第九章(人の振舞いの大切なることを示す)
本文
一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ。
建治三年丁丑九月十一日 日蓮花押
四条左衛門尉殿御返事
現代語訳
釈迦一代の説法の肝心は法華経である。そして、法華経の修行という点で、その肝心をいえば、それは不軽品である。不軽菩薩が人ごとに敬ったというのは、どういうことをいうのであろうか。教主釈尊の出世の本懐は、人として振舞う道を説くことであった。穴賢穴賢。振舞いにおいて、賢いものを人といい、愚かなものを畜生というのである。
建治三年丁丑九月十一日 日 蓮 花 押
四条左衛門尉殿御返事
語釈
不軽品
法華経常不軽菩薩品第二十のこと。法華経の中で流通分に位置し、法華経を信ずる者と毀る者との罪福を引いて証とし、流通を勧めた品である。この品に常不軽菩薩の因縁を説いているので不軽品と称する。威音王仏の滅後像法に常不軽菩薩が種々の迫害に耐え、「我れは深く汝等を敬い云云」の二十四文字の法華経を唱えて人々を礼拝した話を通して、滅後の弘教を勧めている。
出世の本懐
仏が世に出現した究極の本意・目的。法華経方便品第二には、「諸仏世尊は唯だ一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまうとある。釈尊にとっては法華経二十八品、天台にとっては「摩訶止観」が本懐であった。日蓮大聖人は「宝塔をかきあらはし」た御本尊建立をもって、出世の本懐とされている。
人の振舞
人間としての生き方。人間らしい生き方。行動。
はかなき
変化して定まらない、頼りないこと。
講義
本抄では、苦境にある四条金吾に、細かい点にいたるまで種々指導されるとともに、一貫して、短気を戒め、忍耐づよく、賢明な行動をとらなければならないと教えられたのであるが、それがまた仏法の極理でもあることを示されているのである。
一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり
釈尊一代五十年の説法の肝心は法華経である。そして法華経の修行の仕方について教えている肝心は、不軽品なのである。
不軽品を「法華経の修行の肝心」といわれているのには、多くの意味が考えられるが、その幾つかを、ここでとりあげておきたい。
第一は、不軽という名が示すように、また彼が唱えた二十四文字の法華経にも明らかなように、一切の人々をその内奥に仏性が秘められているが故に、軽んぜず、敬うということである。それは、すべての人に、人間としての尊厳性を認めることであり、自らが尊敬することによって、相手に自身の内なる尊厳性を自覚させ、顕現させるのである。
既存のあらゆる宗教がおちいった誤ちは、宗教指導者が自己を特別に権威づけられた存在であるかのように思いこみ、民衆を卑賎で愚かで、したがって、羊の群のように指導者に従順であるべき存在としたことであった。ここでは、尊厳であるのは、指導者のみであって、他は、この指導者とのつながりの厚薄によって、さまざまな〝価値〟をもつにすぎない。真の仏法は、これを根本的に打ち破り、すべての人が、その人自身の内に尊厳性をもっているという前提から出発するのである。
第二は、不軽菩薩の実践は、人々の生命に直接に対決していくものであったため、激しい反感を呼び起こした。悪口を浴びせられ、杖や石で打たれる等の、あらゆる迫害となってあらわれたのである。しかし、不軽菩薩は、そうした人々の生命にも仏性という尊厳なる実体が内在することを覚知していたが故に、それを耐え忍んだのである。力で迫害してきたからといって、これを恨むのでなく、法の力を根本とし、さらに大きい慈悲によって包容していったのである。
第三は、正しい仏法に反対し、その実践者を迫害した者は、必ず罰を受けるが、のちには必ず救われる。この〝救い〟とは成仏という最も深く大きいものであって、罰はこれに較べてみると、千劫阿鼻獄という大変なものであっても、はるかに小さいのである。すなわち、成仏という絶対的な救いのために、反対する人々にも、あえて説き伝えるのである。
不軽品に示されている、これらの実践・修行の原理は、とりもなおさず、末法の日蓮大聖人の仏法の実践・修行のあり方を教えているのに他ならないことを知るべきである。
不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候いけるぞ
不軽が、あらゆる人を敬い礼拝したということは、仏法というものが、ありのままの人間を尊重し、人間としての振舞い、人間存在を至尊のものとするということを象徴しているのである。したがって、釈尊が説こうとした究極の真理も、人間の尊厳を明確にし、これを樹立することにあった、ということである。
一代の肝心である法華経が説いていることは、声聞の弟子をはじめ、九界の一切衆生の生命に仏性が内在しているという真理であり、この内在する仏性をいかにして顕現するかである。しかも、仏性を顕現したからといって、特別な存在になるのではなく、九界もそのまま持続しているのであり、なんら普通の人間と異なるものではない。
ということは、仏性を顕現し成道するということは、人間としての完成ということであって、人間とは別のものになるのではない。この仏性の覚知を基盤としてあらわれてくる生命の特質は、法華経の最後の品と、結経の普賢経に象徴されるように、普賢すなわち、人生のあらゆる面に発揮される広大な英知、賢明さなのである。
ゆえに「賢きを人といい、はかなきを畜といふ」と結ばれているのである。
さらにいえば、この「賢き」とは、いわゆる外の世界に対する場合の〝賢さ〟〝知恵〟よりも、むしろ、自己自身に対した場合の〝賢さ〟に重点がある。四条金吾の短気を戒め、忍を強調されているのは、この自己に対する賢明さを意味しているからである。