日女御前御返事(御本尊相貌抄)

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日女御前御返事(御本尊相貌抄)

 建治3年(ʼ77)8月23日 56歳 日女

2011:12月号大白蓮華より。先生の講義

「只 信心の二字」に御本尊の大功力

「創価学会には信心がある!」

それは、わが師・戸田先生の烈々たる獅子吼でした。聞く者すべてが電撃に打たれ、目の覚めるような大宣言でありました。

昭和32年(1957)の晩秋、戸田先生が出席された本部総会での指導です。

当時、多くの青年が生き生きと躍動し、破竹の大前進を続ける学会に対して、既成勢力から非難中傷がありました。また、学会の発展の理由につても、憶測の論評や批判がマスコミを賑わせていました。

先生は、それらの浅薄な見方を一笑に付しながら、断言されたのです。

「学会には信心がある!御本尊様がある!この御本尊様の功徳から、みな出たものではないのか」

「ただ信心中心!信心でやるんです。それさえ腹に入れたら、誰が何と書こうと、何を言おうと、驚くこと絶対にないだろう!」

信仰が一切の勝利の源泉に

学会の大発展の理由。それを、社会的・時代的・客観的な諸条件から説明することもできるでしょう。そんなことは、当然、戸田先生もご存じでした。しかし外的な条件さえ整えば、それで発展したのでしょうか。

決して、そうではありません。広宣流布に敢然と一人立たれた戸田先生の死身弘法の信心なくして、そして、創価三代を貫く師弟不二の信心なくして、今日の学会はありません。まさに創価学会は「信心の二字」を根本としてきたからこそ、隆々と大発展してきたのです。

「信心」こそ、一切の勝利の源です。

信心は、私たちの自行化他の実践の根幹です。また、人間革命、宿命転換の源泉であり、魔を破る利剣であり、立正安国・広宣流布の推進力です。これは、いかなる時代になっても変わりません。いな、変わってはならない。絶対に失ってはならない創価学会の根本精神です。ゆえに、新たな「青年学会」の拡大も、強盛にして清新なる信心から始まります。

今回は「日女御前御返事」を拝して、この「御本尊根本の信心」の真髄を共々に学んでいきましょう。

本文

  抑此の御本尊は在世五十年の中には八年・八年の間にも涌出品より属累品まで八品に顕れ給うなり、さて滅後には正法・像法・末法の中には正像二千年には・いまだ本門の本尊と申す名だにもなし、何に況や顕れ給はんをや又顕すべき人なし、

現代語訳

そもそも、この御本尊は、釈尊在世五十年の説法のうち、最後の八年、その八年にわたって説かれた法華経二十八品のうちでも涌出品第十五から属累品第二十三に至る八品の間に顕れたのである。

さて釈迦滅後においては、正法・像法・末法の三時の中でも、正像二千年間には、いまだ本門の本尊という名前さえなかった。まして、その御本尊が顕われるはずもなく、また顕わすことのできる人もなかった。

本文

  爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎたる本尊なり、

現代語訳

ここに、日蓮はどう不思議であろうか。正法時代の竜樹・天親等・像法時代の天台・妙楽等でさえ、顕わすことのなかった大曼荼羅を、末法にはいって二百余年を経たこの時に、初めて法華弘通の旗印として顕わしたのである。この大曼荼羅は、全く日蓮が勝手に作り出したものではない。法華経に出現した多宝塔中の釈迦牟尼仏、ならびに十方分身の諸仏の姿を、あたかも板木で摺りあらわした御本尊なのである。

講義

末法の全民衆を救う御本尊

人類を救うための大御本尊です。

末法万年、未来永遠にわたって、一切衆生を必ず幸福にするための御本尊です。

すべての人を自分と等しい仏にしていく。それが釈尊の誓いであり、三世諸仏の願いにほかなりません。その仏意を実現するための御本尊を初めて大曼荼羅として顕されたのが日蓮大聖人です。

