種々御振舞御書2

Screenshot

種々御振舞御書

 建治2年(ʼ76) 55歳 (光日尼)

 第十章(御本仏としての開目抄の御述作)

  本文

 さて皆帰りしかば去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり、頸切るるならば日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり、此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり平左衛門既に日本の柱をたをしぬ、只今世乱れてそれともなく・ゆめの如くに妄語出来して此の御一門どしうちして後には他国よりせめらるべし、例せば立正安国論に委しきが如し、かやうに書き付けて中務三郎左衛門尉が使にとらせぬ、つきたる弟子等もあらぎかなと思へども力及ばざりげにてある程に、二月の十八日に島に船つく、鎌倉に軍あり京にもあり・そのやう申す計りなし、六郎左衛門尉・其の夜にはやふねをもつて一門相具してわたる日蓮にたな心を合せて・たすけさせ給へ、去る正月十六日の御言いかにやと此程疑い申しつるに・いくほどなく三十日が内にあひ候いぬ、又蒙古国も一定渡り候いなん、念仏無間地獄も一定にてぞ候はんずらん永く念仏申し候まじと申せしかば、いかに云うとも相模守殿等の用ひ給はざらんには日本国の人用うまじ用ゐずば国必ず亡ぶべし、日蓮は幼若の者なれども法華経を弘むれば釈迦仏の御使ぞかし、わづかの天照太神・正八幡なんどと申すは此の国には重けれども梵釈・日月・四天に対すれば小神ぞかし、されども此の神人なんどをあやまちぬれば只の人を殺せるには七人半なんど申すぞかし、太政入道・隠岐法皇等のほろび給いしは是なり、此れはそれにはにるべくもなし教主釈尊の御使なれば天照太神・正八幡宮も頭をかたぶけ手を合せて地に伏し給うべき事なり、法華経の行者をば梵釈・左右に侍り日月・前後を照し給ふ、かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、何に況や数百人ににくませ二度まで流しぬ、此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり、又此の度も用ひずば大蒙古国より打手を向けて日本国ほろぼさるべし、ただ平左衛門尉が好むわざわひなり、和殿原とても此の島とても安穏なるまじきなりと申せしかば、あさましげにて立帰りぬ、さて在家の者ども申しけるは・此の御房は神通の人にてましますか・あらおそろし・おそろし、今は念仏者をも・やしなひ持斎をも供養すまじ、念仏者・良観が弟子の持斎等が云く此の御房は謀叛の内に入りたりけるか、さて且くありて世間しづまる。

 

現代語訳

さて皆帰ったので、去年の十一月から勘えていた開目抄という文二巻を造った。これは、もし首を斬られるならば日蓮の身の不思議を留めて置こうと思って想を練ったのである。この文の心は次のとおりで、「日蓮によって日本国の有無は決まるのである。譬えば家に柱がなければ保たず人に魂がなければ死人であるのと同じ道理である、日蓮は日本の人の魂である、平左衛門はすでに日本の柱を倒してしまった、そのためにただ今・世の中が乱れて、それという事実もなく夢のように流言がでてきてこの御一門が同士打ちをし、のちには他国から攻められるであろう、例えば立正安国論に委く述べたとおりである」、このように書き付けて中務三郎左衛門尉の使いに持たせてやった。側についていた弟子達も、強すぎる主張であると思うが止める力がないというふうであった。そのうち二月十八日に島に船が着いて、鎌倉にいくさがあり京都にもあって、そのようすは大変なものであるという。

六郎左衛門尉はその夜、早舟をもって一門を率いて渡って行った。そのとき日蓮に掌を合わせて「お助け下さい。去る正月十六日のお言葉を、どうであろうかと今まで疑って参りましたが、いくらもたたず三十日の内に符合致しました、それではまた蒙古国も必ず攻め寄せましょう、念仏無間地獄も一定でございましょう、今後は決して念仏を申しません」といったので、「あなたがどのようにいおうとも、相模守殿等がお用いにならぬならば日本国の人は用いまい、用いなければ国は必ず亡びるのである。日蓮は幼若な者ではあるが、法華経を弘めている以上は釈迦仏の御使いである。たかの知れた天照太神・正八幡などという神はこの国でこそ重んじられているけれども梵天帝釈・日月・四大天王に対するならば小神にすぎない。それでもこれに仕える神人などを殺したならば普通の人を殺した場合の七人半に当たるなどというほどである。太政入道清盛や隠岐法皇等が亡んだのはこのためである。日蓮への弾圧はそれには似るべくもない大罪である。自分は教主釈尊の御使いであるから天照太神・正八幡宮も頭を下げ手を合わせて地に伏すべきである。法華経の行者に対しては梵天帝釈は左右に仕え日天月天は前後を照らし給う。このような尊い日蓮を用いたとしても悪しく敬うならば必ず国が亡びる。まして敬うどころか数百人に憎ませ二度まで流罪にした。この国が亡びることは疑いないけれども、しばらく神々を制止して国を助け給えと日蓮がひかえておったからこそ今までは安穏であったが、理不尽な行為があまりにも度を越したから罰が当たってしまったのである。またこのたびも用いなければ大蒙古国から打手を向けてきて日本国は亡ぼされるであろう、これは平左衛門が自ら好んで招くわざわいである。そのときはあなた方もこの島であっても安穏ですむはずはない」と申し聞かせたところ、驚きあきれたようすで帰って行った。

