上野殿御返事(梵帝御計らいの事)

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上野殿御返事(梵帝御計らいの事)

 建治3年(ʼ77)5月15日 56歳 南条時光

 背景と解説

本抄は、1277年(建治3年)に身延で認められたもので、「梵天・帝釈、あるいは諸天の計らいによって、日本国中の人々が一同に法華経を信じる時が必ず来るであろう」という趣旨の一節が含まれていることから、『梵帝御計らいの事』と題されています。この御書の中で日蓮大聖人は、亡き父の跡を継いで駿河国富士郡上野郷(現在の静岡県富士宮市付近)の地頭となった19歳の南条時光に対し、信心を貫き通すよう励まされています。また、脅しや甘い誘惑によって信心を捨てさせようと画策する者たちに対し、どのように振る舞うべきかについても時光に助言されています。大聖人は、もし彼らの策略が成功して時光が退転してしまえば、彼らは時光を「他の多くの門下たちを退転させるための見せしめ(手段)」として利用するだろう、と警告されています。

 

 

第一章(賢人の故事を挙げて諭す)

 

本文

 

  五月十四日にいものかしら一駄・わざとおくりたびて候、当時のいもは人のいとまと申し珠のごとし・くすりのごとし、さてはおほせつかはされて候事うけ給わり候いぬ。
  尹吉甫と申せし人は.ただ一人子あり・伯奇と申す、をやも賢なり.子もかしこし・いかなる人かこの中をば申したがふべきと・おもひしかども・継母より・よりよりうたへしに用いざりしほどに・継母すねんが間・やうやうのたばかりを・なせし中に、蜂と申すむしを我がふところに入れて・いそぎいそぎ伯奇にとらせて・しかも父にみせ・われをけそうすると申しなして・うしなはんとせしなり。


現代語訳

 

 五月十四日に里芋を一駄わざわざ送っていただいた。今時分の芋は、忙しいときでもあり、貴重であること宝珠のようであり、薬のようである。さて、仰せつかわされたこと承知した。
 尹吉甫という人に、ただ一人子供がいた。伯奇といった。親も賢人であり、子も賢かった。どのような人もこの父子の仲をえさせることはできないと思っていた。けれども、継母がおりおりに伯奇が悪さをするといって尹吉甫に訴えたことに対しては用いなかったが、継母が数年の間さまざまなはかりごとをした中に、蜂という虫を自分の懐に入れて急いで伯奇にとらせ、しかもそれを父に見せ、「伯奇は私に思いをかけている」といいつけ、伯奇をなきものにしようとしたはかりごとにはのせられてしまった。

 

語釈

 

いものかしら
 里芋の親芋。

一駄
 馬一頭に負わせる荷物の量。馬は古くから荷役に使われてきたが、中世に交通上の要地に馬借が活躍していたころには、通例一頭で二十五、六貫の荷物を運んだようである。

尹吉甫
 中国周代の人。今昔物語集によれば、後妻は継子の伯奇を憎み、様々に尹吉甫に告げ口して父子の仲を違えさせようとしたが、尹吉甫は信じようとしなかった。そこで後妻は、伯奇が自分に思いを抱いていると見せかけようとして、自らの懐に蜂を入れて伯奇に取らせ、その様子を遠くから尹吉甫に見せた。それを見た尹吉甫は伯奇を責め、その弁明を聞こうとしなかった。そのため伯奇は嘆いて家を去り、河に身を投げて死んでしまった。それを知った尹吉甫は涙ながらに悔い悲しんだという。

伯奇
 中国周代の賢人で尹吉甫の子。今昔物語集によれば、尹吉甫の後妻は継子の伯奇を憎み、様々に尹吉甫に告げ口して父子の仲を違えさせようとしたが、尹吉甫は信じようとしなかった。そこで後妻は、伯奇が自分に思いを抱いていると見せかけようとして、自らの懐に蜂を入れて伯奇に取らせ、その様子を遠くから尹吉甫に見せた。それを見た尹吉甫は伯奇を責め、その弁明を聞こうとしなかった。そのため伯奇は嘆いて家を去り、河に身を投げて死んでしまった。それを知った尹吉甫は涙ながらに悔い悲しんだという。

けそう
 思いをかけること。恋をすること。

講義


 建治3年(1277)5月14日、南条時光は、身延におられる大聖人のもとに、いものかしら一駄を御供養申し上げるとともに、自身の信心をやめさせようとして、さまざまに意見をする者がいることを、御手紙に書いて報告申し上げた。
 本抄は、御供養への礼を述べられるとともに、難に負けない信心を勧められた返書である。
 本抄で日蓮大聖人は、仏滅後、法華経を修行する者には釈尊の九横の大難にもまさる大難があるはずであるが、天台大師、伝教大師も遇ってはいないこと、今、御自身の身に法華経に説かれた大難が次々と競い起こっていることを述べられ、弟子にも種々信心を妨害し迫害する者が出てくるはずであるが、それに負けて退転してはならないと、難への対処の仕方をこまごまと指導されている。
 なお、本抄の御真筆は、大石寺に現存する。
 本章では、まず御供養に対する謝辞と、南条時光の書面の趣を承知した旨を述べられ、ついで、尹吉甫の故事を説かれている。
 中国周代の賢人の名の高かった尹吉甫は、後妻の計略に乗せられて、最愛の息子の伯奇を責め、ついに自殺に追いやってしまったのである。このように賢人でも、悪人の謀略には惑わされやすいことを述べられ、まして、仏法において起こってくる難は、はるかに厳しいのであり、それに紛動されないように、しっかりした心構えで臨むよう諭されているのである。

 

 

第二章(釈尊の大難を示し持経者を教える)

 

本文

 

  びんばさら王と申せし王は賢王なる上・仏の御だんなの中に閻浮第一なり、しかもこの王は摩竭提国の王なり、仏は又此の国にして法華経を・とかんとおぼししに・王と仏と一同なれば一定法華経とかれなんとみへて候しに、提婆達多と申せし人・いかんがして此の事をやぶらんと・おもひしに・すべて・たよりなかりしかば・とかうはかりしほどに・頻婆沙羅王の太子阿闍世王をとしごろとかくかたらひて・やうやく心をとり・をやと子とのなかを申したがへて・阿闍世王をすかし父の頻婆沙羅王をころさせ・阿闍世王と心を一にし提婆と阿闍世王と一味となりしかば・五天竺の外道・悪人・雲かすみのごとくあつまり・国をたび・たからをほどこし・心をやわらげすかししかば・一国の王すでに仏の大怨敵となる、欲界・第六天の魔王・無量の眷属を具足してうち下り、摩竭提国の提婆・阿闍世・六大臣等の身に入りかはりしかば・形は人なれども力は第六天の力なり、大風の草木をなびかすよりも・大風の大海の波をたつるよりも・大地震の大地をうごかすよりも・大火の連宅をやくよりも・さはがしくをぢわななきし事なり。
  さればはるり王と申せし王は阿闍世王にかたらはれ釈迦仏の御身したしき人数百人切りころす、阿闍世王は酔象を放ちて弟子を無量無辺ふみころさせつ、或は道に兵士をすへ・或は井に糞を入れ・或は女人をかたらひて・そら事いひつけて仏弟子をころす、舎利弗・目連が事にあひ・かるだいが馬のくそにうづまれし、仏はせめられて一夏九十日・馬のむぎをまいりしこれなり、世間の人のおもはく・悪人には仏の御力もかなはざりけるにやと思ひて信じたりし人人も音をのみて・もの申さず眼をとぢてものを・みる事なし、ただ舌をふり手をかきし計りなり、結句は提婆達多・釈迦如来の養母・蓮華比丘尼を打ちころし・仏の御身より血を出せし上・誰の人か・かたうどになるべき、

