弥三郎殿御返事

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弥三郎殿御返事

2012:10号大白蓮華より。先生の講義

広布を拓く「師弟共戦」の言論戦

それは、55年前1957年(昭和32)10月17日。私は関西へ向かいました。「大阪事件」の初公判のためでした。

この事件は同年7月、私が事実無根の選挙違反容疑で逮捕・勾留された悪質な冤罪です。無実であっても大阪地検によって起訴されたのです。いよいよ権力の魔性を相手に、身の潔白を証明し、わが正義を叫び切る法廷闘争が始まろうとしていました。

おそらく、裁判は長い戦いとなるゆえに、これまで以上に大阪にくることになる。お世話になる関西の方々にご挨拶をと、妻を伴っての訪問でした。到着したその晩、直ちに、一軒のお宅を見舞、さらに3軒の家庭訪問を重ねました。

「遂に戦いは始まった」

翌日(18日)初公判、62年(昭和37)1月に無罪判決を勝ち取るまで、4年以上にわたる闘争の始まりとなりました。

その晩は神戸訪問。元気な兵庫の同志と会って、わが闘争もいやまして燃え上がった。

私は日記に記しました。

「遂に戦いは始まったのだ。

今こそ、信心の前進の秋と知れ。

友よ、次の勝利に、断固進もう。

俺も、戦うぞ」

当時の関西をはじめ創価学会は急速に発展していました。世間から「貧乏人と病人の集まり」と嘲笑されようと、私たちは、その悪口さえ誇りに変えました「一番苦しんでいる人々の中に飛び込み、生き抜く希望と勇気を贈ってこそ、本当に力ある宗教だ!」と胸を張って、地涌の尊き使命に燃え、一対一の生命触発の対話に打って出ました。

苦悩の宿命に泣かされてばかりいた民衆が新たな社会建設の主役として、勇んで声を上げ、行動を起こす。生きる希望に燃えて立ち上がる。それは人類史に輝く数々の人権闘争がめざしてきたことです。ところが創価学会という新たな民衆勢力の台頭は、日本の既成勢力に反発と恐れをいだかせたのでしょう。横暴な権力が圧迫を加えてきたのです。しかし、それに対して「師子王の心」で立ち向かい、勝ち越えてこそ日蓮仏法です。

“民衆よ、頭を上げよ!団結せよ!立正安国を叫び上げよ!勇んで対話の海に飛び込め!”師が正義を叫び、一体不二で弟子に叫ぶのです。

日蓮大聖人は、この「師弟共戦の言論闘争」こそ、広宣流布を拓く原動力となることを、私たちに教えてくださいました。「日蓮が如く叫べ」「我が如く戦え」と師匠が教えられた通りに行動するなかにのみ、永遠不変の勝利の大道がある。

今回は、師の如く正義を叫び抜けと門下に教えられた「弥三郎殿御返事」を拝します。

本文

  是は無智の俗にて候へども承わり候いしに貴く思ひ進らせ候いしは・法華の第二の巻に今此三界とかや申す文にて候なり、此の文の意は今此の日本国は釈迦仏の御領なり、天照太神・八幡大菩薩・神武天皇等の一切の神・国主並に万民までも釈迦仏の御所領の内なる上・此の仏は我等衆生に三の故御坐す大恩の仏なり、一には国主なり・二には師匠なり・三には親父なり、此の三徳を備へ給う事は十方の仏の中に唯釈迦仏計りなり、されば今の日本国の一切衆生は設い釈迦仏に・ねんごろに仕ふる事・当時の阿弥陀仏の如くすとも又他仏を並べて同じ様にもてなし進らせば大なる失なり

現代語訳

  私は無智の在家の身であるが、承わった法門の中でも、貴く思ったのは法華経第二の巻に説かれている今此三界と申す御文である。この文の意は、今この日本国は釈迦仏の御所領であるということである。天照太神・八幡大菩薩・神武天皇等の一切の善神・国主並びに万民までみなこのも御所領内に住むうえに、この釈迦仏は我等衆生に三つの故ある大恩の仏である。一には国主であり、二には師匠であり、三には親父である。この三徳を備えられることは十方の仏の中でただ釈迦仏だけである。