この「未曽有の大曼荼羅」を供養した女人の功徳はいかに、はかりしれないか。この御本尊の無量の功徳を通して、弟子を激励されているお手紙が「日女御前御返事」です。

本抄は、建治3年(1277)8月、女性門下の日女御前が御本尊に御供養の品々をお届したことに対する御返事です。日女御前については明確なことは伝わっていませんが、信心と教養の深い女性であったことがうかがえます。

本抄では、大聖人が日女御前に授与された御本尊の甚深の意義と功徳を、意を尽くしてわかりやすく教え、御本尊への強盛な信心を促されています。

まず大聖人は日女御前が供養した御本尊は、釈尊の50年の説法の中では8年間説かれた法華経、その法華経の中でも本門の涌出品第15から嘱累品第22までの「八品」に顕れていると仰せです。

ここで、「八品」とあることに深い意義があります。いうまでもなくその要は地涌の菩薩の存在です。他の諸教典はもとより、法華経のなかでもこの八品にしか、地涌の菩薩は出現していないからです。

すなわち、法華経の主題は、釈尊滅後の広宣流布の主体者を明確にすることにあります。具体的には、釈尊から地涌の菩薩、なかんずく上行菩薩への付嘱です。

涌出品第15で地涌の菩薩が呼び出され、寿量品第16で釈尊の久遠以来の本地が明かされます。

そして、神力品第21で地涌の菩薩へ付嘱が行われ、嘱累品第22で虚空会の儀式が終了し、地涌の菩薩は再び姿を消します。

また、この虚空会の儀式として顕された「本門の本尊」は、釈尊の滅後は、正法・像法二千年間は顕れず、また顕すことができる人もいなかったと教えられます。そして、まさに日蓮大聖人が、この御本尊を末法二百年の時に、「法華弘通のはたじるし」として顕されたことが示されています。

日蓮大聖人の仏法は、妙法によって、一切の生きとし生けるものが調和して永遠に繁栄する世界を、末法の世に現出しゆくための教えです。その実現のための哲学と信念と実践の依拠となるのが、この御本尊にほかならないのです。

戸田先生は、妙法に生きる人々の織りなす生命本来の久遠元初の世界について、「晴れ晴れとした世界で、自由自在に何不自由なく、清く、楽しく遊んでおり、そのときの人々も、みなうるわしき同心の人々であった」と示してくださったことがあります。そして“我々は、法華経の会座に湧出し、この晴れやかな世界を娑婆世界に築くことを誓い、末法に出現した地涌の菩薩である”とも教えてくださいました。

私たちは、日蓮大聖人が顕された御本尊を奉じて、この苦悩と争いの絶えない娑婆世界にあって、万人の幸福を実現し、平和の楽土を築くために、立正安国論と広宣流布の旗を掲げて勇んで出現した地涌の菩薩です。その先駆けとして不惜身命の大闘争をなされた日蓮大聖人が顕された御本尊は、この私たちの崇高な使命を呼び覚ます「広宣流布のための御本尊」なのです。

大聖人はこの御本尊こそが、万人の成仏を実現する「未曾有の大曼荼羅」であることを日女御前に教えられているのです。このような御本尊の深義を示すことで、唯一無二の信心を促していくのが本抄前半の趣旨であると拝することができます。

「法華弘通のはたじるし」

あらためてここで注目したいのは、大聖人が「法華弘通のはたじるし」として御本尊を顕されたとの仰せです。あくまでも日蓮大聖人は「法華弘通」すなわち、広宣流布のために御本尊を顕されたのです。大聖人が不惜身命で御本尊を御図顕してくださったのは、末法万年の民衆の成仏のためです。一人でも多くの人が拝してその功徳に浴し、また、一人でも多くの人に弘通していくための御本尊です。まさに広宣流布のための旗印です。