現代語訳

 

 頻婆沙羅王という王は賢王であるうえ、釈尊の信者の中では世界第一であった。しかも、この王は摩竭提国の王であった。仏はまたこの国において法華経を説こうと思われたときに、王と仏との思いが一致していたので必ず法華経が説かれるであろうと思われた。ところが、提婆達多という人は、何とかしてこの事をだめにしようと企てたが、すべてうまくいかなかったので、あれこれ画策した。そうして頻婆沙羅王の太子である阿闍世王を数年の間さまざまに説得して、しだいに心を把み、親と子との仲を違えさせ、阿闍世王をだまして父の頻婆沙羅王を殺させた。提婆達多が阿闍世王と心を一つにし一味となると、全インドの外道や悪人が雲霞のように集まり、それらに国を与え財を施し、心を和らげ機嫌をとったので、一国の王はすっかり仏の大怨敵となった。欲界の第六天の魔王が量り知れないほどの眷属を引き連れてうち下り、摩竭提国の提婆達多や阿闍世王や六大臣等の身に入り替わったので、形は人間であっても力は第六天の魔王の力であった。大風が草木をなびかすよりも、大風が大海の波を立てるよりも、大地震が大地を動かすよりも、大火が連なる家々を焼くよりも、人々は騒がしく畏れおののいたのである。
 それゆえ、波留璃王という王は阿闍世王によって仲間に引き入れられ、釈尊の親しい人数百人を切り殺した。阿闍世王は酔った象を放って釈尊の弟子を数多く踏み殺させた。あるいは道に兵士を伏せ置き、あるいは井戸に糞を入れ、あるいは女性を仲間に引き入れて嘘をいいつけ、仏弟子を殺した。舎利弗や目連が事件にあい、加留陀夷が馬の糞に埋められて殺され、釈迦仏が苦しめられて、ひと夏九十日間、馬の餌の麦を召し上がられたのは、このことである。
 世間の人の思いには、悪人に対しては仏の御力もかなわないのであろうと思って、仏を信じていた人々も声をひそめてものもいわず、眼を閉じてものを見る事もしない。ただ、舌を巻き、手を左右に振るばかりであった。あげくのはては、提婆達多が釈迦如来の養母の蓮華比丘尼を打ち殺し、仏の御身から血を出したうえは、誰人が味方になろう。

 

語釈

 

びんばさら王
 梵語ビンビサーラ(Bimbisāra)の音写。影勝・顔色端正などと訳す。釈尊在世における中インド・マガダ国の王。阿闍世王の父。釈尊に深く帰依し、仏法を保護した。提婆達多にそそのかされた阿闍世太子に幽閉されるが、かえって阿闍世の不孝を悲しみ諌めた。阿闍世は獄吏に命じて食を断ち、ついに王は命終した。この時、王は釈尊の光明に照らされ、阿那含果を得たといわれる。

だんな
 「檀那」と書く。布施をする人(梵語、ダーナパティ、dānapati。漢訳、陀那鉢底)「檀越」とも称された。中世以降に有力神社に御師職が置かれて祈祷などを通した布教活動が盛んになると、寺院に限らず神社においても祈祷などの依頼者を「檀那」と称するようになった。また、奉公人がその主人を呼ぶ場合などの敬称にも使われ、現在でも女性がその配偶者を呼ぶ場合に使われている。

閻浮
 一閻浮提ぼこと。全世界を意味する。南閻浮提ともいう。閻浮は梵語で樹の名。提は州と訳す。古代インドの世界観に基づくもので、中央に須弥山があり、八つの海、八つの山が囲んでおり、いちばん外側の海を大鹹海という。その中に、東西南北の四方に東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大州があるとされていた。現在でいえば、地球上すべてが閻浮提といえる。

摩謁提国
 インド古代の王国、マガダ(Magadha)国のこと。現在のインド・ビハール州南部。仏教に関係の深い王舎城や霊鷲山はこの地にあった。

提婆達多
 提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。

たより
 ①助けとなるもの。②手紙・連絡。

阿闍世王
 梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王の怨となるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王のことを別名婆羅留枝ともいう。阿闍世太子は長じて提婆達多に親近し、父を殺し、母を幽閉し、釈尊に危害を加えた。だが全身に悪瘡ができて臨終に近づいた。釈尊は阿闍世のために月愛三昧に入り涅槃経を説いた。その結果、悪瘡は癒えて寿命を延ばした。そのことで阿闍世は心から釈尊に帰依し、仏滅後経典の結集に力を尽くしたといわれる。

すかし
 おだてて相手の気持ちをよくさせること。だまし誘うこと。

五天竺
 インドの古称。全インドを東・西・南・北・中天竺と区分する。五印度・五天・五印ともいう。

外道
 仏教以外の低級・邪悪な教え。心理にそむく説のこと。

欲界
 三界の一つで、淫欲や貪欲等の欲望に支配された有情の世界のこと。上は天上界の六欲天から、中は人界の四大州、下は地下の八大地獄にわたっている。

第六天の魔王
 他化自在天王のこと。欲界の天は六重あり、他化自在天はその最頂・第六にあるので第六天といい、そこに住して仏道を障礙する魔王を第六天の魔王という。大智度論巻九には「此の天は他の化する所を奪って而して自ら娯楽するが故に他化自在と言う」とある。三障四魔のなかの天子魔にあたる。

眷属
 ①仏・菩薩などの脇士や従う人。②一族・親族。③従者・家来。

六大臣(阿闍世王の)
 月称・蔵徳・実徳・悉知義・吉徳・無所畏のこと。涅槃経19によると、阿闍世王が父王の頻婆沙羅王を殺害した罪で、体中に悪瘡が生じ悪臭を放ったとき、地獄に堕ちるのではないかと悩む阿闍世王に対して、仏の教えを笑い、それぞれ外道の師に教えを請うよう勧めたという。

わななき
 揺れ乱れること。恐れなどのために体や声がふるえること。

はるり王
 梵語ヴィルーダカ(Virūḍhaka)の音写。毘瑠璃王・流離王とも書く。悪生王等と訳す。釈尊在世時の中インド・コーサラ国の王。大唐西域記巻六等によると、父王波斯匿と釈迦族の大名の婢女との間に誕生。長じて自身の出生について釈迦族から辱めを受けた。後、長行大臣と謀って父王を放逐し、国王となり、釈迦族を殺戮した。その数九百九十万人といわれ、血が流れて池となった。それから七日後、釈尊の予言通り焼死して無間地獄に堕ちたという。


酔象
 酒に酔って横暴になった象。釈尊の受けた九横の大難の一つに、阿闍世王が象に酒を飲ませて放ち、釈尊を踏み殺させようとしたことがある。

舎利弗
 梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。

目連
 梵語でマハーマウドガルヤーヤナ(Mahāmaudgalyāyana)といい、摩訶目犍連、目犍連とも書き、菜茯根、采叔氏などと訳す。釈尊十大弟子の一人。神通第一といわれた。仏本行集経巻四十七等によると、マカダ国の王舎城の近くのバラモンの出で、舎利弗と共に六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、更に真実の法を求めて釈尊の弟子になったという。法華経授記品第六で多摩羅跋栴檀香仏の記別を受けた。盂蘭盆経上によると、餓鬼道に堕ちた亡母を釈尊の教えに従って救ったといわれる。

