王舎城事
文永12年(ʼ75)4月12日 54歳 四条金吾
第一章(火災の本因を説く)
本文
銭一貫五百文、給び候い畢わんぬ。
焼亡のこと委しく承り候こと、悦び入って候。大火のことは、仁王経の七難の中の第三の火難、法華経の七難の中には第一の火難なり。
夫れ、虚空をば剣にてきることなし。水をば火焼くことなし。聖人・賢人・福人・智者をば火やくことなし。例せば、月氏に王舎城と申す大城は、在家九億万家なり。七度まで大火おこりてやけほろびき。万民なげきて逃亡せんとせしに、大王なげかせ給うことかぎりなし。その時、賢人ありて云わく「七難の大火と申すことは、聖人のさり、王の福の尽くる時おこり候なり。しかるに、この大火、万民をばやくといえども、内裏には火ちかづくことなし。知んぬ、王のとがにはあらず。万民の失なり。されば、万民の家を王舎と号せば、火神、名におそれてやくべからず」と申せしかば、さるへんもとて、王舎城とぞなづけられしかば、それより火災とどまりぬ。されば、大果報の人をば大火はやかざるなり。
現代語訳
銭一貫五百文いただきました。鎌倉極楽寺の火災のことを委しく承り悦んでおります。大火のことについては仁王経には七難の中の第三、法華経では七難の中の第一にあげられている。
虚空を剣で切ることはできない。また水を火は焼くことはできない。同じように、聖人・賢人・福人・智者を火は焼くことはないのである。たとえをあげるならば、インドに王舎城という、九十万戸を擁する大城があった。この大城は、七度も大火が起こって焼け亡びた。万民が度重なる大火を嘆いて、この国から逃亡しようとした時、大王は限りなく嘆かれた。そのとき賢人があって次のようにいった。「七難の一つにあげられている大火ということは、聖人が去って国王の福運が尽きるときに起こるのである。ところが、今起きている大火は、万民の家は焼いても王宮には火は近づいてない。これは王の過失ではなく万民の過失によるものであることがわかる。したがってこれからは、万民の家を王舎と名づければ、火神はその名に恐れて焼くことはできないであろう」と。王はそのようなこともあるかもしれないと思い、王舎城と名づけてみると、それ以来、火災は止んだ。この例でもわかるように、大果報の人を大火は焼かないのである。
語釈
仁王経の七難
仏説仁王般若波羅蜜経受持品には、日月失度難、衆星変改難、諸火梵焼難、時節返逆難、大風数起難、天地亢陽難、四方賊来難の七難があげられている。この中で第三の諸火梵焼難については次のように述べられている。「大火国を焼き万姓焼尽せん、或いは鬼火・竜火・天火・山神火・人火・樹木火・賊火あらん是くの如く変怪するを三の難と為すなり」と。またこの中で鬼火・竜火・山神火・樹木火などは、自然現象によって起こるもの、人火、賊火は人間の故意または過失によって起こるものと考えられる。戦争による火難なども、人火、賊火にあたるといえる。
法華経の七難
法華経で説く七種の難。観世音菩薩普門品第二十五にある、火難、水難、羅刹難、王難、鬼難、枷鎖難、怨賊難の七種である。
聖人
世間、出世間ともに通ずる語で、智慧が広大無辺で徳の勝れた人をいう。仏法上では、仏法を悟り究めた人、仏のことをいう。「妙密上人御消息」(1240:04)には「賢人と申すは・よき師より伝へたる人・聖人と申すは師無くして我と覚れる人なり」とある。
賢人
賢明で高い人格をもった指導者。聖人が独創的な開拓者であるのに対し、賢人はそれをひきついでいく人を指す。仏法の上では聖人である仏の教えを守り、弘めていく人が賢人といえる。
福人
過去に善根を積んだことによって、福徳・福運に満ちた人。
智者
物事の道理をわきまえた智慧ある者。諸宗の祖師をいう場合もある。
月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
講義
この書は建治元年(1275)4月、四条金吾が身延の日蓮大聖人に鎌倉の極楽寺および御所の焼失を報告したのに対する御返事である。
この御消息文の執筆年次について、ここには建治元年(1275)乙亥卯月12日としてある。この書の古写本である朝師本には年次の記載がないので推量するしかないが、建治2年(1276)とする説もある。
