頼基陳状
建治3年(ʼ77)6月25日 56歳
背景と解説
本陳状(頼基陳状)は、主君である江馬光時(近時)から公式な糾問状(譴責状)を突きつけられた、純真な門下である四条中務三郎左衛門尉頼基(四条金吾)に代わって、建治3年(1277年)6月に日蓮大聖人が認められたものです。江馬氏に宛てられたこの陳状は、四条金吾が根も葉もない讒言(中傷)によって不当に貶められていることを主張しています。
建治3年(1277年)6月9日、鎌倉の桑ヶ谷(くわがやつ)において法論(宗教討論)が行われました。この法論において、日蓮大聖人の弟子である三位房(当時は一般に三位公とも呼ばれていました)が、比叡山延暦寺を追放されて鎌倉へ下り、極楽寺良観の庇護を受けていた天台宗の僧・竜象房(りゅうぞうぼう)を木っ端微塵に論破しました。聴衆は大いに歓喜し、三位房にこの地に留まって説法をしてほしいと懇願するほどでした。
四条金吾はこの法論に、単なる一聴衆として居合わせたにすぎませんでした。しかし、金吾の敵たちは主君・江馬氏に対し、金吾が法論の場に乱入して力ずくで妨害し、竜象房、ならびに江馬氏が崇拝していた良観(竜象房の師)を侮辱したと報告したのです。それから約2週間後、金吾は主君から、これらの罪状で告発する公式な書状を突如として突きつけられました。その書状にはさらに、金吾の振る舞いは仏法・世間の礼儀の双方に背く主君への不忠であると非難されており、法華経への信仰を捨てる旨の起請文(誓約書)を書くよう命じられていました。もしこれを拒むならば、領地(所領)を没収し、追放に処すと江馬氏は脅してきたのです。
四条金吾はただちに事の顛末を報告する書状(御報)を認め、江馬氏からの糾問状を添えて、身延の日蓮大聖人のもとへと送りました。その報告の中で金吾は、たとえ所領が没収されようとも、信仰を捨てる起請文など断じて書かないという、不退転の固い決意を言い表していました。
金吾の使者は25日の午後に鎌倉を発ち、27日の夜に身延に到着しました。日蓮大聖人は、最愛の弟子が命を賭してまでも信仰を貫き、妙法を弘通せんとする覚悟であることを知って大いに喜ばれました。同時に、大聖人はこの事件の背後に良観と竜象房の陰謀(画策)があることを見抜かれました。そこで、金吾を激励するとともに、彼を弁護するために江馬氏に宛てたこの陳状をしたためられたのです(ただし、この陳状は実際には提出されなかったと伝えられています)。
この陳状の中で大聖人は、法論の席における金吾の振る舞いに対する江馬氏の誤解を解こうとされ、同時に良観と竜象房の真の企みを暴き、江馬氏に彼らの教えの誤りを理解させようとされました。また、仏法と世間の双方の観点から、家臣から主君への「真の忠義」とはいかなるものであるかを明快に示されています。
はじめに
頼基陳状について
頼基陳状を講義するにあたり、まず最初に本抄御述作の背景と大意を述べることにする。
本抄御述作の背景
頼基陳状は、四条金吾の主君江馬氏からの下し文に対して、頼基に代わって日蓮大聖人御自身が筆をとられ、その冤罪を訴えられた書状である。
建治3年(1277)6月9日、鎌倉桑ヶ谷で問答が行なわれた。この時、日蓮大聖人門下の三位房日行が鋭い舌鋒をもって、当時名声をほしいままにしていた竜象房を完膚なきまでに破折したのである。居合わせた聴衆は、大いに歓喜し、三位房の説法を請うたほどであった。この時、頼基は聴衆の一人として参加していたにすぎなかった。だが、それから約半月後の6月25日、突然、下し文が主君から頼基のところに届けられた。
下し文は、要約すると次のようである。
(1) 頼基が桑ヶ谷問答の場で理不尽な行ないをした。
(2) 頼基は主君が尊信している極楽寺良観、竜象房に批判を加えている。
(3) 主君の考えに従うことが仏神の精神にも世間の礼儀にも手本であるのに、頼基は従わない。
なお、陳状の末尾の文、並びに陳状を提出する際の細心の注意を認めた「四条金吾殿御返事」から、頼基に、法華信仰を止める旨の起請文を書くことを迫り、さもなければ所領を没収し、家臣を追放するとの内容が下し文に書かれていたことがわかる。
頼基は、直ちに事件の発端である桑ヶ谷問答の顚末と、主君からの下し文とを添え、たとえ所領を没収されたとしても起請文は絶対に書かないことを、身延にいる大聖人のもとに急使を立て書状を送ったのである。
急使は、25日の午後鎌倉を立ち、27日の午後6時頃には身延に到着した。日蓮大聖人は、頼基の堅牢な信心、死身弘法の覚悟を心から喜ばれた。また、事件の背後に、極楽寺良観と竜象房の暗躍があることを見抜かれている。そして、主君の下し文に対して、順次、頼基が応える形式で筆を起こされた御消息がこの「頼基陳状」である。
この陳状は、あくまでも事実と道理に基づいたものであった。事実とは、桑ヶ谷問答の顚末であり、極楽寺良観と竜象房の真実の姿であった。前者は、問答の場における頼基の行動を明確にし、主君の疑惑を晴らすためであった。後者は、主君の帰依する宗教者の正体を通して、誤れる宗教への迷蒙を啓くことを目指したものであった。道理とは、世間と仏法の道理の上から、主君に仕える者の立ち場を明らかにし、頼基の立ち場を釈明されたものである。特に、主従の関係を単に現世だけで捉えるのではなく、現当二世の仏法の立ち場から述べられている。
本抄の大意
はじめに、桑ヶ谷問答の場で頼基が武装の徒を率いて狼藉を働いたとの下し文に対して、これは事実と全く異なり、問答はどこまでも三位房と竜象房との法論であって、在家の頼基は聴衆の一人として参加していたにすぎない。従って、法論に口出ししなかったのはもとより、武装の徒を率いて法座に乱入したことなどは、全く身に覚えのない捏造であると真っ向から否定し、讒人達を召し合わせ真相の糾明を請うている。なお、その傍証に、桑ヶ谷問答の発端、問答応酬の経緯が詳述されている。
次に、主君が尊信している極楽寺良観と竜象房に対して頼基は批判を加えているとの下し文に対して、良観と竜象房の虚像を排し、その実像を示し、主君の帰依に反省を促している。
具体的にいえば、良観は表面的にどんなに上人顔を装い、「生き草でさえ伐るべからず」と高言しているが、日蓮大聖人を断罪するよう取り計らった張本人である。さらに、文永8年(1271)の祈雨の勝負の実態を通し、良観の誑惑ぶりを教えられている。
竜象房も僧とは名ばかりの破戒の僧であり、人肉を食い鎌倉の心ある人びとから怖れられていることを教え、主君を諫められている。
更に、主君の所存に従うことが仏神の精神にも、世間の礼にも手本であるとの主従関係のあり方を述べた下し文に対して、真実の主従関係について、微に入り細を穿った種々の観点からの回答がなされている。
すなわち、儒教・仏教の文を引き、真実の主臣・親子の道を説き、頼基の立ち場を客観的に正当化されているのである。
次いで阿闍世王に仕えた耆婆大臣の先例を挙げ、主君を阿闍世王に、頼基を耆婆になぞらえ、頼基が必ず主君を救っていくとの決意を披瀝されている。しかも主君の謗法の罪の深さを知ったために、主君を諫めないでいれば、与同罪になってしまうと、その苦衷が語られている。
また、四条家が父子二代にわたり主君に命を捧げてきた事実を挙げ、頼基は、主君を決して疎遠に思ったりしていないと、変わらぬ忠誠心を示している。その上、主臣同時の成仏を願い、諸僧の説法を聞き、その結論として日蓮大聖人の法華経を信ずるに至ったと、入信の経緯を述べられている。
然して、日蓮大聖人の法華経が他の諸経に比べてどんなに勝れた経であり、邪法がいかに人びとを不幸に導くものであるかを示唆されている。そして、この法華経により主君を救いたいと頼基が今日まで念願してきたのであると釈明されている。
最後に、良観所依の小乗・律宗を大小相対の上から破折された後に、起請文の提出を拒否されている。つまり、頼基が起請文を提出するなら、主君に名越の公達の二の舞を踏ませてしまうと、厳しい生命の因果律の上から警告され、提出拒否の理由とされている。そして、重ねて讒人達を召し合わせてほしいことを要請し、本抄を結ばれている。
第一章(桑ヶ谷問答の発端を述べる)
本文
去ぬる六月二十三日の御下文・島田の左衛門入道殿・山城の民部入道殿・両人の御承りとして同二十五日謹んで拝見仕り候い畢んぬ、右仰せ下しの状に云く竜象御房の御説法の所に参られ候いける次第をほかた穏便ならざる由、見聞の人遍く一方ならず同口に申し合い候事驚き入つて候、徒党の仁其の数兵杖を帯して出入すと云云。
此の条跡形も無き虚言なり、所詮誰人の申し入れ候けるやらん御哀憐を蒙りて召し合せられ実否を糾明され候はば然るべき事にて候、凡そ此の事の根源は去る六月九日日蓮聖人の御弟子・三位公・頼基が宿所に来り申して云く近日竜象房と申す僧・京都より下りて大仏の門の西・桑が谷に止住して日夜に説法仕るが・申して云く現当の為仏法に御不審存ぜむ人は来りて問答申す可き旨説法せしむる間、鎌倉中の上下釈尊の如く貴び奉るしかれども問答に及ぶ人なしと風聞し候、彼へ行き向いて問答を遂げ一切衆生の後生の不審をはらし候はむと思い候、聞き給はぬかと申されしかども折節官仕に隙無く候いし程に思い立たず候いしかども、法門の事と承りてたびたび罷り向いて候えども頼基は俗家の分にて候い一言も出さず候し上は悪口に及ばざる事・厳察足る可く候。
現代語訳
去ぬる六月二十三日の御下文・島田の左衛門入道殿・山城の民部入道殿・両人の御承りとして同二十五日謹んで拝見仕り候い畢んぬ、 右仰せ下しの状に云く 竜象御房の御説法の所に参られ候いける次第をほかた穏便ならざる由、見聞の人遍く一方ならず同口に申し合い候事驚き入つて候、徒党の仁其の数兵杖を帯して出入すと云云。
去る六月二十三日の御下し文は、島田の左衛門入道殿、山城の民部入道殿、両人のお取り次ぎで、同月二十五日、謹んで拝見しました。
右の仰せ下しの状によると「竜象御房の御説法の場に行かれたときの成り行きは、およそ穏やかでなかったと、見聞していた人々が、みな一同に口を合わせて言っているのを聞いて驚いている。それによると、徒党の者が数人、武装して入り込んできた……」との仰せでした。
このことは、なんの証拠もない虚言です。所詮、誰かがお耳に入れたことでしょうか。哀憐をいただき、その者と召し合わせられ、ことの実否を糾明されるならば最も妥当なことかと思われます。
およそ、この事の根源は、去る六月九日、日蓮聖人の御弟子・三位公が、頼基の宿所に来て言うには「このごろ、竜象房という僧が、京都から、下って来て、大仏殿の門の西側の桑ヶ谷に居住して、日夜に説法している。その竜象房が言うには『現世と来世のために仏法について不審のある人は来て問答されるがよい』と説法している。そのために、鎌倉中の上下万民は、釈尊のように尊んでいる。しかしながら、誰ひとりとして問答をする人はいないと噂にきいている。私はそこへ行って問答をし、一切衆生の後生の不審を晴らしたいと思う。ついては同行して、聞かれてはどうか」と勧められたのです。だが、ちょうどその時は、官仕えで隙もなかったもので、思い立たずにいましたが、その後法門のことと承ったものですから、たびたび説法の場に出向いては行きましたが、頼基は在家の身分であるから、一言も発言はいたしませんでした。ですから、悪口などを言うことのなかったことは御厳察下さるに足ることと存じます。
語釈
御下文
公武の上位者より下す公的文書。内容が要約されており、その形式は頭書に下文を下すとあって、次に本文、最後に年月日と連名連署されているのが一般的である。平安時代から鎌倉時代にわたって、諸官庁、諸家、寺社、荘園預所等の文書に広く用いられた。ここでは、四条金吾に下された主君江馬氏からの詰問状をさす。
島田の左衛門入道殿・山城の民部入道殿
両人とも江馬氏の家臣と思われる。江馬氏の下文を四条金吾に取り付いた使者である。
徒党の仁
あることを目論むために団結する仲間。
三位公
三位房日行のこと。下総(千葉県)の出身。長く比叡山に遊学していた博学の僧。早くから大聖人の門下となり、宗門内で重きをなし諸宗破折の中心として活躍した。だが、後に自己の才知にうぬぼれ、大聖人より才覚があるとさえ自負するようになった。このため、後年、後輩の日興上人が指揮していた賀島、熱原一帯の折伏応援に派遣されたものの、かえって、竜泉寺院主代・行智の甘言に乗り、日興上人に叛旗を翻して、迫害者を煽動した。弘安2年(1279)に変死を遂げている。
頼基
四条金吾のこと。(~1300)日蓮大聖人御在世の信徒。四条中務三郎左衛門尉頼基のこと。四条は姓、祖先は藤原鎌足で、18代目隆季のころから四条を名乗った。中務は父の頼昌が中務少丞に任じられていたことから称する。三郎は通称。左衛門尉は護衛の役所である衛門府の左衛門という官職と、律令制四等官の第三位である尉という位をいう。左衛門尉の唐名を金吾校尉というので金吾と通称された。頼基は名。北条氏の一族、江間家に仕えた。武術に優れ、医術にも通達していた。妻は日限女。子に月満御前、経王御前がいる。池上宗仲・宗長兄弟や工藤吉隆らと前後して康元元年(1256)27歳のころに大聖人に帰依したといわれる。それ以来、大聖人の外護に努め、文永8年(1271)9月12日竜の口法難の際には、殉死の覚悟でお供をした。文永9年(1272)2月には佐渡流罪中の日蓮大聖人から人本尊開顕の書である開目抄を与えられた。頼基はたびたび大聖人のもとへ御供養の品々をお送りし、文永9年(1272)5月には佐渡まで大聖人をお訪ねしている。大聖人御入滅の際にも最後まで看病に当たり、御葬送の列にも連なって池上兄弟とともに幡を奉持した。大聖人滅後は、所領の甲斐国内船(山梨県南巨摩郡南部町)へ隠居し、正安2年(1300)3月15日、71歳で死去。
竜象房
比叡山延暦寺の堂塔内に住む僧で、人目を忍び洛中に下っては餓死者をあさり、朝に夕に人肉を食して常用していたことである。これに気づいた山門の衆徒は行状を厳しく追及し彼の住房を焼き払われ、建治3年(1277)頃に鎌倉に下り、良観の後援によって桑ヶ谷に居住している。日蓮大聖人の弟子・三位房との法論に破れ、その後病に倒れている。
桑か谷
鎌倉市長谷町桑ヶ谷。
講義
主君からの下し文が使者の手を経て頼基のもとに届けられたのは、6月25日のことであった。
その下し文の内容は、周囲の人から聞いた頼基の理不尽な行動について責め、主君自身は、良観・竜象房を釈尊・弥陀のように尊崇していること、主君が信じているなら従臣もこれに従うのが臣下の道であること、さもなければ領地を没収する等といった全く一方的なものであった。
本章では、「頼基が桑ヶ谷問答の場で理不尽な行ないをした」との下し文が全くの虚偽であることを強調され、以下に詳述する桑ヶ谷問答の発端が述べられているのである。
そして、頼基は、法門問答には出向いたが、在家の身であり、一言も口をはさまないのみならず、悪口にも及んでいない。それは、主君が詳しく調べられればはっきりすることであると訴えられている。
桑ヶ谷問答の発端
当時の鎌倉の民衆は、北条家の権力争いを直接間接に見、肉親同士の血で血を洗う醜い係争を通して、心ある者は人生の無常を感じていた。また、突然やってくる自然の脅威、外敵来襲の恐怖に眼前の無常を感じながら、現世に幸福を求めることより、死後の世界に成仏を求めようとする諦観の風潮がみられたのである。
こうした状況下に京都から竜象房がやってきたのである。彼がいつ京都から、鎌倉に来たのかはさだかではない。ただ彼は鎌倉庶民の動揺を的確に捉え、その心を握ってしまったことは事実であり、そのことが彼の名声を上げるきっかけとなったのである。彼は、「現世と未来世の安穏のために仏法を求めなければならない。そこで、もし仏法に不審があるようならば、私のところへ来て問答し、その不審を晴らしなさい」と公言して憚らなかったのである。
これほどの自信がかえって庶民に頼りがいのある高僧と映ったのであろう。激動の社会で、何を頼りにすべきか、その支えを見失い模索する庶民にとって、京都よりあらわれた僧の高言は、なににもまして力強い支えであり、柱と映ったにちがいない。それゆえ、竜象房のかつて行なった人間としてのあるまじき前歴など調べようとすらせず、たちまち、たぶらかされてしまったのである。
こうした風潮に立ち向かったのが三位房である。彼は、日頃問答をよくし、京都鎌倉を往来して大聖人の仏法を説き回っていた。それゆえ、今こそ竜象房の邪義慢心と悪行を暴露し、妙法こそ民衆を救済する大法であり、わが師の振る舞いこそ、庶民を思うやむにやまれぬものであることをわからせるべく、頼基に呼びかけ、桑ヶ谷に出向いたのである。
第二章(桑ヶ谷問答(1)諸宗の誤りを糺す)
本文
ここに竜象房説法の中に申して云く此の見聞満座の御中に御不審の法門あらば仰せらる可くと申されし処に、日蓮房の弟子・三位公問うて云く生を受けしより死をまぬかるまじきことはり始めて・をどろくべきに候はねども、ことさら当時・日本国の災孼に死亡する者数を知らず眼前の無常・人毎に思いしらずと云ふ事なし、然る所に京都より上人・御下りあつて人人の不審をはらし給うよし承りて参りて候つれども御説法の最中骨無くも候なばと存じ候し処に・問うべき事有らむ人は各各憚らず問い給へと候し間・悦び入り候、先づ不審に候事は末法に生を受けて辺土のいやしき身に候へども中国の仏法・幸に此の国にわたれり是非信受す可き処に経は五千七千数多なり、然而一仏の説なれば所詮は一経にてこそ候らむに華厳・真言・乃至八宗・浄土・禅とて十宗まで分れてをはします、此れ等の宗宗も門は・ことなりとも所詮は一かと推する処に、弘法大師は我が朝の真言の元祖・法華経は華厳経・大日経に相対すれば門の異なるのみならず其の理は戯論の法・無明の辺域なり、又法華宗の天台大師等は諍盗醍醐等云云、法相宗の元祖慈恩大師云く「法華経は方便・深密経は真実・無性有情・永不成仏」云云、華厳宗の澄観云く「華厳経は本教・法華経は末教・或は華厳は頓頓・法華は漸頓」等云云、三論宗の嘉祥大師の云く「諸大乗経の中には般若教第一」云云、浄土宗の善導和尚云く「念仏は十即十生・百即百生・法華経等は千中無一」云云、法然上人云く「法華経を念仏に対して捨閉閣抛或は行者は群賊」等云云、禅宗の云く「教外別伝・不立文字」云云、教主釈尊は法華経をば世尊の法は久しくして後に要当に真実を説きたもうべし、多宝仏は妙法華経は皆是真実なり十方分身の諸仏は舌相梵天に至るとこそ見えて候に弘法大師は法華経をば戯論の法と書かれたり、釈尊・多宝・十方の諸仏は皆是真実と説かれて候、いづれをか信じ候べき、善導和尚・法然上人は法華経をば千中無一・捨閉閣抛、釈尊・多宝・十方分身の諸仏は一として成仏せずと云う事無し皆仏道を成ずと云云、三仏と導和尚・然上人とは水火なり雲泥なり何れをか信じ候べき何れをか捨て候べき・就中彼の導・然両人の仰ぐ所の雙観経の法蔵比丘の四十八願の中に第十八願に云く「設い我れ仏を得るとも唯五逆と誹謗正法とを除く」と云云、たとひ弥陀の本願実にして往生すべくとも、正法を誹謗せむ人人は弥陀仏の往生には除かれ奉るべきか・又法華経の二の巻には「若し人信ぜざれば其の人命終して阿鼻獄に入らん」と云云、念仏宗に詮とする導・然の両人は経文実ならば阿鼻大城をまぬかれ給ふべしや、彼の上人の地獄に堕ち給わせば末学・弟子・檀那等・自然に悪道に堕ちん事・疑いなかるべし、此等こそ不審に候へ上人は如何と問い給はれしかば。
