曽谷殿御返事(成仏用心抄)
建治2年(ʼ76)8月3日 55歳 曽谷殿
背景解説
本抄は、下総国(現在の千葉県北部)曾谷郷に住んでいた門下、曾谷氏に宛てられたお手紙です。彼の姓名は曾谷二郎兵衛尉教信(そやじろうひょうえのじょうきょうしん)であり、鎌倉幕府の引付衆(裁判官のような役職)の一員であったと考えられています。曾谷氏は1260年頃に日蓮大聖人の教えに帰依し、富木常忍や太田乗明とともに、その地域の有力な門下の一人となりました。
1271年、曾谷氏は出家して入道となり、大聖人から**法蓮日礼(ほうれんにちらい)**という法名を授かりました。法蓮は二つの寺を建立し、1291年に68歳で亡くなるまでその地で過ごしました。
境智の二法と悟り
本抄において大聖人は、まず法華経の「方便品」を引用し、**「成仏の道は、境(きょう)と智(ち)という二つの要素にある」**と述べられています。
- 境(Reality): 宇宙のあらゆる現象に法が浸透しているという究極の真理を指します。
- 智(Wisdom): その真理を認識し、理解する能力を意味します。
この智慧が存在し、「智の水」が「境の河床(かわどこ)」を満たすとき、それは**境智一如(きょうちににょ)**として知られる状態となります。これがすなわち「悟り」です。言い換えれば、自身の生命において法を照らし出し、顕現させることを指します。
末法の仏種と弘教の使命
大聖人は、南無妙法蓮華経こそが「境」と「智」の両方を統合する法であり、末法の人々すべてにとっての**仏種(成仏の種)であると強調されています。この法は、末法の初めに上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)**によって弘められるべきものです。大聖人は、ご自身がこの偉大な使命に着手した最初の一人であることを宣言されました。これは、ご自身がすべての人々を成仏へ導く「根源の師(本仏)」であることを示唆されています。
謗法への戒め
最後に、**謗法(ほうぼう:正しい法をそしること)**を犯す者を黙認するような師匠や弟子は、ともに地獄に堕ちることを指摘されています。これは、仏の教えを守り抜くという信徒の責任を教えられた、慈悲深い戒め(用心)なのです。
第一章(成仏の道は法華経にある事を明かす)
本文
夫れ、法華経第一の方便品に云わく「諸仏の智慧は甚深無量なり」云々。釈に云わく「境淵無辺なるが故に甚深と云い、智水測り難きが故に無量と云う」。
そもそも、この経釈の心は、仏になる道はあに境智の二法にあらずや。されば、境というは万法の体を云い、智というは自体顕照の姿を云うなり。しかるに、境の淵ほとりなくふかき時は、智慧の水ながるることつつがなし。この境智合しぬれば、即身成仏するなり。法華以前の経は境智各別にして、しかも権教方便なるが故に成仏せず。今、法華経にして境智一如なるあいだ、開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり。この内証に声聞・辟支仏さらに及ばざるところを、次下に「一切の声聞・辟支仏の知ること能わざるところなり」と説かるるなり。
現代語訳
法華経第一方便品第二に「諸仏の智慧は甚深無量である」と説かれている。天台大師の釈には「境の淵が無辺であるので甚深といい智慧の水が測り難いので無量という」とある。
そもそもこの経文と釈の意は、仏になる道は境智の二法にある。ということである。すなわち、境というは万法の体をいい。智と云うは自体顕照の姿をいうのである。
しかるに境の淵が広大で深い時は、智慧の水がながれるのに滞ることがない。この境智が合うならば即身成仏するのである。法華経以前の経は、境智が各別であって、しかも権教・方便の教えであるので成仏ができない。
今、法華経では境智が一如であるから、開示悟入の四仏知見を悟って成仏するのである。この内証には、声聞や辟支仏は全く及ばないことを、次下に「一切の声聞・辟支仏は知ることができない」と説かれたのである。
語釈
境智の二法
境は覚知する対象としての客観視した世界、智は覚知する客観的智慧。釈迦多宝の二仏を境智に配すれば、多宝は境・釈迦は智となる。
自体顕照
妙法に自身の当体が照らされ、仏界を顕現し、ありのままの姿で、最高に個性を発揮し、智慧を発揚していくこと。大御本尊を境とし、自身を智とし、冥合していく信心の一念が事態顕照となる。
即身成仏
衆生がこの一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること。爾前経では、何度も生死を繰り返して仏道修行を行い(歴劫修行)、九界の迷いの境涯を脱して仏の境涯に到達するとされた。これに対し法華経では、十界互具・一念三千の法理が説かれ、凡夫の身に本来そなわる仏の境地(仏界)を直ちに開き現して成仏できると明かされた。このように、即身成仏は「凡夫成仏」である。この即身成仏を別の観点から表現したのが、一生成仏、煩悩即菩提、生死即涅槃といえる。
権教
実教に対する語。権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。
方便
悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法のことである。一に法用方便、二に能通方便、三に秘妙方便の三種に分かれる。①法用方便。衆生の機根に応じ、衆生の好むところに随って説法をし、真実の文に誘引しようとする教えの説き方。②能通方便。衆生が低い経によって、悟ったと思っていることを、だめだと弾呵し、真実の文に入らしめる方便。この二つは方便品に「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」と説かれる方便で、42年間の阿弥陀経、大日経、蘇悉地経等の権教で説かれている方便であるがゆえに「方便を捨てて」となる。秘妙方便。秘妙門ともいう。秘とは仏と仏のみが知っていること。妙とは衆生の思議しがたい境涯であり、長者窮子の譬えや衣裏珠の譬えによってわかるように、末法の衆生は種々の悩みや、凡夫そのままの愚かな境涯に住んでいるけれども、その身がそのまま、久遠元初以来、御本仏日蓮大聖人の眷属であり、仏なのだと悟る。これが秘妙方便である。悩んでいるときのわれわれも、仏であると自覚して、折伏に励む時も、その体は一つで、その人に変わりはない。これは仏のみの知れる不思議である。
一如
表面的には異なるものも、本来は不二であり平等であること。
開示悟入の四仏知見
開示悟入と四仏知見は同意語である。方便品には「諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう」とある。この開示悟入の四仏知見は、衆生がもともともっている仏界を開発することを示したもので、開三顕一となるのである。開仏知見の開とは信心の異名であり、示は南無妙法蓮華経を示し、悟は即身成仏と悟り、入は悟る当体直至道場のこと。信心の開示悟入が正意となる。信心に約せば開とは大御本尊を初めて信じた状態、示とは大御本尊の功徳を我が身の上に示し、他にも示し、悟とは、いかなることがあっても大御本尊を疑わず、いっさいが我が身の福運と確信することであり、入とは、そのときそのままの姿で真に喜び切った幸福境界にはいることである。しかも、それを一貫して貫いているのは、信の一字である。また、一往このように段階があるように見えるが、本当に信心に立脚したときには、開示悟入の四仏知見は、そのとき、ことごとく備わっているのである。
内証
生命の奥底の悟り。外用に対する。
声聞
声聞界のこと。縁覚と合わせて二乗という。仏の教える声を聞いて悟る人をいい、小乗教の理想ではあるが、利己主義に陥るため、権大乗教では徹底的に弾呵され、煎る種のごとく、二度と成仏の芽を出すことがないと言われた。法華経にいたって、舎利弗・迦葉・迦旃延・富楼那等、声聞の十大弟子が得道する。そして歓喜した四大声聞の領解の文を開目抄には「我等今は真に是れ声聞なり仏道の声を以て一切をして聞かしむ我等今は真に 阿羅漢なり緒の世間・天人・魔・梵に於て普く其の中に於て・応に供養を受くべし」とあり、真の声聞とは、仏の弟子として、仏の教え、精神を民衆に聞かせ、後世に残していく人である。
