四条金吾殿御返事(八風抄)
建治2年(ʼ76)または同3年(ʼ77) 55歳または56歳 四条金吾
背景と解説
これは、日蓮大聖人が鎌倉に住む忠実な弟子、四条金吾に送られた数多くの手紙のうちの一通である。金吾が大聖人の教えに深く帰依していたため、彼は1276年、鎌倉近郊の所領から遠く離れた越後国(現在の新潟県)への移転を命じられた。この手紙に日付はないが、建治3年(1277年)に執筆されたことが分かっている。
「八風(はっぷう)」の概念は、『仏地経論(ぶっちきょうろん)』などの著作に記されている。それらは、繁栄、名誉、称賛、楽しみ(四順:しじゅん/4つの好ましい風)への執着や、衰退、不名誉、非難、苦しみ(四違:しい/4つの逆風)への忌避によって、心が揺り動かされないように人々に説くものである。
大聖人は金吾に対し、主君(江間氏)との良好な関係を保つよう戒め、幕府が大聖人とその門下を迫害していた佐渡流罪の間も、主君江間氏が金吾への嫌がらせを控えていたことを思い出させている。そして、信心を第一に置き、主君に対する恨みの感情を抑えることによってのみ、この行き詰まった状況を打破する道が見つかるのだと説いている。また、訴訟やその他の手段は信心に比べれば二次的なものであり、もし金吾が勝利を望むのであれば、大聖人の教えに厳密に従って行動しなければならないとも述べている。
第一章(主君の大恩を述べる)
本文
はるかに申しうけたまわり候わざりつれば、いぶせく候いつるに、かたがたの物と申し、御つかいと申し、よろこび入って候。またまぼりまいらせ候。
所領の間の御事は、上よりの御文ならびに御消息引き合わせて見候い畢わんぬ。このことは、御文なきさきにすいして候。
上には最大事とおぼしめされて候えども、御きんずの人々のざんそうにて「あまりに所領をきらい、上をかろしめたてまつり候。じゅうおうの人こそおおく候に、かくまで候えば、しばらく御恩をばおさえさせ給うべくや候らん」と申しぬらんとすいして候なり。それにつけては御心えあるべし。御用意あるべし。
我が身と申し、おや・るいしんと申し、かたがた御内に不便といわれまいらせて候大恩の主なる上、すぎにし日蓮が御かんきの時、日本一同ににくむことなれば、弟子等もあるいは所領をおおかたよりめされしかば、また方々の人々もあるいは御内の内をいだし、あるいは所領をおいなんどせしに、その御内になに事もなかりしは、御身にはゆゆしき大恩と見え候。このうえは、たとい一分の御恩なくとも、うらみまいらせ給うべき主にはあらず。それにかさねたる御恩を申し、所領をきらわせ給うこと、御とがにあらずや。
現代語訳
久しくお手紙をうけたまわらないので、心もとなく思っていましたが、さまざまな御供養の物や、おつかいを受け、非常にうれしく思いました。また、お守り御本尊を差し上げましょう。
所領訴訟の間題に関しては、主君から、あなたにあてたお手紙と、あなたのお手紙を引き合わせて拝見いたしました。このことについては、お手紙をいただく前から推察はしていました。主君は、このことを最も大事と思われているのに、御近臣の人々が讒奏して「頼基は、あまりにもふり替えられる所領をきらって、主君をあなどっているではないか。わがまま者は多いが、これほどまでわがままな者に対しては、しばらく恩をさし押えられてはどうでしょう」と申し上げたのではないかと推量している。それについては、十分な腹がまえをもって臨みなさい。
あなた自身といい、親・親族といい、それぞれ家中のものとして恩恵を受けた大恩ある主君である。その上、日蓮が御勘気を受けた時、日本国一同の人が憎んでいたから、弟子等もある者たちは所領を幕府から取りあげられ、またその者たちの主君にあたる人々も、あるいは家中から勘当し、あるいは所領を追いはらったりしたのに、江馬氏からあなたに何のおとがめもなかったのは、あなたにとっては、なみなみならぬ大恩を受けたことになる。
このような大恩をうけたからには、たとえこれから一分の御恩を受けなくても、恨むべき主君ではない。それに重ねての御恩を期待して、これほどの領地をきらわれていることはあやまりではなかろうか。