さて、これを伝え聞いた在家の者どもがいうには「この御房は神通のお方なのであろうか、ああ怖ろしい怖ろしい、今後は念仏者も養うまい持斎も供養すまい」と。念仏者や良観の弟子の持斎等は「内乱をあらかじめ知っていたところを見るとこの御房は謀叛の仲間に加わっていたのであったか」といった。さてしばらくして世間の騒ぎは静まった。

 

語釈

開目抄

「開目抄」は日蓮大聖人が佐渡御配流中、文永9年(12722月、聖寿51歳の時の御著作で、四条中務三郎左衛門尉頼基に与えられた。大聖人の御遺文中、最も重要な十大部のひとつであり、上下2巻からなる。法本尊開顕の「観心本尊抄」に対して、この「開目抄」は人本尊開顕の書であり、教行証に配すれば教の重にあたる実に重要な御抄である。まず、一般に尊敬すべきものとして、主・師・親の三徳を示され、中国の儒教、インドの婆羅門、さらに仏教に入って、種々の主師親とその依経を五重相対によって判釈され、「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(0237)と結論され、ご自身こそ末法の御本仏であることを明示されている。

 

日蓮が不思議

日蓮大聖人こそ、主・師・親三徳具備の末法の御本仏であるということ。大聖人は竜口法難および佐渡流罪を契機として、上行菩薩としての垂迹の立場を払われ、久遠元初の自受用法身如来としての御境涯をあらわれされた。このように凡夫のお姿で出現された大聖人が、末法の御本仏として発迹顕本された事実を「不思議」という。

 

此の御一門どしうち

北条家一門の同士討ち、自界叛逆難、二月騒動(文永9年(12722月に起きた北条氏一族の内紛。鎌倉幕府執権の北条時宗は,異母兄で六波羅探題南方の地位にあった北条時輔が謀反を企てたため,これを討った)をいう。

 

鎌倉に軍あり京にもあり

文永9年(12722月、京都六波羅に北条時輔の乱が起こり、鎌倉においてもそれに応ずる者があって、戦乱が京都にも鎌倉にも渦巻いた。日蓮大聖人が「立正安国論」等の諸御書に明示された自界叛逆難のご予言が、現実の証拠となって顕われたのである。北条時輔は、鎌倉幕第五代執権の北条時頼の長子であり、第八代執権北条時宗の異母兄にあたる。幼名を宝寿丸といい、9歳のとき元服して、相模三郎時利と称した。文永元年(1264)に六波羅南方探題となり、翌年には式部丞に任ぜられ。従五位下に叙された。しかし、第七代執権北条政村の後継として、弟の時宗が擁立されたのを不満とし、さらに蒙古・高麗の牒使の来朝にさいし時宗と対立した。文永九年にいたって、両者の対立はその極点に達し、ついに時宗は時輔に叛心があるとして、まず大蔵頼季らをもって、時輔の与党である名越時章・教時・仙波盛直等を討った。ついで北条義宗を派遣して、六波羅南方に時輔を襲い殺させた。これを二月騒動という。

 

正月十六日の御言

塚原問答のこと。日蓮大聖人が佐渡流罪中の文永9年(1272年)116日・17日に塚原三昧堂で、佐渡・信越・北陸の念仏をはじめとする諸宗の僧ら数百人と行った問答のこと。念仏者らは当初、大聖人の殺害を計画していたが、佐渡の守護代・本間重連から制止され、本間重連の立会いのもと法論に及んだ。16日の問答で、諸宗の僧らは大聖人に徹底的に打ち破られた。その結果、多くの僧が自らの信仰を捨て、大聖人に帰依した。16日の最後に大聖人は、本間重連に急いで鎌倉に行って武勲を立てるよう促した。翌月18日に鎌倉から来た知らせによって、二月騒動が起こって鎌倉で戦が行われていることが分かり、重連はこれを機に念仏を捨てて大聖人に帰依した。17日に念仏僧・弁成との問答が行われ、その記録は「法華浄土問答抄」(117㌻)として残されているが、これは塚原問答中のものと推測される。また弁成は、念仏僧の中心者の一人である印性房ではないかと推測されている。