私たちの実践では、一人また一人へと、人間革命の旗、宿命転換の旗を手渡していくことです。あの地、この地に妙法流布の法旗を打ちたててこそ広宣流布です。その晴れやかな誇り高き「旗印」となる御本尊なのです。

戸田先生が第2代会長として立たれた時、「今は本尊流布の時代である」と、大折伏を開始されました。今がいかなる「時」であるかを見極められた決断でした。この覚悟の「信心」ありて、今日の世界広宣流布の道が開かれたことは間違いありません。深い仏勅の使命をかみしめずにはいられません。

十界のあらゆる衆生を照らす

さらに大聖人は、この御本尊は「是全く日蓮が自作にはあらず」大聖人が自分勝手に作ったものではないと御断言です。多宝如来の宝搭の中の釈尊ならびに一切の分身の諸仏が、そろって己身の成仏の法である妙法蓮華経の五字を顕した御本尊であると仰せです。すなわち、法華経の虚空会で示された諸法実相・十界互具・一念三千の意義がそのまま顕された本尊であるということです。

御本尊の相貌を拝すれば、中央には「首題の五字」すなわち南無妙法蓮華経が認められ、そして十界のあらゆる衆生が列座しています。これはまさに、「諸の大衆を接して皆虚空に在り」との経文の如く、仏菩薩をはじめ十界すべての衆生が「一人ももれず」、御本尊の中に納まっている姿です。日蓮大聖人の顕された御本尊は、十界の衆生のすべてが妙法の光明に照らされて「本有の尊形」となる十界具足の御本尊なのです。

すなわち、わが生命に具わる十界のすべての働きが、仏界の智慧と慈悲の光に包まれて、極善の力を発揮し価値創造していくのです。

それはまた、個性豊かな一人一人が妙法の当体として輝きを放ち、誰もが、生命本来の有りのままの尊い姿を現せるようになるということです。戸田先生がよく言われた「楽しく清く、晴ればれとしたみな仲のよい友ばかりの世界」を築くための御本尊です。

したがって、いかなる境遇であれ、宿命転換の途上であれ、すべての人が「本有の尊形」として輝いていけるのです。

例えば、地獄も仏界所具の地獄となります。同じく苦悩といっても、闇から闇へ落ち込んでいくような苦悩は断じてない。

困難な現実に真っ向うから立ち向かう勇気が出て、自身の環境の頑固な壁をも乗り越える智慧が発揮され、新たな飛翔をする強靭な生命力がふつふつと湧き上がる。苦悩は、自身の変革と発展のための試練であり、飛躍のためのものとなるのです。

妙法の光明に照らされれば、地獄の中でも尊極な妙法の生命が発動する、地獄の苦悩の意味が百八十度転換する。

牧口先生は、獄中にあって「信仰を一心にするのが、この頃の仕事です。これさえしていれば、何の不安もない」「心一つで地獄にも楽しみがあります」と悠然と綴られていました。戸田先生も、御本尊を根本にすれば、どこに行っても楽しくて仕方がない境涯が得られるのだと教えてくださいました。

ともあれ、いかなる生命も本有の十界互具・一念三千の当体です。本来、削るべき無駄も、付け加えるべき不足もない。喜怒哀楽のない人生はありませんし、生老病死という生命本然の苦悩も、どんなに忌み嫌ったところで避けるわけにはいかない。

十界互具が生命の本来の姿であり、十界のいずれも皆、妙法の生命の現れです。その根源的な生命を引き出す確立をするための御本尊であり、引き出すための信心です。

まさに御本尊の相貌は、法華経の諸法実相の法理に基づくものであり、凡夫がそのままの姿にして、仏の偉大な生命を開き顕せることを教えられています。

このような御本尊は、それまでの仏教には見られませんでした。荘厳な仏や菩薩が刻まれたり描かれることはあっても、凡夫成仏を実現する十界互具の曼荼羅はありません。万人を「本有の尊形」と照らし出す御本尊、すなわち「全民衆のための御本尊」を、日蓮大聖人が認めて顕されたのです。まさに、「人間のための宗教」の世界を示された「未曽有の大曼荼羅」にほかなりません。

