種種御振舞御書
2012:4~6月号大白より、先生の講義 4月号
正義の言論に生き抜く戦い
今、日本全国、そして世界のSGIの同志が、青年を先頭に「励ましの対話」を繰り広げています。新時代を開く「希望の拡大」「幸福の拡大」の波が大きくひろがっている。
素晴らしいことです!
壮年・婦人部の皆さま!大切な青年の成長と活躍を、私と一緒に、懸命に祈り、支えてくださり、ほんとうにありがとう!
皆さまこそ三世永遠の「妙法の戦友」です。どうかこれからも青年への励ましを、新入会の友の応援を、よろしくお願いします。
私も、青年時代に入信した一人です。戸田先生と出会い、19歳で入信して、今年で65年になります。
愛する青年たちに語りかける思いで、入信したところを、少々述べておきたい。
当時、学会の先輩たちは、こう語っていました。
「人生、一瞬先は闇です。どういう宿命が襲いかかってくるかわからない。この信心以外に、宿命打開の道はありませんよ」
「『死』という問題は誰人も避けられない。この難問を、根本から解決できるのが、妙法の信仰です」
さらに、「青年は、より高いものを求めていくべきだ。勉強していこうよ」と。
話を聞いて、私は「なるほど」と思いました。
“戸田先生のもとでの人生”
それにも増して、入信を決意する際、私の心に打ったのは、戦時中、牧口先生、戸田先生が、真っ向から軍部権力と対峙して、投獄されても戦われたという事実でした。
それだけに、私は悩みました。
もし何かあって退転するようなら、初めからやめたほうがよい。自分は一生涯、御本尊を護持していけるのか!学会と運命をともにしていけるのか!と。
唱題と折伏に挑戦し、私は決心しました。
「よし、戸田先生のもとでの人生であるならば、何でこの身を惜しもうか。学会のために尽くそう。広宣流布のために、凡愚の身であるが、尽くさせていただこう」と。
そして入信から10年を経た昭和32年(1957)、戸田先生の願業である「75万世帯」の弘教が、いよいよ実現せんとする時、夕張炭労問題、大阪事件と、新しい民衆の連帯を妬む「権力の魔性」の勢力が、次々と学会の前進を阻んできたのです。
私は、戸田先生と心を一つに、最前線に立って戦いました。
その年の前半、戸田先生が大阪で、東京で、渾身の力を注いで、何回にもわたって一般講義で拝してくださったのが「種種御振舞御書」です。
本抄は、妙法流布のために、権威・権力による卑劣な大弾圧と戦われる日蓮大聖人のお振る舞いと、偉大なご境涯を、記しとどめられた御書です。
「日蓮悦んで云く本より存知の旨なり」
「種種御振舞御書」は、建治2年(1276)日蓮大聖人が55歳の御時、身延で認められた御書とされています。安房国の門下・光日尼に与えられたものとされていましたが、正確にはわかっていません。
本抄では、文永5年(1268)に蒙古からの牒状が日本に届き、「立正安国論」で述べられた「他国侵逼難」の予言が現実のものとなったところから筆を起こされています。
そして文永8年(1271)竜の口の法難、佐渡流罪。佐渡での塚原問答、「開目抄」の御述作。さらに文永11年(1274)鎌倉に御帰還されての国主諌暁まで 最も熾烈な大難との闘争が、あたかも目に浮かぶような鮮烈な叙述で綴られています。
本抄で貫いているのは、いかなる迫害も悠然と見下ろし、威風も堂々と、そして、大誠実で妙法の正義を語り抜かれる大聖人の大境涯です。その一つ一つの象徴とも拝されるのが、次のお言葉ではないでしょうか。
「日蓮悦んで云く本より存知の旨なり」(0910:03)
その前段で、大聖人は述べられています。
国を救うために著した「立正安国論」の予言が的中し、本来ならば日蓮の意見を聞くべきであるのに、政治を司る者たちは用いるどころか、かえって悪口し、ますます日蓮を憎んで、処刑せよ、追放せよ、日蓮の門下も、さまざまに懲らしめよと謀議するありさまであった と。
こうした理不尽な権力者たちとの対応と迫害に対して、「もとより承知の上だ、うれしい限りだ」と、言い切られているのです。
それはなぜか 「末法の始」という時には、「法華経の肝心の題目の五字」を弘める者が必ず出現し、時に適った折伏の実践によって迫害される。しかし、自界叛逆難・他国侵逼難の現証が厳然と現れる。このことは、すべての経文に説かれている通りだからです。
大聖人の崇高なご境涯と民衆救済の大情熱が脈打つ本抄を当時の門下も、どれはど心強く拝したことでしょう。
「弟子の勝利」のための激励
実は、本抄御執筆の年とされる建治2年(1275)ごろには、蒙古襲来の予言的中もあって、大聖人の一門は急速に勢いを増していきました。これに対して、三障四魔、三類の強敵が、門下の身にも次々と競い起ります。
熱原法難の始まりとなった滝泉寺院主代・行智からの迫害、また、四条金吾に対する同僚や主君からの圧迫、池上宗仲に対する父の勘当も、このころ競い起るのです。