建治元年(1275)4月12日だとすると、両火という点、御所炎上という事実から考えて、極楽寺炎上の折り、その火が御所に飛火したことになる。
極楽寺炎上については、堂舎が焼け亡びたというだけでどれだけの規模で焼けたかわからないが、極楽寺は文応元年(1260)までに四十九院が建立されている。全焼というなら史料綜覧などに記載されているはずである。しかし、このことに関しては、いまのところ鎌倉市史の寺社編しか見当らないところをみると、それほど大規模に焼けたようには思われない。したがって極楽寺の火が御所に飛火したとは考えられないのである。
次に建治2年(1276)説についてであるが、鎌倉御所が焼けた事件は、建治2年(1276)1月20日と同年12月15日である。両火ということからこの建治2年(1276)1月20日の御所炎上と前年の極楽寺炎上をかけて大聖人はおっしゃったのではないかと思われるが、いずれにしても推論の域をでない。
大果報の人をば大火はやかざるなり
法華文句には王舎城の例を引いて、民衆の福徳薄きゆえに火災にあうと説かれている。また須達長者の話には、貪欲が強いから火災に見舞われるとある。仏法では、人間の受ける苦悩の根本原因を、人間自身の中に見出しているのである。火災という、現実社会にあって人間に苦悩をもたらす現象も、結局はそれを受ける人間の福徳と無関係ではないというのが仏法の見方である。あるいは、原因において、個人の行動と直接関係のない事柄、たとえば火災や風水害等は、現象のうえでの因果関係は認められても、それらの被害を受ける人にその原因を求めることはできないというかも知れない。たしかに現象面の因果関係を見るならば、そういうことになり、個々人の受ける被害は、起きた現象によってもたらされた結果にすぎない。しかし、このように苦悩の原因を環境側に求めていくならば、人間の幸・不幸は偶然によって支配されることになる。
仏法では、さまざまな幸・不幸を感じていく人間自身に焦点をあてて、生命の因果関係を追究している。そしてめぐりあう一切の幸・不幸は、本質的には、自身の生命の因果のあらわれであることを明らかにしているのである。
この背景には、人間と社会・自然との関係や、生命の因果の体系についての膨大な哲学があるが、それらの解説は他にゆずり、ここでは、仏法の捉え方を示すのみにとどめておく。
第二章(両火房について述べる)
本文
これは国王已にやけぬ知んぬ日本国の果報のつくるしるしなり、然に此の国は大謗法の僧等が強盛にいのりをなして日蓮を降伏せんとする故に弥弥わざはひ来るにや、其の上名と申す事は体を顕し候に両火房と申す謗法の聖人・鎌倉中の上下の師なり、一火は身に留りて極楽寺焼て地獄寺となりぬ、又一火は鎌倉にはなちて御所やけ候ぬ、又一火は現世の国をやきぬる上に日本国の師弟ともに無間地獄に堕ちて阿鼻の炎にもえ候べき先表なり、愚癡の法師等が智慧ある者の申す事を用い候はぬは是体に候なり、不便不便、先先御文まいらせ候しなり。
現代語訳
ところが今度の大火では王の御所が焼けた。これは日本国の果報が尽きる前兆である。国の福運が尽きようとしているのに、日本国においては大謗法の僧等が日蓮を降伏させようと強盛に祈るが故に、ますます災いが起こるのであろう。そのうえ、名というものは本体を顕わすものであるが、両火房という謗法の聖人が鎌倉中の上下万民の師である。両火のうち一火は自身に留って極楽寺が焼けて地獄寺となった。また一火は鎌倉に飛んで御所を焼いた。また別の見方をすれば、一火は現世の国を焼くうえに、未来には日本国の師弟ともに無間地獄に堕ちて、阿鼻の炎にもえる先表である。愚癡の法師たちが智慧のある者の言を用いない結果は、このようなありさまである。まことに不便なことである。このことについては先先お手紙を差し上げてあります。
語釈
両火房
極楽寺良観(1217~1303)を揶揄していわれたもの。良観は房名で、正しくは忍性。鎌倉時代の真言律宗の僧。極楽寺を創設した北条重時の子・業時に招かれて開山になった。
