池田大作先生の講義(種種御振舞御書)

 

種種御振舞御書

  1.  2012:4~6月号大白より、先生の講義 4月号
      1. 正義の言論に生き抜く戦い
      2. “戸田先生のもとでの人生”
      3. 「日蓮悦んで云く本より存知の旨なり」
      4. 「弟子の勝利」のための激励
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 講義
      1. 師と共に「二陣三陣」と続け
    4. 本文
    5. 現代語訳
    6. 講義
      1. 一歩も退かずに堂々たる論陣を
    7. 本文
    8. 現代語訳
    9. 講義
      1. 「幸いなるかな」と不惜の闘争へ
    10. 本文
    11. 現代語訳
    12. 講義
      1. 「日本国の柱」たる大確信
    13. 本文
    14. 現代語訳
    15. 講義
      1. 迫害者の本質を喝破する
      2. 「人間革命の真髄」を
  2. 2012:4~6月号大白より、先生の講義 5月号
      1. 生命の真実最高の力を顕せ!
      2. 我が使命の大道を歩み抜け!
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 語釈
      1. 八幡大菩薩を厳然と諌暁
    4. 本文
    5. 現代語訳
    6. 講義
      1. 一切の障魔を打ち破った勝利の姿
      2. 念仏を捨てる兵士たち
    7. 本文
    8. 現代語訳
      1. 悪僧たちの謀略で流罪が決定
      2. 極寒の塚原三昧堂でも著作
    9. 本文
    10. 現代語訳
    11. 講義
      1. 法華経身読の悦び
      2. 一切の三障四魔を打ち破る
    12. 本文
    13. 現代語訳
    14. 講義
      1. 「迫害者こそ第一の善知識」との大境涯
      2. 学会は「地涌の菩薩の集団」
  3.  2012:4~6月号大白より、先生の講義 6月号
      1. 広宣流布 人類の宿命転換の「柱」と立たん!
      2. 人類の「精神の柱」たらん
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 講義
      1. 堂々たる「王者」の振る舞い
    4. 本文
    5. 現代語訳
    6. 講義
      1. 「開目抄」を門下に与える
      2. 逆境の地で広宣流布を宣言
    7. 本文
    8. 現代語訳
    9. 講義
      1. 迫害を乗り越え、鎌倉に御帰還
    10. 本文
    11. 現代語訳
    12. 講義
      1. 三度目の国主諌暁
      2. 広布は一人から一人へ
      3. 恩師は「青年は国の柱」と
  4.  2012:4~6月号大白より、先生の講義 6月号
      1. 広宣流布 人類の宿命転換の「柱」と立たん!
      2. 人類の「精神の柱」たらん
    1. 本文
    2. 現代語訳
    3. 講義
      1. 堂々たる「王者」の振る舞い
    4. 本文
    5. 現代語訳
    6. 講義
      1. 「開目抄」を門下に与える
      2. 逆境の地で広宣流布を宣言
    7. 本文
    8. 現代語訳
    9. 講義
      1. 迫害を乗り越え、鎌倉に御帰還
    10. 本文
    11. 現代語訳
    12. 講義
      1. 三度目の国主諌暁
      2. 広布は一人から一人へ
      3. 恩師は「青年は国の柱」と

 2012:4~6月号大白より、先生の講義 4月号

正義の言論に生き抜く戦い

今、日本全国、そして世界のSGIの同志が、青年を先頭に「励ましの対話」を繰り広げています。新時代を開く「希望の拡大」「幸福の拡大」の波が大きくひろがっている。

素晴らしいことです!

壮年・婦人部の皆さま!大切な青年の成長と活躍を、私と一緒に、懸命に祈り、支えてくださり、ほんとうにありがとう!

皆さまこそ三世永遠の「妙法の戦友」です。どうかこれからも青年への励ましを、新入会の友の応援を、よろしくお願いします。

私も、青年時代に入信した一人です。戸田先生と出会い、19歳で入信して、今年で65年になります。

愛する青年たちに語りかける思いで、入信したところを、少々述べておきたい。

当時、学会の先輩たちは、こう語っていました。

「人生、一瞬先は闇です。どういう宿命が襲いかかってくるかわからない。この信心以外に、宿命打開の道はありませんよ」

「『死』という問題は誰人も避けられない。この難問を、根本から解決できるのが、妙法の信仰です」

さらに、「青年は、より高いものを求めていくべきだ。勉強していこうよ」と。

話を聞いて、私は「なるほど」と思いました。

“戸田先生のもとでの人生”

それにも増して、入信を決意する際、私の心に打ったのは、戦時中、牧口先生、戸田先生が、真っ向から軍部権力と対峙して、投獄されても戦われたという事実でした。

それだけに、私は悩みました。

もし何かあって退転するようなら、初めからやめたほうがよい。自分は一生涯、御本尊を護持していけるのか!学会と運命をともにしていけるのか!と。

唱題と折伏に挑戦し、私は決心しました。

「よし、戸田先生のもとでの人生であるならば、何でこの身を惜しもうか。学会のために尽くそう。広宣流布のために、凡愚の身であるが、尽くさせていただこう」と。

そして入信から10年を経た昭和32年(1957)、戸田先生の願業である「75万世帯」の弘教が、いよいよ実現せんとする時、夕張炭労問題、大阪事件と、新しい民衆の連帯を妬む「権力の魔性」の勢力が、次々と学会の前進を阻んできたのです。

私は、戸田先生と心を一つに、最前線に立って戦いました。

その年の前半、戸田先生が大阪で、東京で、渾身の力を注いで、何回にもわたって一般講義で拝してくださったのが「種種御振舞御書」です。

本抄は、妙法流布のために、権威・権力による卑劣な大弾圧と戦われる日蓮大聖人のお振る舞いと、偉大なご境涯を、記しとどめられた御書です。

「日蓮悦んで云く本より存知の旨なり」

「種種御振舞御書」は、建治2年(1276)日蓮大聖人が55歳の御時、身延で認められた御書とされています。安房国の門下・光日尼に与えられたものとされていましたが、正確にはわかっていません。

本抄では、文永5年(1268)に蒙古からの牒状が日本に届き、「立正安国論」で述べられた「他国侵逼難」の予言が現実のものとなったところから筆を起こされています。

そして文永8年(1271)竜の口の法難、佐渡流罪。佐渡での塚原問答、「開目抄」の御述作。さらに文永11年(1274)鎌倉に御帰還されての国主諌暁まで 最も熾烈な大難との闘争が、あたかも目に浮かぶような鮮烈な叙述で綴られています。

本抄で貫いているのは、いかなる迫害も悠然と見下ろし、威風も堂々と、そして、大誠実で妙法の正義を語り抜かれる大聖人の大境涯です。その一つ一つの象徴とも拝されるのが、次のお言葉ではないでしょうか。

「日蓮悦んで云く本より存知の旨なり」(0910:03)

その前段で、大聖人は述べられています。

国を救うために著した「立正安国論」の予言が的中し、本来ならば日蓮の意見を聞くべきであるのに、政治を司る者たちは用いるどころか、かえって悪口し、ますます日蓮を憎んで、処刑せよ、追放せよ、日蓮の門下も、さまざまに懲らしめよと謀議するありさまであった と。

こうした理不尽な権力者たちとの対応と迫害に対して、「もとより承知の上だ、うれしい限りだ」と、言い切られているのです。

それはなぜか 「末法の始」という時には、「法華経の肝心の題目の五字」を弘める者が必ず出現し、時に適った折伏の実践によって迫害される。しかし、自界叛逆難・他国侵逼難の現証が厳然と現れる。このことは、すべての経文に説かれている通りだからです。

大聖人の崇高なご境涯と民衆救済の大情熱が脈打つ本抄を当時の門下も、どれはど心強く拝したことでしょう。

「弟子の勝利」のための激励

実は、本抄御執筆の年とされる建治2年(1275)ごろには、蒙古襲来の予言的中もあって、大聖人の一門は急速に勢いを増していきました。これに対して、三障四魔、三類の強敵が、門下の身にも次々と競い起ります。

熱原法難の始まりとなった滝泉寺院主代・行智からの迫害、また、四条金吾に対する同僚や主君からの圧迫、池上宗仲に対する父の勘当も、このころ競い起るのです。

「わが弟子に、何としても勝ってもらいたい!」「法華経の行者の振る舞いとは、境涯とは、いかなるものか、後世に示し残しておきたい!」 そうした大聖人の迸るような熱き思いが、本抄には込められていると、拝されてなりません。

本文

  各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず、をやををもひ・めこををもひ所領をかへりみること・なかれ、無量劫より・このかた・をやこのため所領のために命すてたる事は大地微塵よりも・をほし、法華経のゆへには・いまだ一度もすてず、法華経をばそこばく行ぜしかども・かかる事出来せしかば退転してやみにき、譬えばゆをわかして水に入れ火を切るにとげざるがごとし、各各思い切り給へ此の身を法華経にかうるは石に金をかへ糞に米をかうるなり。

  仏滅後・二千二百二十余年が間:迦葉:阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり、わたうども二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし、わづかの小島のぬしらがをどさんを・をぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき、仏の御使と・なのりながら・をくせんは無下の人人なりと申しふくめぬ、

現代語訳

各各日蓮の弟子と名乗る人々は一人も臆する心を起こしてはならない。大難のときには親のことを心配したり妻子のことを心配したり所領を顧みてはならない。無量劫の昔から今日まで親や子のためまた所領のために命を捨てたことは、大地の土の数よりも多い。だが法華経のためにはいまだ一度も命を捨てたことはない。過去世に法華経をずいぶん修行したけれども、このような大難が出て来た場合には退転してしまった。それは譬えばせっかく湯を沸かしておきながら水を入れてしまい、火をおこすのに途中でやめておこしきれないようなものである。それではなにもならないではないか。今度こそ各々覚悟を決めきって修行をやりとおしなさい。命を捨ててもこの身を法華経と交換するのは、石を黄金と取り換え、糞を米と交換うるようなものである。

仏滅後二千二百二十余年たった今日までの間に、迦葉・阿難等の小乗教の付法者や、馬鳴・竜樹等の権大乗の付法者、または南岳・天台等や妙楽・伝教等の法華経迹門の弘法者達でさえも、いまだに弘通しなかったところの法華経の肝心・諸仏の眼目である妙法蓮華経の五字が、末法の始めに全世界に弘まっていく瑞相として、今、日蓮がその先駆をきった。わが一党の者二陣・三陣と自分に続いて大法を弘通して迦葉・阿難にも勝れ天台・伝教にも超えなさい。わずかの小島である日本の国の主等が威嚇するのをおじ恐れるようであっては、退転して地獄へ堕ちたときに閻魔王の責めを一体どうするというのか。せっかく仏の御使いと名乗りをあげておきながら今さら臆するのは下劣の人々である」とよくよく弟子檀那に申しふくめた。

講義

師と共に「二陣三陣」と続け

大聖人の門下として戦う「無上の誉れ」と、「不惜身命の覚悟」を教えられた御文です。

「日蓮の弟子と名乗る人々は、一人も臆病であってはならない」 「一人も」との仰せから、大聖人の深き御慈愛が伝わります。

妙法の信仰を捨てさせようとする三障四魔は、その人の最も弱いところ、あるいは、大事にしている人に付け入って働きかけてきます。親や子、妻や夫、仕事や経済などです。

無量の昔から、自分の命を捨ててなお、親子の所領を大事にすることは「大地微塵よりも多い」。それなのに、法華経のためには「いまだ一度も捨てたことがない」と大聖人は仰せです。

今こそ成仏を決する大事な時だからこそ、一番根幹となる信仰を退いてはならないと、厳しく言われています。「一人もをくしをもはるべからず」です。全門下が勇気を持て、と御指導されているのです。

「不惜身命」とは小さな自分への執着を捨てて、大きな自分を獲得することとも言えます。それを大聖人は「転捨にして永捨に非ず」(0731:第三捨是身已の事:01)と指南されています。本抄に仰せのとおり「石を金に代える」のです。

三世の生命から見れば、無量の福徳に、永遠に強く深く、包まれていくのです。

さらに大聖人は、大聖人門下の「無上の誉れ」を高らかに宣言されています。

すなわち 仏の滅後、いまだ誰も弘めたことのない「法華経の肝心」「諸仏の眼目」である南無妙法蓮華経の大法を、全世界に弘めゆく先陣を日蓮が切ったのだと。

末法の闇夜に、元初の太陽が昇ったのです。その大光に、世界の全ての人々が包まれていくのです。

大聖人門下の私たちは、迦葉・阿難、天台・伝教ら大学者たちの後ろに「ついていく」のではない、彼らを凌駕し「超えていく」存在だと仰せです。何と誉れ高き一人一人でしょうか!