語釈
所領の間の御事
建治2年(1276)におきた越後への領地替えの問題をさす。
日蓮が御かんきの時
御かんきは国家権力者、または主君からとがめをうけること。死罪・流罪等、公の罪科に処せられること。ここでは日蓮大聖人が幕府の迫害を受けて佐渡に流罪されたことをさす。
講義
本抄は、建治3年(1277)日蓮大聖人が56歳の時、身延で認められたものである。内容が、賢人がおかされないという八風について説かれているところから、別名を八風抄ともいわれている。
かねてから主君思いの四条金吾に対する、主君の信頼は厚かったが、同僚の家臣の中には、金吾を妬んで、主君に讒言するものが多かった。
そのためか、建治2年(1276)の9月には主命と称して減俸となり、越後に領地替えの内命が下った。更に、建治3年(1277)になると、領地替えの件について承諾しなかった四条金吾に対し、主君の恩命に従わない家臣なら、その領地を没収すべきであると進言するものがあって、四条金吾はいよいよ窮地においこまれたのである。
そこで四条金吾は、その事情を身延の大聖人のもとに報告するとともに、同僚を主君に訴える意をもらしたようである。
それに対して大聖人は、長年にわたっての恩ある主君であるのだから、人に乗ぜられて事を起こし、主君と争ったり、非理に恨んではならない。得意になって喜んだり、また失意にあって嘆いたりするのではなく、八風に犯されない賢人として、信心強盛に、主君に仕えるならば、かならず諸天は守護するのである。また、物事の祈りが叶うためには、師匠と弟子の心が合致するという師弟不二の信仰を貫くことが大切であり、そうすれば祈りは成就するであろうと、四条金吾を激励されているのである。
当時の大聖人及び門下に対する幕府の態度をよく観察され、四条金吾の一徹な気性もふまえたうえで、幕府に仕える武士の立場と使命を、よく理解されての細やかな御配慮と指導である。
あくまで信心第一にして、しかも信心に反対の主君や同僚にも、しっかり仕えて武士の第一人者になるようにとの一面厳しい大聖人の指導でもある。これは、仏法を持つものの心すべき原理であるともいえよう。
仏法は、人間の生命の内面に光りをあて、そこに厳然とした法が貫いていることを説ききわめたものであるから、そこに通達していくことは、その生命の発動の場であり、人間が織りなしている社会の法にも通達していくことができるのである。
ゆえに、純粋な信心を持続し、人間革命を目指すのならば、社会生活においても立派でなければならないし、仏法の理にかなった生活を営んでいくべきである。
四条金吾は大聖人のこの厳しい指導があればこそ、ついに「法華宗の四条金吾」(1118:01)、「あはれをとこやをとこや」(1175:09)と鎌倉の人々にいわれるだけの信心と宮仕えをやりとげたのである。そしてまた、それだけの信心と実践力がある弟子であったがゆえに、大聖人は四条金吾に厳しい指導をされたともいえよう。
第二章(賢人の条件を示す)
本文
賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなりしかるを・ひりに主をうらみなんどし候へば・いかに申せども天まほり給う事なし、
現代語訳
賢人は八風といって八種の風に犯されないのを賢人というのである。八風とは、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽である。おおよそ、世間的利益があっても喜ばず、衰えるのを嘆かないなどということである。この八風に犯されない人を、必ず、諸天善神は守られるのである。ところがそれを、道理にそむいて主君を恨んだりすれば、どんなに祈っても諸天は守護しないのである。
語釈
賢人
賢明で高い人格をもった指導者。聖人が独創的な開拓者であるのに対し、賢人はそれをひきついでいく人を指す。仏法の上では聖人である仏の教えを守り、弘めていく人が賢人といえる。
八風
人心を煽動するゆえに八風という。四順(利・誉・称・楽)と四違(衰・毀・譏・苦)に分かれ、一切衆生は四順を愛欲し、四違を忌避しようとするために八風におかされる。
