十八円満抄 第一章(十八円満法門の出処名目を挙ぐ)

    日蓮これを記す。
 問うて云わく、十八円満の法門の出処、いかん。
 答えて云わく、源、蓮の一字より起こるなり。
 問うて云わく、このこと所釈にこれを見たりや。
 答えて云わく、伝教大師の修禅寺相伝日記にこれ在り。この法門は当世天台宗の奥義なり。秘すべし、秘すべし。
 問うて云わく、十八円満の名目、いかん。
 答えて云わく、一に理性円満、二に修行円満、三に化用円満、四に果海円満、五に相即円満、六に諸教円満、七に一念円満、八に事理円満、九に功徳円満、十に諸位円満、十一に種子円満、十二に権実円満、十三に諸相円満、十四に俗諦円満、十五に内外円満、十六に観心円満、十七に寂照円満、十八に不思議円満已上。

 

現代語訳

問うて言う。十八円満の法門はどこから出ているのか。

答えて言う。その源は「蓮」の一字から起こったのである。

問うて言う。この法門を釈で見たことがあるのか。

答えて言う。伝教大師の「修禅寺相伝日記」のなかにある。この法門は現在の天台宗の奥義である。秘すべきことである。秘すべきことである。

問うて言う。十八円満の名称とはどのようなものか。

答えて言う。一に理性円満・二に修行円満・三に化用円満・四に果海円満・五に相即円満・六に諸教円満・七に一念円満・八に事理円満・九に功徳円満・十に諸位円満・十一に種子円満・十二に権実円満・十三に諸相円満・十四に俗諦円満・十五に内外円満・十六に観心円満・十七に寂照円満・十八に不思議円満、以上である。

語句の解説

十八円満

十八種の円満をいう。この言葉は伝教大師の修禅寺相伝日記に出てくる。このなかの「法華深義」の中で、妙法蓮華経の一字一字に名・体・宗・用・教の五重玄があるとし、その「蓮」の一次に「名玄義」に十八円満の徳があるとしている。名称は、一に理性円満・二に修行円満・三に化用円満・四に果海円満・五に相即円満・六に諸教円満・七に一念円満・八に事理円満・九に功徳円満・十に諸位円満・十一に種子円満・十二に権実円満・十三に諸相円満・十四に俗諦円満・十五に内外円満・十六に観心円満・十七に寂照円満・十八に不思議円満である。

 

所釈

経や論を論師や人師が解釈したもの。

 

伝教大師

767年あるいは766年~822年。最澄のこと。伝教大師は没後に贈られた称号。平安初期の僧で、日本天台宗の開祖。比叡山(後の延暦寺、滋賀県大津市)を拠点として修行し、その後、唐に渡り天台教学と密教を学ぶ。帰国後、法華経を根本とする天台宗を開創し、法華経の一仏乗の思想を宣揚した。晩年は大乗戒壇の設立を目指して諸宗から反発にあうが、没後7日目に下りた勅許により実現した。主著に『守護国界章』『顕戒論』『法華秀句』など。

【桓武天皇らの帰依】伝教大師は生涯にわたり、桓武天皇、その第1皇子・平城天皇、第2皇子・嵯峨天皇の帰依を受けた。天台教学の興隆を望む桓武天皇の意向を受け、唐に渡り天台教学を究め、帰国後の延暦25年(0806)、伝教の「天台法華宗」が国家的に公認された。これをもって日本天台宗の開創とされる。大乗戒壇設立の許可が下りたのは、嵯峨天皇の時代である。

【得一との論争】法華経では、仏が教えを声聞・縁覚・菩薩の三乗に区別して説いたことは、衆生を導くための方便であり、一仏乗である法華経こそが、衆生を成仏させる真実の教えであると説いている。これを一乗真実三乗方便という。よって天台宗では、一仏乗を実践すればすべての衆生が成仏できるという立場に立つ。伝教大師は生涯、この一乗思想の宣揚に努めた。これに対し法相宗は、この一乗の教えがむしろ方便であり、三乗の区別を説くことこそが真実であるとした。これは三乗真実一乗方便といわれる。すなわち、五性各別の説に基づいて、衆生の機根には5性の差別があり、その中には不定性といって、仏果や二乗の覚りを得るか、何も覚りを得られないか決まっていない者がいると説く。そして一乗は、このような不定性の者に対してすべての人は成仏できると励まして仏果へと導くための方便として説かれた教えであるとした。ここにおいて、伝教大師と法相宗の僧・得一は真っ向から対立し、どちらの説が真実であるか、激しく論争した。これを三一権実論争という。この論争に関する記録は得一の現存する著作の中には残っていないが、伝教の『守護国界章』や『法華秀句』などからその内容をうかがい知ることができる。