それ故に今の日本国の一切衆生は、たとえ、あたかも現在、阿弥陀仏に仕えているように釈迦仏にねんごろに仕えたとしても、他仏を並べて同じようにもてなしているので、それは大きな誤りである。

講義

弟子の成長こそ師匠の願い

本抄の対告衆弥三郎については、在家の門下という以外、詳細は不明です。

ただ、本抄の最後の段に、宇治・勢多での先陣の勲功を挙げて激励されていることから、武士ではないかと推察されます。

その弥三郎が何らかの事情で出家の念仏者と法論することになり、身延の大聖人に報告するとともに、その対応について御指導を受けたようです。本抄はその御返事となります。末尾には「地頭のもとに召さるる事あらば先は此の趣を能く能く申さるべく候」と仰せです。場合によっては、弥三郎が地頭のもとに出頭して弁論に立つことも想定されていたのです。

また本抄は、大聖人の身延入山から3年後になる、建治3年(1277)8月の御述作です。これは、四条金吾、池上兄弟、南条時光ら、大聖人の有力な弟子たちが難の渦中にあった時期と重なっています。

前回、拝読した「上野殿御返事」も、建治3年(1277)5月の御述作です。同抄は、周囲からさまざまな圧迫を加えられ始められた南条時光に「勝利の人間学」を教えられた御書でもあります。

また、四条金吾が、周囲の讒言によって主君から「法華経を捨てよ」と責められたのはこの年の6月のことでした。邪悪を打ち返し、正義を明らかにするために、大聖人が即座に執筆されたのが「頼基陳状」です。

同じく正法に帰依したために迫害された因幡房日永に、陳状となる「下山御消息」を認められたのも、この6月です。

このように多くの弟子たちが置かれた状況を見ると、弥三郎が直面している事態も、決して個人的な事件にとどまるものではなかった。一つ一つが広宣流布の前進の中で競い起こった三障四魔であり、三類の強敵からの法難であったことは間違いありません。

いよいよ、弟子が立ち上がり、師と共に戦う時代を迎えた、ともいえます。

本抄は、その中で在家の一門下に渾身の激励を送られ、師匠である大聖人が戦ってきたように、弟子として勇敢に戦いなさいと教えられている一書です。

「師弟共戦」という大聖人の師弟観の根幹が拝される御書である。

譬喩品の「今此三界」の一節

本抄の冒頭、「この私は、仏法についてはよく分かっていない無知の在家の身ですけれども、承りました法門の中でも貴く思い申しましたのは、法華経の第2の巻に説かれている『今此三界』と申す御文でございます」とあります。

弥三郎が法論で語るべき内容を、大聖人が弥三郎の立場から記してくださったものと思われます。

この中の「今此三界」とは、譬喩品第3に説かれる「今此の三界は、皆是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり、而るに今此の処は、諸の患難多し、唯だ我れ一人のみ、能く救護を為す」の経文を指します。

これを受けて、大聖人は「今この日本国は釈迦仏の御領地である」と確認されたうえで、そこに住む神々や人々にとって、釈迦仏こそが「主・師・親」の三徳を備えた「大恩の仏」である。私たちは教え導く任に当たられる仏は、十方世界のあらゆる仏の中でも、ただ釈迦仏だけであることを明かされています。

ところが日本国の衆生は、たとえ、今、隆盛している阿弥陀仏と同様に、釈迦仏を大切に尊崇したとしても、此土の仏と他土の仏を並行して敬うのは、結局、大きな誤りである。

とりわけ日本国の諸僧は釈迦仏の弟子として出家したにもかかわらず、その根本の師匠と、その究極の教えである法華経を捨てて、阿弥陀仏の弟子のように振る舞い、人々に阿弥陀仏を祭らせとなえさせている、と喝破されているのです。