講義
真実の賢人とは、どのような人をいうのかを、明快に示されている。
ふつう、賢人というと、自然界や社会の法に通達し、誤りのない判断をできる人を考える。たとえば、政治について、あるいは経済について、あるいは気象について、それぞれに賢人がある。しかし、ここにいう賢人とは、そうした外界の各分野についての賢人ではなく、自分というものを正しく知り、外界からの縁に紛動されて迷うことのない人をいうのである。
ソクラテスがいったように「汝自身を知る」ことが、この八風におかされないということの元意であり、ポイントである。その賢人こそ、部分的問題についての〝賢人〟でなく、全てについての〝賢人〟たりうるのである。八風におかされてはならないからといって、外界からのこうした縁は、人間として生きている限り遮断できるものではないし、また、こうしたことに堅く心を閉ざしていくとすれば、それは人間性を封じこめ、圧殺し、人生を味気ない砂漠のようなものにしてしまうだけであろう。
大事な点は、そのような消極的、閉鎖的な姿勢をいうのではなく、自己自身を知り、確立し、そこから、人生の変化、波を悠々と楽しんでいく積極的な姿勢をいったものとして捉えることである。
「天がまもる」ということは、外界のあらゆる事象が、自分にとって有利なように働いてくることを意味する。確固たる自己に立って主体的に対処していくとき、外界の事象を、自身のために有利に転換し、生かしていくことができるし、また、事実、外界も変化していくのである。
第三章(師弟不二の祈りを説く)
本文
訴訟を申せど叶いぬべき事もあり、申さぬに叶うべきを申せば叶わぬ事も候、夜めぐりの殿原の訴訟は申すは叶いぬべきよしを・かんがへて候しに・あながちに・なげかれし上日蓮がゆへに・めされて候へば・いかでか不便に候はざるべき、ただし訴訟だにも申し給はずば・いのりてみ候はんと申せしかば、さうけ給わり候いぬと約束ありて・又をりかみをしきりにかき・人人・訴訟ろんなんど・ありと申せし時に此の訴訟よも叶わじとをもひ候いしが・いままでのびて候。
だいがくどのゑもんのたいうどのの事どもは申すままにて候あいだ・いのり叶いたるやうに・みえて候、はきりどのの事は法門の御信用あるやうに候へども此の訴訟は申すままには御用いなかりしかば・いかんがと存じて候いしほどに・さりとては・と申して候いしゆへにや候けん・すこし・しるし候か、これに・をもうほど・なかりしゆへに又をもうほどなし、だんなと師とをもひあわぬいのりは水の上に火をたくがごとし、又だんなと師とをもひあひて候へども大法を小法をもつて・をかしてとしひさしき人人の御いのりは叶い候はぬ上、我が身も・だんなも・ほろび候なり。
現代語訳
訴訟というものは、公に申し上げて叶うこともあれば、訴えずにいれば叶うものを、申し上げたために叶わなくなることもある。夜回りの方たちの訴訟は、申し上げて叶うてだてを考えていたところ、あまり強くなげかれていた上、それも日蓮の門下であるために屋敷や所領を没収されたのであるから、どうしてかわいそうだと思わないことがあろうか。ただし、訴訟をされないのであれば、祈ってあげようといったところ、そのようにいたしますと約束したのである。また公文書をしきりに書いて、人々の間に訴訟についての議論がさかんであるといわれている折、この訴訟は、おそらく叶うまいと思っていましたので、今まで、そのままになっている。
比企大学三郎能本殿や、池上右衛門大夫殿のことは日蓮のいった通りにされたから、祈りが叶ったようである。波木井六郎実長殿は法門のことについては御信用なさっているようだが、この訴訟に関しては日蓮のいうとおりにはお用いにならなかったから、どうであろうかと思っていたところ、それでは訴訟は叶わないと注意しておいたからであろうか、多少の効果はあったようである。
だが、こちらで思うほどに聞き入れなかったので、訴訟の効果も思うほどでなかった。このように、檀那と師匠とが心を同じくしない祈りは、水の上で火を焚くようなもので叶うわけがない。