「わが弟子に、何としても勝ってもらいたい!」「法華経の行者の振る舞いとは、境涯とは、いかなるものか、後世に示し残しておきたい!」 そうした大聖人の迸るような熱き思いが、本抄には込められていると、拝されてなりません。
本文
各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず、をやををもひ・めこををもひ所領をかへりみること・なかれ、無量劫より・このかた・をやこのため所領のために命すてたる事は大地微塵よりも・をほし、法華経のゆへには・いまだ一度もすてず、法華経をばそこばく行ぜしかども・かかる事出来せしかば退転してやみにき、譬えばゆをわかして水に入れ火を切るにとげざるがごとし、各各思い切り給へ此の身を法華経にかうるは石に金をかへ糞に米をかうるなり。
仏滅後・二千二百二十余年が間:迦葉:阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり、わたうども二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし、わづかの小島のぬしらがをどさんを・をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき、仏の御使と・なのりながら・をくせんは無下の人人なりと申しふくめぬ、
現代語訳
各各日蓮の弟子と名乗る人々は一人も臆する心を起こしてはならない。大難のときには親のことを心配したり妻子のことを心配したり所領を顧みてはならない。無量劫の昔から今日まで親や子のためまた所領のために命を捨てたことは、大地の土の数よりも多い。だが法華経のためにはいまだ一度も命を捨てたことはない。過去世に法華経をずいぶん修行したけれども、このような大難が出て来た場合には退転してしまった。それは譬えばせっかく湯を沸かしておきながら水を入れてしまい、火をおこすのに途中でやめておこしきれないようなものである。それではなにもならないではないか。今度こそ各々覚悟を決めきって修行をやりとおしなさい。命を捨ててもこの身を法華経と交換するのは、石を黄金と取り換え、糞を米と交換うるようなものである。
仏滅後二千二百二十余年たった今日までの間に、迦葉・阿難等の小乗教の付法者や、馬鳴・竜樹等の権大乗の付法者、または南岳・天台等や妙楽・伝教等の法華経迹門の弘法者達でさえも、いまだに弘通しなかったところの法華経の肝心・諸仏の眼目である妙法蓮華経の五字が、末法の始めに全世界に弘まっていく瑞相として、今、日蓮がその先駆をきった。わが一党の者二陣・三陣と自分に続いて大法を弘通して迦葉・阿難にも勝れ天台・伝教にも超えなさい。わずかの小島である日本の国の主等が威嚇するのをおじ恐れるようであっては、退転して地獄へ堕ちたときに閻魔王の責めを一体どうするというのか。せっかく仏の御使いと名乗りをあげておきながら今さら臆するのは下劣の人々である」とよくよく弟子檀那に申しふくめた。
講義
師と共に「二陣三陣」と続け
大聖人の門下として戦う「無上の誉れ」と、「不惜身命の覚悟」を教えられた御文です。
「日蓮の弟子と名乗る人々は、一人も臆病であってはならない」 「一人も」との仰せから、大聖人の深き御慈愛が伝わります。
妙法の信仰を捨てさせようとする三障四魔は、その人の最も弱いところ、あるいは、大事にしている人に付け入って働きかけてきます。親や子、妻や夫、仕事や経済などです。
無量の昔から、自分の命を捨ててなお、親子の所領を大事にすることは「大地微塵よりも多い」。それなのに、法華経のためには「いまだ一度も捨てたことがない」と大聖人は仰せです。
今こそ成仏を決する大事な時だからこそ、一番根幹となる信仰を退いてはならないと、厳しく言われています。「一人もをくしをもはるべからず」です。全門下が勇気を持て、と御指導されているのです。
「不惜身命」とは小さな自分への執着を捨てて、大きな自分を獲得することとも言えます。それを大聖人は「転捨にして永捨に非ず」(0731:第三捨是身已の事:01)と指南されています。本抄に仰せのとおり「石を金に代える」のです。
三世の生命から見れば、無量の福徳に、永遠に強く深く、包まれていくのです。
さらに大聖人は、大聖人門下の「無上の誉れ」を高らかに宣言されています。
すなわち 仏の滅後、いまだ誰も弘めたことのない「法華経の肝心」「諸仏の眼目」である南無妙法蓮華経の大法を、全世界に弘めゆく先陣を日蓮が切ったのだと。
末法の闇夜に、元初の太陽が昇ったのです。その大光に、世界の全ての人々が包まれていくのです。
大聖人門下の私たちは、迦葉・阿難、天台・伝教ら大学者たちの後ろに「ついていく」のではない、彼らを凌駕し「超えていく」存在だと仰せです。何と誉れ高き一人一人でしょうか!