良観は土木事業を盛んに行なう一方、悲田院という病院を建てて病人などの救済にあたった。だがその財源は、幕府に取り入って確保した利権にあった。すなわち和賀江島の関米徴収権や、鎌倉七口での木戸銭徴収権である。表では慈善事業を行ない聖者の顔をし、裏では民衆を苦しめていたのである。
「極楽寺良観への御状」(0174:04)に「良観聖人の住処を法華経に説て云く『或は阿練若に有り納衣にして空閑に在り』と、阿練若は無事と翻ず争か日蓮を讒奏するの条住処と相違せり併ながら三学に似たる矯賊の聖人なり、僣聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり」とある。
すなわち良観は、法華経勧持品第十三に予言された三類の強敵中の第三、僭聖増上慢であり、仏のような姿で世人を幻惑し、内心には怨嫉をもち仏法を破壊しようとする、第六天の魔王の働きそのものである。
無間地獄
八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
先表
前兆・事の起こるしるし。
愚癡の法師
仏法の道理を理解できない僧侶。
講義
当時、鎌倉の上下から生き仏のように敬われていた極楽寺良観を徹底的に揶揄しながら破折されている。
良観は世智にたけた僧で、鎌倉幕府の要人たちにとりいり、一方では慈善事業などを行なって民衆の尊敬をあつめたのであった。
しかし、その法は律と念仏を混合したような邪法で、内心には邪悪な念いが強く、正法をもって立たれた日蓮大聖人をことごとに迫害した陰の張本人であった。
つねに権力者と結託してこれをけしかけ、自身は、その陰にかくれて、大聖人から公場での対論を申しこまれても、出てくることはなかった。あくまでも卑劣で、陰険なやり方で、わが身の安泰を図ったのである。
又一火は現世の国をやきぬる上に、日本国の師弟ともに無間地獄に堕ちて、阿鼻の炎にもえ候べき先表なり
仏法の誤りは、現実の生活の乱れとして現われるだけでなく、未来のその人の生命活動をも根本的に狂わせていくことを示された御文である。外にあらわれた現象は、内なる生命の状態の表象である。
「日本国の師弟ともに無間地獄に堕ちて云云」とは、一応来世の苦しみを述べたところである。しかし来世の姿は、そのまま、現世のなかに、さまざまな姿を現じている。生命の奥深くにあるものがそのまま、来世に続いていくからである。
何を信ずるかによって、その信仰は、自身の生命の本質を形成し、方向づける。その生命の本質は、そのまま生命活動の上に表出していくのである。ゆえに大聖人は現実の姿の中から、鋭く生命の本質を洞察され、未来を警告されているのである。また厳しく謗法を訶責されたのも、その故であることを知らなければならない。
第三章(馬の事を話される)
本文
御馬のがいて候へば又ともびきしてくり毛なる馬をこそまうけて候へ、あはれ・あはれ見せまいらせ候はばや、
現代語訳
ところで馬を野飼いしておいたら、友引として栗毛の馬を儲けました。ぜひぜひあなたにお見せしたいものである。
語釈
ともびき
友達を連れてくること。
講義
四条金吾が差し上げた馬を野飼いしておいたところ、その馬が友引きをして、栗毛の馬を儲けた、見事な馬であるから、ぜひ見せたいという、人間味あふれる大聖人の心情を綴られた一節である。
第四章(名越尼について述べる)
本文
名越の事は是にこそ多くの子細どもをば聞えて候へ、ある人の・ゆきあひて理具の法門自讃しけるを・さむざむにせめて候けると承り候。
現代語訳
名越の尼のことについてはこちらでも多くの子細を聞いている。ある人が尼にたまたま出会って、天台の理具の法門を自讃しているのを、散々に責めたと聞きました。
語釈
名越の事
名越の尼のことと思われる。名越遠江守朝時の妻で、始め日蓮大聖人に帰依したが、竜口の法難以後退転した。「上野殿御返事」に「日蓮が弟子にせう房と申し・のと房といゐ・なごえの尼なんど申せし物どもは・よくふかく・心をくびゃうに・愚癡にして・而も智者となのりし・やつばらなりしかば・事のをこりし時・たよりをえて・おほくの人を・おとせしなり」(1539:10)とある。これによれば所領屋敷を没収されることを恐れて、信仰を捨てたばかりか、大聖人門下の多くを誘って退転させたようである。
