新尼御前御返事(2012:08月号大白より 先生の講義)
万人の「幸福の大道」開く「信心の御本尊」
8月を迎えると、私は、今も、わが故郷である東京・大田区の座談会で、初めて恩師・戸田城聖先生にお会いした日を懐かしく思い出します。
1947年(昭和22年)の8月14日、私はまだ、19歳の青年でした。終戦記念日の前日、民衆を苦悩のどん底に陥れた、あの戦争が終わって、ちょうど2年が過ぎようとしていました。敗戦後の混乱の中、私は結核を病み、間近に死の影を感じながら、人生の目的は何か、正しい人生はあるのかと、深く悩み抜いていました。
その時、戸田先生は、初対面の若い私にまるで旧知のように接し、広布の大理想に生き抜く人生を教えてくださいました。この師を信じて8月24日、私は入信したのです。
広宣流布とは、一言でいえば、自らの人間革命を原動力として自他共の幸福を確立し、世界の平和を築いていくことです。
では、どうすれば、私たち一人一人が、もれなく幸福になり、人類の平和の大理想に向かって正しく進んでいけるのか。
日蓮大聖人は、乱世に生きる私たちが、一人ももれなく、自身に内在する、仏と等しい生命を開き、絶対の幸福境涯を確立するための方途として、御本尊をあらわし、末法の全民衆に与えてくださいました。
正しい信心があれば、誰が唱えても広大な功力を湧現させ、必ず幸福になることは間違いない。このことは、仏法の法理に照らして明確であります。この御本尊の偉大な力を戸田先生はよく、“もったいないことだが”と前置きされながら、分かりやすい表現として「幸福製造機」に譬えられていました。
私たちは仏法の最高哲学を実践
戸田先生は明快に指導されています。
「この御本尊は、仏法の最高理論を“機械化”したものと理解してよろしい。たとえば、電気の理論によって、電灯ができたと同じと考えてよろしい。仏教の最高哲学を“機械化”した御本尊は、何に役立つかといえば、人類を幸福にする手段である。
されば日蓮大聖人の最高哲学の実践行動は、この御本尊を信じて、南無妙法蓮華経と唱えるにあって、この実践行動によって、人生は幸福になりうるのである。
この御本尊は「信心の御本尊」です。受持した我らの信力・行力によって、仏力・法力があらわれ、一人一人が自らの可能性と使命に目覚め、人生の勝利を築いていくのです。そこに真の世界の平和実現の基盤もあります。ゆえに戸田先生は、この御本尊を流布することを、民衆の幸福拡大の指標とされたのです。
今回は「新尼御前御返事」を拝して、広宣流布に生き抜く「信心の御本尊」根本の人生を学んでいきましょう。
本文
新尼御前御返事 文永十二年二月 五十四歳御作
あまのり一ふくろ送り給び畢んぬ、 又大尼御前よりあまのり畏こまり入つて候、此の所をば身延の嶽と申す駿河の国は南にあたりたり 彼の国の浮島がはらの海ぎはより 此の甲斐の国・波木井の郷・身延の嶺へは百余里に及ぶ、余の道・千里よりもわづらはし、 富士河と申す日本第一のはやき河・北より南へ流れたり、此の河は東西は高山なり谷深く左右は大石にして 高き屏風を立て並べたるがごとくなり、 河の水は筒の中に強兵が矢を射出したるがごとし、 此の河の左右の岸をつたい或は河を渡り或時は河はやく 石多ければ舟破れて微塵となる、かかる所をすぎゆきて身延の嶺と申す大山あり、 東は天子の嶺・南は鷹取りの嶺・西は七面の嶺・北は身延の嶺なり、高き屏風を四ついたてたるがごとし、 峯に上つて・みれば草木森森たり谷に下つてたづぬれば大石連連たり、大狼の音・山に充満し マ猴のなき谷にひびき鹿のつまをこうる音あはれしく 蝉のひびきかまびすし、春の花は夏にさき秋の菓は冬になる、 たまたま見るものは・やまかつがたき木をひろうすがた時時とぶらう人は昔なれし同朋なり、 彼の商山の四皓が世を脱れし心ち 竹林の七賢が跡を隠せし山もかくやありけむ、 峯に上つて・わかめやをいたると見候へば・さにてはなくして・わらびのみ並び立ちたり、 谷に下つてあまのりや・をいたると尋ぬれば、あやまりてや・みるらん・せりのみしげり・ふしたり、古郷の事はるかに思いわすれて候いつるに・今此のあまのりを見候いてよしなき心をもひいでて・うくつらし、 かたうみいちかはこみなとの磯の・ほとりにて昔見しあまのりなり、色形あぢわひもかはらず、など我が父母かはらせ給いけんと・かたちがへなる・うらめしさ・なみだをさへがたし。
