第七章(心の財を積むことを勧む)
本文
又世間の・すぎえぬ・やうばし歎いて人に聞かせ給うな、若しさるならば賢人には・はづれたる事なり、若しさるならば妻子があとに・とどまりてはぢを云うとは思はねども、男のわかれのおしさに他人に向いて我が夫のはぢを・みなかたるなり、此れ偏に・かれが失にはあらず我がふるまひのあしかりつる故なり。
人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ、中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心ねもよかりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ、穴賢・穴賢、蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし。
現代語訳
また世間が過ごしにくいようなことを歎いて人に聞かせてはならない。もし、そのようなことをするならば、賢人にはあるべからざることである。もし、そんなことをすると、後に残された妻子が、自分で恥をいうつもりではないけれど、夫との別れの惜しさに、他人に向かって自分の夫の恥をみな語ってしまうようなことになるであろう。これは、ひとえに妻の失ではなく、むしろ夫の振舞いが賢明でなかったからである。
人間として生まれてくることは、難しいことであり、爪の上の土のように、わずかな存在である。また、たとえ人間として生まれてきても、その身を持つことは難しく、太陽が昇れば、すぐ消えてしまう草の上の露のようにはかないものである。たとえ、百二十歳まで長生きしても、汚名を残して一生を終わるよりは、生きて一日でも名をあげる事こそ、大切である。
中務三郎左衛門尉は、主君のためにも、仏法のためにも、世間に対する心がけについても、非常に立派であったと、鎌倉の人々の口々にいわれるようになりなさい。穴賢穴賢。蔵にたくわれる財宝よりも、身の財がすぐれており、その身の財よりも、心に積んだ財が第一である。この文を御覧になってから以後は、心の財を積んでいきなさい。
語釈
人身は受けがたし、爪の上の土
涅槃経巻第三十三迦葉菩薩品第十二の一の文。「爾の時に世尊、地の少土を取りて之を爪上に置き、迦葉に告げて言はく、『是の土多きや、十方世界の地の土多きや』、迦葉菩薩、仏に白して言さく、『世尊、爪上の土は十方の所有の土に比せざるなり』、『善男子、人の身を捨てて還て人身を得、三悪の身を捨てて人身を受くるを得、諸根完具して中国に生れ、正信を具足して能く道を修習し、道を修習し已りて能く解脱を得、解脱を得已りて能く涅槃に入る有るは、爪上の土の如く、人身を捨て已りて三悪の身を得、三悪の身を捨てて三悪の身を得、諸根具せず、辺地に生じ、邪倒の見を信じ、邪道を修習し、解脱、常・楽・涅槃を得ざるは、十方界の所有の地土の如し。善男子、禁戒を護持して精勤して懈らず、四重を犯さず、五逆を作さず、僧鬘物を用ひず、一闡提と作らず、善根を断ぜずして、是の如き等の涅槃の経典を信ずるは爪上の土の如し』」とある。すなわち、人間として生まれてくることは、なかなか難しく、それは、あたかも爪の上にのった土のごとく、わずかな存在であるということ。
人身は持ちがたし草の上の露
受けがたい人の身として生まれても、その身を持つことはむじかしい。あたかも太陽が昇れば、すぐに消えてしまう草露のようなものであるということ。
百二十まで持ちて
啓蒙には、金光明記の文を引いて次のようにでている。すなわち、寿命には上寿、中寿、下寿と三品あり人寿120歳というのが、釈尊当時の上寿にあたる。そして中寿が80歳、下寿が40歳である。したがって、百二十歳というのは、当時、もっとも長寿と考えられていたようである。
講義
男として、武士として、あとに恥を残してはならないことを教えられている。
苦境におちいったとき、人間はその原因を社会や周りの人に求め、その悪口をいうことに慰めを見出そうとする。まして、四条金吾の場合、たしかに彼に罪はなく、ひとえに周囲の怨嫉によって、苦難にあっているのである。しかし、讒言した同僚を憎んだり、主君を恨んだり、世間の愚痴を言ったりするのは、却って自らの恥を残すのと同じだと、戒めておられるのである。
これは、至難のことである。ふだんは立派なことをいっても、自分自身が嵐の中に身をさらすにいたると、相手を憎み、周囲の人々を怨むものである。だが、一切は自らの内にその原因があるとして、三世の生命論の上から自分の宿業を見つめ、さらに、これを試練として自己を磨き、より大なる成長を期することこそ、真実の人間の生き方であり、仏法を実践する人の在り方なのである。
百二十まで持ちて名をくたして死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ
人生は長いことが尊いのではない。短くとも、それをいかに内容あるものとするかが大切である。どれだけ生きたかではなく、どのように生きたかが肝要なのである。
仏法の原理からいえば、寿命の長さは過去の宿命によるものである。事実、自殺という特殊な場合を除いて、人の寿命はその人自身にも、どうにもならない。もちろん、これも他人から与えられたり、超越的な神にとって定められたのではなく、自分自身の過去の行動が決定したのであるが、少なくとも現在の自分の自由意思を越えたものであるという意味では〝与えられた〟ものといえる。
この〝与えられた〟人生の枠のなかで、自由意思のできることは、その人生をいかに誠意と情熱と英知をもって生き、充実せしめるかということである。そして、人間は、この内容の充実性をもって、自分の人生を、ということは自己の生命を、限りなく尊いものにすることができるし、逆に、限りなく卑しいものにしてしまうこともありうるのである。
この御文で「名を腐して」「名をあげ」とおっしゃっているのは、世間的な名聞ということではなく、人間としての尊さをいわれているのである。それは、あとの「蔵の財・身の財・心の財」のお言葉から、充分に理解されるところであろう。
蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり
人生において大切なものは何であるかを、簡潔な言葉で示されている。「蔵の財」とは文字通り、物質的な富であり、金銭等である。物質的な富は自分の外にあるものであり、人間としての幸福という観点からみると、一つの条件にはなりうるが、浅く、はかないものにすぎない。むしろ、物質的な豊かさが、本当の人間としての豊かさをそこなっている場合も少なくない。
「身の財」とは、肉体の健康や、身についた技術、あるいは社会的な地位等がそれであろう。これらも、幸福への条件の一つではあるが、全てではないし、かえって、これらを追い求めた結果は、人間としての貧しさをもたらす場合が少なくない。まして、死んでしまえば、蔵の財と同様、身の財も、何の役にも立たないのである。
「心の財」とは、自己の生命の内に築いた豊さである。人々のために、どれだけ尽くしたか、自己を精神的・人間的にどれほど成長させたか、ということといえよう。そして、より根本的には、永遠の仏法を自分の内に体得し、宇宙大の生命を覚知することである。これのみが、死にのぞんでも悔いのない財となるのであり、人間としての揺るぎない幸福と、他の人々に限りない暖かみを与えていく、真の豊かさをもたらしてくれるのである。
したがって、何よりもめざさなければならないのは「心の財」を積むことであり、「身の財」といい「蔵の財」といっても、「心の財」を豊かにするための手段にほかならないことを弁えていくことなのである。「身の財」「蔵の財」が、真に〝財〟でありうるのは、「心の財」につながっているときであり、逆に「心の財」を貧困にするような働きをしているときは、それは〝毒〟であることを知らなければならない。