辟支仏
梵語プラティエーカブッダ(Pratyeka-buddha)の音写。独覚・縁覚・因縁覚と訳す。「各自に覚った者」の意。仏の教導によらず、自らの力で理を覚る者のこと。十二因縁の理を観じて断惑証理し、飛花落葉等の外縁によって覚りを得るという。
一切声聞辟支仏所不能知
法華経方便品第2の文。「一切の声聞、辟支仏の知ること能わざる所なり」と読む。
講義
本抄は、建治2年(1276)8月3日、日蓮大聖人が55歳の時、身延山から曾谷教信入道法蓮に送られた御消息である。
ここから、本抄を「曾谷殿御返事」と呼ぶとともに、その内容から「成仏用心抄」との別名もあるのである。
この書は最初に、仏になる道は境智の二法の一如を説いた法華経にあり、法華経以前の爾前権教には境と智が各別であるから成仏できないことを示されている。
続いて、法華経に説かれた境智一如の本体が南無妙法蓮華経の五字七字であると明かされるとともに、それら、大聖人がその要法を弘通されていることを説かれている。
次に、付嘱に総付嘱と別付嘱の二義があり、この二義を混乱させて「根源の師」を忘れ、他経・他仏・他師に心を移すならば、成仏できずに輪廻生死を繰り返すことになると厳しく御指摘になっている。
更に、たとえ、正師であっても、謗法を呵責しないときは、師・檀ともに無間地獄に堕ちることを明かされる。
また、法華経は種・仏は植え手、衆生は田であることを示され、末法の衆生は、どこまでも正法である法華経・主師親三徳具備の御本仏・正師に依って自らの生命の内奥深く植えられた仏種を成熟させて成仏すべきことを勧められている。
最後に「若し此等の義をたがえさせ給はば日蓮も後生は助け申すまじく候」と戒められ、成仏の用心を示されている。
本章では、まず法華経の第一方便品の「諸仏の智慧は甚深無量なり」の経文と、この文を中国の天台大師が解釈した法華玄義の取意である「境淵無辺なる故に甚深と云い智水測り難き故に無量と云う」という文を引用されて、仏に成る道は境智の二法にあることを明かされている。
そして、境が「万法の体」すなわち宇宙森羅万象の本体であり、智が「自体顕照の姿」すなわち万法のありのままの自体を照らし顕す働きであることを示され、境の淵が辺のないほど広くて深ければ、その境をありのままに照らし顕す働きである智慧の水の流れも滞ることなく、その水量を測ることができないほど豊かであると説かれて、このような甚深の境と無量の智とが合致するとき即身成仏することができる、と仰せられている。
次に、爾前権教において境と智とが別々であるために衆生を成仏させることができないのに対し、法華経は境智一如を説いているので、衆生はその仏の知見を開・示・悟・入されて成仏できることを明かされている。
また、この境智不二の仏知見の内証は、声聞・辟支仏の二乗の浅い智慧では到底及ばないのであり、そのことを法華経・方便品では「一切声聞辟支仏所不能知」と説かれていることを明かされている。
境智の二法について
智
本文にあるように、法華経卷一方便品第二の冒頭において、釈尊は舎利弗を対告宗に「諸仏の智慧は甚深無量なり、其の智慧の門は難解難入なり、一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり」と説く。
その意味するところは、仏の智慧が二乗の智慧よりも遥かに深く広大であることを明かして、声聞・辟支仏を驚愕させ、改心させて仏の智慧に導かんとする点にある。
この有名な経文に関して中国の天台大師は法華文句・法華玄義・摩訶止観の三大部において、縦横無尽な解釈を施している。
それらの解釈の中心になっているのが境・智の二法なのである。
まず、法華文句から見てみよう。
卷三下で、以下のように説いている。
「二智を双歎ずるに就いて、先に実を歎じ、次に権を軟ず。実とは諸仏の智慧なり、三種の化他の権実に非ず。故に諸仏と言う。自行の実を顕す。故に智慧と言う。此の智慧の体は即ち一心三智なり。甚深無量とは即ち称歎の辞なり。仏の実智は竪に如理の底に徹することを明かす。故に甚深と言う。横に法界の辺を窮む。故に無量と言う。無量甚深にして、深に高く横に広し、譬えば根深きとは則ち條茂く、源遠きとは則ち流れ長きが如し、実智既に然り、権智も例して爾り云云」
ここで明らかなように、方便品の「諸仏の智慧は甚深無量なり」との経文は、仏の実智を賛嘆したものであること。そして「其の智慧の門は難解難入なり」という次の文は、仏の権智を賛嘆していることを、天台大師はまず指摘している。
すなわち、仏の智慧には実と権の二智がある。更に、この二智に自行と化他が加わって、ここに、仏の智慧には自行の権実の二智と化他の権実の二智があることになる。
一般に、自行と化他の意味については、修行に約する時と法体に約する時とがあるが、この場合は法体に約して論じているのである。
修行に約す場合は、自利、利他とも称されるが、自行は自身が法の利益を受けるために修行することであり、化他は他を教化・化導することである。
法体に約す場合、自行は仏の悟りや境地をそのまま説き明かした“随自意の法”をいい、化他は仏が九界の衆生の機根に応じて説いた“随他意の法”をいう。
釈尊の仏法においては、自行の法体は随自意の法である法華経をいい、化他の法体は随他意の法である爾前権教をいう。
次に、この仏の自行と化他に、それぞれ実と権の二智がある。すなわち、仏の自行の権実二智と仏の化他の権実二智とである。
まず、仏の自行の権実の二智は、随他意の法である爾前権教に説かれるところの権智と実智のことである。
さて、権実の二智については、法華玄義巻二上において「妙法」の二字を解題する件で、初めに“法”を釈するとき三妙法のそれぞれを説明するなかの“仏法妙”のところで次のように述べている。
「仏法妙とは、経に『止みなん止みなん説くべからず、我が法は妙にして思い難し』というが如し。仏法は権実を出でず。是の法は甚だ深妙にして、見難く了すべきこと難し。一切衆生の類、能く仏を知る者無し、即ち実智妙なり。及び仏の諸余の法も亦、能く測る者無し、即ち仏の権智妙なり。是の如きの二法は、唯、仏と仏とのみ乃し能く諸法実相を究尽したまえり、是を仏法妙と名づく」と。
ここに、実智と権智の内容が説かれている。
実智とは「甚だ深妙にして、見難く了すべきこと難き」真理に到達している智慧であり、権智とは「仏の諸余の法」、すなわち一切の方便の諸法を知る智慧で方便智ともいう。
「是の如き二法」は、ただ、仏と仏とのみが能く諸法の実相を究尽し了知していることを明かしている。
言い換えれば、実智だけでは衆生から超越してしまい、一切衆生を救済することができないが、権智によって方便の諸法を知っているがゆえに、衆生との関係が生じ、衆生を悟りへと導くことが可能となるのである。
そして、この二智を合して“唯仏与仏乃能究尽”の仏智といい、また三法のうちで“仏法”と称し、それが衆生にとって思考しないところを“妙”というのである。
以上述べてきたころから、先に引用した法華文句巻三下の文の意味は明白となろう。
「諸仏の智慧は甚深無量なり」との文は、仏の“自行”の仏智のなかでも実智を説いたものである。
当然“三種の化他の権実”の二智を説こうとしたものではないことは、明らかなところであろう。
その実智を賛嘆して“甚深無量”といったのである。すなわち、仏の実智が「竪に如理の底に徹」しているところを「甚深」といい、「横に法界の辺を窮」めているところを「無量」と賛嘆したのである。縦と横で時間的・空間的なすべてを含んでいる。
更にそれを言い換えて「深に高く横に広し」ともいい、また、これをたとえて「根深きとは則ち篠茂く、源遠きとは則ち流れ長きが如し」と述べている。
境