現代語訳
あまのりを一袋お送りいただいた。また、大尼御前からのあまのりもかたじけなく思う。
この所は身延の嶽という。駿河の国は南にあたっている。その国の浮島が原の海際から、この甲斐の国・波木井の郷・身延の山までは百余里であるが、他の道の千里よりもわずらわしい。富士河という日本第一の流れの早い川が北から南へ流れている。この川は東西は高山で、谷が深く、川の左右は大石で、高き屏風を立て並べたようになっている。川の水は筒の中に強い兵が矢を射出したように早い。
この河の左右の岸をつたい、あるいは川を渡ると、ある時には川の流れが早く、岩が多いために舟がこわれて微塵となってしまう。このようなところを過ぎて行くと身延の岳という大山がある。東は天子の嶺・南は鷹取りの嶺・西は七面の嶺・北は身延の嶺である。高い屏風を四つ衝い立てたようである。峯に登って見れば草木が森々と茂っており、谷に下ってみれば大石が連々としている。狼の声が山に充満し、猿のなき声は谷に響き、鹿がメスを恋い鳴く声はあわれをもよおし、蝉の鳴く声は騒がしい。春の花は夏に咲き、秋の菓は冬に実る。たまに見るものはやまかつが薪を拾う姿で、時々訪ねて来る人といえば昔から親しい同朋ぐらいである。中国の商山の四皓が世をのがれた心地や、竹林の七賢が姿を隠した山の様子も、このようだろうと思われる。
嶺に登ってわかめが生えているかと見れば、そうではなく、わらびだけが一面に生え並んでいる。谷に下ってあまのりが生えているか、と見てみれば、そうではなくて芹だけが茂り伏している。このような故郷の事は久しく思い忘れていたところへ、今、このありさまを見てさまざまなことが思い出されて悲しく、辛いことではある。片海・市川・小湊のほとりで、昔見たあまのりである。色や形や味も変わらないのに、どうして我が父母は変わられてしまったのであろうかと、方向違いのうらめしさに涙を押えることができない。
講義
安房の門下から甘海苔が届く
文永12年(1275)2月、身延の地に海の幸「甘海苔」が届けられました。故郷の安房の国在住の女性門下、新尼御前からの御供養でした。春早くに、まだ冷たい海で採れたばかりの、潮の香り漂う甘海苔だったのではないでしょうか。
この新尼御前の便りとともに、大尼御前という女性からも、甘海苔の御供養が届いていました。新尼・大尼という呼称から、二人は嫁と姑の関係と考えられます。
大聖人は、大尼御前に対しては「畏こまり入って候」と少々改まった言葉遣いをされています。本抄の後段に「領家」とあることから「領家の尼」とよばれている女性と同一人物と思われます。「日蓮が重恩の人」(0906:18)「日蓮が父母等に恩をかほらせたる人」(0895:03)とのお言葉と考え合わせると、大尼御前は、安房の国長狭郡に領地を持ち、おそらく、大聖人のご両親にとって何らかの恩義があった人物と推察されます。
故郷の懐かしき思いを語る
前年文永11年(1274)5月、大聖人は身延に入山されました。以来9ヵ月、この間の御消息に、身延での暮らしぶりなどは、特に記されていません。懐かしき安房の人たちへ、海浜の風土と全く異なる山中のご様子が綴られています。
「筒の中に強兵が矢を射出したるがごとし」と譬られている富士川の急流「高き屏風を四ついたてたるがごとし」と形容されている峻厳な四方の山々、あたりに響くのは狼や猿、鹿、そしてセミの声、たまに人影を見かければ木こりが薪を拾う姿であり、時々、訪ねてくるのは、昔から親しい同朋ぐらいである。峰に上がった時に、どうしてワカメがここに、と目を凝らせばそれはワラビであり、谷に下って、甘海苔かと思えばセリが水際に茂り伏している。
そこへ届いた甘海苔から、懐かしい故郷への連想が広がります。大聖人は、文永年間の初めに安房国に戻られ、病床のお母様を見舞われて、更賜寿命を祈られるなど、故郷に重要な足跡を残されます。しかし、その後は大難の嵐の激動のなかで、一度も故郷に帰られることはありませんでした。
故郷の甘海苔は、かつて味わった時と変わらないのに、すでに父も母も世を去ってしまった。涙を耐えがたい。そうしたお言葉からは、御自身が育んだ父母の恩、故郷への愛惜が滲むようです。
この故郷を思う大聖人の御心情は、誰人にも深く胸に染み入るのではないでしょうか。
