第三章(護身の注意を促す)
本文
此れにつけても殿の御身もあぶなく思いまいらせ候ぞ、一定かたきに・ねらはれさせ給いなん・すぐろくの石は二つ並びぬればかけられず車の輪は二あれば道にかたぶかず、敵も二人ある者をば・いぶせがり候ぞ、いかにとがありとも弟ども且くも身をはなち給うな、殿は一定・腹あしき相かをに顕れたり、いかに大事と思へども腹あしき者をば天は守らせ給はぬと知らせ給へ・殿の人にあだまれて・をはさば設い仏には・なり給うとも彼等が悦びと云う、此れよりの歎きと申し口惜しかるべし、彼等が・いかにもせんと・はげみつるに、古よりも上に引き付けられまいらせて・をはすれば・外のすがたはしづまりたる様にあれども内の胸は・もふる計りにや有らん、常には彼等に見へぬ様にて古よりも家のこを敬ひ・きうだちまいらせ給いて・をはさんには上の召しありとも且く・つつしむべし、入道殿いかにもならせ給はば彼の人人は・まどひ者になるべきをば・かへりみず、物をぼへぬ心に・とののいよいよ来るを見ては一定ほのをを胸にたきいきをさかさまにつくらん、若しきうだちきり者の女房たち・いかに上の御そろうはと問い申されば、いかなる人にても候へ・膝をかがめて手を合せ某が力の及ぶべき御所労には候はず候を・いかに辞退申せども・ただと仰せ候へば御内の者にて候間・かくて候とてびむをも・かかずひたたれこはからず、さはやかなる小袖・色ある物なんども・きずして且く・ねうじて御覧あれ。
現代語訳
それにつけても、あなたの身の上が危険に思われる。必ず敵にねらわれるであろう。すごろくの石は二つ並んでいればかけられないし、また車の輪は二つあれば道でかたむかない。このように敵も二人結束している者に対しては攻撃をためらうものである。このようなわけであるから、どのような過失があなたの弟達にあったとしても、少しの間であっても側から離さないようにしなさい。
あなたは確かに怒りっぽい相が、顔にあらわれている。どんなに大事と思っても、短気な者を諸天は守らないということを知りなさい。あなたが人に殺されるならば、たとえ成仏はされるとしても、彼等は、悦ぶであろうし、こちらにしてみれば嘆かわしい。そのような事になれば、口惜しい事であろう。
彼らが何とかしてあなたを陥れようと励んでいるところに、以前よりもあなたが主君に信用されているので、彼等は外面は静まったようであるけれども、胸の内は燃える計りの思いであろう。それゆえ、ふだんは彼等にめだたないようにして、前よりも江馬家の家人を敬い、また公達がこられている場合には、主君のお召しがあったとしても、しばらく慎しんでいるのがよい。
もし江馬入道殿に万一の事があれば、彼等は所定めぬさすらい者になってしまうのに、それもかえりみず、物の道理をわきまえずして、あなたがますます出仕されるのを見ては、必ず嫉妬の炎を胸にむらむらと燃やし、息を荒らげることであろう。
もし公達や、権威ある人の女房たちが、「主君の病気はいかがですか」と問われたならば、相手がどのような人であれ、膝をかがめ、手を合わせ、「私の力の及ぶような病気ではありませんが、どのように辞退申し上げても強いての仰せつけでありますので、御奉公の身である故、このように御治療いたしております」といいなさい。鬢もかかず、直垂もかたく張ったものではなくして、またあざやかな小袖や、目立つような色物などは着ないで、当分は辛抱していてごらんなさい。
語釈
いぶせがり候ぞ
二人一緒にいるときは、敵も用心して襲ってこないということ。
家のこと
その家に生まれた子。同じ家門の人。家人。
きうだち
きんだち、貴族や名門の家の子弟。ここでは、北条一門の子息たち。
きり者
主君に愛される権勢ある人。権臣、権者、寵臣等の意。
びむ
鬢、頭の左右側面の髪。
ひたたれ
武家の服装の一種。直垂は平安時代以来文献に出ているが、それは夜着の類で、これを衣服として着たのは武士であった。直垂は、同質同色の上衣と下衣とからなっていて、合わせて一具とした。鎌倉時代は武士の常着だった。
講義
これまで四条金吾に害を加えてきた人々の側に現証があらわれたということは、勝利が間近にあるということである。しかし、それゆえにこそ、いっそう心を引きしめて行動しなければならない。命をねらう同僚たちはいよいよ厳しくつけ回すに違いない。それに対して、どうあるべきかを、いろんな角度から教えられている。
一つは、一人でいてはならない。必ず弟達を身近に置いて、つれだって行動せよということである。
第二は、短気であってはならない。「腹あしき」とは、自分の感情をむきだしにし、それに引きずられることである。自己を抑えられないようでは、諸天も守ってはくれない、と戒められている。
第三は、主君が病気のため、医術の心得があり、以前にも治療したことのある四条金吾がこれから重んぜられる可能性がある。その場合、周りの人々は一層憎しみを強くしているであろうから、充分に気をつけなければならない。とくに江馬氏の家人を大切にし、態度をひかえ目にすべきこと。
さらに、服装などについても、質素で、かまっていない様子でいるようにせよと教えられている。まさに、かゆいところに手のとどくような御指導である。仏の指導者とは、いかにあるべきかを、この御文から学ぶべきであろう。
いかに大事と思へども、腹あしき者をば天は守らせ給はぬと知らせ給へ
仏法を受持し弘めるべき大事な人であっても、自分を抑えられず、感情にまかせて軽率な行動をとる人に対しては、諸天の加護はないとの厳しい戒めである。
これに関連する有名な文として、妙楽が弘決の八に述べている、「必ず心の固きに仮って神の守り則ち強し」の文がある。この場合の「心の固き」というのも、自己を律することが固いということであり、そのような人にこそ諸天の守りは強いというのである。信心をしているのだから、とか、仏法上の使命をもっているのだから、自分は心をわずらわさなくとも、諸天は守ってくれるはずだというのは〝信心〟ということに甘えているのであって、真の信仰者の行き方ではない。
所詮、諸天といっても、主体者の一念の姿勢が周囲の人々の生命や社会・自然の依報に反映したところにあらわれたものである。この厳しい生命の法則を学んでいるのが仏法者であるならば、それを無視した考え方は、仏法者としての初歩からしてすでに外れていることを知らねばならないのである。