仏の実智が究尽したところのものは法華経方便品第二で、次のように説かれる。
「仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり、唯、仏と仏と、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり」と。
これによると、仏は諸法の実相、・十如是の法を究め尽くしているのである。法華玄義の序王では「言う所の妙とは、妙は不可思議と名づくるなり。言う所の法とは、十界十如権実の法なり」と説かれている。
つまり、仏は「妙法」すなわち、凡夫・二乗の思議し難き法である“十界十如権実の法”を悟ったのである。
さて、天台大師は先にも少し触れたように、法華玄義で、妙法の法について、衆生法・仏法・心法の三法妙を明かしている。仏法妙は前述したように、仏智と同じであり、五眼のうちの仏眼にあたり、また仏知見でもある。
その仏法の徹見した法は、ここでは衆生法として展開されており、天台大師は玄義で衆生法を説明するのに、十如・十界・権実の順で展開している。
では、ちなみに心法は何かといえば、「広く心法を釈せば、前に明かす所の法は、豈、心と異なることを得ん。但、衆生法は太だ広く、仏法は太だ高し。幼学に於いて難しと為す。然るに心・仏及び衆生、是の三差別無ければ、但、自ら己心を観ずるは即ち易しと為す」と論じている。すなわち、仏の悟りにおいては心法も衆生法も仏法も等しく差異なるはないのであるが、“初学に於いて”とあるように、仏法の実践修行の初心者にとっては最も身近な“己心”を観ずることが悟りに迫るのにやさしいところから、この点に限ってとくに心法を重視すると述べている。
以上の記述から、仏の悟りの状態は、能観の智と所観の境とが一つであるとともに、その能・所の智・境が一体となっている“場所”がそのまま仏の“心”となっていることが明白である。
したがって「心・仏及び衆生、是の三差別無ければ」との文は、この妙なる境位を表わしているのである。
仏がその仏智をもって徹見した所観の境は、諸法の実相であり、言い換えれば、十界十如権実の法としての衆生法であり、一切法の実相である。
更に天台大師は、十界十如の法を空・仮・中の三諦と転読することをとおして、十界が互いに具しあう百界千如の法門を明らかにして、次のように述べている。
「此の一法界に十如是を具し、十法界に百如是を具す。又一法界に九法界を具すれば、則ち百法界千如是有り、束ねて五差と為せば一に悪、二に善、三に二乗、四に菩薩、五に仏なり判じて二法と為す、前の四は是れ権法、後の一は是れ実法なり、細しく論ずれば各権実を具す。且らく両義に依る。然るに此の権実は思議す可らず、乃ち是れ三世の諸仏の二智の境なり、此を以って境とすに、何れの法をか収めざらん。此の境、智を発するに、何れの智か発せざらん。故に文に『諸法』と云う。諸法とは、是れ所照の境広きなり『唯、仏と仏とのみ能く究尽したまう』とは、能照の智深く辺を窮め底を尽くすを明かすなり。『其の智慧の門は解し難く入り難し』とは境妙を歎ずるなり。『我が得る所の智慧は微妙にして最も第一』とは、智と境と相称うことを歎ずるなり。 如来、洞かに達して十法の底を究め、十法の辺を尽くして」と。
この文からも明らかなように、十法界に集約される諸法が所照の境であり「所照の境広きなり」と、その広大さが強調されている。
また、この所照の境を徹見する能照の智は「深くして辺を究め底を尽くす」とあるように、辺を究め、底を尽くしているのである。
とくに、能照の智に関しては同法華玄義巻二の「仏法」を述べる段で、次のように説いるところも参照しておきたい。
「二に広く仏法を明かさば、仏、豈、別の法有らんや、秖、百界千如、是れ仏の境界成り、唯、仏と仏とのみ、斯の理を究竟したもう、函大なれば、蓋も亦、随って大なるが如し。無辺の仏智を以って、広大の仏境を照らして、其の根底に到るを、随自意の法と名づくるなり、若し九法界の性相本末を照らして、纖芥も遺さざるを随他意の法と名づく」と。
この文でも、百界千如が仏の境界、すなわち所照の境であり、それは“広大な仏境”であるとして、仏の境が“広大”であることを強調されている。
そして、この仏境を照らすことができるのは、唯仏与仏の“無辺の仏智”であるとして、仏智には“無辺”すなわち、辺際や限界なく境を照らす働きのあることが述べられるとともに「其の源底に到る」とあるように、広大な所照の境や源や底、つまり始源を照らし尽くす働きであることも、あわせて強調されている。
以上の叙述からも、仏の実智が如理の底に徹し法界の辺を究めている、との法華文句の文の意味も明らかとなろう。
最も簡潔にいえば、玄義に「如来、洞かに達して十法の底を究め、十法の辺を尽くして」とあるような事態をさしていることになろう。
すなわち、如来の能照の智は所照の境である十法界の底を究めて到達し、十法界の辺を照らし尽くしていることになる。
更に、この境・智の関係をたとえて「函大なれば、蓋も亦、随って大なるが如し」とあるように、所照の境たる十法界が“函”の大なるにたとえられ、“蓋”の大なるにたとえられているのである。
釈に云く「境淵無辺なる故に甚深と云い智水測り難き故に無量と云う」と
この釈の文は、天台大師の法華玄義の文と、妙楽大師の法華玄義釈籤の文からそれらの趣意を取って、一つの文とされたものと考えられる。
まず、天台大師の釈は法華玄義巻三上の文で、次のようにある。「境淵辺無ければ智水測ること莫し、唯、仏と仏とのみ乃し能く究尽したもう」と。
次に、妙楽大師の法華玄義釈籤巻七では天台大師の釈を受けて「実境淵深の故に竪に極まれり権境無辺の故に横に遍し、横竪の水量り難し。故に智測る可からざるなり」とある。
前述した境・智の二法の説明と対照させながら、これらの釈をみると、まず、所照の境が“淵”すなわち大地の広大で深い凹みにたとえられており、能照の智がその巨大な凹みに満々とたたえられた無量の水にたとえられていることが分かる。
さて、天台大師の釈では、“淵”にたとえられた所照の境が辺際のないほどの広大であるので「甚深」といい、その“淵”満々とたたえられた“水”にたとえられた能照の智が測りがたいゆえに「無量」というのであると、方便品の「甚深無量」を解釈している。
妙楽大師の釈は“淵”を更に「深さ」と「無辺の広さ」とに分けて、前者の実を境に、後者を権の境に、それぞれ立て分けている。そして、智“水”は“淵”の横と竪いっぱいに満ちあふれて、測りがたき無量のものと釈している。おそらく妙楽大師は、天台大師が方便品の「諸仏の智慧は甚深無量なり」の経文を、ただ仏の実義を賛嘆したものとして解釈したのに対し、これを仏の権実の二智を表わしたものと解釈して、その対象である所照の境にも権と実の二境を立て分けて釈したものと考えられるのではないだろうか。
抑此の経釈の心は仏になる道は豈境智の二法にあらずや
これまでの法華経方便品の経文とその解釈である天台大師・妙楽大師の文とを照らし合わせて、日蓮大聖人は凡夫が仏になる道は、ただただ境と智の二つの法の間の関係に帰すると説かれている。
後の御文でも説かれるように、境と智とが合致するかどうかで衆生が成仏するか否かが決まると仰せなのである。
されば境と云うは万法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり、而るに境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし、此の境智合しぬれば即身成仏するなり
“境”は「万法の体」をいい、“智”は「自体顕照の姿」をいう、との仰せである。
万法の体、とは森羅万象の本体ということである。もっとも、本体といっても森羅万象の一つ一つが実体をもった個物として存在しているというとらえ方では、毛頭ない。これは、仏教の根本的な教えの一つである。