戸田先生は講義の中で「実際、いま大聖人のお示しのとおりにやっているのは創価学会だけです」と強調されました。

「羊千匹よりも獅子一匹」 牧口先生は叫ばれました。「臆病な小善人が千人いるよりも、勇気ある大善人が一人いれば、大事を成就することができる」と。

「わづかの小島のぬしら」の権力の脅しにも臆してはならない、と大聖人は仰せです。学会は師子の陣列で、厳然と進みましょう。

本文

  詮ずるところ、上件の事どもは此の国ををもひて申す事なれば世を安穏にたもたんと・をぼさば彼の法師ばらを召し合せて・きこしめせ、さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行わるるほどならば国に後悔あるべし、日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし、梵天・帝釈.日月.四天の御とがめありて遠流.死罪の後.百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし、其の時後悔あるべしと平左衛門尉に申し付けしかども太政入道のくるひしやうに・すこしもはばかる事なく物にくるう。

現代語訳

「詮ずるところ上の一件の事どもは此の国の前途を思っていっていることであるから、世を安穏にたもとうと思われるなら、彼の諸宗の法師達を召し合わせて自分と公場対決をさせてお聞きなさい。そうしないで彼の法師達に代わって理不尽に自分を罪におとすようならば、国に後悔する事件があろう。日蓮が幕府の御勘気を蒙るならば仏の御使を用いないことになる。その結果、梵天・帝釈・日月・四大天王のお咎めがあって、日蓮を遠流か死罪にしたのち百日・一年・三年・七年の内に、自界叛逆難といって北条幕府御一門の同士打ちがはじまるであろう。そののちは他国侵逼難といって四方から、そのうち殊に西から攻められるであろう。そのとき、日蓮を罪におとしたことを後悔するに違いない」と平左衛門尉に申し付けたけれども、太政入道が狂ったように、彼は少しもまわりをはばからず怒り猛り狂った。

講義

一歩も退かずに堂々たる論陣を

竜の口の法難の2日前 文永8年(1271)9月10日、大聖人は幕府に召喚され、訊問を受けられます。その際の、平左衛門尉頼綱のやりとりを記されたのが、この御文です。

なぜ召喚されたのか。

後に述べられていますが、同年6月、真言律宗の僧・極楽寺良観が、大旱魃に際し、祈雨の修法を行いました。

大聖人は「もし7日の内に雨がふれば、日蓮一門は良観の弟子になる。降らなければ、日蓮が弟子になれ」と良観に伝えたのです。

結果、雨は全く降らず、さらに7日間延長して祈っても悪風は増すばかりで、良観は大惨敗、面目をつぶされた良観は、大聖人を恨み、約束を無視し、諸宗の僧らに働きかけ、大聖人を幕府に訴えさせます。

しかし、それも叶わぬとなると、良観は、今度は、幕府高官の夫人に働きかけます。

すなわち、彼らは「日蓮は“故最明寺入道、故極楽寺入道は地獄に堕ちた。建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等を焼き払え。道隆・良観の頸をはねよ”などと言っている。それが事実かどうか、日蓮を召喚して尋ねよ」というのです。その結果、幕府が大聖人を召し出します。そして、「本当に、このように言ったのか」との平左衛門尉の問いに、大聖人は毅然と答えられます。

「その通りだ。しかし、故最明寺入道殿・故極楽寺入道殿は地獄に堕ちたといったというのは、ウソである。為政者の謗法の罪については、二人が生きているときから言ってきたことである」と。

さらに大聖人は「これらの事は、国のことを思って言ったのだから、世の安穏を願われるならば、彼の法師たちを呼び出して、日蓮と公場対決させよ」と。

ちなみに「頸をはねよ」との表現は、決して大聖人の御真意ではありません。むしろ幕府の側が、大聖人の頸を「はぬべきか」と議論していたことは、本抄にも触れられている通りです。そうした議論をしている者たちに対して、“「頸をはねよ」というならば、日蓮ではなく、法華経の行者を亡き者にしようと画策している彼らの頸ではないのか”と喝破されたのです。

もとより悪僧を誡める在り方については、すでに「立正安国論」で、「決して頸をはねることではなく、布施をとどめることに尽きる」と表現されている通りです。

ともあれ、公の場で、あくまでも言論で、正邪を皆にわかるようにしようではないか。 これが大聖人の主張であられたのです。

しかし、そこまで堂々と正義を主張する大聖人とは、あまりにも対照的に、良観らは、陰でコソコソと画策し、遂に最後まで表に出ることはなかった。

大聖人は平左衛門尉に対して、こうした悪僧たちの言い分を聞いて、大聖人を理不尽に処断するならば、必ず後悔することになろうと、クギを刺されます。

もし、そのように幕府が行えば「仏の御使」を迫害したことになり、自界叛逆難、他国侵逼難が起きるのは避けられない。こう述べると、平左衛門尉は、異常なまでに逆上したと綴られています。

魔性の権力者、国を思う仏の使い。あまりにも対照的な振る舞いに、境涯の差は歴然としていたといえるでしょう。

本文

  去文永八年辛太未歳九月十二日.御勘気をかほる、其の時の御勘気のやうも常ならず法にすぎてみゆ,了行が謀反ををこし大夫の律師が世をみださんと・せしを・めしとられしにもこえたり、平左衛門尉・大将として数百人の兵者にどうまろきせてゑぼうしかけして眼をいからし声をあらうす、大体・事の心を案ずるに太政入道の世をとりながら国をやぶらんとせしににたり、ただ事ともみへず、日蓮これを見てをもうやう日ごろ月ごろ・をもひまうけたりつる事はこれなり、さいわひなるかな法華経のために身をすてん事よ、くさきかうべをはなたれば沙に金をかへ石に珠をあきなへるがごとし、

現代語訳

去る文永八年九月十二日に御勘気を蒙った。そのときの御勘気のありさまも尋常ではなく、法を越えた異常なものであった。九條堂の了行が謀反をおこしたときよりも、大夫の律師良賢が幕府を倒そうとして露見して召し取られたときにも増した無法で大がかりなものであった。そのありさまは平左衛門尉が大将となって、数百人の兵士に胴丸を著せて、自分は烏帽子をかぶって眼を瞋らし声を荒げてやってきた。大体、この事件の奥底を考えてみると、太政入道清盛が天下をとりながら非道専横を重ねて国を亡ぼそうとしたのに似ていて、ただごととも見えなかった。自分はこれを見て次のように思った。「つね日ごろ、月々に考えついていたのはこれである。ああ幸いなるかな法華経のために一身を捨てよとは、臭い凡身の首を斬られるならば、砂と黄金を交換し、石をもって珠を買いもとめるようなものではないか」と。

講義

「幸いなるかな」と不惜の闘争へ

9月12日の竜の口の法難 その日、平左衛門尉が大挙して大聖人を捕らえにきた様子が綴られています。

ただ一人、大聖人を捕らえるために、武装した兵士が数百人、かつて幕府転覆を謀った謀反人を召し捕ったとき以上の、ものものしさです。

大聖人が「法を超えた異常さ」と表現された、その様子は、あえて周囲に目立つように「見せしめ」の効果を狙ったものだったのかもしれません、いずれにせよ、圧倒的な勢力に物言わさ抑え込もうという魔性の権力そのものの態度でありました。

これを見て大聖人は、重ねて「不惜身命」の悦びを語られます。「常々考え、覚悟していたのは、まさに、このことだ。なんと幸いなことだろう。法華経のために身を捨てることができるとは!砂を黄金に代え、石で珠を買うようなものではないか」と。

この厳然たるお姿こそ、師子王の境涯です。

そして、この御聖訓通りに戦われた方が、創価の父・牧口先生であり、わが恩師・戸田先生にほかなりません。

両先生は、開かれた言論の広場である「座談会」を各地で敢行し、「不惜身命」の実践を貫き通したがゆえに、軍部権力によって投獄されました。牧口先生は獄死。戸田先生は、極限まで衰弱したお体で出獄されました。この崇高な師弟の闘争は、永遠の「学会精神の宝」であり、未来を照らし続ける「偉大な希望の光源」なのです。

ある時、戸田先生は、獄中闘争で勝ち得たご自身の境涯についてこう言われた。「広いところで、大の字に寝そべって、大空を見ているようなものだ。そして、ほしいものがあれば、すぐに出てくる。人に、あげてもあげても出てくるんだ。尽きることはない。君たちも、こういう境涯になれ、なりたかったら、法華経のため広宣流布のため、ちょつぴり牢屋に入ってみろ」

そして「今は時代が違うから牢屋に入らなくてもいいが、広布のために骨身を惜しまず戦うことだ」と。

次元は異なりますが、中国の周恩来総理も、語られたそうであります。

「いちばんよい死に方」とはいかなるものか それは「人民を抑圧する者とのたたかいのなかで、弾丸にあたって死ぬ」ことだ。

「しかし、そういうたたかいをするなら、生命がけで仕事をすることだ」

すなわち「鞠躬尽瘁し、死して後已まん」 一身を捧げて人民に尽くし、死ぬまで戦いをやめないことだ と。

友のため、同士のため、民衆のために、生涯、骨身を惜しまず尽くし抜く。ここに創価の師弟の「不二の道」があることを、忘れないでいただきたいのです。

本文

  日蓮・大高声を放ちて申すあらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをすと・よばはりしかば上下万人あわてて見えし、日蓮こそ御勘気をかほれば・をくして見ゆべかりしに・さはなくして・これはひがことなりとや・をもひけん、兵者どものいろこそ・へんじて見へしか、

現代語訳

このとき日蓮は大高声で彼等にいった。「なんとも面白い平左衛門の気違い沙汰を見よ!おのおのがたはただ今日本国の柱をたおしているのであるぞ!」と宣言したところ、その場の者全部があわててしまった。日蓮の方こそ御勘気を蒙ったのであるからおじけづいて見るべきであるのに、そうではなく逆になったので、「これは越権で悪いことだ」とでも思ったのであろう。兵士達の方が顔色を変えてしまったのがよく見えた。

講義

「日本国の柱」たる大確信

大聖人の大境涯を前に、権力の魔性の狂った本質と、その限界が、あぶり出されている場面です。

平左衛門尉の家来である少輔房が、大聖人の懐にあった法華経の第五の巻を奪い取り、大聖人の顔を3度なぐったり、さらには、兵士たちが草庵に押し入って、法華経の経巻を巻き散らし、踏んだり、身に巻きつけるなどの異様な様を呈していました。

その様子に、大聖人は「あらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをす」と大音声で叫ばれます。その声に、慌てたのは、兵士たちのほうでした。

「仏様が泰然自若として、そのようにおっしゃれば、その声の響きで生命力の弱い連中は縮みあがったでしょう」戸田先生は講義でこう語られていました。

大聖人こそ「日本の柱」である この御確信の宣言は、他の御抄にも拝されます。

「去ぬる文永八年九月十二日に平の左衛門並びに数百人に向て云く日蓮は日本国のはしらなり日蓮を失うほどならば日本国のはしらを・たをすになりぬ等云云」(0312-10)

また、「種種御振舞御書」には「日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり」(0919-03)と。

ゆえに学会こそ、なかんずく創価の青年こそ「日本の柱」そして「世界の柱」なり!との大確信で進もうではありませんか。

柱が太く強ければ、建物は盤石です。

青年の決意が深く強ければ、人類の未来の希望は大きい。

これまで何度か語ってきましたが、若き日、戸田先生に「なぜ、不惜身命の信心が大事なのか」を質問したことは、今でも忘れられません。先生はおっしゃいました。

この地球上では、戦争で人が殺し合う。経済は弱肉強食の世界で、人を幸福にするとは限らない。政治、科学、教育、宗教も人間の業というか、社会は複雑で、すべてが矛盾だらけである。どこにも万人の幸福への根本的な道はない。

その中で、大聖人の仏法だけは、人間の根本的な宿命転換の方途を示されている。常楽我浄と、永遠の所願満足への軌道を教えてくださっている。これ以上の究極の人生の道はない。だから信心だけでは命をかけてやって悔いがないのだ。

妙法に生き抜く人生が、どんなに晴れやかな人生であるか。大聖人は、権力の魔性との戦いの先頭に立たれ、悔いなき人生の本質を、私たちに教えてくださいました。

後を継ぐのは創価の師弟です。

わが愛する青年諸君です!

本文

  一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか、いづみしきぶいろごのみの身にして八斎戒にせいせるうたをよみて雨をふらし、能因法師が破戒の身として・うたをよみて天雨を下らせしに、いかに二百五十戒の人人・百千人あつまりて七日二七日せめさせ給うに雨の下らざる上に大風は吹き候ぞ、これをもつて存ぜさせ給へ各各の往生は叶うまじきぞとせめられて良観がなきし事・人人につきて讒せし事・一一に申せしかば、平左衛門尉等かたうどし・かなへずして・つまりふしし事どもはしげければかかず。

現代語訳

「一丈の堀を越えることのできない者がどうして十丈・二十丈の堀をこえられようは。和泉式部が好色不貞の身でありながら八斎戒を制止している和歌を詠んで雨を降らし、能因法師が破戒の身でありながら和歌を詠んで雨を降らせたのに、二百五十戒の持者ともあろう人々が百千人も集まって一週間・二週間も天を責め立て給うたのに、どうして雨が降らない上に大風が吹くのであるか。この現象をもって知りなさい。あなたがたの往生は叶うまい」と責めたので良観が泣いたこと、彼がこの敗北を逆うらみして、高家の女房等にとり入って讒奏したことなどを一つ一つはっきりと申し聞かせたところ、平左衛門尉等が良観の味方をしたのか、理につまり弁護しきれなくなって、ついに沈黙してしまったことなどは煩わしいからここでは書かない。

講義

迫害者の本質を喝破する

大聖人が平左衛門尉や兵士たちに、諸宗の誤りや、良観の実態 とくに祈雨の大惨敗について語られた場面です。大聖人が、つぶさに語られると、ある者は、どっと笑い、ある者は怒りにかられた。ものものしい修羅場も、大聖人の「声の力」「言論の力」にかかっては、自由自在です。兵士たちを引きつけていった様子が目に浮かびます。

「一丈のほりを」とのおおせは、良観に対し、大聖人が「目先のことすらできないのに、成仏往生など遂げられようか」と責められたお言葉です。

当時、良観は人々から「極楽寺の生仏」と仰がれていましたが、大聖人は、その醜い本性を見抜かれていました。戒律を大事にしているようで、実は、権力と結びついて私利私欲を貪っていたのです。

大聖人は「布絹・財宝をたくはへ利銭・借請を業とす」(0746-13)「道を作り橋を渡す事還つて人の歎きなり、飯嶋の津にて六浦の関米を取る諸人の歎き是れ多し諸国七道の木戸・是も旅人のわづらい只此の事に在り」(0764-13)と、およそ僧の振る舞いにはあるまじき実態を明らかにされています。

そして、良観の祈る雨の実態が兵士たちの前で暴かれたのです。平左衛門尉も言葉に詰まって、何も言えなくなってしまった。

権力を発動した補縛の場が、一転して、大聖人の正義を証明する言論の場となって、大聖人に圧倒されていった顛末が、鮮やかに浮かびます。

「人間革命の真髄」を

戸田先生は、この正義の言論戦の御精神を、私たちに幾度も教えられました。「大聖人の如く戦うのだ」「大聖人の仰せのままに、一歩も退くな!」と。

そして、「われわれは広宣流布をまっとうし、そうして霊鷲山会に大いばりで『創価学会員、広宣流布してまいりました』と、日蓮大聖人様にお目通りできるように、信心をしていこうではありませんか」とよびかけられました。

昭和32年(1957)、戸田先生の誓願成就が目前に迫った時、熾烈な「権力の魔性」との戦いが繰り広げられました。

その最中の昭和32(1957)年7月3日、大阪府警へ出発するため、札幌から大阪へ向かう途中、羽田で、戸田先生は上梓されたばかりのご自身の小説『人間革命』を手渡してくださいました。

開くと、「人間革命の真髄」と提するあとがきに、こう記してくださっていた。

「真の人間革命はまだまだこれからである。三類の強敵と戦い抜き、三障四魔を断破して、真の大利益・人間革命の真髄を把握されんことを希望する」と。

いよいよ、「人間革命の真髄」を!

