曽谷入道殿御返事(如是我聞の事)

第三章(法華経が諸経に超過していることを示す)

本文

その詮を説かざれば法華経より外は理即の凡夫なり、彼の経経の仏・菩薩はいまだ法華経の名字即に及ばず何に況や題目をも唱へざれば観行即にいたるべしや、故に妙楽大師の記に云く「若し超八の如是に非ずんば安んぞ此の経の所聞と為さん」云云、彼彼の諸経の題目は八教の内なり網目の如し、此の経の題目は八教の網目に超えて大綱と申す物なり、

現代語訳

諸経には、一念三千という法門を説かないゆえに、法華経以外の経を信ずる人は理即の凡夫なのである。

 それゆえ、彼の経々の仏・菩薩といっても、いまだ法華経の名字即に及ばない。いわんや題目を唱えなければ観行即にいたることはあろうか。

 ゆえに、妙楽大師は法華文句記に「若し超八の如是に非ずんば安んぞ此の経の所聞と為さん」といっているのである。

 爾前の経々の題目は八教の内の教えであり、たとえば網目のようなものである。この経の題目は八教の網目に超えており、いわば大綱というべきである。

語釈

理即

 天台の立てた六即位のひとつ。理の上で仏性を具しているというのみの凡夫の位。

菩薩

 菩薩薩埵(bodhisattva)の音写。覚有情・道衆生・大心衆生などと訳す。仏道を求める衆生のことで、自ら仏果を得るためのみならず、他人を救済する志を立てて修行する者をいう。

名字即

 天台大師が法華経を修行する人の位を理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即の六即位にわけたもので、名字即はその第二、初めて仏法の信仰に入った位をいう。日蓮大聖人の仏法には、修行の段階はない。即身成仏のゆえに名字妙覚という。名字即の凡夫が御本尊を拝んで、仏の生命を感得したときが、妙覚の仏である。総勘文抄には「一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す名字即の位より即身成仏す故に円頓の教には次位の次第無し」(0566:15)とある。 

観行即

 「観行」とは、観心(自分の心を観察する)の修行のことであり、「観行即」は修行内容の上で仏と等しいという意。仏の教えのとおりに実践できる段階。

妙楽大師

 (0711~0782)。中国・唐代の人。天台宗第九祖。天台大師より六世の法孫で、中興の祖としておおいに天台の協議を宣揚し、実践修行に尽くし、仏法を興隆した。常州晋陵県荊渓(江蘇省)の人。諱は湛然。姓は戚氏。家は代々儒教をもって立っていた。はじめ蘭陵の妙楽寺に住したことから妙楽大師と呼ばれ、また出身地の名により荊渓尊者ともいわれる。開元18年(0730)左渓玄朗について天台教学を学び、天宝7年(0748)38歳の時、宿願を達成して宜興乗楽寺で出家した。当時は禅・華厳・真言・法相などの各宗が盛んになり、天台宗は衰退していたが、妙楽大師は法華一乗真実の立場から各宗を論破し、天台大師の法華三大部の注釈書を著すなどおおいに天台学を宣揚した。天宝から大暦の間に、玄宗・粛宗・代宗から宮廷に呼ばれたが病と称して応ぜず、晩年は天台山国清寺に入り、仏隴道場で没した。著書には天台三大部の注釈として「法華玄義釈籖」10巻、「法華文句記」10巻、「止観輔行伝弘決」10巻、また「五百問論」3巻等多数ある。

網目

 網地を作っている糸と糸とのすき間。網の目。

八教

 釈尊一代50年の説法を天台が判釈し、法門の内容と形式から化儀の四教と化法の四教の八種に分類したもの。

大綱

 太い綱。おおもと。

講義

ここではまず、十界互具・百界千如・三千世間の法理を説かない諸経を聞いたり信じたりする衆生は、天台大師の立てた六即の位階のうち、理即の位を出ないのである。諸経に説かれる仏・菩薩たりといえども法華経の名字即には及ばないし、ましてや、妙法蓮華経の題目を唱えていないので観行即にも至ることができない、と仰せられている。

 次に再び、妙楽大師の法華文句記の「若し超八の如是に非ずんば安んぞ此の経の所聞と為さん」という文を引用されて、諸経の題目は八教のうちであり、網目のようであるのに対し、超八の法華経の題目は大網であると説かれている。