このことを明確にしているのが「縁起」という教えでる。縁起とは「縁って起こる」と読み、森羅万象のどの一つの物や現象も、他の物や現象から独立して存在しているものではなく、必ず、他の物や現象に“縁って起こって”いるということである。
我々凡夫には一見明らかに確たる具体性をもって存在するように思われる事物・現象も、仮に因縁が和合して現われているにすぎず、それ自身としては空であるということになる。
また、森羅万象の一つ一つが相互に縁って起こって存在しているということは、一つとして他の事物・現象との関係を離れて存在しえないということでもある。
ここから、森羅万象のどの一つを取り上げても、それ以外のすべての事物、すなわち万法の全体が関係してくるということになる。
例えば、網の一つの目はそれ以外のすべての他の網目との関係によって存在しているから、一つの目でも引っ張ると、一つだけでなく他のすべての網目が同時に連なって引っ張られていくことになる。
以上のように、相互に関連しあい、かつ、どの一つにも全体をはらみつつ、万象の一つ一つが絶対の平等性により貫かれている森羅万象総体のことを、ここで大聖人は「万法の体」と称されて“境”とされているのである。
そして、この“境”を徹見する能照の“智”は「自体顕照の姿」であると仰せである。ここに、「自体」とは“自”という意味が“みずから”“おのずから”を表わし“体”とは“万法の体”すなわち、森羅万象の縁起としている総体を表わしている。
結局、森羅万象が縁起により、相互に関係している全体の世界のありのままの姿を「自体」といわれたのである。
この「自体」をありのままに、寸分の濁りや偏見のない眼で徹見するのが“智”である。
“智”を「自体顕照の姿」と仰せられているのは、能照の智によって森羅万象の総体がそのありのままの姿において照らし出された状態、換言すれば“所照”のほうに少し重心を置かれて説かれたように拝される。
いずれにしても、境といい智といっても、凡夫の境涯では到底うかがいしれないのであって、“甚深無量”としか表現しようのない内容をはらんでいるのである。
それについて大聖人は次の御文で「而るに境の淵ほとりなく・ふかき時は智慧の水ながるる事つつがなし」と仰せられている。
天台大師が法華玄義で、境を淵に、智慧の水にたとえたのをそのまま用いられつつ、しかも、天台大師より、躍動的にダイナミックに説かれていることが分かる。そのことは、とくに智慧の水が流れて停滞しない、と説かれている点に明らかであろう。
すなわち、天台大師の場合の智“水”が広大で深い“淵”に満々とたたえられた無量の水量をもって描かれていたのに対し、大聖人の智“水”はその無量の水量が滔々と流れて滞らない、とされているからである。
ともあれ、このような「境」と「智」とが合致することによって即身成仏ができるのである。と仰せられている。
とすると、我々凡夫はどのようにして成仏が可能となるのであろうか。この門題への答えを示されているのが、次の御文である。
法華以前の経は境智・各別にして而も権教方便なるが故に成仏せず、今法華経にして境智一如なる間・開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり
「法華経以前の経」の諸経は、衆生の機根に合わせて説かれた教えであるから、その法は、仏の智と隔たっており、境智が合致しない。それゆえに、これら権教・方便の諸経では成仏することができない、と仰せられている。
これに対し、「今法華経にして境智一如なる間」と仰せのように、法華経にきたって初めて、衆生の機根に関係なく、仏の悟っているところが正しく説き明かされたのであり、ここに境智一如の仏の内証があらわとなったのである。
しかも、その能照の智が九界の衆生に本来「仏知見」として備わっていることが明かされる。
これにより、凡夫が何ゆえ成仏しうるかという、根本的な問題を解決する一端が開かれたといえるのである。
その方便品の経文は次のような有名な件である。
「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもう。舎利弗、云何なるをか諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもうと名づくる。諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なるを得せしめんと欲するが故に世に出現したもう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして、仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして、仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもうと為づく」と。
要約すれば、諸仏が世に出現する唯一の目的は、衆生のなかに本来具している「仏知見」を開かせ、示し、悟らせ、その「仏知見」の道に入らしめることにある、という内容である。天台大師は、法華玄義巻二上で「経に『衆生をして仏の知見に開示し悟入せしめんが為に』というが如き、若し衆生に仏の知見無くんば、何の開を論ずる所あらん。当に知るべし、仏の知見は衆生に蘊在することを」と述べている。
仏の知見が九界の衆生に蘊在しているからこそ、その仏知見を開き顕すことができるのである。この法華経の真理を開顕と仏知見の開発によって、一切衆生の成仏が可能となったのである。
第二章(妙法五字が成仏の大法なるを明かす)
本文
此の境智の二法は何物ぞ但南無妙法蓮華経の五字なり、此の五字を地涌の大士を召し出して結要付属せしめ給う是を本化付属の法門とは云うなり。
然るに上行菩薩等・末法の始の五百年に出生して此の境智の二法たる五字を弘めさせ給うべしと見えたり経文赫赫たり明明たり誰か是を論ぜん、日蓮は其の人にも非ず又御使にもあらざれども先序分にあらあら弘め候なり、既に上行菩薩・釈迦如来より妙法の智水を受けて末代悪世の枯槁の衆生に流れかよはし給う是れ智慧の義なり、釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給う然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む、
現代語訳
この境智の二法は何であるかというと、ただ南無妙法蓮華経の五字である。この五字を釈尊は地涌の菩薩を召し出して結要付属させたのである。これを本化付属の法門というのである。
しかるに上行菩薩等は末法の始の五百年に出生して、この境智の二法である五字を弘められるであろうということが経文に赫赫であり明々である。だれがこれを論ずる者があろうか。
日蓮はその人でもないし、その御使いでもないけれども、まず先序としてあらあら弘めているのである。
すでに上行菩薩が釈迦如来から妙法の智慧の水を受けて、末代悪世のいまだ善根のない衆生に流れ通わすのである。これは智慧の義である。
釈尊から上行菩薩に譲り与えられたのである。しかるに日蓮はまた日本国においてこの法門を弘めている。
語釈
地涌の大士
地涌の菩薩のこと。法華経従地涌出品第十五に「仏は是れを説きたまう時、娑婆世界の三千大千の国土は、地皆な震裂して、其の中於り無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり」とある。この地涌の菩薩の出現は、釈尊の滅後の布教を誓った本化の菩薩のこと。滅後末法の弘通を勧める釈尊の呼びかけに応じて、大地から湧き出てきたゆえに、地涌の菩薩という。
結要付属
肝要をまとめて付属すること。法華経如来神力品第21には「要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於いて宣示顕説す」とある。
本化付属
本化の菩薩に対する滅後末法の法華経弘通の付嘱をいう。その法体は南無妙法蓮華経。
上行菩薩
