第二章(華厳・真言の法盗人を示す)
本文
日蓮勘えて云く大日経は新訳の経・唐の玄宗皇帝の御時・開元四年に天竺の善無畏三蔵もて来る、法華経は旧訳の経・後秦の御宇に羅什三蔵もて来る其の中間三百余年なり、法華経亘て後百余年を経て天台智者大師・教門には五時四教を立てて上五百余年の学者の教相をやぶり観門には一念三千の法門をさとりて始めて法華経の理を得たり、天台大師已前の三論宗・已後の法相宗には八界を立て十界を論ぜず一念三千の法門をば立つべきやうなし、華厳宗は天台已前には南北の諸師・華厳経は法華経に勝れたりとは申しけれども華厳宗の名は候はず、唐の代に高宗の后・則天皇后と申す人の御時・法蔵法師・澄観なんど申す人・華厳宗の名を立てたり、此の宗は教相に五教を立て観門には十玄・六相なんど申す法門なり、をびただしきやうに・みへたりしかども澄観は天台をはするやうにて・なを天台の一念三千の法門をかりとりて我が経の心如工画師の文の心とす、これは華厳宗は天台に落ちたりというべきか又一念三千の法門を盗みとりたりというべきか、澄観は持戒の人・大小の戒を一塵をもやぶらざれども一念三千の法門をば・ぬすみとれり・よくよく口伝あるべし、真言宗の名は天竺にありや・いなや大なる不審なるべし、但真言経にてありけるを善無畏等の宗の名を漢土にして付けたりけるか・よくよくしるべし、就中善無畏等・法華経と大日経との勝劣をはんずるに理同事勝の釈をばつくりて一念三千の理は法華経・大日経これ同じなんどいへども印と真言とが法華経には無ければ事法は大日経に劣れり、事相かけぬれば事理倶密もなしと存ぜり、今日本国及び諸宗の学者等並びにことに用ゆべからざる天台宗共にこの義をゆるせり例せば諸宗の人人をばそねめども一同に弥陀の名をとなへて自宗の本尊をすてたるがごとし天台宗の人人は一同に真言宗に落ちたる者なり。
現代語訳
日蓮が考えるには、大日経は新訳の経であり、中国の玄宗皇帝の御時、開元四年にインドの善無畏三蔵がもってきた。法華経というは旧訳の経であり、後秦の時代に羅什三蔵が伝来したものである。法華経と大日経が伝来した時代の差は三百余年である。
法華経が中国に渡ってから百余年過ぎて天台智者大師が出現され、教門には五時四教の教判を立て、それまでの五百余年の間の学者の教相を破り、観門では一念三千の法を悟られ、はじめて法華経の極理を体得されたのである。
天台大師出現以前の三論宗や、出現以後の法相宗では八界を立てて十界を論じていない。したがって一念三千の法門は立つはずがない。
華厳宗は天台大師の出現以前に南三北七の諸師が「華厳経は法華経に勝れている」といっていたけれども華厳宗の名はなかった。唐の第三代皇帝高宗の后・則天皇后という人の御時に法蔵法師・澄観などという人が華厳宗の名を立てたのである。
この宗は教相に五教、観門には十玄・六相などと立てている法門である。いかにも深遠な教えのように見えたけれども、澄観は天台を破しているようで、じつはは天台の一念三千の法門を借り用いて、華厳経の「心は工なる画師の如し」の文の心としたのである。これは華厳宗は天台に敗れたというべきか、あるいは一念三千の法門を盗みとったというべきであろうか。澄観は持戒の人であり、大乗・小乗の戒律を一塵ほども破ることはなかったけれども、一念三千の法門を盗み取ったのである。このことをよくよく口伝しなくてはならない。
真言宗の名がインドにあるか否かは大きな疑問である。たんに真言経であったのを、善無畏等が中国に来た時に、宗の名をつけたかどうか、よくよく知らなくてはならない。
とりわけ善無畏等は法華経と大日経との勝劣を判釈するのに、理同事勝の釈をつくって一念三千の理は法華経も大日経も同じであるが、法華経には印と真言とがないので、事法では大日経に劣っており、事相が欠けているので事理倶密の法門もない、としたのである。
今日本国および諸宗の学者等、ならびにそのなかでもとくに用いてはならない天台宗が、ともにこの理同事勝の義を許している。たとえば諸宗の人々が念仏を称える人を嫉みながら、一同に阿弥陀仏の名を称えて、自宗の本尊を捨てているようなものである。天台宗の人々は一同に真言宗になってしまった人々なのである。
語釈
新訳
像法の前500年は、中国に仏法が流布し、さかんに翻訳が行われている。竺法蘭・鳩摩羅什などである。これらの経典を旧訳といい、像法の後の500年を新訳という。玄奘三蔵・善無畏三蔵に代表される。一般に新訳は訳者の自我が多い経典とされ、真言宗の善無畏が立てた理同事勝などは代表的な例である。