現代語訳
ここに、竜象房は、説法の中で「この見聞満座の人びとの中で、法門にご不審のある人は尋ねられるがよい」と申されたので、日蓮房の弟子・三位公が質問していうには、「生を受けたときより死をまぬかれないという道理は、いまさら、驚くべきことではありませんが、とりわけ、当時、日本国の災難で死亡する者は数えきれません。眼前の惨状を見て、無常を観じない者は一人もいません。
そうしているところに、京都から上人が来られ、人びとの不審を晴らされるということを承って来ましたが、ご説法の最中では無作法にあたってはと思っていましたところ、質問のある人は各々、誰にも遠慮せずに尋ねなさいとのことで悦んでおります。
先ず不審に思うことは、末法の世に生まれ、仏の出現したインドから遠く離れた辺土の卑しい身分でありますが、仏法の中心の国の仏法が幸いにもこの日本の国に渡ってきました。是か非でも信受したいと思うのですが、経文が、五千、七千と数多くあります。しかも一仏の説ですからその所詮は一経であるはずなのに、華厳・真言・乃至八宗・浄土・禅と宗教界は十宗にまで分かれています。これらの諸宗も宗門は異なっているとはいえ、究極は一つであろうとおしはかっていましたところ、弘法大師はわが国の真言宗の元祖で、『法華経は華厳経、大日経に相対すると、門が異なるばかりでなく、その理は戯論の法で、無明の分際である』といい、また、『法華宗の天台大師等はあらそって六波羅蜜経の醍醐を盗んだ』等と言っています。法相宗の元祖・慈恩大師は『法華経は方便であり、深密経は真実である。そして、無性有情の二乗は永く成仏できない』と説いています。また華厳宗の澄観は『華厳経が根本の教であり、法華経は枝末の教である』あるいは、『華厳経は、速かに仏果を得る頓々の教であるが、法華経は次第に仏果を得る漸頓の教である』等といっています。また三論宗の嘉祥大師は『諸の大乗経の中で般若教が第一である』といい、浄土宗の善導和尚は『念仏を修行する者は、十人が十人、百人が百人往生するが、法華経等では、千人に一人も成仏しない』といっています。更に法然上人は『法華経を念仏に対して、捨てよ、閉じよ、閣け、抛て』といい、あるいは『法華経の行者は群賊である』と。禅宗では『仏法の神髄は一切経の外の別伝であり、文字によらない』といっています。
しかし、教主釈尊は、法華経を『世尊は法を久しく説いて後に、必ず真実の教えを説くのである』といい、多宝仏は『妙法蓮華経は皆是真実である』と証明を加え、十方分身の諸仏も真実証明のため、『広長舌を梵天まで至らしめた』と経文に説かれています。だが、弘法大師は『法華経を戯論の法』と書いています。釈尊、多宝、十方の諸仏は『法華経は皆是れ真実』と説いていますが、いずれを信ずべきでしょうか。
また、善導和尚と法然上人は法華経を『千人に一人も成仏しない』『捨てよ、閉じよ、閣け、抛て』と説いています。これに対して釈尊、多宝、十方分身の諸仏は『法華経では一人として成仏しないということはない。皆ことごとく仏道を成ずる』と説いています。釈尊、多宝、十方分身の諸仏の三仏と善導和尚・法然上人の説とは水火・雲泥の相違です。一体、いずれを信じ、いずれを捨てるべきなのでしょうか。
とりわけ、彼の善導・法然の両上人が尊ぶ雙観経の法蔵比丘の四十八願の中の十八願には『設い我れ仏を得るとも……唯五逆罪を犯したものと正法を誹謗した者は除く』とあり、たとえ阿弥陀の本願が真実であって往生できるとしても、正法を誹謗する人々は阿弥陀仏の往生から除かれるはずである。また、法華経の二の巻には『若し人がこの法華経を信じないならば、その人は命終えて無間地獄に堕ちる』と説かれています。念仏宗を仏法の詮要とする善導・法然の両人は、これらの経文が真実であるならば無間地獄をまぬかれることができるでしょうか。彼の両人が地獄に堕ちられるなら、その流れを汲んだ者・弟子・檀那らも、自然に悪道に堕ちる事は疑いないことです。
これらのことこそ不審なことです。竜象上人はこれをどう考えられますか」と三位公は問い糺されました。
語釈
災孼
災い、災害。
無常
常に生滅変転して移り変わり、瞬時も同じ状態にとどまらないこと。生命のはかなさをいい、転じて死を意味することがある。
辺土
片田舎、①仏教発祥の地インドから遠く離れた日本のこと。②日蓮大聖人御生誕の地が日本の中心地である京都・鎌倉から遠く離れた地であること。
中国の仏法
中国とは「仏法の中心地」のことで、当時はインドを指していた。したがって、インドの仏法のことをいう。
華厳
華厳宗のこと。華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。中国・東晋代に華厳経が漢訳され、杜順、智儼を経て賢首(法蔵)によって教義が大成された。一切万法は融通無礙であり、一切を一に収め、一は一切に遍満するという法界縁起を立て、これを悟ることによって速やかに仏果を成就できると説く。また五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に唐僧の道璿が華厳宗の章疏を伝え、同12年(0740)新羅の審祥が東大寺で華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。第二祖良弁は東大寺を華厳宗の根本道場とするなど、華厳宗は聖武天皇の治世に興隆した。南都六宗の一つ。
真言
真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。
八宗
奈良朝に興隆した倶舎、成実、律、法相、三論、華厳の六宗と、平安朝に台頭した天台、真言の二宗とを合わせて八宗という。
浄土
浄らかな国土のこと。仏国土・煩悩で穢れている穢土に対して、仏の住する清浄な国土をいう。ただし大聖人は「穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(0384:02)と申されている。
禅
①禅宗のこと。禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。②座禅による仏道修行法。
十宗
奈良朝に興隆した倶舎、成実、律、法相、三論、華厳の六宗と、平安朝に台頭した天台、真言の二宗とを合わた八宗に浄土宗、禅宗を合わせ十宗という。
弘法
(0774~0835)。日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。讃岐(香川県)に生まれ、15歳で京に上り、20歳のとき勤操にしたがって出家した。延暦23年(0804)渡唐し、長安青竜寺の慧果より胎蔵・金剛両部を伝承された。帰朝後、弘仁7年(0816)から高野山に金剛峯寺の創建に着手した。弘14四年(0823)東寺を賜り、ここを真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰「弁顕密二教論」「十住心論」などがある。
法華経は……戯論の法、無明の辺域
弘法が説く邪義。その著「十住心論」において、真言のみが戯論を離れた仏乗の教であるとし、法華経はじめ諸経は全て戯論と批判した。またその著「秘蔵宝鑰」巻下の第八の「一道無為心」の中で、法華経は無明の分際であり真言密教は悟りの分際であると説いている。
諍盗醍醐
「争って醍醐を盗む」と読む。天台が六波羅蜜経の醍醐を盗んで、法華宗につけたとする弘法の邪義。
法相宗
解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
慈恩大師
(0632~0862)。中国唐代の僧。法相宗の事実上の開祖。諱は窺基。貞観6年、長安(陝西省西安市)に生まれた。玄奘三蔵がインドから帰ったとき、17歳で弟子となり、玄奘のもとで大小乗の教えの翻訳に従事した。長安の慈恩寺で法相宗を広めたので、慈恩大師とよばれる。永淳元年に没。著書に「法華玄賛」10巻、「成唯識論述記」20巻、「成唯識論枢要」4巻等がある。慈恩が「法華玄賛」を著わして法華経をほめたが、これに対し、わが国の伝教大師は「法華経を讃すと雖も、還って法華の心を死す」、すなわち法華経を華厳経等と同格にほめたにすぎず、それはかえって法華経を軽視したことになり、謗法であるとして慈恩の邪義を破折した。
法華経は方便、深密経は真実、無性有情永不成仏
法相宗で説く邪義。深密経で五性各別を説き、人の性質は①声聞種性、②独覚種性、③如来種性(菩薩種性)、④不定種性、⑤無性有情の五種の決定的な差別があるという。そして、「無性有情」は声聞・縁覚・菩薩となる性がない有情であり、永久に成仏できないと説く。出世功徳の因を欠くとして「無有出世功徳性」とも呼ぶ。この法相宗の立場より三乗経を依経とする深密経は真実であり、諸法実相を説いて十界の平等を説く法華経は方便と邪義を立てるのである。
深密経
解深密経のこと。五巻。唐代の玄奘訳。内容は、己心の外にあると思われる諸現象は、ただ阿頼耶識によって、認識の対象に似たすがたを心に映じ出されたものにすぎないという唯識の義、および諸法の如実の性相を明かし、実践修行の方法・行位・証果・化他の力用を説いている。なお漢訳には三種がある。法相宗の依経である。
無性有情・永不成仏
法相宗で説く邪義。深密経で五性各別を説き、人の性質は①声聞種性②独覚種性③如来種性④不定種性⑤無有出世功徳性(無性衆生)の五種の決定的な差別があるとし、無性有情は、声聞・縁覚・菩薩となる性がないので、永久に成仏できないと説く。
澄観
(0738~0839)。中国華厳宗の第四祖。浙江省会稽の人。姓は夏侯氏、字は大休。清涼国師と号した。11歳の時、宝林寺で出家し、法華経をはじめ諸経論を学び、大暦10年(0775)蘇州で妙楽大師から天台の止観、法華・維摩等を学ぶなど多くの名師を訪ねる。その後、五台山大華厳寺で請われて華厳経を講じた。著書には「華厳経疏」60巻、「華厳経綱要」1巻などがある。
華厳経は本教、法華経は末教
華厳宗の「五教章」で一切経に五教十宗の教判を立て、一応華厳経と法華経とを円教と位置づけている。しかし、円教をさらに本末に分け、華厳は本であり、法華は末であると説き、華厳経こそ一切経の根本の教えであるとしたのである。
華厳は頓頓・法華は漸頓
頓頓は頓教の機根に対して説く即身成仏の教法。漸頓は漸教の機根に対して説く即身成仏の教法。華厳宗の澄観は、華厳の円は頓説中の円教であり、法華の円は漸説中の円教であるから、華厳は法華に勝るとの邪義を立てた。
三論宗
竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
嘉祥
(0549~0623)。吉蔵大師の別名。中国隋・唐代の人で三論宗の祖。祖父または父が安息人(胡族)であったことから胡吉蔵と呼ばれた。姓は安氏。金陵(南京)の生まれで幼時父に伴われて真諦に会って吉蔵と命名された。12歳で法朗に師事し三論(「中論」「百論」「十二門論」)を学んだ。隋代の初め、開皇年中に吉蔵が嘉祥寺(浙江省紹興市会稽)で8年ほど講義をはって三論、維摩等の章疏を著わした。これにより吉蔵は嘉祥大師とも呼ばれた。「法華玄論」10巻をつくり、法華経を讃歎したが、後年、妙楽から「法華経を讃歎しているようにみえても、毀りがそのなかにあらわれている。どうして弘讃といえようか」と破折されている。後に天台大師に心身ともに帰伏し7年間仕えた。
善導和尚
(0613~0681)。中国唐時代の浄土宗の僧。幼くして出家し、太宗の貞観年中に道綽の門に入り観経を信仰しはじめ、以後、人々に称名念仏を勧めた。浄土の法門を演説すること30年、ついに寺前の柳に登り自ら身を投じて、極楽往生を示そうとしたが、地面に落ちて腰を打ち、十四日間苦しんで死んだという。著書に「観無量寿経疏」、「往生礼讃」、「般舟讃」、「観念法門」等があり、その後の浄土教に大きな影響を与えた。
念仏は十即十生、百即百生、法華経等は千中無一
善導の著「往生礼讃」の序説の文。十人が十人、百人が百人、全員が極楽浄土へ往生するという意味。釈迦一代聖教中、観無量寿経のみが成仏得道の経であり、法華経など他の一切の経経では、千に一つも往生できないと説く浄土宗の立義。
法然
(1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
捨閉閣抛
法然が著した「選択本願念仏集」には念仏以外の一切経自力の修行を非難し、「捨閉閣抛」せよと説いた。すなわち法然は一切経を「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と説いたのである。選択集は、建久9年(1198年)の作である。日蓮大聖人は立正安国論で「之に就いて之を見るに 曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、 近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん』と破折されている。
教外別伝、不立文字
禅宗の教義で、仏法の真髄は経の外にあり、それは釈迦から迦葉に、文字によらずひそかに伝えられ、それを伝承したのが禅宗であると説く。文字を立てず自身の心を師とする等、仏典を曲げて解釈するので天魔の教えといわれる。
舌相梵天
神力品の偈文の冒頭に「諸仏救世者、大神通に住して、衆生を悦ばしめんが為の故に、無量の神力を現じたもう。舌相梵天に至り、身より無数の光を放って、仏道を求むる者の為に、此の希有の事を現じたもう」とある文をさす。
釈尊
釈尊とは通常釈迦牟尼仏をさすが、六種の釈尊がある。①蔵教の釈尊②通教の釈尊③別教の釈尊④法華経迹門の釈尊⑤法華経本門の釈尊⑥法華経本門文底の釈尊である。⑥を教主釈尊といい、久遠元初の自受用報身如来たる日蓮大聖人である。
多宝
多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
十方の諸仏
十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
導・然
善導と法然のこと。
雙観経
無量寿経のこと。方等部に属し、浄土三部経の一つ。北魏の康僧鎧が嘉平4年(0252)に訳し、上下二巻からなるので、雙観経ともいう。上巻はかつて阿弥陀如来が法蔵比丘と称していたとき、四十八願を立てて因行を満足し、その果徳によって西方十万億土の安楽浄土に住して、その荘厳な相を説く。下巻は衆生が安楽浄土へ往生する因果とその行を説いている。
法蔵比丘の四十八願
浄土教の根本経典である『仏説無量寿経』(康僧鎧訳)「正宗分」に説かれる、法蔵比丘が仏に成るための修行に先立って立てた48の願のこと。『仏説無量寿経』のサンスクリット原典[2]である『スカーバティービューハ』には異訳があり、願の数に相違がある。二十四願系統と四十八願系統とに大別できる。前者は初期の浄土教思想、後者は後期の発展した浄土教思想を示すとされる。
設い我れ仏を得るとも唯五逆と誹謗正法とを除く
阿弥陀仏48願中の第18願。念仏往生願のこと。「たとい我仏を得んに、十方の衆生至心に信楽 して我が国に生れんと欲し、乃至十念せん、若し生れずば正覚を取らじ。唯五逆と誹謗正法とを除く」とある。
往生
死後、他の世界に往き、生まれること。おもに極楽浄土をさす。
阿鼻獄
阿鼻大城・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
講義
本章は、桑ヶ谷問答における三位房の竜象房への質問が述べられている。
三位房は、竜象房との問答の機会をうかがっていた。なぜなら、衆人の注視の中で、竜象房の邪義を糺し、更には、仏法に迷う庶民の迷妄を晴らすために、桑ヶ谷まで出向いてきたからであった。
そこに、竜象房からの「仏法について不審のある人は遠慮なく質問しなさい」との誘いをとらえ質問に入ったのである。
その内容は、当時の社会が直面する時代状況を踏まえて、混乱の宗教界の実態を語り、その中でいかなる宗教を信ずるのが正しいのかという信仰者にとって最も基本的でかつ根本的な問いを提起し、鋭く竜象房の見解を求めたものであった。
つまり、当時、社会は三災七難が相次ぎ、死者の数はおびただしく増え、その死者を眼前に見て、誰もが無常の人生を深く感ぜざるを得ないほど厳しい現実に直面していたのであった。無常観、末世観の支配的な世の中にあって、人びとの心は、暗い闇夜のような人生と社会とを打ち破る力強い太陽のような大宗教の出現を痛切に渇仰し、待望していたといえよう。
ところが、人びとの行動の原点、精神的な支柱ともいうべき宗教は、現実には、混乱を窮め、八宗、十宗と分かれていて、しかも、各宗・各派とも他宗を排斥し、自宗のみが最高の宗教であると主張し合い、互いに一歩も譲らない様相を呈していた。
そこで、三位房は、仏道を求める求道者の立場から、また、幸福を願う庶民の気持ちに立って、一体、いかなる宗教を信ずることが、末法の時代相応の信仰なのかを竜象房に問うたのである。だが、三位房自身にとっては、何が正しい宗教であり、何が誤れる宗教であるかは、もとより承知のことであった。だから、満座の聴衆を妙法に導くという目的から、邪師竜象房を破折しようとしたのであろう。