六即位について

 天台大師が摩訶止観巻一下に説き明かした法華円教を修行する菩薩の六種の位のこと。すなわち、理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即の六つの位をいう。

 法華円教においては修行の位は円融円満で本来、段階がないのであるが、修行者には迷悟の浅深があるので位を立てるのである。

 この六即には二つの意味が同時に備わっている。一つは、「即」によって信なきものが卑屈に陥るのを免れるということである。

 すなわち六つのどの段階も仏と「即」であると説いて希望を与えるのである。二つには、「六」によって智なき者が「己れは仏に均し」と錯覚する増上慢に陥るのを防ぐのである。

 理即とは、いまだ正法を聞かず、仏法に無知な迷いの凡夫の位であるが、理の上で仏と「即」である位をいう。

 名字即とは、経文を通じて我が身がもともと仏であり、一切法、皆是れ仏法であると知る位である。

 観行即とは、修行を通じて我が心性の仏を観じて、所観の理と能観の智が相応する位である。

 相似即とは、三惑のなか、見思惑・塵沙惑を断じ尽くし、六根清浄の徳を得る位で、仏の悟りに相似する位である。五十二位の段階においては十信位に相当する。

 分真即は、無明惑のうち元品の無明のみを残して、その他のすべての迷いを断じ尽くし、仏性を分々に顕現していく位である。五十二位では、初住位から等覚位までの位階が相当する。すなわち、初住位で初めて我が身の仏性の一部分が顕現し、等覚位に至ってほぼ仏と等しい境界となる。

 究竟即とは、元品の無明を断じて仏性を余すところなく顕現した妙覚位である。

 本文で「その詮を説かざれば法華経より外は理即の凡夫なり」と仰せられているのは、法華経以外の諸経の説を聞く衆生は、諸経が十界互具を説いていないので、与えていっても理即の凡夫でしかないということである。

 また「彼の経経の仏・菩薩はいまだ法華経の名字即に及ばず」と仰せのように、諸経では、仏・菩薩といえども法華経の名字即にすら及ばないのである。

 更に「何に況や題目をも唱へざれば観行即にいたるべしや」とは、次のように拝せられる。“観行即”は前述したように、修行をとおして我が心性の仏を観じ、所観の理と能観の智が相応する位である。これを大聖人の仏法でいえば「聞き奉りて修行するは観行即なり」(0752:寿量品廿七箇の大事:08)と仰せのように、題目修行が観行即になる。

 したがって、諸経の仏・菩薩は題目を唱えていないので、観行即に至ることができないと説かれたのである。

 ちなみに、六即位について日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝で次のように仰せられている。「六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障を伏するを相似即と云うなり化他に出づるを分真即と云うなり無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得可きなり、無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり云云」(0752:寿量品廿七箇の大事:07)と。

妙楽大師の記に云く「若し超八の如是に非ずんば安んぞ此の経の所聞と為さん」云云、彼彼の諸経の題目は八教の内なり網目の如し、此の経の題目は八教の網目に超えて大綱と申す物なり

 法華経が諸経に超過することを、妙楽大師の法華文句記の文を用いられて説かれているところである。まず、妙楽大師の文であるが、これは前述したように天台大師の法華文句における如是我聞の釈を受けてなされたものである。

 すなわち天台大師が「如是とは所聞の法体を挙ぐ」と述べた文のなかの“如是”に関して妙楽大師が重ねて、この法華経の「如是」とは超八の如是であると釈しているのである。

 “超八”とは、八教を超えていることである。八教は天台大師の立てた化法の四教と化儀の四教の教相判釈である。

 教相判釈とは、釈尊の一代聖教の説法の順序、教義の浅深などによって分類し、勝劣を判別することをいう。

 その目的とするところは、釈尊の教えの本義や真実の意図を見いだすことにある。天台大師はこの判釈によって法華経こそ釈尊の教えの本義であり、真実の意図であったと結論している。

 ここでは化儀の四教についての説明は略し、化法の四教について解説することにする。化法の四教は釈尊の一代の聖教を教理の内容によって蔵教・通教・別教・円教の四種類にわけたものである。

