第八章(崇峻天皇の事)
本文
第一秘蔵の物語あり書きてまいらせん、日本始りて国王二人・人に殺され給う、其の一人は崇峻天皇なり、此の王は欽明天皇の御太子・聖徳太子の伯父なり、人王第三十三代の皇にて・をはせしが聖徳太子を召して勅宣下さる、汝は聖智の者と聞く朕を相してまいらせよと云云、太子三度まで辞退申させ給いしかども頻の勅宣なれば止みがたくして敬いて相しまいらせ給う、君は人に殺され給うべき相ましますと、王の御気色かはらせ給いて・なにと云う証拠を以て此の事を信ずべき、太子申させ給はく御眼に赤き筋とをりて候人にあだまるる相なり、皇帝勅宣を重ねて下し・いかにしてか此の難を脱れん、太子の云く免脱がたし但し五常と申すつはものあり此れを身に離し給わずば害を脱れ給はん、此のつはものをば内典には忍波羅蜜と申して六波羅蜜の其の一なりと云云、且くは此れを持ち給いてをはせしが・ややもすれば腹あしき王にて是を破らせ給いき、或時人・猪の子をまいらせたりしかば・こうがいをぬきて猪の子の眼をづぶづぶと・ささせ給いていつか・にくしと思うやつをかくせんと仰せありしかば、太子其の座にをはせしが、あらあさましや・あさましや・君は一定人にあだまれ給いなん、此の御言は身を害する剣なりとて太子多くの財を取り寄せて御前に此の言を聞きし者に御ひきで物ありしかども、有人蘇我の大臣・馬子と申せし人に語りしかば馬子我が事なりとて東漢直駒・直磐井と申す者の子をかたらひて王を害しまいらせつ、されば王位の身なれども思う事をば・たやすく申さぬぞ、孔子と申せし賢人は九思一言とてここのたびおもひて一度申す、周公旦と申せし人は沐する時は三度握り食する時は三度はき給いき、たしかに・きこしめせ我ばし恨みさせ給うな仏法と申すは是にて候ぞ。
現代語訳
最も大事な秘蔵の物語がある。ここに書いてさしあげよう。
日本国が始まってから、二人の国王が臣下に殺されている。その一人は崇峻天皇である。
この崇峻天皇は、欽明天皇の太子であられ、聖徳太子の伯父である。第三十三代の天皇であられたが、ある時聖徳太子を召して、「汝は聖者であると聞く。朕の相を占ってみよ」と仰せつけになられた。聖徳太子は三度までも辞退されたが、是非にとの仰せつけにやむをえず、つつしんで相を占われた。そして「陛下は、人に殺される相がおありです」と申しあげた。すると天皇の顔の表情がかわられ、「いかなる証拠をもって、この事を信ずべきか」と仰せになった。太子は「御眼に赤い筋がとおっております。それは、人にあだまれる相でございます」と申された。
天皇は重ねて「どのようにすれば、この難をのがれることができるか」と仰せられた。太子は「まぬかれることは困難です。ただし、仁・義等の五常という兵があります。それを御身からはなされなければ、難をまぬかれることができるでしょう。この兵を仏典では、忍の行といって、六種波羅蜜の修行の一つとしております」と答えられた。
天皇は、それからしばらくは、忍辱を持っておられたが、ややもすれば、気の短い御方であったので、これを破られた。ある時、猪の子を献上した人がいたが、その時天子は、笄をぬいて、猪の子の眼をずぶずぶとつきさし、「いつの日か憎いと思う奴を、このようにしてやろう」と仰せられた。聖徳太子はその座におられたが「ああ、なげかわしいことである。陛下は、必ずや人に恨まれるでしょう。今のこの御言葉は、自分を害する剣です」といわれて、多くの財宝を取り寄せて、そのとき天皇の前にいてこの言葉を聞いた人々に、このことを口外しないように引出物として与えられた。しかし、ある人が大臣の蘇我馬子にこの事を語ったので、馬子は自分のことであると思い、東漢直磐井という者の子、直駒に命じて、天皇を殺害させてしまったのである。
されば、天皇の御身であっても、思っている事を、たやすく言わぬものである。
孔子という賢人は、九思一言といって九度思索して後に、一度語ったという。また周公旦という人は、髪を洗っている時、客人があれば、途中でも髪をにぎって迎え、また食事中であれば、口中の食を吐いてでも、客を待たせず、応対した。このことをしっかりお聞きなさい。私の言を聞かず失敗して、私を恨まないようにしなさい。仏法というのは、このことをいうのである。
語釈
日本始りて国王二人、人に殺され給う
もう一人は安康天皇。安康天皇は第十九代允恭天皇の第二皇子で、人の讒言を信じて兵を起こし叔父の大草香皇子を殺した。だが翌々年に父の仇として、その子の眉輪王に暗殺された。
崇峻天皇
(~0592)。泊瀬部天皇、長谷部若雀天皇ともいう。欽明天皇の第十二皇子。母は蘇我稲目の女の小姉君。崇仏派の蘇我馬子の後見で用明天皇2年(0587)8月に即位した。だが物部氏の失脚で蘇我氏が強大な勢力を築き横暴になったので、天皇はこれを除こうとしたが、崇峻天皇5年(0592)11月、逆に馬子の臣東漢直駒によって暗殺された。
