八幡宮造営事 第二章(八幡造営の件について教示する)

八幡宮造営事 第二章(八幡造営の件について教示する)

 弘安4年(ʼ81)5月26日 60歳 池上宗仲・池上宗長

さては八幡宮の御造営につきて一定ざむそうや有らんずらむと疑いまいらせ候なり、をやと云ひ我が身と申し二代が間きみに・めしつかはれ奉りてあくまで御恩のみなり、設一事相違すとも・なむのあらみかあるべき、わがみ賢人ならば設上より・つかまつるべきよし仰せ下さるるとも一往はなに事につけても辞退すべき事ぞかし、幸に讒臣等がことを左右によせば悦んでこそあるべきに望まるる事一の失なり、此れはさてをきぬ五戒を先生に持ちて今生に人身を得たり、されば云うに甲斐なき者なれども国主等謂なく失にあつれば守護の天いかりをなし給う況や命をうばわるる事は天の放ち給うなり、いわうや日本国・四十五億八万九千六百五十九人の男女をば四十五億八万九千六百五十九の天まほり給うらん、然るに他国よりせめ来る大難は脱るべしとも見え候はぬは、四十五億八万九千六百五十九人の人人の天にも捨てられ給う上・六欲・四禅・梵釈・日月・四天等にも放たれまいらせ給うにこそ候いぬれ、然るに日本国の国主等・八幡大菩薩をあがめ奉りなばなに事のあるべきと思はるるが、八幡は又自力叶いがたければ宝殿を焼きてかくれさせ給うか、然るに自の大科をば・かへりみず宝殿を造りてまほらせまいらせむと・おもへり。

  日本国の四十五億八万九千六百五十九人の一切衆生が釈迦・多宝・十方分身の諸仏地涌と娑婆と他方との諸大士十方世界の梵釈日月四天に捨てられまひらせん分斉の事ならばはづかなる日本国の小神天照太神・八幡大菩薩の力及び給うべしや、其の時八幡宮は・つくりたりとも此の国他国にやぶらればくぼきところにちりたまりひききところに水あつまると、日本国の上一人より下万民にいたるまでさたせむ事は兼て又知れり、八幡大菩薩は本地は阿弥陀ほとけにまします、衛門の大夫は念仏無間地獄と申す阿弥陀仏をば火に入れ水に入れ其の堂をやきはらひ念仏者のくびを切れと申す者なり、かかる者の弟子檀那と成りて候が八幡宮を造りて候へども八幡大菩薩用いさせ給はぬゆへに此の国はせめらるるなりと申さむ時はいかがすべき、然るに天かねて此の事をしろしめすゆへに御造営の大ばんしやうを・はづされたるにやあるらむ、神宮寺の事のはづるるも天の御計いか。

現代語訳

さて、八幡宮の御造営の事については、必ず、あなた方を讒奏する者があるであろうと心配しておりました。あなた方の親といい、あなた方自身といい、親子二代にわたって主君(鎌倉幕府)につかえられていることであり、あくまでも、御恩を受けている身であります。

たとえ、一つぐらい自分の希望にそぐわないことがあっても、どうして主君をいい加減に思ってよいことがありましょうか。自分が賢人であるならば、たとえ主君より八幡宮造営の工事を仰せつけられても、一往はなにごとにつけても辞退すべきでありましょう。幸いなことに、讒臣たちが、あなた方のことを、いろいろな事をいって排斥するならば、喜ぶのが当然であるはずであるのに、自分から八幡宮造営の工事を望まれることは、一つの誤りです。

このことはさておいて、不殺生戒などの五戒を過去世で持って修行した果報として、今世に人間として生まれることができたのです。したがって、たとえとるに足らない無益な者であっても、国主等が、理由なく罪にすれは、守護の諸天善神は怒られるのです。まして命を奪われるということは諸天善神がその人を見放されたことになるのです。

いわんや日本の四十五億八万九千六百五十九人の男女は四十五億八万九千六百五十九の諸天善神が守護されているのです。そうであるのに、他国(蒙古国)より攻めよせてくる大難をまぬがれるとも思えないのは、四十五億八万九千六百五十九人の人々が、諸天にも、捨てられたうえ、六欲天、四禅天、梵天、帝釈天、日天、月天、四天王等にも見放されてしまったからこそでありましょう。そうであるのに、日本国の国主(鎌倉幕府)等は八幡大菩薩をあがめ奉れば、なに事もなくてすむと思っておられるが、八幡大菩薩は、自分の力では、到底この日本を守ることができないので、きっと宝殿を焼いてかくれてしまわれたのでありましょう。しかるに、日本国の国主等は自らの正法誹謗の重い科を顧みないで、八幡大菩薩の宝殿を造り、八幡大菩薩に日本国を守っていただこうと思っているのです。

日本国の四十五億八万九千六百五十九人の一切衆生が、釈迦・多宝・十方世界の分身の諸仏や、地涌の菩薩や、娑婆世界と他方の世界の諸菩薩や、十方世界の梵天・帝釈、日天・月天、四天王に捨てられてしまうほどのことであるならば、どうしてわずかな日本国の小神たる天照大神や八幡大菩薩の力が及ぶことがありましょうか。

このような時、あなた方が八幡宮を造ったとしても、この日本国が他国にやぶられるならば、くぼんでいる処に塵がたまり、低い処に水が集まるように、日本国の上下万民がさまざまに悪口をいい、噂をするであろうことは、かねてからまた知っています。

