聖密房御書
文永後期 聖密房
語られた言葉
日蓮考えて曰く、盗み取りて「理同」と書けるをば、智慧賢き人は用いるべしや
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背景と大意
本抄は建治3年(1277年)に身延で著され、安房国の清澄寺に住む日蓮大聖人の弟子の一人と考えられている聖密房に宛てられたものです。別の説では、聖密房は清澄寺の近隣に住み、大聖人を仰ぎ尊んでいた真言宗の僧であるともされています。聖密房に関する詳細な記録は乏しいものの、大聖人の帰依者となって時折その指導を仰いでいた清澄寺の僧であったと見られています。当時の清澄寺の別当(住職)は、大聖人の兄弟子であり後にその教えを信奉した浄顕房(義浄房とする説もあります)であったと考えられています。この住職に宛てた別の御手紙の中で、大聖人は寺が直面する困難について聖密房に相談するよう促しており、聖密房を世情に通じた人物として記されています。
本抄において大聖人は法華経の優位性を強調されていますが、これは本来の天台宗による法華経の尊崇が真言宗の影響によって歪められていた寺に住む聖密房にとって、極めて重要な点でした。大聖人はまず、法華経に対するインド、中国、日本の真言僧らの誤った見解を挙げられます。特に、大日経と法華経は「理」においては同等であるが、「事(実践)」においては大日経が優れているとする善無畏の「理同事勝」の主張を破折されています。ここでいう「理同」とは一念三千の法理を指します。しかし大聖人は、この法理は大日経に由来するものでは決してなく、天台大師が法華経に基づいて打ち立てたものであると指摘されます。善無畏はこの教義を真言の教えの中へと取り入れさせたのです。また大日経が「事勝」であるとした根拠について、善無畏は法華経に印や真言が説かれておらず、大日経には説かれている点を挙げました。これに対して大聖人は、法華経において明かされた未曾有の二大開顕である「二乗作仏」や「久遠実成」に比べれば、印や真言などは単なる取るに足らない事柄にすぎないと断言されます。
御書の後半において大聖人は、華厳宗や真言宗は名目上は大乗であるものの、小乗の戒律に縛られているがゆえに実際には小乗とみなすべきであると説明されます。日本に真言の教えを伝えた伝教大師でさえ、法華経に基づく天台の教えと真言の教えを決して同等とは見なさなかったことを指摘されます。さらに、空・仮・中の三諦をどこまで明かしているかという点においても、華厳宗や真言宗は「別教」(菩薩のために説かれた大乗の一分)の域を出るものではありません。しかし、多くの名高い学者や高僧たちが大日経を信奉したために、真言の教えが日本中に広まってしまったのだと大聖人は述べられています。