第三章(理同事勝の邪義を破す)
本文
日蓮・理のゆくところを不審して云く善無畏三蔵の法華経と大日経とを理は同じく事は勝れたりと立つるは天台大師の始めて立て給へる一念三千の理を今大日経にとり入れて同じと自由に判ずる条ゆるさるべしや、例せば先に人丸が・ほのぼのと・あかしのうらの・あさぎりに・しまがくれゆく・ふねをしぞをもう・とよめるを、紀のしくばう源のしたがうなんどが判じて云く「此の歌はうたの父・うたの母」等云云、今の人我うたよめりと申して・ほのぼのと乃至船をしぞをもうと一字をもたがへず・よみて我が才は人丸にをとらずと申すをば人これを用ゆべしや、やまがつ海人なんどは用ゆる事もありなん、天台大師の始めて立て給へる一念三千の法門は仏の父・仏の母なるべし、百余年・已後の善無畏三蔵がこの法門をぬすみとりて大日経と法華経とは理同なるべし、理同と申すは一念三千なりと・かけるをば智慧かしこき人は用ゆべしや、事勝と申すは印・真言なしなんど申すは天竺の大日経・法華経の勝劣か漢土の法華経・大日経の勝劣か、不空三蔵の法華経の儀軌には法華経に印・真言をそへて訳せり、仁王経にも羅什の訳には印・真言なし不空の訳の仁王経には印・真言これあり、此等の天竺の経経には無量の事あれども月氏・漢土・国を・へだてて・とをく・ことごとく・もちて来がたければ経を略するなるべし、
現代語訳
日蓮が道理の趣くところを疑っていうには、善無畏三蔵が法華経と大日経とは理は同じであっても、事相は大日経が勝れていると立てるのは、天台大師がはじめて立てられた一念三千の理を大日経に取り入れて、法華経と大日経と同じと勝手に判断することであり、許されるであろうか。
たとえば、昔、柿本人麻呂が「ほのぼのと明石の浦の朝霧に、島かくれゆく船をしぞおもう」と詠んだのを紀淑望や源順などが判定して「この歌は歌の父・歌の母である」と称えた。それを今の世の人が自分は歌を詠んだといって「ほのぼのと明石の浦の朝霧に、島かくれゆく船をしぞおもう」と一字も違えず読んで「私の才能は人麻呂に劣らない」といったとしたら、人々はそのことを用いるだろうか。歌のことなどに無知な樵や魚夫なら用いることもあるだろうが。
天台大師がはじめて立てられた一念三千の法門は、仏の父・仏の母なのである。天台大師が出生してから百年以後に中国に渡ってきた善無畏三蔵が一念三千の法門を盗み取って「大日経と法華経とは理は同じである。理が同じというのは一念三千である」と書いてあるのを、智慧ある人は用いるだろうか。
また、大日経が事において勝れるというのは法華経には印と真言がないからだというのは、インド語の大日経と法華経の勝劣をいうのか、それとも中国語の法華経・大日経の勝劣なのか。
たとえば不空三蔵の成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌には法華経に印と真言を添えて訳している。仁王経にも羅什訳には印と真言はなく、不空訳の仁王経には印と真言がある。
これらのインドの経々には無量の事相はあっても、インドと中国は国を隔てて遠く、すべてを持ってくるのは難しいので、漢訳する際に省略したものであろう。
語釈
人丸
飛鳥時代の歌人。名は「人麿」とも表記される。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。
紀のしくばう
(~0919年)は、平安時代中期の貴族・儒者・歌人。中納言・紀長谷雄の長男。官位は従五位上・大学頭。
源のしたがう
(0911~0983)。平安時代中期の学者・歌人・貴族。嵯峨源氏、大納言・源定の曾孫。左馬允・源挙の次男。官位は従五位上・能登守。
やまかつ
猟師・きこりなど、山中に生活する身分の低い人。また、ひろく身分の卑しい者をいう。
海人
海や湖で魚介類を取ることを職業とする人。
法華経の儀軌
詳しくは「成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌」といい、法華経観智儀軌、成就法華儀軌、法華儀軌とも略称する。不空三蔵の釈した書。
仁王経