謗法・悪知識から離れよ

続いて大聖人は、この日女御前がこの未曽有の偉大な御本尊を供養されたのだから、その功徳は、現当二世にわたって甚大であると教えられています。すなわち、今世にあっては幸福を約束し、死後も必ず守護することが示されています。“この未曽有の偉大な御本尊は、あなたのためにあるのですよ”との御本仏の大慈悲に包まれて、悪世末法に生きる不安や心配が払拭され、日女御前がどれはど安堵したか、はかりしれません。

この大功徳に浴するために大事なことは、この御本尊をどこまでも求め拝する「信心」です。それゆえ、大聖人は「悪知識を捨てて善友に親近せよとは是なり」(1244:日女御前御返事:07)と、信心の「心」を破壊する謗法・悪知識を断じて捨てるよう戒められています。

本文

  此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。

現代語訳

この御本尊は、全く他所に求めてはならない。ただ、我等衆生が法華経を信受し、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団にいらっしゃるのである。これを「九識心王真如の都」というのである。十界具足とは、十界の各界が一界も欠けず、そのまま一界に納まっているということである。これによって、御本尊を曼陀羅というのである。曼陀羅というはインドの言葉であり、訳すれば輪円具足とも、功徳聚ともいうのである。

この御本尊も、ただ信心の二字に収まっているのである。「信を以って入ることを得たり」とあるのは、このことである。

講義

“御本尊はあなたの胸中に”             

大聖人から賜った御本尊が、末法で初めて顕された未曽有の御本尊だと知り、日女御前はどれほど感激したことでしょう。

ところが、大聖人は、さらに驚くべき真実を明かされていきます。

すなわち、「この御本尊を決して別の所に求めてはならない。ただ、私たち衆生が法華経を持って南無妙法蓮華経と唱える、その胸中の肉団にいらっしゃるのである」と。

大聖人は、御本尊は外にあるのではなく、題目を唱える自身の胸中にあると言われるのです。外から内へ。「胸中の肉団」へ。なんと劇的な転換でありましょうか!

当時も、いな現在においても、次のような考え方が根強くあります。“現実の人間は、つまらない卑小な存在だ。これに対し、究極の実在、永遠の価値は自分の外にある。どこか遠くにある”と。こうした思考と、外なる世界に存在する超越的な力にすがる信仰とは、いわば地続きのものです。

日蓮仏法は、この固定概念を打ち破ります。今ここで生きている凡夫の身に即して、永遠にして究極の法が顕れるという生命の真実を見るのです。

そもそも「ブッダ」とは「目覚めた人」という意味でした。何に目覚めたのでしょうか。自身が本当の依りどころとすべきもの、すなわち法と、真実の自己です。

無明に覆われて気づかなかった、森羅万象のあらゆる存在に普遍の法と、そして、その法とともにある自己自身の偉大さに目覚めたのです。

“御本尊は胸中の肉団にいらっしゃる”この仰せの元意を拝するならば、大聖人が認められた御本尊は、実は、自分自身の胸中の御本尊に目覚め、胸中の御本尊を呼び顕すための御本尊であるということです。

自分の外にある御本尊を拝んでいる時、全く同じ御本尊が自分の胸中にあるのです。自行化他の題目を唱えるわが生命に厳然と顕われてくるのです。

翌年に送られた日女御前御返事では、宝搭品の所在について「日女御前の御胸の間・八葉の心蓮華の内におはしますと日蓮は見まいらせて候」(1249:16)とも言われています。日女御前は、御本尊が「胸中の肉団」にあるとの本抄の仰せを思い起こしたことでしょう。「胸中の肉団」とは、「御胸の間・八葉の心蓮華」です。