欽明天皇
(~0571)継体天皇の3年に第三皇子として誕生。名を天国排開広庭天皇という。31歳のとき兄・宣化天皇の後を受けて即位。都を大和磯城島に遷し、金刺の宮を皇后とされた。欽明天皇13年(0552)10月、百済国の聖明王が、釈迦仏像および幡蓋・経論を贈り、仏の功徳を述べた。天皇はそこで拝仏の可否を群臣に問うた。曽我稲目はこれを拝すべしといい、物部尾興・中臣鎌子はこれに反対した。天皇は仏像を稲目に賜い、稲目は向原の家を寺としてこれを奉安した。物情騒然たるなかに、まもなく疫病の流行があり、尾興・鎌子れは国家の祟りであると奏して仏像を難波の堀江に投じ寺を焼いた。わが国における仏教流布の原点はこの時にある。63歳死去、大和国檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬る。29代・30代説があるが、これは神功皇后を独立して15代とするか否かによる。
聖徳太子
(0574~0622)。飛鳥時代の人。用明天皇の第二子。厩の中で誕生し、一度に八人の奏上を聞き分けることができたので、名を厩戸豊聡耳皇子といい、また上宮太子とも呼ばれた。推古天皇の皇太子となり、摂政として国政を総理し、数多くの業績を残した。まず、冠位十二階を制定して従来の世襲的な氏姓政治から官僚政治への転換を図り、十七条憲法を定めてこれを国家原理とし、中央集権国家の建設を進めた。また、小野妹子を随に派遣して国交を開き、大陸文化の摂取に努めるなど、内政、外交ともに活発な行動を展開した。太子の政治思想は、十七条憲法に「篤く三宝を敬え」と記したことにも明らかなように、仏教に深く根差しており、仏法興隆を治国の根幹とするものであった。そして法華経・維摩経・勝鬘経の大乗仏典の註釈諸を著した。また法隆寺、四天王寺等も太子の建立によると伝えられている。このように聖徳太子の業績には目覚ましいものがあり、日本における仏法興隆の先駆的功績者であるとともに、飛鳥文化の中心的人物である。
人王第三十三代の皇
普通は第三十二代とする。三十三代とあるのは、第十四代仲哀天皇の后・神功皇后を第十五代に数えた場合のことである。
聖智の者
凡人の及ばない心理を見通す智慧のある者をいう。
五常と申すつはもの
五常は儒教で説く人の常に守るべき五つの道をいう。五倫、五行ともいう。父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝の道があると説く。また白虎通義は五常として「仁・義・礼・智・信」を明かし、孟子は「父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信」をあげている。この五常を欠くことなく振舞っていけば、身を災いから守られるので、兵士にたとえてつわものという。
内典
仏教以外の経典を外典というのに対して、仏経典を内典という。
忍波羅蜜
忍辱の心を保つ修行。この修行を 積むことが同時に悟りに至る行為でもあるのでこう呼ぶ。
六波羅蜜
「波羅蜜」は梵語、パーラミター(Pāramitā)の音写。彼岸と訳す。布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧波羅蜜の六行があり、その行は万差であるから、六度万行という。菩薩等がこの六法を修して生死の彼岸よりよく涅槃の彼岸に至るということである。爾前経においては菩薩の歴劫修行を説いてきたが、無量義経にいたって「末だ六波羅蜜の修行することを得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」と説かれている。すなわちこれは、三大秘法の御本尊の功徳をたとえ、即身成仏を説いている。
こうがい
笄。髪掻の音便。髪をかきあげるために用いた細長い道具。銀または象牙、竹、角などで、もとを平たく、末を細長く作り、髪の乱れ、髪の中が痒いときに直すために用いた。男女とも常にこれを身に帯し、婦女は、これを懐にし、男子は刀に添えていた。
ひきで物
引出物。饗宴の時、主人から来客に贈る物。古く、馬を庭に引き出して贈ったことから、こうよばれる。
蘇我の大臣・馬子
蘇我馬子のこと。(~0626)古代の中央豪族。稲目の子。蝦夷の父。敏達天皇のとき大臣となり,大連 物部守屋と朝政をとった。崇仏の可否をめぐって守屋らと対立し,諸皇子,諸臣を味方に引入れて,用明2 (587) 年排仏派を殺し,朝廷における地位を確立した。その後,自身の擁立した崇峻天皇を殺して推古天皇を立て,聖徳太子とともに朝政をとった。推古4 (596) 年法興寺を建立して子の徳善を寺司とした。また太子とともに『天皇記』『国記』などを録した。家が飛鳥川のほとりにあり庭中の小池に小島があったことから島大臣ともいわれた。