そして、三位房は、宗教を信ずるうえで、信ずる宗教の選択がどれほど大事であるかを、広く社会に瀰漫している念仏宗を取り上げ示した。すなわち、念仏宗の元祖の末路は、法華経、更には彼らの依経である雙観経等の経文に照らして、無間地獄に堕ちたことは間違いない。故に、彼らの弟子檀那等も全く同じ方程式で無間地獄に堕ちることは疑う余地のないことであると警告したのであった。
この質問の意味するものは、まことに重要な問題を秘めている。すなわち、信ずる宗教が真に信ずるに値する宗教であるか否かを確認しないで信仰するならば、開祖と同じ轍を踏まなければならないということである。たとえば、行先を確認しないで乗り物に乗り、気がついたら、とんでもない方向に向かっていたようなものである。幸福を求め仏法の世界に入っても、仏法の選択で誤りを犯すならば、その人の人生は不幸を招来するとの厳しい法理である。宗教が根本において間違っていたならば、どんなに真面目に人生を歩んだとしても、人びとの生命を歪め、不幸の人生を歩まざるをえない。
それは、あたかも、大海原を航行する船舶に羅針盤が不可欠であるようなものだ。それゆえ、人間にとっては、その行動の座標軸ともいえる確固不動の力ある宗教を探し求めることが最も肝要であるといえよう。
第三章(桑ヶ谷問答(2)正師の実践を明かす)
本文
竜上人答て云く上古の賢哲達をばいかでか疑い奉るべき、竜象等が如くなる凡僧等は仰いで信じ奉り候と答え給しを、をし返して此の仰せこそ智者の仰せとも覚えず候へ、誰人か時の代にあをがるる人師等をば疑い候べき、但し涅槃経に仏最後の御遺言として「法に依つて人に依らざれ」と見えて候、人師にあやまりあらば経に依れと仏は説かれて候、御辺はよもあやまりましまさじと申され候、御房の私の語と仏の金言と比には三位は如来の金言に付きまいらせむと思い候なりと申されしを。
象上人は人師にあやまり多しと候は・いづれの人師に候ぞと問はれしかば、上に申しつる所の弘法大師・法然上人等の義に候はずやと答え給い候しかば・象上人は嗚呼叶い候まじ我が朝の人師の事は忝くも問答仕るまじく候、満座の聴衆皆皆其の流にて御座す鬱憤も出来せば定めてみだりがはしき事候なむ恐れあり恐れありと申されし処に、三位房の云く人師のあやまり誰ぞと候へば経論に背く人師達をいだし候し憚あり・かなふまじと仰せ候にこそ進退きはまりて覚え候へ、法門と申すは人を憚り世を恐れて仏の説き給うが如く経文の実義を申さざらんは愚者の至極なり、智者上人とは覚え給はず悪法世に弘まりて人悪道に堕ち国土滅すべしと見へ候はむに法師の身として争かいさめず候べき、然れば則ち法華経には「我身命を愛まず」涅槃経には「寧ろ身命を喪うとも」等云云、実の聖人にてをはせば何が身命を惜みて世にも人にも恐れ給うべき、外典の中にも竜蓬と云いし者、比干と申せし賢人は頸をはねられ胸をさかれしかども夏の桀・殷の紂をば・いさめてこそ賢人の名をば流し候しか、内典には不軽菩薩は杖木をかほり師子尊者は頭をはねられ竺の道生は蘇山にながされ法道三蔵は面に火印を・さされて江南に・はなたれしかども正法を弘めてこそ聖人の名をば得候しかと難ぜられ候しかば。
竜上人の云くさる人は末代にはありがたし我我は世をはばかり人を恐るる者にて候、さやうに仰せらるる人とても・ことばの如くには・よもをはしまし候はじと候しかば。
此の御房は争か人の心をば知り給うべき某こそ当時日本国に聞え給う日蓮聖人の弟子として候へ、某が師匠の聖人は末代の僧にて御坐候へども当世の大名僧の如く望んで請用もせず人をも諂はず聊か異なる悪名もたたず・只此の国に真言・禅宗・浄土宗等の悪法・並に謗法の諸僧満ち満ちて上一人をはじめ奉りて下万民に至るまで御帰依ある故に法華経・教主釈尊の大怨敵と成りて現世には天神・地祇にすてられ他国のせめにあひ、後生には阿鼻大城に堕ち給うべき由・経文にまかせて立て給いし程に此の事申さば大なるあだあるべし申さずんば仏のせめのがれがたし、いはゆる涅槃経に「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり」等と云云、世に恐れて申さずんば我が身悪道に堕つべきと御覧じて身命をすてて去る建長年中より今年建治三年に至るまで二十余年が間・あえて・をこたる事なし、然れば私の難は数を知らず国王の勘気は両度に及びき、三位も文永八年九月十二日の勘気の時は供奉の一人にて有りしかば同罪に行はれて頸を・はねらるべきにてありしは身命を惜むものにて候かと申されしかば。
現代語訳
竜上人がそれに答えていうには、「昔の賢人や哲人達をどうして疑うことができよう。竜象のような凡僧等はただ仰いで信ずるのみである」と答えたのです。
三位房はその言葉を押し返して、「この仰せこそ、智者の仰せの言葉とも思われません。誰が、その時代に仰がれた人師らを疑うでしょうか。但し、涅槃経に仏の最後の御遺言として、『法に依って、人に依ってはならない』と説かれております。もし人師に誤りがあるならば、経文に依りなさいと仏は説かれているのです。御房はまさか先師に誤りがないといわれます。だが、御房の私的な言葉と仏の金言とを比べるならば、この三位は如来の金言のほうを信じていこうと思うものです」といわれました。
そこで、象上人は、「人師に誤りが多いというのは、どの人師を指していうのか」と問われたので、三位公は「前にいったところの弘法大師や法然上人等の義ではありませんか」と答えられました。象上人は「ああ、それは容易ならないことである。わが国の人師のことは、恐れ多くて、問答を差し控えたい。この満座の聴衆は皆、弘法大師や法然上人の流れの人々である。抑えきれない怒りや、不満が出て、きっと乱れるようなことになるであろう、実にその恐れがある」といわれたので、三位房は「人師の誤りとは誰のことかといわれたので、経論に背く人師達を出したのです。それなのに、聴衆を憚り、問答ができないといわれることこそ進退きわまったとしか思えません。法門というのは、人を憚り世を恐れて、仏の説いた通りに経文の実義をいわないのは、愚者の至極です。智者上人とは思われません。悪法が世に弘まり、人々が悪道に堕ち、国土が滅びようとしているのに、法師の身として、どうして諫めずにいられましょうか。それゆえ、法華経には『我れ身命を愛まず』と説かれ、涅槃経には『寧ろ身命を喪うとも法を弘める』と説かれています。真実の聖人であるならば、どうして身命を惜しんで世間や人を恐れることがありましょうか。外典の中にも竜蓬という者、比干という賢人はそれぞれ頚をはねられ、胸をさかれたけれども、主君である夏の国の桀王や殷の紂王を諌めて賢人の名を末代まで伝えました。仏典には、不軽菩薩は杖木の責めを蒙り、師子尊者は頭をはねられ、竺の道生は蘇山に流され、法道三蔵は面に火印をされて江南に追放されましたが、正法を弘めた故に、聖人の名を得たのではないですか」と非難したのでした。
竜上人はそれに答えて「そのような賢人・聖人は末世にはありえない。我々は世を憚り、人を恐れる者である。そういわれる貴僧も、いわれた言葉どおりにはまさかなさっていないでしょう」といわれたのです。
それに対して、三位公は「あなたにどうして人の心がわかるでしょうか。私こそ現在、日本国にその名の聞えた日蓮聖人の弟子として身を置く者です。私の師匠の聖人は末代の僧でありますが、当世の大名僧のように自分から望んで人に招かれもしませんし、人にも諂わず、いささかの世間的な悪名も立ちません。ただ、この国に真言宗・禅宗・浄土宗等の悪法、ならびに謗法の諸僧が充満して、上一人を始めとして、下万人に至るまでそれらの宗に帰依しているために、法華経・教主釈尊の大怨敵となって、現世には、天神・地祇に捨てられ、他国の攻めにあい、後生には、阿鼻地獄に堕ちることを、経文に従って申し立てられているのです。だがこの事を言うならば大きな難がある。しかし、言わなければ仏の責めをのがれがたい。いわゆる涅槃経には『若し善比丘がいて、仏法を壊る者を見て置いて、その者を呵責せず、追い出しもせず、その罪を責めないならば、まさしくその比丘は仏法の中の怨敵である』と説かれている。
世間を恐れて言わなければ、我が身が悪道に堕ちることを御覧になって、身命を捨てて、去る建長年間から今年建治三年に至るまでの二十余年の間、怠ったことはないのです。
そうであるから私的な難は数えきれないし、国王のご勘気は二度に及びました。この三位も文永八年九月十二日のご勘気の時は、お供の一人であったので同罪に問われ、頚をはねられるところでした。それでも、身命を惜しむ者であるといわれるのか」と反詰したのでした。
語釈
涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
法に依って人に依らざれ
仏法を判断する場合、仏の説いた経文によるのであって、誤った人師の言を用いてはならないこと。涅槃経で説く法の四依の一つ。涅槃経四依品第八には「法に依りて人に依らざれ。義に依りて語に依らざれ。智に依りて識に依らざれ。了義経に依りて不了義経に依らざれ」とある。
我身命を愛まず
「不自惜身命」と同義。わが身をもって命がけで仏法を守ること。
寧ろ身命を喪うとも
涅槃経菩薩品第16の文。「譬えば王使の善能談論し方便に巧みなる命を他国に奉け寧ろ身命を喪うとも終に王の所説の言教を匿さざるが如し、智者も亦爾なり凡夫の中に於て身命を惜まずして要必大乗方等を宣説すべし」とある。正法を弘める者の真実の姿を説かれたもの。
竜蓬
中国古代夏王朝末期の人。関竜逢という。夏王朝最後の王・桀王につかえた忠臣。桀王はたいへんな暴君のうえ、妺嬉に溺れ、少しも政道を顧みなかった。これを見て竜逢は王を諌めたが用いられず、返って首をはねられた。竜逢の忠言を聞かなかったため、夏は急速に衰え、殷の湯王に攻められ滅亡し、桀王も死んだと伝えられる。
比干
中国古代の殷王朝の人。殷の紂王の叔父といわれる。殷の三仁の一人で、史記の殷本紀第三によると、紂王が妲己を溺愛し、政事を顧みようとしないので、比干は「人臣たる者は死を以て諌めざるを得ず」と強諫したが、紂王は怒って「吾れ聞く、聖人の心には七穴あり」といって殺し、その胸を裂いたという。殷の国はいよいよ乱れ、ついには周の武王に討たれて滅びたといわれる。
夏の桀
夏の桀王のこと。夏王朝最後の王・桀王は大変な暴君のうえ、妺嬉に溺れ、少しも政道を顧みなかった。臣下の関竜逢は、王を諌めたが用いられず、返って首をはねられた。竜逢の忠言を聞かなかったため、夏は急速に衰え、殷の湯王に攻められて滅亡し、桀王も死んだと伝えられる。彼ら比干、竜逢等は、共に「人臣たる者は死を以て諌めざるを得ず」と、命とひきかえに主君の非を諌め、諌臣の任を全うした。
殷の紂
殷王朝最後の王。紀元前12世紀ごろの人で、帝辛ともいう。知力・体力ともに勝れていたが、妲己を溺愛してからは淫楽にふけり、宮苑楼台を建設し、珍しい禽獣を集め、酒池肉林をつくり長夜の宴を催した。そのため民心は離れ、諸侯は反逆し、忠臣は離れ、佞臣のみ近づいた。のちに周の武王に攻められ、鹿台に登って焼け死んだと伝えられる。
不軽菩薩
法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
師子尊者
師子、師子比丘ともいう。付法蔵最後の伝灯者。釈迦滅後千二百年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について法を学び付嘱を受けて仏法を弘めたといわれる。景徳伝灯録によれば罽賓国において仏法を流布していたとき、外道二人が師子尊者を妬み、仏弟子の姿をして王宮に潜入し、わざわいをなして逃げ去った。檀弥羅王は誤解し、怒って師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌くように出て、同時に檀弥羅王の右臂が刀を持ったまま地に落ちて、七日の後に命が終わったという説話がある。
竺の道生
中国東晋の時代から南北朝の宋の時代にかけて活躍した高僧。竺法汰につき出家。のちに長安に上り、鳩摩羅什の門に入り、羅什門下四傑の一人となる。当時、衆僧がいたずらに文字に執して円義をみないのに憤り、法華経の義によって頓悟成仏の説を立て、「二諦論」「仏性当有論」等を著わし、これに反対する守文の徒と論争した。さらに般泥洹経を学び、闡提成仏の義を立て、当時の仏教界に波紋を投じた。これにより衆僧の大いに怨嫉するところとなり、洪州廬山に流された。その時道生は「わが所説、もし経義に反せば現身において癘疾を表わさん、もし実相と違背せずんば、願わくは寿終の時、獅子の座に上らん」と誓ったという。のちに、曇無讖訳の「涅槃経」が伝わり、正説であると証明され、誓いの通り元嘉11年(0424)に廬山で法座に上り、説法が終ると共に眠るがごとく入滅したといわれる。
法道三蔵
中国北宋の徽宗皇帝時代の高僧。宣和元年(1119)、仏教を弾圧し道教を庇護しようとする徽宗皇帝が、仏僧の称号をことごとく改めようとした。それに対して法道は上書してこれを諌めた。これを皇帝は怒り法道の顔に火印を押し、江南の道州に放逐した。なお、法道はその後、宣和7年(1125)に許されて帰った。
火印
鉄の焼き印。
天神
①天界の衆生。②梵天・帝釈・日月天等。
地祇
大地を司る神。大地を堅牢にする神。
阿鼻大城
阿鼻獄・阿鼻地獄・無間地獄ともいう。阿鼻は梵語アヴィーチィ(Avici)の音写で無間と訳す。苦をうけること間断なきゆえに、この名がある。八大地獄の中で他の七つの地獄よりも千倍も苦しみが大きいといい、欲界の最も深い所にある大燋熱地獄の下にあって、縦広八万由旬、外に七重の鉄の城がある。余りにもこの地獄の苦が大きいので、この地獄の罪人は、大燋熱地獄の罪人を見ると他化自在天の楽しみの如しという。また猛烈な臭気に満ちており、それを嗅ぐと四天下・欲界・六天の転任は皆しぬであろうともいわれている。ただし、出山・没山という山が、この臭気をさえぎっているので、人間界には伝わってこないのである。また、もし仏が無間地獄の苦を具さに説かれると、それを聴く人は血を吐いて死ぬともいう。この地獄における寿命は一中劫で、五逆罪を犯した者が堕ちる。誹謗正法の者は、たとえ悔いても、それに千倍する千劫の間、無間地獄において大苦悩を受ける。懺悔しない者においては「経を読誦し書持吸うこと有らん者を見て憍慢憎嫉して恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入り一劫を具足して劫尽きなば更生まれん、是の如く展転して無数劫に至らん」と説かれている。
講義
本章は、桑ヶ谷問答における三位房と竜象房との問答応酬の場面である。
前章では、三位房が、混乱の宗教界の中で一体いかなる宗教を信じたらよいのか、また、当時の社会に支配的であった念仏宗の元祖らの末路を彼らの依経としている雙観経、ならびに法華経の経文に照らして述べ、念仏宗を信ずる弟子・檀那も同じ運命を辿るであろうがどうか、と竜象房に問うたのであった。
竜象房は、前述のとおり、鎌倉中の上下万民から釈尊の再来のような尊信を受け、しかも、問答では及ぶ人がいないといわれるほど風聞の高い僧であった。ゆえに、三位房の質問に対して、いかなる回答を与えるであろうかと満座の聴衆はかたずを呑み傾聴していたことであろう。三位房にとっても当然、名にし負う竜象房からの鋭い回答を予想していたに違いない。
だが、現実には、期待に反して、全く貧弱な内容であった。つまり、竜象房は、いかなる宗教が末法適時の真実の宗教であるかも知らず、また、念仏の信者の末路がどうかを示すための素養もなければ規範も持ち合わせていなかったのである。そのため、三位房に限らず、満座の聴衆に対して、納得のいく回答を与えることはできなかった。そしてその回答は、いきおい、月並みで口当たりのいい、しかも権威をかさに着た発言となったのである。「上古の賢哲達をばいかでか疑い奉るべき。竜象等は仰いで信じ奉り候」との文がそれである。
そこで三位房は、弘法・法然等の人師を依処に仏法の判断をする竜象房の誤りを指摘し、あくまで、仏の金言により時代相応の真実の仏法を見究めなくてはならないとの規範を教えることから始めざるをえなかったのである。
だが、竜象房は、真実の仏法を探る規範を指摘され直ちに改俊するような有羞の僧ではなかった。かえって、平然と、大衆に迎合し大衆を恐れて、わが国の人師に関する回答を控えたいという始末であった。つまり、竜象房の発言は、権威の座を依り処に、保身のために、平気で大衆にも迎合し、仏法を第二義と考えるものであったといえよう。
したがって、三位房は、宗教者の布教の態度は一体どうあるべきかを竜象房に糺す結果となった。つまり、真実の仏法の実践者とは、世間とか人を恐れず命がけで仏法を弘めゆく勇気ある人であることを訴え、さらに、経文を引き、また死身弘法の実践者の先例を引き、重ねて、竜象房の姿勢を糺している。
それでも、竜象房は、自身の迷妄から少しも目覚めることなく、厚顔無恥にも、死身弘法の実践者などは末法には存在しえないというありさまであった。
そこで、やむなく、三位房は自身の素性を明かし、師匠・日蓮大聖人の立宗以来の20余年間にわたる絶えざる死身弘法の実践を述べたのである。そして、竜口の法難の際には、三位房自身も供奉の一人として同罪に行なわれ頸をはねられるところであったことを語り、死身弘法の実践者の一人であると反詰したのである。
法に依って人に依らざれ
涅槃経に説かれた文で、仏滅後に衆生を利益する立ち場の導師が必ず遵守すべきことを説いた法の四依の一つである。その文意は、誤った人師の言説を足掛りに法の正邪を理解し判断するのではなく、仏説を唯一の依処にすべきことを示している。
ここに、三位房が引用したのは、竜象房の過ちを糺すことはもとより、問答を進めるうえでの前提条件ともいうべき不可欠な判断の基準を示すために用いられたのであり、仏説を依処に論議の展開をなすべきことを確認したといえる。
