種々御振舞御書

種々御振舞御書

 建治2年(ʼ76) 55歳 (光日尼)

【背景・解説】

本抄は、竜の口の法難の直前から、2年半にわたる佐渡流罪、そして最終的な身延山への入山に至るまで、日蓮大聖人の生涯における極めて重要な時期の出来事を記した自叙伝的な記録である。この9年間にわたる闘争の中で、大聖人は法華経に説かれた「法華経の行者」に関する予言を成就し、言動と振る舞いの両面において、御自身が「末法の仏」であることを名実ともに確立されたのである。

本お手紙は建治2年(1276年)に認められたもので、大聖人の故郷である安房国(千葉県南部)に住んでいた未亡人、光日尼(こうにちあま)に送られたものである。彼女の息子は以前から大聖人の教えに帰依しており、その息子を通じて彼女自身も入信した。入信からしばらくして息子は亡くなったが、彼女はその深い悲しみを乗り越え、生涯を通して大聖人の仏法を貫く純粋な信徒であった。

一連の出来事の記録は、1268年(文永5年)、モンゴル帝国(元)が日本に対し臣従を求める使節を送ってきた時から始まる。これにより、『立正安国論』で予言された「他国侵逼難(たこくしんぴつなん)」が現実のものとなり始めたのである。大聖人は再び鎌倉幕府の当局者や諸宗の指導者たちを諌暁(かんぎょう)されたが、彼らは度重なる警告を無視し、かえって大聖人とその門下に対して迫害を加えた。この時、大聖人は弟子たちに対し、決して迫害に屈することなく、妙法弘通に一生を捧げるよう促されている。

大聖人の不屈の闘争は、幕府や他宗派からのさらなる怒りを買い、ついに「竜の口の法難」へと至った。後に大聖人は『開目抄』の中で、この命に及ぶ迫害こそが、御自身が「末法の本仏」としての正体を明かす(発迹顕本)直接の契機であったと指摘されている。続く一節で、大聖人は佐渡での生活について触れ、法華経の予言にある「数回にわたって流罪される行者」の経文を、自身こそが唯一、身読(しんどく)し成就したことへの喜びを表明されている。

1274年(文永11年)に鎌倉へ戻られた後、大聖人は三度目の国家諌暁を行われた。幕府が再びその勧告を退けたため、大聖人は鎌倉を去り、身延山の深山へ入られた。本抄はこの地で認められたものである。入山からわずか5か月後、蒙古軍が日本を襲撃した。大聖人は、その原因は国全体による「法華経への誹謗(謗法)」にあると述べられている。結びに、大聖人は身延の寂しい隠棲の地まで手紙を届けてくれた光日尼に対し、深い謝意を表されている。

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