この御本尊がある「胸中の肉団」とは、別の言い方をすれば「九識心王真如の都」です。九識は阿摩羅識・根本清浄識などともいわれ、これを「心王」と立てます。「真如」とは虚妄を離れたありのままの真実であり、心の「王」の住所であるゆえに「胸中の肉団」、私たちのこの生身の肉体が「都」と言われています。

法華経の行者であられる大聖人が成就された仏の生命。真如と一体の大聖人御自身の生命、すなわち「にちれんがたましひ」そのものを顕されたのが御本尊なのです。

また御本尊は「曼荼羅」の形式です。曼荼羅とは、サンスクリットの「マンダラ」の音写です「輪円具足」とも「功徳聚」とも釈されます。

「功徳聚」すなわち無量の功徳の集まりなのです。それを自由自在に引き出し、味わっていけるのです。

戸田先生は「日蓮大聖人の御生命が南無妙法蓮華経でありますから、弟子たるわれわれの生命も同じく南無妙法蓮華経でありましょう」と語り、こう断言されていました。

「われわれが信心すれば、日蓮大聖人様の所有の根本の力が、我々の生命に感応して湧いてくるのです。われわれもやはり、ありのままの永遠真如の自分にかわるのです」と。

「以信得入」によって無量の功力を

そして大聖人は「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり」と仰せです。

成仏の根本の軌道こそ「信心の二字」です。智慧第一の舎利弗でさえ、「信」によって法華経の極理に入ったのです。それが「以信得入」です。

末法の凡夫は、仏の大境涯を直ちに顕された御本尊を拝する時、より深く、より強き信によって、元初の晴れ晴れとした御本尊の世界に入ることができるのです。

大聖人は「観心の本尊」と仰せです。観心すなわち己心の仏界を観じ、覚知するための御本尊です。しかし、その観心とは、いわゆる観念観法の修業ではありません。どこまでも「信心」が根本となります。ゆえに、「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」と仰せなのであり、「観心の本尊」とは「信心の本尊」なのです。

強盛な信心があるところ、その生命に御本尊は湧現されます。反対に、信心がなければ、どんなに御本尊を持っていても功徳はない。信心によって「功徳聚」たる御本尊が胸中に顕れるのです。したがって、わが信心が壊れない限り、功徳聚もなくなることがないのです。もし、万が一、事故や災害等で御本尊を失っても、信心さえあれば、胸中の御本尊は常住です。また、いくらでも功力を現し起こしていくことができるのです。

御本尊の功徳力は、私たちが信心を起こした時にはじめて現れます。まさに、御本尊は、私たちの「信心の二字」に納まっているのです。

次の段では、重ねてこの「信」の大切さを強調されています。

本文

  日蓮が弟子檀那等・正直捨方便・不受余経一偈と無二に信ずる故によつて・此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり・たのもし・たのもし、如何にも後生をたしなみ給ふべし・たしなみ給ふべし、穴賢・南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす、 

現代語訳

日蓮が弟子檀那等は「正直に方便を捨てて」の文や「余経の一偈をも受持してはならない」の文の通り、法華経のみを唯一無二に信ずることによって、この御本尊の宝塔の中へ入ることができるのである。まことに頼もしいことである。

なんとしても、未来の福運のために、仏道に心を打ち込んでいきなさい。「南無妙法蓮華経」とだけ唱えて、成仏していくことが最も大切である。ひとえに信心の厚薄によるのである。仏法の根本は信をもって源とするのである。

本文

  所詮・天台妙楽の釈分明に信を以て本とせり、彼の漢王も疑はずして大臣のことばを信ぜしかば立波こほり行くぞかし、石に矢のたつ是れ又父のかたきと思いし至信の故なり、何に況や仏法においてをや、

