第四章(止観の教示ふまえ不退勧める)
本文
但し此の法門の御論談は余は承らず候・彼は広学多聞の者なりはばかり・はばかり・みた・みたと候いしかば此の方のまけなんども申しつけられなば・いかんがし候べき、但し彼の法師等が彼の釈を知り候はぬは・さてをき候いぬ、六十巻になしなんど申すは天のせめなり謗法の科の法華経の御使に値うて顕れ候なり、又此の沙汰の事を定めて・ゆへありて出来せり・かじまの大田次郎兵衛・大進房・又本院主もいかにとや申すぞ・よくよくきかせ給い候へ、此れ等は経文に子細ある事なり、法華経の行者をば第六天の魔王の必ず障うべきにて候、十境の中の魔境此れなり魔の習いは善を障えて悪を造らしむるをば悦ぶ事に候、強いて悪を造らざる者をば力及ばずして善を造らしむ又二乗の行をなす物をば・あながちに怨をなして善をすすむるなり、又菩薩の行をなす物をば遮つて二乗の行をすすむ最後に純円の行を一向になす者をば兼別等に堕すなり止観の八等を御らむあるべし。
現代語訳
ただし、この法門についての御論談は私は承っていない。彼は博学で知識ある者である。「はばかりながら、見た見た」といって、こちらの方の負けである、などときめつけられたならば、どのようにするのか。ただし、かの法師達が法華文句記の釈の文を知らなかったことはさておいたとしても、「六十巻のなかにない」などと言ったのは諸天の責めによるのである。謗法の罪が法華経の御使にあって顕れたのである。またこの論議も、きっと理由があって起こったのである。賀島の大田次郎兵衛や大進房また本院主も、どのようにいっているか、よくよくお聞きなさい。これらは経文に詳しく説かれていることである。法華経の行者を第六天の魔王が必ず妨げるのである。十境のなかの魔事境がこれである。魔の習癖は、善事を妨げて悪事をさせるのを悦ぶことにある。どうしても悪をなさない者には、力が及ばずに善事をさせるのである。また二乗の修行をする者には、ひたすらに怨をなし善事をすすめるのである。また菩薩の修行をする者には、それを邪魔して二乗の修行をすすめる。最後に純円の教の修行をいちずにする者を別教を含んだ円教等の修行に堕とすのである。摩訶止観の第八巻等をご覧になりなさい。
語釈
六十巻
天台大師の説いた「法華玄義」十巻、「法華文句」十巻、「摩訶止観」十巻と、妙楽大師がそれぞれを注釈した「法華玄義釈籖」十巻、「法華文句記」十巻、「止観輔行伝弘決」十巻を合わせて六十巻といわれている。
かしま
静岡県富士市加島町のことと思われる。
大田次郎兵衛
日蓮大聖人御在世当時の人。太田五郎左衛門尉乗明とは別人であろう。
大進房
下総の国(千葉県)出身の大聖人門下の長老。熱原法難のとき叛逆して、大聖人門下を迫害した。落馬し、それが原因で死去した。
本院主
中心寺院の住職。
第六天の魔王
他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。
十境
止観の修行における十種の対境のこと。①陰入界境、②煩悩境、③病患境、④業相境、⑤魔事境、⑥禅定境、⑦諸見境、⑧増上慢境、⑨二乗境、⑩菩提境の十。摩訶止観には、以上の十種の対境の名目は挙げられているが、その内容が説かれているのは第七の諸見境までである。
二乗
十界のなかの声聞・縁覚のこと。法華経以前においては二乗界は永久に成仏できないと、厳しく弾呵されてきたが、法華経にはいって初めて三周の声聞(法説周・喩説周・因縁周)が説かれて、成仏が約束されたのである。
純円
「純」は二乗・三乗等の方便を帯びないで、一仏乗・即身成仏の義が説かれること。「円」は円満のこと。完全無欠の意。純一無雑で、宇宙の実相を完全に説きつくしていること。
兼別
別教の理を兼ねるの意で、別教の理を含んだ円教のこと。爾前の円であり、華厳経の円教をいう。純円に対する語。
止観
摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
講義
了性房が、この問答において、法華経を持つ者の折伏にあって、謗法の科で敗れたことを指摘されるとともに、法華経の行者に対して必ず第六天の魔王が障りをなすことを、「十境の魔境」をふまえて指摘され、心するよう促されている。
十境とは止観修行の十種の対境のことで、天台大師が摩訶止観巻五から巻十のなかで説いたものである。
魔境とはその十境のなかの第五・魔事境のことで、仏道を成ずる障げとなる種々の現象が起こる境界のことである。またこれに対処する修行を観魔事境といっている。
天台大師は「魔事は是れ天子魔なり。魔は奪者と名づく」と述べているように、魔は仏道修行者の生命を蝕む働きであるが、それはまた生命自体に内在するものでもある。
魔の働きの習性として、人が善事を行おうとするのを妨害し、悪事を行わせるのを喜ぶものである。しかし、菩提心を発して外縁に紛動されない丈夫の心の人には魔の力も及ばないので善事を許容するが、それでもなお次善に堕とそうと計る。なんとしても最高善の成仏を阻もうとするわけである。
そこで四諦・十二因縁等の修行をしている二乗に対しては、一段下がった五戒・十善等の善事を勧め、六波羅蜜を修行している菩薩に対しては、より劣った二乗の修行を勧めるのである。
同様に「純円の行」たる真実の法華経を如説修行する人に対しては、「兼別」すなわち別教の理を加味して説かれた華厳の円等の権教へ堕とそうとするのである。
「兄弟抄」に「たまたま善の心あれば障碍をなす、法華経を信ずる人をば・いかにもして悪へ堕さんとをもうに叶わざればやうやくすかさんがために相似せる華厳経へをとしつ……此は第六天の魔王が智者の身に入つて善人をたぼらかすなり」(1081:18)と仰せられているのと同意である。
第六天の魔王は法華経に向かおうとする心を妨げるために、法華経以外にもすばらしい教えがあるように錯覚させる。よく似たものには迷ってしまう傾向がある人間の陥りやすい盲点、弱点を巧妙につくのである。
このように仏道修行の過程にある我々から御本尊への〝信〟を捨てさせ、御本尊から離そうとして、スキを不断にねらっているのが魔である。魔の誘惑を魔の所為と見抜いて斥ける日ごろの用心が肝要であり、我が心の内の弱さと妥協せず、心の中の悪魔のささやきを撃つ戦いを持続しなければならない。ふだんの唱題、善友との行学の切磋琢磨がなによりも大切なゆえんである。