戸田先生は講義の中で「実際、いま大聖人のお示しのとおりにやっているのは創価学会だけです」と強調されました。
「羊千匹よりも獅子一匹」 牧口先生は叫ばれました。「臆病な小善人が千人いるよりも、勇気ある大善人が一人いれば、大事を成就することができる」と。
「わづかの小島のぬしら」の権力の脅しにも臆してはならない、と大聖人は仰せです。学会は師子の陣列で、厳然と進みましょう。
本文
詮ずるところ、上件の事どもは此の国ををもひて申す事なれば世を安穏にたもたんと・をぼさば彼の法師ばらを召し合せて・きこしめせ、さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行わるるほどならば国に後悔あるべし、日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし、梵天・帝釈.日月.四天の御とがめありて遠流.死罪の後.百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし、其の時後悔あるべしと平左衛門尉に申し付けしかども太政入道のくるひしやうに・すこしもはばかる事なく物にくるう。
現代語訳
「詮ずるところ上の一件の事どもは此の国の前途を思っていっていることであるから、世を安穏にたもとうと思われるなら、彼の諸宗の法師達を召し合わせて自分と公場対決をさせてお聞きなさい。そうしないで彼の法師達に代わって理不尽に自分を罪におとすようならば、国に後悔する事件があろう。日蓮が幕府の御勘気を蒙るならば仏の御使を用いないことになる。その結果、梵天・帝釈・日月・四大天王のお咎めがあって、日蓮を遠流か死罪にしたのち百日・一年・三年・七年の内に、自界叛逆難といって北条幕府御一門の同士打ちがはじまるであろう。そののちは他国侵逼難といって四方から、そのうち殊に西から攻められるであろう。そのとき、日蓮を罪におとしたことを後悔するに違いない」と平左衛門尉に申し付けたけれども、太政入道が狂ったように、彼は少しもまわりをはばからず怒り猛り狂った。
講義
一歩も退かずに堂々たる論陣を
竜の口の法難の2日前 文永8年(1271)9月10日、大聖人は幕府に召喚され、訊問を受けられます。その際の、平左衛門尉頼綱のやりとりを記されたのが、この御文です。
なぜ召喚されたのか。
後に述べられていますが、同年6月、真言律宗の僧・極楽寺良観が、大旱魃に際し、祈雨の修法を行いました。
大聖人は「もし7日の内に雨がふれば、日蓮一門は良観の弟子になる。降らなければ、日蓮が弟子になれ」と良観に伝えたのです。
結果、雨は全く降らず、さらに7日間延長して祈っても悪風は増すばかりで、良観は大惨敗、面目をつぶされた良観は、大聖人を恨み、約束を無視し、諸宗の僧らに働きかけ、大聖人を幕府に訴えさせます。
しかし、それも叶わぬとなると、良観は、今度は、幕府高官の夫人に働きかけます。
すなわち、彼らは「日蓮は“故最明寺入道、故極楽寺入道は地獄に堕ちた。建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等を焼き払え。道隆・良観の頸をはねよ”などと言っている。それが事実かどうか、日蓮を召喚して尋ねよ」というのです。その結果、幕府が大聖人を召し出します。そして、「本当に、このように言ったのか」との平左衛門尉の問いに、大聖人は毅然と答えられます。
「その通りだ。しかし、故最明寺入道殿・故極楽寺入道殿は地獄に堕ちたといったというのは、ウソである。為政者の謗法の罪については、二人が生きているときから言ってきたことである」と。
さらに大聖人は「これらの事は、国のことを思って言ったのだから、世の安穏を願われるならば、彼の法師たちを呼び出して、日蓮と公場対決させよ」と。
ちなみに「頸をはねよ」との表現は、決して大聖人の御真意ではありません。むしろ幕府の側が、大聖人の頸を「はぬべきか」と議論していたことは、本抄にも触れられている通りです。そうした議論をしている者たちに対して、“「頸をはねよ」というならば、日蓮ではなく、法華経の行者を亡き者にしようと画策している彼らの頸ではないのか”と喝破されたのです。