また、檀那と師匠とが心を同じくした祈りであっても、長い間、小法によって大法を犯している人々の祈りは叶わないばかりか、わが身も檀那も、共に滅びるのである。
語釈
夜めぐりの殿原の訴訟
夜めぐりの殿原とは、一説には鎌倉荏柄の警護の任にあたっていた者といわれるが、四条金吾の弟達のことをさすとの説もある。ここではこの夜回りの殿原の訴訟は叶わないだろうと考えて指導された大聖人の仰せを、忠実に実行しないため、おもわしい結果にならなかった、身近な例を引かれて、金吾に訴訟を起こすことは得策ではないことをさとされている。
をりかみ
奉書等の紙を半折りにし、それに書いた訴状、目録のこと。公文書等に使う。
だいがくどの
(1202~1286)。比企大学三郎能本のこと。鎌倉幕府初期の儒官であった比企能員の子。比企家が没落した後、京都で儒学を学び、順徳上皇に仕えた。のちに鎌倉幕府に仕え儒官となる。立正安国論の校訂者であるといわれている。大学三郎の入信については、日蓮大聖人が立正安国論を、あらかじめ能本にみせたことが大聖人への帰依の縁となり、みずから出家して本行院日学と称し、大聖人の弟子として純真な信仰者となった。のちに、自分の住居を投じて、寺を建立した。比企ケ谷妙本寺がそれである。弘安9年(1286)に世を去った。
ゑもんのたいうどの
池上右衛門大夫宗仲のこと。鎌倉幕府の作事奉行であった池上左衛門大夫康光の子、兵衛志宗長の兄。池上家は武蔵国千束池のほとりに住居をかまえ、池加美の名をもって氏とした。宗仲、宗長兄弟は鎌倉にあり、また弁阿闍梨日昭の甥であった関係から、早くも建長8年(1256)ごろに日蓮大聖人に帰依していた。このことは四条金吾と共に、在家の中で最古参に属する。極楽寺良観の熱心な信奉者である父に、二度にわたって勘当をうけている。しかし、大聖人からの、「兄弟抄」等のお手紙で励まされ、ついには弟とともに父を入信させることができた。なお、永仁元年(1293)、72歳で没したといわれている。
はきりどの
波木井六郎実長のこと。入道して法寂房日円といった。念仏を信仰していたが、文永のはじめ日興上人に会い、その縁で念仏を捨てて一族ともども法華経に帰伏した。日蓮大聖人が文永11年(1274)4月、三度目の国諫の後、鎌倉を去られるにあたって身延山に草庵をつくり大聖人を招いた。しかし大聖人滅後、五老僧とともに日興上人に違背し、四箇の謗法を犯した。このため、日興上人は正応2年(1289)身延を離山し、河合を経て富士上野の南条時光のもとに行かれた。後、日興上人は誡状を実長のもとに送られたが、聞き入れないため、やむなく義絶された。永仁5年(1297)9月25日、76歳で没した。
講義
おそらく所領のことについて訴訟を起こしたい旨、四条金吾が申しあげたのであろう。その訴訟の問題について、叶った人、叶わないでいる人の例を具体的にあげながら、何が大事かを示されている。
ただし、ここで大聖人が問題にされているのは、純然たる法制上のことではない。それは当時の幕府政治にあって行なわれていた法と、現実に四条金吾が直面している事態との関係で判断すればよいことだからである。
大聖人が指導されているのは、一つは、それ以前の問題、つまり、人間としていかにあるべきかということである。前章の「ひりに主をうらみなんどし候へば、いかに申せども天まほり給う事なし」というのが、それである。法律上では訴えることに理があっても、長年の間柄や、その間に受けてきた恩恵からみた場合、人間として正しくないことがある。
事件そのものについては理があっても、人間としての道から外れている場合には、天の加護はない、というのが大聖人の指導である。天の加護がないということは、いろいろに考えられるが、身近な例でいうと、人々から恩知らずな人間として、訴訟には勝っても見放されてしまうなどが、それに当たるといえよう。
このように、それだけの視野で判断するのでなく、広く人間としての原点に立ちもどって、そこから是非を考える姿勢が、あらゆる問題について大切である。現代文明の抱えている科学技術の問題、資本家のエゴイズムの問題等も、こうした判断基準の展開によってはじめて解決の緒を見出しうるのではないだろうか。