かるだい
 梵語カーローダーイン(Kālodāyīn)の音写。迦留陀夷とも書く。黒光・黒曜と訳す。釈尊が太子であったときの師で、出家して仏弟子となったが、破戒の行為が多かった。しかし、阿羅漢果を得てから改め、舎衛国の九百九十九家を教化した。そして、千家目にバラモンの家を教化しているとき、その家の夫人の策略によって、糞の中に埋められ殺されたという。

一夏九十日
 陰暦の4月16日から7月15日までの夏期90日間のこと。インドでは、この夏の雨期の間、僧は遊行を避けて一所にこもって修行した。この期間を安居という。

舌をふり
 驚き怖れて舌をまくこと。

手をかきし
 禁止や制止を示すため、手を左右に振って合図するさま。

蓮華比丘尼
 釈尊の弟子。華色比丘尼、蓮華女ともいう。大智度論巻十四によれば、釈尊を圧し殺そうとして山から岩を落とした提婆達多に対し、その非を責めたため提婆達多に拳で打ち殺されたという。

かたうど
 味方。加担者。「かた」は加わるの意。名詞形の「かたひと」の音便変化。

 

講義


 先の尹吉甫が後妻にたぶらかされた例に続いて本章では、釈尊在世の阿闍世王が提婆達多にたぶらかされたこと、また、その阿闍世王によって波瑠璃王などがたぶらかされて仏法の敵になった例を挙げられている。そしてこれらは、法華経を説くことを阻止するために、第六天の魔王が眷属とともに下り、提婆達多や阿闍世王、六大臣等の身に入って、釈尊に九横の大難等の迫害を加えたのであると述べられている。
 祈禱抄でも、第六天の魔王が一切衆生の身に入って釈尊を迫害した理由を、次のように記されている。
 「仏此の法華経をさとりて仏に成り、しかも人に説き聞かせ給はずば仏種をたたせ給ふ失あり。此の故に釈迦如来は此の娑婆世界に出でて説かんとせさせ給いしを、元品の無明と申す第六天の魔王が一切衆生の身に入って、仏をあだみて説かせまいらせじとせしなり。所謂波瑠璃王の五百人の釈子を殺し、鴦崛摩羅が仏を追い、提婆が大石を放ち、旃遮婆羅門女が鉢を腹にふせて仏の御子と云いし、婆羅門城には仏を入れ奉る者は五百両の金をひきき。されば道にはうばらをたて、井には糞を入れ、門にはさかむきをひけり。食には毒を入れし、皆是れ仏をにくむ故に。華色比丘尼を殺し、目連は竹杖外道に殺され、迦留陀夷は馬糞に埋れし、皆仏をあだみし故なり」(1345-18)。
 法華経は三世十方の仏が成道した経典であり、一切衆生の仏性を開発し、仏に成しうる唯一の教えである。ゆえに釈尊は、この法華経を説くために、この世に出現したのであるが、釈尊が法華経を説いてしまえば一切衆生が成道し、三界六道から出てしまうために、元品の無明という第六天の魔王が人々の身に入って、釈尊の法華経の説法を阻止しようとしたのである。
 法華経勧持品に「悪鬼は其の身に入って」とあるように、第六天の魔王に魅いられた提婆達多や阿闍世王は、魔力の命ずるままに釈尊と弟子達に迫害を加え続けたのである。
 まず提婆達多が、賢王であり釈尊の大信徒であった頻婆沙羅王と、その子である阿闍世王との間を裂いて、ついに阿闍世に親殺しの罪業を犯させた。
 阿闍世は、生誕の時から、父母に怨念を抱いていた子であった。人々は彼を未生怨と呼んでいた。
 青年期に達した阿闍世に近づいた提婆達多は、出生にまつわる秘密を彼に語ることによって、幼児期以来、生命の深層に沈潜していた怨念を顕現させ、父王の殺害へと駆り立てたのである。
 法蓮抄には「阿闍世王は十六大国の悪人を集め一四天下の外道をかたらひ提婆を師として無量の悪人を放ちて仏弟子をのりうち殺害せしのみならず、賢王にて・とがもなかりし父の大王を一尺の釘をもつて七処までうちつけ、はつけにし生母をば王のかんざしをきり刀を頭にあてし重罪のつもりに悪瘡七処に出でき」(1043-16)と記されている。
 なお、頻婆沙羅王の死については、語訳に示したように飢えによるものとする説が有力であるが、いずれにせよ、第六天の魔王は、頻婆沙羅王のみならず、釈尊自身と弟子達の身にも及んだのであり、このため、釈尊は九横の大難を受け、また弟子達も生命に及ぶ種々の難を受けたのである。

九横の大難について

 

 九横の大難については、大智度論巻九に次のように述べられている。
 「問うて曰く、若し仏の神力無量にして威徳の巍々たること称説すべからずとせば、何を以ての故に九の罪報を受けたまうや。一には梵志の女、孫陀利は謗り、五百の阿羅漢も亦謗らる。二には旃遮、婆羅門女、木盂を繫けて腹を作り仏を謗る。三には提婆達、山を推して仏を圧し、足の大指を傷く。四には迸木脚を刺す。五には毘楼璃王、兵を興し、諸の釈子を殺す。仏は時に頭痛したまう。六には阿耆達多婆羅門の請を受けて馬麦を食したまう。七には冷風動ずるが故に背痛みたまう。八には六年苦行したまう。九には婆羅門の聚落に入り、食を乞うて得ず。空鉢にして還りたまう。復た冬至の前後の八夜、寒風竹を破り、三衣を索めて寒を禦ぎたまいしこと有り。又復た熱を患い、阿難は後に在って仏を扇ぎたてまつれり。是のごとき等の世界の小事、仏は皆之を受けたまえり」。
 この文について、日寛上人は「開目抄愚記」のなかで、次のようにまとめられている。
 「諸文に散在す。中に於ても大論及び興起行経分明なり。一には孫陀利が謗、二には旃遮女が謗、三には提婆推山、四には迸木刺脚、五には瑠璃殺釈、六には耆多馬麦、七には冷風背痛、八には六年苦行、九には乞食空鉢。その外、患寒、患熱、奢弥跋が謗、骨節痛等云々」。
 その開目抄で、日蓮大聖人は、次のように述べられている。
 「仏すら九横の大難にあひ給ふ、所謂提婆が大石をとばせし阿闍世王の酔象を放ちし阿耆多王の馬麦・婆羅門城のこんづ・せんしや婆羅門女が鉢を腹にふせし、何に況や所化の弟子の数難申す計りなし、無量の釈子は波瑠璃王に殺され千万の眷属は酔象にふまれ、華色比丘尼は提婆にがいせられ迦廬提尊者は馬糞にうづまれ目犍尊者は竹杖にがいせらる」(0205:18)。
 そこで、日蓮大聖人の挙げておられる九横の大難を、本抄の御文と関連づけながら述べてみよう。
    ①孫陀利の謗。外道の美女であった孫陀利が、外道にそそのかされて釈尊と関係があったといいふらしたこと。
    ②金鏘。釈尊が婆羅門城を乞食していた時に、下婢が臭い米汁を供養した。その果報を説いた釈尊が一人の外道から嘘だと謗られたこと。
    ③馬麦。阿耆多王の請いに応じた釈尊が五百人の弟子とともに毘蘭邑に行ったところが、王は遊び戯れて釈尊が来たことを忘れてしまい、90日間も食事が出されなかったので、馬の餌となる麦を食べて飢をしのいだという難。本抄には「仏はせめられて一夏九十日・馬のむぎをまいりしこれなり」と記されている。
    ④瑠璃の殺釈。波瑠璃王という舎衛国の王が、釈迦族を、過去の怨みから滅ぼしてしまったこと。本抄では「はるり王と申せし王は阿闍世王にかたらはれ釈迦仏の御身したしき人数百人切りころす」と仰せである。
    ⑤乞食空鉢。釈尊が乞食行をしていた時、婆羅門城に入ろうとしたところが、王が人々に布施と法を聞くことを禁じたので、釈尊は乞食をしても誰も供養しなかったという難。
    ⑥旃遮女の謗。婆羅門の旃遮女が、釈尊が説法をしている時に、腹に鉢を入れて紐で巻き結んで、釈尊の子を身ごもったといって釈尊を誹謗したこと。なお、帝釈天が神通力でねずみになって紐をかみきったため、鉢が落ちてうそがばれてしまったという。本抄では「或は女人をかたらひて・そら事いひつけて」と述べられている。
    ⑦調達が山を推す。提婆達多が釈尊を殺そうとして耆闍崛山から大石を落とした難。その時、大石のかけらが釈尊の足の指に当たって血を出したという。本抄では「仏の御身より血を出せし上」といわれている。
    ⑧寒風に衣を索む。冬至前後に、八夜の間、寒風が吹きすさんで、釈尊は三衣を求めて寒さを防いだという難。
    ⑨阿闍世王の酔象を放つ。阿闍世王が提婆達多にそそのかされて、悪象に酒を飲ませ、酔わせて釈尊の一行の中に放って釈尊を踏みつぶさせようとした難。本抄では「阿闍世王は酔象を放ちて弟子を無量無辺ふみころさせつ」と仰せである。
 なお、本抄では提婆達多に打ち殺された蓮華比丘尼を「釈迦如来の養母」といわれているが、釈迦如来の養母摩訶波闍波提比丘尼とこの蓮華比丘尼は別人である。あるいは、義母と同じように大事にしていたという意味でこう仰せられたとも考えられる。