竜象房は、「上古の賢哲達をばいかでか疑い奉るべき云云」の文に象徴されるように、法を軽視し、人に全幅の信頼をおいた体裁のよい示威ともとれる回答を三位房に与えたのであった。そこに、宗教者ならば、当然、法を依処に発言すべきであるのに、残念ながら、法を忘れた人間の陥り易い悲しい権威主義と保身主義とを垣間みることができるのである。
それでは、竜象房は、どうして法を忘れ、人を強調した回答をしたのであろうか。それは、「人」と「法」との明確な位置づけを理解していなかったことはいうまでもない。だが、竜象房は、人の示威の荘厳さを楯に満座の聴衆の面前で、自身の立ち場を正当化しようとした傲慢な態度をみることができる。つまり、人間性の悪の面の代表ともいえる傲慢さが頭をもたげ、人を表に立てて法を軽視した態度にでたといえよう。そこに、権威主義と自己保身の温床があることはいうまでもあるまい。そしてまた、法を軽視し人を絶対視する姿勢は、適当なところで妥協するという安易な態度を生みやすいものである。三位房から誤った人師とは、弘法大師や法然上人のことであると指摘されるとたちまち、その問答については差し控えたいと発言するに及んだのはその典型である。
当時、仏教の教義を説き、論議するのに、ほとんどは人師・論師の言葉を用いていた。大聖人は、まず原典である経典をもって判ずべきことを主張され、諸宗と戦われたのである。弟子の三位房もこの原則を主張し、竜象房との問答に臨んだのである。
以上、「法に依って人に依らざれ」の文を竜象房に対し適用してきたが、この御文は、真実の仏法の実践者に適用すると、そのまま厳しい指導・警告を含んだものとなる。つまり竜象房の犯した誤りは、そのまま、仏法を知らない人一般にも当てはまる方程式であるからだ。仏法を知らない人びとが仏法を理解し判断するのは、法そのものに迫り仏法を理解するのはごくまれであって、たいていは法を持った人の具体的な日常の振る舞いを通じて仏法を判断するということである。したがって、真に仏法を行ずる実践者は、そのことを深く銘記し、法の体現者にふさわしい活動を展開したいものである。
法門と申すは、人を憚り世を恐れて、仏の説き給うが如く経文の実義を申さざらんは愚者の至極なり。智者上人とは覚え給はず。悪法世に弘まりて、人悪道に堕ち、国土滅すべしと見へ候はむに、法師の身として争かいさめず候べき
竜象房に対して真実の法師のあり方を諭した御文である。
竜象房は、前述のとおり、三位房の仏法に関する不審に対して何ら満足のいく回答をあたえられないのみか、三位房に誤った人師を依処にしていることを指摘されるや、自己保身から聴衆を恐れ、問答を回避しようと言い出す始末であった。どんなに巧妙に言辞を飾り、世間の風評を博したとしても、窮地に追いやられると人間の本性は現われるものである。決局、それは、竜象房の宗教そのものに対する甘さ、無知、並びに、宗教者としての資格のなさを暴露したといってよい。
なぜなら、本来、宗教というものは、精神的な慰安や道徳性を説くのが主眼ではなく、この厳しい現実社会に生きる人間の規範ともいえる法を説いたものであり、その法による人間変革に宗教の生命がある。したがって、苦悩に沈む民衆の姿や、不安と混乱の社会を眼前に見て、手を拱いているのではなく、その人間苦の解決に本気になって取り組むことに宗教者の使命と目的があるからである。
そこで、宗教者本来の使命と目的を忘れ、徒らに自己保身にその身をやつす竜象房の振る舞いは、まさしく愚者の至極であり、智者上人とは思えないと断言しているわけである。
それでは、智者――真実の法師とは具体的にはどのような人をいうのであろうか。一言でいえば、智勇兼備の仏法の指導者ということができよう。すなわち、「悪法世に弘まりて、人悪道に堕ち、国土滅すべしと見え候はむに、法師の身として争かいさめず候べき」との御文によれば、悪法の流布が人間を不幸に導く根本原因であることを知った智人であるという立ち場と、不幸の根本原因を知っただけではなく、不幸の元凶を断ち切るために勇敢に諫暁しゆくという実践の立ち場とを兼ね備えた指導者であることが肯けよう。つまり、言葉や観念のうえで知っているだけではなく、知り得たことを基盤にして具体的な実践活動へと運動を高めていく指導者こそ、真実の法師であり、智人であるといえる。その根源の師こそ、日蓮大聖人であることは本章の後半に縷々述べられている。
第四章(桑ヶ谷問答(3)問答の終結)
本文
竜象房口を閉て色を変え候しかば此の御房申されしは是程の御智慧にては人の不審をはらすべき由の仰せ無用に候けり・苦岸比丘・勝意比丘等は我れ正法を知りて人をたすくべき由存ぜられて候しかども我が身も弟子・檀那等も無間地獄に堕ち候き、御法門の分斉にてそこばくの人を救はむと説き給うが如くならば師檀共に無間地獄にや堕ち給はんずらむ今日より後は此くの如き御説法は御はからひあるべし、加様には申すまじく候へども悪法を以て人を地獄にをとさん邪師をみながら責め顕はさずば返つて仏法の中の怨なるべしと仏の御いましめ・のがれがたき上聴聞の上下皆悪道にをち給はん事不便に覚え候へば此くの如く申し候なり、智者と申すは国のあやうきを・いさめ人の邪見を申しとどむるこそ智者にては候なれ、是はいかなるひが事ありとも世の恐しければ・いさめじと申されむ上は力及ばず、某は文殊の智慧も富楼那の弁説も詮候はずとて立たれ候しかば、諸人歓喜をなし掌を合せ今暫く御法門候へかしと留め申されしかども・やがて帰り給い了んぬ、此の外は別の子細候はず・且つは御推察あるべし・法華経を信じ参らせて仏道を願ひ候はむ者の争か法門の時・悪行を企て悪口を宗とし候べき、しかしながら御きやうざく有る可く候・其上日蓮聖人の弟子と・なのりぬる上罷り帰りても御前に参りて法門問答の様かたり申し候き、又た其の辺に頼基しらぬもの候はず只頼基をそねみ候人のつくり事にて候にや早早召し合せられん時其の隠れ有る可らず候。
現代語訳
竜象房はこれを聞き口を閉じ、顔色を変えてしまいました。そこで三位房のいったことは「この程度の知恵では人の不審を晴らそうなどの高言は無用でしょう。昔、苦岸比丘や勝意比丘らは、自分は正法を知ったから人を救ってやろうと思っていたのですが、我が身も弟子・檀那らも共に無間地獄に堕ちました。
あなたの法門の程度で多くの人を救おうなどと説法するようであれば、師檀共に無間地獄に堕ちるのではないでしょうか。今日よりのちは、このような説法は考え直されるがよい。このようにはいうまいと思ったけれどもいわなければ『悪法をもって人を地獄に堕そうとする邪師を見ながら責め顕わさないならば、返ってそれは仏法の中の怨である』との仏の戒めが免れがたく、その上、説法を聴聞している全ての人々が悪道に堕ちることが不便に思われたので、このようにいうのです。智者というのは、国の危機を諫め、人の邪見を止めることこそ智者ではないでしょうか。あなたは、どのような誤りがあろうとも世間が恐ろしいので諫めないといわれる以上はどうしようもございません。もはや文殊の智慧も富楼那(ふるな)の弁説も役には立ちません」といって座を立たれると、諸人は歓喜して、掌を合わせ、「いましばらく御法門をお聞かせ下さい」と引き止めました。だが三位房は、そのまま帰られてしまいました。
以上のことのほかには別のことは何もありません。どうか、御推察ください。法華経を信じて仏道を願うほどの者が、どうして法門の問答の時に悪行を企てたり、悪口を旨とするでしょうか。すべて、その事情の経過についてご推察下さい。
そのうえ、日蓮聖人の弟子と名乗った上、帰りましても御前に参りまして法門問答の様子を申し上げました。
また、問答をした付近には、頼基が知らない者はいませんでした。おそらく、頼基を妬む人の作りごとでありましょう。早く、その者と召し合わせられれば、事の真相がわからずにいることはないでしょう。
語釈
苦岸比丘
大荘厳仏の末法の時の謗法僧。薩和多、将去、跋難陀の三比丘と共に邪道に堕ち、仏法を破った。この苦岸等の四比丘の化導で六百四億の人が師弟ともに阿鼻獄に堕ち大苦悩を受けた。後にこれらの人は一切明王仏に会ったが、仏果をうることはできなかったといわれている。仏蔵経往古品に詳しい。
勝意比丘
師子音王仏の末法の時にあらわれた謗法僧。喜根(きこん)比丘が諸法実相の義を説いたとき、誹謗して地獄に堕ちたと諸法無行経巻下にある。
文殊の智慧
文殊師利菩薩の智慧のこと。文殊は梵語マンジュシュリー(maJjuzrii)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。
富楼那の弁説
富楼那弥多羅尼子ともいう。釈迦十大弟子の一人で説法第一。聡明で弁論に長じ、その弁舌の巧みさをもって証果より、涅槃に至るまで九万九千人を度したといわれている。後世、弁舌の勝れていることを称して富楼那の弁という。
ぎやうさく
事情の経過について推察すること。
講義
本章は、桑ヶ谷問答の最後の場面と、問答について四条金吾に浴せられる批判に弁明したところとからなっている。
まず前半では、三位房が完膚なきまで竜象房を破折し、二度と説法のできないほどまで論詰して、とどめを刺したところである。曰く「御法門の分斉にて、そこばくの人を救はむと説き給うが如くならば、師檀共に無間地獄にや堕ち給はんずらむ。今日より後は此くの如き御説法は御はからひあるべし」と。
しかも、三位房の鋭鋒は、たんに理論面や現証面から竜象房を破しただけではない。仏法の道理、民衆救済の慈悲心に立って破したわけである。
次に、後半では、法門問答が感情論や理不尽な暴挙によってなされたとされているが、真相は、三位房、四条金吾の仏道者としてやむにやまれぬ破邪顕正の精神のあらわれとして行なわれたもので、しかも、真の仏道者らしい見識、礼儀、常識をわきまえた態度で問答は行なわれたのである。したがって、問答に対する批判中傷の根拠はない。そのことを断言した段である。
智者と申すは国のあやうきをいさめ、人の邪見を申しとどむるこそ智者にては候なれ
智者の本義を明かした文である。次下に「是はいかなるひが事ありとも、世の恐しければいさめじと申されむ上……」と竜象房の小心翼翼として世間の声を恐れ誤りを糺せないその臆病心、智者にあるまじき惰弱な態度に対して、社会正義、人間倫理の立ち場から、悪を諫め、邪見を止める者こそ真実の知者であると断じたところである。
したがって、ここでいう智者とは知恵ある人、才能豊かな人といった意味ではない。また、山林に交わり一人閑居して、思慮を廻らすが、実行のない知識者をさすのでもない。
真実の智者とは、仏法の峻厳な眼で、過去・現在・未来の三世の因果律を知悉し、対社会に、対人関係に正論、正見をもって誤りを諫め、邪見をうつ英知と勇気の人であり、また、社会主義と人間愛とを内に秘め、正法で培った深い洞察力、直観智、判断力に基づいて、どこまでも人間社会を幸せな方向へ導く指導者である。
苦悩の民衆の心を痛いほどわが生命に感じ、自ら苦悩の渦中に飛び込んで、泥まみれになりながら一人一人を救済していく、そうした実践者こそ智者といえよう。
こうしてみてくると、前章で「悪法世に弘まりて、人悪道に堕ち、国土滅すべしと見へ候はむに、法師の身として争かいさめず候べき」といわれた法師、さらには「実の聖人にてをはせば、何が身命を惜みて、世にも人にも恐れ給うべき(中略)正法を弘めてこそ聖人の名をば得候しか」といわれた聖人と、ここでいう智者とは全く同義としてもちいられたといえる。
翻って、三位房がこれほど確信に満ちた態度で最後まで論破できたのは、ひとえに得難き智者を我が師に持っていたからである。すなわち、日蓮大聖人こそ唯一の智者であり、立宗以来二十余年にわたって権力と戦い、邪智を破った智者であったからである。わが師の実証を知り、自分も共に実証を示してきたからである。そこに百万言の美辞麗句に打ち勝つ力があったのである。
第五章(良観房を破す)
本文
又仰せ下さるる状に云く極楽寺の長老は世尊の出世と仰ぎ奉ると此の条難かむの次第に覚え候、其の故は日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば久成如来の御使・上行菩薩の垂迹・法華本門の行者・五五百歳の大導師にて御座候聖人を頸をはねらるべき由の申し状を書きて殺罪に申し行はれ候しが、いかが候けむ死罪を止て佐渡の島まで遠流せられ候しは良観上人の所行に候はずや・其の訴状は別紙に之れ有り、抑生草をだに伐るべからずと六斎日夜説法に給われながら法華正法を弘むる僧を断罪に行わる可き旨申し立てらるるは自語相違に候はずや如何・此僧豈天魔の入れる僧に候はずや、但し此の事の起は良観房・常の説法に云く日本国の一切衆生を皆持斎になして八斎戒を持たせて国中の殺生・天下の酒を止めむとする処に日蓮房が謗法に障えられて此の願叶い難き由歎き給い候間・日蓮聖人此の由を聞き給いて・いかがして彼が誑惑の大慢心を・たをして無間地獄の大苦をたすけむと仰せありしかば、頼基等は此の仰せ法華経の御方人大慈悲の仰せにては候へども当時日本国・別して武家領食の世きらざる人にてをはしますを・たやすく仰せある事いかがと弟子共・同口に恐れ申し候し程に、
現代語訳
また、仰せ下された状には「極楽寺の長老は釈尊の再来であると仰いでいる」とありますが、この条はどうしても賛同しがたく思われます。
その理由は、日蓮聖人は経文に説かれているとおりであるならば、久成実成の釈尊の御使・上行菩薩の垂迹・法華経本門の行者・五五百歳の大導師であります。その聖人の頚をはねよとの申し状を書いて殺罪にしようとしたのですが、どうしたわけでしょうか、死罪を止めて佐渡の島まで遠流にされたのは、良観上人の仕業ではないでしょうか。その訴状は別紙にあります。
そもそも良観上人は生き草でさえも切ってはならないと六斎の日夜に説法されながら、法華経・正法を弘める僧を断罪にせよと申し立てられるのは自語相違ではないでしょうか。この僧こそ天魔の入った僧ではありませんか。
但し、この事の起こりは、良観房が平素の説法で「私は、日本国の一切衆生を皆、律宗の人となし、八斎戒を持たせて、日本国中の殺生と天下の飲酒を止めようと苦心しているのに、日蓮房の謗法に妨げられて、この願いが叶いがたい」と嘆いていたのでした。日蓮聖人がこのいきさつを聞かれて「なんとかして良観房の誑惑の大慢心を倒して、無間地獄の大苦を救ってあげよう」との仰せがあったので、頼基らは「この仰せは法華経の御味方の大慈大悲の仰せではありますが、良観房は現在、日本の国、とりわけ、武家鎌倉の世では、人々に尊敬されている人であるから、軽々しく仰せになることはどうでしょうか」と弟子どもが異口同音に気づかって申し上げておりました。
語釈
極楽寺の長老
極楽寺良観のこと。(1217~1303)。真言律宗の僧。法号が良観、諱を忍性といった。建保五年、大和国(奈良県)に生まれ、17歳のとき東大寺で戒を受け、のちに奈良西大寺の真言律宗の祖叡尊の弟子となった。叡尊は律宗を再興するために、戒を重んじ、加えて真言の祈禱、念仏の弥陀称名を取り入れて一派を立てた。弟子の良観は、のちに関東に下向し、北条一門の帰依をうけた。文応元年(1260)には重時が極楽寺を創し、7年後の文永4年(1267)、重時の子業時が良観を招き開山とした。良観は以後37年間、極楽寺に止住した。彼は政治的手腕と経営力をもって幕府と結び、自らの安泰をはかった。そして彼を非難する日蓮大聖人をことごとに迫害した。また粗衣粗食と慈善行為を行ない、聖者の名をほしいままにした。大聖人は彼を法華経勧持品第十三にある三類の強敵中、第三の僭聖増上慢であると厳しく糾弾した。
久成如来の御使
釈尊より滅後の弘通を付嘱された本化上行菩薩のこと。日蓮大聖人のこと。
上行菩薩の垂迹
地涌の菩薩を代表する四菩薩の筆頭を上行菩薩という。法華経如来神力品第21では、末法における正法弘通が上行をはじめとする地涌の菩薩に付嘱された。この法華経の付嘱の通り、末法の初めに出現して南無妙法蓮華経を万人に説き不惜身命で弘通されたのが、日蓮大聖人であられる。この意義から、大聖人は御自身が地涌の菩薩、とりわけ上行菩薩の役割を果たしているという御自覚に立たれ、御自身を「上行菩薩の垂迹」と位置づけられている。
五五百歳の大導師
五五百歳は釈尊滅後の時代を500年ごと5つに区切って、仏法流布の時代的推移を説き明かした中の第5番目。この時代は、仏法者が互いに自宗に執着して他人と争い、釈尊の正しい仏法が隠没する時代でありこれを「闘諍言訟・白法隠没」という。また、この時代は末法の正法たる仏法がおこる時代でもあり、大導師は衆生を幸福に導く主・師・親三徳具備の御本仏。すなわち五五百歳の大導師は日蓮大聖人のこと。
六斎日夜
八斎戒を持って精進するように定めた日のことで、毎月8日、14日、15日、23日、29日、30日の6ヵ日の昼夜のことをいう。
良観房
(1217~1303)。鎌倉時代の律宗再興の僧。良観は法号、諱は忍性。大和国磯城下郡に生まれ、17歳の時に東大寺の戒壇院で戒を受ける。23歳で西大寺の叡尊の弟子となる。師の叡尊のもとに戒律を修し慈善事業を営む。建長4年(1252)、36歳のときに関東に下る。正元元年(1259)、前連署重時に請ぜられ、極楽寺の造営に関与する。弘長元年(1261)11月3日、重時の葬儀に導師となる。同年、鎌倉の釈迦堂に住し、翌年春には多宝寺に住す。翌弘長3年(1263)、時頼の請を受ける。叡尊の鎌倉化導により将軍家、北条氏一族に多くの帰依者ができ、鎌倉における律宗宣揚に効果をあげる。文永元年(1264)、3000人に食を施す。この時代から強大な教勢を誇る。文永4年(1267)年50歳の時、極楽寺に住す。翌年、日蓮大聖人より「極楽寺良観への御状」が送られ、所行の非を厳しく叱責される。文永8年(1271)6六月18日、大聖人との祈雨の勝負に敗れ、貞永式目の悪口の科の条をたてに、得宗家の女房達を動かして大聖人を佐渡流罪にする。文永11年(1274)の飢饉の折には大仏ケ谷で粥を施す。その後、摂津多田院、鎌倉永福寺、明王院・淨泉寺等の別当となり、幕命を受けしばしば雨を祈る。弘安10年(1287)には、桑ヶ谷に療病所を設ける。本朝高僧伝によると、生涯にわたり済度する弟子2740余人、白衣の弟子数を知らず、伽藍の修営83箇所、仏塔建立20区、諸州の架橋189箇所、水田の寄進180町、道路の修築71箇所等その他多くの慈善事業を営んだとされている。鎌倉在住51年。その間、国家権力を背景に徹底した功利主義を貫いた。嘉元元年(1303)に没す。87歳。だが西大寺流の隆昌は叡尊、良観の二代にかぎり、良観没後衰退の途をたどった。