旧訳
漢訳された経典のうち、唐の玄奘三蔵以前に訳された経典を旧訳という。経文は、どちらかといえば、旧訳の経は意味訳であり、貞元釈教録によれば、訳者は187人あって、うち旧訳141人、また、開元釈教録によれば、訳者176人のうち、旧訳139人とある。
唐
(0618~0907)中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。日本の場合は遣唐使などを送り、寛平6年(0894))に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。首都は長安に置かれた。690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。
玄宗皇帝
(0685~0762)。中国・唐朝第6代皇帝(在位0712~0756)。26歳で即位し、外征を抑えて政治の乱れを正し唐の繁栄に貢献した(開元の治)。しかし「漢土にこの法わたりて玄宗皇帝ほろびさせ給う」(1509-16)とおおせの通り、真言を信じ、善無畏三蔵に師事したため、臣下の安禄山によって都を追われ、皇位を失った。これは真言亡国の現証である。
天竺
古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
後秦
(0384年~0417)。中国の五胡十六国時代に羌族の族長姚萇によって建てられた国。姚秦とも呼ばれる。
羅什三蔵
(0344~0409)。梵語クマーラジーヴァ(Kumārajīva)の音写。中国・姚秦代の訳経僧。鳩摩羅耆婆、鳩摩羅什婆とも書き、羅什三蔵とも呼ばれる。童寿と訳す。父はインドの一国の宰相鳩摩羅炎、母は亀茲国王の妹・耆婆。7歳の時、母と共に出家し、仏法を学ぶ。生来英邁で一日に千偈、三万二千言の経を誦したと言う。9歳の時カシミール国に留学し、王の従弟の槃頭達多について学び、後に諸国を遊歴して仏法を修行した。初め小乗経を、後に須利耶蘇摩について大乗教を学び、亀茲国に帰って大いに大乗仏教を弘めた。しかし、中国の前秦王・符堅は、将軍・呂光に命じて西域を攻めさせ、羅什は、亀茲国を攻略した呂光に連れられて中国へ行く途中、前秦が滅亡したため、呂光の保護を受けて涼州に留まった。その後、後秦王・姚興に迎えられて弘始3年(0401)長安に入り、その保護の下に国師の待遇を得て、訳経に従事した。羅什は多くの外国語に通暁していたので、初期の漢訳経典の誤謬を正し、また抄訳を全訳とするなど、経典の翻訳をした。その翻訳数は、出三蔵記集巻二によると三十五部二九四巻、開元釈教録巻四によると七十四部三八四巻にのぼる。代表的なものに「妙法蓮華経」八巻、「大品般若経」二十七巻、「大智度論」百巻、「中論」四巻、「百論」二巻などがある。弘始11年(0409)8月20日、長安で寂したが、予言どおりに舌のみ焼けず、訳の正しさを証明したと伝えられる。なお、寂年には異説があるが、ここでは高僧伝巻二によった。
天台智者大師
(0538~0597)。中国天台宗の開祖。慧文、慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。18歳の時、湘州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)大蘇山に南岳大師を訪れ、修行の末、法華三昧を感得した。その後、おおいに法華経の深義を照了し、法華第一の義を説いて「法華玄義」十巻、「法華文句」十巻、「摩訶止観」十巻の法華三大部を完成した。摩訶止観では観心の法門を説き、十界互具・一念三千の法理と実践修行の方軌を明らかにしている。隋の煬帝より智者大師の号を与えられたが、天台山に住したので天台大師と呼ばれる。
教門
仏の教説、教法のこと。仏の教えは生死解脱の道に入る能入の門である。
観門
観心門のこと。己心を内観して、仏法の真理を証得しようとする実践的修行方法。
五時四教
「五時」釈尊一代50年の説法を天台が判釈し、説法の順序から五種に分類したもの(華厳・阿含・方等・般若・法華)。で「四教」には化儀の四教と化法の四教があるが、通常四教という場合は化法の四教(蔵教・通教・別教・円教)をいう。
教相