東漢直駒・直磐井
蘇我馬子が使った忍者。東漢やまとのあや氏で姓は直、父は東漢直磐井いわいとされる。崇峻天皇5年(0592)11月、蘇我馬子の刺客として崇峻天皇を殺害する。しかしその月に、馬子の娘である河上娘(崇峻天皇の嬪)との密通が露見し、馬子によって処刑された。
孔子
(BC0551頃~BC0479)。中国・春秋時代の思想家。儒教の祖。名は丘。字は仲尼。生まれは魯国の昌平郷陬邑。魯国に仕えたが用いられず、諸国を遍歴した。堯・舜、文王・周公旦等を尊敬し、仁を理想とする道徳を説き、主君や父母に真心をもって仕える忠孝の道を教えた。晩年は魯国に帰り、著述と弟子の育成に務め、六経を編纂したといわれる。死後、弟子が孔子の言行等を記録したのが論語である。
周公旦
周の文王の子。武王の弟。姓は姫、名は旦。生没年は不明である。文王の死後、武王とともに殷の紂王を討ち、武王を助けた。武王の死後は幼帝の成王を助け、東方の殷の反乱を自ら遠征して鎮めた。この東方遠征は広範囲に及び、これを機に黄河下流の平原を統治圏内におさめ、洛邑の都を建設し、周王朝の基礎を固めた。周公はその統治期間に周一族や功臣を各地方に派遣して封建制を施行し、また殷の一族を各地に分散させる等多くの改革を行なった。また、殷代の神政制度に加えて、社会の道徳を慣習化した「礼」を社会秩序の基礎とした。ここから中国の儒教思想がめばえた。周公の人格と治世は孔子等の儒者からあつく尊敬されたといわれる。
講義
四条金吾の短気を戒めるために、短気のために身を滅ぼした崇峻天皇の例を引かれたのである。冒頭に「第一秘蔵の物語あり」と断わられているのは、もちろん、この逸話自体、日本書紀のなかに記されていることではあるが、天皇たるものが臣下によって殺される話は、あまり公にすべきではないという、雰囲気があったからであろう。
また、このエピソードを引かれている大聖人の考え方について、はっきりさせておかなければならない点がある。それは、天皇といえども、人間であって、宿命の支配はまぬかれない。その宿命は、その人の生きる上での心がけによって変革できるものだが、守るべき道理に則らなければ、宿命に破れてしまう、ということである。そして、この宿命と道理という問題は、善悪を超えた、より深い次元の法なのである。
このことは、前の「四条金吾殿御返事」でも、崇峻天皇を害した蘇我馬子について「高挙をなして」と、その非道を指摘されている文からも、うかがえる。崇峻天皇のほうが正しかったとしても、それは、この場合は、別の問題である。同じく、四条金吾の場合も、彼に間違っている点はない。だが、もし短気を起こして耐え忍ぶことを忘れたならば、わが身を滅ぼすことになるであろう。いわゆる政治的な正邪の問題ではなく、生き方の是非を問題にされているのである。
されば王位の身なれども、思う事をばたやすく申さぬぞ
王となるということは、過去に大善根を積んだ故であるという考え方が仏法にはある。これは、ヨーロッパで、王は神の信頼と祝福によって権威づけられるのと似ている。ただ、ヨーロッパの場合は、その原因を〝神〟に求めるのに対し、仏法は、王自身の過去の行ないにあるとする点が異なる。
だが、いずれにせよ、王たる者は、そうした善根があるのだから、仏法的にいっても諸天に守られるはずだということになる。事実、そのように論じられている御書も少なくない。しかし、それは無条件で、どんな非道な振舞いをしても、そのようになるというのではなく、言動に対して充分、心を配り、身を修めなければならない。いわゆる、王としてふさわしい徳を身につけ、実践しなければならないのである。
それは、王たる者は、権力をもつと共に、それだけ大きい責任を担っており、その言動は、人民にとって手本であると同時に、政治として実行されれば人民の生活を左右する力をもつからである。故に、自分の思うことも軽はずみにはいわないのであり、もし無思慮に放言するようなことがあれば、人心の動揺を招き、信用を失って人々を離反させ、ひいてはわが身を滅ぼすもととなるのである。
ここに〝王〟といわれているのは、皇帝、天皇、国王等の過去の権力者に限るものではなく、今日の政治家等、社会的権力をもつ者、すべてに通ずる。自らの短慮、浅薄、軽率、あるいは我儘によって、人々の心が離れたからといって、それを人々のせいにするのは誤りであり、自分をこそ最も反省しなければならない。この、一個の人間としての、自己の身の処し方こそ、権力をもつ者にとっても、なにより大事であり、大聖人が強調されている点でもある。故に「仏法と申すは是にて候ぞ」と念を押されているのである。