法華経従地涌出品第15で、大地から涌出した地涌の菩薩の上首。釈尊は法華経如来寿量品第16の説法の後に、法華経如来神力品第21で滅後末法のため、上行菩薩に法華経を付嘱したことをいう。上行菩薩の本地は久遠元初の自受用法身如来である。
末法
正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。
序分
経典等の序論となる部分。
講義
境智一如の法の本体が南無妙法蓮華経の五字七字であることを示されるとともに、その妙法五字を末法に弘通するため、法華経本門の結要付嘱によって釈尊から上行菩薩の本化地涌の大士に譲り与えられたことを明かされ、この上行菩薩に付嘱された妙法五字を、今日蓮大聖人が末法日本国に弘通されていることを説かれている。
此の境智の二法は何物ぞ但南無妙法蓮華経の五字なり
成仏の肝要である境智一如の法は、法華経の迹門方便品で明らかにされ、かつ、それが「仏知見」として九界の衆生に蘊在して具することも説かれた。
しかしながら、現実の衆生にとってはあくまでも「理法」として止まらざるをえなかった。
なぜなら、いかに九界の衆生に「仏知見」が具しており、その開示悟入によって成仏すると教えられても、実際の修行法が説かれたわけではないからである。
もっとも、釈尊出世の衆生は、それまでの40余年にわたる説法によって、調機調養されていたので、この画期的な説法で成仏への道を開いたということができる。
それゆえに「今法華経にして境智一如なる間・開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり」と大聖人は説かれたのである。
しかし、末法の衆生は、こうした法華経迹門の法で得道することは不可能である。そこに法華経本門で上行菩薩を上首とする本化地涌の菩薩に付嘱された大法が必要となるのである。
この御文において、境智の二法がただ南無妙法蓮華経の五字であると説かれたのは、釈尊は法華経の文上においては直接明かさなかったけれども、在世の衆生は過去の蓄積から、この文底に秘められた南無妙法蓮華経を悟って成仏したのである。末法において日蓮大聖人が初めて、これを直接明らかにして弘められたのである。
この御文と同じ内容を四条金吾殿御返事に次のように説かれている。すなわち、「今日蓮が弘通する法門は・せばきやうなれども・はなはだふかし、其の故は彼の天台・伝教等の所弘の法よりは一重立入りたる故なり、本門寿量品の三大事とは是なり、南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行すればせばきが如し、されども三世の諸仏の師範・十方薩埵の導師・一切衆生皆成仏道の指南にてましますなれば・ふかきなり、経に云く「諸仏智慧・甚深無量」云云、此の経文に諸仏とは十方三世の一切の諸仏・真言宗の大日如来・浄土宗の阿弥陀・乃至諸宗・諸経の仏・菩薩・過去・未来・現在の総諸仏・現在の釈迦如来等を諸仏と説き挙げて次に智慧といへり、此の智慧とは・なにものぞ諸法実相・十如果成の法体なり、其の法体とは又なにものぞ南無妙法蓮華経是なり、釈に云く『実相の深理・本有の妙法蓮華経』といへり、其の諸法実相と云うも釈迦多宝の二仏とならうなり、諸法をば多宝に約し実相をば釈迦に約す、是れ又境智の二法なり多宝は境なり釈迦は智なり、境智而二にして・しかも境智不二の内証なり、此等はゆゆしき大事の法門なり煩悩即菩提・生死即涅槃と云うもこれなり」(1116:09)と。
ここでは、南無妙法蓮華経の七字だけを修行するということは、一見すると非常に狭いようであるけれども、その内容は甚だ深く、天台・伝教が弘通した法門よりも一重立ち入っているばかりでなく、三世の諸仏の師範、十法薩埵の導師、一切衆生皆成仏道の指南である、と仰せられている。
更に、南無妙法蓮華経を法華経迹門では諸法実相と説いたのであり、本門においては釈迦多宝二仏並坐の姿で示されているのであり、それが境智の二法であると説かれている。とくに、法華経見宝塔品第十一に説かれる釈迦多宝の二仏並座の儀式において、釈迦が智で実相を表し、多宝が境で諸法を表わしていると説かれているのは、はなはだ重要である。
「境智而二にして・しかも境智不二の内証なり」と仰せられているように、釈迦・多宝の二仏がそれぞれ智・境を「而二」として現じながら、しかも同時に境智「不二」の内証である南無妙法蓮華経の五字七字の法体を表わしている、と仰せである。
なお、天台の観念観法は法華経の迹門・方便品で説かれる“諸法実相・開示悟入の四仏知見”に基づき、衆生に蘊在する仏知見を開発するための修行法として立てられたものである。
しかし、大聖人の御立場からは、以上の説明から明らかなごとく、末法の衆生の成仏にとっての益のない法門に過ぎないのである。
此の五字を地涌の大士を召し出して結要付属せしめ給う是を本化付属の法門とは云うなり
境智一如の法体である南無妙法蓮華経の五字七字が、仏から本化地涌の菩薩に結要付嘱されたことは法華経本門神力品第二十一で明らかである。これが本化付嘱である。
如来神力品で釈尊は、十種の神力を現じたあと、次のように上行等の菩薩大衆に告げるのである。
すなわち「諸仏の神力は、是の如く無量無辺不可思議なり、若し我、是の神力を以って、無量無辺百千万億阿僧祇劫において嘱累の為の故に、此の経の功徳を説かんに猶尽くすこと能わじ。要を以って之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於いて宣示顕説す」と。
すなわち、仏が十種の神力のような不可思議な神力をもって、無量無辺不可思議僧祇劫もの期間にわたって末世に法華経を弘通することの功徳を説き続けても、なお言い尽くすことができないほど、法華経の功徳は絶大であると述べている。
その後、絶大な功徳を「要を以って之を言わば」とあるように、次の四つの句、すなわち“如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事”に結んで説いたのである。これが「四句の要法」である。
このように法華経の功徳を此の「四句の要法」に結んで地涌の菩薩に付嘱したので「結要付嘱」というのである。
“如来の一切の所有の法”は、如来が悟って所持している「法」の一切ということであり、
“如来の一切の自在の神力”は、如来の持っている自在で不思議な力・働きの一切ということであり、
“如来の一切の秘要の蔵”は、如来の胸中に秘められ蔵されている智慧・福徳の一切ということであり、
“如来の一切の甚深の事”は、如来が凡身から仏身を成就するまでと仏身を成就してからの衆生教化の振る舞いなどの一切の深い事跡のことである。
そして、以上のようなことが、「皆此の経に於いて宣示顕説す」、すなわち法華経のなかに明確に説き明かしてあると述べて、法華経の絶大な功徳をこの四句に結んで付嘱したのである。
さて、天台大師は法華玄義巻一上において結要付嘱の文を釈名・弁体・用宗・論用・教判の五重玄義の依文として解釈している。
それによると、“一切の法”は権実の一切の法を摂して法華経の「名」を表わし“一切の自在の神力”はその「用」を、“秘要の蔵”は法華経の「体」を、“甚深の事”はその「宗」を“宣示顕説”はその「教」を表わしているとしている。
日蓮大聖人は三大秘法禀承事において「末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり名体宗用教の五重玄の五字なり」(1022:14)と仰せられている。
天台大師が五重玄義をもって説こうとした法体が寿量品文底の南無妙法蓮華経であることを明かされているのである。
日蓮は其の人にも非ず又御使にもあらざれども先序分にあらあら弘め候なり、既に上行菩薩・釈迦如来より妙法の智水を受けて末代悪世の枯槁の衆生に流れかよはし給う是れ智慧の義なり、釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給う然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む