これは、根本と枝葉を転倒し、人々に謗法を犯させ、無間地獄へと堕とす大悪の行いです。ゆえに「此の人人は善人に似て悪人なり、 悪人の中には一閻浮提第一の大謗法の者・大闡提の人なり」と厳しく指摘され、釈尊に敵対した提婆達多らより悪い大悪人だと糾弾されているのです。

“大恩ある主師親を間違えてはならない”との仰せは、在家の武士として、一人の主君に命懸けて仕える弥三郎にとっては、深く納得できる道理であったはずです。この師匠の仰せ通りに語っていけば、念仏の僧などを相手にしても、彼らが阿弥陀仏を根本とする誤りを明快に破折していけるのです。

現実の人間を救うための仏法

さて、本抄で、大聖人が念仏を破折されている切り口は、「仏は、なんのためにこの世に出現したのか」という根本目的を問い直されたものとも拝されます。そして、その目的とは、この世で苦しむ一切の民衆を救い切っていくことにほかなりません。

苦悩の絶えない娑婆世界で戦う困難さを分かったうえで、あえて最も不幸に打ちひしがれた人々を救おうと誓願を立てて出現したのが釈尊です。そして法華経は、苦しみに満ちた現実世界を、そこに住む人々の心の変革から出発して、仏の国土としてふさわしい理想世界に変革しようという経典です。すなわち、浄仏国土であり、娑婆即寂光の現実です。

釈尊は、たとえ皆が身捨てても自分だけは永遠に娑婆世界を離れない、ここにいる人々と共に生き抜き、必ず幸せにしてみせる。との大慈大悲で、久遠以来、営々と民衆救済の大闘争を行ってきたのです。

これに対して阿弥陀仏は、厭離穢土・欣求浄土の教えです。穢土である娑婆世界を捨て去って、他の浄土に救いを求めるよう勧める仏です。この視点から俯瞰して見るならば、娑婆世界に有縁の釈迦仏をないがしろにして、他土の仏を根本に仰ぐことは、本末転倒の「大なる失」とあるのです。

大聖人が厳しく批判されているのは、当時の知識人であり指導者層である僧らが、この転倒した考えを持ち、多くの人々を迷わせている罪です。それは、世間の流行を無批判に尊ぶ在家の人々まで無意識に悪に加担させてしまっているのです。

時代・社会の土台ともなる人々の価値観の転倒は、やがて自らの拠って立つ精神の大地を崩してしまう。思想が混迷した社会を襲い、人々を大苦に突き落としたのが大飢饉や大疫病であり、権力者の内部抗争、騒動や他国からの侵略という戦乱でした。

本文

   かかる事をば日本国には但日蓮一人計り知つて始は云うべきか云うまじきかとうらおもひけれども・さりとては何にすべき、一切衆生の父母たる上・仏の仰せを背くべきか、我が身こそ何様にも・ならめと思いて云い出せしかば二十余年・所をおはれ弟子等を殺され・我が身も疵を蒙り二度まで流され結句は頚切られんとす、是れ偏に日本国の一切衆生の大苦にあはんを兼て知りて歎き候なり、

現代語訳

  この道理を、日本国にはただ日蓮一人ばかりが知った。はじめは言い出すべきか否かをあれこれ思いめぐらしたが、さりとていかにすべき、一切衆生の父母である仏の仰せに背いてよものか、我が身はいかようにもなれと思い切り、言い出したところ、二十余年、弟子を殺され、我が身も傷をこうむり二度までも流罪に値い、あげくに首を切られようとした。

これはひとえに日本国の一切衆生が大苦にあうであろうことを兼ねて知って憐れんでしたことである。

講義

「二十余年」に及ぶ慈悲の大闘争

日本の諸宗の僧ら、そしてあらゆる衆生は、最も有縁にして大恩ある釈迦仏を軽んずるという「本末転倒」に陥って、大苦を招いている。ただ一人、この真実を知られたのが、大聖人です。いな、知っただけでなく、敢然と、その誤りを糾す正義の言論戦を起こされたのです。