いよいよ、本物の広宣流布の闘争を!

私は、あの日、戸田先生から授かった燃える決意を、今こそ、若き後継の諸君に、全力で託し、贈りたいのです。

 

 

 

2012:4~6月号大白より、先生の講義 5月号

 

生命の真実最高の力を顕せ!

 

 昭和26年(1251)の晴れわたる53日、戸田先生は、第2代会長に就任されました。その意義を先生は日蓮大聖人に直結する創価学会の発迹顕本とされたのです。先生は、語られました。

 牧口先生は、口癖のように「創価学会は発迹顕本せねばならぬ」と言われていた。

 創価学会の発迹顕本とは何か、最初は皆、わからなかったが、私は2年間の獄中闘争を経て、ようやく亡き牧口先生に、こう応えることがせきた。

 「われわれの生命は永遠です。われわれは、末法に七文字の法華経を流布すべき大任をおびた地涌の菩薩です」と。

 そして、ついに学会総体として「われらこそ、末法に七文字の法華経を流布すべき御本仏の眷属なり」との偉大な自覚を生ずることになった。

 その自覚の証しが第2代会長の就任であり、ここに学会は、牧口先生が言われた発迹顕本をなしたのである と。

 

我が使命の大道を歩み抜け!

 

 創価学会の発迹顕本。それは、一人一人が日蓮大聖人の仏弟子たる覚悟で、大難即広布に立ち上がることにほかなりません。

 「ここで牧口先生のご期待に応えることができたよ」と語る戸田先生の毅然たるお姿は、今も忘れることができません。

 学会員の一人一人に、地涌の自覚の歓喜が横溢している。皆、一人ももれなく、この世で果たさん使命の道を、威風も堂々と力強く歩んでいる。そうしていくことが、牧口先生、戸田先生の崇高なる誓願でした。

 広宣流布に生き抜くなかにこそ、一人一人が自身の大いなる境地を開き、本当に大満足の所願成就の人生を築きゆくことができるからです。

 根源の境地に目覚めた人間は、かくも偉大なりと、日蓮大聖人が自らおしえてくださったのが「竜の口の法難」での御振る舞いです。この法難を機に日蓮大聖人は、御自身の凡夫の胸中に、久遠元初自受用報身如来という妙法と一体の仏の境地を顕されました。

 今回は、引き続き「種種御振舞御書」を学び、この発迹顕本のお姿を通して、民衆救済の闘争を貫かれた師子王の大境涯を拝していきましょう。

 

 

本文

 

  今夜頚切られへ・まかるなり、この数年が間・願いつる事これなり、此の娑婆世界にして・きじとなりし時は・たかにつかまれ・ねずみとなりし時は・ねこにくらわれき、或はめこのかたきに身を失いし事・大地微塵より多し、法華経の御ためには一度だも失うことなし、されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養・心にたらず国の恩を報ずべき力なし、今度頚を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん其のあまりは弟子檀那等にはぶくべしと申せし事これなり

 

現代語訳

 

 「今夜首を斬られに行くのである。この数年の間願ってきたことはこれである。この娑婆世界において雉となったときは鷹につかまれ、ねずみとなったときは猫に食われた、あるときは妻子の敵のために身を失ったことは大地微塵の数よりも多い、だが法華経のためには一度も失うことがなかった。そのために日蓮は貧しい僧侶の身として生まれて父母への孝養も心にまかせず国の恩を報ずべき力もない、今度こそ首を法華経に奉ってその功徳を父母に回向しよう。その余りは弟子檀那に分けようともうしてきたのはこれである」

 

語釈

 

八幡大菩薩を厳然と諌暁

 

 文永8年(1271912日、大挙して草庵を襲った平左衛門尉らに連行され、大聖人は、身柄を佐渡の守護であった武蔵守北条宣時の手に預けられました。

 この宣時は、その後、諸宗の僧らと種々に画策し、佐渡にあられた大聖人を迫害する人物です。

 12日の夜半、四方を兵士に囲まれながら、大聖人は、鎌倉の宣時のもとから連れ出されます。

 「今夜頸を斬られに行く」とは、竜の口へ向かう途中、大聖人が四条金吾に使いを送り、その知らせを聞いて駆けつけた四条金吾に語られたお言葉です。

 法華経のゆえに命を失うことは、むしろ願ってきたことである。人間に生まれ、このような機会に巡りあうことは、今までなかったであろう。ゆえに、父母の恩、国の恩に報いる力も、なかなか持てないでいた。しかし今度は法華経に身命を捧げ、その大功徳を父母に、さらに門下にも、回向できるのだ、と。

 さらに、この御文の前にも、大聖人の悠然たるお姿が記されています。

 大聖人は、鎌倉から竜の口の途中、若宮小路に出たところで、「八幡大菩薩に最後に申すべきことがある」と言われ、馬を下りて、大音声で叫ばれたのです。

 若宮小路とは、幕府の守護神である八幡大菩薩をまつる鶴岡八幡宮から由比ヶ浜までつながる大通りです。

 「いったい八幡大菩薩は、まことの神であるか。法華経が説かれたとき、あなたがた諸天善神は、諸仏菩薩の前で法華経の行者を守護すると誓ったではないか。

 今、日本は日本第一の法華経の行者である。その上、身に一分の過失もない。日本国の一切衆生が法華経を誹謗して無間地獄に堕ちて苦しむのを防ごうと法門を説いている。大至急、守護の誓いをはたすべきであるのに、どうして、この場にこないのか!」

 そして「日蓮が頸を切られ、霊山浄土に参上したならば、天照太神・八幡大菩薩こそ、法華経の行者を守護するという誓いを果たさない神であったと、教主釈尊に申し上げようそれでもよいのか!」と。

 八幡大菩薩・天照太神は日本の支配層の守り神です。当時の最高権力者たちが最も頼みとする神々を、大聖人は叱りつけたのです。

 全民衆を救う根本の法が法華経である!その法華経の行者を守るのが、本当の神ではないのか!

 この大確信の音声は「全宇宙に向かって」の叱咤であったと、戸田先生は本抄の講義で語られています。

 大聖人は、命を懸けての民衆救済の大闘争の功徳を、自身に与えてくださった父母、また、共に苦難のなか、広宣流布に戦う門下に、回らし向けよう、と仰せです。

 人を救う。人々を功徳で包んでいく。その根本の姿勢を、大聖人は教えてくださったと拝されます。

 

 

本文

 

  日蓮申すやう不かくのとのばらかな・これほどの悦びをば・わらへかし、いかに・やくそくをば・たがへらるるぞと申せし時、江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる

 

現代語訳

 

 日蓮が「不覚の殿方である。これほどの悦びを笑いなさい、どうして約束を違えられるのか」といったとき、江の島の方向から月のように光った物が鞠のように東南の方から西北の方角へ光り渡った。

 

講義

 

一切の障魔を打ち破った勝利の姿

 

 竜の口に到着し、「ただいまなり」と泣く四条金吾に、大聖人は語られます。

 「これはどの悦びはないのだ。笑いなさい」

 そのとき、江ノ島のほうから、月のような「光り物」が現れ、東南から西北の方角へ、渡っていった。大聖人の頸を、まさに斬ろうとしていた兵士は、目がくらんで倒れ臥し、刀をおろすことができなかった。「斬るならば、早く斬れ。夜が明けてしまえば見苦しかろう」と大聖人が促しても、何の返事もなかった。

 光り物の正体はなにであったか。さまざまに考察はできるでしょう。

 しかし重要なのは、いかなる横暴な権力も、大宇宙をも包み込む大聖人の御境涯に圧倒され、結局、手出しできなかったという厳然たる事実です。

 いかなる大難をも突き抜けて、「絶対に一切衆生を救うのだ!」という、大聖人の強き御一念・御行動。そこに仏の大生命力が顕現され、魔性を完全に打ち砕いたのです。

 しかも、仏といっても、決して色相荘厳の特別な姿になられたのではない。世間で言われる「仏」のイメージとは正反対の、囚人、流人の御境遇です。むしろ、最も虐げられた凡夫の身に、生命の真実最高の力を開き顕された。ここに大聖人における「発迹顕本」の大きな意義があると拝されます。

 開目抄には「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて」(0223:16)と仰せです。

 この御文を釈して日寛上人は述べられました。

 「この文の元意は、連祖大聖人は名字凡夫の御身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真実の成道を唱え、末法下種の本仏と顕れたまう明文なり」

 頸の座に臨むにあたって、四条金吾を「これほどの悦びをば・わらへかし」と励まされ、明日の命をも知れぬ、厳しい佐渡においても「流人なれども喜悦はかりなし」(1360-17)との大境涯であられた。

 流罪の地で、数々の重書を著され、御本尊の御図顕を開始された。最悪の境遇のなかで、末法万年にわたる一切衆生の最極の幸福の大道を厳然と切り開かれたのです。

 何と崇高な御振る舞いであられたことか!

 いかなる権力も、どのような権威も、大聖人が不屈の闘争で、御自身の生命に開きあらわし、築かれた大境涯を壊すことはでなかった。妙法の心の財は不滅なのです。

 凡夫即極。一人の人間が、本来、どれほど偉大な存在であるかを、大聖人は、身をもって示してくださったのです。

 また大聖人は「法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」(1489:07)と述べられています。

 佐渡以前の法門は、いまだ大聖人の御真意が尽くされていない。すなわち、末法万年にわたって全ての衆生を救いゆく大法を、発迹顕本を経て、いよいよ説き示していくのだとの決意に立たれていたのです。

 

念仏を捨てる兵士たち

 

 さて、「種種御振舞御書」の流れに戻りますと、大聖人は、竜の口から、やがて相模国・依智の本間六郎左衛門の邸へ、翌13日の正午ごろに到着されます。

 大聖人は、随行してきた兵士たちを、酒まで取り寄せて労われました。彼らは鎌倉に戻る際、大聖人に頭を下げて合掌し、挨拶した。なかには「直接にお振る舞いを拝見して、あまりにも尊いので、長年唱えてきた念仏は捨てました」と言って、念仏の数珠を取り出して捨てる者や、「念仏は今後唱えない」との誓いを立てる者もいたと、本抄には綴られています。

 大聖人は、身分や立場や今までの経緯などと関係なく、一人の人間として、目の前の人を大切にされた。どこまでもこまやかに人々を包み込む大聖人の人間味に触れて、敵意も吹き飛び、むしろ深い敬愛に転じたのです。

 最も人間性深き人格、それこそが真実の仏のお姿と拝されます。

 そして、夜の8時ごろ、本間邸には大聖人の処遇にかかわる幕府からの書状を持つ者が到着しました。

 これは、武蔵守宣時が熱海へ行ってしまった後だったために、命令の伝達が真に合わなければ大変なことになると、使者が、まず真っ先に本間邸へ届けたのです。

 書状は、大聖人について「この人は罪なき人である」と明確に記し、処刑中止を命ずるものでした。このことからも竜の口での処刑が、平左衛門尉らの専横によるものであることが分かるといえるでしょう。

 

 

本文

 

  依智にして二十余日・其の間鎌倉に或は火をつくる事・七八度・或は人をころす事ひまなし、讒言の者共の云く日蓮が弟子共の火をつくるなりと、さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて二百六十余人しるさる、皆遠島へ遣すべしろうにある弟子共をば頚をはねらるべしと聞ふ、さる程に火をつくる等は持斎念仏者が計事なり其の余はしげければかかず。

 

現代語訳

 

 依智に滞在すること二十余日、その間、鎌倉で、あるいは放火が七・八度あり、あるいは殺人が絶えなかった。讒言の者どもが「日蓮の弟子どもが火をつけたのである」というので、役所ではそういうこともあろうということになり、日蓮の弟子達を鎌倉に置いてはならぬとの方針で二百六十余人の名が記された。その者達は皆遠島へながされるだろう。すでに入牢中の弟子達は首を斬られるだろうと聞こえてきた。ところが真相は放火などは持斎や念仏者の計りごとである。そのほかのことは繁くなるから書かない。

 

悪僧たちの謀略で流罪が決定

 

 幕府から処刑中止の命令書が届いた後、大聖人の処遇はなかなか決まらず、大聖人は二十数日間も依智に留め置かれることになります。おそらく、幕府の要人らの間で、相当の議論があったのでしょう。

 実はその間、大聖人を無罪放免にさせまいとする悪僧たちの謀略の嵐が、鎌倉の門下を巻き込んで吹いていたのです。

 本抄によると 放火が数回、殺人事件も絶えなかった。「日蓮が弟子どもが火をつけた」との讒言が入り、さもありなんということで、大聖人の主な門下を追放すべく、名前が挙げられた。その数、260人あまり、その者たちは、皆、島流しにすべきだとか、すべて牢に入っている者は斬首すべきだとか、噂も流れてきました。

 しかし、放火などは、持斉や念仏者たちの策略であることは後に判明したと、大聖人は仰せです。

 御自身もままならないなか、大聖人は、どのような思いで、弟子たちの苦闘の様子を聞かれたことでしょう。

 囚われの身となった弟子に対して、大聖人は「日蓮は明日・佐渡の国へまかるなり、今夜のさむきに付けても・ろうのうちのありさま思いやられて・いたはしくこそ候へ」(1213:01)と案じられます。そして、法華経を身で読む戦いができることは何と貴いことかと励まされています。

 

極寒の塚原三昧堂でも著作

 

 依智を出発された大聖人が山海を超えて到着されたのは、佐渡の塚原という山野にある一間四面の三昧堂でした。

 その様子は、人が、まともに生きられる環境とは到底思えない、過酷きわまりないものであった。

 天井は板間が合わず、四面の壁は荒れ果てて、雪が降り積もって消えることがない。夜は、雪・あられ・雷が絶え間なく、昼は日の光もさしこまない。しかも、念仏者らが絶えず命を狙っていた。