理具の法門
法理を具すことで、理を表にした法門のこと。
講義
名越尼のことについての一文である。尼は多少とも天台の法門に心得があったのであろうか。理具の法門を自讃していたところを大聖人の弟子から散々に破折されたようである。
大尼の自讃した理具の法門とは、天台宗で立てる理の一念三千の法門である。理の一念三千とは、仏法の生命論の哲学的体系である。日蓮大聖人は、これをさらに掘り下げて、その発動を起こしていく、生命自体の力を見極められた。そして、それを南無妙法蓮華経とあらわされたのである。これを天台の哲学的、理論的体系である〝理の一念三千〟に対して〝事の一念三千〟とよぶ。生命の事実の力そのものをあらわしているからである。
日蓮大聖人は、この天台の一念三千と大聖人の仏法との違いを、次のように述べられている。「像法の中末に観音・薬王・南岳・天台等と示現し出現して、迹門を以て面と為し、本門を以て裏と為して、百界千如・一念三千、其の義を尽せり。但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊、未だ広く之を行ぜず。所詮円機有って円時無き故なり」(0253:11)と。また「我が弟子等の中にも天台伝教の解了の理観を出でず。本迹に就て一往勝劣再往一致の謬義を存して自他を迷惑せしめんの条宿習の然らしむる所か(中略)若し道心有らん者は彼等の邪師を捨てて宜しく予が正義に随うべし、正義とは本迹勝劣の深秘・具騰本種の実理なり」(0873:本因妙抄:08)と。大聖人の仏法は、観念の理論体系の中に終わるのではなく、あくまでも、不動の哲理の上に立って、いかに現実の生命活動の中に、生命哲学によって見出された根源の力を湧現させるかに主眼があるのである。この大聖人の仏法の本義を忘れてはならない。
第五章(夫人の信心を説く)
本文
又女房の御いのりの事法華経をば疑ひまいらせ候はねども御信心やよはくわたらせ給はんずらん、如法に信じたる様なる人人も実にはさもなき事とも是にて見て候、それにも知しめされて候、まして女人の御心・風をば・つなぐとも・とりがたし、御いのりの叶い候はざらんは弓のつよくしてつるよはく・太刀つるぎにて・つかう人の臆病なるやうにて候べし、あへて法華経の御とがにては候べからず、よくよく念仏と持斎とを我もすて人をも力のあらん程はせかせ給へ、譬へば左衛門殿の人ににくまるるがごとしとこまごまと御物語り候へ、いかに法華経を御信用ありとも法華経のかたきを・とわりほどには・よもおぼさじとなり、
現代語訳
また女房のお祈りの事は、法華経を疑ってはいないが、ご信心が弱くていらっしゃるのであろう。法の如くに信じているように見える人たちでも、実際はそれほどでもないと私は見ている。貴殿もそのことはご存知であろう。まして女の人の心は、たとえ空を吹く風をつかまえることはできたとしても、それ以上に捉えにくいものである。日眼女の祈りが叶わないというのは、ちょうど弓が強いのに弦が弱く、太刀や剣があっても使う人が臆病であるようなものである。決して法華経の失によるものではない。よくよく念仏と律宗とを自身も捨て、力のあるかぎり他人をも念仏や律宗から離れさせてあげなさい。例えば左衛門殿が人に憎まれながらもその信仰を持っているように実践していきなさいと、こまごまと話してあげなさい。いかに法華経を信じているとはいっても、法華経に敵対するものに対して、とわりほどには憎く思われていないだろうと思います。
語釈
念仏
念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
持斎
斎とは戒法の一つで、一般には八斎戒を持つことを持斎という。八斎戒とは一に不殺、二に不盗、三に不淫、四に不妄語、五に不飲酒、六に不座高大牀、七に不作倡妓楽、八に不過中食で、この八斎戒は釈迦仏法における小乗の戒法であり、末法の修行には必要ない。しかし律宗等においてはこの戒法を持って、無智な大衆の間に広まった。ここでは戒律を持つことを強調した極楽寺良観の真言律宗をさす。