この段は、建長5年(1253)の立宗宣言を起点に、広宣流布の大闘争に踏み出された甚深の御覚悟と、以来、20余年にわたって死罪にも及ぶ大難を勝ち越えられてきた忍難弘通の足跡を綴られています。

なかでも「我が身こそ何様にも・ならぬ」。“我が身がどうなろうとかまわない”と、大聖人が不惜身命の覚悟で戦いを起こされた一点を忘れてはなりません。

また、戦いをおこして「二十余年」という表現は、諸御抄に20回近く記されています。大聖人が、立宗から20年を迎えられたのは佐渡流罪中でした。

「悪口罵詈」「及加刀杖」「数数見擯出」など、経文に説かれた大難をすべて受け切り、勝ち越えられた歴史が凝結していると拝されてなりません。

なぜ、それまでの苦難をあえて引き受けながら戦われたのでしょうか。それは「ただひとえに日本国のあらゆる衆生が大苦あうことを知ってあまりにも忍びない。放っておけないという嘆きからであった」と仰せです。

「嘆き」とは、苦悩を共にする嘆き、そして悩める人に寄り添う共感・同苦でありましょう。「抜苦与楽」の「苦を抜く」意義であり、甚深の大慈悲のお心が拝されます。

現在の苦しみだけでなく、衆生が未来に受ける苦悩にまで思いを致して、その苦悩を根本から断じて取り除きたいという、やむにやまれぬお心といえます。そのために大難を受けることを厭わない、恐れない、そして逃げない。これが仏法の慈悲の大闘争です。

開目抄に「難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(0202:08)と仰せです。この大慈悲のゆえに、大聖人は恐れなく正義を師子吼なされたのです。

この「開目抄」を引かれた戸田先生は言われました。

「折伏行も、確信にみち、大慈悲の現われとして、勇気に満ちていなくてはならないし、確信のあるところ、必ず勇気にみちるのである」。

本文

   されば心あらん人人は我等が為にと思食すべし、若し恩を知り心有る人人は二当らん杖には一は替わるべき事ぞかし、さこそ無からめ還つて怨をなしなんど・せらるる事は心得ず候、又在家の人人の能くも聞きほどかずして或は所を追ひ或は弟子等を怨まるる心えぬさよ、設い知らずとも誤りて現の親を敵ぞと思ひたがへて詈り或は打ち殺したらんは何に科を免るべき、此の人人は我があらぎをば知らずして日蓮があらぎの様に思へり、譬えば物ねたみする女の眼を瞋らかして・とわりをにらむれば己が気色のうとましきをば知らずして還つてとわりの眼おそろしと云うが如し、此等の事は偏に国主の御尋ねなき故なり、又何なれば御尋ねなきぞと申すに・此の国の人人余り科多くして一定今生には他国に責められ後生には無間地獄に堕つべき悪業の定まりたるが故なりと、経文歴歴と候いしかば信じ進らせて候、此の事は各各設い我等が如くなる云うにかひなき者共を責めおどし或は所を追わせ給い候とも・よも終には只は候はじ、此の御房の御心をば設い天照太神・正八幡もよも随へさせ給ひ候はじ、まして凡夫をや、されば度度の大事にもおくする心なく弥よ強盛に御坐すと承り候と加様のすぢに申し給うべし。

現代語訳

  それ故に心ある人々は自分達のためにこんなに苦しんでくれたのかと思うべきである。もし恩を知り、心ある人々ならば日蓮が二つ打たれ杖の一つは替わって打たれるべきなのに、そうではなく、きかえって怨をなそうとすることはまことに理解できないことである。

また在家の人々がよくわけも聞かずして、あるいは所を追い、あるいは弟子等を怨むことはまことに不心得なことである。たとえ知らなくても自分の親の敵と思い違え、ののしり、あるいは打ち殺したりしたならば、どうして罪を免れることができようか。