もう一つ大聖人が強調されていることは、師と檀那、師弟というものが、心を一つにしてこそ、祈りが叶うという点である。大聖人は仏法の師である。だが「無量義は一法より生ず」で、妙法を達観した大聖人は、一切法についても、判断を誤まることはない。したがって、波木井氏のように、法門については大聖人を信じても、訴訟=世法については大聖人の言葉に従わないという行き方では、願ったとおりにならないのである。
その持っている法が邪まな、悪法である場合には、いかに師と檀那が心を一つに合わせて祈っても、ともどもに身を滅ぼすだけであるのは、いうまでもない。正法によらなければならないということは、もっとも根本的な大前提条件なのである。
このように、事を成就するにあたって、それが人間としての倫理に叶っていることを前提に、そのこと自体として筋が通っていることが必要であり、更に、正法による師弟不二の祈りがなければならないということは、信仰者の生活、社会の問題についての重要な指導と拝すべきである。
第四章(真言の祈りを破す)
本文
天台の座主・明雲と申せし人は第五十代の座主なり、去ぬる安元二年五月に院勘をかほりて伊豆国へ配流・山僧大津よりうばいかへす、しかれども又かへりて座主となりぬ・又すぎにし寿永二年十一月に義仲に・からめとられし上・頸うちきられぬ・是はながされ頸きらるるを・とがとは申さず賢人・聖人もかかる事候、但し源氏の頼朝と平家の清盛との合戦の起りし時・清盛が一類・二十余人・起請をかき連判をして願を立てて平家の氏寺と叡山をたのむべし三千人は父母のごとし・山のなげきは我等がなげき・山の悦びは我等がよろこびと申して、近江の国・二十四郡を一向によせて候しかば、大衆と座主と一同に内には真言の大法をつくし・外には悪僧どもを・もつて源氏をいさせしかども義仲が郎等ひぐちと申せしをのこ義仲とただ五六人計り叡山中堂にはせのぼり調伏の壇の上にありしを引き出して・なわをつけ西ざかを大石をまろばすやうに引き下して頸をうち切りたりき、かかる事あれども日本の人人真言をうとむ事なし又たづぬる事もなし・去ぬる承久三年辛巳五六七の三箇月が間・京・夷の合戦ありき、時に日本国第一の秘法どもをつくして叡山・東寺・七大寺・園城寺等・天照太神・正八幡・山王等に一一に御いのりありき、其の中に日本第一の僧四十一人なり所謂前の座主・慈円大僧正・東寺・御室・三井寺の常住院の僧正等は度度・義時を調伏ありし上、御室は紫宸殿にして六月八日より御調伏ありしに、七日と申せしに同じく十四日に・いくさに・まけ勢多迦が頸きられ御室をもひ死に死しぬ、かかる事候へども真言は・いかなるとがとも・あやしむる人候はず、をよそ真言の大法をつくす事・明雲第一度・慈円第二度に日本国の王法ほろび候い畢んぬ、今度第三度になり候、当時の蒙古調伏此れなり、かかる事も候ぞ此れは秘事なり人にいはずして心に存知せさせ給へ。
されば此の事御訴訟なくて又うらむる事なく御内をばいでず我かまくらにうちいて・さきざきよりも出仕とをきやうにて・ときどきさしいでて・おはするならば叶う事も候なん、あながちに・わるびれて・みへさせ給うべからず、よくと名聞・瞋との。
現代語訳
天台宗の座主であった明雲という人は、第五十代の座主である。去る安元2年(1276)5月に後白河法皇の怒りにふれて処罰を受け、伊豆の国に流されたが、比叡山の僧たちが途中の大津で奪い返した。そうして、再びかえって座主となった。またその後寿永2年(1183)11月に、義仲に捕えられ、その上、頸をきられてしまった。このようにいっても、流罪になったり、頚をきられたのを失というのではない。賢人や、聖人であっても、このようなことにあうのである。しかし、源氏の頼朝と平家の清盛との合戦が起こった時、清盛の一族、20余人が起請を書き連判を押して、願をたて「平家の氏寺として叡山をたのもう。叡山の僧三千人は我らが父母とおなじである。叡山の嘆きは我らの嘆きであり、叡山の悦びは我らの悦びである」といって、近江の国、24郡を全部、寄進したので大衆と座主と一同になって、内においては真言の大法をつくして祈禱し、外にあっては、僧兵たちを動かして源氏を討たせた。しかし木曾義仲の家臣で樋口兼光という武士が義仲とともに、わずか5、6人ぐらいで叡山中堂にはせ登って、調伏の壇の上にいた明雲座主を引き出し、縄でしばり、西坂を大石をころがすように引きずりおろして頸を切ってしまったのである。このような事実があったが、日本国中の人々は真言の教えを遠ざけることもしないし、またそのようなことになった原因を明らかにしようともしないのである。