なお、海苔の歴史を研究するうえでも、御書の記述は重要な文書とされています。次元は異なりますが、私の実家は、東京・大森の海で海苔養殖・製造を営んでいましたので、私も、海苔の香りは生まれ故郷の故郷や父母の思い出と重なります。
本文
此れは・さて・とどめ候いぬ、但大尼御前の御本尊の御事おほせつかはされて・おもひわづらひて候、其の故は此の御本尊は天竺より漢土へ渡り候いし・あまたの三蔵・漢土より月氏へ入り候いし人人の中にもしるしをかせ給はず、
現代語訳
それはさておく。ところで大尼御前の御本尊の御事をおおせつかわされて日蓮も思い悩んでいる。そのわけは、この御本尊はインドから中国へ渡った多くの三蔵、また中国からインドの地に入った人々のなかにも書き残されていない。
講義
前代に未曾有の曼荼羅
新尼御前がいつごろ、妙法の信仰を始めたかは不明ですが、大聖人の佐渡流罪中も、身延入山後も純粋な信心を貫き、たびたび御供養をお届けしていました。その強盛な信心に対して、大聖人は既に新尼御前に御本尊を授与されていたか、あるいは、このたびの御返事とともに受与されたと拝察されます。
一方、大尼からも「御本尊の御事」つまり「自分も御本尊を頂きたい」との要望が添えられていました。これについて大聖人は、「おもひわづらひて候」と綴られています。実は後段で、結論として大尼御前には授与できない旨を伝えられているのですが、その理由を説明するにあたって、大聖人は、御本尊の甚深の意義を明かされています。
まず最初に、御自身があらわされた南無妙法蓮華経の御本尊は、インドから中国、日本へと伝来した長い歴史の中で、全く前代未聞の御本尊であったことを明かされています。例証として、諸国の寺々の本尊は、その由来などさまざまな記録が残されているが、大聖人があらわされた御本尊についてはどこにも見当たらないことが挙げられています。
「此の大曼陀羅は仏滅後・二千二百二十余年の間・一閻浮提の内には未だひろまらせ給はず」(1305:妙法曼陀羅供養事:04)とも仰せの如く、正法・像法時代には未曾有の御本尊なのです。
続けて大聖人は、この御本尊について、本当は「経文は眼前なり」と文証のうえからも明瞭である。ただし、これまでは「機」がなく、「時」が至っていなかったために、誰人もあらわさなかったと示されています。この論拠として、次の段で、この御本尊は、釈尊一代の説法のなかで法華経寿量品に説きあらわされていること、そして、それを、滅後悪世のために神力品で上行菩薩に託されたことを明かされていきます。
本文
今此の御本尊は教主釈尊・五百塵点劫より心中にをさめさせ給いて世に出現せさせ給いても四十余年・其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品・属累に事極りて候いしが、金色世界の文殊師利・兜史多天宮の弥勒菩薩・補陀落山の観世音・日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士・我も我もと望み給いしかども叶はず、是等は智慧いみじく才学ある人人とは・ひびけども・いまだ法華経を学する日あさし学も始なり、末代の大難忍びがたかるべし、我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり・此れにゆづるべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出させ給いて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給いて、あなかしこ・あなかしこ・我が滅度の後・正法一千年・像法一千年に弘通すべからず、末法の始に謗法の法師一閻浮提に充満して諸天いかりをなし彗星は一天にわたらせ大地は大波のごとくをどらむ、大旱魃・大火.大水・大風.大疫病・大飢饉.大兵乱等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人人.各各・甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給わざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕ること雨のごとく・しげからん時・此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば諸王は国を扶け万民は難をのがれん、乃至後生の大火炎を脱るべしと仏・記しをかせ給いぬ、而るに日蓮・上行菩薩には・あらねども・ほぼ兼てこれをしれるは彼の菩薩の御計らいかと存じて此の二十余年が間此れを申す、