釈尊一代五時のうち盤若部の結経である。恌秦の鳩摩羅什(0334~0413)訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、唐の不空三蔵(0705~0774)訳の「仁王護国般若波羅蜜経」がある。羅什訳のほうが広く用いられている。この仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持し政道を行ずれば、三災七難が起こらず「万民豊楽、国土安穏」となると説かれている。このゆえに、法華経、金光明経とともに、護国の三部経として広く尊崇された。般若波羅蜜とは、菩薩行の六波羅蜜の一つであるが、般若とは智慧で、その実体は法華経文底秘沈の大法を信じ、以信代慧によって知恵を得ることである。末法においては、この三大秘法を受持して広宣流布することが般若波羅蜜を行ずることになる。法蓮抄には「夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く『聖人去らん時は七難必ず起る』等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を」とある。
月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
講義
本章では、真言宗の理同事勝の義について、理は同じとするのは天台大師の一念三千の理を盗み入れたものであり、印と真言があるから事において勝れるとするのも、印と真言の訳経のとき、取捨されたものなので経の勝劣を論ずるには足りないことが明かされている。
大聖人は善無畏三蔵が天台大師の立てた一念三千の法理を法華経に取り入れて理が同じであると主張しているのを、和歌の例をあげて破折されている。
ここに引かれている「ほのぼのと明石の浦の朝霧に、島かくれゆく船をしぞおもう」の一首は、古今和歌集の羇旅歌の部に収められており、歌人知らずとされているが、古くから柿本人麻呂の作と伝えられてきたもの、人麻呂は万葉集の代表歌人であり、和歌史上の第一人者として歌聖とも仰がれてきた。この歌も、新撰和歌集、和漢朗詠集、源氏物語、今昔物語、今鏡、平家物語、増鏡、今昔著聞集などにもひかれており、旅情のあらわれを詠んだ名歌と評価されている。この歌を、古今和歌集の序を書いた紀淑望、後撰和歌集を撰んだ源順などの和歌の道に通じた人々が「此のうたはうたの父、うたの母」と絶賛したという。
それほど著名な歌を、後人が一時も違えず盗作して「我が才は人丸にをとらず」と誇ったとしても誰が用いるだろうか、とした大聖人は、それと同様に「仏の父・仏の母」ともいうべき天台大師の一念三千の法門を盗みとったうえで、大日経と法華経は理が同じであるとした善無畏等の邪見を「智慧かしこき人は用ゆべしや」と破折されているのである。
理同事勝の、理は同じという義が一念三千を盗んだものであることを明かされた大聖人は、次に事勝という義も全く根拠のないことを示されている。
大日経に印と真言があり、法華経にはないから勝れているというのが、それはインドの原典についていうのか、漢訳された経典についていうのかと反論され、漢訳の経における比較ならば、印・真言の有無は翻訳者の意向によって取捨撰択されるものなので、経の勝劣を決定するような重大な問題ではないとしりぞけられている。
そして、その例として、羅什三蔵訳の妙法蓮華経には印・真言はなくても、不空三蔵の法華経の儀軌、正しくは成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌には印と真言が説かれているし、法華経以外でも、羅什訳の仁王経には印真言はないが、不空訳の仁王経には印と真言があるではないかと指摘され「天竺の経経には無量の事あれども月氏・漢土・国を・へだてて・とをく・ことごとく・もちて来がたければ経を略するなるべし」、すなわち法華経に印・真言がないのは、さして重要ではないために省略されたにすぎないとされているのである。
なお真言見聞にも「抑も唐朝の善無畏金剛智等法華経と大日経の両経に理同事勝の釈を作るは梵華両国共に勝劣か、法華経も天竺には十六里の宝蔵に有れば無量の事有れども流沙・葱嶺等の険難・五万八千里・十万里の路次容易ならざる間・枝葉をば之を略せり、此等は併ながら訳者の意楽に随つて広を好み略を悪む人も有り略を好み広を悪む人も有り、然れば則ち玄弉は広を好んで四十巻の般若経を六百巻と成し、羅什三蔵は略を好んで千巻の大論を百巻に縮めたり、印契・真言の勝るると云う事是を以て弁え難し、羅什所訳の法華経には是を宗とせず不空三蔵の法華の儀軌には印・真言之有り、仁王経も羅什の所訳には印・真言之無し不空所訳の経には之を副えたり知んぬ是れ訳者の意楽なりと、其の上法華経には『為説実相印』と説いて合掌の印之有り、譬喩品には『我が此の法印・世間を利益せんと欲するが為の故に説く」云云、此等の文如何只広略の異あるか、又舌相の言語・皆是れ真言なり』(0145:17)と同趣旨の破折がある。