去る承久3年(1221)、5、6、7月の3か月の間、京と夷の合戦があった。その時、日本国第一の真言の秘法をつくして、叡山、東寺、七大寺、園城寺等などでは、天照太神、正八幡、山王等に対していちいちに鎌倉調伏の御祈禱をした。その中には日本第一といわれる僧侶が41人いた。いわゆる叡山の前の座主である慈円大僧正、東寺、仁和寺、三井寺の常住院の僧正たちは、しばしば義時調伏の祈禱をした。その上、道助法親王は紫宸殿で6月8日から、御調伏を祈祷したのだが、七日間で調伏できるといっていたのに、その7日目の14日に戦さに負け、最愛の勢多迦が頚を切られ、道助法親王もひどく嘆いて死んでしまった。このようなことがあったけれども、真言にはどのようなとががあるのかとあやしむ人もいない。今迄、真言の大法をつくして調伏したのは、明雲が一度目、慈円が二度目であるが、そのたびに日本国の王法はほろんでしまった。今度で三度目になる。
すなわち、現在の蒙古調伏がこれである。この例のようなこともあるであろう。これは、秘密の事である。他人にはいわないで、あなたの心にとどめておきなさい。
したがって、今度の所領替えのことについては、訴訟を起こさないで、また、主君を恨まずに、御内からも出ないで、自分はそのまま鎌倉にいて、以前よりも出仕をひかえ、ときどき出仕するようにしていたら、叶うこともあるでしょう。決して悪びれた振る舞いをしてはいけません。欲や名聞名利を求めたり瞋る心をおこさないように…。
語釈
天台の座主
「座主」というのは大衆一座の主である。比叡山延暦寺等では、時の貫首を座主と呼んでいる。
明雲
(~1183)。比叡山延暦寺第55・57代の座主で房号は慈雲。仁安2年(1167)座主となる。比叡山の末寺である加賀の鵜河寺で起きた事件に対し、朝廷に強訴したところ、後白河法皇の院勘を蒙り、伊豆に流されようとした。山僧はこれを叡山の恥辱として大津の途中で明雲を奪い取り、治承3年(1179)11月に再び座主となる。寿永2年(1183)、源義仲に頸を斬られた。年69歳。なお本章の死亡説の他、法皇の住居・法住寺殿に参籠していて、京外撤退を命ぜられ法皇を襲った義仲に頸を斬られたとか、流れ矢にあたったとかの説もある。なお本文に、「第五十代の座主」とあるがその意は不明。
院勘
上皇・法王などの怒りにふれること。
義仲
(1154年~1184)。源義仲。源氏の武将で義賢の子。幼名は駒王丸。叔父の源行家より以仁王の平氏追討の令旨を伝えうけ、兵をおこした。北陸方面に向かい、寿永元年(1182)に信濃の千曲川で、越後の城長茂を破り北陸を平定した。寿永2年(1183)5月、砺波山、倶利伽羅峠に平維盛の大軍を破った。更に平氏を西へ追い京都に入った。ところが入京後の義仲の悪政および兵士の狼藉により、後白河法皇は頼朝に義仲追討の院宣を下した。これを察知した義仲は11月19日法皇の住んでいた法住寺殿を襲い火を放った。法皇を幽閉し、寿永3年(1184)正月には征夷大将軍となったが、範頼・義経の軍に攻められ、近江の粟津で討ち死にした。時に31歳。
源氏の頼朝