現代語訳
今、この御本尊は、教主釈尊が五百塵点劫の昔より心中におさめられ、世に出現せれても四十余年の間は説かれず、法華経の中でも迹門では説かれず、宝塔品より事が起こり、寿量品で説き顕し、神力品・属累品で事が終ったのである。そこで金色世界の文殊師利、兜史多天宮の弥勒菩薩、補陀落山の観世音菩薩、日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の多くの菩薩が我も我もとこの御本尊を弘めることを望んだけれどもかなえられなかった。仏は、これ等の菩薩は智慧もすぐれ、才学ある人々と名高いが、いまだ法華経を学んで日も浅く、学も浅識で、末代の大難を忍ぶことはむずかしいであろう。自分には、五百塵点劫より大地の底にかくし置いた真の弟子がある。これに譲ろうといって湧出品で上行菩薩等を召し出されて、法華経の本門の肝心である妙法蓮華経の五字を譲られて「この御本尊は我が滅後、正法一千年・像法一千年に弘通してはならない。末法の始めに、謗法の法師が一閻浮提に充満し、諸天が怒って彗星が天に現れ、大地は大波のようにおどり動くだろう。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の数々の大災難が一時に起こり、一閻浮提の人々が、おのおのの甲冑をつけ、弓や杖を手にするであろう時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばない時、諸人は皆、死んで無間地獄に堕ちる者の雨の降るように多い時、この五字の大曼荼羅を身に持ち、心に信ずれば、諸王はその国を助け、万民は災難をのがれ、また後生の大火炎をのがれることができるだろう」と仏は記しおかれたのである。
さて日蓮は上行菩薩ではないけれども、以前からほぼこの事を知ることができたのは、上行菩薩の御計らいかと思って、この二十余年の間、このことを語ってきた。
講義
釈尊の真意は法華経の虚空会に
日蓮大聖人があらわされた「此の御本尊」とは、釈尊が五百塵点劫に成道して以来、心中に所持していた御本尊にほかならないと明かされています。そして、そのことは、法華経の虚空会の儀式として、厳然と説きしめされていると仰せです。
そこで、この虚空会の意義をあらためて確認しておきましょう。
法華経宝搭品第11では、突然、巨大にして荘厳な宝搭が空中に出現します。釈尊は、三世十方の分身の仏を呼び寄せ、その搭中に住する多宝如来と並び座すると、それまで霊鷲山にいた衆生を空中に引き上げて虚空会の儀式が始まるのです。
そこで釈尊は開口一番、わが滅後に、この娑婆世界で法華経を弘通する弟子はいないかと呼びかけます。師匠の願いに応えて、滅後悪世の広宣流布の戦いに立ち上がる真実の弟子は誰なのか、この誓願の弟子に、永遠なる仏の生命そのものである妙法を託す。それが虚空会の最大のテーマです。
この師弟継承の大儀式は、宝搭品の遠序として始まり、寿量品第16で釈尊の久遠の生命が明かされます。そして神力品第21と嘱累品第22に至って、久遠の仏が覚知し、所持している法のすべてが後継の弟子に付託されて、虚空会は幕を閉じるのです。まさに「宝搭品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品・属累に事極まりて候いし」と仰せの通りです。この経文によって、大聖人があらわされた御本尊が仏法の正統であることは明瞭なのです。
上行菩薩に妙法五字を付嘱
さて、滅後の弘通を考えるにあたって、一番の焦点は、仏滅後の娑婆世界とは五濁悪世だということです。そこで正法を弘めれば大難が競い起こることは間違いない。本抄では、文殊師利菩薩・弥勒菩薩・観世音菩薩・薬王菩薩など錚々たる菩薩たちであっても、彼らが望んでいるにもかかわらず、釈尊は悪世の弘通を譲らなかったと仰せです。
その理由を、大聖人は「まだ法華経を学び始めて日が浅い」「末代の大難に耐えられない」と述べられています。
では、いったい誰が、釈尊の真実の後継者として、末法の娑婆世界で大難を忍び、広宣流布をするのでしょうか?
