第二章(諸経の題目の勝劣浅深を示す)
本文
阿含経の題目は一経の所詮・無常の理をおさめたり、外道の経の題目のあうの二字にすぐれたる事百千万倍なり、九十五種の外道・阿含経の題目を聞いてみな邪執を倒し無常の正路におもむきぬ、般若経の題目を聞いては体空・但中・不但中の法門をさとり華厳経の題目を聞く人は但中・不但中のさとりあり、大日経・方等・般若経の題目を聞く人は或は析空・或は体空・或は但空或は不但空・或は但中・不但中の理をばさとれどもいまだ十界互具・百界千如・三千世間の妙覚の功徳をばきかず、
現代語訳
阿含経の題目はその経の所詮の法門である無常の理を収めている。外道の経の最初の阿漚の二字にすぐれていることは百千万倍である。
九十五派の外道は阿含経の題目を聞いて、みなことごとく外道の我見の執着を翻して、無常の理の正路についたのである。
また般若経の題目を聞く人は、体空・但中・不但中の法門を覚り、華厳経の題目を聞く人は但中・不但中を覚るのである。
大日経・方等経・般若経の題目を聞く人は、あるいは折空・あるいは体空・あるいはは但空、あるいは不但空、あるいは但中・不但中の理を覚る。しかし、いまだ十界互具・百界千如・三千世間の妙覚の功徳の法門は聞いてはいないのである。
語釈
阿含経
釈迦一代の教説を天台が五時に判じたなかで、最初の華厳時の次に説かれた経。時を阿含時、説かれた経を阿含経という。阿含は梵語アーガマ(āgama)の音写。法帰・法本・法蔵・蔵等と訳す。仏の教説を集めたものという意味。増一阿含経51巻・中阿含経60巻・雑阿含経50巻・長阿含経22巻からなり、四阿含経ともいう。結経は遺教経、説処は波羅奈国鹿野苑で、陳如等五人のために、三蔵教の四諦の法輪を説いたもの。したがって、釈尊説法中もっとも低い教えである。
無常の理
無常とは常に生滅変化して移り変わり、瞬間も同じ状態にとどまらないことをいう。小乗部は部派は多くとも、その究極の理は世間の無常無我を悟り、色心の煩悩を断じ尽くす無余涅槃の空理に帰すことにある。
外道
仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。
あう
阿漚・阿優とも書く。阿は無、漚は有を意味する。外道の経には必ず阿漚の二字を置く。万法は有無の二をでないとする。仏典の始めに如是と置くのは、外道が阿漚と置いて、有無の二道より、ものを判ずるのを破しているのである。曾谷入道殿御返事に「外道の経の題目のあうの二字にすぐれたる事百千万倍なり(1057-09)」とある。
九十五種の外道
釈尊在世における95派の外道のこと。数え方・詳細については不明。
般若経
般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
体空
当体即空のこと。事物の当体そのままが空であるとする通教の説いた体空間。
但中
空・仮を否定して中を立てる別教の法理。隔歴の三諦と同義。
不但中
空・仮・中の三諦が円融し、空諦・仮諦を包含した中諦のこと。円教で説く中道観。円教では三諦が相即しており、一諦のなかに三諦をそなえて三諦が一体となっていると説く。
方等
方等経のこと。方とは方正、等とは平等にして中道の理。したがって方等とは広く大乗経である。
折空
諸法を分析して空であると観ずること。
但空
空理を知って不空を見ず。ただ空のみに執着すること。
不但空
一切諸法はことごとく空であり、しかもその空に偏せず不空の面をも観ずる空理のこと。中道の空である。
十界互具
地獄から仏界にいたる十界のおのおのに十界を具していること。方便品では、凡下の衆生に仏知見がそなわっていると説き、寿量品では三妙合論して仏界常住を説く。この十界互具・百界は、それぞれに十如是を具し、さらに三世間を具して、一念三千となる。ゆえに開目抄には「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(0189-04)と仰せである。ただし、末法における真実の十界互具については、われわれが唱える題目・御本尊を仏界として、唱え奉るわれら衆生は九界であり、この境智冥合をもって十界互具というのである。
百界千如
法華経迹門を与えていえば、理の一念三千であるが、奪っていえば百界千如に過ぎない。
三千世間
天台大師が摩訶止観で一念三千を具す相貌を明かす際、世間に約して三千の数量を示したもの。
妙覚
①真の悟り、微妙・深遠な悟りのこと。また、仏の無上の悟りのこと。②菩薩の五十二位・四十二地の最上位で、菩薩が修行して到達する最後の階位のこと。妙覚の位に達した菩薩は、煩悩を断じ尽くし、智慧を完成させるとされる。天台教義の六即と対応させると、別教の菩薩五十二位の最高位である「妙覚」は、円教の「究竟即」に相当する。一つ前の等覚の位にいる菩薩が、さらに一品の無明を断じてこの妙覚位に入る。しばしば、仏の位と同一視される。