①仏の教説に解釈を施し、分類して系統的・組織的に秩序づけること。天台の五時八教・法相の三時教・真言の顕密二教など。②経文の元意を己心に観ずる観心に対し、教法を分別し、釈すること。日蓮大聖人の文底秘沈の仏法を根幹としていく立場を観心といい、それに対して、釈尊の経文どおりに読んでいくいき方を教相という。③真言密教では灌頂・修法などの具体的な法を事相というのに対して教義面の理論的解釈を教相という。
一念三千の法門
三大秘法のご本尊のことをいう。理に約せば一念に三千種の生命活動を具すとの哲理で、中国の天台大師が摩訶止観において、この法門を明かした。釈尊は法華経28品をもって、これを説いたのでああって、このゆえに、天台大師は“小釈迦”ともいわれた。天台の一念三千の法門は“像法の法華経”という。しかしその天台大師のあらわしたものの実体は、末法御本仏・日蓮大聖人が南無妙法蓮華経として示されたのである。ゆえに天台大師の一念三千の法門を“理の一念三千の”といい、日蓮大聖人の三大秘法の御本尊を“事の一念三千”というのである。“事の一念三千”の御本尊こそ、釈尊ならびに天台大師が説かんとした極説中の極説の当体であり、仏法の究極なのである。
三論宗
竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
法相宗
解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
八界
三論宗と法相宗は通教に属する教えであり、通教は菩薩といっても二乗と同じく空理を悟ことを至極とし、まだ無明惑を断じず、中道実相を証得していないので二乗に包摂され、したがって菩薩・仏の二界を明かしていないゆえに八界となる。また、三論・法相の両宗は二乗作仏の義がないから、十界から声聞・縁覚を除いて八界とする説もある。
華厳宗
華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
則天皇后
(0623~0705)。則天武后、武則天ともいう。唐朝第二代太宗、第三代高宗の後宮に入り、永徽6年(0655)高宗の皇后となった。高宗が倒れてからはみずから政務を執り、高宗死後は実子の中宗、睿宗を相ついで帝位につけたが、天授元年(0690)廃帝してみずから帝位につき、国号を周と改めた。密告制度などの恐怖政治を行なったが、半面、門閥によらぬ政治の道を開き、また学芸に力を入れるなど文化を興隆させた。
法蔵法師
(0643~0712)。智儼の弟子で、華厳宗の第三祖。華厳和尚、賢首大師、香象大師の名がある。智儼について華厳経を学び、実叉難陀の華厳経新訳にも参加した。則天武后の勅で入内したとき、側にあった金獅子の像を喩として華厳経を説き、武后の創建した太原寺に住み、盛んに弘教した。さらに法華経による天台大師に対抗して、華厳経を拠りどころとする釈迦一代仏教の教判を五教十宗判として立てた。著書には「華厳経探玄記」20巻、「華厳五教章」3巻、「妄尽還源観」1巻、「華厳経伝記」5巻など多数がある。
澄観
(0738~0839)。中国華厳宗の第四祖。浙江省会稽の人。姓は夏侯氏、字は大休。清涼国師と号した。11歳の時、宝林寺で出家し、法華経をはじめ諸経論を学び、大暦10年(0775)蘇州で妙楽大師から天台の止観、法華・維摩等を学ぶなど多くの名師を訪ねる。その後、五台山大華厳寺で請われて華厳経を講じた。著書には「華厳経疏」60巻、「華厳経綱要」1巻などがある。
五教
華厳宗の教判で、釈尊一代の教説を形式・内容等によって五種に分類し、華厳経が最高の経典としている邪義。これには二種がある。①華厳宗第三祖・法蔵の説。小乗教・大乗始教・大乗終教・頓教・円教とし円教のうち華厳経を円融不思議の法門を開示するものとし、三乗を同じて説いた法華経より勝れたとするもの。②華厳宗第五祖・宗密の説。人天教・小乗教・大乗法相教・大乗破相教・一乗顕性教とし、華厳経を一乗顕性教と立てる。
十玄
華厳宗ではその根本原理を十にわけている。これを十玄という。智儼の釈によるものと、法蔵の釈によるものとがある。
六相
華厳経の十地品に説かれているもので、華厳の円理を説く法相。世親・至相・賢首等の論釈に明らかにされている。総相・別相・同相・異相・成相・壊相の六相が一切の法に具足しているが、これらは凡夫にはおのおの別々に見えるけれども、じつは六相融であるというものである。
心如工画師