持斎
斎とは戒法の一つで、一般には八斎戒を持つことを持斎という。八斎戒は釈迦仏法における小乗の戒法であり、末法の修行には必要ない。しかし律宗等においてはこの戒法を持って、無智な大衆の間に広まった。ここでは戒律を持つことを強調した極楽寺良観の真言律宗をさす。
八斎戒
小乗教の戒。在家の男女が一日だけ持つことを期する戒であって、出家生活を一日だけ守る形をとったものである。受十善戒経に「若し十善を受くるも、八戒を持たずんば、終に成就せず(中略)八斎戒とは、これ過去現在の諸仏如来、在家の人のために、出家の法を制す」とある。毎月、六斎日に行ずるという。八斎戒には二説あるが内容は同じである。倶舎論によると八所応離と説き、①離殺生(生物を殺さない)、②離不与取(盗みをしない)、③離非梵行(淫欲を断つ)、④離虚誑語(嘘をいわない)、⑤離飲諸酒(酒を飲まない)、⑥離塗飾香鬘歌舞観聴(装身・化粧をやめ歌・舞を聴視しない)、⑦離眠坐高広厳麗床座(高くゆったりした床に寝ない)、⑧離食非時食(昼以後食べない)をあげている。
講義
前章までは、主君の誤解を解くため桑ヶ谷問答の顚末を通し頼基の行動を釈明され、あわせて主君に真相の糾明を請うたのであった。
だが、主君が法華経信仰を止める旨の起請文を頼基に要求したことに思いを馳せるとき、桑ヶ谷問答の一件が、かような下し文を書く直接原因とはなりえないことは容易に気づくところである。なぜなら、問答でのことは、真相糾明とともに頼基の当座の行動が証明され、落着するはずであるからだ。
それでは、何故かくも問題がこじれ、起請文を提出しなければ、所領を没収し家臣を追放するとの二者択一を迫るまでに、主従関係に亀裂が生じたのであろうか。
それは、宮仕え上の対立ではなく、信仰上のそれであった。つまり、主君は極楽寺良観の熱心な信奉者であり、家臣は名だたる日蓮大聖人の強盛な信者であったからである。
その対立は、頼基の主君への折伏とともに始まっている。それは、大聖人の佐渡流罪が赦免になった文永11年(1274)の秋のことで、そのことについては「主君耳入此法門免与同罪事」にある通りである。加えて、同僚達との軋轢も日増しにこうじて主従関係は悪化の一途をたどり、桑ヶ谷問答を機に抜きさしならぬまでに発展したのである。
そこで本章と次章は、主君の信仰の崇拝者である極楽寺良観の所行をあげてその矛盾ぶりを破し、主君に深刻なる理解を促された段である。とりわけ本章は、世評がいかに誤りであるか、良観の自後相違のはなはだしいことを述べ、決して釈尊の再来などではなく、天魔の其の身に入った邪僧であることを述べたところである。そしてその理由について本章の後半、次章とつづくのである。
極楽寺良観は、律宗の僧で、叡尊の弟子となり諸国を往来して専ら慈善に励んだ。そして鎌倉に至り、弘長元年(1261)には北条時頼の帰依を得ている。さらに、重時・業時親子の厚い外護を受け、文永4年(1267)には極楽寺の開基となっている。以来、良観は道路を造り、橋をかけ、病院を建て、関所を設けて関米をとるなどの社会事業、福祉事業に精を出したのである。
そうした活動は、宗教に無知な庶民の眼にはおそらく生き仏のように映ったのであろう。また、政治の執行者達にとっても好ましく映ったにちがいない。今日の良観評として、功利主義に徹した敏腕な経営家、政治家タイプの人物ではなかったかといわれている。
ところで、主君江馬氏も良観を尊崇する一人であった。下し文に「極楽寺の長老」と記されていることからもうかがえる。「長老」とは、単に、年老いた者の敬称に使われるのではない。仏道にすぐれた名僧の異名として用いられることからも、主君の帰依の深く厚いことが知られる。
ともあれ、良観の日夜の説法、また慈善活動は、あくまでも自身は二百五十戒を堅く持った聖人であると見せかける売名行為のためであった。さらには、幕府に取り入るための巧妙な手段であり、その本質は、名声と権勢にかけられたものであった。つまり、良観は、もともと仏法それ自体への深き研鑽を積み、その智徳で名声を得た僧ではなかった。いわば、慈善事業で幕府に取り入ってそれまでの地位を築いてきたのであった。その最も顕著な例を日蓮大聖人との対決の中に見ることができる。良観は大聖人との対決において決して正面からの勝負を挑むことはなかった。すなわち、法論という宗教の広場での対決はさけ、巧妙に手を変え、品を変え、裏面から幕府の権力者を動かして、大聖人をなきものにしようと企んでいたことは、諸御書にうかがえるところである。
「種種御振舞御書」には「さりし程に念仏者・持斎・真言師等、自身の智は及ばず訴状も叶わざれば上郎・尼ごぜんたちに、とりつきて種種にかまへ申す」(0911:03)とあり、「妙法比丘尼御返事」には「極楽寺の生仏の良観聖人折紙をささげて上へ訴え」(1416:16)と仰せられている。そしてついに、良観は平左衛門尉を動かすに至った。
平左衛門尉といえば、当時、軍事力、警察権等を一手に握った幕府の実力者であった。ここに、良観と平左衛門尉とが結託し日蓮大聖人の迫害へと進展するのである。その迫害の頂点が、竜口の法難であり、更には佐渡への遠流であった。本章に「久成如来の御使、上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、五五百歳の大導師にて御座し候聖人を、頚をはねらるべき由の申状を書きて、殺罪に申し行はれ候しが、いかが候けむ、死罪を止めて佐渡の島まで遠流せられ候しは、良観上人の所行に候はずや」と仰せられているのがそれである。
次いで、良観は日夜の説法では〝生草をだに伐るべからず〟と不殺生戒を説きながら、日蓮大聖人を断罪に行なうべく暗躍しているその行動は全くの自語相違の姿であり、その本質は人間生命を破壊する〝天魔〟の僧であると良観の真の実像を鮮明にされたわけである。
最後に、良観が、日蓮大聖人を亡き者にしようと目論み、実際にその行動に至った経緯についてふれられ、文永8年(1271)の祈雨の勝負へと進展するのである。
第六章(良観房を重ねて破す)
本文
去る文永八年太歳辛未六月十八日大旱魃の時・彼の御房祈雨の法を行いて万民をたすけんと申し付け候由・日蓮聖人聞き給いて此体は小事なれども此の次でに日蓮が法験を万人に知らせばやと仰せありて、良観房の所へつかはすに云く七日の内にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし、上代も祈雨に付て勝負を決したる例これ多し、所謂護命と伝教大師と・守敏と弘法となり、仍て良観房の所へ周防房・入沢の入道と申す念仏者を遣わす御房と入道は良観が弟子又念仏者なりいまに日蓮が法門を用うる事なし是を以て勝負とせむ、七日の内に雨降るならば本の八斎戒・念仏を以て往生すべしと思うべし、又雨らずば一向に法華経になるべしと・いはれしかば是等悦びて極楽寺の良観房に此の由を申し候けり、良観房悦びないて七日の内に雨ふらすべき由にて弟子・百二十余人・頭より煙を出し声を天にひびかし・或は念仏・或は請雨経・或は法華経・或は八斎戒を説きて種種に祈請す、四五日まで雨の気無ければたましゐを失いて多宝寺の弟子等・数百人呼び集めて力を尽し祈りたるに・七日の内に露ばかりも雨降らず其の時日蓮聖人使を遣す事・三度に及ぶ、いかに泉式部と云いし婬女・能因法師と申せし破戒の僧・狂言綺語の三十一字を以て忽にふらせし雨を持戒・持律の良観房は法華真言の義理を極め慈悲第一と聞へ給う上人の数百人の衆徒を率いて七日の間にいかにふらし給はぬやらむ、是を以て思ひ給へ一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越えてんややすき雨をだに・ふらし給はず況やかたき往生成仏をや、然れば今よりは日蓮・怨み給う邪見をば是を以て翻えし給へ後生をそろしく・をぼし給はば約束のままに・いそぎ来り給へ、雨ふらす法と仏になる道をしへ奉らむ七日の内に雨こそふらし給はざらめ、旱魃弥興盛に八風ますます吹き重りて民のなげき弥弥深し、すみやかに其のいのりやめ給へと第七日の申の時・使者ありのままに申す処に・良観房は涙を流す弟子檀那同じく声をおしまず口惜しがる日蓮御勘気を蒙る時・此の事御尋ね有りしかば有りのままに申し給いき、然れば良観房・身の上の恥を思はば跡をくらまして山林にも・まじはり・約束のままに日蓮が弟子ともなりたらば道心の少にてもあるべきに・さはなくして無尽の讒言を構えて殺罪に申し行はむとせしは貴き僧かと日蓮聖人かたり給いき・又頼基も見聞き候き、他事に於ては・かけはくも主君の御事畏れ入り候へども此の事はいかに思い候とも・いかでかと思はれ候べき。
現代語訳
去る文永八年六月十八日の大旱魃の時、彼の御房は祈雨の修法を行なって万民を助けようと仰せつけられたという事を日蓮聖人が聞かれました。そして「このようなことはささいな事ではあるが、事のついでに日蓮が法験を万民に知らせよう」と仰せになって、良観房の所へ使いを遣わして、「もしも七日以内に雨を降らせたならば、日蓮は念仏無間という法門を捨てて、良観上人の弟子となって二百五十戒を持とう。だがもし雨が降らなかったなら、彼の良観房が持戒げに見えても大誑惑であることは、はっきりするだろう。上代にも祈雨によって法門の勝負を決めた例は多いのである。いわゆる護命と伝教大師、守敏と弘法との対決がそれである」と仰せになりました。そして良観房のもとへ、周防房、入沢の入道という念仏者を遣わしました。この御房と入道とは良観の弟子で、また念仏者であって、いまだに日蓮の法門を信じていません。そこで日蓮聖人は「この祈雨の一件で仏法の勝負をしよう。もし七日以内に、雨が降るならば、従来信ずるところの八斎戒、念仏の教えで往生できると思うがよい。しかしながら、もし雨が降らないなら、ひたすら法華経を信じなさい」と仰せられたので、彼らは悦んで極楽寺の良観房にこの事を申し伝えたのです。
良観房は泣いて悦び、七日以内に雨を降らそうと、弟子達百二十余人とともに頭から煙を出すほど必死になり、声を天に響かせ、あるいは念仏を、あるいは請雨経を、あるいは法華経を、あるいは八斎戒を説いてさまざまに祈請したのです。だが四五日たっても雨の降る気配がないので、良観は動転して、更に多宝寺の弟子達数百人を呼び集めて、法力を尽くして祈りつづけたが、七日以内には露ほども雨は降りませんでした。
その間、日蓮聖人は使いを遣わすこと三度に及んでいます。「泉式部という婬女や能因法師という破戒の僧でさえ、狂言綺語をもてあそぶ三十一文字で、たちまちに降らすことができた雨を、持戒・持律の良観房は法華・真言の義理をきわめ慈悲第一と評判の上人でありながら、数百人の衆徒を率いて、七日の間祈りながらどうして降らすことができないのであろうか。この事実をもって推し量りなさい。一丈の堀を越えられない者が、どうして二丈、三丈の堀を越えることができようか。雨を降らすという簡単なことでさえできないのに、どうして難事の往生成仏をさせることができようか。それ故、これからは、日蓮を怨む邪見をこの事実をもって改めなさい。後生をおそろしく思われるならば、約束どおりに急いで来なさい。雨を降らす法と仏になる道を教えてあげよう。七日以内に雨を降らすことができないではないか。旱魃はいよいよ盛んになり、八風はますます吹き重なり、民衆の嘆きはいよいよ深い。速かに、その祈りを止めなさい」と、使いを遣わしたのです。第七日目の午後四時頃に、使者は聖人の仰せのままにいったところ、良観房は涙を流し、弟子檀那も同じく声をおしまず悔しがって泣いたのであります。日蓮聖人が御勘気を蒙った時に、この事が尋ねられたので、ありのままに申し上げたのでした。ですから、「良観房は身の上の恥を思うならば、行方をくらまし山林にでも交わり、または、約束どおりに日蓮の弟子ともなったならば、少しは道心もあるのだが、実際には、そうではなく、尽きることのない讒言を構え、殺罪にしようと企てたのであるが、これを貴い僧であるといえようか」と日蓮聖人は仰せになっておりました。このことは、頼基も見聞しました。
他の事においては、口に出していうことも、主君の事は畏れ多いことではありますが、此の事だけはどのように考えてみても、申し上げないわけにはまいりません。
語釈
旱魃
長い間雨が降らなかったことによって起こる水不足。ひでり。
祈雨の法
雨乞いのこと。旱魃が続いた際に雨を降らせるため行う呪術的・宗教的な儀礼のこと。
護命と伝教大師
護命は法相宗の僧で、勅命によりしばしば宮中で最勝王経等を講じていた。弘仁9年(0818)の春、大旱魃の折り、嵯峨天皇から祈雨の勅命が下った。伝教は法華経、金光明経、仁王経をもって雨を祈った。結果は三日目に現われ、微雨がしずしずと降り、大乗戒壇建立の起縁となった。一方、南都第一の僧、伝教の師でもある護命は、40人の弟子と共に仁王経をもって雨を祈った。結果は5日目に雨を降らすことができたが、伝教大師の3日には及ばなかった。以上、伝教の戒壇建立の事情経過を述べた一心戒文巻上、三三蔵祈雨事に見られる。
守敏と弘法
守敏は真言宗京都西寺の僧。生没不明。幼くして出家し、弘仁14年(0823)嵯峨天皇より西寺を授った。そのとき弘法は東寺(教王護国寺)を授った。ここでは、天長元年(0824)の春の大旱魃の時に、祈雨の勝負をしたことをいう。守敏は7日で雨を降らした。弘法は3週間、21日間を経たが雨を降らすことができなかった。そこで天子が雨を祈り、雨を降らすと、東寺の門人等は、師の弘法が降らした雨だといいふらした。
周防房・入沢の入道
ともに浄土宗の僧で、良観の弟子。詳細不明。
請雨経
中国隋の那連提耶舎(0490~0589)訳。2巻。詳名は大雲輪請雨経。雨乞いの法を説く。異訳もある。
多宝寺
現存しない。開基、開祖、落成年次、宗旨など一切不明である。ただ本抄に「多宝寺の弟子等数百人」とあり、当時、相当の大寺で極楽寺良観の一門のようである。今日、鎌倉泉ケ谷の奥、淨光明寺の隣りに、多宝寺跡と称するところがあり、良観の多宝塔と称する古墳一基を残すのみである。
泉式部
平安時代の女流歌人。異性関係が派手で乱脈であったといわれている。その歌は情熱奔放、想像力豊かで、わが国女流歌人のなかでは異色の存在である。「ことはりや日の本なれば照るぞかし、降らざらめやはあめが下には」という和歌を詠み、雨を降らせたという。なお、泉は通称、和泉と書くが、和は添字で読まない。
能因法師
本名を橘永愷といい、平安時代の京都の歌僧。生没年は不詳。父の忠望の跡を継いで和歌を好み、藤原長能について和歌を学んだ。のちに出家して、能因と称した。伊予国(愛媛県)の大旱魃をみて、「天の川苗代水にせきくだせ、天くだります神ならば神」という和歌を詠み、三島神社に納めたところ、たちまちに雨が降ったという。
破戒
「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。「破戒」とは戒を破る者の意。戒は小乗に五戒・八斉戒・十戒・二百五十戒・五百戒等、権大乗教に十重禁戒・四十八軽戒・三聚浄戒、法華経には衣座室の三軌・四安楽行・普賢四種の戒等がある。末法においては受持即持戒で、正法を受持し、信行に励むことが唯一の戒となる。ゆえに破戒の根本は、一闡堤、すなわち不信になるのである。
狂言綺語
道理に合わない言葉や、巧みに表面だけを飾った言葉。 転じて、虚構や文飾の多い小説・物語・戯曲などを卑しめていう語。
三十一字
和歌のこと。
持戒
「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。戒を受け、身口意の三業で持つこと。
持律
戒を持つこと。戒を持つ者。
八風
さまざまな害をなす悪風。
讒言
告げ口・悪口をいうこと。
かけはくも
「かけまくも」と同じ。口に出していうことも、の意。
講義
前章では釈尊の再来とまでいわれて、世間より尊崇されている良観が、実は自己の野望を果たすためには人を死地へ追いやることすら辞さない天魔の僧であることを述べているが、本章においては、さらに具体的に、良観が日蓮大聖人を死罪、並びに遠流へとかりたてた直接原因ともいえる文永の祈雨の勝負の顛末を通し、重ねて良観の正体を教え、主君に良観帰依の再考を促されている。
文永8年(1271)は、春から旱魃がひどく、梅雨期に入っても一向に降るようすがなかった。ために、その対策の一環として幕府は極楽寺良観に〝祈雨の修法〟を命じたのである。
良観は「彼常に雨を心に任せて下す由披露あり」(0349-16)とあることからも、慈善活動と並んで〝祈雨の修法〟には自信をもっていたことがうかがえる。だから、幕府の命も快諾し「祈雨の法を行いて万民をたすけん」と高言して憚らなかったのであろう。
そこで、前々から良観の誑惑と慢心とを倒し、無間の苦悩に呻吟する民衆を救おうと心を砕かれていた日蓮大聖人は「此体は小事なれども、此の次でに日蓮が法験を万人に知らせばや」との立ち場から良観に祈雨の勝負を挑まれたわけである。
無論祈雨の勝負とはいえ、宗教者の生命を賭けた法戦であることに変わりはない。人びとの雨を願う気持ちの高まりはそのまま祈雨の勝負への関心へと転化していったことであろう。従って、単に祈雨の勝負とはいえ、この勝負は正しく公場対決にも比肩する重みを持っていたといえよう。
大聖人は良観の弟子で念仏者の周防房と入沢の入道の二人に「七日の内にふらし給はば、日蓮が念仏無間と申す法門すてて、良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし。雨ふらぬほどならば、彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし。上代も祈雨に付いて勝負を決したる例これ多し。所謂護命と伝教大師と、守敏と弘法なり」、また「七日の内に雨降るならば、本の八斎戒、念仏を以て往生すべしと思うべし。又雨らずば一向に法華経なるべし」と良観の所に遣わしたのである。