 大聖人は、111日から最初の極寒の冬を、この三昧堂で過ごされました。そして「開目抄」「佐渡御書」等、数々の重書を、ここで執筆された。

 そこに込められた大聖人の御自愛、気迫、大確信の光は、今も世界中の妙法流布の闘士を包みこんでいます。また、これからも人類を永遠に照らす「精神の光源」になっていくことを確信します。

 闇夜のごとき最も過酷な御境遇のなかから、最も偉大な太陽の仏法を、燦然と昇らせてくださったのです。

 

 

本文

 

  今日蓮は末法に生れて妙法蓮華経の五字を弘めてかかるせめにあへり、仏滅度後・二千二百余年が間・恐らくは天台智者大師も一切世間多怨難信の経文をば行じ給はず数数見擯出の明文は但日蓮一人なり、一句一偈・我皆与授記は我なり阿耨多羅三藐三菩提は疑いなし、相模守殿こそ善知識よ平左衛門こそ提婆達多よ念仏者は瞿伽利尊者・持斎等は善星比丘なり、在世は今にあり今は在世なり、法華経の肝心は諸法実相と・とかれて本末究竟等とのべられて候は是なり、

 

現代語訳

 

 今日蓮は末法に生まれて妙法蓮華経の五字を弘めてこういう責めに遇った。仏滅度後・二千二百余年の間・恐らくは天台智者大師も「一切世間多怨難信」の経文は行じられず「数数見擯出」の明文を行じたのは但日蓮一人だけである。「一句一偈・我皆与授記」に当たるのは自分である。「阿耨多羅三藐三菩提」を得ることは疑いない。相模守時宗殿こそ善知識である。平左衛門こそ提婆達多である。念仏者は瞿伽利尊者・持斎等は善星比丘である。在世は今にあり今は在世である。法華経の肝心は諸法実相と説かれていて本末究竟等と宣べられているのはこれである。

 

講義

 

法華経身読の悦び

 

 法華経をただ一人、身をもって読まれた誇りを述べられ、そこに至ることは、迫害者の存在が不可欠であったことに言及されています。

 「一切世間多怨難信」「数数見擯出」 正法を弘める大聖人を、一国こぞって悪口・中傷し、正法を誹謗しました。さらに、幕府権力は、2度までも大聖人を流罪に処した。

 ゆえに「一句一偈・我皆与授記は我なり」 妙法を実践する喜びに満ちあふれ、仏の大境涯を得ることは間違いないとの御確信を述べられています。

 また、鎌倉幕府の最高権力者である執権・北条時宗を「善知識」と位置づけられた後、大聖人を迫害する平左衛門尉らの面々と、釈尊を迫害した提婆達多らを対比されて挙げられます。

 「在世は今にあり今は在世なり」と仰せです。

 釈尊在世も、大聖人の時代も、「仏と魔との戦い」は変わりません。そして、この原理は、現代も変わりません。

 そして法華経の中心的法門である方便品の「諸法実相」「本末究竟等」の経文を挙げられています。

 釈尊在世も大聖人当時も、広宣流布の方軌は全く同じであることを示されていると拝されます。

 迫害者である提婆達多や平左衛門尉等も、広宣流布の主体者からすれば、“彼らの大悪を責め抜いてこそ、善の偉大さが証明される”という存在となるのです。 

 さらに大聖人は「但生涯本より思い切て候今に飜返ること無く其の上又違恨無し諸の悪人は又善知識なり」(096207)とまで仰せです。

 すべての存在に意味があり、すべてを広宣流布へ生かしていける 妙法に生き切るならば、自然と、心の底から、そう思えるようになる。それが、仏の境涯です。

 

一切の三障四魔を打ち破る

 

 「種種御振舞御書」では、この後、天台大師の釈などを通し、仏法の修行と理解が深まれば、それを阻もうとする三障四魔が必ず競い起ることが示されています。

 同じ仏でも、低い教えには、それなりの困難しか起こらない。法華経という最高善の教えを持ち、時に適った修行をすれば、それが成仏へ直結しているがゆえに、それをなんとしても阻もうと、最も熾烈な障魔が競い起るのです。

 三障四魔のうち、最も熾烈な「天子魔」は、国主・父母など、影響力の強い人の身に入り代わって、法華経の行者に襲いかかる。天子魔が動くということは、妙法が正しい証拠です。大聖人への迫害が、そのことを最もよく物語っています。

 牧口先生は、よく、「すすんで魔を取り出して退治する」といわれました。戸田先生も、会長に就任された後、三類の強敵は必ず現れてくるが、「私は喜んでおっても、あなた方が腰を抜かして、退転したのではだめなのです」と語らえていました。

 事実、「魔を呼び起こす勢いで」「魔を魔と見破って」、敢然と広布の指揮をとってきたのが、創価の三代の師弟です。

 今こそ私たちは、日蓮大聖人の御精神を深く拝していきたい。三障四魔と戦うなかに、成仏の境涯が開けます。魔が大きければ大きいほど、それ以上に、功徳は絶大なのです。

 

 

本文

 

  釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり、眼前に見えたり此の鎌倉の御一門の御繁昌は義盛と隠岐法皇ましまさずんば争か日本の主となり給うべき、されば此の人人は此の御一門の御ためには第一のかたうどなり、日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんば争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ。

 

現代語訳

 

 釈迦如来のためには提婆達多こそ第一の善知識ではなかったか。今の世間を見ると、人をよくするものは味方よりも強敵が人をよく大成させている。その実例は眼前に見えている。この鎌倉幕府の繁昌は和田義盛と隠岐法皇がおられなかったならばどうして日本国の主となれたか。この人々は北条御一門のためには第一の味方である。同じく日蓮が仏になるための第一の味方は東条景信であり、法師では良観・道隆・道阿弥陀仏であり、彼等と平左衛門尉・時宗殿がいなかったならばどうして法華経の行者となれただろうかと悦こんだのである。

 

講義

 

「迫害者こそ第一の善知識」との大境涯

 

 人を成長させるのは、味方よりも、むしろ敵である。その意味では、迫害者こそは、境涯革命のための真実の味方であるといえる。権威・権力の迫害との戦いは「法華経の行者」の誉れと喜びを引き出してくれる。だから喜ばしいことなのだ と教えられています。

 これは、もちろん「敵も味方も仲良く」ということではありません。大切なのは「戦い切る」ことです。妥協は許さず「絶対に負けない」ことです。

 “日蓮にとって最大の味方は”とおつしゃって、小松原の法難を起こした東条景信、そして竜の口・佐渡流罪の弾圧に暗躍した良観・道隆・道阿弥陀仏、迫害を行った平左衛門尉・北条景信を挙げられています。

 宗教的権威と幕府権力のトップの名を挙げ、これらのお陰で法華経の行者になることができたと悦こばれているのです。

 「悦ぶ」ということは、成仏という人生の真の勝負に「勝った」ということです。世間の地位がどうであれ、生命の位である「境涯」において「天地雲泥」です。誰よりも民衆のために、大難を乗り越え、広宣流布のために戦い抜かれた大聖人だからこその「大勝利宣言」なのです。

 戸田先生は、よく言われていた。

 「『大聖人は、あれだけの大難を忍ばれたから偉い方である』という人がいる。

 そうかもしれないけれども、もっとも偉大なことは、ありとあらゆる大難をも忍ばれながら、一切衆生を救おうとされた大慈大悲の戦いをなされたことである」と。

 大聖人は最も劣悪な境遇のなかから、何者も奪うことのせきない、人間として最高真実の力を顕されたのです。

 竜の口で兵士が大聖人を処刑できなかったのも、極寒の佐渡でなお、門下のため、末法万年のために大法を説かれたのも、迫害者を善知識とみる御境涯も「最も偉大な生命の力」の現れと拝されます。

 大聖人御自身の発迹顕本によって、末法の一切衆生に凡夫成仏の道が開かれたのです。

 大聖人の広宣流布の御闘争に連なり、私たち自身が、生命の真実最高の力を発揮することが、私たち一人一人にとっての「発迹顕本」と言えるでしょう。

 

学会は「地涌の菩薩の集団」

 

 また戸田先生は、発迹顕本とは、行き詰まりを打開することだと教えられました。

 「行き詰まりを感じた時に、大信力、大行力を奮い起して、それを乗り越えていくことだ、これが、私たちの『発迹顕本』となる」と、広宣流布を目指し、大聖人の御遺命の達成を目指し、どこまでも前へ前へ突きすすんでいく、そこに、具体的な「発迹顕本」の実像があるとの指針です。

 戸田先生は、会長就任の時から、一段と力をこめて「東洋広布」を訴えられました。

 その大精神を受け継いで、私は、第三代会長就任して間もなく、世界広宣流布への第一歩を踏み出しました。今や、世界中に、大聖人の本眷族を自覚する広宣流布の闘士のスクラムが広がっています。そこにこそ、大聖人に連なりゆく現代そして未来への「発迹顕本」があると確信してやみません。

 末法の初め、南無妙法蓮華経の大法の出現を「一日」に譬えるならば、御本仏・日蓮大聖人の発迹顕本は、闇の最も深き「子丑の時」のことをいうべきでしょう。

 そして、この大法を守り抜く牧口先生・戸田先生の獄中闘争は、夜明け前の時刻であり、闇を破って立ち上がった創価学会の発迹顕本は、まさに太陽の仏法が大地を照らし始める「黎明」ともいえるのではないでしょうか。

 そして今、太陽の仏法は「午前8時の青年」のごとく、颯爽と、赫々と、世界を照らし始めました。

 創価学会は、末法広宣流布のために出現した「地涌の菩薩」の集団です。

 その本領発揮はいよいよこれからであります。

 その先頭を進むのが、わが青年諸君です。

 行き詰まりを打開し、無限に価値を創造しつつ、どこまでも、使命の完成へと走りゆくのが、創価の青年の本領発揮 「発迹顕本」であると、立ち上がっていただきたいのです。

 

 

 2012:4~6月号大白より、先生の講義 6月号

広宣流布 人類の宿命転換の「柱」と立たん!

 

1972年の5月、20世紀最大の歴史家トインビー博士を、ロンドンの御自宅に訪ね、2年越しの対話を開始しました。

テーマはそれこそ多岐にわたりましたが、博士の研究に関連して、こう質問しました。

「博士が今、最もなさりたいことは何でしょうか」

少々唐突だったかもしれません。しかし博士は、柔和な深い眼差しで答えてくださった。

「私たちが今、この部屋でしているようなことを、続けていきたいと思います。

つまり、ここでの私たちの対話が意味するものは、人類全体を、一つの家族として結束させようとする努力です。

このことは、それ自体、大変重要なことであり、人類が存続を続けていくためには、全人類が単一の大家族になっていかなければならないと信じるからです」

全人類を一つの家族に!そのための対話を!どこまでも対話を!

人間の可能性を信ずるトインビー博士の、胸奥の闘士を、慈愛を、私は垣間見た思いがしました。

 

人類の「精神の柱」たらん

 

大家族が暮らす「世界」を、一つの「家」となるのか。博士と確かめ合ったのは、宗教、なかんずく大乗仏教が、人類の未来に、必ずや大きな役割を果たすであろうという希望でした。

「精神の柱」がなければ、「家」も「社会」も「人類」も栄えていかない。

日蓮大聖人は、大乗仏教の精髄である法華経の精神を根本の柱とした社会を築こうとされました。そのために、為政者を目覚めさせ、仏教の智慧と慈愛の精神で一国を救おうと、ただお一人、立ち上がられたのです。

法難の渦中で、大聖人は叫ばれました。

「我日本の柱とならむ」(0232:05

「日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり」(0287:11

この魂のメッセージを、苦難と戦う門下に、そして未来の人類のために、御自身の振る舞いを通して、あらためて示されたのが「種種御振舞御書」です。

大聖人の民衆厳護の大精神に続きゆく「弟子の信心」を拝し、学んでいきましょう。

 

 

本文

 

  さて止観・真言・念仏の法門一一にかれが申す様を・でつしあげて承伏せさせては・ちやうとはつめつめ・一言二言にはすぎず、鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりも・はかなきものどもなれば只思ひやらせ給へ、利剣をもて・うりをきり大風の草をなびかすが如し、仏法のおろかなる・のみならず或は自語相違し或は経文をわすれて論と云ひ釈をわすれて論と云ふ、

 

現代語訳

 

さて止観・真言・念仏の法門を、一一相手がいうことを念を押して承知させておいてから、ちょうとばかりにつき詰めすると、相手は一問か二問しか問答できずに詰まってしまった。鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりもたわいがない者共であるから問答の様子は想像してごらんなさい。それはまるで利剣で瓜を切り大風が草を靡かせるようなものであった。彼等は仏法に暗いばかりでなく、あるいは自語相違し、あるいは経文を忘れて論といい、釈をわすれて論というありさまであった。

 

講義

 

堂々たる「王者」の振る舞い

 

深い雪に閉ざされ、寒風吹きすさぶ佐渡・塚原の三昧堂、そこで大聖人は、南無妙法蓮華経と唱え、夜も月や星に向かって法華経の深義を談ずる日々であられた。

いかなる迫害があろうと、何ものをも恐れない師子王の大境涯であればこそ、流罪地にあっても、どこまでも「法」を根本とし、基準とされたことが拝されます。

前回、確認したように、「迫害者こそ、日蓮を法華経の行者たらしめた善知識である」と、大聖人は悠然たる御境涯に立たれていました。一方で、大聖人とは対照的に、佐渡にいた数百人の諸宗の僧らは、大聖人を亡き者にしようと色めき立っていた。

これに対し、本間六郎左衛門尉は、皆を制して、「お上から殺してはならないという添え状が下されている。軽んずべき流人ではない。あやまちを起こせば私の罪になる。それよりも法門で責めよ」と提案します。

そこで六郎左衛門尉の立ち会いのもと、法論が行われることになりました。これが、文永9年(1272116日の「塚原問答」と呼ばれる対論です。

この日は、佐渡国だけでなく、荒波を越えて、越後・越中・出羽・奥州・信濃などの近隣の国々からも諸宗の僧らが続々と塚原に集合します。

憎むべき大聖人を目の当たりにして、それぞれが、ただやみくもに、騒ぐだけ騒いでいた「震動雷電の如し」と仰せですから、尋常ではない悪口罵詈の騒ぎであったと想像されます。