結要付嘱によって仏から上行等の地涌の菩薩に譲り与えられた南無妙法蓮華経の法体、それはまた、末法の御本仏が久遠元初以来、御所持してこられた法華経寿量品文底の法体である。 外用・上行菩薩の再誕・内証・久遠元初自受用報身如来の再誕であられる日蓮大聖人が末法の一切衆生を成仏せしめ救済されんがために、弘通される三大秘法の法門である。
しかし、この御文では、御謙遜のうえに立って「日蓮は其の人にも非ず又御使にもあらざれども先序分にあらあら弘め候なり」と述べられて、上行菩薩が出現するまでの序分として大略的に妙法の五字を弘通いている、と仰せられている。
更に「既に上行菩薩・釈迦如来より妙法の智水を受けて末代悪世の枯槁の衆生に流れかよはし給う是れ智慧の義なり、釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給う然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む」と説かれている。すなわち、法華経の結要付嘱の儀式において、上行菩薩は釈迦如来から境智一如の妙法の智水を譲り受け、その智水を末法悪世の智慧の枯れ尽きてしまった衆生に流れ通わしてくださるのである、と仰せられ、その同じ智慧の水を日蓮大聖人も今、日本国に弘通していると説かれている。
ここに、日蓮大聖人が上行菩薩のその人であることを暗に示されているのである。そして、上行菩薩自身であるということは、その本地内証の辺は、久遠元初自受用報身如来であるということにほかならないのである。
第三章(付嘱の総別二義を明かす)
本文
又是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん、例せば大通仏の第十六の釈迦如来に下種せし今日の声聞は全く弥陀・薬師に遇て成仏せず譬えば大海の水を家内へくみ来らんには家内の者皆縁をふるべきなり、然れども汲み来るところの大海の一滴を閣きて又他方の大海の水を求めん事は大僻案なり大愚癡なり、法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし、
現代語訳
またこれには総別の二義がある。総別の二義を間違えるならば成仏は思いもよらない。生死に輪廻するもととなるのである。
たとえば、大通智勝仏の第十六番目の王子である釈迦如来に下種された在世の声聞は、全く阿弥陀如来や薬師如来に遭っても成仏しないのである。
譬えば、大海の水を家の中に汲んできたならば、一家の者は皆それに潤うことができる。しかしながら、汲んできた大海の水の一滴を差し置いて、また別によその大海の水を求めることは、大変間違ったことであり、大変愚かなことである。
法華経の大海の智慧の水を受けた根源の師を忘れて、他へ心を移すならば、必ず生死に輪廻する禍となるのである。
語釈
総別の二義
①教法を判釈する基準として「総」と「別」の二義があること。総は総体的な観点で、別はさらに一重立ち入った観点のこと。仏法の教義の浅深・高低を判断するのに用いる。②総付嘱と別付嘱のこと。総付嘱はすべての弟子に付嘱することをいい、法華経嘱累品第22の付嘱がこれにあたる。別付嘱は特別にひとり、または一部の弟子に法が伝えられること。法華経如来神力品第21の付嘱をいう。これを結要付嘱ともいう。
輪廻生死
三界六道の苦悩の世界を生死生死と繰り返すこと。
大通仏の第十六の釈迦如来
大通仏は大通智勝仏のこと。法華経化城喩品第七に説かれる。三千塵点劫の昔、大通智勝仏が十六王子に法華経を説き、その十六王子がのちにそれぞれ法華経を説いて衆生を化導した。そのうちの第十六王子が釈尊の過去世の姿で、この第十六王子との結縁を大通結縁といい、三種の衆生に分かれる。第一を不退、第二を退大取小、第三を未発心という。佐渡御書にいわく「大通第三の余流にもやあるらん」(0958:14)と、すなわち末法の我々は、久遠下種を忘失していたために、大通覆講の際に法華経を聞いても発心すらしなかった衆生の余流なのであろうか、と言われている。この第16番目の王子が釈尊。
弥陀
阿弥陀如来の略。阿弥陀は梵語(Amitāyus)阿弥陀痩(Amitābhā)阿弥陀婆で、阿弥陀痩は無量寿命の義、阿弥陀婆は無量光明の義である。西方極楽浄土の教主で、経により種々に説かれるが、一般にはインド・中国・日本ともに無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の浄土三部経に説かれている阿弥陀仏をさす。無量寿経には、その因縁誓願が説かれている。その内容は、過去無数劫に燃燈仏の五十三仏があらわれたのち、世自在王如来が出現し、民衆を教化した。そのとき、一人の国王がその仏の説に随喜し、信心の心を起こして、ついに王位を捨てて僧となり、法蔵比丘といった。法蔵比丘が世自在王仏を示した二百五十一億の諸仏諸国の先例から選択し、自分の国土を荘厳し浄化することを願って立てたのが法蔵比丘の四十八願である。この願を成就して法蔵は阿弥陀仏となり、その国土は西方十万奥の仏国土を過ぎたところにあるという。これが念仏宗で用いるもので、その思想は、あくまでもこの娑婆世界を穢土とし、極楽浄土へ往生することを説く。また、その根本としている第十八願には「十方の衆生、至心に信楽して我国に生まれんと欲して乃至十念せんに、もし生れずば正覚を取らじ」とあるが、次に「唯五逆と誹謗正法を除く」と断っているのを、浄土宗は隠しているのである。なお、同じく阿弥陀といっても、これは最も低劣な阿弥陀で、このほかに大通智勝仏の十六王子の一人で法華経大願の主迹門の阿弥陀、釈尊の分身たる本門の阿弥陀がある。久遠元初の自受用報身如来に対すれば、これらはすべて迹仏であり、権仏にすぎないのである。
薬師
薬師とは梵語(Bhaiṣajya)薬師琉璃光如来・大医王仏・医王善逝ともいう。東方浄瑠璃世界の教主。ともに菩薩道を行じていた時に、一切衆生の身心の病苦を救い、悟りに至らせようと誓った。衆生の病苦を治し、諸根を具足させて解脱へ導く働きがあるとされる。
講義
付嘱にも、総付嘱と別付嘱の二義があり、これを混同して間違うと、成仏は思いもよらないばかりか、生死輪廻の原因となると厳しく戒められている。
その例として、大通智勝仏の第16番目の王子であった釈尊からかって下種を受けた今日の声聞は、阿弥陀や薬師如来に出会って教化を受けても成仏できなかったという、種・熟・脱の因縁の重要性を挙げられている。
すなわち、今日の声聞は、あくまでも、釈尊によってその種を熟され脱せられなければ、成仏はできないのである。
また、たとえとして大海の水を家の中に汲んできた結果、一家中がせっかくその潤いを受けているのに、汲んできた大海の水を放ったまま、わざわざ別に他方の大海の水を求めるとしたなら、それは誤りであると述べられ、法華経の大海の智慧の水を受け継いだ「根源の師」を忘れて、他の師に心を移すならば、必ず輪廻生死の原因となると、厳しく戒められている。
総別の二義について
法華経本門の付嘱の儀式には、総付嘱と別付嘱の二つがある。別付嘱とは、法華経如来神力品第二十一で説かれた結要付嘱のことであり、釈尊から上行等の四菩薩を上首とする本化地涌の菩薩へと、法華経の肝要が付嘱されたことをいう。
これに対して総付嘱とは、法華経嘱累品第二十二で説かれるものであり、次の経文がそれにあたる。すなわち「爾の時に釈迦牟尼仏、法座より起って大神力を現じたもう。右の手を以って無量の菩薩摩訶薩の頂を摩でて、是の言を作したまわく、我無量百千万億阿僧祇劫に於いて、是の得難き阿耨多羅三藐三菩提の法を修習せり、今以って汝等に付嘱す。汝等応当に、一心に此の法を流布して、広く増益せしむべし」と。
このように、釈尊は無量の菩薩達の頭を三度摩でて、法を付嘱したので「摩頂付嘱」ともいう。また、本化迹化他方を問わず。すべて無量の菩薩達に付嘱したので「総付嘱」ともいうのである。