今の世の人々は自らの荒気のように思っている。たとえば嫉妬深い女が眼を瞋らかして遊女をにらみ、自分のうとましい形相を知らずして、かえって遊女の眼が恐ろしいというようなものである。これらはひとえに国主から御たずねがない故である。また、なぜ御たずねがないかといえば、この国の人々はあまりに科多くして、今生には他国に責められ、後生には無間地獄に堕ちることがすでに決まっているからである。

以上のような趣旨のことをいい「私はそれが経文に歴然と記されているから信ずるのである。このことはあなた方がたとえ自分のような、いうにかいない者どもを責めおどし、また所を追われたとしてもよもやただではすまないであろう。この御房の御心はいたとえ天照太神・正八幡菩薩でも、決して随わせることはできないのである。まして凡夫ができるわけがない。だからたびたびの大難にも臆する心なく、いよいよ強盛におわしますのである、と承っている」と、しかるべき筋に申されるがよい。

講義

恩師に報ずる生き方を貫く

大聖人は、幾多の大難を堪え忍びながら、敢然と、正義を叫び抜かれてきました。それは、民衆のためです。そして、仏法の本義を取り戻すための戦いです。その真実を直視できるような「心ある人々」であるならば「我々のために、難にあってくださったのだ」と思うべきであると仰せです。

さらに大聖人は、もし恩を知り、心有る人々であるなら、大聖人が受ける「二つの杖」のうち「一つ」は受けるべきだと叫ばれています。

御文に即して言うと、これは、仏教を信奉している当時の出家者たちのあるべき姿を述べられています。しかし、実際には、仏教に詳しいはずの僧たちが大聖人の闘争を理解できないどころか、反対に、大聖人及び一門を迫害している。そして悪僧にたぶらかされている在家の人々もまた、謗法の悪僧と一緒になって迫害する側にまわっている。

大聖人は「此の人人は我があらぎをば知らずして日蓮があらぎの様に思へり」(1450:15)と指摘されています。

自分のほうが歪んでしまって法華経誹謗をしているのに、そのことに気づかず、かえって、大聖人の破邪顕正の言葉を“誤っている“と非難する。まさに“毒気が深く入って本心を失っている”姿です。

これが謗法の恐ろしさです。歪んだ人の眼には、真っ直ぐな正しい人が歪んで見えてしまうのです。

大聖人は、この社会を変えるために、不惜の闘争を開始されました。

まだ、誰も目覚めていない無明の闇の中で、ただ一人、正義の闘争を始められる。しかも、必ず後に続く人が現れることを確信されての言論戦です。なんとありがたいことでしょうか。

「師と共に戦う弟子」の誕生

正しい人生を歩み、よりよく生きるためには、人として正しい生き方を示す規範、正義が必要です。幸福へと向かっていけるという希望が必要です。そのために困難にも立ち向かっていく勇気が不可欠です。

これらを身をもって示し教えてくれるのが、仏法の師匠の存在です。

師を持つことほど、大きな幸福はありません。師とともに戦えることほど気高い誉れはありません。その師への感謝こそが、正しい人生を歩み続ける源泉となるのです。

師恩に報じて、師と共に戦う。法華経は、「師匠によって救われる弟子」から、「師匠と同じ誓願に立って人々を救う弟子」への一大転換を説いていることを確認しておきたい。言い換えれば、共戦の弟子が出現してこそ、法華経の民衆救済の思想が完成するのです。

本抄で大聖人は、弟子が広宣流布の主体者として「一人立つ」ことを願われたのではないでしょうか。また、弟子が「一人立つ」信心を継承しない限り、それぞれの直面している法難に立ち向かうことはできません。