もとより悪僧を誡める在り方については、すでに「立正安国論」で、「決して頸をはねることではなく、布施をとどめることに尽きる」と表現されている通りです。
ともあれ、公の場で、あくまでも言論で、正邪を皆にわかるようにしようではないか。 これが大聖人の主張であられたのです。
しかし、そこまで堂々と正義を主張する大聖人とは、あまりにも対照的に、良観らは、陰でコソコソと画策し、遂に最後まで表に出ることはなかった。
大聖人は平左衛門尉に対して、こうした悪僧たちの言い分を聞いて、大聖人を理不尽に処断するならば、必ず後悔することになろうと、クギを刺されます。
もし、そのように幕府が行えば「仏の御使」を迫害したことになり、自界叛逆難、他国侵逼難が起きるのは避けられない。こう述べると、平左衛門尉は、異常なまでに逆上したと綴られています。
魔性の権力者、国を思う仏の使い。あまりにも対照的な振る舞いに、境涯の差は歴然としていたといえるでしょう。
本文
去文永八年辛太未歳九月十二日.御勘気をかほる、其の時の御勘気のやうも常ならず法にすぎてみゆ,了行が謀反ををこし大夫の律師が世をみださんと・せしを・めしとられしにもこえたり、平左衛門尉・大将として数百人の兵者にどうまろきせてゑぼうしかけして眼をいからし声をあらうす、大体・事の心を案ずるに太政入道の世をとりながら国をやぶらんとせしににたり、ただ事ともみへず、日蓮これを見てをもうやう日ごろ月ごろ・をもひまうけたりつる事はこれなり、さいわひなるかな法華経のために身をすてん事よ、くさきかうべをはなたれば沙に金をかへ石に珠をあきなへるがごとし、
現代語訳
去る文永八年九月十二日に御勘気を蒙った。そのときの御勘気のありさまも尋常ではなく、法を越えた異常なものであった。九條堂の了行が謀反をおこしたときよりも、大夫の律師良賢が幕府を倒そうとして露見して召し取られたときにも増した無法で大がかりなものであった。そのありさまは平左衛門尉が大将となって、数百人の兵士に胴丸を著せて、自分は烏帽子をかぶって眼を瞋らし声を荒げてやってきた。大体、この事件の奥底を考えてみると、太政入道清盛が天下をとりながら非道専横を重ねて国を亡ぼそうとしたのに似ていて、ただごととも見えなかった。自分はこれを見て次のように思った。「つね日ごろ、月々に考えついていたのはこれである。ああ幸いなるかな法華経のために一身を捨てよとは、臭い凡身の首を斬られるならば、砂と黄金を交換し、石をもって珠を買いもとめるようなものではないか」と。
講義
「幸いなるかな」と不惜の闘争へ
9月12日の竜の口の法難 その日、平左衛門尉が大挙して大聖人を捕らえにきた様子が綴られています。
ただ一人、大聖人を捕らえるために、武装した兵士が数百人、かつて幕府転覆を謀った謀反人を召し捕ったとき以上の、ものものしさです。
大聖人が「法を超えた異常さ」と表現された、その様子は、あえて周囲に目立つように「見せしめ」の効果を狙ったものだったのかもしれません、いずれにせよ、圧倒的な勢力に物言わさ抑え込もうという魔性の権力そのものの態度でありました。
これを見て大聖人は、重ねて「不惜身命」の悦びを語られます。「常々考え、覚悟していたのは、まさに、このことだ。なんと幸いなことだろう。法華経のために身を捨てることができるとは!砂を黄金に代え、石で珠を買うようなものではないか」と。
この厳然たるお姿こそ、師子王の境涯です。
そして、この御聖訓通りに戦われた方が、創価の父・牧口先生であり、わが恩師・戸田先生にほかなりません。
両先生は、開かれた言論の広場である「座談会」を各地で敢行し、「不惜身命」の実践を貫き通したがゆえに、軍部権力によって投獄されました。牧口先生は獄死。戸田先生は、極限まで衰弱したお体で出獄されました。この崇高な師弟の闘争は、永遠の「学会精神の宝」であり、未来を照らし続ける「偉大な希望の光源」なのです。
ある時、戸田先生は、獄中闘争で勝ち得たご自身の境涯についてこう言われた。「広いところで、大の字に寝そべって、大空を見ているようなものだ。そして、ほしいものがあれば、すぐに出てくる。人に、あげてもあげても出てくるんだ。尽きることはない。君たちも、こういう境涯になれ、なりたかったら、法華経のため広宣流布のため、ちょつぴり牢屋に入ってみろ」