 

 

第三章(法華経の行者に大難あるを示す)

 

本文

 

  かくやうやうになりての上・いかがしたりけん法華経をとかせ給いぬ、此の法華経に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」と云云、文の心は我が現在して候だにも此の経の御かたきかくのごとし、いかにいわうや末代に法華経を一字一点もとき信ぜん人をやと説かれて候なり、此れをもつておもひ候へば仏・法華経をとかせ給いて今にいたるまでは二千二百二十余年になり候へども・いまだ法華経を仏のごとく・よみたる人は候はぬか、大難をもちてこそ・法華経しりたる人とは申すべきに、天台大師・伝教大師こそ法華経の行者とは・みへて候しかども在世のごとくの大難なし、ただ南三・北七・南都・七大寺の小難なり、いまだ国主かたきとならず・万民つるぎをにぎらず・一国悪口をはかず、滅後に法華経を信ぜん人は在世の大難よりもすぐべく候なるに・同じほどの難だにも来らず・何に況やすぐれたる大難・多難をや。
  虎うそぶけば大風ふく・竜ぎんずれば雲をこる・野兎のうそぶき驢馬のいはうるに・風ふかず雲をこる事なし、愚者が法華経をよみ賢者が義を談ずる時は国もさわかず事もをこらず、聖人出現して仏のごとく法華経を談ぜん時・一国もさわぎ在世にすぎたる大難をこるべしとみえて候、今日蓮は賢人にもあらず・まして聖人は・おもひもよらず天下第一の僻人にて候が・但経文計りにはあひて候やうなれば大難来り候へば父母のいきかへらせ給いて候よりもにくきもののことにあふよりも・うれしく候なり、愚者にて而も仏に聖人とおもはれまいらせて候はん事こそ・うれしき事にて候へ、智者たる上・二百五十戒かたくたもちて万民には諸天の帝釈をうやまふよりも・うやまはれて・釈迦仏・法華経に不思議なり提婆がごとしと・おもはれまいらせなば・人目はよきやうなれども後生はおそろし・おそろし。

現代語訳

 

 このように時が経ってきたのち、どうしたことか、法華経を説かれた。この法華経には「しかも、この経は如来の在世においてさえ怨嫉が多いのである。ましてや如来の滅度の後においては、なおさらである」とある。文の意は、私が現に存在していてさえも、この法華経の御敵はこのように怨嫉する。ましてや、末法の時代に法華経を一字一点でも説き、信じようとする人にはさらに激しい怨嫉が起こるであろう、と説かれているのである。これをもって考えると、仏が法華経を説かれてより今に至るまでは二千二百二十余年になるけれども、いまだ法華経を仏と同じように読んだ人はいないのではないか。大難にあってこそ法華経を知った人というべきであるのに、天台大師や伝教大師こそ法華経の行者と思われたけれども、釈尊在世のような大難はない。ただ南三北七の諸師から怨まれ、南都の七大寺の諸人から憎まれたといった小難である。いまだ国主は敵となっていないし、万民が剣を握って迫害したこともないし、一国の人々が悪口をはいてはいない。釈尊滅後に法華経を信ずる人は在世の大難よりもはるかに越えた大難を受けるはずであるのに、同じ程度の難さえも来ていない。ましてや在世に越えた大難や多難を受けているはずがない。
 虎がほえれば大風が吹く。竜が鳴けば雲が起こる。野兎がほえ、驢馬がいなないても、風も吹かず、雲が起こることもない。愚者が法華経を読み、賢者がその義を説く時は国も騒がず、何事も起こらない。聖人が出現して仏のように法華経を説くときは一国も騒ぎ、釈尊在世に越えた大難が起こるであろうと記されている。今、日蓮は賢人でもなく、まして聖人とは思いもよらない。天下第一のひねくれ者ではあるが、ただ経文にだけは符合しているようなので大難が起こって来たのであるから、父母が生き返られたよりも、憎い者が事故にあったよりも嬉しいことである。愚者でありながら、しかも仏に聖人と思われることこそ嬉しいことである。智者であるうえ二百五十戒を固く持って、万民には諸天が帝釈を敬うよりも敬われても、釈迦仏や法華経に「不審である。提婆達多のようだ」と思われたならば、人目はよいようであっても後生は恐ろしいことである。恐ろしいことである。

 

語釈

 

天台大師
 (0538~0597)。智者大師の別称。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。天台山に住んだのでこの名がある。中国南北朝・隋代の人で、天台宗第四祖、または第三祖と称されるが、事実上の開祖である。伝によれば、梁の武帝の大同4年(0538)、荊州に生まれ、梁末の戦乱で一族は離散した。18歳の時、果願寺の法緒のもとで出家し、20歳で具足戒を受け、律を学び、また陳の天嘉元年(0560)北地の難を避け南渡して大蘇山に仮寓していた南岳大師を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだという。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得した。これを大蘇開悟という。後世、薬王品で開悟したことから、薬王菩薩の再誕であるといわれるようになった。その後、大いに法華経の深義を照了し、のち金陵の瓦官寺に住んで大智度論、法華経等を講説した。陳の宣帝の太建7年(0575)、38歳の時に天台山に入り、仏隴峰に住んで修行したが、至徳3年(0585)詔によって再び金陵に出て、大智度論、法華経等を講ずる。禎明元年(0587)法華経を講じたが、これを章安が筆録したのが「法華文句」十巻である。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じ、天台三大部を完成する。その間、南三北七の諸師を信伏させ、天台山に帰った翌年の隋の開皇17年(0597)、60歳で没した。著書に法華三大部のほか、五小部と呼ばれる「観音玄義」「観音義疏」「金光明玄義」「金光明文句」「観経疏」がある。