世間の人々が「八幡大菩薩の本地は、阿弥陀仏である。右衛門大夫(池上宗仲)は、念仏を無間地獄に堕ちるといい、阿弥陀仏をば火に入れ水に入れ、その堂を焼き払い、念仏者の首を斬れという者(日蓮大聖人)の、弟子檀那となっている。そのような者が、八幡宮を造ったとしても、八幡大菩薩が用いようとされないゆえに、この日本の国は他国に攻められるのである」といったときは、どのようにするつもりなのですか。しかるに、天はかねてこの事を知っておられたがゆえに、あなたを御造営の大番匠からはずされたのではないでしょうか。また八幡宮の境内にある神宮寺の造営の工事からはずされたのも天の御計いでありましょうか。

語句の解説

講義

池上兄弟の父である池上左衛門大夫康光は鎌倉幕府の作事奉行をしていた。作事奉行というのは造営、修膳、土木などの工事を監督する職名で、康光が弘安2年(1279)に亡くなってからは、宗仲・宗長兄弟がその任に当たっていた。弘安3年(12801028日と1114日の二度にわたって、鶴岡八幡宮が炎上したので、その復旧工事が行なわれることになり、兄弟が担当することになっていたのが、讒言によって役目をはずされてしまったのである。それを不満に思う兄弟に対して懇切丁寧な指導をされている。指導の骨子は、最初に世間のことによせて、何事につけても、一旦は、辞退すべきことであるから、そうなったのはむしろ喜ぶべきことだといわれている。そして仏法上においては、八幡宮の炎上は、日本国が謗法の罪によって諸天善神に捨てられた姿であるから、根本の謗法を改めずに造営しても意味がないこと、また蒙古が攻めてきたときに、世間の人達が、大聖人の弟子である池上兄弟が建てたから諸天善神が用いず、難を受けるのだと非難するに違いない、天がそれを知っていて、造営をはずされたのだから、むしろ喜ぶべきだといわれているのである。

 

神天上の法門

 

仏法が乱れ、正法が衰えて、諸天善神が法味に飢えて守護の本土を見捨て、天界の本地へ去ってしまう。そのあと神社・仏閣には悪鬼魔神が乱入し、その故に災難が起こるというのが神天上の法門である。このことは、大聖人が立正安国論で述べられている。

「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼()来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず」(0017:12

このことは、どのようなことを意味しているのだろうか。法華経安楽行品第十四には「諸天は昼夜に、常に法の為めの故に、而も之れを衛護し」とある。すなわち、神とは正法を持つ者を守護する働きこれ自体をいうのである。しかして、精霊・霊魂のような、非科学的な擬人化されたものでもなければ、観念的なものでもない。われわれの生命に備わった働きをいうのである。治病大小権実違目にいわく「法華宗の心は一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(0997:07)と。一念三千の生命のなかに諸天善神も第六天の魔王等の悪鬼も備わっているのである。

正法に背き、悪法に帰すということは、広くいえば、宇宙のリズムに逆らうことである。一国謗法とは、したがって一国全体が妙法を中心とした宇宙のリズムに逆らっていることになる。そのような時は生命のなかに備わっている諸天善神の生命は湧現するはずがない。これ「善神は国を捨てて相去り」等の意である。さらに、不幸をもたらす働きのみが湧現することになる。これは「魔来り鬼来り」のことといえよう。宇宙のリズムに逆らう故に災難が起こるのは、けだし当然といえよう。したがって、神天上の法門といえども、仏法の道理を示していることが明らかである。

大聖人は、この神天上の法門によって、三災七難のうち、まだ起こっていない一災二難、すなわち兵革災、自界叛逆難・他国侵逼難が起こることを予言されたのである。自界叛逆難は文永九年、北条時輔の反乱によって事実となり、他国侵逼難は、文永11年(127410月の元寇、さらに本抄にも「他国よりせめ来る大難は脱るべしとも見え候はぬ」とあるように、本抄御執筆の5日前、21日から再度の元寇が起こって、事実となったのであった。

 

天照大神・八幡大菩薩について

 

天照大神はイザナギのみことの第一の御子であり、日本民族の祖先神とされる。八幡大菩薩は八幡宮の祭神・応神天皇をいう。共に日本を守る神としてあがめられてきたが、仏法上においては、妙法を持つ者を守護する神をいうのである。

したがって、天照大神を、一往は日本を守護する神のように説かれている御文もあるが、それも本抄のように、梵天・帝釈が全世界の民衆を守護していく神であるのに対して「はづかなる日本国の小神天照大神・八幡大菩薩」といわれている。

しかも再往は両神とも本地は釈尊である。日眼女造立釈迦仏供養事にいわく「天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり」(1187:05)と。また一代五時継図にいわく「天照大神の託宣に云く往昔勤修して仏道を成じ求願円満遍照尊・閻浮に在っては王位を護り衆生を度せんが為に天照神」(0690:11)と。

したがって、日本民族の祖先や応神天皇によせて天照大神・八幡大菩薩を論じられているが、全て本地は釈尊であって、正法を護持する者に対して、釈尊が垂迹の姿で善神となって現われ、守護するのである。故に、日本一国に留まるものではないことがわかるであろう。まして梵天・帝釈・日月・四天となれば一閻浮提の衆生を救うことが明らかである。

なお、これら諸天善神は、あくまでも妙法を持つ者を守護するのが本来の姿であって、拝む対象では決してない。大聖人の仏法を持つわれわれが諸天善神を拝めば主客転倒になってしまうのである。すなわち、天照大神・八幡大菩薩と名前は同じであっても、一般にいうそれと、大聖人の仏法におけるそれとでは、天地の差異があることを知らなければならない。

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