そして「今は時代が違うから牢屋に入らなくてもいいが、広布のために骨身を惜しまず戦うことだ」と。
次元は異なりますが、中国の周恩来総理も、語られたそうであります。
「いちばんよい死に方」とはいかなるものか それは「人民を抑圧する者とのたたかいのなかで、弾丸にあたって死ぬ」ことだ。
「しかし、そういうたたかいをするなら、生命がけで仕事をすることだ」
すなわち「鞠躬尽瘁し、死して後已まん」 一身を捧げて人民に尽くし、死ぬまで戦いをやめないことだ と。
友のため、同士のため、民衆のために、生涯、骨身を惜しまず尽くし抜く。ここに創価の師弟の「不二の道」があることを、忘れないでいただきたいのです。
本文
日蓮・大高声を放ちて申すあらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをすと・よばはりしかば上下万人あわてて見えし、日蓮こそ御勘気をかほれば・をくして見ゆべかりしに・さはなくして・これはひがことなりとや・をもひけん、兵者どものいろこそ・へんじて見へしか、
現代語訳
このとき日蓮は大高声で彼等にいった。「なんとも面白い平左衛門の気違い沙汰を見よ!おのおのがたはただ今日本国の柱をたおしているのであるぞ!」と宣言したところ、その場の者全部があわててしまった。日蓮の方こそ御勘気を蒙ったのであるからおじけづいて見るべきであるのに、そうではなく逆になったので、「これは越権で悪いことだ」とでも思ったのであろう。兵士達の方が顔色を変えてしまったのがよく見えた。
講義
「日本国の柱」たる大確信
大聖人の大境涯を前に、権力の魔性の狂った本質と、その限界が、あぶり出されている場面です。
平左衛門尉の家来である少輔房が、大聖人の懐にあった法華経の第五の巻を奪い取り、大聖人の顔を3度なぐったり、さらには、兵士たちが草庵に押し入って、法華経の経巻を巻き散らし、踏んだり、身に巻きつけるなどの異様な様を呈していました。
その様子に、大聖人は「あらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをす」と大音声で叫ばれます。その声に、慌てたのは、兵士たちのほうでした。
「仏様が泰然自若として、そのようにおっしゃれば、その声の響きで生命力の弱い連中は縮みあがったでしょう」戸田先生は講義でこう語られていました。
大聖人こそ「日本の柱」である この御確信の宣言は、他の御抄にも拝されます。
「去ぬる文永八年九月十二日に平の左衛門並びに数百人に向て云く日蓮は日本国のはしらなり日蓮を失うほどならば日本国のはしらを・たをすになりぬ等云云」(0312-10)
また、「種種御振舞御書」には「日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり」(0919-03)と。
ゆえに学会こそ、なかんずく創価の青年こそ「日本の柱」そして「世界の柱」なり!との大確信で進もうではありませんか。
柱が太く強ければ、建物は盤石です。
青年の決意が深く強ければ、人類の未来の希望は大きい。
これまで何度か語ってきましたが、若き日、戸田先生に「なぜ、不惜身命の信心が大事なのか」を質問したことは、今でも忘れられません。先生はおっしゃいました。
この地球上では、戦争で人が殺し合う。経済は弱肉強食の世界で、人を幸福にするとは限らない。政治、科学、教育、宗教も人間の業というか、社会は複雑で、すべてが矛盾だらけである。どこにも万人の幸福への根本的な道はない。
その中で、大聖人の仏法だけは、人間の根本的な宿命転換の方途を示されている。常楽我浄と、永遠の所願満足への軌道を教えてくださっている。これ以上の究極の人生の道はない。だから信心だけでは命をかけてやって悔いがないのだ。
妙法に生き抜く人生が、どんなに晴れやかな人生であるか。大聖人は、権力の魔性との戦いの先頭に立たれ、悔いなき人生の本質を、私たちに教えてくださいました。
後を継ぐのは創価の師弟です。
わが愛する青年諸君です!