伝教大師
 (0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。

南三・北七
 中国の南北朝時代に、仏教界は揚子江の南に三派・北に七派の合わせて十派に分かれていた。すなわち南三とは虚丘山の笈師・宗愛法師・道場の観法師、北七とは北地師・菩提流支・仏駄三蔵・有師(五宗)・有師(六宗)・北地禅師(二種大乗)・北地禅師(一音教)である。これらの十宗の説は、いずれも華厳第一・涅槃第二・法華第三と説き、天台大師に打ち破られた。

南都・七大寺
 奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。

虎うそぶけば大風ふく
 弥勒上生経賛巻下に「虎嘯けば風生こる」とある。

竜ぎんずれば雲をこる
 文選王子淵四子講徳篇に「虎嘯いて風寥戻、龍起こって雲気を致す」とある。

僻人
 ひねくれ者。変わり者。悪人。

二百五十戒
 「戒」とは非を防ぎ悪を止めさせるもの。小乗教で出家の持つ具足戒は、比丘に「二百五十戒」比丘尼に500戒とわかれる。「二百五十戒」は年齢20歳以上70歳以下の比丘の戒で、諸根具足し、身体清浄、過失のないもののみが持つことを許された。

諸天
 諸天善神のこと。法華経の行者を守護する神をいう。梵天・帝釈・八幡大菩薩・天照太神・四天王等の総称。諸天善神が法華経の行者を守護することは、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す」とある。

帝釈
 梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。

後生
 三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。

 

講義


 本章では、先の釈尊在世の数々の難に対し、法華経法師品の「況滅度後」の文を挙げられ、如来の滅後に法華経を説く者に対しては、釈尊在世よりもさらに大きな難が競い起こるであろうと述べられていることを示され、そのとおりに大難にあっているのは日蓮大聖人だけであると、法華経身読の喜びを仰せられている。
 滅後には釈尊の九横の大難よりも大きな難があることを、安楽行品では「一切世間に怨多くして信じ難く」といわれ、また勧持品では三類の強敵として記されている。
 ところが、仏の滅後、大聖人御出現まで二千二百二十余年の間、法華経の行者といわれる天台大師・伝教大師も、その値った難は釈尊の九横の大難にさえ、はるかに及ばない。
 天台大師の場合、南三北七の諸師から怨まれたものの、国主や一般の俗人から怨まれはしなかった。しかも、後には諸師達も天台大師の正しさを知って帰伏し、国中の人々が天台大師をあがめたのである。
 伝教大師の場合も、南都七大寺の高僧から怨嫉され、悪口をいわれたという小難にとどまっている。国主や俗人が敵になったわけではない。しかも、この高僧達も、後には、公場対決を経て、伝教大師に帰伏したのである。
 このように、天台大師・伝教大師の難は釈尊の難にさえ及ばず、まして「況滅度後」の経文とははるかに隔たっている。大聖人のみが、この「況滅度後」との法華経の予言を身読されたのである。
 その理由は、愚者が法華経を読んだり、賢者が法華経を講義するぐらいでは、一切衆生が三界六道を出でて、仏に成ることはなく、ゆえに第六天の魔王が、激しい迫害を加えることはないからである。
 しかし、聖人が出現して仏のように法華経を説けば、それによって、一切衆生がことごとく成道してしまう。そこで第六天の魔王は、その眷属とともに三界六道に下って九横の大難にも勝る留難を起こし、聖人に迫害を加え、法華経を説くのを妨げるのである。
 したがって、人々から天下第一の僻人と思われている御自身こそが、法師品の「況滅度後」の経文通りに釈尊以上の大難に値っている「聖人」であると述べられ、これを大いなる喜びとされているのである。
 「愚者にて而も仏に聖人とおもはれまいらせて候はん事」とは、日蓮大聖人が凡夫僧でありながら末法の御本仏であるということにほかならない。
 それに対し、末法の法華経の行者に敵対し、迫害を加える良観の例を挙げられ、在世の提婆達多と同じであり、堕地獄は必定であることを示されている。
 ここで「智者たる上・二百五十戒かたくたもちて……」と仰せられているのは、まぎれもなく良観である。
 良観が「万民には諸天の帝釈をうやまふよりも・うやまはれて」いたことについては、「聖愚問答抄」にも「就中極楽寺の良観上人は上一人より下万民に至るまで生身の如来と是を仰ぎ奉る」(0475-13)と記されている。
 その良観が「釈迦仏・法華経に不思議なり提婆がごとしと・おもはれまいらせ」る人物であったとは、日蓮大聖人を、あらゆる手段を使って迫害したゆえである。
 「下山御消息」には次のように仰せである。
 「爰に両火房と申す法師あり身には三衣を皮の如くはなつ事なし、一鉢は両眼をまほるが如し二百五十戒堅く持ち三千の威儀をととのへたり、世間の無智の道俗国主よりはじめて万民にいたるまで地蔵尊者の伽羅陀山より出現せるか迦葉尊者の霊山より下来するかと疑ふ、余法華経の第五の巻の勧持品を拝見したてまつれば末代に入りて法華経の大怨敵三類あるべし其の第三の強敵は此の者かと見畢んぬ」(0349-09)。
 また「頼基陳情」では、良観が法華経の行者であられる日蓮大聖人を迫害し、その御生命を、権力を動かして奪おうとしたことについて、次のように述べられている。
 「又仰せ下さるる状に云く極楽寺の長老は世尊の出世と仰ぎ奉ると。此の条難かむの次第に覚え候。其の故は、日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使、上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、五五百歳の大導師にて御座し候聖人を、頚をはねらるべき由の申状を書きて、殺罪に申し行はれ候しが、いかが候けむ、死罪を止めて佐渡の島まで遠流せられ候しは、良観上人の所行に候はずや。其の訴状は別紙に之れ有り。抑生草をだに伐るべからずと、六斎日夜の説法に給われながら、法華正法を弘むる僧を断罪に行わるべき旨申し立てらるるは、自語相違に候はずや如何。此の僧豈天魔の入れる僧に候はずや」(1157-06)。
 まさに、提婆達多が釈尊の生命を奪おうとしたのと同じように、末法の御本仏・日蓮大聖人の御生命を断とうとしたのが良観であった。ゆえに提婆達多が地獄に堕ちたと同様に、良観の堕地獄も必定なのである。
 それに対し、大聖人は、世間の人々からは、僻人であり愚者であると思われても、釈尊の予言・法華経の文を身読されているのであるから「仏に聖人とおもはれ」ていると仰せなのである。
 ここに、僻人とは、ひねくれ者、変わり者という意味であるが、日蓮大聖人は、世間一般の人々からは僻人と思われていたのであり、なかんずく幕府の人々の共通の思いでもあったのである。
 その理由を大聖人御自身、「弥源太殿御返事」で次のように述べられている。
 「抑日蓮は日本第一の僻人なり、其の故は皆人の父母よりも・たかく主君よりも大事に・おもはれ候ところの阿弥陀仏・大日如来・薬師等を御信用ある故に、三災・七難・先代にこえ天変・地夭等・昔にも・すぎたりと申す故に・結句は今生には身をほろぼし国をそこない・後生には大阿鼻地獄に堕ち給うべしと、一日・片時も・たゆむ事なく・よばわりし故に・かかる大難にあへり、譬えば夏の虫の火にとびくばりねずみが・ねこのまへに出でたるが如し、是あに我が身を知つて用心せざる畜生の如くにあらずや、身命を失ふ事・併ら心より出ずれば僻人なり」(1226-01)。
 日蓮大聖人は、すべての邪宗をさして、災難の根源であり無間地獄の因であると弾劾され、そのために迫害を受けられた。世間の人々から見れば、自ら災いを招く僻人としか映らなかったであろう。
 しかし、大聖人が邪宗を破折し大難にあわれたのは、あくまで人々を正法に目覚めさせ成仏させるためであった。凡人には僻人と映っても、法華経の鏡に照らし、釈尊の仏眼をもってすれば、大聖人こそ末法の法華経の行者であり御本仏である。つまり、大難にあわれていることが真実の聖人の証なのである。それゆえに法華経の身読による留難を喜ばれているのである。