 蔵教とは、小乗教のことで、経蔵・律蔵・論蔵の三蔵を所依とする教えであり三蔵教ともいう。その内容は三界六道内の生死・因果を明かし、そこからの出離を説く。また前述したように、諸法を構成要素に分析して“空”とする「析空観」を説いて、諸法の不空の側面を知らないので「但空」の法門という。正に二乗を教え、傍に菩薩を化導するものである。

 通教とは、大乗の初門であるとともに、前の蔵教と後の別教の中間の教えであり、悟りの如何によっては前後どちらへも入ることの可能な位置にあるので“通教”という。その内容は同じく三界六道内の生死・因果を説き、そこから出離を説くが、諸法の本体に即してそのまま“空”を明かす「体空観」を説く点が蔵教とは異なる。

 また“空”のなかに“不空”の側面を見るので「不但空」の法門という。声聞・縁覚・菩薩の三乗が共通して学ぶ法門であることからも“通教”というが、しかし正に菩薩のために、傍に二乗のために説かれたものである。

 別教とは、三界六道の生死を超えた後、変易の生死から出離を求める菩薩のためにのみ別して説かれた教えなので“別教”という。

 その内容は「隔歴の三諦」にあり、とくに中諦が仮諦・空諦と隔絶して説かれている点に、別教の特徴がある。

 また、その実相論も現実の諸法から隔絶したものであり、ゆえに、その中諦・実相を悟るための菩薩の修行は必然的に歴劫修行たらざるをえない。

 円教とは、釈尊一代の教説の中で最高究竟の法門である。その内容は万法の円融相即の法理を説き、一即一切、一切即一、一行即一切行、一位即一切位、煩悩即菩提・生死即涅槃であるから、初心の位にも万行・万位の功徳を包摂する。したがって、あらゆる衆生を救済の対象としうるのである。

 また三諦についても「円融の三諦」を明かし、三諦それぞれが即空・即仮・即中であると説く。

 この円教に爾前の円と法華の円とがあり、爾前の円については日蓮大聖人が一代聖教大意に次のように仰せられている。

 この御文に明らかなように、爾前の諸経にも、凡夫が位の次第を経ずとも成仏できると説いたり、煩悩を断ぜずして成仏し得ると説く文はあるが、一方では二乗や悪人の成仏を許さなかったりして、その教説には限界があるとともに、成仏が可能であるとする文証にしても、ただ名のみ有って実義が無いのである。

 「此の教の意は又五十二位を明す名は別教の五十二位の如し但し義はかはれり、其の故は五十二位が互に具して浅深も無く勝劣も無し、凡夫も位を経ずとも仏にも成り又往生するなり、煩悩も断ぜざれども仏に成る障り無く 一善一戒を以ても仏に成る少少開会の法門を説く処もあり、所謂浄名経には凡夫を会し煩悩悪法も皆会す但し二乗を会せず、般若経の中には二乗の所学の法門をば開会して二乗の人と悪人をば開会せず、観経等の経に凡夫一毫の煩悩をも断ぜず往生すと説くは皆爾前の円教の意なり」(0396:05)と。

 更に、爾前の円は別教・通教・蔵教の方便を兼ねたり、帯びたりして説かれているゆえに、純粋の円教とはえない。

 これに対して、法華の円こそは純円独妙の円教であるから、化法の四教を超越し、またこれに化儀の四教を加えて八教に超過する“超八”の醍醐の教えであるというのである。

 ゆえに妙楽大師は、法華経の冒頭の「如是我聞」の“如是”は超八の如是であると釈したのである。

 この妙楽大師の釈を受けて、日蓮大聖人は次に「彼彼の諸経の題目は八教の内なり網目の如し、此の経の題目は八教の網目に超えて大綱と申す物なり」と仰せられている。

 すなわち、法華経以前の諸経の題目が八教の範囲内の教理にすぎず、網目のようなものであるのに対し、法華経の題目は“超八”であるから、網目を統括する大網のようなものであるとの仰せである。

 なお、聖愚問答抄には、この大網と網目の関係を通して次のように仰せられている。

 「此の妙法蓮華経を信仰し奉る一行に功徳として来らざる事なく善根として動かざる事なし、譬ば網の目・無量なれども一つの大綱を引くに動かざる目もなく衣の糸筋巨多なれども一角を取るに 糸筋として来らざることなきが如しと」(0500:02)と。

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