これを聞いた良観は、泣いて喜んだ。そして7日以内に雨を降らそうと弟子120余人が必死に祈ったが、4・5日経っても雨が降る気配がないので、良観は、多宝寺の弟子数百人を急遽増援をはかり、全力を尽くして雨を請うたが邪法の祈り、約束の7日に至ったが露ほどの雨も降らすことはできなかった。
勝負は余りにも歴然としていた。邪法の僧等の必死の祈りは、雨を降らさないのみか、かえって、旱魃は激しくなり、八風が吹き重なり民衆の嘆きは深まるばかりであった。
良観らの祈雨のさなか、大聖人は三度使いを遣わして良観を徹底的に破折されている。すなわち、世間に持戒・持律の上人とか法華経や真言の奥旨を極め、慈悲第一といわれても、現実に雨さえ降らすことができないならば、三十一文字で雨を降らした淫女・泉式部や破戒の僧・能因法師にも及ばないと断じられ、雨さえ降らすことのできない良観にどうして往生成仏が可能であるかと厳しく追及されている。
祈雨の勝負で完膚無きまでに敗れた良観は、大聖人との約束も守らず、逆に大聖人を亡き者にしようと奸策を回らし、幕府要人に限りない讒言をいいふらし、大聖人を殺罪に行なおうとしたのであった。このような良観を貴い僧と頼基は仰ぐことができないと主君に陳情されているのである。
第七章(竜象房について述べる)
本文
仰せ下しの状に云く竜象房・極楽寺の長老見参の後は釈迦・弥陀とあをぎ奉ると云云、此の条又恐れ入り候、彼の竜象房は洛中にして人の骨肉を朝夕の食物とする由露顕せしむるの間、山門の衆徒蜂起して世末代に及びて悪鬼・国中に出現せり、山王の御力を以て対治を加えむとて住所を焼失し其の身を誅罰せむとする処に自然に逃失し行方を知らざる処にたまたま鎌倉の中に又人の肉を食の間・情ある人恐怖せしめて候に仏菩薩と仰せ給う事所従の身として争か主君の御あやまりをいさめ申さず候べき、御内のをとなしき人人いかにこそ存じ候
現代語訳
また、仰せ下しの状には、「主君が竜象房と極楽寺の長老良観に見参してからは、釈迦仏、阿弥陀仏のごとく仰ぎ奉る」と仰せでありますが、この条についてもまた恐縮ながら申し上げます。
彼の竜象房は京都の市中で人の骨肉を朝夕の食物としていたことが露顕したため、山門の衆徒が蜂起し、「世も末になったので、悪鬼が国中に出現している。山王の御力で、この悪鬼を対治しよう」といって竜象房の住所を焼失し、その身を誅罰しようとしましたところが、素早く逃亡して行方がわからなくなっていたのです。ところが、たまたま鎌倉にあれわれ、市中でまた、人の肉を食べているので、心ある人々は恐れおののいているのに、その竜象房を殿は仏、菩薩と仰せになっている。所従の身として、どうして主君の誤りをお諌めしないでいられましょう。御一門の穏当な意見の人々はどのように思われているのでしょうか。
語釈
洛中
京都の市中。平安京の左京を中国の古都洛陽に擬し、洛または洛中と称した。
山門
三井・園城寺を寺門というのに対して比叡山延暦寺を山門という。
山王
日吉山王のこと。日吉は当時「ひえ」と読んだが、現在では日枝神社との区別のためか「ひよし」と読むのを正式としている。滋賀県大津市坂本にあり、比叡山の本麓にあたる。延暦寺が建てられると、叡山の地主であるゆえに山王と称して崇敬された。
講義
本章は、竜象房を釈迦仏か阿弥陀仏かの如く敬信する江馬氏に対して、竜象房の人肉食という非道をあげ、その竜象房を仏菩薩と崇め奉るなど、とんでもないことであると妄信を諌めたところである。
竜象房について
竜象房は、本章冒頭で「釈迦、弥陀とあをぎ奉る」といわれた通り、極楽寺良観と並び称せられるほど崇め奉られていた。だが心ある人びとは、彼の人倫を背く私生活には恐れをいだいていたのである。そのことは、本章の中に「たまたま鎌倉の中に又人の肉を食うの間、情ある人恐怖せしめて候に」とあるところから理解できる。
そこで、竜象房という僧は一体どういう人物であったのか。竜象房は、もと比叡山延暦寺の堂塔内に住む僧であった。彼の生まれも生い立ちも不明であり、いかなる立ち場の僧であったかも不明であった。だが唯一つ明白なことは、人目を忍び洛中に下っては餓死者をあさり、朝に夕に人肉を食として常用したことである。
これに気づいた山門の衆徒は、竜象房の行状を厳しく追及した。「天台座主記」の建治元年(1275)4月27日の記述にその時の模様がある。「山門の衆徒群り下りて東光寺に集会し、公友ならびに犬神人を差し遣し、竜象上人の住房を焼き払い、中山の住房は犬神人等これを破取す」と。
また本章においても、「洛中にして、人の骨肉を朝夕の食物とする由、露顕せしむるの間、山門の衆徒蜂起して、世末代に及びて悪鬼国中に出現せり。山王の御力を以て対治を加えむとて、住所を焼失し、其の身を誅罰せむとす……」と。
京都から命からがら逃げのびた竜象房は、鎌倉市内に姿を現わしたのである。もちろん鎌倉に入ってからも人目を忍んでは人肉を食べていたようである。
それにもかかわらず、人々は、頭から竜象房を上人と敬い、信じきっていた。これを厳しく指摘し、その過ちを破折されているのである。
第八章(主君を諌言する)
本文
同じき下し状に云く是非につけて主親の所存には相随わんこそ仏神の冥にも世間の礼にも手本と云云、此の事最第一の大事にて候へば私の申し状恐れ入り候間・本文を引くべく候、孝経に云く「子以て父に争わずんばあるべからず臣以て君に争わずんばあるべからず」、鄭玄曰く「君父不義有らんに臣子諫めざるは則ち亡国破家の道なり」新序に曰く「主の暴を諫めざれば忠臣に非ざるなり、死を畏れて言わざるは勇士に非ざるなり」、伝教大師云く「凡そ不誼に当つては則ち子以て父に争わずんばあるべからず臣以て君に争わずんばあるべからず当に知るべし君臣・父子・師弟以て師に争わずんばあるべからず」文、法華経に云く「我れ身命を愛まず但無上道を惜む」文、涅槃経に云く「譬えば王の使の善能談論し方便に巧にして命を他国に奉ずるに寧ろ身命を喪うとも終に王の所説の言教を匿さざるが如し智者も亦爾り」文、章安大師云く「寧ろ身命を喪うとも教を匿さざれとは身は軽く法は重し身を死して法を弘む」文、又云く「仏法を壊乱するは仏法の中の怨なり慈無くして詐り親むは則ち是れ彼が怨なり能く糺治する者は彼の為めに悪を除く則ち是れ彼が親なり」文、頼基をば傍輩こそ無礼なりと思はれ候らめども世の事にをき候ては是非父母主君の仰せに随い参らせ候べし。
現代語訳
また同じ下し状に「是非にかかわらず主君や親の考えには従うことが仏神の精神にも世間の礼にも手本となるのである」と仰せですが、このことはもっとも大事なことなので、私の意見は差し控えて、聖賢の御文を引きお答えいたします。
孝経には「父に不義のある場合、子は父と争い父の誤りを正さなければならない。主君に不義のある場合には、臣下は主君と争い誤りを正さなければならない」とあり、鄭玄は「主君や父に不義があるのに、臣下や子が諫めないのは、国を亡ぼし、家を破る道となる」といい、新序では「主君の横暴を諫めないなら忠臣ではない。また、死を畏れて言わないのは勇士ではない」とございます。
伝教大師は「一般に、道に背いた事柄においては、子は父と争わなければならないし、臣下は主君と争わなければならない。師弟の道においても、師に誤りがあれば、弟子は師と争わなくてはならない」と説かれています。
法華経の勧持品には「我は身命を愛まず、ただ無上の道を惜しむ」と説かれています。涅槃経には「譬えば、王の使いが良く談論し、方便に巧みで、他国に使いしたときに、己れの生命を喪っても、最後までわが王の説く言教を主張し続けるように、智者もまたそうなのである」と説かれています。章安大師は「『寧ろ身命を喪うとも教を匿さざれ』とは、身は軽く法は重い、故に、身を死しても法を弘めなければならない」といわれています。また「仏法を壊り乱す者は仏法内の怨である。慈悲がなく、詐り親しむのは、彼のために怨である。よく罪を糺し治す者は、彼のため悪を除くものであり、これこそ彼の親の行為である」と説いています。
このように申しますと頼基を同僚の者は主君に対して無礼であると思うでしょう。だが、世間のことであれば、一切、父母、主君の仰せに従いましょう。
語釈
仏神の冥
しらずしらずの間に仏神の加護を蒙ること。
孝経
中国の儒教倫理の根本である「孝」について説いた書物。「論語」と共に、初学者必修の書として尊重されている。孔子と門弟曽子とが交わした対話の様式をとり、孝の意義、人倫の方途について述べられている。今、引用の文は、孝経の諫争章第十五の文である。云く「曽子曰く、夫の慈愛恭敬、親を安んじ、名を揚ぐるが若きは即ち命を聞けり。敢て問う、子、父の命に従うは、孝と謂うべきか。子曰く、是れ何の言ぞや、昔は天子に争臣七人あれば、無道と雖も天下を失わず。諸侯・争臣五人あれば、無道と雖もその国を失わず。大夫・争臣三人あれば、無道と雖もその家を失わず。(中略)故に不義に当れば即ち子以て父に争わざるべからず、臣以て君に争わざるべからず。故に不義に当れば即ち之を争う、父の命に従うは、又焉んぞ孝たるを得ん」とある。
鄭玄
中国後漢の経学者。字は康成で山東省高密県の人。周易、尚書、毛詩、儀礼、周礼、礼記、論語、孝経など諸経書を註解し、天文七政論、魯礼禘袷義、六芸論、毛詩譜等の著がある。
新序
中国春秋時代から漢代初期までの百家の伝記を収録した書物。漢代の学者である劉向(BC0077~0006)の撰述で十巻よりなる。多くは古書の教訓的説話をとり、時の風俗に対する戒めを述べている。
傍輩
仲間・友人・同じ主君・師匠・家・などに使える同僚。
講義
忠孝の根本精神について述べた章である。下し状では、全て主親に従うことが臣下の道であるとしている。これに対して、主親に従うことは当然の責務であるが、もしも主親に誤りがあれば、これを諫めることが臣下の道であり、逆に諫めなければ、一家の破滅、国家の衰亡を導くことにもなる故、主親を糺さなければならない、と孝経等の文をあげて述べている。
君臣、親子等の人間関係の道を説いた儒教道徳は、ともすると封建的、固定的な思想のように思われがちであるが、その本来の精神を見るなら、きわめて自由主義的であり、近代的でさえあることが知られるのではないだろうか。
今、四条金吾は、主親が世間の誤りを犯したことを云々しているのではない。仏法の誤り、生命それ自体の誤りを糺しているのである。そのことは本章最後の一行、「世の事にをき候ては、是非父母主君の仰せに従い参らせ候べし」とあることから理解できよう。世間の事であれば、必ず仰せに従うが、こと仏法に関しては、たとえ主君の仰せでも随うことができない、との言外の意味が込められたところである。仏法については随うことができないということは、思想、信教という人間精神の問題については、あくまでも個人の自由を守るということに他ならない。
ともあれ、本章の中で、時代を超え、社会を超え、制度を超えた人間本来の倫理について幾多の示唆が含まれている。その一つ、主親に盲従するのではなく、主親を守りつつ随うのである。そのためには、もしも主親に不義があればこれを諌めること、それが主親を守る本義である。その二、たとえ尊厳な生命を犠牲にしても、社会正義、自己の主張を貫き妙法を守るという決意に立つこと。このことは、最も生命を尊重する筈の仏法に反するようであるが、実は矛盾しないのである。なぜなら、生命が最も尊貴になる根源の力が妙法であるからである。もしも妙法を犠牲にして我が身を守るなら、身は守られるが、我が身を内面より荘厳にする妙法は消え失せてしまう。身体のみあって自身を尊厳にする実体がなくなるのである。逆に、妙法を守りぬくことは、結果として尊厳な生命も仏法によって輝きわたり、生命を尊厳にすることができるのである。それ故、かけがえのない生命を賭しても、そこに尊い仏法の精神を守ることが、人間の道標であると説かれているのである。
第九章(仏法の上から諌言する)
本文
其にとて重恩の主の悪法の者に・たぼらかされ・ましまして悪道に堕ち給はむをなげくばかりなり、阿闍世王は提婆六師を師として教主釈尊を敵とせしかば摩竭提国・皆仏教の敵となりて闍王の眷属・五十八万人・仏弟子を敵とする中に耆婆大臣計り仏の弟子なり、大王は上の頼基を思し食すが如く仏弟子たる事を御心よからず思し食ししかども最後には六大臣の邪義をすてて耆婆が正法にこそ・つかせ給い候しか・其の如く御最後をば頼基や救い参らせ候はんずらむ此の如く申さしめ候へば阿闍世は五逆罪の者なり彼に対するかと思し食しぬべし、恐れにては候へども彼には百千万倍の重罪にて御座すべしと御経の文には顕然に見えさせ給いて候、所謂「今此の三界は皆是れ我有なり其中の衆生は悉く是れ吾子なり」文・文の如くば教主釈尊は日本国の一切衆生の父母なり師匠なり主君なり阿弥陀仏は此の三の義ましまさず、而るに三徳の仏を閣いて他仏を昼夜朝夕に称名し六万八万の名号を唱えましますあに不孝の御所作にわたらせ給はずや、弥陀の願も釈迦如来の説かせ給いしかども終にくひ返し給いて唯我一人と定め給いぬ、其の後は全く二人三人と見え候はず、随つて人にも父母二人なし何の経に弥陀は此の国の父・何れの論に母たる旨見へて候・観経等の念仏の法門は法華経を説かせ給はむ為の・しばらくの・しつらひなり、塔くまむ為の足代の如し、而るを仏法なれば始終あるべしと思う人・大僻案なり、塔立てて後・足代を貴ぶほどのはかなき者なり、又日よりも星は明と申す者なるべし・此の人を経に説いて云く「復教詔すと雖も而も信受せず其の人・命終して阿鼻獄に入らん」、当世・日本国の一切衆生の釈迦仏を抛つて阿弥陀仏を念じ法華経を抛つて観経等を信ずる人或は此くの如き謗法の者を供養せむ俗男・俗女等・存外に五逆七逆・八虐の罪ををかせる者を智者と竭仰する諸の大名僧並びに国主等なり、如是展転至無数劫とは是なり、此くの如き僻事をなまじゐに承りて候間・次を以て申せしめ候、官仕を・つかまつる者・上下ありと申せども分分に随つて主君を重んぜざるは候はず、上の御ため現世・後生あしくわたらせ給うべき事を秘かにも承りて候はむに傍輩・世に憚りて申し上ざらむは与同罪にこそ候まじきか。
現代語訳
それにつけても、重恩の主君が悪法の者にたぼらかされて、悪道に堕ちられるのを嘆くばかりです。
阿闍世王は、提婆達多や六師外道を師匠として、教主釈尊を敵としたので、摩竭提国が皆、仏教の敵となって阿闍世王の眷属五十八万人は仏弟子を敵とするその中で、耆婆大臣だけが仏の弟子でありました。大王は、あたかも主君が頼基に対して思われているように、耆婆大臣が仏弟子であることを快く思われていなかったけれども、最後には六大臣の邪義をすてて耆婆の正法につかれたのです。そのように、主君を最後には頼基がお救いしてまいります。
このように申し上げますと、阿闍世王は五逆罪の者であり、その阿闍世王に対応させるのかと思われるでありましょう。しかし、恐れ多いことですが、殿は阿闍世王より百千万倍も重罪であると経文には明らかに説かれております。
いわゆる法華経の譬喩品には「今、此の三界は皆是れ我が有である。其の中の衆生は悉く是れ吾が子である」と。経文の通りであるならば、教主釈尊は、日本国の一切衆生の父母であり、師匠であり、主君であります。阿弥陀仏にはこの主・師・親の三つの義は具わっていません。そうでありますのに、三徳の仏を閣いて、他仏を昼夜朝夕にその名を称え、六万、八万の名号を唱えておいでになる。どうして不孝の行ないではないでしょうか。阿弥陀の本願も本来、釈迦如来が説かれたものでありますが、最後には仏自から悔い改めて「唯、我れ一人のみ、能く衆生を救うものである」と定められた。その後は、全く二人、三人とは説かれていません。したがって、人にも父母は二人いないように、一体、いずれの経文に阿弥陀仏はこの国の父、いずれの論に母と、説かれているのでしょうか。
観経等の念仏の法門は、仏が法華経を説かれるためのしばらくの準備なのです。あたかも塔を組むための足場のようなものです。それを、同じく仏法なのだから始めと終わりの違いだけであると思う人があれば、それは大変誤った考えといえましょう。その人は、塔を立てた後まで足場を尊ぶようなはかない人であります。また、その人は、太陽よりも星の光りのほうが明るいというような人であります。こういった人を経文では「また、仏の教えを聞いても、なお信受しない人は命終して阿鼻地獄に堕ちる」と説かれています。
今の世の日本国の一切衆生は、釈迦仏を抛って阿弥陀仏を念ずる人、法華経を抛って観経等を信ずる人、あるいは、このような謗法の僧を供養する俗男俗女等、また思いのほか、五逆、七逆、八逆の罪を犯している僧を智者と渇仰する多くの大名僧、並びに、国主等であります。法華経譬喩品に「謗法の者はこのように展転して乃至無数劫に至る」とあるのはこのことをいうのです。
このような誤りをなまじっかうけたまわっているので、ついでながら申し上げました。宮仕えをする者は、身分の上下があるとはいっても、おのれの身分にしたがって主君を重んじない者はございません。主君のために、現世と後生が悪くていらっしゃるであろうということを秘かにうけたまわりながら、同僚や世間をはばかって申し上げないのは与同罪になるのではないでしょうか。
語釈
六師
釈尊在世時代に中インドで勢力を持っていた6人の外道の思想家。富蘭那迦葉・末伽梨拘舎梨・刪闍耶毘羅胝子・阿耆多翅舎欽婆羅・迦羅鳩駄迦旃延・教尼乾陀若提子
六大臣
阿闍世王に仕えた六人の重臣。釈迦に敵対し、悪瘡にかかった阿闍世王が、悪事を悔いているとき、この六人が六師外道のもとへ行くように勧めた。
阿弥陀仏
梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
三の義
主師親の三徳をさす。一切衆生は、みな親によって生を受け育てられる。師匠によって智をみがき、主人によって養われ、人生の意義をあらしめることができる。民主主義の現代には、主とは社会を意味する。
観経
観無量寿経のこと。浄土三部経の一つで、方等部に属する。元嘉元年(0424)~同19年(0442)にかかって中国・劉宋代の畺良耶舎訳。詳しくは観無量寿仏経。阿闍世王が父・頻婆沙羅王を殺し母を牢に閉じ込め、悪逆の限りを尽くしたのを嘆いた母・韋提希夫人が釈尊にその因縁を聞いたところ釈尊は神通をもって十方の浄土を示し、夫人がそのなかから西方極楽世界を選ぶ。それに対して釈尊が、阿弥陀仏と極楽浄土を説くというのが大意である。しかし、韋提希夫人の嘆きに対しては、この経は根本的には説かれていない。この答えが説かれるのは法華経提婆品で、観経ではわずかに、問いを起こしたというにとどまる。西方十万億土を説いたのも、夫人の現在に対する解決とはなっていない。