 

 

第四章(退転者の例を挙げ教誡する)

本文

さるにては殿は法華経の行者ににさせ給へりと・うけ給はれば・もつてのほかに・人のしたしきも・うときも日蓮房を信じては・よもまどいなん・上の御気色もあしかりなんと・かたうどなるやうにて御けうくむ候なれば・賢人までも人のたばかりは・おそろしき事なれば・一定法華経すて給いなん、なかなか色みへでありせば・よかりなん、大魔のつきたる者どもは一人をけうくんしをとしつれば・それをひつかけにして多くの人をせめをとすなり。
日蓮が弟子にせう房と申し.のと房といゐ・なごえの尼なんど申せし物どもは.よくふかく・心をくびやうに・愚癡にして・而も智者となのりし・やつばらなりしかば・事のをこりし時・たよりをえて・おほくの人を・おとせしなり、殿もせめをとされさせ給うならば・するがにせうせう信ずるやうなる者も・又信ぜんと・おもふらん人人も皆法華経をすつべし、さればこの甲斐の国にも少少信ぜんと申す人人候へども・おぼろげならでは入れまいらせ候はぬにて候、なかなかしき人の信ずるやうにて・なめりて候へば人の信心をも・やぶりて候なり。
ただをかせ給へ・梵天・帝釈等の御計として日本国・一時に信ずる事あるべし、爾時我も本より信じたり信じたりと申す人こそおほくをはせずらんめとおぼえ候、 

現代語訳

ところで、殿が法華経の行者に似ていると伝え聞くと、思いのほかに親しい人も疎遠な人も「日蓮房を信じては、さぞかし苦労するであろう。主君のおぼえも悪かろう」と味方のようなふりをして教訓する。そうすると、賢人でさえも人の謀りごとは恐ろしいことなので、必ず法華経を捨てられるであろう。かえってそぶりを見せない方がよいであろう。大魔がついた者達は、一人を教訓して退転させたときは、それをきっかけにして多くの人を攻め落とすのである。
日蓮の弟子の少輔房といい、能登房といい、名越の尼などという者達は、欲深く、心は臆病で、愚癡でありながら、しかも智者であると名乗っていた連中だったので、事が起こったときには機会を得て多くの人を退転させたのである。殿も攻め落とされるならば、駿河の国で少々信じているような者も、また信じようと思っている人人も皆、法華経を捨てるであろう。それゆえ、この甲斐の国にも少々信じようという人々はいるけれども、はっきりしないうちは入信させないでいる。なまじっかな人が信心しているような格好をして、いいかげんなことをしていくときには、人の信心をも破ってしまうのである。
ただ放って置きなさい。梵天や帝釈等のおはからいとして日本国の人々が一度に信ずることがあるであろう。その時、私も本から信じていた、という人が多くいるであろうと思われる。

 

語釈

せう房
大聖人の御書には、しばしば出てくるが、少輔房という名は位による通称で、ここでいわれているのがだれか、はっきりしたことはわからない。はじめ日蓮大聖人の門下であったが、伊豆の法難の頃から退転し、ついに大聖人に敵対したらしい。「種種御振舞御書」等には、文永8年(1271)9月12日、平左衛門尉に随って、先頭に立って松葉ヶ谷の草庵を襲い、法華経の第五の巻で大聖人の面を打った少輔房のことが書かれているが、これは全く別人であろうと思われる。

のと房
三位房、少輔房等とともに、はじめ大聖人門下であったのが、のち退転し法罰をうけたと、御書にしばしば述べられているが詳しくは明らかではない。一説によれば、文応元年(1260)8月27日の松葉ヶ谷の襲撃に際し、進士太郎とともに敵とたたかって、大聖人をお護りしたとある。その後、退転したものであろう。

なごの尼
名越遠江守朝時の妻といわれ、御書中での大尼、領家の尼と同一人物とされる。日蓮大聖人のお生まれになった小湊に隣接する名越領家の大尼で、早くから大聖人に帰依したが、竜の口の法難の頃から一時、退転していた。だが文永12年(1275)頃、改悛し新尼を介して本尊の下付を願い出たが、大聖人は仏法の厳しさを教えられ下付を許されなかったことが御書にみえる。また、その後、ある人が名越の尼に会ったところ、天台法門を自讃していたので、その人が名越の尼を責めたと「王舎城事」にある。

するが
駿河国のこと。東海道15ヵ国のひとつ。現在の静岡県中央部。駿州ともいう。富士の裾野の要衝の地で、古代から農耕文化が開け、平安時代には上国となり、伊勢神宮の荘園が設けられた。鎌倉時代には北条得宗家の領地となっている。日興上人はこの地の四十九院で修学されている。身延入山後の布教の展開地でもあり、熱原法難の起こった地域でもある。

甲斐の国
甲州ともいう。山梨県のこと。

なめりて
馬鹿にしてかかる。甘く見る。

梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。

帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。

 