現代語訳

所詮、天台・妙楽の釈では明らかに信を根本としているのである。彼の漢王も、大臣の言葉を疑わずに信じた故に、それまで波の立っていた水面がたちまちに凍っていったのである。石に矢がたったのも、父の敵と信じた一念の強さの故である。まして、仏法においては、なおさらのことである。

講義

「唯一無二」の姿勢が根本

「日蓮が弟子檀那等」と、日女御前も含めた一切の弟子門下に仰せです。

あなたがたは皆「正直に方便を捨てて」「余経の一偈をも受けず」との経文の通りに、唯一無二の信心を貫いているので、この御本尊の宝搭に入ることは間違いないのです。

御本尊は、妙法の光に照らされた元初の世界を顕した唯一無二の法そのものであり、御本尊への信こそが、わが生命を九識心王真如の都と荘厳するための唯一の道なのです。

ゆえに「唯一無二」の姿勢で御本尊を拝する「信心」でなければなりません。

その唯一無二の信心があれば、今生においては、その信の中に御本尊がそなわり、わが生命に御本尊がそなわり、わが生命に御本尊の妙用が顕現するのです。そして後世においては「御本尊の宝搭の中に入る」と仰せのように、大宇宙の仏界である虚空会の宝搭の中に入ることができ「後生をたしなみ給うべし」と仰せのように、死後も仏界を大いに楽しむことができるのです。まさに現当二世の大いなる功徳を示された御文と拝せられます。

無二の信心によって「生も歓喜、死も歓喜」の生死不二の絶対的幸福境涯を成就できる。ゆえに「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり」と仰せです。仏道修行の根本目的は、御本尊に南無妙法蓮華経の題目を唱え、凡夫の身がそのままに「仏になる」ことです。そして、重ねて即身成仏の要諦を「信心の厚薄によるべきである」と、御本尊は示されています。

他の御書でも「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず」(1262:日厳尼御前御返事:02)あなたの願いが叶うか叶わないかは、あなたの信心によるのです。全く日蓮のせいではありません。と仰せです。

どこまでも、私たちの自身の強い信力・行力に御本尊の仏力・法力が相応して、功徳が厳然と現れるのです。根本は信心であり、その燃え上がる信心をエンジンとしての行動・実践です。

日寛上人は、こう述べられています。

「暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるはまきなり」

草創以来、多くの同志が、この一節を思い起こしては、御本尊への信心を奮い立たせてきました。わが胸中の御本尊を呼び覚まし、いかなる苦難にも絶対に負けない生命の底力を引き出してきました。“祈りとして叶わざるなしの御本尊”です。まさに、学会には信心があったから勝利したのです。

大宇宙のリズムと合致する信の力

同じく「正直捨方便」「不受余経一偈」の経文を引かれた別のお手紙では、信心の姿勢を教える譬喩の一つとして、「子の母にはなれざるが如くに」(1255:妙一尼御前御返事:02)と仰せです。確かに、赤ん坊は自分をまったくお母さんに委ねています。母の愛を信じ切って、毛筋ほども疑いません。「初めに信ありき」なのです。子どもの言葉の習得も、家族の使う言葉がそのまま信じて受け入れられ、たどたどしく真似することから始まります。人は生まれ出たこの世界を「信受」することから、人生をスタートさせるのです。

私が対論したアメリカの思想家カズンズ氏も、この「信」の力を重視されていました。それは幾度も難病を乗り越えた自身の体験をはじめ、数多くの実例に裏付けられた信念。病気を治す力が生命自体にあるという確信でした。カズンズ氏は言います。「人間の脳の百五十億個の神経細胞が、考えや希望や心構えを化学物質に変える力ほど驚異的なものではない。そこですべては信念から始まるといっていい。我々の信ずるものが、何よりも強力な選択なのである」と。