左衛門殿
(~1300)日蓮大聖人御在世の信徒。四条中務三郎左衛門尉頼基のこと。四条は姓、祖先は藤原鎌足で、18代目隆季のころから四条を名乗った。中務は父の頼昌が中務少丞に任じられていたことから称する。三郎は通称。左衛門尉は護衛の役所である衛門府の左衛門という官職と、律令制四等官の第三位である尉という位をいう。左衛門尉の唐名を金吾校尉というので金吾と通称された。頼基は名。北条氏の一族、江間家に仕えた。武術に優れ、医術にも通達していた。妻は日限女。子に月満御前、経王午前がいる。池上宗仲・宗長兄弟や工藤吉隆らと前後して康元元年(1256)27歳のころに大聖人に帰依したといわれる。それ以来、大聖人の外護に努め、文永8年(1271)9月12日竜の口法難の際には、殉死の覚悟でお供をした。文永9年(1272)2月には佐渡流罪中の日蓮大聖人から人本尊開顕の書である開目抄を与えられた。頼基はたびたび大聖人のもとへ御供養の品々をお送りし、文永9年(1272)5月には佐渡まで大聖人をお訪ねしている。大聖人御入滅の際にも最後まで看病に当たり、御葬送の列にも連なって池上兄弟とともに幡を奉持した。大聖人滅後は、所領の甲斐国内船(山梨県南巨摩郡南部町)へ隠居し、正安2年(1300)3月15日、71歳で死去。
とわり
一人の男性をめぐって対立する相手の女性。先妻に対する後妻や、正妻からみた遊女等の意。
講義
女性の特質を見事にとらえ、簡明に表現されている。それは「風をばつなぐともとりがたし」といわれているように、縁にふれて動きやすい、ということである。またそれが、繊細で鋭敏な女性の長所ともなるのであるが、いつも周囲の縁によって動かされる受け身の行き方では、強い信心の持続はできないことになってしまう。まず、御本尊への強い信心に立ち、それだけは微動もしないという姿勢を確立することが大切である。
この強い信心の確立のため、また大乗仏法の本義からいって、大事なことは、念仏等の謗法を排し、人々にもこの不幸の根源の邪法を捨てさせる、挑戦の心がまえと実践である。不幸の元凶に対する戦いの姿勢がなければ、知らず識らずのうちに、それは心を軟弱化させ、邪法に同化してしまうものである。また、自分のことだけしか考えない行き方も、自己を狭い殻にとじこめ、生き生きしたものをなくしてしまう。化他の精神こそ、大乗仏法の根本であり、そのように開かれた目的観と実践をつらぬいていくとき、心はおのずから強く鍛えられ、活力をたたえていくのである。
御いのりの叶い候はざらんは、弓のつよくしてつるよはく、太刀つるぎにてつかう人の臆病なるやうにて候べし。あへて法華経の御とがにては候べからず
妙法の絶対性と強い信仰の大切さを述べられた御文である。仏法では不変の生命の法を追究している。妙法とは、生命の法の中でも最も根源的な一切を包含したものである。仏法の修行、仏法の祈りは、この妙法への帰命によって、自身の力にある妙法を発動せしめていくことにある。
したがって、仏法の修行において、最も大切なことは、帰命する〝妙法〟であり、同時に帰命する力、すなわち信仰の力である。どれほど優れた法であっても、信仰の力が弱ければ、その法の顕現はない。また逆に、信仰の力がどれほど強くても、法自身が力弱き法であれば、信仰のかいがない。「あへて法華経の御とがにては候べからず」とは、大聖人の確立された御本尊への絶対の確信を述べた御文である。その上にたって、日眼女の信仰のあり方を指導されたのがこの御文である。
仏法の信仰は、他者への依存ではなく、自身の開発であることを銘記すべきであろう。
第六章(真実の孝養の道を示す)
本文
一切の事は父母にそむき国王にしたがはざれば不孝の者にして天のせめをかうふる、ただし法華経のかたきに・なりぬれば父母・国主の事をも用ひざるが孝養ともなり国の恩を報ずるにて候。