この付嘱の総別の二義において大事なことは、総付嘱と別付嘱とでは、付嘱の法体と弘通すべき時代とがそれぞれ異なるという点である。
まず、付嘱の法体であるが、総付嘱の場合、すべての菩薩達に付嘱された法体は、文上の法華経のみならず前後の一切経にわたっているのである。また流布すべき時代も、釈尊滅後、正法像法2000年の衆生の機根のためである。
これに関しては曾谷入道殿許御書において「釈尊然後正像二千年の衆生の為に宝塔より出でて虚空に住立し右の手を以て文殊・観音・梵帝・日月・四天等の頂を摩でて是くの如く三反して法華経の要よりの外の広・略二門並びに前後の一代の一切経を此等の大士に付属す正像二千年の機の為なり」(1033:17)と仰せられている。
これに対し、別付嘱の場合は、付嘱の法体が法華経寿量品文底の南無妙法蓮華経の五字七字であり、弘通されるべき時代も末法となる。
ゆえに、末法の時代に生を受けた衆生はあくまで、上行菩薩等に結要付嘱された南無妙法蓮華経によって成仏する機根なのであり、この点を混同して取り違えてはならない。
総付嘱された迹化の菩薩達の教化や、また阿弥陀仏・大日如来等の仏を信仰したりすると、時も機も教もことごとく異なって「輪廻生死のもといたらん」と仰せのように、成仏はおろか、かえって六道を生死生死と輪廻する災いを自ら招くことになるのである。
第四章(謗法呵責なくば成仏難きを示す)
本文
但し師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間・仏法の道理によるべきなり、末世の僧等は仏法の道理をば・しらずして我慢に著して師をいやしみ檀那をへつらふなり、但正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ、文句の一に云く「既に未だ真を発さざれば第一義天に慙じ諸の聖人に愧ず即是れ有羞の僧なり観慧若し発するは即真実の僧なり」云云、涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり」云云、此の文の中に見壊法者の見と置不呵責の置とを能く能く心腑に染む可きなり、法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし、南岳大師の云く「諸の悪人と倶に地獄に堕ちん」云云、謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入・失本心故は是なり、
現代語訳
ただし師であっても誤りのある者は捨てなければならない。しかしまた捨てない場合もある。これらは世間や仏法の道理によるべきである。
末法の僧等は、仏法の道理を知らないで、我慢に執著して、師を卑しみ檀那に諂っている。ただ正直であって少欲知足である僧こそ真実の僧である。
法華文句巻一には「まだ真実を悟らない者でも、第一義天に慙じ、諸の聖人に愧じるならば、この者は有羞の僧である。もし観慧が発すれば、それは真実の僧である」と釈している。涅槃経には「もし善比丘がいて、仏法を破る者を見て、放置して、もしよく呵責し駈遣し挙処しなければ、まさにこの人は仏法の中の怨であると知るべきである。もしよく駈遣し呵責し挙処するならば、この人は我が弟子であり、真の声聞である」と説かれている。
この文の中に「法を破る者を見て」の「見」と、「置いて呵責せず」の「置」とをよくよく心肝に染めるべきである。
法華経の敵を見ながら、そのままに置いて責めなければ師も檀那もともに無間地獄は疑いない。南岳大師は「諸の悪人とともに地獄に堕ちる」といっている。
謗法を責めないでいて成仏を願うことは、火の中に水を求め、水の中に火を尋ねるようなものである。はかないことである。はかないことである。
いかに法華経を信じていても、謗法があれば必ず地獄に堕ちるのである。漆千ばいの中に蟹の足を一つ入れたようなものである。「毒気が深く入って本心を失えるが故」とあるのはこのことである。
語釈
我慢
①七慢のひとつ。②我を驕って誇り、他を軽んじ従わないこと。③耐え忍ぶこと。
檀那
布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。
少欲知足
欲望が少なく、少しを得て満足すること。
文句
天台大師の三大部の一つ「法華文句」のこと。法華経の初め、序品の「如是我聞」から、最後普門品の「作礼而去」までの一字一句を、因縁・約教・本迹・観心の四釈をへて、くわしく10巻870枚にわたって解釈している書。
有羞の僧
恥を知る心を持つ僧のこと。
観慧
①観心に基づく智慧。もしくは観心を発する智慧。②一念三千の観によって生ずる仏の智慧。天台宗では初住以上、分身即の位において分々に仏智を生ずることを「観慧発す」という。大聖人の文底仏法においては「等覚一転名字妙覚」と説き、名字即の位より即身成仏するから、名字即において妙法を受持する一行によって観慧を発することができる。
涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
呵責
叱り、責めること。相手の罪禍を追求し責め立てること。
駈遣
追い払うこと。駆は追う、遣は追う・はなつ等の意。仏教では、破仏法・正法誹謗の者を追放することをいう。
挙処
その罪を検挙し、世を挙げて処分すること
無間地獄
八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
南岳大師
(0515~0577)中国北朝時代の僧、天台大師の師。字は慧思、姓は李。河南に生まれる。15歳で出家し法華経を学んだ。20歳の時に妙勝定経を読んで観じ、修禅に努め、後に法華三昧を得たという。34歳の時、対論した僧に毒を盛られ死に瀕したが、命はとりとめた。その後、多くの禅師を訪ねたり、刺史に法を説いたりしたが、その間にも悪論師によって毒を盛られた。41歳の時に光州の大蘇山に入り、ここで立誓願文の著作や般若経・法華経の書写を行い、また集まりに来たった天台大師等の弟子の育成にあたった。陳の光大2年(0568)戦乱を避けて南岳に移り、ここで晩年を過ごして大建9年(0577)に没した。なお、日本にあっては奈良時代以降、南岳大師の生まれ変わりが聖徳太子であると信じられていた。
諸の悪人と倶に地獄に堕ちん
南岳大師の法華経安楽行義の中の文。「若し菩薩有りて悪人を将護して治罰すること能わず、其れをして悪を長ぜしめ善人を悩乱して正法を敗壊せば此の人は実に非ずして外には詐似を現じ、常に是の言を作さん。我は忍辱を行ずと、其の人命終して諸の悪人と俱に地獄に堕ちん」とある。
謗法
誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し
字彙申には「仙方に曰く、漆中に投ずれば化して水と為る。之を服すれば成長す」とある。漆の中に蟹を入れれば水と為るということ。
毒気深入・失本心故
法華経如来寿量品第16の文。「毒気深く入って、本心を失えるが故に」と読む。謗法の害毒が深く体内に入って、本心を失うが故に、正法を信受しようとしないということ。
講義
これまで成仏のための根源の法が「境智一如の南無妙法蓮華経」であり、それを末法に弘めておられる根源の師が日蓮大聖人であることを示された。
すなわち法宝と仏宝が明かされたのである。それに対し、この段では真実の僧の在り方が示される。
まず、師であっても誤りを生じた場合は、世間・仏法の道理のうえから、この師を捨てるか捨てざるべきかを決めるべきであると説かれた後、真実の僧の在リ方を「上求菩提」と「下化衆生」の両面に即して示されている。
上求菩薩の面については「但正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ」と述べられ、天台大師の法華文句の文を引証されている。
もう一方の下化衆生の面に関しては、涅槃経の「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり」という経文、および南岳大師の法華経安楽行義にある「諸の悪人と倶に地獄に堕ちん」の文を引用されている。