しかし大聖人は悠然とされました。しばらく、彼らの好きにさせたあと「おのおの方、お静かに、法論のために、わざわざ来られたのであろう。悪口などは無意味ではないか」とたしなめます。六郎左衛門尉らも「その通りだ」と応じて、特に騒いだ念仏者を取り押えました。

しかし、いざ始まったものの、法論にもなりません。大聖人が「あなたの主張は、要するにこうですね」と念を押したあと、その誤りを指摘すると、相手は、すぐに言葉に詰まってしまう。鎌倉の諸宗の者と比べても、たわいもなく、まるで、“鋭い刀で瓜を切るようなものであった”と仰せになっています。

拙いどころか、事語相違する者、仏法の最も基本である「経・論・釈」すら混乱している者もいる。法論以前のていたらくであった様子が伝わってきます。

言うまでもなく、大聖人の圧勝です。反論できずに悪口ばかり言ったり、口を閉ざしたり、顔色を失ったりした。なかには、その場で袈裟や平念数を捨てて、「念仏はもう唱えない」と誓いを立てる者もあったほどでした。

何百人が取り囲み、憎悪をぶつけても、大聖人は、微動だにされない。その堂々たるお姿自体が、周囲に圧倒したことは間違いありません。そして大聖人の正義は、何ものにも揺るがない、確固たる真実の法門に基づいたものであることが、あらためて証明されたと言えます。

法論が終わって皆が帰るとき、大聖人は六郎左衛門尉に声を掛けられます。

「いつ鎌倉へ上られるのでしょうか」

何のことかピンときていない六郎左衛門尉は、例年どおりのつもりだったのでしょう。

「農作業が終わって、7月ごろに」と答えました。

大聖人は「武士たる者、主家の一大事に馳せ参じて名を上げ、所領を賜るべきである。『農作業に励む』と言っても、今、戦が起ころうとしているのに、時を逸しては恥となろう」と言われました。

「不思議一云はん」と述懐されているように、六郎左衛門尉にとって理解できないことだったと思います。しかし、大聖人は、必ず「自界叛逆難」が起こることを確信されていました。それゆえに、厳然と六郎左衛門尉に告げたのです。実際、一月を経ずして、「二月騒動」という北条家の内紛が現実のものとなるのです。

驚いたのは六郎左衛門尉です。大聖人の威徳にすっかり感服し、「今後は念仏を唱えません」と誓いを立てたのです。

 

 

本文

 

  さて皆帰りしかば去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり、頚切るるならば日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり、此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり平左衛門既に日本の柱をたをしぬ、只今世乱れてそれともなく・ゆめの如くに妄語出来して此の御一門どしうちして後には他国よりせめらるべし、例せば立正安国論に委しきが如し、かやうに書き付けて中務三郎左衛門尉が使にとらせぬ、つきたる弟子等もあらぎかなと思へども力及ばざりげにてある程に、二月の十八日に島に船つく、鎌倉に軍あり京にもあり・そのやう申す計りなし、六郎左衛門尉・其の夜にはやふねをもつて一門相具してわたる日蓮にたな心を合せて・たすけさせ給へ、去る正月十六日の御言いかにやと此程疑い申しつるに・いくほどなく三十日が内にあひ候いぬ、又蒙古国も一定渡り候いなん、念仏無間地獄も一定にてぞ候はんずらん永く念仏申し候まじと申せしかば、いかに云うとも相模守殿等の用ひ給はざらんには日本国の人用うまじ用ゐずば国必ず亡ぶべし、日蓮は幼若の者なれども法華経を弘むれば釈迦仏の御使ぞかし、わづかの天照太神・正八幡なんどと申すは此の国には重けれども梵釈・日月・四天に対すれば小神ぞかし、されども此の神人なんどをあやまちぬれば只の人を殺せるには七人半なんど申すぞかし、太政入道・隠岐法皇等のほろび給いしは是なり、此れはそれにはにるべくもなし教主釈尊の御使なれば天照太神・正八幡宮も頭をかたぶけ手を合せて地に伏し給うべき事なり、法華経の行者をば梵釈・左右に侍り日月・前後を照し給ふ、かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、何に況や数百人ににくませ二度まで流しぬ、此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり、

 

現代語訳

 

さて皆も帰ったので、去年の十一月から勘えていた開目抄という文二巻を造った。これは、もし首を斬られるようならば日蓮の身の不思議を留めて置こうと思って想を練ったである。この文は次のとおりで、「日蓮によって日本国の存亡は決まるのである。譬えば家に柱がなければ保たず人に魂がなければ死人であるのと同じ道理である。日蓮は日本の人の魂である。平左衛門がすでに日本の柱を倒してしまった。そのためにただ今・世の中が乱れて、それという事実もなく夢のように流言がでてきてこの御一門が同士打ちをし、のちには他国から攻められるであろう。例えば立正安国論に委く述べたとおりである」、このように書き付けて中務三郎左衛門尉の使いに持たせてやった。側についていたに弟子等も強すぎる主張であると思うが止める力がないというふうであった。そのうち二月十八日に佐渡に船が着いて、鎌倉にいくさがあり京都にもあって、そのようすは大変なものであるという。

六郎左衛門尉はその夜、早舟をもって一門を率いて渡っていった。そのとき日蓮に掌を合わせて「お助け下さい。去る正月十六日の御言葉を、どうであろうかと今まで疑って参りましたが、いくらもたたずに三十日の内に符合致しました、それではまた蒙古国も必ず攻め寄せましょう。念仏無間地獄も一定でございましょう。今後は決して念仏は申しません」といったので「あなたがどのように云おうとも、時宗殿等がお用いにならぬならば、日本国の人は用いまい。用いなければ国は必ず亡びるのである。日蓮は幼若な者ではあるが法華経を弘めている以上は釈迦仏の御使いである。たかの知れた天照太神・正八幡などという神はこの国でこそ重んじられているけれども梵天・帝釈・日月・四大天王に対するならば小神にすぎない。それでもこれに仕える神人などを殺したならば普通の人を殺した場合の七人半に当たるなどというほどである。太政入道清盛や隠岐法皇等が亡んだのはこのためである。日蓮への弾圧はこれには似るべくもない大罪である。自分は教主釈尊の御使いであるから天照太神・正八幡宮も頭を下げ手を合わせて地に伏すべきである。法華経の行者に対しては梵天・帝釈は左右に仕え日天・月天は前後を照らし給う。このような尊い日蓮を用いたとしても悪しく敬うならば必ず国が亡びる。まして敬うどころか数百人に憎ませ二度まで流罪にした。この国が亡びることは疑いないけれども、しばらく神々を制止して国を助け給えと日蓮がひかえておったからこそ今までは安穏であったが、理不尽な行為があまりにも度を越したから罰があたってしまったのである。

 

講義

 

「開目抄」を門下に与える

 

竜の口の頸の座は免れたものの、大聖人は流人の身であり、いつ命を奪われても不思議ではない状況に、依然として置かれていました。

そのことを覚悟され、「発迹顕本」された御境地を留めおくため、「開目抄」を著されたと述べられています。文永8年(127111月から構想され、翌92月に、四条金吾の使いの者に託したのでした。

「開目抄の心」とは何か 大聖人は述べられました。“日蓮こそ日本国の柱である、日本の人々の魂である”“日蓮によって日本の存亡は決まるのである”“その日蓮を亡き者にせんとし、流罪に処したことは、日本の柱を倒したことになるのだ”“今まさに世は乱れ、自界叛逆難、他国侵逼難の二難が競い起るのは避けられない。これは、立正安国論に記した通りである”と。

そして大聖人は このような「開目抄」を四条金吾をはじめ鎌倉の門下に宛てて送る際、側にいた弟子たちも「強すぎる主張だな」と心配顔であったが、止めることはできなかった。とも述べられています。

さらに大聖人は、本抄でこう仰せです 日蓮は未熟者ではあるが、法華経を弘めている以上は、釈迦仏の御使いである。天照太神、正八幡といった神々も、教主釈尊の御使いである日蓮を敬うべきである。法華経の行者に対しては、梵天・帝釈は左右に仕え、日天・月天は前後をてらすのである、と。

これは、218日に二月騒動の第一報を聞くや、慌てて佐渡から鎌倉に向かう本間六郎左衛門尉に対して、大聖人が述べたお言葉です。自界叛逆難の予言の的中に、六郎左衛門尉が手を合わせて、念仏を止めることを宣言します。そこで大聖人は、御自身が釈尊の使いとして、また法華経の行者として正法を弘められていることを示したあと「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡うべし」と仰せになったのです。

なぜ、大聖人は、ここまで強く仰せなのか。

それは、「仏の使い」であり「法華経の行者」であると仰せられているように、どこまでも、妙法という「法」が偉大だからです。

「持たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし、然らば則ち其の人を毀るは其の法を毀るなり」(持妙法華問答抄:0465:18)とも仰せです。

そしてまた、それは、民衆を救おう、民衆の幸福の道を確立しようとの強い「お心」からではないでしょうか。この「心」は、まさに「広宣流布の誓願」、すなわち「仏の心」です。

「仏の心」とは「父母の一子の大苦に値うを見るよりも強盛に」(開目抄下:0236:17)と仰せのように、大切な仏子を、断じて不幸にさせてなるものかという闘士の沸騰です。

60年前戸田先生は「謹んで開目抄の一節を拝したてまつる」との論文を発表しました。

「私が大聖人様のおことばの語句をわかろうとするよりは、御仏の偉大なるご慈悲、偉大なる確信、熱烈たる大衆救護のご精神、ひたぶるな広宣流布への尊厳なる意気にふれんことをねがうものである。

私の胸には御書を拝読するたびに、真夏の昼の太陽のごとき赫々たるお心がつきさされてくるのである。熱鉄の巨大なる鉄丸が胸いっぱいに押しつめられた感じであり、ときには、熱湯のふき上がる思いをなし、大瀑布が地をゆるがして、自分の身の上にふりそそがれる思いもするのである。

大聖人の御生涯の闘争は、まさに、大慈悲と大確信、そして、民衆救済の大情熱に満ちあふれておられました。なかんずく、この佐渡にあって、大聖人は広宣流布を断じて実現せん」と宣揚されます。

 

逆境の地で広宣流布を宣言

 

「開目抄」の「日本の柱」「日本の眼目」「日本の大船」との仰せは、全民衆を救わんとの大誓願です。

「観心本尊抄」においても「一閻浮提第一の本尊」を立てて、三仏の未来記を示されています。

「顕仏未来記」に「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(0508-11)「此の大法興廃の大瑞なり」(0508-18)、「諸法実相抄」には「剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(1360-10)とも仰せです。

最大の逆境たる流罪地で、末法広宣流布の実現を高らかに宣言なされている。それが佐渡期の大聖人の「心」であり、「魂」です。

末法広宣流布こそ仏意であり、まさしく仏の未来記です。

いわば、仏教本来の大願を今こそ実現すべきだと、大聖人は佐渡の地であらためて誓いを立てられています。

全民衆を仏の境涯に高めていきたい。一人も不幸な人生を送らせたくない。国を救い、世界を救う。

この尊極なる御確信を大聖人は、本間六郎左衛門尉に示したと拝されます。

しかし、幕府の要人は、真実の人を見極めようともせず、悪鬼入其身の姿のまま、更なる迫害を加えようとしたのです。それが、流罪中の北条宣時の動きに現れます。

 

 

本文

 

  武蔵前司殿・是をきき上へ申すまでもあるまじ、先ず国中のもの日蓮房につくならば或は国をおひ或はろうに入れよと私の下知を下す、又下文下るかくの如く三度其の間の事申さざるに 心をもて計りぬべし、或は其の前をとをれりと云うて・ろうに入れ 或は其の御房に物をまいらせけりと云うて国をおひ或は妻子をとる、かくの如くして上へ此の由を申されければ案に相違して去る文永十一年二月十四日の御赦免の状・同三月八日に島につきぬ、念仏者等・僉議して云く此れ程の阿弥陀仏の御敵・善導和尚・法然上人をのるほどの者が・たまたま御勘気を蒙りて此の島に放されたるを御赦免あるとていけて帰さんは心うき事なりと云うて、やうやうの支度ありしかども何なる事にや有りけん、思はざるに順風吹き来りて島をば・たちしかばあはいあしければ百日・五十日にもわたらず、順風には三日なる所を須臾の間に渡りぬ、越後のこう・信濃の善光寺の念仏者・持斎・真言等は雲集して僉議す、島の法師原は今まで・いけてかへすは人かつたいなり、我等はいかにも生身の阿弥陀仏の御前をば・とをすまじと僉議せしかども、又越後のこうより兵者ども・あまた日蓮にそひて善光寺をとをりしかば力及ばず、三月十三日に島を立ちて同三月二十六日に鎌倉へ打ち入りぬ。

 

現代語訳

 

武蔵前司宣時殿はこれを聞いて「お上に申し上げるまでもあるまい、まず佐渡の国の諸人のなかで日蓮房につく者があるならば、あるいは国から所払いにしあるいは牢に入れよ」と私製の下知を下した。また同趣旨の下し文を下した。このように三度まであり、その間の出来事にはとくにふれないが、あなたの心で推し量っていただきたい。島の役人は人々に対してあるいは庵室の前を通ったといって牢に入れ、あるいはその御房に物を差し上げたといっては国から追い、あるいは妻子を取り上げた。宣時がこのようにしておいて、お上へこれらを言上したところ、予想に反して去る文永十一年二月十四日の御赦免状が同三月八日に島に到着した。

念仏者等が協議して「これほどの阿弥陀仏の御敵であり、善導和尚や法然上人を罵るほどの悪い者が、まれに御勘気を蒙ってこの島に流されたのを、御赦免になったといって生かして帰すのは心苦しいことだ」といってさまざまな企てがあったが、どういう訳であろうか。思いがけなく順風が吹いてきて島を出発したが、タイミングが悪ければば百日・五十日を経ても渡れず、順風でも三日かかるところを少しの間に渡ってしまった。これを聞いて越後の国府や信濃の善光寺の念仏者・持斎・真言等は雲集して協議した。「島の法師等は、今まで生かしておいて還すとは人でなしである。われ等はどうしても生身の阿弥陀仏の御前は通すまい」と謀議したけれども、越後の国府から兵士どもが大勢日蓮につき添って善光寺を通ったのでまた彼等も力が及ばなかった。こうして三月十三日に島を立って同三月二十六日に鎌倉に入った。