足代
足場のこと。建築工事のさいに、高い所に登れるように、材木やパイプを組み立てて造る足がかりのこと。建物の完成まではなくてはならぬ役目を持っているが、建物が完成すれば、解体される。ここでは、念仏等の爾前経を指して足代と破折されている。
僻案
誤った教えや見解のこと。
五逆・七逆・八虐の罪
五逆罪、七逆罪、八逆罪のこと。五逆罪は殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧の五種の逆罪のこと。七逆罪は五逆罪に加えて、殺和尚、殺聖人の七種の逆罪のこと。八逆罪は謀反、謀大逆、謀叛、悪逆、不道、大不敬、不孝、不義をいう。五逆罪は親に背く罪、七逆罪は師に背く罪、八逆罪は主に背く罪である。
如是展転至無数劫
法華経譬喩品第三に「其の人は命終して 阿鼻獄に入らん 一劫を具足して 劫尽きなば更に生まれん 是の如く展転して 無数劫に至らん」とある。展転とはころがること、めぐることで、つぎつぎとめぐり続くこと。無数劫とは数えきれないほどの長い間のこと。すなわち、正法誹謗の無間地獄に堕ち、未来永劫にその苦悩を受けるさまをいう。
与同罪
共犯罪に同じ。主犯に連座して主犯と同じ罪に処せられること。
講義
本章は、阿闍世王を諌めて救った耆婆大臣の例をあげて、今の江馬氏と四条金吾になぞらえ、江馬氏が大謗法の阿弥陀信仰をやめるよう諫めている。そして、主君が現当二世にわたって苦悩におちるのを諫めない朋輩たちこそ与同罪の者であると述べている。
此くの如く申さしめ候へば、阿闍世は五逆罪の者なり。彼に対するかと思食しぬべし。恐れにては候へども、彼には百千万倍の重罪にて御座すべし
阿闍世王と耆婆の関係に事寄せて述べたことについて主君が、自分をあの極悪の阿闍世王と同じ立ち場に論ずるのかと怒られるかもしれない。だが、本当は、その百千万倍も重い罪であると経文に明白であると断ぜられたのである。
それでは、なにゆえ大聖人は阿闍世王以上に罪深いと述べられたのであろうか。阿闍世王の犯した罪は五逆罪である。それに対し、江馬氏は阿弥陀を信ずることによって誹謗正法の罪を犯している。五逆罪は無間地獄におちても一劫であるのに較べ、誹謗正法の場合は「無数劫に及ぶ」と経文に明示されている。ここに仏法の厳しさがあり、謗法の恐ろしさがある。
仏法を知らない江馬氏に対して、仏法の真実を知らせるために、あえて厳しくその非を糺されたところといえよう。
所謂「今此の三界は皆是れ我有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」と文。文の如くば、教主釈尊は日本国の一切衆生の父母なり、師匠なり、主君なり
仏は必ず三徳を具備されている。まず迹門の仏の三徳について法華経譬喩品第三には「今此の三界は、皆な是れ我が有なり、其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり。而るに今此の処は、諸の患難多し、唯だ我れ一人のみ、能く救護を為す」とある。
「皆な是れ我が有なり」は主徳をあらわし、「悉く是れ吾が子なり」は親徳をあらわし、「唯だ我れ一人のみ能く救護を為す」は師徳をあらわし、仏の三徳をあらわしている。
次に、本門の仏の三徳については、本門寿量品にあり、「我此土安穏」の文が主徳、「常説法教化」の文が師徳、「我亦為世父」の文が親徳にあたる。
翻って、末法当今の仏は誰にあたるか。この問いの答えになる本仏とは、西方極楽世界に住する阿弥陀仏でもなければ、インド応誕の釈迦牟尼世尊でもない。末法の荒凡夫日蓮大聖人こそその仏である。
ところで、主師親の三徳とはいかなる徳用をさすのか。働きは何か。開目抄上の講義では、主徳が眷属を守る力、働きであり、師徳が眷属を指導する力であり、親徳が眷属を慈愛する働きであることをすでに示している。
主師親の三徳は、なにも復古調でもなければ、封建倫理の遺物でもない。人間がこの世に生を受け、社会を構成し、生活を営む上で、欠くことのできない本質的な作用である。眷属を守る力がなければ、自分の住む生活空間を築き守り育てることはできない。いな生存すら脅かされるのである。また、人間が各々、大なり小なり持ちうる眷属を指導する力が、全くないなら、社会は善に向わず悪に、幸福に向わず不幸に走る危険すらある。バラバラに生きる人間、烏合の衆と化した群衆のみが築く社会は、無政府状態となり、社会すら構成しえなくなる。更に、眷属を慈愛する働きがなくなれば、人間社会に無慈悲と無情の嵐が訪れ、悲惨と冷酷の地獄の世界を生むであろう。
主徳の主はそれ自体が今日では社会にあたる。したがって、主徳は社会から恩恵を受けるのではなく、社会に恩恵を与えようとする働き、大局観に立った人の働きである。民衆の幸福をつねに第一義と考えて行動する人の働きこそ主徳である。
師徳は、漠然とした人生航路を行く人に、希望と明確な進路への光を与える灯台のような働きをする人である。政治家、教育者等の職業を持つ人をあたら指すのではない。哲学者、思想家をさすのでもない、無名であっても無冠であっても、真実の人生道を毅然と確信に溢れて指導する人こそ師徳を備えた人といえよう。人生の師、人間開眼の指導者を師徳を備えた人というのである。
親徳は、厳父、慈母であらわされる親の徳用でもあるが、更にいえば、人間の不幸を救い、一切の苦悩をわが苦悩と感じてゆく人である。他人を顧みない人、自己の利害のみを考える人は、決して親徳を持つ人とはいえまい。自らも他も共に人間性豊かな生活を、人生が送れるように慈しみ育む働きをなす人が親徳を具えた人といえよう。
これらの三徳をそのまま皆具えた人が日蓮大聖人である。そこで、大聖人御図顕の御本尊を受持し、信行に励める者の五体には、大聖人と同じ三徳の血が脈打ち、躍動することは間違いない。わが人生に、社会に、三徳に満ちた行動を体現し実践する者こそ真の妙法の信仰人なのである。
而るを仏法なれば始終あるべしと思う人、大僻案なり
始めと終わり、つまり説かれた前後の違いだけで、いずれの経によっても成仏できるという玉石混淆の仏教観を破したところである。
こうした考え方は、古来、伝統的に行なわれてきたし、現代においても、日本人の仏教観の基底になっている。しかし、それは、仏教経典の内容や各宗派の教義内容へのなんらの検討もなされないまま、いわば判断放棄の言い訳としていわれているようにさえ思われる。
もし、その内容を厳密に探究し比較検討するならば、こうした言い方が、いかに無責任であるかは明瞭であろう。
第十章(諌言を結す)
本文
随つて頼基は父子二代・命を君に・まいらせたる事顕然なり・故親父中務某故君の御勘気かふらせ給いける時・数百人の御内の臣等・心がはりし候けるに中務一人・最後の御供奉して伊豆の国まで参りて候き、頼基は去る文永十一年二月十二日の鎌倉の合戦の時、折節・伊豆の国に候しかば十日の申の時に承りて唯一人・筥根山を一時に馳せ越えて御前に自害すべき八人の内に候き、自然に世しづまり候しかば今に君も安穏にこそわたらせ給い候へ、爾来・大事小事に付けて御心やすき者にこそ思い含まれて候・頼基が今更・何につけて疎縁に思いまいらせ候べき、後生までも随従しまいらせて頼基・成仏し候はば君をも・すくひまいらせ君成仏しましまさば頼基も・たすけられ・まいらせむと・こそ存じ候へ。
其れに付ひて諸僧の説法を聴聞仕りて何れか成仏の法と・うかがひ候処に日蓮聖人の御房は三界の主・一切衆生の父母・釈迦如来の御使・上行菩薩にて御坐候ける事の法華経に説かれて・ましましけるを信じまいらせたるに候、
現代語訳
したがって頼基は、父子二代にわたり命を主君に捧げましたことは、明らかなことです。亡父中務頼員は、先君が執権より御勘気を受けられたときに、数百人の一族の家臣等が、心変わりした中で、ただ一人、最後まで供奉して伊豆の国までお供しました。
また頼基は、去る文永十一年二月十二日の鎌倉の合戦のとき、折りから、伊豆の国にいましたが、十日の申の時に主君の大事を聞き、ただ一人で箱根山をひとときで馳せ越えて、殿の御前に自害すべき八人の内に加わりました。その後、自然と世の中が静まったので、今では主君も安穏に暮しておられます。それ以来、大事、小事となにごとにつけても心を許せる者と思われる者の中に含めて下さった。その頼基が、いまさらどうして主君を疎縁に思うでしょうか。後生までも主君に随従して、頼基が成仏したならば主君をも救い、主君が成仏されたならば頼基も助けていただこうと思う所存です。
それについて諸僧の説法を聴聞して、いかなる法が成仏の法かと尋ねたところ、日蓮大聖人は、三界の主であり、一切衆生の父母であり、釈迦如来の御使い、上行菩薩であられることが法華経に説かれていたのを信ずるに至った次第であります。
語釈
故君の御勘気
故君とは江馬光時のことと思われる。江馬光時には、四条金吾の父頼員が仕えた。四条金吾は、父頼員の死後、すでに入道になっていた光時と、その子親時に仕えている。寛元4年(1246)4月、北条時頼が執権となるにおよび光時は、将軍藤原頼経を擁して時頼を除こうと謀ったが、五月に謀叛が発覚し、光時は出家し蓮智と名のり伊豆国に流された。この事件が御勘気であり、北条九代記上に記されている。
御供奉
供奉の丁寧表現語。行幸や祭礼などのときにお供の行列に加わること。また、その人。おとも。
文永十一年二月十二日の鎌倉の合戦
文永11年(1274)は文永9年(1272)文永年の誤りであろう。文永9年(1272)の2月騒動をさすと思われる。この事件は北条時輔が家督を時宗に取られたのを恨み謀叛を企てたが発覚し、2月11日には時宗が、名越教時、仙波盛直らを鎌倉で攻め滅ぼした。2月15日には、京都で、北条義宗が時輔を襲撃している。
講義
主君に対する諫言の結論をなす部分が本章である。四条一族は主君江馬氏に代々にわたって尽くしてきた。だが、信仰の問題から関係がこじれ、同僚からの讒言もあって、主君江馬親時と頼基との間に亀裂が生じてきた。桑ヶ谷問答がその両者の間のミゾをさらに深めてしまったわけである。
そこで、本章の段において、主家の危急存亡の折に、いかに四条一門が主家に仕えてきたか、事実をもって誠心を示したところである。そして、四条頼基には、二心のなきこと、さらに、主君の成仏を念ずるが故に諫言し、今生も後生も、ただただ主君の成仏を願うのみであることを述べた段である。
ここで、本章にあらわれた歴史的事件の沿革をみてみると、文中にある「故君の御勘気」とは、寛元4年(1246)の一件である。その時、鎌倉に謀叛があるとの噂が流れた。北条家で、将軍の地位を奪われた前将軍頼経を再び将軍に擁立しようとするものであった。この首謀者のなかに光時が加わっており、光時はこのため入道して伊豆に流されている。
この時、光時の家来のほとんど全てが主君を見限って去っていったのに金吾の父頼員一人、流罪地にまで主君の伴をしたのである。
次に、「去ぬる文永十一年二月十二日の鎌倉の合戦」とあるが、これはおそらく転写のときの誤りで、事件そのものは文永9年(1272)2月に起きた「時輔の乱」である。このときは、光時の弟にあたる教時と時章が首謀者となり、時宗の兄時輔をたて執権職につかせようとはかったわけである。だが、この事件も発覚し、教時、時章、さらに時輔が誅されている。
江馬家では、光時の子親時が当主となっていたものの、教時、時章は親時の叔父にあたる。そのため、一門の忠臣の間では当主がもし誅殺されたなら自害しようとしていたようである。御文の「御前に自害すべき八人の内に」とあるところからも、その模様を伺うことができる。まさに風前の灯が江馬一門であったわけである。
その後、執権からの疑いも晴れ、江馬氏一門は、安穏な日々が送れるようになった。
このように父の代から変わらぬ忠誠を貫き、頼基が日蓮大聖人の教えに従うようになったのも、後生までも主君にしたがい、主君の成仏を願うが故である、と心情を述べている。
第十一章(天変地夭の原因を明かす)
本文
今こそ真言宗と申す悪法・日本国に渡りて四百余年去る延暦二十四年に伝教大師・日本国にわたし給いたりしかども此の国にあしかりなむと思し食し候間宗の字を・ゆるさず・天台法華宗の方便となし給い畢んぬ、其の後・伝教大師・御入滅の次を・うかがひて弘法大師・伝教に偏執して宗の字を加えしかども・叡山は用うる事なかりしほどに・慈覚・智証・短才にして二人の身は当山に居ながら心は東寺の弘法に同意するかの故に我が大師には背いて始めて叡山に真言宗を立てぬ・日本亡国の起り是なり、爾来・三百余年・或は真言勝れ法華勝れ一同なむど諍論・事きれざりしかば王法も左右なく尽きざりき、人王七十七代・後白河法皇の御宇に天台の座主明雲・一向に真言の座主になりしかば明雲は義仲にころされぬ頭破作七分是なり、第八十二代隠岐の法皇の御時・禅宗・念仏宗出来つて真言の大悪法に加えて国土に流布せしかば、天照太神・正八幡の百王・百代の御誓やぶれて王法すでに尽きぬ、関東の権の大夫義時に天照太神・正八幡の御計いとして国務をつけ給い畢んぬ、爰に彼の三の悪法・関東に落ち下りて存外に御帰依あり、故に梵釈・二天・日月・四天いかりを成し先代・未有の天変・地夭を以ていさむれども・用い給はざれば鄰国に仰せ付けて法華経・誹謗の人を治罰し給う間、天照太神・正八幡も力及び給はず、日蓮聖人・一人・此の事を知し食せり、此くの如き厳重の法華経にて・をはして候間、主君をも導きまいらせむと存じ候故に・無量の小事をわすれて今に仕われまいらせ候、頼基を讒言申す仁は君の御為不忠の者に候はずや、御内を罷り出て候はば君たちまちに無間地獄に堕ちさせ給うべし、さては頼基・仏に成り候ても甲斐なしとなげき存じ候。
現代語訳
今、真言宗という悪法が日本の国に渡ってきて四百余年になります。去る延暦二十四年に伝教大師が日本の国に真言宗を渡されたが、この国にとって好ましくない教えと思われたので、宗の字を許さずに、天台法華宗の方便の教えとなされました。その後、伝教大師の御入滅の機会をうかがい、弘法大師は伝教大師に意地を張って宗の字を加えたけれども、叡山では真言宗を用いることがなかった。しかし、慈覚と智証が、短才で、二人は身は叡山に居ながら、心は東寺の弘法に同意したのであろう、自分の先師の伝教大師に背いて、始めて比叡山に真言宗を立てたのです。日本亡国の起こりはこれによります。
それ以来、三百余年の間、ある者は、真言宗が勝れているといい、ある者は、法華経が勝れているといい、ある者は、法華も真言も同じであるというなど、論争の絶えることがなかったので、王法もどちらにも決めかねて、亡びることはありませんでした。しかし人王七十七代・後白河法皇の時に、天台の座主明雲は全く真言の座主となったために、明雲は木曾義仲に殺されました。法華経の「頭破作七分」とはこのことです。
また、第八十二代・隠岐の法皇の時に、禅宗、念仏宗が興って、真言の大悪法に加えて、日本の国土に流布したので、天照太神、正八幡の百王、百代までも守護するとの御誓いは破れて、王法はすでに尽きてしまいました。その結果関東の権の大夫・北条義時に天照太神、正八幡の御計らいで国務をつけられるに至ったのです。
そこで、その三つの悪は京から鎌倉に下ってきたのですが、思いのほか御一門の御帰依がありました。故に、梵天・帝釈の二天、日天・月天・四大天王は怒りを成して、先代未有の天変地夭をもって諫めたけれども、用いられなかったので、隣国に仰せ付けて、法華経誹謗の人びとを治罰しました。それゆえ、天照太神、正八幡の力も及びませんでした。日蓮聖人御一人だけがこのことを知っておられたのでした。
このように厳重な法華経である故に、主君をもお導きしようと思うので、無量の小事を忘れて今日までお仕えしてまいりました。この頼基を讒言する人は、主君のためには、不忠の者ではないでしょうか。頼基が御内を去ってしまうならば、主君は、たちまちのうちに無間地獄に堕ちられるでありましょう。それでは、頼基一人が成仏してもなんの甲斐もないと嘆くばかりでございます。
語釈
叡山
比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
慈覚
(0794~0864)。日本天台宗の第三祖。諱(いみな)は円仁。延暦13年(0794)に下野国に生まれ、幼いときから経史を学び、15歳のときに比叡山に登り伝教大師の弟子となる。承和年(0838)、勅を奉じて入唐して顕密二道の勝劣と天台宗を修学する。承和14年(0847)帰朝。仁寿4年(0854) 円澄の跡を禀けて第三祖の座主となる。慈覚は、天台座主でありながら、真言宗の邪義を取り入れ台密と名のり、大日如来を本尊とした。日蓮大聖人は、撰時抄(0279)に「これよりも百千万億倍信じがたき最大の悪事はんべり」と、日本国滅亡の原因をつくったことを厳しく責められている。貞観6年(0864)没。著書に入唐巡礼記、金剛頂経疏等がある。
智証
(0814~0891)。延暦寺の第五座主。智証派の祖。天台宗寺門派の祖でもある。諱は円珍。弘仁5年(0814)、讃岐国那珂郡に生まれ、15歳で叡山に登り、座主・義真の弟子となる。嘉祥元年(0848)、大極殿の吉祥会で法相宗の義虎知徳と法論し、これを破した。仁寿3年(0853)、勅を受けて入唐し、長安の法全から密教を学んで天安2年(0858)に帰国した。貞観元年(0859)、三井園城寺を再興して唐院を建て、唐から持ち帰った経書を移蔵した。同10年(0868)に延暦寺の座主となる。慈覚以上に真言を重んじ、仏教界混濁の源をなした。寛平3年(0891)10月、78歳で没。著書に大日経指帰、在唐記等がある。
短才
才能の乏しいこと。
東寺
第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。
諍論
正邪・是非を論じあうこと。
王法
①国王・君主が定める国の法令。②憲法・法律③社会の習慣・規範
後白河法皇