「我五百塵点劫より大地の底にかくしきたる真の弟子あり」 この釈尊の全幅の信頼に応える者として、大地の底から呼び出されたのが上行菩薩ら地涌の菩薩です。
地涌の菩薩は「我は久遠従り来、是れ等の衆を教化せり」と説かれているように、釈尊が遥か久遠より指導育成してきた、最も縁深い本化の弟子です。誰よりも師匠と同じく、末法流布への思いを共有した弟子であり、誰よりも師匠の訓練を受け切った弟子であるともいえます。
地涌の菩薩について「能く能く心をきたはせ給うにや」(1186:四条金吾殿御返事:07)と言われているのも、一番困難な末法広宣流布を担い立つには、鍛え抜いた心をもっていなければならないからでしょう。
そして釈尊が、上行菩薩から末法弘通のために譲られた法こそ、「法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字」なのです。
この趣旨は、「観心本尊抄」にも「地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う」(0250:10)と示された通りです。
「久遠の仏」が所持する大法は、十界互具の生命を明かし、永遠に万人を等しく成仏させゆく妙法です。その妙法の御本尊を、仏に代わって悪世末法に弘通する大使命を担うのが、三世永遠の師弟の絆で結ばれた「久遠の弟子」なのです。
苦悩にあえぐ悪世の民衆の中へ
それでは、「末法の始」の時とは、いかなる様相を呈しているのか。
御文では、正法誹謗の悪僧らが社会に充満し、やがては天変地異をはじめ、旱魃、疫病、飢饉、戦争などが起こり、民衆が塗炭の苦しみに苛まれる時代が示されています。
この苦悩に喘ぐ民衆の中に飛び込み、平和と幸福を実現するために戦いを起こすのが地涌の菩薩です。その師弟誓願の「法華弘通のはたじるし」(1243:日女御前御返事:08)こそ御本尊です。
本抄では仏の願いとして「此の五字の大曼荼羅を身に対して心に存せば」と仰せです。すなわち、御本尊を色心共に信受して離れることなく、守り抜いていくことが勧まられています。
仏から見て、苦難を避けることのできない闘諍の時代を、どう救うのか。地上から悲惨と不幸をなくす方途とは何か、それは、乱世に生きる民衆の一人一人を強く賢くするしかない。いかなる苦難をも打ち返す仏界の生命力を触発するしかありません。
そこで、生命根源の力を直ちにあらわすために、御本尊が必要となるのです。本抄では、一人一人が御本尊を信受する実践の中に「現世安穏・後生善処」の大功徳があることを約束されています。濁悪のこの世に生きる民衆のための御本尊であることを明確に仰せなのです。
そして、大聖人は悪世末法を救う大仏法を弘通したがゆえに「三類の強敵」と戦い、その大難を忍び、勝ち越えて、御本尊をあらわされました。いかなる大難をも撥ね返し、法華経を弘通する姿、それこそが、大聖人が末法流布の使命を自覚された上行菩薩でることの証明となるのです。
本文
日蓮は一閻浮提の内・日本国・安房の国・東条の郡に始めて此の正法を弘通し始めたり、随つて地頭敵となる彼の者すでに半分ほろびて今半分あり、領家は・いつわりをろかにて或時は・信じ或時はやぶる不定なりしが日蓮御勘気を蒙りし時すでに法華経をすて給いき、日蓮先よりけさんのついでごとに難信難解と申せしはこれなり、
現代語訳
日蓮は一閻浮提の内、日本国安房の国東条の郡で、この正法を弘通し始めた。これに対して地頭が敵となったが、彼等はすでに半分亡びて半分を残すだけである。領家の大尼は偽りおろかで、あるときは信じ、あるときは破る、というように定まらなかったが、日蓮が御勘気を蒙った時に法華経を捨ててしまわれた。日蓮が前からお目にかかるごとに「法華経は信じ難く解し難し」と話してきたのはこのことである。
講義
峻厳なる信心の姿勢を示される
大聖人は、この一節の前に、「安房の国・東条の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし」と仰せです。一閻浮題のなかでも、ほかならぬ、日本の安房国・東条郷から、正法弘通の戦いを開始されました。