されば日蓮は此の経文を見候しかば父母手をすりてせいせしかども師にて候し人かんだうせしかども・鎌倉殿の御勘気を二度まで・かほり・すでに頸となりしかども・ついにをそれずして候へば、今は日本国の人人も道理かと申すへんもあるやらん、日本国に国主・父母・師匠の申す事を用いずしてついに天のたすけをかほる人は日蓮より外は出しがたくや候はんずらん、是より後も御覧あれ日蓮をそしる法師原が日本国を祈らば弥弥国亡ぶべし、結句せめの重からん時・上一人より下万民まで・もとどりをわかつやつことなりほぞをくうためしあるべし、後生はさてをきぬ今生に法華経の敵となりし人をば梵天・帝釈・日月・四天・罰し給いて皆人に・みこりさせ給へと申しつけて候、日蓮・法華経の行者にてあるなしは是れにて御覧あるべし、
現代語訳
一切のことについて、父母に背き、国王に従わなければ、不孝不忠の者として天の責めを受けなければならない。ただし父母・主君が法華経の敵になった場合には、父母や国主の言葉を用いないことが孝養ともなり、国の恩を報ずることにもなるのである。
故に日蓮は法華経の経文を見てからは、父母が手を合わせて止めたけれども、師匠であった人が勘当したけれども、また、鎌倉殿のご勘気を二度までも蒙り、すでに頸の座にもついたけれども、少しも恐れず信仰を貫いたので、いまでは日本国の人々も日蓮のいうことが道理かもしれないという人もあることであろう。日本国で国主・父母・師匠のいうことを用いないで、ついに天の助けを受けた人の例は日蓮よりほかに出すことはできないであろう。これから後も見ていなさい。日蓮を謗る法師等が日本国の安泰を祈るなら、いよいよ国は亡ぶであろう。結局、重い責めにあった時には上一人より下万民にいたるまで、弁髪の蒙古の奴隷となって臍をかむ時がくるであろう。
後生のことはさておいて、今生に法華経の敵となった人を罰して皆の人の見せしめにするようにと梵天、帝釈、日月、四天等に申しつけてある。日蓮が法華経の行者であるか否かはこの一事をもってごらんなさい。
語釈
鎌倉殿
鎌倉幕府・将軍のこと。
御勘気を二度
勘気とは臣下が君父から咎めを受けること。この場合は伊豆と佐渡の二度にわたる日蓮大聖人の流難をさす。一度は弘長元年(1261)5月12日の伊豆の伊東への流罪、二度目は文永8年(1271)9月12日竜の口の法難ならびに佐渡への流罪。
法師原
僧侶たちということ。
ほぞをくう
「臍を噛む」ということで、腹のヘソを噛むことなどはとても及ばないことから、返らぬことを悔やむ、後悔するという意。
梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
日月
日天子、月天子のこと。また宝光天子、名月天子ともいい、普光天子を含めて、三光天子といい、ともに四天下を遍く照らす。
四天
四天王、四大天王の略。帝釈の外将で、欲界六天の第一の主である。その住所は、須弥山の中腹の由犍陀羅山の四峰にあり、四洲の守護神として、おのおの一天下を守っている。東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天である。これら四天王も、陀羅尼品において、法華経の行者を守護することを誓っている。
講義
父母に従い、国主に従うということは、世間の倫理・道徳の分野である。父母に従うことは、人間としての情緒や生き方を受け継いでいくことである。国主に従うとは世間の法に従うことであり、社会人としての生き方を受け継いでいくことである。これら、父母からの伝承、社会からの伝承なくしては、人間としての全き生命を形づくることは不可能であるといえるだろう。また、それを通して人間社会の中に参画していくのである。これらの倫理は、時代がどのように変わろうと、人間が人間らしく生きていくための不変の原理である。
しかし、日蓮大聖人は、さらに人間性の奥深くに関わってくるものが仏法であることを示されているのである。人間の存在自体を支え、規定していく力は、倫理・道徳でとらえられた世界のはるか深いところに横たわっている。この最も根源の法を説き顕わしたのが妙法である。この根本において誤ってしまえば、どれほど倫理・道徳の世界において正しく生きようとも、不幸の輪廻を免れない。ゆえに、何よりも第一義にすべきは、妙法への信仰の確立なのである。