大治2年(1127)~ 建久3年(1192)。在位は久寿2年(1155)~ 保元3年8(1158))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。
御宇
ひとりの天子の時代。
明雲
(~1183)。比叡山延暦寺第55・57代の座主で房号は慈雲。仁安2年(1167)座主となる。比叡山の末寺である加賀の鵜河寺で起きた事件に対し、朝廷に強訴したところ、後白河法皇の院勘を蒙り、伊豆に流されようとした。山僧はこれを叡山の恥辱として大津の途中で明雲を奪い取り、治承3年(1179)11月に再び座主となる。寿永2年(1183)、源義仲に頸を斬られた。年69歳。なお本章の死亡説の他、法皇の住居・法住寺殿に参籠していて、京外撤退を命ぜられ法皇を襲った義仲に頸を斬られたとか、流れ矢にあたったとかの説もある。なお本文に、「第五十代の座主」とあるがその意は不明。
義仲
(1154年~1184)。源義仲。源氏の武将で義賢の子。幼名は駒王丸。叔父の源行家より以仁王の平氏追討の令旨を伝えうけ、兵をおこした。北陸方面に向かい、寿永元年(1182)に信濃の千曲川で、越後の城長茂を破り北陸を平定した。寿永2年(1183)5月、砺波山、倶利伽羅峠に平維盛の大軍を破った。更に平氏を西へ追い京都に入った。ところが入京後の義仲の悪政および兵士の狼藉により、後白河法皇は頼朝に義仲追討の院宣を下した。これを察知した義仲は11月19日法皇の住んでいた法住寺殿を襲い火を放った。法皇を幽閉し、寿永3年(1184)正月には征夷大将軍となったが、範頼・義経の軍に攻められ、近江の粟津で討ち死にした。時に31歳。
頭破作七分
陀羅尼品の偈文。鬼子母神・十羅刹女が法華経の行者を悩乱するものの頭を阿闍梨の枝のように破るとの誓いを立てた。頭破作七分・心破作七分ともいい、大御本尊および大御本尊を信ずる人を誹謗するものは、頭が壊れ、心が錯乱し、支離滅裂になるとの意である。
隠岐の法皇
(1180~1239)。第82代後鳥羽天皇のこと。高倉天皇の第四皇子。寿永2年(1183)に安徳天皇が平氏とともに都落ちしたのち、同年8月、祖父・後白河法皇の院旨で即位し、三種の神器を持たぬ天皇となった。その治世は平安時代末の動乱期で源平の対立、鎌倉幕府成立の時期であった。天皇は19歳で土御門天皇に位を譲って院政をしき、幕府に対しては外戚坊門信清の娘を源実朝の室とし、その子を次の将軍とすることを密約したが、実朝の横死で果たさなかった。実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、政権を朝廷に奪回しようと、順徳上皇や近臣と謀って、承久3年(1221)義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈禱をさせたが効なく、敗れて出家し隠岐に流された。このため隠岐の法皇と呼ばれた。
権の大夫義時
(1163~1224)。北条義時のこと。建保5年(1217)右京権大夫になったところからこの呼称となる。
梵釈
大梵天王と帝釈天王のこと。①梵天。三界のうち色界の忉利天にいて、娑婆世界を統領している色界諸天王の通称である。この天は色界の因欲を離れて寂静清静であるという。このうちの主を大梵天王といい、インド神話では、もともと梵王は万物の生因、すなわち創造主とするが、仏教では諸天善神の一つとしている。②帝釈。釈迦提桓因陀羅、略して釈提桓因ともいう。欲界第二の忉利天の主で、須弥山の頂の喜見城に住して、三十三天を統領している。③法華経では、梵天・帝釈は眷属の二万の天子とともに、法華経の会座に連なり、法華経の行者を守護すると誓っている。
講義
真言の悪法が平安朝以後、どのように日本の国を毒してきたか、更にそれに加えて、鎌倉時代に入ってから、禅、念仏が弘まり、いかに一国を危機におとしいれているかを示している。その災難の根本原因をただ一人知っているのが日蓮大聖人であり、その一門である四条金吾を讒言する人は不忠の人であり、もし、四条金吾が江馬家を去ってしまうならば、主君はたちまち無間地獄に堕ちてしまうであろうと断言しているところである。
この原理は、時代は変わっても、あらゆる日蓮大聖人の門下の胸中に秘めて伝えられなければならない大精神である。すなわち、民衆を、社会を苦悩のどん底におとさせないための、重要な支えとして自分はこの社会にいるのだという自覚と、それを裏づける社会での実践がなければならない。その人こそ、真実の日蓮大聖人の弟子であり、大仏法の信仰者といえるのである。
日蓮聖人一人此の事を知し食せり
人生、社会の幸・不幸の根本原因を知られた方は、日蓮大聖人ただお一人であることを頼基の言葉に託して獅子吼なされた御文である。
それでは、日蓮大聖人ただお一人が知られた根本原因とは何であろうか。それは、思想・宗教に善悪・正邪があり、それがそのままそれを信ずる人間生命に反映し、幸・不幸を左右するとの命題である。
だがここに、この幸・不幸の根本原因をただ知ることだけに日蓮大聖人の本義があるのではないことを知らねばならない。あくまでも、末法万年尽未来際の民衆救済のための一閻浮提総与の御本尊の建立こそ日蓮大聖人の究極の大目的であり、その前提条件として幸・不幸の根源を明かされたのである。
それは、医者が、始めに患者の診察をして、病気の原因を知ってから、病に応じた適切な治療を施すようなものである。医者は、身の病を治すのが使命である。仏は、心の病――人間生命の苦悩を解決するのがその使命である。つまり、日蓮大聖人のこの獅子吼は、民衆に幸福を享受せしめるための究極の実体=御本尊の御図顕が内に秘められての宣言であって、御本尊御図顕の前に、衆生の病――不幸の根源を浮き彫りにしての宣言であることを知らなければ、画竜天晴を欠くことになるといえよう。
第十二章(起請文の提出を拒む)
本文
抑彼の小乗戒は富楼那と申せし大阿羅漢・諸天の為に二百五十戒を説き候しを・浄名居士たんじて云く「穢食を以て宝器に置くこと無れ」等云云、鴦崛摩羅は文殊を呵責し・嗚呼蚊蚋の行は大乗空の理を知らずと、又小乗戒をば文殊は十七の失を出だし如来は八種の譬喩を以て是をそしり給うに・驢乳と説き蝦蟆に譬えられたり、此れ等をば鑒真の末弟子は伝教大師をば悪口の人とこそ・嵯峨天皇には奏し申し候しかども経文なれば力及び候はず、南都の奏状やぶれて叡山の大戒壇立ち候し上は、すでに捨てられ候し小乗に候はずや、頼基が良観房を蚊蚋蝦蟆の法師なりと申すとも経文分明に候はば御とがめあるべからず。
剰へ起請に及ぶべき由仰せを蒙むるの条存外に歎き入て候、頼基・不法時病にて起請を書き候程ならば君忽に法華経の御罰を蒙らせ給うべし、良観房が讒訴に依りて釈迦如来の御使・日蓮聖人を流罪し奉りしかば聖人の申し給いしが如く百日が内に合戦出来して若干の武者滅亡せし中に、名越の公達横死にあはせ給いぬ、是れ偏に良観房が失ひ奉りたるに候はずや、今又・竜象・良観が心に用意せさせ給いて頼基に起請を書かしめ御座さば君又其の罪に当らせ給はざるべしや、此くの如き道理を知らざる故か、又君をあだし奉らむと思う故か、頼基に事を寄せて大事を出さむと・たばかり候・人等・御尋ねあつて召し合わせらるべく候、恐惶謹言。
建治三年丁丑六月二十五日 四条中務尉頼基・請文
現代語訳
そもそも彼の小乗戒は、富楼那という大阿羅漢が諸天のために二百五十戒を説いたのを、浄名居士が破折して「穢れた食物を宝の器に入れてはならない」といい、鴦崛摩羅は文殊を呵責して「ああ、蚊や蚋の修行は大乗の空の理を知らない」といっています。また、小乗戒について文殊は、大乗戒と比較して十七の失をあげ、釈迦如来は八種の譬喩をもって小乗戒をそしられています。伝教大師は小乗戒を驢馬の乳と説き、蝦蟆に譬えられています。
これらについて鑒真の末弟子は、伝教大師を悪口の人であると、嵯峨天皇に訴えましたが、経文に説かれていることであるからどうしようもありませんでした。南都六宗からの奏状は破れて、叡山の大戒壇が建立されたからには、すでに捨てられてしまった小乗戒ではないでしょうか。
したがって頼基が良観上人のことを、蚊、蚋、蝦蟆の法師であると悪口しても、経文に明らかなことであるから御咎めを受けるはずはないと思います。 そもそも彼の小乗戒は、富楼那という大阿羅漢が諸天のために二百五十戒を説いたのを、浄名居士が破折して「穢れた食物を宝の器に入れてはならない」といい、鴦崛摩羅は文殊を呵責して「ああ、蚊や蚋の修行は大乗の空の理を知らない」といっています。また、小乗戒について文殊は、大乗戒と比較して十七の失をあげ、釈迦如来は八種の譬喩をもって小乗戒をそしられています。伝教大師は小乗戒を驢馬の乳と説き、蝦蟆に譬えられています。
これらについて鑒真の末弟子は、伝教大師を悪口の人であると、嵯峨天皇に訴えましたが、経文に説かれていることであるからどうしようもありませんでした。南都六宗からの奏状は破れて、叡山の大戒壇が建立されたからには、すでに捨てられてしまった小乗戒ではないでしょうか。
したがって頼基が良観上人のことを、蚊、蚋、蝦蟆の法師であると悪口しても、経文に明らかなことであるから御咎めを受けるはずはないと思います。
そのうえ「起請文を書くように」との仰せを受けたことは思いのほかのことで残念でなりません。頼基が、仏法に背いている時代の風潮のままに、起請文を書いてしまうようであれば、主君はたちまちのうちに法華経の御罰を身に受けるでありましょう。
良観上人の讒訴によって、釈迦如来の御使いである日蓮聖人を佐渡流罪に行なったところ、日蓮聖人のいわれたように百日以内に合戦が起こり、多数の武者が滅亡してしまいました。その中には、名越の公達も横死にあわれているのです。これはひとえに良観上人が武者達を失わせたものではないでしょうか。今、また、竜象房や良観上人の考えに意を用いられて、頼基に起請文を書かせられるならば、主君もまたその罪に相当するのではないでしょうか。
このような道理を知らない故でありましょうか。それとも主君に害を加えようと思う故でしょうか、いずれにしても、頼基に事寄せて、大事を引き起こそうと謀っているその人びと等を呼ばれて、私と召し合わせていただきたいのでございます。恐惶謹言。
建治三年丁丑六月二十五日 四条中務尉頼基 請文
語釈
小乗戒
小乗教で説かれる戒・戒律のこと。戒は防非止悪の義で、大乗戒と小乗戒に分けられる。小乗戒には五戒・八斉戒・具足戒などがある。五戒・八斉戒は在家男女が持ち、具足戒は出家者が持つもので、比丘は二百五十戒、比丘尼は五百戒とされる。天台法華宗年分得度者回小向大式には小乗戒について「小乗戒とは小乗律に依り、師に現前の十師を請して、白四羯磨す。清浄戒律の大徳十人を請して三師七証と為す。若し一人を闕かば戒を得ず」と述べられている。
富楼那
釈迦十大弟子の一人。法華経序品の説法の会座につらなり、説法第一といわれた阿羅漢。法華経五百弟子受記品で法明如来の授記を受けた。ここでは、富楼那がいまだ小乗戒に執着して、大乗の機根に対して小乗戒を説いた。それに対して、維摩詰が機根を観じて説法せよと誡めたことをいう。
大阿羅漢
阿羅漢・羅漢のこと。無学・無生・殺賊・応供と訳し、小乗教を修行した声聞の四種の聖果の極位。一切を学び尽くして、さらに学ぶべきがないので無学、再び三界に生ずることができないので無生、見思の惑を断じ尽くすので殺賊、衆生から礼拝を受け、供養に応ずるので応供という。
浄名居士
梵語では維摩羅詰、毘摩羅詰という。釈迦在世の時に中インドの毘耶離城に住んでいた大富豪。在家の仏弟子でありながら、大乗経を悟り、雄弁家で、智慧第一の舎利弗も及ばなかったという。仏道に大精進をした理想的な大檀那で、維摩経に説かれている。維摩の本地は阿閦仏すなわち、無動如来の浄土・妙喜国であり、維摩はその垂迹の姿であると説かれている。
穢食
不潔な食物のこと。
鴦崛摩羅
梵語で指鬘、指髻と訳す。本名は一切世間現。梵名アングリマーラー(Angulimālā)の音写。釈迦在世当時、インド波斯匿王の室羅婆悉底城に鴦崛摩羅という男がいて、頗羅呵私村の外道の摩尼跋陀羅という外道について四吠陀を学んでいた。師匠の摩尼が留守にしたときに、摩尼の妻との間を疑われ、師匠より「千人を殺し、その指を取って罪を滅せ」と厳命された。鴦崛は九百九十九人の指を取り、残る一人の指を切り取るために自分の母を殺害しようとしたので、仏はこれを教化した。その後鴦掘は大乗の法要を得て、大乗を讃嘆し、小乗真空の理に執着している目連、舎利弗、文殊師利の誤りを破折した。
蚊蚋
カとブヨのこと。小乗教の教えを蚊蚋と呵責している。
文殊
文殊師利菩薩のこと。梵語マンジュシュリー(maJjuzrii)の音写で、妙徳・妙首・妙吉祥などと訳す。普賢菩薩と共に迹化の菩薩の上首であり、獅子に乗って釈尊の左脇に侍し、智・慧・証の徳を司る。文殊は、般若を体現する菩薩で、放鉢経には「文殊は仏道中の父母なり」と説かれ、他の諸経にも「菩薩の父母」あるいは「三世の仏母」である等と説かれている。法華経では、序品第一で六瑞が法華経の説かれる瑞相であることを示し、法華経提婆達多品第十二では女人成仏の範を示した竜女を化導している。
驢乳
驢馬の乳のことで、まずくて飲みにくいので、とるに足りない小乗戒に喩えられる。大智度論巻第十八には「譬えは牛乳と驢乳との如し、其の色は同じと雖も、牛乳を攢むれば則ち酥と成り、驢乳を攢むれば則ち尿と成る」とある。また伝教大師の顕戒論巻中にも「牛驢の乳、其の色別ち難く、両迦の果、其の形何ぞ別たん」と述べられる。
蝦蟆
慈覚は顕揚大戒論で「若し別に菩薩戒無きは牛跡の外に応に大海無かるべし。若し無きと言わんは何ぞ蝦蟆に異らん。若し有りとせば当に知るべし小戒の外別に大乗菩薩戒なりと」と説き小乗戒に執着して大乗菩薩戒は無いという者を蝦蟆に譬えた。
鑒真
(0688~0763)。奈良時代の渡来僧。日本律宗の祖。唐の揚州(江蘇省)の人。14歳にして出家し、南山律宗の開祖・道宣の弟子道岸にしたがって菩薩戒を受け、章安の孫弟子弘景にしたがって天台並びに律を学んだ。天平勝宝5年(0753)渡来。聖武上皇の帰依を受け、東大寺、下野の薬師寺、筑紫の観世音寺に小乗の戒壇を建立した。来日の途上において失明したが、一切経を校し、律本を印行した。
嵯峨天皇
(0786~0842)日本の第52代天皇。諱は神野。桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子。
起請
祈請文のこと。神仏に誓いを立てて、自分の行為、言説に偽りがないことを表明した文書・誓紙・厳守すべき事項を記した前書き部分と、もしこれに違背すれば神仏の罰を受ける旨を記した神文からなるもの。
讒訴
他人をおとしいれようとして、事実を曲げて言いつけること。
若干
①いくつか。いくらか。②多数。多く。たいそう。はなはだ。ここでは②の意か。
名越の公達
名越家の子弟。北条義時の次男の朝時が鎌倉・名越に住んでいたことからこう呼ばれる。
講義
本章は、頼基陳状の最終章であり、主君に対して、きっぱりと起請文の提出を拒否した段である。前段では、頼基が良観を悪く言う理由を、良観所依の小乗・律宗に対して経文を引き示されている。後段では、起請文の提出拒否の理由を、名越の公達の先例に基づき、仏法の厳しい因果の理法を通して述べられているところである。
極楽寺良観の正体については、本講義の第五章で見てきた通りである。ここでは、良観の人間像ではなく、良観所依の小乗・律宗を取り上げ、法の面からの破折がなされている。
浄名居士が富楼那を破した文は、末法の衆生に小乗教を説く良観の説法への破折である。また、鴦崛摩羅が文殊を呵責した文は、小乗教に執着していては、仏の説法の根本思想である大乗空の思想を知ることができないことを指摘したものである。そして、清浄毘尼経に説かれた文殊の十七の失、並びに釈迦如来の八種の譬喩は、小乗と大乗を持つ者の功徳に天地雲泥の違いのあることを示している。また、小乗戒が自己を利する自行の法に偏った教であるのに対して、大乗戒は自行に限らず広く衆生を救う利他の教であることを述べたものである。
次に、伝教の驢乳の譬えは、小乗戒が衆生の成仏の法でないことを端的に述べたものである。すなわち、牛乳が渇ける衆生の喉を潤し生命を育んでいくのに対して、驢乳はまずく飲むにたえないことから肯けよう。また、蝦蟆の譬えは、「井の中の蛙大海を知らず」との格言で周知の通り、小乗戒が広く社会のために開かれた宗教ではなく、閉じた宗教であることを示したものである。
しかも、その小乗戒は、大乗戒の成立までの生命であり、日本においては、伝教大師が叡山に大乗の戒壇を建立したのと同時に、南都の小乗戒は破棄された宗教である。したがって、今さら小乗戒を説くことは、時代錯誤もはなはだしいと諭され、良観破折の理由とされている。
次に、主君の最大の関心事である起請文の提出について述べている。
はじめに、桑ヶ谷問答の一件が主君の勘気を被り、起請文の提出にまで及んだことは、思いの外のことであり、家臣として大変嘆かわしいと頼基の心情を語っている。そして、起請文の提出を拒否する理由が述べられている。すなわち、頼基が起請文を書かないのは、仏法の法理に照らして、主君が名越の公達の轍を踏ませないためであると述べたのである。名越の公達の轍とは、文永9年(1272)2月の北条時輔の乱で横死した名越時章、教時のことである。しかもこの二月騒動こそ、前年の9月10日に日蓮大聖人が「遠流・死罪の後、百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし」(0911:種種御振舞御書:11)と予言した自界叛逆難の的中であった。そして、この自界叛逆難の淵源は、良観の讒訴に端を発する日蓮大聖人の竜口の頸の座であり、佐渡への遠流にあった。換言すれば、名越の公達の横死の元凶は、他ならぬ極楽寺良観その人であることを主君に示されたわけである。主君にとっては、起請文を要求した行為が、名越の公達の二の舞を踏むとの厳しい警告であった。なぜなら、主君は良観への帰依厚く、また起請文の提出を目論んだ張本人は良観であり、竜象房であったからである。
そして最後に、頼基に事寄せて大事を起こそうと謀っている関係者らを呼ばれて、頼基と召し合わせられることを願い、本状を結ばれている。