 

講義

 

迫害を乗り越え、鎌倉に御帰還

 

塚原問答などを経て、人々が大聖人に帰依していく様子に危機感を抱いた念仏者らが、謀議をこらします。「何としても日蓮を亡き者にしようではないか」

そこで代表格の何人かが鎌倉に行って、武蔵守宣時に讒訴します。「日蓮が島にいると、諸宗の堂搭も、僧も、全滅するだろう。日蓮は阿弥陀仏を焼き払ったり、河に捨てたりしている。夜も昼も、山に登って日月に向かって大声をあげ、お上を呪詛している。その音声は国内に聞こえている」と。

これを受けて宣時は、お上に申し上げるまでもあるまいと、勝手に偽の命令書を作って、大聖人の一門を弾圧します。「日蓮につく者は、追放あるいは牢に入れよ」と。

こうした偽の命令書は3度にわたって発せられました。「法華行者逢難事」にも、その内の一通が引用されています。

しかし、謀略こそ悪の証明です。どんな卑劣な画策も、大聖人を陥れることはできませんでした。門下も懸命に耐え抜きました。

「水は濁れども又すみ・月は雲かくせども・又はるることはり」(中興入道消息:1333:13)です。文永11年(127438日、幕府からの赦免状が、佐渡に到着したのです。

大聖人が、佐渡を出発されたのは313日、鎌倉へ向かう間も、念仏者は執拗に大聖人の命を狙いましたが、多くの護衛の兵士が大聖人についたため、手出しすることができなかった。そして、ついに326日、大聖人は、鎌倉に御帰還なさったのです。

このことを大聖人は「鎌倉へ打ちいりぬ」と仰せです。“生きては還れぬ”とされた佐渡から、厳然と生きて還られた。苦難と戦う門下の人々は、どれほど待ちわびたことでしょう。鎌倉御帰還は、まさに大聖人の「凱旋」のお姿と拝されます。

 

 

本文

 

  同四月八日平左衛門尉に見参しぬ、さきには・にるべくもなく威儀を和らげて・ただしくする上・或る入道は念仏をとふ・或る俗は真言をとふ・或る人は禅をとふ・平左衛門尉は 爾前得道の有無をとふ・一一に経文を引いて申しぬ、平の左衛門尉は上の御使の様にて大蒙古国はいつか渡り候べきと申す、日蓮答えて云く今年は一定なりそれにとつては 日蓮已前より勘へ申すをば御用ひなし、譬えば病の起りを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし、真言師だにも調伏するならば弥よ此の国軍にまくべし・穴賢穴賢、真言師・総じて当世の法師等をもつて御祈り有るべからず・各各は仏法をしらせ給うておわさばこそ申すともしらせ給はめ、又何なる不思議にやあるらん他事には・ことにして日蓮が申す事は御用いなし、後に思い合せさせ奉らんが為に申す隠岐法皇は天子なり権大夫殿は民ぞかし、子の親をあだまんをば天照太神うけ給いなんや、所従が主君を敵とせんをば正八幡は御用いあるべしや、いかなりければ公家はまけ給いけるぞ、此れは偏に只事にはあらず弘法大師の邪義・慈覚大師・智証大師の僻見をまことと思いて叡山・東寺・園城寺の人人の鎌倉をあだみ給いしかば還著於本人とて其の失還つて公家はまけ給いぬ、武家は其の事知らずして調伏も行はざればかちぬ今又かくの如くなるべし、ゑぞは死生不知のもの安藤五郎は因果の道理を弁えて堂塔多く造りし善人なり、いかにとして頚をば・ゑぞに・とられぬるぞ、是をもつて思うに此の御房たちだに御祈あらば入道殿・事にあひ給いぬと覚え候、あなかしこ・あなかしこ・さ・いはざりけると・おほせ候なと・したたかに申し付け候いぬ。

 

現代語訳

 

同四月八日に平左衛門尉に対面した。彼等は前と打って変わって容子を和らげて礼儀正しくする上に、ある入道は念仏について質問し、ある俗人は真言を問い、ある人は禅を問い、平左衛門尉は爾前に得道が有るか無いかを質問した。これらには一つ一つはっきりと経文を引いて答えた。

平左衛門尉は執権の御使いかと思われるようすで「大蒙古国は一体いつ攻めて参りましょうか」と尋ねた。日蓮は答えていった。「今年中に必ずくる。それについては日蓮が已前から勘えて進言しているのを御用いがない。譬えば病の起因を知らない人が病を治療すれば病はますます倍増する道理である。同様に真言師が蒙古調伏の祈禱をするならばますますこの国は戦に負けるであろう。決して決して真言師・総じては今の諸宗の法師等をもって祈禱してはならない。各々は仏法を知っておいでならともかく、そうではないからいってあげても判らないのである。また、どういう訳であろうか、よそ事には異なってお用いにならない。やむをえないからあとで思い合わせさせるために事実を申しておく。隠岐法皇は天子であり権大夫義時殿は民ではないか。子が親に仇をなすのを天照太神は受けるだろうか。家来が主君を敵にするのを正八幡は用いようか。それなのに如何なるわけで公家は負けたのであるか。これは全くただ事ではない。弘法大師の邪義・慈覚大師・智証大師の僻見を真実と思って、叡山・東寺・園城寺の人々が鎌倉幕府を仇にしたので還著於本人といって其の失が祈った方へ還って著き、公家は負けた。武家は祈禱の事などは知らぬので調伏も行なわなかったから勝った。今またそのようになろう。蝦夷は死生の理を知らぬ者、安藤五郎は因果の道理を弁えて堂塔を沢山造った善人である。それなのにどうして首を蝦夷に取られたのであるか。これを以って考えるに、この御房たちが祈禱するならば入道殿は必ず大事件に遇うと確信する。そのときになってから決して決して『御房はそうはいわなかった』と仰せなさるな」としたたかに申しつけた。

 

講義

 

三度目の国主諌暁

 

鎌倉に帰られた大聖人が、幕府から呼び出されて平左衛門尉と対面され、第3回の国主諌暁を行われる場面です。

この時の幕府の対応は、前とは打って変わって、丁重なものでした。

大聖人は、諸宗について聞かれて、経文を引いて述べ、平左衛門尉からは「蒙古はいつ襲来してくるか」と問われて「今年は必ず来る」と答えられます。そして、幕府が真言師らに調伏の祈禱をさせていることに対し、病の原因を知らない者が病を治療して、病状を悪化させるようなもので、必ず重大な危機に直面するだろうと諌められました。

懐柔策に出た平左衛門尉は、大聖人に寺を与え、蒙古調伏の祈禱をさせようとした。これは、大聖人の立正安国の主張を用いたものではなく、他の諸宗の僧らと同列に扱ったに過ぎませんでした。まさに「あしくうやまはば」の姿そのものです。

大聖人は、平左衛門尉に対して、「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」(撰時抄:0287:15)と高潔な御精神を示されています。

「開目抄」に、たとえ「日本国の位を譲ろう」という甘言があろうと、脅迫があろうと、「我日本の柱とならむ」等の誓いは破られることはないと断言されている通りに、大聖人は、幕府の申し出を決然と断ります。

幕府にとって宗教とは、結局は、権勢を維持するための手段でしかなかった。これに対して、大聖人は、仏法の目的はどこまでも民衆の幸福と安穏の実現にあるとの立場から、最後の諌暁をされたのです。

大聖人は「本より・ごせし事なれば日本国のほろびんを助けんがために三度いさめん」(光日房御書:0928:05)「いま一度平左衛門に申しきかせて日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候いき」(高橋入道殿御返事:1461:07)とも仰せです。

 

広布は一人から一人へ

 

結局、大聖人は、3度諌めて用いなければ国を去るとの故事にならって、同年5月身延へ入山されます。

そして、この年の10月に「文永の役」が起こり、7年後の弘安4年(1281)には「弘安の役」が起こりました。いずれも日本を滅ぼすに至りませんでしたが、蒙古襲来の対応に負担を強いるだけで、十分な見返りのない御家人たちの不満が募り、主従関係の基盤が揺らいだことが、鎌倉幕府の衰退・滅亡につながったとの見方もあります。

ともあれ、亡国か安国か この根幹の問題に対して幕府は誤った選択をしてしまった。

一方、大聖人は、身延にあって、門下の育成にいっそう全力を注がれます。広宣流布の闘争は永遠に終わるものではないからです。

「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや」(諸法実相抄:1360:09)、「日本国の中に但一人・南無妙法蓮華経と唱えたり、これは須弥山の始の一塵大海の始の一露なり、二人・三人・十人.百人・一国・二国 ・六十六箇国・已に島二にも及びぬらん」(妙密上人御消息:1241:02)、「日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一渧・一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ」(撰時抄:0288:05)です。

師匠の闘争に続いて、同じ志に立つ弟子が、一人また一人、唱え伝えていく中に、広宣流布の前進があります。また、その実践の中にのみ末法の成仏の道、国土建設の道があるのです。

「法」根本の不惜身命の闘争があれば、大難を乗り越え、堂々たる発迹顕本の姿を満天下に示すことができる。いかなる権力の迫害も、宿命も侵すことのできない、一人の人間の尊厳性を確立できる、その生き方が一人からまた一人へと広がることが広宣流布です。この立正安国の闘争の中に、人類の宿命転換があります。

弟子の大闘争を、自らのお振る舞いを通して教えてくださったのが、「種種御振舞御書」です。そして、大聖人の御闘争を、現代にあって、不惜身命の振る舞いで、一身を捧げて、あらゆる言葉を尽くして、私たちに教えてくださったのが、牧口先生であり、戸田先生です。この両先生の崇高なる精神のままに、私は戦ってきました。だからこそ、仏法は世界192カ国・地域へと広がったのです。

この創価三代の師弟の心は、間違いなく、創価学会に、そしてSGIに、脈々と流れ通っています。学会員の「振る舞い」が、人類の宿命転換を願う多くの識者や民衆から賞讃され、「善の連帯」が広がる時代を迎えました。

 

恩師は「青年は国の柱」と

 

「開目抄」の一説をめぐって、インド文化国際アカデミー理事長のロケッシュ・チャンドラ博士が、印象深い話をしてくださいました。サンスクリットの権威である父君ラグヴィラ博士が、日蓮大聖人の闘争の生涯を学んで、その感動を語ってくれたというのです。

「今も私は、その時の父の表情、まなざしをありありと思い出します。

父の高らかな声が響いてきます。

『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ』(開目抄下:0232:05

父はこの大聖人の言葉に自身を重ねていました。インドに対する同じ使命をわきあがらせたのです」

「大聖人は、父にとって、すべてを支える根本であり、勇気そのものであり、力をわき立たせてくれる存在でした」

「父にとって、大聖人は、『人間が逆境のなかで示す偉大さの模範』でした。『生命に具わる清らかさと栄光を象徴する人物』だったのです」

まさに、この父子の願いのままに「民衆の時代」が到来しつつあります。

今、21世紀に入り、人類は一つの家族のように結ばれゆく可能性が芽生えています。それと同時に、分断と差別という人類の宿命との戦いもまた、強くなっている。

今、人類が、その宿命を転換できるかどうかの岐路だと、各界の識者たちの認識は一致しています。

戸田先生は、叫ばれました。

「青年は国の柱である」

「青年よ、一人立て!」

今、あらためて私も青年に呼び掛けたい。

「青年は21世紀の柱である。」

「世界の青年よ、一人立て!」と。

全人類が「大家族」へと結ばれゆく新時代 それは特定の一部の人ではない、「万人が『柱』と立ち上がる時代です。

広宣流布は、妙法を抱いた人間の「振る舞い」を通して、一人一人が、人類の宿命転換の「柱」と立ち上がりゆく未聞の運動なのです。

御書発刊60周年の佳節に拝す

「御本仏直結」の創価学会の栄光の

未来を担いゆくわが青年たちと共に。

咲き薫らせる時が来たのです。

 

 

 2012:4~6月号大白より、先生の講義 6月号

広宣流布 人類の宿命転換の「柱」と立たん!

 

1972年の5月、20世紀最大の歴史家トインビー博士を、ロンドンの御自宅に訪ね、2年越しの対話を開始しました。

テーマはそれこそ多岐にわたりましたが、博士の研究に関連して、こう質問しました。

「博士が今、最もなさりたいことは何でしょうか」

少々唐突だったかもしれません。しかし博士は、柔和な深い眼差しで答えてくださった。

「私たちが今、この部屋でしているようなことを、続けていきたいと思います。

つまり、ここでの私たちの対話が意味するものは、人類全体を、一つの家族として結束させようとする努力です。

このことは、それ自体、大変重要なことであり、人類が存続を続けていくためには、全人類が単一の大家族になっていかなければならないと信じるからです」

全人類を一つの家族に!そのための対話を!どこまでも対話を!