「弟子たちよ、我が如く戦え!」「一人立て、勝利せよ!」そう叫ばれているように思えてなりません。

私も、戸田先生の広宣流布への戦いを断じて実現する思いで立ち上がりました。

「若し恩を知り心有る人人は二当らん杖には一つ替わるべき事ぞかし」との御指南を、私自身、若き日よりわが身にあてて拝してきました。戸田先生の御自宅で、ご一緒に拝読したことも忘れ得ぬ歴史です。戸田先生をお護りするためなら、私が師匠に代わって、一切大難の矢面に立つ覚悟を貫いていきました。あの「大阪事件」の時も、戸田先生には指一本たりとも触れさせぬ決心で、戦いぬきました。

さて、この段の最後では、師匠・日蓮大聖人のことを、こう言い切っていきなさい、と弥三郎に教えられています。「わが師は、たびたびの大難に遭われても、いささかも臆する心なく、いよいよ意気軒高に、一段と勢いを増して戦い続けていらっしゃる」と。

いかなる時代になろうが、私たちは、師匠の烈々たる師子吼を、我が生命に燃え上がらせながら、恐れなく正義を叫んでいくのです。

本文

   構へて構へて所領を惜み妻子を顧りみ又人を憑みて・あやぶむ事無かれ但偏に思い切るべし、今年の世間を鏡とせよ若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり、此れこそ宇治川を渡せし所よ・是こそ勢多を渡せし所よ・名を揚るか名をくだすかなり、人身は受け難く法華経は信じ難しとは是なり、釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入りかはり我を助け給へと観念せさせ給うべし、地頭のもとに召さるる事あらば先は此の趣を能く能く申さるべく候、

現代語訳

  心に十分の覚悟をし、所領を惜しんだり妻子を顧みたり、また人をうのみにして、あやしんだりしてはならない。ただひとえに思い切るべきである。今年の世間の様子を鏡としなさい。多くの人が死んだのに、自分が今まで生き永らえてきたのはこの法華経にて値わんがためである。これこそ宇治川を渡すところであり、これこそ瀬田を渡す所である。この法戦に勝って名を揚げるか名をくだすかの境目である。人身は受け難く法華経は信じ難いとはこのことである。釈迦・多宝・十方の仏が来集して我が身に入りかわり、我を助けたまえと観念しなさい。もし地頭のもとに召されることがあるならば、この趣をよくよく申しのべなさい。

講義

「但偏に思い切るべし」

次いで大聖人は、弥三郎の法論相手である法師の応答に対する、具体的なアドバイスを重ねて述べられています。

それは、「相手に対して、こう言い切っていきなさい」と、極めて具体的です。そして「責め給え」「責め給え」と、まさに烈々たる折伏精神を教えてくださっています。

これを受けて、弥三郎に、広宣流布の言論闘争に、また競い起こる三障四魔との戦いに挑みゆく、日蓮門下としての「心構え」を打ちこまれています。中途半端な甘い気持ちで、広布の激戦を勝ち切ることなどできません。

「構えて構えて」とあるが如く、絶対勝利の祈りと準備と行動をもって勝負に臨むことです。そして、その根本には迷いや恐れや油断があってはならない。「思いきるべし」です。「絶対に勝つ」と決めることです。

重大なる法戦、広宣流布の言論戦に立ち会い、わが身、わが声、わが行動をもって仏法を宣揚し、師匠の正義を叫ぶことができる。これ以上の誉はありません。

「今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なり」

思えば、末法今時において、妙法に巡りあい、創価学会員として、創価の師弟として、世界広宣流布の道を共に歩めること自体が、最高の栄誉です。黄金に輝く人生です。

戸田先生は言われました。

「乱れた世の中で生活が苦しいとき、何故私たちは生まれてきたのかを考えなければならない。みな大聖人様の命を受けて広宣流布する役目を持って生まれて来たということが宿習なのである。それが解るか解らないかが問題なのだ」

長い人生の中にあって、「ここが勝負所である」「今が重大な勝負所である」という戦いに直面した場合も、この御文に通ずる体験でありましょう。私も、我が師と共に、わが同志と共に、幾度となく「此の事にあはん為なりけり」と命に刻んだ激闘が、数多くあります。同志の皆様もそうでしょう。