華厳経に「心は工なる画師の如く、種種の五陰を造るが如く、一切世界の中に法として造らざることなし」とある。これは、われわれの一心が、あらゆる諸法を形づくるのを、あたかも、巧みなる雅師が種々の画を描いて、あらゆる場合を表現するようなものであると文である。華厳宗の澄観は天台の一念三千の法門を盗み取って、この文は一念三千の依処であると主張した。
持戒
「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。戒を受け、身口意の三業で持つこと。
口伝
①口移しに伝えること。言葉で伝えること。②奥義などの秘密を口移しに伝授すること。③奥義を伝えた書物。
真言宗
大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
真言経
大日経・蘇悉地経・金剛頂経、真言三部経をいう。
漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
理同事勝
真言宗の開祖・善無畏三蔵のつくった邪義。法華経と大日経とを比較すると、理の上では釈尊も大日如来も一念三千にほかならないので同じであるが、事において、すなわち、この教理を形の上に表わす印や真言の作法は、法華経にないので大日経が法華経に勝れているとする謬説。
事相
真言でいう言葉である。顕密二教ならびに十住心などの教理を教相といい、三密の実践的行法を事相といっている
事理倶密
事密・理密が俱に備わっていること。天台密教の教判用語。慈覚は蘇悉地経疏巻一等で、顕示教・秘密教に分け、秘密教をさらに理秘密・事理秘密に分類した。顕示教は世俗と勝義の円融を説かない。理秘密教は、真俗二諦の円融を説くが、事相を明かしていない。事理俱密教は、真俗円融不二を説き、さらに身語意三密の行相を説く故に勝れているとする。
弥陀
阿弥陀如来の略。阿弥陀は梵語(Amitāyus)阿弥陀痩(Amitābhā)阿弥陀婆で、阿弥陀痩は無量寿命の義、阿弥陀婆は無量光明の義である。西方極楽浄土の教主で、経により種々に説かれるが、一般にはインド・中国・日本ともに無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の浄土三部経に説かれている阿弥陀仏をさす。無量寿経には、その因縁誓願が説かれている。その内容は、過去無数劫に燃燈仏の五十三仏があらわれたのち、世自在王如来が出現し、民衆を教化した。そのとき、一人の国王がその仏の説に随喜し、信心の心を起こして、ついに王位を捨てて僧となり、法蔵比丘といった。法蔵比丘が世自在王仏を示した二百五十一億の諸仏諸国の先例から選択し、自分の国土を荘厳し浄化することを願って立てたのが法蔵比丘の四十八願である。この願を成就して法蔵は阿弥陀仏となり、その国土は西方十万奥の仏国土を過ぎたところにあるという。これが念仏宗で用いるもので、その思想は、あくまでもこの娑婆世界を穢土とし、極楽浄土へ往生することを説く。また、その根本としている第十八願には「十方の衆生、至心に信楽して我国に生まれんと欲して乃至十念せんに、もし生れずば正覚を取らじ」とあるが、次に「唯五逆と誹謗正法を除く」と断っているのを、浄土宗は隠しているのである。なお、同じく阿弥陀といっても、これは最も低劣な阿弥陀で、このほかに大通智勝仏の十六王子の一人で法華経大願の主迹門の阿弥陀、釈尊の分身たる本門の阿弥陀がある。久遠元初の自受用報身如来に対すれば、これらはすべて迹仏であり、権仏にすぎないのである。
本尊
根本として尊敬するもの。
天台宗
天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。
講義
本章では、天台大師の立てた一念三千の法門を盗み入れて、法華経と大日経は一念三千の「理」は同じであり、印と真言の事法において法華経が劣るとした真言宗のずる賢さを指摘されている。
はじめに、法華経と大日経との渡来の先後にいついて法華経は旧釈の経である後秦の弘始(0406)に羅什三蔵が訳したが、それに対して大日経は新訳の経で唐の玄宗皇帝の開元4年(0716)に善無畏三蔵がインドから中国へ伝えたもので300余年も遅れていることを述べられている。
しかも、その間に天台智者大師が出現し、教相の上では五時四教を立て、観心の法門として一念三千を説き、法華経が一代の極説であるとを明らかにしたのである。