「戦いに勝つのは、勝つと確信している者だ」「幸福になるためには、幸福の可能性を信じなければならない」

「信」とは、人間が生きるために不可欠な土台であり、その強弱が人生を左右します。本抄では中国の故事が挙げられています。

一つは、中国・後漢の光武帝が一武将だったころ、信頼する家臣は「河は凍っており、渡れます」との報告を信じて前進したところ、実際には凍っていなかった河が彼が信じた通りに凍結して渡河ができた。もう一つは親を殺した虎を追っていた前漢の将軍・李広が、草原の中に垣間見えた石に、これこそ親の仇と虎を信じて矢を放つと、石に矢が立ったという逸話です。

大聖人は御断言されています。「何に況や仏法においてをや」と。

御本尊に対する深く、まっすぐな至信は、激流の如き生死の河を凍らせ、岩盤の如き無明の大石をも貫くことができるのです。

牧口先生は、私たちが御本尊を信ずることによって、いかなる人も即身成仏することができると言われました。また、次のようにも語っていました。

「広大な力強い宇宙生命の根源のリズムに、自分自身の生命活動の呼吸を合わせ合致させるとき、たとえ一個の小さな人間生命であっても、そこにかぎりない生命力の律動、すなわち深く大きい智慧を湧現することができる。これを境智冥合というのである。しかも、ただ漠然と宇宙の法を考えただけでは何にもならない。そこで、日蓮大聖人は万人ができる実践方法を確立された。すなわち根源の生命である万法の体を、南無妙法蓮華経の御本尊に縮図して顕されたのである。したがって、私達は、御本尊を対境として信心すれば、そのまま大宇宙の生命と呼吸を合わせることになる」

私たちは、御本尊への「信」を確立することによって、宇宙と生命の本源を覚知された仏の境智に連なることができる。信ずることによって、広大なる仏の智慧の世界に入ることができるのです。

仏道修行とは、仏の覚った道を辿ることです。また覚った仏が歩んだ道を歩むことであり、さらには仏が思い描いたであろう道を開いていくことです。「信」をもって歩めば、誰でも仏になれる。仏としての振る舞いで人々を支え守り導いていける。この仏道を成就するための御本尊です。なんと、ありがたいではありませんか。

この「御本尊根本」の信心を教えてくださったのが、牧口先生、戸田先生です。

「御本尊根本」の信心と実践は、創価学会の出現によって厳然と確立されました。ですから、創価学会は御本尊の無量の功徳力を引き出すことができたのです。大聖人の仰せの通りの御本尊根本の信心は、創価学会にしかありません。だから、世界広布が現実のものとなったのです。

私たちは、どこまでも「御本尊根本」の信心で、また「大聖人直結」「唱題根本」「御書根本」の実践で前進してまいりましょう。

共々に青年学会の構築を

1950年(昭和25)11月、戸田先生が理事長を辞任され、創価学会がまさしく存亡の危機にあった秋霜のなかで、私は猛然と「信心」でたちあがりました。

直弟子として、一人の青年として、御本尊の偉大な力を信じて、戦いを起こしました。

「勇気ある信心を、深く自覚する。詮ずるところは、信力と行力に尽きる。御本尊様には、仏力と法力があらあれるのだ。この御本尊様の、偉大なる大法則の力を、実証し、実践し、体得するには、自身の信心よりほかに何もないのだ」

人知れず、こう日記に書いたのは11月17日、創価学会創立20周年の前日でした。当時、私は22歳でした。

以来60余年、私は、この「御本尊根本の信心」の力を満天下に実証し抜いていきました。

青年の力で勝ちました。

師弟の力で勝ちました。

信心の力で勝ちました。

戸田先生は常に叫ばれていました。

「常に信心!信心ほど強く偉大なる力なし」

さあ、烈々と燃え上がる信心で新たな前進です。みずみずしい青年の生命力で、自身の境涯の拡大を!勝利の拡大を!幸福の拡大を!正義の拡大を!

人間主義の新世紀へ、創価学会の更なる構築へ、今再び、私と共に誇り高き「広宣流布の旗」を掲げて。

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