人間の可能性を信ずるトインビー博士の、胸奥の闘士を、慈愛を、私は垣間見た思いがしました。

 

人類の「精神の柱」たらん

 

大家族が暮らす「世界」を、一つの「家」となるのか。博士と確かめ合ったのは、宗教、なかんずく大乗仏教が、人類の未来に、必ずや大きな役割を果たすであろうという希望でした。

「精神の柱」がなければ、「家」も「社会」も「人類」も栄えていかない。

日蓮大聖人は、大乗仏教の精髄である法華経の精神を根本の柱とした社会を築こうとされました。そのために、為政者を目覚めさせ、仏教の智慧と慈愛の精神で一国を救おうと、ただお一人、立ち上がられたのです。

法難の渦中で、大聖人は叫ばれました。

「我日本の柱とならむ」(0232:05

「日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり」(0287:11

この魂のメッセージを、苦難と戦う門下に、そして未来の人類のために、御自身の振る舞いを通して、あらためて示されたのが「種種御振舞御書」です。

大聖人の民衆厳護の大精神に続きゆく「弟子の信心」を拝し、学んでいきましょう。

 

 

本文

 

  さて止観・真言・念仏の法門一一にかれが申す様を・でつしあげて承伏せさせては・ちやうとはつめつめ・一言二言にはすぎず、鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりも・はかなきものどもなれば只思ひやらせ給へ、利剣をもて・うりをきり大風の草をなびかすが如し、仏法のおろかなる・のみならず或は自語相違し或は経文をわすれて論と云ひ釈をわすれて論と云ふ、

 

現代語訳

 

さて止観・真言・念仏の法門を、一一相手がいうことを念を押して承知させておいてから、ちょうとばかりにつき詰めすると、相手は一問か二問しか問答できずに詰まってしまった。鎌倉の真言師・禅宗・念仏者・天台の者よりもたわいがない者共であるから問答の様子は想像してごらんなさい。それはまるで利剣で瓜を切り大風が草を靡かせるようなものであった。彼等は仏法に暗いばかりでなく、あるいは自語相違し、あるいは経文を忘れて論といい、釈をわすれて論というありさまであった。

 

講義

 

堂々たる「王者」の振る舞い

 

深い雪に閉ざされ、寒風吹きすさぶ佐渡・塚原の三昧堂、そこで大聖人は、南無妙法蓮華経と唱え、夜も月や星に向かって法華経の深義を談ずる日々であられた。

いかなる迫害があろうと、何ものをも恐れない師子王の大境涯であればこそ、流罪地にあっても、どこまでも「法」を根本とし、基準とされたことが拝されます。

前回、確認したように、「迫害者こそ、日蓮を法華経の行者たらしめた善知識である」と、大聖人は悠然たる御境涯に立たれていました。一方で、大聖人とは対照的に、佐渡にいた数百人の諸宗の僧らは、大聖人を亡き者にしようと色めき立っていた。

これに対し、本間六郎左衛門尉は、皆を制して、「お上から殺してはならないという添え状が下されている。軽んずべき流人ではない。あやまちを起こせば私の罪になる。それよりも法門で責めよ」と提案します。

そこで六郎左衛門尉の立ち会いのもと、法論が行われることになりました。これが、文永9年(1272116日の「塚原問答」と呼ばれる対論です。

この日は、佐渡国だけでなく、荒波を越えて、越後・越中・出羽・奥州・信濃などの近隣の国々からも諸宗の僧らが続々と塚原に集合します。

憎むべき大聖人を目の当たりにして、それぞれが、ただやみくもに、騒ぐだけ騒いでいた「震動雷電の如し」と仰せですから、尋常ではない悪口罵詈の騒ぎであったと想像されます。

しかし大聖人は悠然とされました。しばらく、彼らの好きにさせたあと「おのおの方、お静かに、法論のために、わざわざ来られたのであろう。悪口などは無意味ではないか」とたしなめます。六郎左衛門尉らも「その通りだ」と応じて、特に騒いだ念仏者を取り押えました。

しかし、いざ始まったものの、法論にもなりません。大聖人が「あなたの主張は、要するにこうですね」と念を押したあと、その誤りを指摘すると、相手は、すぐに言葉に詰まってしまう。鎌倉の諸宗の者と比べても、たわいもなく、まるで、“鋭い刀で瓜を切るようなものであった”と仰せになっています。

拙いどころか、事語相違する者、仏法の最も基本である「経・論・釈」すら混乱している者もいる。法論以前のていたらくであった様子が伝わってきます。

言うまでもなく、大聖人の圧勝です。反論できずに悪口ばかり言ったり、口を閉ざしたり、顔色を失ったりした。なかには、その場で袈裟や平念数を捨てて、「念仏はもう唱えない」と誓いを立てる者もあったほどでした。

何百人が取り囲み、憎悪をぶつけても、大聖人は、微動だにされない。その堂々たるお姿自体が、周囲に圧倒したことは間違いありません。そして大聖人の正義は、何ものにも揺るがない、確固たる真実の法門に基づいたものであることが、あらためて証明されたと言えます。

法論が終わって皆が帰るとき、大聖人は六郎左衛門尉に声を掛けられます。

「いつ鎌倉へ上られるのでしょうか」

何のことかピンときていない六郎左衛門尉は、例年どおりのつもりだったのでしょう。

「農作業が終わって、7月ごろに」と答えました。

大聖人は「武士たる者、主家の一大事に馳せ参じて名を上げ、所領を賜るべきである。『農作業に励む』と言っても、今、戦が起ころうとしているのに、時を逸しては恥となろう」と言われました。

「不思議一云はん」と述懐されているように、六郎左衛門尉にとって理解できないことだったと思います。しかし、大聖人は、必ず「自界叛逆難」が起こることを確信されていました。それゆえに、厳然と六郎左衛門尉に告げたのです。実際、一月を経ずして、「二月騒動」という北条家の内紛が現実のものとなるのです。

驚いたのは六郎左衛門尉です。大聖人の威徳にすっかり感服し、「今後は念仏を唱えません」と誓いを立てたのです。

 

 

本文

 

  さて皆帰りしかば去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり、頚切るるならば日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり、此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり平左衛門既に日本の柱をたをしぬ、只今世乱れてそれともなく・ゆめの如くに妄語出来して此の御一門どしうちして後には他国よりせめらるべし、例せば立正安国論に委しきが如し、かやうに書き付けて中務三郎左衛門尉が使にとらせぬ、つきたる弟子等もあらぎかなと思へども力及ばざりげにてある程に、二月の十八日に島に船つく、鎌倉に軍あり京にもあり・そのやう申す計りなし、六郎左衛門尉・其の夜にはやふねをもつて一門相具してわたる日蓮にたな心を合せて・たすけさせ給へ、去る正月十六日の御言いかにやと此程疑い申しつるに・いくほどなく三十日が内にあひ候いぬ、又蒙古国も一定渡り候いなん、念仏無間地獄も一定にてぞ候はんずらん永く念仏申し候まじと申せしかば、いかに云うとも相模守殿等の用ひ給はざらんには日本国の人用うまじ用ゐずば国必ず亡ぶべし、日蓮は幼若の者なれども法華経を弘むれば釈迦仏の御使ぞかし、わづかの天照太神・正八幡なんどと申すは此の国には重けれども梵釈・日月・四天に対すれば小神ぞかし、されども此の神人なんどをあやまちぬれば只の人を殺せるには七人半なんど申すぞかし、太政入道・隠岐法皇等のほろび給いしは是なり、此れはそれにはにるべくもなし教主釈尊の御使なれば天照太神・正八幡宮も頭をかたぶけ手を合せて地に伏し給うべき事なり、法華経の行者をば梵釈・左右に侍り日月・前後を照し給ふ、かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、何に況や数百人ににくませ二度まで流しぬ、此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり、

 

現代語訳

 

さて皆も帰ったので、去年の十一月から勘えていた開目抄という文二巻を造った。これは、もし首を斬られるようならば日蓮の身の不思議を留めて置こうと思って想を練ったである。この文は次のとおりで、「日蓮によって日本国の存亡は決まるのである。譬えば家に柱がなければ保たず人に魂がなければ死人であるのと同じ道理である。日蓮は日本の人の魂である。平左衛門がすでに日本の柱を倒してしまった。そのためにただ今・世の中が乱れて、それという事実もなく夢のように流言がでてきてこの御一門が同士打ちをし、のちには他国から攻められるであろう。例えば立正安国論に委く述べたとおりである」、このように書き付けて中務三郎左衛門尉の使いに持たせてやった。側についていたに弟子等も強すぎる主張であると思うが止める力がないというふうであった。そのうち二月十八日に佐渡に船が着いて、鎌倉にいくさがあり京都にもあって、そのようすは大変なものであるという。

六郎左衛門尉はその夜、早舟をもって一門を率いて渡っていった。そのとき日蓮に掌を合わせて「お助け下さい。去る正月十六日の御言葉を、どうであろうかと今まで疑って参りましたが、いくらもたたずに三十日の内に符合致しました、それではまた蒙古国も必ず攻め寄せましょう。念仏無間地獄も一定でございましょう。今後は決して念仏は申しません」といったので「あなたがどのように云おうとも、時宗殿等がお用いにならぬならば、日本国の人は用いまい。用いなければ国は必ず亡びるのである。日蓮は幼若な者ではあるが法華経を弘めている以上は釈迦仏の御使いである。たかの知れた天照太神・正八幡などという神はこの国でこそ重んじられているけれども梵天・帝釈・日月・四大天王に対するならば小神にすぎない。それでもこれに仕える神人などを殺したならば普通の人を殺した場合の七人半に当たるなどというほどである。太政入道清盛や隠岐法皇等が亡んだのはこのためである。日蓮への弾圧はこれには似るべくもない大罪である。自分は教主釈尊の御使いであるから天照太神・正八幡宮も頭を下げ手を合わせて地に伏すべきである。法華経の行者に対しては梵天・帝釈は左右に仕え日天・月天は前後を照らし給う。このような尊い日蓮を用いたとしても悪しく敬うならば必ず国が亡びる。まして敬うどころか数百人に憎ませ二度まで流罪にした。この国が亡びることは疑いないけれども、しばらく神々を制止して国を助け給えと日蓮がひかえておったからこそ今までは安穏であったが、理不尽な行為があまりにも度を越したから罰があたってしまったのである。

 

講義

 

「開目抄」を門下に与える

 

竜の口の頸の座は免れたものの、大聖人は流人の身であり、いつ命を奪われても不思議ではない状況に、依然として置かれていました。

そのことを覚悟され、「発迹顕本」された御境地を留めおくため、「開目抄」を著されたと述べられています。文永8年(127111月から構想され、翌92月に、四条金吾の使いの者に託したのでした。

「開目抄の心」とは何か 大聖人は述べられました。“日蓮こそ日本国の柱である、日本の人々の魂である”“日蓮によって日本の存亡は決まるのである”“その日蓮を亡き者にせんとし、流罪に処したことは、日本の柱を倒したことになるのだ”“今まさに世は乱れ、自界叛逆難、他国侵逼難の二難が競い起るのは避けられない。これは、立正安国論に記した通りである”と。

そして大聖人は このような「開目抄」を四条金吾をはじめ鎌倉の門下に宛てて送る際、側にいた弟子たちも「強すぎる主張だな」と心配顔であったが、止めることはできなかった。とも述べられています。

さらに大聖人は、本抄でこう仰せです 日蓮は未熟者ではあるが、法華経を弘めている以上は、釈迦仏の御使いである。天照太神、正八幡といった神々も、教主釈尊の御使いである日蓮を敬うべきである。法華経の行者に対しては、梵天・帝釈は左右に仕え、日天・月天は前後をてらすのである、と。

これは、218日に二月騒動の第一報を聞くや、慌てて佐渡から鎌倉に向かう本間六郎左衛門尉に対して、大聖人が述べたお言葉です。自界叛逆難の予言の的中に、六郎左衛門尉が手を合わせて、念仏を止めることを宣言します。そこで大聖人は、御自身が釈尊の使いとして、また法華経の行者として正法を弘められていることを示したあと「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡うべし」と仰せになったのです。

なぜ、大聖人は、ここまで強く仰せなのか。

それは、「仏の使い」であり「法華経の行者」であると仰せられているように、どこまでも、妙法という「法」が偉大だからです。

「持たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし、然らば則ち其の人を毀るは其の法を毀るなり」(持妙法華問答抄:0465:18)とも仰せです。

そしてまた、それは、民衆を救おう、民衆の幸福の道を確立しようとの強い「お心」からではないでしょうか。この「心」は、まさに「広宣流布の誓願」、すなわち「仏の心」です。

「仏の心」とは「父母の一子の大苦に値うを見るよりも強盛に」(開目抄下:0236:17)と仰せのように、大切な仏子を、断じて不幸にさせてなるものかという闘士の沸騰です。

60年前戸田先生は「謹んで開目抄の一節を拝したてまつる」との論文を発表しました。

「私が大聖人様のおことばの語句をわかろうとするよりは、御仏の偉大なるご慈悲、偉大なる確信、熱烈たる大衆救護のご精神、ひたぶるな広宣流布への尊厳なる意気にふれんことをねがうものである。

私の胸には御書を拝読するたびに、真夏の昼の太陽のごとき赫々たるお心がつきさされてくるのである。熱鉄の巨大なる鉄丸が胸いっぱいに押しつめられた感じであり、ときには、熱湯のふき上がる思いをなし、大瀑布が地をゆるがして、自分の身の上にふりそそがれる思いもするのである。

大聖人の御生涯の闘争は、まさに、大慈悲と大確信、そして、民衆救済の大情熱に満ちあふれておられました。なかんずく、この佐渡にあって、大聖人は広宣流布を断じて実現せん」と宣揚されます。

 

逆境の地で広宣流布を宣言

 

「開目抄」の「日本の柱」「日本の眼目」「日本の大船」との仰せは、全民衆を救わんとの大誓願です。

「観心本尊抄」においても「一閻浮提第一の本尊」を立てて、三仏の未来記を示されています。

「顕仏未来記」に「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(0508-11)「此の大法興廃の大瑞なり」(0508-18)、「諸法実相抄」には「剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(1360-10)とも仰せです。

最大の逆境たる流罪地で、末法広宣流布の実現を高らかに宣言なされている。それが佐渡期の大聖人の「心」であり、「魂」です。

末法広宣流布こそ仏意であり、まさしく仏の未来記です。

いわば、仏教本来の大願を今こそ実現すべきだと、大聖人は佐渡の地であらためて誓いを立てられています。

全民衆を仏の境涯に高めていきたい。一人も不幸な人生を送らせたくない。国を救い、世界を救う。

この尊極なる御確信を大聖人は、本間六郎左衛門尉に示したと拝されます。

しかし、幕府の要人は、真実の人を見極めようともせず、悪鬼入其身の姿のまま、更なる迫害を加えようとしたのです。それが、流罪中の北条宣時の動きに現れます。

 

 

本文

 