五時四教とは、釈尊50年の説法を分類して、説法の順序にしたがって五時に、教えの内容から四教とした教判である。五時とは、華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時であり、最後の8年間に説かれた法華経と涅槃経こそ実大乗経であり、醍醐味とされるものである。四教とは、蔵経・通教・別教・円教の4つで、法華経は三諦・十界互具・一念三千の諸法が円融円満なので円教と名づける。なお教説の内容で分類した化法の四教のほかに、化導の形式によって頓・漸・秘密・不定の4つに分類した化儀の四教もあり、合わせて五時八教という。この天台大師の教判によって、釈尊一代の諸教の体系とともに勝劣が明らかになったのである。「南北の邪義をやぶりて一代聖教の中には法華経第一・涅槃経第二・華厳経第三なり」(0262:撰時抄:03)と。
それだけでなく、天台大師は摩訶止観において一念三千という観心の法門を確立し、一代仏教の肝心である法華経の極理を明確にしたのである。
華厳宗が一念三千の法門を盗む
三論宗や華厳宗では八界までしかなく十界を説かないので一念三千の法門など立つはずがなかったが、天台大師以後に成立した華厳宗では、一方は天台大師に反論しながら、他方では、その一念三千の法門を盗んで、華厳経の「心如工画師」の文をその依文としたのである。このことを指摘された大聖人は、本抄で、華厳の澄観は持戒を誇った僧だが、一念三千の法門を盗んだではないかと破折されている。
「心如工画師」の文とは、華厳経に「心は工なる画師の種々の五陰を画くが如く、一切世界の中に法として造らざること無し」とあることをいう。
華厳宗の澄観は、華厳疏鈔のなかで、この文を一念三千の法門をあらわしているといい、華厳経にも一念三千の法門はあると主張したのである。
なお、天台大師は摩訶止巻五上の中でこの文を引いて「善画の其国郭を図するが如し、像を写すこと真に偪って骨法精霊、生気飛動す」と述べ、また「界内・界外一切世間の中、心従り造らざるは莫し」と、心が万法の主体であること、一念に三千の生命状態を具足していることを説明している。
しかし、華厳経に一念三千の法門が説かれていないのなら、一念三千を説明するのになぜ天台大師は「心如工画師」の文を用いたか、という疑問が起きてくる。
華厳経にも一念三千はあるのではないかという疑問に対して、日寛上人は三重秘伝抄の中で、「答う彼の経に記小久成を明さず何ぞ一念三千を明さんや」と断破され、天台大師が華厳経を引用した意味については「若し大師引用の意は浄覚云く『今の引用は会入の後に従う』等云云。また古徳云く『華厳は死の法門にして法華は活の法門なり』云云、彼の経の当分は有名無実なる故に死の法門と云う…若し会入の後は猶蘇生の如し故に活の法門と云うなり」と述べられている。
二乗作仏・久遠実成は一念三千が成り立つための不可欠な前提であり、華厳経にはそれが説かれていない以上、一念三千も明かされているとするわけにはいかないのが当然であり、華厳経にいかに一念三千に通ずる文があっても、一念三千の実義はない。ゆえにそうした相通ずる文はあっても、有名無実であり、死の法門といわなければならない。だが、法華経の実技を説明するために会入して用いるならば、それなりに生き、死の法門であった華厳経の生命も蘇って、法華経の証明として用いることができるのである。
つぎに真言宗について、善無畏等が華厳宗を立て、法華経と大日経の勝劣を判ずるのに、一念三千の理は同じだが、印と真言がないので法華経は事法において大日経に劣ると立てたため、天台宗の人々までその義を信じて、真言宗に堕ちてしまったことを述べられている。
理同事勝の破折は、次章にされていくのであるが、さらに詳しくは善無畏三蔵抄に「善無畏三蔵・法華経と大日経と大事とすべしと深理をば同ぜさせ給いしかども 印と真言とは法華経は大日経に劣りけるとおぼせし僻見計りなり、其の已後の真言師等は大事の理をも法華経は劣れりと思へり、印真言は又申すに及ばず謗法の罪・遥にかさみたり、閻魔の責にて堕獄の苦を延ぶべしとも見えず直に阿鼻の炎をや招くらん、大日経には本・一念三千の深理なし此の理は法華経に限るべし、善無畏三蔵・天台大師の法華経の深理を読み出でさせ給いしを盗み取つて大日経に入れ法華経の荘厳として説かれて候・大日経の印真言を彼の経の得分と思へり、理も同じと申すは僻見なり真言印契を得分と思ふも邪見なり」(0887:18)と破折されているので参照されたい。