(1147~1199)源頼朝のこと。鎌倉幕府初代将軍。清和源氏の嫡流・義朝の三男。右近衛府の長官である右近衛大将になったことから右大将と呼ばれた。平治の乱に敗れて逃げる途中、平氏にとらえられて伊豆へ流された。治承4年(1180)に以仁王の命旨を受け、北条時政の援助を得て挙兵したが、石橋山の合戦で平氏に敗れ、安房に逃れた。再起を図って間もなく勢力を回復し、富士川で平氏に大勝、後、鎌倉に居を構え、関東各地を固め、武家政権の基礎の確立を図った。以来、弟の範頼・義経らを西進させて木曽義仲を討ち、文治元年(1185)壇ノ浦で平氏を滅ぼした。ついで朝廷の信任を得た義経を追放し、その追補を理由に諸国に守護・地頭を設置し、武家政権を確立した。文治5年(1189)には藤原泰衡を討って奥州を勢力下に入れた。建久元年(1190)、上洛して権大納言・右近衛大将に任じられ、同3年(1192)征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。
平家の清盛
(1118~1181)。平清盛のこと。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。
起請
祈請文のこと。神仏に誓いを立てて、自分の行為、言説に偽りがないことを表明した文書・誓紙・厳守すべき事項を記した前書き部分と、もしこれに違背すれば神仏の罰を受ける旨を記した神文からなるもの。
連判
文書の差出者が複数で署判している場合,これを連判,連署という。多人数が一致契約する場合,すなわち一揆の団結(一揆契状)や訴状等に用いる。紙をつぎたして連名する場合,また連判者間の地位の上下がないことを表すためや,主謀者を隠蔽するために円のまわりに放射状に連署する場合等がある。
氏寺
氏族が祖先の菩提と一族の繁栄を祈願するために建立し帰依した寺。
近江の国・二十四郡
近江はかつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。古来から滋賀,栗太,甲賀,野洲,蒲生,神崎,愛智,犬上,坂田,浅井,伊香,高嶋の12郡となっている。24郡については不明。
真言の大法をつくし
真言のあらゆる秘法を尽くして、調伏の祈祷をしたことをいう。
ひぐち
樋口次郎兼光のこと。平安時代末期の武将。中原兼遠の次男。今井兼平の兄。正式な名のりは中原兼光。木曾義仲の乳母子にして股肱の臣。義仲四天王の一人。信濃国筑摩郡樋口谷(現・木曽町日義)に在して樋口を称した。
叡山中堂
根本中堂のこと。伝教大師最澄が延暦7年(0788)に、一乗止観院という草庵を建てたのが始まりとされる。本尊は最澄が一刀三礼して刻んだ薬師瑠璃光如来と伝えられている。中堂という呼称の由来は、最澄創建の三堂の中心に位置することから薬師堂を中堂と呼ぶようになり、この三堂は後に一つの伽藍にまとめられ、中堂という名前が残ったとされる。比叡山延暦寺の中心であることから根本中堂といい、比叡山では東塔という区域の中心的建築物である。
調伏
仏に祈り仏力によって、怨敵や魔を降伏することであるが、謗法による調伏は悪い結果をもたらす。
調伏の壇の上
源頼朝調伏のために、天台座主の明雲が祈祷の檀上にあったことをさす。
西ざか
京都から比叡山に登る道の西側ルート。
京・夷の合戦
承久3年(1221)、後鳥羽上皇を中心とする朝廷側が、鎌倉幕府を倒そうとして企てた承久の乱のこと。鎌倉幕府設立以来、御家人の荘園、農村支配は強まり、朝廷は知行地を失い、経済基盤を奪われ、その権力も有名無実のものとなってしまった。朝廷側は源頼朝以来の源氏の血筋が、実朝の暗殺により、北条氏の手によって絶えたのを機に、後鳥羽上皇を中心に、北面の武士、および北条政権に不満をもつ武士を結集して、北条義時追討の院宣を発し、頼朝以来の武家支配に終止符を打つべくクーデターを起こした。しかしながら朝廷側の考えている程、北条政権は惰弱ではなく、逆にその力は、鉄の如き結束をもって朝廷側にいどみかかった。その結果、わずか2ヵ月で朝廷側の敗北となったのである。乱後、幕府は、主謀者の公家や武士を厳重に処罰し、後鳥羽上皇を隠岐に、順徳天皇を佐渡に、土御門上皇を土佐に遠流した。この乱によって北条幕府は天下の実権を握ったのである。
東寺
第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。
七大寺
奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
園城寺
琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
天照太神
日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。
正八幡
天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。
山王
日吉山王のこと。日吉は当時「ひえ」と読んだが、現在では日枝神社との区別のためか「ひよし」と読むのを正式としている。滋賀県大津市坂本にあり、比叡山の本麓にあたる。延暦寺が建てられると、叡山の地主であるゆえに山王と称して崇敬された。
慈円大僧正
(1155~1225)。平安時代から鎌倉時代にかけての天台宗の僧。天台宗の座主に四度(62代、65代、69代、71代)就く。承久の乱の前年(1220)、乱の起こることを見通して「愚管抄」を著わし、道理に合わない行ないは成就しないとの史観を述べ、後鳥羽上皇が武士の勢力を無視して、倒幕の計画をすすめることを風刺した。しかし、承久の乱の時には、後鳥羽上皇の命により、真言の法による幕府調伏の祈禱を行なった。
御室
第59代宇多天皇(在位0887~0895)が譲位後、入道して京都西に仁和寺を建立し住んだ。そのことから仁和寺のことを御室御所という。その後、法皇、法親王はだいたい仁和寺の流れをくむようになり、それらをいうようになった。本文にある「御室は紫宸殿にして……」の御室は、あとの方の意で、後鳥羽天皇の第二子である道助法親王をさす。
三井寺
琵琶湖西岸、大津市園城にある園城寺のこと。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(
義時
北条義時(1163~1224)のこと。鎌倉幕府第二代の執権。時政の子で政子の弟。源頼朝の挙兵に政子と参加。平氏討伐、幕府創建の功労者として重用された。政子がその子実朝の死後政権をにぎると、共に政治を執行し、北条氏の地位を確立した。承久の乱には政子と謀って院側をやぶり、三上皇を配流した。
紫宸殿
京都市上京区にある御所内裏の正殿のこと。
勢多迦
佐々木山城守広綱の第六子、勢多迦童子をいう。仁和寺の御室、道助法親王の侍童として寵愛された。承久の乱の時、叔父、佐々木信綱の讒訴により斬首された。
講義
前章の「又だんなと師とをもひあひて候へども、大法を小法をもってをかしてとしひさしき人人の御いのりは叶い候はぬ上、我が身もだんなもほろび候なり」をうけて、歴史上の具体的事実を示し、いままた蒙古調伏のため重大な過ちを日本中がおかしていることを指摘されている。
天台座主・明雲と、それに帰依した清盛以下平氏一門の関係は〝師〟と〝旦那〟のそれである。彼らの祈った法は天台宗とはいうものの、真言の邪法に染まったもので、まさに大法たる法華経を、小法にすぎない真言の法によって犯したものであった。
ゆえに、明雲は天台座主という、当時の日本の宗教、思想の世界で最高の権威ある立ち場でありながら、頸を斬られて死んでしまったのである。またその檀那である平清盛以下一門の無残な最期は、いまさらいうまでもない。まさに「我が身もだんなもほろび」てしまったのである。
大聖人が本抄を認められているこの時代、鎌倉幕府も、京の朝廷も、未曾有の国難を前に、同じ過ちを犯していた。文永の役は辛うじて大きい禍いもなく過ぎたが、蒙古が更に大軍を用意して再度の侵略をめざしていることは、周知の事実であった。この蒙古軍調伏のため、為政者たちは、あげて真言の祈禱にうちこんでいたのである。それは、日本の国を滅亡に追いこむものでしかない、と大聖人は厳しくこれを戒め、警告を発せられていたのである。
ただし、四条金吾に対し、あるいは一般の信徒に対しては、むやみとこれを人に言ってはならない、と注意されている。大聖人としては、いうべき為政者には筋を通して言われていることであるし、信徒たちが軽々しく口にすることによって、迫害、弾圧を受けることを警戒されたのであろう。信徒たちを守るための慎重な御配慮が、そこにうかがえるのである。