この正義の法戦ゆえに、「猶多怨嫉・況滅度後」等の方程式の通り、この地の「地頭」である東条景信が敵対し、さまざまな迫害を加えてきました。大聖人の立宗宣言後の反発も、文永元年(1264)の小松原の法難もそうです。
また、景信は、大尼御前の領内で傍若無人に振る舞い、二つの寺を奪って自分の支配下に置こうとしました。そうした横暴な事件に際して、大聖人が領家の側に立って味方され、景信の野望を打ち砕かれたことも御書に記されています。
小松原の法難の直後、景信自身は急死したとも言われています。攻防戦はなお続きますが、本抄にあるが如く、仏罰は厳然であり、今や敵の勢力は半減するに至ったようです。
ともあれ、法華経の行者にとって、迫害の苦難は、最高の誉れであり、正義の証しであるはずです。ところが大尼御前は、この信心の真髄がわからなかった。
「いつわりをろか」であるとは、世間的、表面的な風評や体裁に紛動され、何が真実で何が正義かを見極めることができないことといえるでしょう。いい時は信じる様子を見せるが、何かあるとすぐに不信にとらわれる。
大聖人が、竜の口法難・佐渡流罪という大難に遭われた時には、大尼御前は法華経を捨ててしまった。以前から、面会するたびに、法華経は「難信難解」である。大難が起こるゆえに信心を貫くのは難しいと誡められてきたにもかかわらずです。
したがって、この大尼御前の信仰の心根を、大聖人は心配されているのです。
もし、お世話になったからという恩情で、信心のない人に御本尊を授与すれば、正しい法義を曲げることになり「法」中心でない「偏頗な法師」になってしまいます。
ところが、信心がわからない大尼御前は、反対に「なぜ私は頂けないのか」と恨むであろう。大尼御前の心の動きを、手に取るように見通されながら、弟子を介して伝えようと、こまやかな配慮を巡らされています。
本文
御事にをいては御一味なるやうなれども御信心は色あらわれて候、さどの国と申し此の国と申し度度の御志ありてたゆむ・けしきは・みへさせ給はねば御本尊は・わたしまいらせて候なり、それも終には・いかんがと・をそれ思う事薄冰をふみ太刀に向うがごとし、
現代語訳
新尼御前は大尼御前と御一緒のようであるが、法華経への信心は形にあらわれておられる。佐渡の国までの御心つくしといい、この身延の国までといい、度々の厚い志で信心がたゆむ様子は見えないので、御本尊をしたためてさしあげたのである。しかし、この先はどうであろうかと思うと、薄い氷をふみ、太刀に向かうようである。
講義
信心を貫き通した新尼を賞讃
一方、新尼御前は、大尼御前と「御一味」万事、一緒のように見えるけれども、信心の姿勢は違っていました。
「心こそ大切なれ」(1192:心こそ大切なれ:14)です。人の一念はまことに微妙であり、ある意味でタッチの差ほどの違いですが、大きな人生の分かれ目となる場合もあります。
大聖人は、たとえ家族であっても、決して一律に捉えられていません。一人一人の顔が違うように、一人一人の異なる心をみつめて指導されています。その一人一人の胸中に、いかにして御本尊への強盛な信心を打ち立てるか。この一点をないがしろにして、真の「人間のための宗教」はありません。
では大聖人にとって、新尼御前と大尼御前に対して、御本尊授与を決める信心の境目とは、一体、いずこにあられたのでしょうか。
まず、前提として「末法広宣流布のための御本尊」ということを確認しておきたい。
本抄では、大聖人御自身の悪世に難を忍び妙法を弘通する使命に立ち上がって、20数年の間、戦ってきたと語られています。私は、この意義を深く拝したいと思います。すなわち、諸仏の願いは末法広宣流布です。悪世にあって、妙法五字の御本尊を「身に帯し心に存」して戦う勇者が出現しなければ、悪世を変革することはできません。
大聖人は、上行菩薩として先駆するお姿を満天下に示されました。自他共の幸福を実現する菩薩行の振る舞いを通して、一人の人間が宇宙大の尊極な生命を顕現し得ることを証明されたのです。そして大聖人は、この永遠の無限大の御自身の生命を一幅の曼荼羅としてあらわされました。私たちは、この御本尊を信受することで、自身の胸中にある宇宙大の生命を開き、あらわすことができます。