  武蔵前司殿・是をきき上へ申すまでもあるまじ、先ず国中のもの日蓮房につくならば或は国をおひ或はろうに入れよと私の下知を下す、又下文下るかくの如く三度其の間の事申さざるに 心をもて計りぬべし、或は其の前をとをれりと云うて・ろうに入れ 或は其の御房に物をまいらせけりと云うて国をおひ或は妻子をとる、かくの如くして上へ此の由を申されければ案に相違して去る文永十一年二月十四日の御赦免の状・同三月八日に島につきぬ、念仏者等・僉議して云く此れ程の阿弥陀仏の御敵・善導和尚・法然上人をのるほどの者が・たまたま御勘気を蒙りて此の島に放されたるを御赦免あるとていけて帰さんは心うき事なりと云うて、やうやうの支度ありしかども何なる事にや有りけん、思はざるに順風吹き来りて島をば・たちしかばあはいあしければ百日・五十日にもわたらず、順風には三日なる所を須臾の間に渡りぬ、越後のこう・信濃の善光寺の念仏者・持斎・真言等は雲集して僉議す、島の法師原は今まで・いけてかへすは人かつたいなり、我等はいかにも生身の阿弥陀仏の御前をば・とをすまじと僉議せしかども、又越後のこうより兵者ども・あまた日蓮にそひて善光寺をとをりしかば力及ばず、三月十三日に島を立ちて同三月二十六日に鎌倉へ打ち入りぬ。

 

現代語訳

 

武蔵前司宣時殿はこれを聞いて「お上に申し上げるまでもあるまい、まず佐渡の国の諸人のなかで日蓮房につく者があるならば、あるいは国から所払いにしあるいは牢に入れよ」と私製の下知を下した。また同趣旨の下し文を下した。このように三度まであり、その間の出来事にはとくにふれないが、あなたの心で推し量っていただきたい。島の役人は人々に対してあるいは庵室の前を通ったといって牢に入れ、あるいはその御房に物を差し上げたといっては国から追い、あるいは妻子を取り上げた。宣時がこのようにしておいて、お上へこれらを言上したところ、予想に反して去る文永十一年二月十四日の御赦免状が同三月八日に島に到着した。

念仏者等が協議して「これほどの阿弥陀仏の御敵であり、善導和尚や法然上人を罵るほどの悪い者が、まれに御勘気を蒙ってこの島に流されたのを、御赦免になったといって生かして帰すのは心苦しいことだ」といってさまざまな企てがあったが、どういう訳であろうか。思いがけなく順風が吹いてきて島を出発したが、タイミングが悪ければば百日・五十日を経ても渡れず、順風でも三日かかるところを少しの間に渡ってしまった。これを聞いて越後の国府や信濃の善光寺の念仏者・持斎・真言等は雲集して協議した。「島の法師等は、今まで生かしておいて還すとは人でなしである。われ等はどうしても生身の阿弥陀仏の御前は通すまい」と謀議したけれども、越後の国府から兵士どもが大勢日蓮につき添って善光寺を通ったのでまた彼等も力が及ばなかった。こうして三月十三日に島を立って同三月二十六日に鎌倉に入った。

 

講義

 

迫害を乗り越え、鎌倉に御帰還

 

塚原問答などを経て、人々が大聖人に帰依していく様子に危機感を抱いた念仏者らが、謀議をこらします。「何としても日蓮を亡き者にしようではないか」

そこで代表格の何人かが鎌倉に行って、武蔵守宣時に讒訴します。「日蓮が島にいると、諸宗の堂搭も、僧も、全滅するだろう。日蓮は阿弥陀仏を焼き払ったり、河に捨てたりしている。夜も昼も、山に登って日月に向かって大声をあげ、お上を呪詛している。その音声は国内に聞こえている」と。

これを受けて宣時は、お上に申し上げるまでもあるまいと、勝手に偽の命令書を作って、大聖人の一門を弾圧します。「日蓮につく者は、追放あるいは牢に入れよ」と。

こうした偽の命令書は3度にわたって発せられました。「法華行者逢難事」にも、その内の一通が引用されています。

しかし、謀略こそ悪の証明です。どんな卑劣な画策も、大聖人を陥れることはできませんでした。門下も懸命に耐え抜きました。

「水は濁れども又すみ・月は雲かくせども・又はるることはり」(中興入道消息:1333:13)です。文永11年(127438日、幕府からの赦免状が、佐渡に到着したのです。

大聖人が、佐渡を出発されたのは313日、鎌倉へ向かう間も、念仏者は執拗に大聖人の命を狙いましたが、多くの護衛の兵士が大聖人についたため、手出しすることができなかった。そして、ついに326日、大聖人は、鎌倉に御帰還なさったのです。

このことを大聖人は「鎌倉へ打ちいりぬ」と仰せです。“生きては還れぬ”とされた佐渡から、厳然と生きて還られた。苦難と戦う門下の人々は、どれほど待ちわびたことでしょう。鎌倉御帰還は、まさに大聖人の「凱旋」のお姿と拝されます。

 

 

本文

 

  同四月八日平左衛門尉に見参しぬ、さきには・にるべくもなく威儀を和らげて・ただしくする上・或る入道は念仏をとふ・或る俗は真言をとふ・或る人は禅をとふ・平左衛門尉は 爾前得道の有無をとふ・一一に経文を引いて申しぬ、平の左衛門尉は上の御使の様にて大蒙古国はいつか渡り候べきと申す、日蓮答えて云く今年は一定なりそれにとつては 日蓮已前より勘へ申すをば御用ひなし、譬えば病の起りを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし、真言師だにも調伏するならば弥よ此の国軍にまくべし・穴賢穴賢、真言師・総じて当世の法師等をもつて御祈り有るべからず・各各は仏法をしらせ給うておわさばこそ申すともしらせ給はめ、又何なる不思議にやあるらん他事には・ことにして日蓮が申す事は御用いなし、後に思い合せさせ奉らんが為に申す隠岐法皇は天子なり権大夫殿は民ぞかし、子の親をあだまんをば天照太神うけ給いなんや、所従が主君を敵とせんをば正八幡は御用いあるべしや、いかなりければ公家はまけ給いけるぞ、此れは偏に只事にはあらず弘法大師の邪義・慈覚大師・智証大師の僻見をまことと思いて叡山・東寺・園城寺の人人の鎌倉をあだみ給いしかば還著於本人とて其の失還つて公家はまけ給いぬ、武家は其の事知らずして調伏も行はざればかちぬ今又かくの如くなるべし、ゑぞは死生不知のもの安藤五郎は因果の道理を弁えて堂塔多く造りし善人なり、いかにとして頚をば・ゑぞに・とられぬるぞ、是をもつて思うに此の御房たちだに御祈あらば入道殿・事にあひ給いぬと覚え候、あなかしこ・あなかしこ・さ・いはざりけると・おほせ候なと・したたかに申し付け候いぬ。

 

現代語訳

 

同四月八日に平左衛門尉に対面した。彼等は前と打って変わって容子を和らげて礼儀正しくする上に、ある入道は念仏について質問し、ある俗人は真言を問い、ある人は禅を問い、平左衛門尉は爾前に得道が有るか無いかを質問した。これらには一つ一つはっきりと経文を引いて答えた。

平左衛門尉は執権の御使いかと思われるようすで「大蒙古国は一体いつ攻めて参りましょうか」と尋ねた。日蓮は答えていった。「今年中に必ずくる。それについては日蓮が已前から勘えて進言しているのを御用いがない。譬えば病の起因を知らない人が病を治療すれば病はますます倍増する道理である。同様に真言師が蒙古調伏の祈禱をするならばますますこの国は戦に負けるであろう。決して決して真言師・総じては今の諸宗の法師等をもって祈禱してはならない。各々は仏法を知っておいでならともかく、そうではないからいってあげても判らないのである。また、どういう訳であろうか、よそ事には異なってお用いにならない。やむをえないからあとで思い合わせさせるために事実を申しておく。隠岐法皇は天子であり権大夫義時殿は民ではないか。子が親に仇をなすのを天照太神は受けるだろうか。家来が主君を敵にするのを正八幡は用いようか。それなのに如何なるわけで公家は負けたのであるか。これは全くただ事ではない。弘法大師の邪義・慈覚大師・智証大師の僻見を真実と思って、叡山・東寺・園城寺の人々が鎌倉幕府を仇にしたので還著於本人といって其の失が祈った方へ還って著き、公家は負けた。武家は祈禱の事などは知らぬので調伏も行なわなかったから勝った。今またそのようになろう。蝦夷は死生の理を知らぬ者、安藤五郎は因果の道理を弁えて堂塔を沢山造った善人である。それなのにどうして首を蝦夷に取られたのであるか。これを以って考えるに、この御房たちが祈禱するならば入道殿は必ず大事件に遇うと確信する。そのときになってから決して決して『御房はそうはいわなかった』と仰せなさるな」としたたかに申しつけた。

 

講義

 

三度目の国主諌暁

 

鎌倉に帰られた大聖人が、幕府から呼び出されて平左衛門尉と対面され、第3回の国主諌暁を行われる場面です。

この時の幕府の対応は、前とは打って変わって、丁重なものでした。

大聖人は、諸宗について聞かれて、経文を引いて述べ、平左衛門尉からは「蒙古はいつ襲来してくるか」と問われて「今年は必ず来る」と答えられます。そして、幕府が真言師らに調伏の祈禱をさせていることに対し、病の原因を知らない者が病を治療して、病状を悪化させるようなもので、必ず重大な危機に直面するだろうと諌められました。

懐柔策に出た平左衛門尉は、大聖人に寺を与え、蒙古調伏の祈禱をさせようとした。これは、大聖人の立正安国の主張を用いたものではなく、他の諸宗の僧らと同列に扱ったに過ぎませんでした。まさに「あしくうやまはば」の姿そのものです。

大聖人は、平左衛門尉に対して、「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」(撰時抄:0287:15)と高潔な御精神を示されています。

「開目抄」に、たとえ「日本国の位を譲ろう」という甘言があろうと、脅迫があろうと、「我日本の柱とならむ」等の誓いは破られることはないと断言されている通りに、大聖人は、幕府の申し出を決然と断ります。

幕府にとって宗教とは、結局は、権勢を維持するための手段でしかなかった。これに対して、大聖人は、仏法の目的はどこまでも民衆の幸福と安穏の実現にあるとの立場から、最後の諌暁をされたのです。

大聖人は「本より・ごせし事なれば日本国のほろびんを助けんがために三度いさめん」(光日房御書:0928:05)「いま一度平左衛門に申しきかせて日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候いき」(高橋入道殿御返事:1461:07)とも仰せです。

 

広布は一人から一人へ

 

結局、大聖人は、3度諌めて用いなければ国を去るとの故事にならって、同年5月身延へ入山されます。

そして、この年の10月に「文永の役」が起こり、7年後の弘安4年(1281)には「弘安の役」が起こりました。いずれも日本を滅ぼすに至りませんでしたが、蒙古襲来の対応に負担を強いるだけで、十分な見返りのない御家人たちの不満が募り、主従関係の基盤が揺らいだことが、鎌倉幕府の衰退・滅亡につながったとの見方もあります。

ともあれ、亡国か安国か この根幹の問題に対して幕府は誤った選択をしてしまった。

一方、大聖人は、身延にあって、門下の育成にいっそう全力を注がれます。広宣流布の闘争は永遠に終わるものではないからです。

「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや」(諸法実相抄:1360:09)、「日本国の中に但一人・南無妙法蓮華経と唱えたり、これは須弥山の始の一塵大海の始の一露なり、二人・三人・十人.百人・一国・二国 ・六十六箇国・已に島二にも及びぬらん」(妙密上人御消息:1241:02)、「日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一渧・一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ」(撰時抄:0288:05)です。

師匠の闘争に続いて、同じ志に立つ弟子が、一人また一人、唱え伝えていく中に、広宣流布の前進があります。また、その実践の中にのみ末法の成仏の道、国土建設の道があるのです。

「法」根本の不惜身命の闘争があれば、大難を乗り越え、堂々たる発迹顕本の姿を満天下に示すことができる。いかなる権力の迫害も、宿命も侵すことのできない、一人の人間の尊厳性を確立できる、その生き方が一人からまた一人へと広がることが広宣流布です。この立正安国の闘争の中に、人類の宿命転換があります。

弟子の大闘争を、自らのお振る舞いを通して教えてくださったのが、「種種御振舞御書」です。そして、大聖人の御闘争を、現代にあって、不惜身命の振る舞いで、一身を捧げて、あらゆる言葉を尽くして、私たちに教えてくださったのが、牧口先生であり、戸田先生です。この両先生の崇高なる精神のままに、私は戦ってきました。だからこそ、仏法は世界192カ国・地域へと広がったのです。

この創価三代の師弟の心は、間違いなく、創価学会に、そしてSGIに、脈々と流れ通っています。学会員の「振る舞い」が、人類の宿命転換を願う多くの識者や民衆から賞讃され、「善の連帯」が広がる時代を迎えました。

 

恩師は「青年は国の柱」と

 

「開目抄」の一説をめぐって、インド文化国際アカデミー理事長のロケッシュ・チャンドラ博士が、印象深い話をしてくださいました。サンスクリットの権威である父君ラグヴィラ博士が、日蓮大聖人の闘争の生涯を学んで、その感動を語ってくれたというのです。

「今も私は、その時の父の表情、まなざしをありありと思い出します。

父の高らかな声が響いてきます。

『我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ』(開目抄下:0232:05

父はこの大聖人の言葉に自身を重ねていました。インドに対する同じ使命をわきあがらせたのです」

「大聖人は、父にとって、すべてを支える根本であり、勇気そのものであり、力をわき立たせてくれる存在でした」

「父にとって、大聖人は、『人間が逆境のなかで示す偉大さの模範』でした。『生命に具わる清らかさと栄光を象徴する人物』だったのです」

まさに、この父子の願いのままに「民衆の時代」が到来しつつあります。

今、21世紀に入り、人類は一つの家族のように結ばれゆく可能性が芽生えています。それと同時に、分断と差別という人類の宿命との戦いもまた、強くなっている。

今、人類が、その宿命を転換できるかどうかの岐路だと、各界の識者たちの認識は一致しています。

戸田先生は、叫ばれました。

「青年は国の柱である」

「青年よ、一人立て!」

今、あらためて私も青年に呼び掛けたい。

「青年は21世紀の柱である。」

「世界の青年よ、一人立て!」と。

全人類が「大家族」へと結ばれゆく新時代 それは特定の一部の人ではない、「万人が『柱』と立ち上がる時代です。

広宣流布は、妙法を抱いた人間の「振る舞い」を通して、一人一人が、人類の宿命転換の「柱」と立ち上がりゆく未聞の運動なのです。

御書発刊60周年の佳節に拝す

「御本仏直結」の創価学会の栄光の

未来を担いゆくわが青年たちと共に。

咲き薫らせる時が来たのです。

 

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