講義
ここでは、諸経の題目がそれぞれ経の所詮の理を表わしているところから、外道の経、阿含経、般若経、華厳経、大日経等の経題の示す法理を比較対照されてその勝劣を説かれ、最後に、いずれの経も法華経の所詮の理である十界互具・百界千如・三千世間の妙覚の功徳を明かしていない、と破折されている。
外道の経の題目のあうの二字
外道の経の題目は「阿漚」阿漚の二字であると仰せられている。
これに関しては、天台大師の法華文句に次のようにある。
「又如是とは、三世の仏の経の初めに皆如是を安んず、諸仏の道同じくして世と諍わざるは世界悉檀なり。大論に云く、時方を挙げて人をして信を生ぜしむるとは為人悉檀なり。又外道の阿歐の二字如ならず是ならざるを対破するは対冶悉檀なり」と。
ここで、天台大師は「外道の阿歐の二字」と述べている。「阿漚」と「阿歐」とで字は異なっているが、これを解釈した妙楽大師の法華文句記で次のように釈している。
「阿は無、漚は有なり。一切の外経、二字を以って首と為す」と。
さて、「阿」は悉曇五十文字の最初の字の音写で、発音する時に口を開いて発する音声である。この字には、否定の意味がある。それを、妙楽大師は「阿は無」といっているのである。次に「漚」であるが、悉曇五十文字の最後の文字であり、これは発音するときに口を閉じて発する音声である。妙楽大師は「漚は有」と釈しているが、これは化生を意味するものと思われる。また「阿」と「漚」で悉音五十文字の初音と終音、すなわち最初と最後のことになり、この場合「阿吽」と音写するのが通常であろう。
いずれにせよ「阿」と「漚」とで、有と無とを表わしているのであり、外道の経典はこれを題目としているのである。
天台大師は先の法華文句で、外道の「阿漚」の二字が有無の二道を表わしているのに対し、仏典が「如是」と最初に置くのは、「如ならず是ならず」と破折するためであると、釈しているのである。
無常・折空・体空・但空・不但空・但中・不但中
仏教の各経典は最初に「如是」を置くのであるが、その「如是」は各経典の題目をさしており、題目はその経の所詮の理を表わしている。
それゆえに経典の題目を比較対照することにより、経典の間の勝劣浅深を明らかにすることができるのである。
その勝劣を見極める基準となっているのが、ここに列挙した法門の名前である。
まず“無常”であるが「阿含経の題目は一経の所詮・無常の理をおさめたり」と仰せのように、阿含経は万物万法の無常の理法を説いている。
「阿含」というのは、サンスクリットのアーガマの音写で、その意味は「伝承された教え」である。天台大師の五時八教においては第二時阿含部、蔵教に属す。仏教の中で最も低い教えであるが、それでも外道に勝れること「百千万倍なり」と大聖人は仰せられている。
次に「折空」とは「体空」に対する法門で、色心諸法を分析して要素に分解して、極微を追及して遂に“空”に至るもので、蔵経の空観である。
これに対して「体空」とは色心諸法を分析せず、直ちにその体が“空”であると証得することで、通教の法門である。
言い換えれば、諸法は因縁から生じているので自性がなく、諸法の当体がそのまま幻のごときものであるとする法門である。
また「但空」はただ色心諸法の空の理だけを知って、不空、すなわち空でない側面を見ない偏頗な法門で、蔵経の二乗が陥ったものである。
「不但空」とは、通教の空観で、一切の諸法はことごとく“空”でありながら、しかも“空”のみに偏せず“不空”の側面をも観ずるものである。
「但中」とは別教の法理で、空・仮・中の三諦のうち、空と仮の二辺を除いて、ただ中のみを立てる法門である。
「不但中」とは円教所詮の理で、別教のように空仮の二辺を除いた中を立てるのではなく、空仮中の三諦が円融するなかで空諦・仮諦を包含した中諦を明かす法門である。
以上から、要するに外道の“阿漚”の二字。無常・折空・但空・体空・不但空・但中・不但中の順で次第に法門の内容は深遠かつ雄大になっていくのである。
天台大師が五時に分けた一代聖教を、蔵・通・別・円の基準によってとらえると、第一時華厳部は円教に別教を兼ね、第二時阿含は但蔵教のみで、第三時方等部は四教の機に対して具に蔵・通・別・円を説くので対である。また第四時般若部通・別の二教を帯びて円教を説くので帯となる。
以上から、阿含経の題目は無常の理、般若経の題目は折空・但中・不但中、華厳経の題目は但中・不但中、大日経・方等・般若経の題目は折空・但空・体空・不但空・但中・不但中ということになる。
しかし、これらはそれなりに深い法門を説いているようであっても、所詮「いまだ十界互具・百界千如・三千世間の妙覚の功徳をばきかず」と仰せられるように、真実の法は説かれていないと破折されている。