「一人」からまた「一人」へ。この人間の内なる可能性を開く実践がひろがることが「広宣流布」です。それを実現するための御本尊です。まさに「人間のための御本尊」であり、「広宣流布のための御本尊」なのです。
「師弟共戦」こそ仏法実践の最重要
ゆえに、この御本尊を拝するにあたって、大聖人と戦うお姿を素直に信じることが肝要となります。共に戦い、広宣流布に連なる決意がなければ、わが胸中に尊極な仏の生命は力強く湧現していません。日蓮仏法の信仰とは、広宣流布に戦う師匠との共戦です。
大聖人は、新尼御前の信心に“大聖人と共に”という心があることを感じとられた。それゆえに、大聖人が竜の口の法難・佐渡流罪という大難に遭われる中にあっても、また、この身延にあっても、新尼御前の信心は変わらなかったことを強調されているのです。まさしく、「度度の御志」を明言される如く、新尼御前が、大聖人を求め、御供養を届け、支え申し上げる信心を貫き通したのです。
言い換えれば、大難を受けながら民衆のために戦う大聖人のお姿に、新尼御前は人間として素直に触れて、そこに深い感謝と感動があり、共戦の決意が湧き出ていた。その信心に立つことで、自身の胸中の肉団におわします御本尊が湧出してくるのです。この共戦の拡大、すなわち地涌の広がりがあってこそ、末法の広宣流布は現実のものとのとなります。
今日で言えば、常に仏意仏勅の学会と共に戦うという師弟共戦の信心です。そのための「広宣流布の御本尊」です。
信心があれば、御本尊の絶対の功力は無限です。いついかなる時も、私たちが絶対の幸福境涯を開きゆく力を湧き立たせることができます。それゆえに、大事なのは不退転です。大聖人は新尼御前に対して、生涯、広宣流布に戦う信心を確立してほしいがゆえに、「それも終には・いかんがと・をそれ思う事薄氷をふみ太刀に向うがごとし」と厳しく仰せられていると拝されます。
門下の一人一人が、最後まで信心を貫き通して真の幸福と安穏を確立してほしい。この大聖人の願いは、本抄の最後でも示されています。竜の口の法難の直後、門下への大弾圧が続いた時、鎌倉では「1000人のうち999人が退転した」が、時が移って後悔している様子を綴られ、何があっても信心を全うするよう、深い厳愛を注がれています。
「人は変われどもわれは変わらじ」
現代にあっては、大聖人直結の「師弟共戦」の信心は、創価学会の中にしかありません。牧口先生・戸田先生が教えてくださったのです。私も、ひたぶるに実践してきました。
入信以来、私は、師匠と共に、広宣流布の人生を生き抜く覚悟を貫き通してきました。
恩師の事行が危機に瀕するなか、多くの弟子たちの心が揺れ動き、師を裏切り、師から離れていった時もありました。しかし、私は戸田先生が自分の師匠だ、広宣流布の師匠だと一心不乱に戦い抜きました。
そのころ、私はこう詠んで、戸田先生におとどけしました。
「古の、奇しき縁に、仕えしを、人は変われど、われは変わらじ」
私たち創価学会の師弟の絆は、この苦悩の充満した娑婆世界で、広宣流布の大ロマンに生き抜く誓願にあります。
悩める友に、苦しむこの友にと、勇気と慈悲の対話で「信心の御本尊」を流布してきたのが、創価の民衆のスクラムです。
日本中、世界中のあの地この地で、妙法の御本尊を信受して、わが地涌の同志は、宿命の嵐を乗り越え、自他共の幸福と勝利の旗を高らかに掲げて前進していきます。
創価学会には、地涌の自覚と誇りがあります。民衆勝利の凱歌を、末法の全ての人に享受させたい。この地涌の使命に立ち上ったのが、わが誉れの学会員です。まさに真の仏弟子であり、尊い仏の使いです。
「時にあい、時にめぐりあって、その時にかなうということは、生まれてきたかいのあるものであります」と、恩師は教えてくださいました。
今、「大法弘通慈折広宣流布の」の旗が林立する時代が到来しました。この潮流は、もはや誰人も止めることはできません。
壮大なる人間勝利の大行進を、いよいよ足取り軽く威風堂々と広げ、わが「地涌と尊き使命」を果たし抜いていこうではありませんか。
私と共に!
同志と共に!
故郷にて恩師と値いて
65年の佳節に
我が共戦の友と拝す