講義

これまで述べられたように、国中の人々が憎んでいる日蓮大聖人の門下・信徒となって信心に励む南条時光に対し、信心をやめさせようとする者がいるのは当然である。事実、親切ごかしに、信心をやめるよう教訓してきた者がいるとの報告に対して、具体的に、どのように対処すればよいのかを指示され、そうした難に立ち向かう心構えを指導されている。
魔というものは、味方をよそおって教訓し、法華経を捨てさせようとするのであるから、このような言葉にたぶらかされてはならない。さらに魔は、まず一人を説き落として退転させ、それを、とつかかりにして、次々と多くの人を退転させようとするものであることを、少輔房、能登房、名越の尼等の退転者の実例を挙げて示されている。ゆえに、時光が退転するようなことがあれば、駿河方面の人々の退転が相次ぐであろうこと、また、それゆえに大聖人は、甲斐方面では、よほど信心の決定した者でなければ入門させないでいると述べられている。それは、大聖人が、生半可な信心で増上慢に陥って他の信者を惑わす者がいることを見抜かれてのことである。
「日蓮が弟子にせう房と申し・のと房といゐ・なごえの尼なんど申せし物どもは・よくふかく・心をくびやうに・愚癡にして・而も智者となのりし・やつばらなりしかば・事のをこりし時・たよりをえて・おほくの人を・おとせしなり」との御文は、退転者の先例として、しばしば大聖人は挙げられている。
「聖人御難事」でも、次のように述べられてる。
「此れはこまごまとかき候事はかくとしどし月月日日に申して候へども、なごへの尼・せう房・のと房・三位房なんどのやうに候をくびゃう物をぼへず、よくふかくうたがい多き者どもは、ぬれるうるしに水をかけ、そらをきりたるやうに候ぞ」(1191:02)。
本抄と「聖人御難事」の御文と共通して挙げられている退転の原因は、欲深いことと、心が臆病であることである。
次に本抄では〝愚者でありながら自分では智者と名乗っている増上慢〟を挙げられ、それに対して聖人御難事では「物をぼへずうたがい多き」者を挙げておられる。「物をぼへず」と「愚癡」とはほぼ同じであるが、一方は「うたがい多き」他方は「智者となの」るという違いがある。しかし、これも結局、自分を智者と思い上がるところから、大聖人の教えを素直に信じられない「うたがい」となるのであるから同じと考えてよいであろう。いずれも、信心を求める真摯な心がなく、大聖人の仏法に疑いをはさみ、我見で解釈し、さも智者のように振る舞う慢心の行為をさしておられる。
本抄で挙げられた少輔房、能登房、名越の尼達は、いずれも欲深く臆病であり、自分の愚かさがわからず、智者と名乗っていた者であり、竜の口の法難や、伊豆流罪、佐渡流罪等の大聖人の大難に出あって、もろくも退転していった者達である。
少輔房については、法門申さるべき様の事のなかに「総じて日蓮が弟子は京にのぼりぬれば始はわすれぬやうにて後には天魔つきて物にくるうせう房がごとし」(1268:08)との御文があり、京に上って学んだと思われる。しかし、元来、欲深く臆病であったところへ、名聞名利におかされて自身を智者になったかのように錯覚したのであろう。
また「弁殿御消息」では、能登房についても、少輔房とともに、欲深きこと、臆病さを挙げられている。
「のと房はげんに身かたで候しが・世間のをそろしさと申し・よくと申し・日蓮をすつるのみならず・かたきとなり候ぬ、せう房もかくの如し」(1225:10)。
名越の尼については、新尼御前御返事には「領家は・いつわりをろかにて或時は・信じ或時はやぶる不定なりしが日蓮御勘気を蒙りし時すでに法華経をすて給いき」(0906:17)とあり、竜の口の法難、佐渡流罪の際に退転したといわれている。その後、大聖人の弟子が尼御前に出会ったところ、天台法門を自賛していたので、その弟子が彼女を責めたことが、「王舎城事」に述べられている。
「名越の事は是にこそ多くの子細どもをば聞えて候へ。ある人のゆきあひて、理具の法門自讃しけるをさむざむにせめて候けると承り候」(1137:15)。
彼女も、天台法門を自賛するなど智者ぶっていたのであろう。
さて、日蓮大聖人が少輔房等の退転者に共通の原因として挙げられていることのなかで、第一に「欲深いこと」とは、目先の利益に迷って信心を破ってしまうことをさしている。
第二に「心が臆病であること」とは、迫害の恐ろしさに信心を貫き通す勇気をなくしてしまうことを意味している。
そして第三に「物おぼえず」とは、大聖人が常に指導されていることが身につかず、他人事のように聞いてすぐ忘れてしまうのである。
また愚癡でありながら智者と名乗るのは、自らの愚かさを自覚することもできず、智者のように錯覚してしまうものである。
求道心が失われて増上慢に陥っているために、大聖人の指導を素直に真剣に聞こうとせず、疑ってかかるので「疑い多き者」となるのである。
これらのことから逆に、不退転の信心にとって何が大切であるかが明らかであろう。
第一に、目先の浅薄な利害にまどわされず、ひたすらに自身の一生成仏を大目的として信心を全うすることである。
第二に、いかなる難にも破られない勇気を奮い起こすことである。魔と戦う勇気ある信心を貫く人は、大聖人の御指導を生命に刻印し、けっして忘れることがないのである。
第三に、どこまでも求道心を燃やして、謙虚に大聖人の教えを求め、実践していくことである。
このような信心の心構えが、難にくじけず、一生成仏を成し遂げるための鍵といえよう。

ただをかせ給へ・梵天・帝釈等の御計として日本国・一時に信ずる事あるべし

日本中の人々が皆、妙法を信仰するようになる、広宣流布の時が必ず来るとの仰せである。
「諸法実相抄」の「剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(1360:10)との御文と同意である。
そして、その広宣流布の時を招来する条件として「梵天・帝釈等の御計として」といわれているのは、「撰時抄」に「釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌の大菩薩らに仰せつけ大菩薩は梵帝・日月・四天等に申しくだされ其の時天変・地夭・盛なるべし、国主等・其のいさめを用いずば鄰国にをほせつけて……前代未聞の大闘諍・一閻浮提に起るべし其の時……一切の万民・皆頭を地につけ掌を合せて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし」(0259:08)と述べられている。
広宣流布の時は必ず来るのであり、それは仏法の厳しい法理であるとの大確信の御言葉である。

 

 

第五章(信心の心構えを教え激励す)

本文

御信用あつくをはするならば・人ためにあらず我が故父の御ため・人は我がをやの後世には・かはるべからず・子なれば我こそ故をやの後世をばとぶらふべけれ、郷一郷・知るならば半郷は父のため・半郷は妻子・眷属をやしなふべし、我が命は事出できたらば上に・まいらせ候べしと・ひとへにおもひきりて何事につけても・言をやわらげて法華経の信を・うすくなさんずる・やうを・たばかる人出来せば我が信心を・こころむるかと・おぼして各各これを御けうくんあるは・うれしき事なり、ただし御身のけうくんせさせ給へ、上の御信用なき事は・これにもしりて候を上をもつて・おどさせ給うこそをかしく候へ、参りてけうくん申さんとおもひ候つるに・うわてうたれまいらせて候、閻魔王に我が身と・いとをしとおぼす御めと・子とを・ひつぱられん時は・時光に手をやすらせ給い候はんずらんと・にくげに・うちいひて・おはすべし。
にいた殿の事まことにてや候らん、をきつの事きこへて候、殿もびんぎ候はば其の義にて候べし、かまへておほきならん人申しいだしたるらんは・あはれ法華経のよきかたきよ、優曇華か盲亀の浮木かと・おぼしめして・したたかに御返事あるべし。
千丁・万丁しる人もわづかの事にたちまちに命をすて所領をめさるる人もあり、今度法華経のために命をすつる事ならば・なにはをしかるべき、薬王菩薩は身を千二百歳が間・やきつくして仏になり給い・檀王は千歳が間・身をゆかとなして今の釈迦仏といはれさせ給うぞかし、されば・ひが事をすべきにはあらず、今はすてなば・かへりて人わらはれになるべし、かたうどなるやうにて・つくりおとして、我もわらひ人にもわらはせんとするがきくわいなるに・よくよくけうくんせさせて人のおほくきかんところにて・人をけうくんせんよりも我が身をけうくんあるべしとて・かつぱとたたせ給へ、一日二日が内にこれへきこへ候べし、事おほければ申さず又又申すべし、恐恐謹言。
建治三年五月十五日                   日蓮花押
上野殿御返事