本文
一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか、いづみしきぶいろごのみの身にして八斎戒にせいせるうたをよみて雨をふらし、能因法師が破戒の身として・うたをよみて天雨を下らせしに、いかに二百五十戒の人人・百千人あつまりて七日二七日せめさせ給うに雨の下らざる上に大風は吹き候ぞ、これをもつて存ぜさせ給へ各各の往生は叶うまじきぞとせめられて良観がなきし事・人人につきて讒せし事・一一に申せしかば、平左衛門尉等かたうどし・かなへずして・つまりふしし事どもはしげければかかず。
現代語訳
「一丈の堀を越えることのできない者がどうして十丈・二十丈の堀をこえられようは。和泉式部が好色不貞の身でありながら八斎戒を制止している和歌を詠んで雨を降らし、能因法師が破戒の身でありながら和歌を詠んで雨を降らせたのに、二百五十戒の持者ともあろう人々が百千人も集まって一週間・二週間も天を責め立て給うたのに、どうして雨が降らない上に大風が吹くのであるか。この現象をもって知りなさい。あなたがたの往生は叶うまい」と責めたので良観が泣いたこと、彼がこの敗北を逆うらみして、高家の女房等にとり入って讒奏したことなどを一つ一つはっきりと申し聞かせたところ、平左衛門尉等が良観の味方をしたのか、理につまり弁護しきれなくなって、ついに沈黙してしまったことなどは煩わしいからここでは書かない。
講義
迫害者の本質を喝破する
大聖人が平左衛門尉や兵士たちに、諸宗の誤りや、良観の実態 とくに祈雨の大惨敗について語られた場面です。大聖人が、つぶさに語られると、ある者は、どっと笑い、ある者は怒りにかられた。ものものしい修羅場も、大聖人の「声の力」「言論の力」にかかっては、自由自在です。兵士たちを引きつけていった様子が目に浮かびます。
「一丈のほりを」とのおおせは、良観に対し、大聖人が「目先のことすらできないのに、成仏往生など遂げられようか」と責められたお言葉です。
当時、良観は人々から「極楽寺の生仏」と仰がれていましたが、大聖人は、その醜い本性を見抜かれていました。戒律を大事にしているようで、実は、権力と結びついて私利私欲を貪っていたのです。
大聖人は「布絹・財宝をたくはへ利銭・借請を業とす」(0746-13)「道を作り橋を渡す事還つて人の歎きなり、飯嶋の津にて六浦の関米を取る諸人の歎き是れ多し諸国七道の木戸・是も旅人のわづらい只此の事に在り」(0764-13)と、およそ僧の振る舞いにはあるまじき実態を明らかにされています。
そして、良観の祈る雨の実態が兵士たちの前で暴かれたのです。平左衛門尉も言葉に詰まって、何も言えなくなってしまった。
権力を発動した補縛の場が、一転して、大聖人の正義を証明する言論の場となって、大聖人に圧倒されていった顛末が、鮮やかに浮かびます。
「人間革命の真髄」を
戸田先生は、この正義の言論戦の御精神を、私たちに幾度も教えられました。「大聖人の如く戦うのだ」「大聖人の仰せのままに、一歩も退くな!」と。
そして、「われわれは広宣流布をまっとうし、そうして霊鷲山会に大いばりで『創価学会員、広宣流布してまいりました』と、日蓮大聖人様にお目通りできるように、信心をしていこうではありませんか」とよびかけられました。
昭和32年(1957)、戸田先生の誓願成就が目前に迫った時、熾烈な「権力の魔性」との戦いが繰り広げられました。
その最中の昭和32(1957)年7月3日、大阪府警へ出発するため、札幌から大阪へ向かう途中、羽田で、戸田先生は上梓されたばかりのご自身の小説『人間革命』を手渡してくださいました。
開くと、「人間革命の真髄」と提するあとがきに、こう記してくださっていた。
「真の人間革命はまだまだこれからである。三類の強敵と戦い抜き、三障四魔を断破して、真の大利益・人間革命の真髄を把握されんことを希望する」と。
いよいよ、「人間革命の真髄」を!
いよいよ、本物の広宣流布の闘争を!
私は、あの日、戸田先生から授かった燃える決意を、今こそ、若き後継の諸君に、全力で託し、贈りたいのです。