 

神人

神社に仕える神主以外の人。

 

七人半

天照太神・正八幡に仕える人を殺すことは、普通の人を7人半殺したことになるとする説。

 

講義

開目抄と申す文二巻造りたり、頚切るるならば日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり

 

日蓮大聖人は佐渡に流罪されたその翌年、文永9年(1272)に「開目抄」、またつづいて翌文永10年(1273)には観心本尊抄と当体義抄とを著わされている。

「開目抄」は人本尊開顕の御書であり、「観心本尊抄」は法本尊開顕の御書として、極めて重要な意義を有するものである。それに「当体義抄」を合わせて教行証の三重をこの佐渡で著わされた。

日蓮大聖人は竜の口の法難をもって発迹顕本され、御本仏としてのお姿を示されるのであるが、このことを「開目抄」において、

「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそろしからず・みん人いかに・をぢぬらむ、此れは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国・当世をうつし給う明鏡なりかたみともみるべし」(0223:16)とお述べになり、同抄の最後では、結論として「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(0237:05)と示され、日蓮大聖人こそ、末法の全ての衆生に対して主師親の三徳を具えられた御本仏であることを明らかにされたのである。

なお「開目抄」、「観心本尊抄」、「当体義抄」を御著作あそばされるその動機を、「三沢抄」(1489)には、

「又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ、此の国の国主我が代をも・たもつべくば真言師等にも召し合せ給はんずらむ、爾の時まことの大事をば申すべし、弟子等にもなひなひ申すならばひろうしてかれらしりなんず、さらば・よもあわじと・をもひて各各にも申さざりしなり。而るに去る文永八年九月十二日の夜たつの口にて頚をはねられんとせし時より・のちふびんなり、我につきたりし者どもにまことの事をいわざりけるとをもうて・さどの国より弟子どもに内内申す法門あり」(1489:07)と述べられている。この「内内申す法門」こそ、観心本尊抄送状に「此の事日蓮身に当るの大事なり之を秘す、無二の志を見ば之を開柘せらる可きか」(0255:01)、「当体義抄送状」に「国主信心あらん後始めて之を申す可き秘蔵の法門なり」(0519:04)と仰せのごとく、「開目抄」と「観心本尊抄」と「当体義抄」とを指しておられるのである。

 

日蓮によりて日本国の有無はあるべし

 

この文は、「開目抄」執筆の元意を述べた御本仏のご確信である。「去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり」といえば日蓮大聖人は佐渡へ上陸されたのが文永8年(12711028日であり、そして塚原に到着したのが111日である。以来、塚原三昧堂での厳しいご生活が始まった。したがって、塚原三昧堂に入居されると同時に、「開目抄」ご執筆の準備にかかり、翌年の2月まで、約3か月を費やして書き終えられている。その間においても、門下の子弟に対して数々の信書を送り、指導されているのである。

しかし、「開目抄」といえば、非常に長文の重要なる法門書である。しかも、佐渡流罪という筆舌に尽くせぬ大法難の最中、筆紙の窮乏しているなかから認められたものである。

「開目抄」のなかで「此れは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国・当世をうつし給う明鏡なりかたみともみるべし」(0223:17)と申されているように、遺言的に書きとめられた重要法門書である。すでに日蓮大聖人は死を一定と決定し、その上に立って法体の広布成就までの御存生を内心に秘められていた。「顕仏未来記」には「日蓮此の道理を存して既に二十一年なり、日来の災・月来の難・此の両三年の間の事既に死罪に及ばんとす今年・今月万が一も脱がれ難き身命なり、世の人疑い有らば委細の事は弟子に之を問え」(0509:02)とまで申されているのである。また「義浄房御書」には「此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり」(0892:11)と仰せられ、文字どおりの死身弘法の尊姿であり、全生命を打ち込んで烈々たる気迫で重要御書を認め、もっていっさいを弟子に託される御心中のほどを拝さなければならない。

「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」とは、なんと偉大なご確信であり、ご決意ではないか。このときの大聖人のご心境は、天の助けも借りぬ、諸難をも恐れぬ、ただ一身一命をなげうって正法の弘通に邁進するのみであった。かくして大聖人の法華流布の大願、その決意は、法華を捨てて観経等の信仰に入り後生の極楽往生を願うならば日本国の位を譲ろう、などとの大誘惑があろうとも、また念仏を申さなければ父母の頸をはねる、との大脅迫があろうとも屈するような軽薄な、観念的なものではない。

