第五章(止観に説く持戒と末法無戒)
本文
又彼が云く止観の行者は持戒等云云、文句の九には初・二・三の行者の持戒をば此れをせいす経文又分明なり、止観に相違の事は妙楽の問答之有り記の九を見る可し、初随喜に二有り利根の行者は持戒を兼ねたり鈍根は持戒之を制止す、又正・像・末の不同もあり摂受・折伏の異あり伝教大師の市の虎の事思い合わすべし。
現代語訳
また彼は「止観を修する者は戒を持つ」等といったとのことであるが、法華文句の第九巻には、初めと第二、第三の位の行者が戒を持つことについては、これを制止している。経文にもまた明らかである。摩訶止観にそれと相違している文があるということについては、妙楽大師が問答の形でこれを述べているので、法華文句記の第九巻を見なさい。初随喜の位の行者にも二種あり、利根の行者は持戒を兼ね合わせ、鈍根の行者においては持戒を制止するのである。また正法・像法・末法の時代による違いもあり、摂受・折伏の修行における異なりもある。伝教大師が「市に虎がいるようなものである」と説いていることを考え合わせるがよい。
語釈
初随喜
釈尊滅後の法華経修行の位を五つに分けたうちの第一で、法を聞いて歓喜の心を起こす初信の位のこと。法華経分別功徳品第十七の「如来の滅後に、若し是の経を聞いて、毀訾せずして、随喜の心を起こさば、当に知るべし、已に深信解の相と為す」の文に基づいて、天台大師が法華文句巻十上に述べている。
利根
利は鋭利、根は信根不疑等の五根、あるいは眼等の五根である。鈍根に対する語。能力の鋭利なものをいう。
鈍根
鈍い機根の意で、仏法を受容する理解力の鈍いこと。機根が劣っていて、仏道修行する力が乏しいものをいう。
正・像・末
仏滅後の時代を三時に区切って正法・像法・末法という。正法とは仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。像法とは次第に仏教が形式化し、正しい教えが失われていく時代。末法とは、衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
摂受
仏道修行を分けて求道を摂受、弘教を折伏とする。また弘教に摂受と折伏があり、摂受とは相手の誤りを容認しつつ、しだいに誘引して正法に入らせる化導法をいう。折伏とは破折屈伏の義で、相手の邪義・邪法を破折して正法に伏させる化導法のこと。摩訶止観巻十には「夫れ仏法に両説あり。一には摂、二には折」とあり、摂受・折伏が仏法の基本であることが明かされている。
折伏
摂受に対する語。仏道修行を分け、摂受と折伏とし、破折屈服・相手の邪義・邪法を破折して正法に伏させる化導法を折伏という。
市の虎
伝教大師の著といわれる末法燈明記に「設い末法の中に持戒の者有らんも、既に是れ恠異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ず可けん」とある。市の虎は、ありえないことのたとえとして用いられている。
講義
了性房が「止観の行者は持戒でなければならない」と主張したということに関して、持戒は正像末の三時等によって不同であり、末法今時は無戒であることを説示されている。
止観巻四上には確かに「持戒清浄」とある。一方、文句十では行人によって持戒を制止している。このことは法華経分別功徳品第十七に明らかに説かれており、同品には法華経を信じて仏道修行に励む者の功徳がさまざまに説かれているが、天台大師は文句のなかで、この経文を解釈して「四信五品」に立て分けた。つまり釈尊の在世と滅後にわたる信心・修行の段階を四種と五種に分別したのである。
「四信」は釈尊在世の弟子が仏の説法を聞いて信心を深めていく段階を示したもので、
①一念信解
②略解言趣
③広為他説
④深信観成
である。「五品」は滅後の弟子の信行の方法・位で、
⑤初随喜品
⑥読誦品
⑦説法品
⑧兼行六度品
⑨正行六度品
である。本文にある「初・二・三の行者」とは「五品」のなかの最初の三品を指している。
⑤の初随喜品とは法華経を聞いて随喜の心を起すこと。
⑥の読誦品とは法華経を読誦すること。
⑦の説法品とは自ら受持して他人のために説くこと。
である。
以上三品の位の行人は「持戒をば此れをせいす」で、戒を持つ必要なしと止められ、第四・第五品の菩薩の修行をする上位の行人だけが戒を持つことになっている。それは、初心は縁に紛動されやすく、正行の信が妨げられるためである。
このように天台大師が止観では「持戒清浄」といい、文句では持戒を制止していて、そこに相違があることについては、妙楽大師が文句記十で問答し「文句は初心に対して持戒を制し、止観は後心について持戒を許した」と釈している。このゆえに大聖人は、それを見よと仰せなのである。
また初随喜の位にも同様があって、利根の人には持戒を兼ねることを許し、鈍根の人には持戒を止めている。
また持戒は正像末の三時によっても戒体がそれぞれ異なる。
正法時代には小乗の四衆の五戒・八斎戒・二百五十戒・五百戒等があり、像法時代には権大乗の菩薩の三聚浄戒・十重禁戒・四十八軽戒等があり、二乗や菩薩はその戒体を受けて生身得忍を得るのである。実大乗の法華経に入ると、受持即持戒で、法華経を受持することが即持戒となる。
「摂受・折伏の異あり」とは、正像は摂受、末法は折伏、という修行の方軌の違いがあるとの意である。正像の行人は求法・求道のために種々の戒を持って段階的な修行をする、いわゆる摂受であったのに対して、末法では折伏による弘教が修行の根幹をなす。
末法では、釈尊在世や正法像法のように複雑な、段階的な修行法は必要としない。これを大聖人は、「四信五品抄」に「一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり是れ則ち此の経の本意なり」(0340)と仰せられて、御本尊を信受し唱題することが「四信」の最初の「一念信解」を確立し、「五品」の初めの「初随喜品」を貫くことであるとされ、末法の法華経修行の肝要であると示されている。一念信解とは仏の教えを聞いて即座に信ずる心を起こすことであり、初随喜品とは妙法を聞いて歓喜し、信順しぬくことである。
したがって、末法今時では正像時代の種々の戒律・戒法はすべて無益・無用となる。いわゆる末法無戒である。本文の「伝教大師の市の虎の事思い合わすべし」の意もここにある。
すなわち、伝教大師が末法燈明記のなかで「但し今の論ずる所は末法に唯名字の比丘のみ有り、此の名字を世の真宝と為して、更に福田無し、設い末法の中に持戒の者有らんも、既に是れ恠異なり。市に虎有るが如し」と述べた文がそれである。
我々がただ南無妙法蓮華経を受持することによって、仏道修行の究極である即身成仏ができるのも、ひとえに持つ御本尊の仏力・法力が偉大であるからにほかならない。
日蓮大聖人は「観心本尊抄」で「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246:15)と仰せである。
受持即観心の義を示された明文である。御本尊を受持することが最高の持戒となるのであり、大聖人はこれを末法唯一の金剛宝器戒として示されているのである。