現代語訳

御信心を厚くしておられるならば「人のためではなく、自分の亡き父親のためである。他人は我が親の後世については、替わって弔うことはできない。子であればこそ、自分が亡き親の後世を弔うことができるのだ。郷を一郷治めるならば、半郷は父親のために、そして半郷は妻子や眷属を養うためであるべきである。私の命は事が起こったならば主君に差し上げよう」と偏えに覚悟して、何事に対しても言葉を和らげて、法華経の信心を薄くしようとすることを企む人が出て来たらば、私の信心を試みているのかと思って「あなた方が私を御教訓してくれるのは嬉しいことである。しかし、御自身を教訓なされるがよい。主君が御信用でないことは私も知っているのに、主君を持ち出して脅されることこそ、おかしいことである。出かけて行って教訓しようと思っていたのに先手を打たれてしまった。閻魔王に自身とかわいく思っている妻子とが引っぱられるときは、時光に手を摺りあわせられることであろう」と憎らしげに、いいおかれるがよい。
新田殿のことは本当であろうか。沖津殿のことは聞いている。殿も機会があれば、その道理を貫きなさい。心して大身の人がいってきたときには「ああ法華経のよい敵よ。優曇華の咲くのにあい盲亀の浮木あうかのような機会である」とお考えになって、したたかに御返事なされるがよい。
千町、万町を治める人でも些細なことにたちまちに命を捨て、その所領を取り上げられてしまう人もいる。このたび、法華経のために命を捨てるということならば、何が惜しいことがあろう。薬王菩薩は身体を千二百歳の間、焼き尽くして仏になられ、須頭檀王は千年の間、身を床として今の釈迦仏といわれるようになられたのである。
したがって、心得違いなことをすべきではない。今、信心を捨てたならば、かえって人に笑われることになるであろう。
味方のようなふりをして偽って退転させ、自分も嘲笑し人にも笑わせようとするけしからぬ者達に、よくよく教訓させておいて「人が多く聞いているところで人を教訓するよりも自分の身を教訓しなさい」といって勢いよく座を立たれるがよい。
一両日のうちに、こちらに報告しなさい。事が繁多なので、これ以上はまたの機会に申し上げよう。恐恐謹言。
建治三年五月十五日        日 蓮  花 押
上野殿御返事

 

語釈

閻魔王
閻魔は梵語ヤマ(Yama)の音写。炎魔・琰魔・閻魔羅とも書く。死者が迷い行く冥界の主である。一説によると、死者は五週間に閻魔法王のところに行く。王は猛悪忿怒の形相で、浄頬梨鏡に映った死者の生前の業を裁くという。

にいた殿
生没年不明。新田四郎信綱のこと。日蓮大聖人御在世当時の信徒。伊豆国仁田郡畠(静岡県田方郡函南町畑毛)に住した。本領は陸奥国登米郡(宮城県登米市)の上新田であったが、一族は多く北条家に仕え伊豆に領地を賜っていた。信綱は日目上人の兄にあたる。母の蓮阿尼は南条家の人であり、妻は南条時光の姉であった。これらの関係から信綱は日興上人および南条時光に導かれて大聖人に帰依し、信行に励んだ。日興上人身延離山後は南条時光とともに大石寺の建立、外護に活躍した。

をきつ
駿河国庵原郡(静岡県清水市興津)にあった地名と思われる。ここには、当時、日蓮大聖人の弟子の浄蓮坊等が住んでいたといわれるので浄蓮坊を指すことも考えられる。ここで「をきつの事」といわれているのが、どういう内容なのかは不明である。

おほきならん人
①大身の人。②身分の高い人。

優曇華
梵語ウドンバラ(Udumbara)の音写「優曇波羅」の略。霊瑞と訳す。①インドの想像上の植物。法華文句巻四上等に、三千年に一度開花するという希有な花で、この花が咲くと金輪王が出現し、また、金輪王が現れるときにはこの花が咲く、と説かれている。法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く」とあり、この花を譬喩として、仏の出世に値い難いことを説いている。②クワ科イチジク属の落葉喬木。ヒマラヤ地方やビルマやスリランカに分布する。③芭蕉の花の異名。④クサカゲロウの卵が草木等についたもの。

盲亀の浮木
一眼の亀が浮木の穴に入ること。法華経妙荘厳王本事品第二十七に「仏には値いたてまつることを得難きこと、優曇波羅華の如く、又た一眼の亀の浮木の孔に値えるが如し」とある。正法に巡りあい、受持することの難しさを、一眼の亀が海中の浮木にあうことの難しさに譬えたもの。きわめて稀なことの譬えに用いられる。雑阿含経巻十五等にも説かれる。「松野殿後家尼御前御返事」に詳しい。

千丁・万丁
広さをはかる単位。「丁」は通常「町」と書く。一町は3600坪であったが、豊臣秀吉により3000坪に改められている。すなわち大聖人時代の一町は11900㎡で、現在では9917.4㎡。千町は×1000㎡、万町は×10000。

薬王菩薩
法華経薬王菩薩本事品第二十三に説かれている。日月浄明徳仏の世に、一切衆生憙見菩薩といわれ、仏から法華経を聞き、現一切色身三昧を得た。そして身をもって供養しようと、身を焼いて法華経および日月浄明徳仏に供養した。そののち再び生まれて日月浄明徳仏から付嘱を受け、仏の涅槃に際しては、七万二千歳のあいだ臂を灯して供養した。

檀王
須頭檀王のこと。釈尊の過去世の因位の修行中の名。正法を求めるために王位を捨て、千歳の間、阿私仙人を師として、果を採り、水を汲み、薪を拾い、身を師の牀座とするなどして仕えた。法華経提婆達多品第十二に説かれる。

 

講義

味方のようによそおって退転を勧める、えせ教訓者に対して、どのような態度をとるべきかを具体的に教示されている。
まず〝信心は故父への回向供養のためであり、一つの郷の知行から得られる収入は、半分は故父のため仏法への供養に使い、残りの半分を妻子眷属のために使って、自身の生命は主君に捧げよう〟と腹を決めなさいといわれている。
そして、法華経の信心を退転させようとする者に対しては、自分の信心を試そうとしているのだと思って「私のことを心配して教訓してくれるのはありがたいが、それよりも自分の身のことを心配しなさい。幕府が正法に背いていて、信心している者を快からず思っているのは先刻承知で、それを引き合いに威すのはこっけいである。あなた方にはこちらから仏法を教え教訓に行こうと思っていたが、先手をとられてしまった。あなた方は正法に背いて家族もろとも地獄に堕ちた時は、きっと私に助けを求めるでしょう」と、逆に教訓すべきであると仰せである。
次に新田四郎のこと、沖津のことについては、内容は不明であるが、文脈からすれば、難に耐えて法華経の信心を貫き、迫害と戦ったと推測され、時光にも、毅然たる信心を貫くよう激励されている。
そして、薬王菩薩や檀王の例を挙げられ、不惜身命の信心こそ成仏の鍵であり、むしろ難を喜ぶべきであると教えられている。
最後に、彼らは、味方のようによそおって退転させてから、皆で嘲笑するものであるから、その本質を見抜いて相手に十分にいわせておいたうえで「大勢の人の聞いているところで人を教訓するよりも、自分の身こそ教訓しなさい」と破折して席を立てと仰せである。
本抄をしたためられた建治三年といえば、日興上人を中心に熱原方面での折伏が盛んに進められていた時で、やがて二年後に起こる熱原法難の嵐の前兆ともいうべき姿が、時光の身辺にもあらわれていたことがうかがわれる。

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