しかし、日本国の位を譲ろうという大きな誘惑は退けられても、父母の頸をはねんにいたっては、孝養第一の大聖人にとって忍ぶにたえないところではなかったろうか。それとても敢然といいきられたのである。

日蓮大聖人の言々句々は、民衆救済の大精神に起たなければ、とうてい拝することはできない。生半可な気持ちで拝したところで、訓詰注釈はできても、大聖人の大慈悲心にふれることなど及びもつかないところである。大聖人の時代は逆縁広布であり、一国こぞって謗法と化していた。佐渡期はその緊迫した時代の中でも最も緊迫した時期であったことは、御文の中からひしひしとうかがわれる。

今日、時代は大転換し、順縁広布の時代である。妙法流布の機は熟し、民衆は御本尊を求めて、日本の潮、世界の潮流となって新しい世紀の幸福と繁栄の社会を築こうとしているのである。妙法の大地は、われらが一歩二歩と踏みしめて前進するごとに、明るく開けいくのである。

しかるに、幸福といい、繁栄といい、その底流には建設への死闘があることを忘れてはならない。この建設精神なくしては、現当二世にわたる大福運はないというべきである。

富木殿御返事にいわく「夫れ賢人は安きに居て危きを歎き佞人は危きに居て安きを歎く」(0969:15)と。順縁の時代にあって逆縁の死闘、厳風を忘れてはならないであろう。

今日の創価学会あるは、わが国敗戦の廃墟の曠野にただ一人立起ち上がった二代戸田城聖会長の死闘の建設によるものである。広布の礎は深く、より深く強固に築かれた。そしてそれは、日蓮大聖人が七百年後の今日、妙法の蓮華が開花する時を待たれて、大法興隆の魂魄を大乗有縁の日本国にとどめたがゆえであった。その大法戦は、本抄に拝するごとく空前絶後の死闘であった。この草創期の建設精神を、よくよく心腑に染むべきである。われらは今「日本国の有無」のカギを握っている。否、今日の世界は、われらの前進、後退が地球民族の有無を決する重大な立ち場にあり、大使命を担っているのである。今や宇宙時代である。地球のみにとどまっていた古き世界観は音を立てて崩れ、大宇宙に眼を向けて新しき世界観を確立しなければならない新時代が到来したのである。

目をみはる現代の科学の発展にひきかえ、地球上における人間同士の対立と相克、葛藤はなんと醜いことであろうか。しかるに、この人間社会の醜態をなにをもって解決しようとするのか。生命の軽視、人間性の喪失、主体性の失われた現代人の生活はどうあるべきなのか。すでに、既成の思想をもってしては解決の糸口は見つけようもない。世の識者たちは、いたずらに人間回復を叫んでも、その力ある指導理念も方途も示せないのが現実ではないか。

いやむしろ、それは東洋仏法の真髄・日蓮大聖人の大生命哲学の興隆を待望する声であろう。「撰時抄」に「いまにしもみよ大蒙古国・数万艘の兵船をうかべて日本をせめば上一人より下万民にいたるまで一切の仏寺一切の神寺をばなげすてて各各声をつるべて南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え掌を合せてたすけ給え、日蓮の御房・日蓮の御房とさけび候はんずるにや、……提婆達多は釈尊の御身に血をいだししかども臨終の時には南無と唱えたりき、仏とだに申したりしかば地獄には堕つべからざりしを業ふかくして但南無とのみとなへて仏とはいはず、今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも南無計りにてやあらんずらんふびんふびん」(0286:18)と。

この大聖人の御文こそ、現代社会の姿を生き映しているではないか。日本はもとより、世界中で生命の尊重、人間回復、主体性の確立等々、お題目のごとく唱えているが、それはあたかも仏を忘れ南無とばかり叫んでいるのと同じであり、まことに哀れむべき姿である。

日本の識者、指導者たちが、謙虚になって日蓮大聖人の大仏法を求め、ここに現代の指導理念を請うべきである。

 

 かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし

この御文は、厳しい罰論による「誡」である。「法華経の行者をば梵釈・左右に侍り日月・前後を照し給ふ」とは、別して法華経の行者は末法出現の仏であり、その仏とは日蓮大聖人なのである。したがって、大聖人を仮に用いても、悪しく誤って敬ったならば国が亡ぶ大罰を受けるとの仰せである。「下山御消息」には「教主釈尊より大事なる行者……日蓮」(0363:01)とも述べており、それほど大事な大聖人を二度までも流罪にし、さらに死罪にまで及ぼしたのである。この大謗法の大科はいかにしても消しがたいというべきである。しかるに大聖人は、御本仏の大慈悲をもって日本国の安穏を見守ってきたが、鎌倉帰還後の最後の諌めをも用いようとせず、卑劣にも幕府は、なかんずく平左衛門尉は懐柔策に出て、大聖人をあたかも占師か真言の祈祷師のごとく扱い、禄を与え、一寺を設けて蒙古調伏の祈祷をさせようとした。日蓮大聖人はついに、三度諌めて用いられなければ国を去るとの故事にならって、文永11年(12745月、身延へ入るのである。

その後、同年10月に日本は、文永の役にあう、すなわち、蒙古の第一次襲来を受け、日蓮大聖人の他国侵逼難の予言が的中してしまった。さらに7年後の弘安4年(1281)には弘安の役、すなわち第二次襲来を受ける。こうした二回の蒙古襲来も、御本仏、日蓮大聖人が身延山中に去られたとはいえ、厳然と日本国におられることによって、亡国は回避しえたのである。しかし、莫大な戦費を費やした北条幕府は、経済的にも窮迫して、やがて亡びざるをえなかったのである。

日蓮大聖人の時代には、御本仏の祈りによって亡国の悲運からは免れたが、いくら本門戒壇の大御本尊がいます日本の国であっても、「はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」のご警告のごとく、あまりにもその謗法が過ぎれば、罰が出て敗戦亡国となるのである。すなわち、大聖人滅後、六百数十年にして、あまりにもその謗法が過ぎ、遂に国が滅びた。

しかし、日本国には日蓮大聖人によって建立された一閻浮提総与の大御本尊が厳然と存在し、(中略)さらに、創価学会牧口常三郎初代会長の至誠あふるる国家諌暁、大折伏の法戦、そして死身弘法の行跡があった。故に、逆縁の国にもかえって、変毒為薬の大功徳を生じさせたのである。この大功徳、大福運は、ひとり創価学会ばかりに施されたのではなく、一国に及ぼされ、大敗戦を喫しながらも、日本国の存立を決したと信ずるものである。また、戸田城聖二代会長という、不世出の偉大な指導者を出現させたものと確信する。冥の照覧を信ずべし。後世に大歴史家が出現し、必ずや昭和の大敗戦前後の跡を辿り、どこに日本国その後の興隆があったかを探るとき、ここに真実を発見するであろうし、正しく証明するであろう。

「撰時抄」に「若し日蓮・法華経の行者ならば忽に国にしるしを見せ給へ」(0289:03)との仰せどおり、ついに日本は世界を相手に戦い敗れるという「国にしるし」が顕われた。しからば、広宣流布というしるしも顕現しないわけがない。ここに創価学会の重大な使命があり、学会の出現なくば広布も、大聖人の仰せの全てが大虚妄となってしまう。大聖人の御文を借りて学会精神をいわば「若し創価学会・正法弘宣の集団ならば、忽に化儀の広宣流布、王仏冥合の実現を、わが国に、いな全東洋に、全世界にしるしを見せ給え」と。この真剣な祈りこそ創価学会の真髄であり、学会には、それ以外の野心も野望も、名聞名利も断じてない。

日寛上人は、他国侵逼難について、撰時抄文段に大要次のようにいわれている。

「問う、太平記によると、日本は元軍を破って勝っているのではないか。国が亡ぶという日蓮大聖人の予言は的中しなかったのではないか。答う、この文には多くの意味があるけれども要約すれば、これは大慈悲忠諌の辞である。父が子供の過ちを責めるときには、改めないと必ず身を亡ぼし家を亡ぼすであろうというが、その意は身を全うし家を全うさせんがために、親心の親切からいうのである。大聖人もまた、謗法の過ちを責めて蒙古の攻めと仰せられるが、その意は、身を安んじ国を安んぜんがための大慈悲心である。

問う、また太平記によると、大元の軍を打ち破ったことは、わが国の武勇によるのではなくて、大小の神祇が冥助した神力によって勝利をえたのだという。もしそうなら諸天善神がこの国を捨て去ったという所論と違うではないか。答う、神天上とは謗者に約するのであって、信者の頂には常に神がいる。たとえば濁水には月の影は写らないが清水には映るのと同じである。しかしてわが国の神が冥助した理由に二意があり、一には鎌倉幕府が改悔したことによる。大聖人を佐渡へ流し奉ったが、終に赦免して大聖人のご弘通を妨害しなくなった。二には日蓮大聖人が国を護られたことによる」と。

タイトルとURLをコピーしました