦点を結ぶかどうかにあります。このことは、各界の識者たちが、平和の行動者、哲人政治家たちの共通認識です。
問題は、人間に潜む無明の生命をどう変革するのか。善の連帯をいかに築き広げ、共生と人道の社会を建設するかです。SGIの行動は、そのために、壮大な文明間対話・宗教間対話の道を開拓しました。あらゆる差異を超えて、広々とした人間と人間の交流の世界を築き続けています。この創価の基調の哲学となっているのが、法華経の「人を敬う振る舞い」です。そして、一切は自身の生命の変革から始まるという「心の財」の哲理です。
創価の人間主義の哲学に、世界は期待しています。
大聖人の仏法の「人の振る舞い」を現実に行動している学会員の誠実が、世界で信頼されている時代に、いよいよ入っているのです。