大聖人は、これから弥三郎が臨まんとする法論こそ、武士が名を挙げるチャンスである合戦と同じく、広宣流布の法戦において永遠に名を残す好機だと教えられています。

そこで譬えに挙げられているのが、宇治・勢多の戦いです。そこは古来、京都に攻め入る際の要衝です。そこを余人に先駆けて突破して名を挙げることに、多くの名将たちも命を懸けたのです。私にとって、この一節は「“まさか”が実現」と世間をあっと驚かせた「大阪の戦い」の渦中、我が関西の同志と深く拝した御文でもあります。

「今こそ」が、広布の突破口を開く決戦場であり、自身の宿命転換の正念場である。こう自ら決めて祈り、行動する時、必ず勝利の道は開かれます。大変な戦いの時こそ大転換のチャンスだと覚悟し、喜んで挑んでいくのが本当の勇者であり、賢者の生き方です。

戦いを決する強盛な「祈り」を

もう一点、ここで大聖人が弥三郎に教えられている、戦いにあたっての強盛な「祈り」と「決意」を確認しておきたい。

すなわち、「釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入りかはり我を助け給へと観念せさせ給うべし」との仰せです。

強き祈りで諸仏が我が身に「入りかはり」「我を助け」てくれるのです。すなわち、生命に具わる仏界が開き現れ、生命力が涌き上がり、尽きることなく智慧が発揮されるのです。いわば、わが生命に満々たる「仏界のエネルギー」を漲らせて、断じて勝負に勝っていきなさいとの仰せです。

諸仏が我が身に入り替わったならば、その所従の諸菩薩・諸天善神が従い、一生懸命に働くことは当然です。

一人の在家の門下に、大聖人は、このように強盛に祈り、戦いなさいと教えられた。

このお心に直結して戦ってきたのが、私たち創価学会の信心です。だからこそ、仏の軍勢として戦ってきたのです。

わが使命の天地で共戦の友と

1957年(昭和32)10月19日

「大阪事件」の初公判の翌日、私は京都を訪れ、一緒に戦ってくれている同志を励まし、宇治方面へ足を運びました。

その際、歴史に薫る先陣争いの古戦場である宇治川の流れを見つめながら、胸中に湧き上がる思いがありました。

私自身にとっても、創価学会の未来にとっても、広宣流布の前途にとっても、あの「宇治川の戦い」と同じく、勝負を決する戦いが始まった。

仏法の正義のために、師匠を宣揚するために、あらゆる障魔と困難を打ち破り、私は絶対勝つ! そのために今こそこの試練に巡りあったのだと、心にさだめました。

「いずこに汝があるとも、人間の権利のため、正義のため、真実のため闘うところには、汝の同胞がいる」とは、約180年前、「青年イタリア」という結社を作り、イタリア統一という新時代の建設へ戦った革命家、マッツィーニの含蓄深い言葉です。

権利や正義や真実のための戦いは、たとえそれが一個人の行動のように見えても、全ての人にとって他人事でも無関係でもありません。

ゆえに、たった一人で戦いを起こしたようであっても、必ず同胞がいる。共戦の同志がいる。自分の勝利も、ただ自分一人のものではなく、同じように悩み苦しんでいるすべての人の勝利者になる。

「仏法は勝負」です。

いついかなる時であれ、そして、日本のいずこであれ、地球上のいずこであれ、地涌の菩薩が立ち上がり、勇敢に法華弘通の言論戦を起こしたところが、偉大な広宣流布の主戦場です。

一人立ったその時、その場所が、仏法の正義を証明しゆく「宇治・勢多」の使命の宝処となるのです。

ゆえに、わが親愛なる同志よ、わが後継の青年たちよ、断固として今日を勝ち抜け!

今いる場所で勝ちまくれ!

不思議なる宿縁をもって今この時に生まれ合わせた、地涌の使命のままに、広宣流布のために奮闘してくれるわが弟子とともに、私は生涯、戦い抜いていく決心です。

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