すなわち、内外を問わず「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」とも、「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし」とも「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」とも仰せられている。法華経の敵を見て折伏しないことは、謗法にも通じることであるから、無間地獄に堕ちるのである。
要は、謗法を厳に戒めることが大聖人の仏法において成仏してゆくための絶対の条件であることを説かれているのである。
我々末法の衆生も「師檀ともに無間地獄疑いなかるべし」との大聖人の厳格な御指南を自身の問題として受け止め、自らの成仏のためにも「謗法」は厳に戒めていきたいものである。
第五章(本従の師の大切さを示される)
本文
経に云く「在在諸の仏土に常に師と倶に生ぜん」又云く「若し法師に親近せば速かに菩薩の道を得ん是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん」釈に云く「本此の仏に従つて初めて道心を発し亦此の仏に従つて不退地に住す」又云く「初め此の仏菩薩に従つて結縁し還此の仏菩薩に於て成就す」云云、返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給うべし、釈尊は一切衆生の本従の師にて而も主親の徳を備へ給う、此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり、若し此等の義をたがへさせ給はば日蓮も後生は助け申すまじく候、恐恐謹言。
建治二年丙子八月三日 日 蓮 花 押
曾谷殿
現代語訳
法華経に「在在諸の仏土に常に師と倶に生まれる」と説かれ、また「もし法師に親近するならば、速やかに菩薩の道を得ることができる。この師に随順して学ぶならば、恒沙の仏を見ることができる」と説かれている。
釈には「もとこの仏に従って初めて道心を発し、またこの仏に従って不退地に住する」とあり、また「初めこの仏・菩薩に従って結縁し、またこの仏・菩薩によって成就する」とある。
かえすがえすも本従を間違えないで、成仏していきなさい。釈尊は一切衆生の本従の師であって、しかも主と親の徳を備えておられる。
この法門を日蓮が申すゆえに、忠言は耳に逆らうの道理であるから、流罪にされたり、命にも及んだのである。しかしながら末だこりていない。法華経は種のようであり、仏は植え手のようであり、衆生は田のようである。もしこれらの義を間違えるならば、日蓮も貴殿の後生を助けることができないであろう。恐恐謹言。
建治二年丙子八月三日 日蓮 花 押
曾谷殿
講義
最後に、末法の衆生が就き従うべき「本従の師」はだれであるか、について明確にされ、成仏のための用心を示されている。
初めに、法華経化城喩品第七の「在在諸の仏土に常に師と倶に生ぜん」という経文や同じく法華経法師品第十の「若し法師に親近せば速やかに菩薩の道を得ん是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん」との経文、更にその釈である天台大師の「法華玄義」の「本此の仏に従って初めて道心を発し亦此の仏に従って不退地に住す」の文や妙楽大師の法華文句記の「初め此の仏菩薩に従って結縁し還此の仏菩薩に於いて成就す」の文の二経二釈の文を挙げられ、本従った仏菩薩によってこそ、衆生は成仏できることを示されている。
当時、日本国の一切衆生は、この点に迷って、阿弥陀如来や大日如来を尊崇していた。大聖人は、その誤りを指摘されて正しい仏法を崇めるように訴えられたのであるが「忠言耳に逆う」の道理によって、流罪や生命に及ぶ迫害を受けられたことを明かされるとともに「然りといえどもいまだこりず候」と仰せられて、迫害ものともせずの御覚悟を披瀝されている。
そして「法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」と仰せられて、成仏の根本は法華経であることを示されている。
ここで「釈尊は一切衆生の本従の師」と仰せられているのは、他土の仏である阿弥陀仏などを信仰しているのに対し、あくまで娑婆世界に出現し、難を忍んで法を説いた釈尊を立てるべきことを教えられているのである。
しかし、その本義は、末法においては文底独一本門の釈尊でなければ無益であり、日蓮大聖人御自身であることを知らなければならない。
最後に「本従の師」を忘れて他師に迷うことがあれば「日蓮も後生は助け申すまじく候」と厳しく末法の衆生の成仏の用心を示されて結ばれている。
法華経の二文と法華玄義、法華文句記の釈について
まず、化城喩品の文であるが「彼の仏の滅度の後、是の諸の聞法の者、在在諸仏の土に、常に師と倶に生ぜん」とある。これは“彼の仏”すなわち大通智勝仏の時にその16人の王子によって法華経を聞かされ種を植えられた“諸の聞法の者”は、大通智勝仏の滅度の後に“在在諸仏の土”すなわち、ありとあらゆる十方の仏土に、つねにそれぞれの師である16人と倶に生れるということである。
そしてこのうち第16番目の王子が釈尊の過去世の姿であってこの第16王子に化導された衆生は本、種を植えてくれた師である釈尊と倶に常に諸の仏土に生じ成仏を期すべきことを説いているのである。ここに種・熟・脱の原理が説かれている。
次に法師品の文であるが「若し法師に親近せば、速かに菩提の道を得、是の師に随順して学せば、恒沙の仏を見たてまつることを得ん」とある。これは、法の師に親近することによって菩薩の道を得ることができ、その師に随って修学していくことによって“恒沙の仏”を見ることができる。換言すれば、成仏の境地に入ることができると述べているのである。
以上、いずれも、衆生は本、法を聞き学んだ師に随順し従ってこそ成仏へと導かれていくことを説いているのである。
次に、これらの経文に対する天台大師の解釈であるが、まず「本此の仏に従って初めて道心を発し亦此の仏に従って不退地に住す」の文は法華玄義巻六下に説くものであるが、これは迹門十妙中第九・眷属妙を釈するなかで、仏の眷属が生を受ける条件を説くうち「本縁の為に牽かるる」者を明かす段で述べられている。
すなわち、本、一人の仏に従って仏道を志した者は“本縁”のために再び同じ仏の眷属となって生れ、その仏に従うことにより“不退地”に住し成仏することができる、と述べている。
また「初め此の仏菩薩に従って結縁し還此の仏菩薩に於て成就す」というのは妙楽大師の法華文句記の文である。
その意味は、初めの仏菩薩によって結縁した衆生は再び同じ仏菩薩によって成仏へと完成させねばならない、ということである。
これらの二経、二釈を依文とされて大聖人は「返す返すも本従たがえずして成仏せしめ給うべし」と仰せられているのである。
釈尊は一切衆生の本従の師にして而も主親の徳を備え給う
この御文は、一往は釈尊の師であり主親の二徳も備えていると仰せであるが、元意の辺は、文底下種の釈尊即日蓮大聖人こそが我々末代の衆生の“本従の師”であり、主師親の三徳を備えられた末法の御本仏であられることを説かれるところにある。我々末代の衆生は、末法の御本仏・日蓮大聖人によってのみ即身成仏することができるのである。
後の御文の「法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」との仰せと照らし合わせて、日蓮大聖人の末法の衆生に対する無辺の大慈悲を深く肝に銘じていきたいものである。と同時に最後に説かれた「若し此等の義をたがへさせ給はば日蓮も後生は助け申すまじく候」との厳しい戒を守り、“本従の師”を間違えて他の仏・他の師・他の法に迷って地獄に堕ちることになきよう、常に自身の成仏に対する用心をしていきたいものである。