四条金吾殿御返事(不可惜所領の事)

四条金吾殿御返事(不可惜所領の事)

 建治3年(ʼ77)7月 56歳 四条金吾

背景と解説

この御書は、日蓮大聖人が56歳の時に身延で認められ、鎌倉の四条金吾に送られたお手紙である。金吾は、執権北条氏の一門である江馬氏に仕えており、医術と武術の両方に通じていた。

1277年(建治3年)6月、四条金吾は鎌倉の桑ヶ谷で行われた法論を聴聞した。この桑ヶ谷問答において、大聖人の弟子である三位房が、良観(忍性)の秘蔵っ子であった竜象房を破ったのである。金吾に対して嫉妬を抱いていた他の江馬家の同僚たちは、江馬氏(主君)に対して「金吾が武力をもって法論の場を混乱させた」と虚偽の報告をした。その結果、主君・江馬氏は金吾の領地(所領)を没収すると脅したのである。桑ヶ谷問答の後、金吾が主君から「法華経の信仰を捨てるという起請文(誓約書)を書け」と命じる公式の手紙を受け取った際、金吾はその手紙を、決してそのような起請文は書かないという自身の誓いを記した手紙とともに、身延の大聖人のもとへ送り届けた。

日蓮大聖人は、金吾を励ますためにこのお手紙(御書)を認められた。また同時に、金吾を弁護し、彼がこれまで主君に対して尽くしてきた忠義の奉公を称える、江馬氏宛ての状(下書き)も送られた。この嘆願書は『頼基陳状(よりもとちんじょう)』と呼ばれている(頼基とは、四条金吾の本名の一部である)。それから間もなくして、主君・江馬氏は病に倒れた。最終的に主君は金吾に医術の助けを求めるほかなくなり、金吾の治療によって回復を遂げた。これによって主君は再び金吾を深く信頼するようになった。その後、四条金吾は主君から、それまで保持していたものの3倍にも及ぶ広大な所領を賜ることとなった。

このお手紙(御書)の中で大聖人は、「たとえいかなる惨めな乞食の身になったとしても、決して法華経を辱めてはならない」と仰せになり、信心の根本的な姿勢を定義されている。すなわち、どのような社会的立場に置かれようとも、いかなる逆境に直面しようとも、法華経の持経者としての気高き精神を妥協させることなく、信心を貫き通すことこそが肝要である、との教えである。

タイトルとURLをコピーしました