「日本国に国主・父母・師匠の申す事を用いずして、ついに天のたすけをかほる人は日蓮より外は出しがたくや候はんずらん」の御文は、大聖人が一切を打ち捨てて、建立し、護持しぬいた妙法が、正しかったことの宣言である。むしろ、それが唯一の正法であり、一切に超越した法であることを強く主張された御文である。
第七章(御本仏の大慈悲を示す)
本文
かう申せば国主等は此の法師のをどすと思へるか、あへてにくみては申さず大慈大悲の力・無間地獄の大苦を今生にけさしめんとなり、章安大師云く「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」等云云、かう申すは国主の父母・一切衆生の師匠なり、事事多く候へども留候ぬ、又麦の白米一だはじかみ送り給び候い畢んぬ。
建治元年乙亥卯月十二日 日 蓮 花 押
四条金吾殿御返事
現代語訳
このようにいえば国主等は日蓮が威すと思うであろうか。日蓮は憎んでいうのではない。大慈大悲の力で、未来に受けるであろう無間地獄の大苦を今世において消させたいためなのである。章安大師は「彼の為に悪を除くものは彼の親である」と。このように国主ならびに一切衆生の悪を責める日蓮は、国主の父母であり、一切衆生の師匠である。ほかにも、申し上げたいことは多くあるが、ここで筆を留める。また、つき麦一駄、しょうがを頂戴しました。
建治元年乙亥卯月十二日 日 蓮 花 押
四条金吾殿御返事
語釈
章安大師
(0561~0632)。中国天台宗第四祖。天台大師の弟子で、師の論釈をことごとく聴取し、結集したといわれる。諱は灌頂。中国の浙江省臨海県章安の人で、七歳で摂静寺に入り、25歳で天台大師に謁して後、常随給仕して所説の法門をことごとく領解した。その聴受ののち編纂した天台三大部をはじめ、大小部合わせて百余巻がある。師が亡くなってから「涅槃玄義」二巻、「涅槃経疏」二十巻を著わす。その名声は高く、三論の嘉祥は章安の「義記」を借覧して天台に帰伏したという。唐の貞観6年(0632)8月7日、天台山国清寺で72歳で寂し、弟子智威に法灯を伝えた。
彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり
章安大師の涅槃経疏に「仏法を壊乱するは仏法中の怨なり。慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり。能く糾治せんは是れ護法の声聞、真の我が弟子なり。彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」とある。すなわち、謗法の衆生に対し、苦を抜き、楽を与えることは、最高の慈悲の行為であるということ。
一だ
馬一匹に背負わせる荷物の重量をいう。およそ米二俵が通例とされていた。
はじかみ
生姜の別称。生薑、薑、生姜などと書く。歯蹙の義、辛味が強く、歯に疼く意であるという。
乙亥
干支の組み合わせの12番目で、前は甲戌、次は丙子である。陰陽五行では、十干の乙は陰の木、十二支の亥は陰の水で、相生(水生木)である。
講義
あへてにくみては申さず。大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生にけさしめんとなり
日蓮大聖人が厳しく現象をもって謗法を責めるのも、ひとえに民衆を覚醒させんがためである。生命の法理の究極に到達された日蓮大聖人の眼からすれば、人々の苦しみが、ただ自然・社会の変動による一時的なものではなく、宗教の誤りに起因する生命の本質的な乱れのあらわれであり、生命の変革のない限り、未来永劫に繰り返されることが明らかであった。しかしそれをいいだすならば、一国あげての誹謗と迫害にあうことは明らかであった。それにも拘らず、大聖人が強盛に一国の謗法を責められたのは、正しく大慈大悲の力による以外の何ものでもない。「かう申すは国主の父母、一切衆生の師匠なり」とのおおせが、単なる理論の上からでてきたものではなく、大聖人の御一生を通じての実践の上に発せられたものであることを、よくよく思索しなければならないであろう。