【南都からの非難】伝教大師は37歳の時、唐に渡り、台州および天台山で8カ月間学んだが、都の長安には行かなかった。そのため、日本の南都六宗の僧らは「最澄は唐の都を見たことがない」と言って、仏教の本流を知らないと非難した。日蓮大聖人は、これを釈尊や天台大師が難を受けたこととともに挙げられた上で、「これらはすべて法華経を原因とすることであるから恥ではない。愚かな人にほめられることが第一の恥である」と仰せになっている。

 

修禅寺相伝の日記

修禅寺相伝口決4巻のなかの修禅寺相伝日記2巻をいう。伝教大師が延暦23年(0804)に入唐して修禅寺に住していた道邃から相伝した法門を記したもので四箇の大事(私注の一心三観・私注の心境義・日記の止観の大旨・日記の法華深義)を明かしている。十八円満は修禅寺相伝日記の法華深義の中に明かされている。

 

修禅寺

中国浙江省台州天台山の銀地嶺山頂にあり、陳の太建7年(0575)に天台大師が開創した寺院。太建10年(0578)宣帝から修禅寺の号を受ける。天台宗の根本道場。

 

天台宗の奥義

奥義は深遠な意義・極意。伝教大師の修禅寺相伝弘決の冒頭の四箇の法門をさす。伝教大師の天台法華宗伝法偈には延暦23年(0804)に天台山国清寺の道邃和尚・仏隴寺の行満座主のもとで四箇の法門を稟けたことが記されている。四箇の法門とは、一心三観・一念三千・止観大旨・法華深義をいう。

 

天台宗

法華経を根本として中国・隋の天台大師智顗を事実上の開祖とする宗派。天台法華宗、法華宗ともいう。天台大師は五時の教判を立てて法華経を宣揚し、また一念三千の法門を明かして法華経に基づく観心の修行を確立した。その後、法相宗・華厳宗・密教・禅の台頭に対し宗勢が振るわなかったが、唐になって妙楽大師湛然が再興した。日本では、平安初期に伝教大師最澄が唐に渡って体系的な教義を学び、帰国後の806年に日本天台宗を開いて法華一乗思想を宣揚した。また伝教大師は比叡山に大乗戒壇を建立しようと努め、没後間もなく実現している。伝教没後は密教化が進み、特に円仁(慈覚)や円珍(智証)が唐に渡り密教を積極的に取り入れ、安然が体系的に整備した。御書中の用例としては「天台(宗)の教え」といった意味の場合がある。例えば「撰時抄」の「天台宗」は、来日した鑑真によって伝えられた中国天台宗の教えをさす。

講義

初めに本抄の由来と大意について明らかにしておきたい。

末尾にも示されているとおり、本抄は弘安3年(1280113日、日蓮大聖人59歳の御時、身延で著され、最蓮房日浄に与えられている。内容は、伝教大師の修禅寺相伝日記に説かれている十八円満の法門をはじめとする種種の法門を、11の問答を重ねて縷々釈されながら、末法においては天台の法門に執着せず、南無妙法蓮華経と唱えて成仏得道するように諭されたのである。

本抄は文の展開の上から大きく3つの段楽に立て分けることができよう。

最初の第一段は本講義第一章から第五章までで、十八円満の法門が妙法蓮華経の五字のうち「蓮」の一字から出たもので、伝教大師の修禅寺相伝日記に説かれていることを明かされ、十八円満の名称を一つ一つ挙げられる。

次に、修禅寺相伝日記から「蓮」の名・体・宗・用・経の各玄義を説く文を引用された後、これが、妙法蓮華経の五字の一字一字について五重玄を明かす「別説の五重玄」であることを説かれ、万法の根源・一心三観・一念三千・三諦・六即・境智の円融・本迹の所詮の源は「蓮」の一字から起こると結論されている。

第二段は、第六章から第八章までで、総説の五重玄についての修禅寺日記の文を引用されている。それによると、総説の五重玄とは妙法蓮華経の五字がそのまま名・体・宗・用・経の五重玄であることをさし、妙は名・法は体・蓮は宗・華は用・経は教となると説いている。

次に、総説の五重玄に仏意の五重玄と機情の五重玄の二種あるとして、仏意の五重玄は諸仏の内証に具足する五眼のことで、五眼は五智、九識に配当される。機情の五重玄は、機のために説かれる妙法蓮華経をさす。更に、首題の五字に五重の一心三観を存することを明かし、それぞれ説明を加えている。

第三段は、弟九章から最後の十二章までで、天真独朗と止観の一念三千の関係を述べられ、末法今時においては、像法時代の天真独朗の止観を捨てて、正行の南無妙法蓮華経の題目を唱え、弘通することが成仏得道の法であることを述べられている。

なお、本抄の御真筆は現存しない。

 

伝教大師の修禅寺相伝日記について

 

日本天台宗の開祖・伝教大師が著した書の一つに修禅寺相伝口決がある。

これは、伝教大師が入唐中に、天台山にあった根本道場である修禅寺の座主・道邃和尚から相伝された法門を記した書とされている。

修禅寺相伝口決は修禅寺相伝私注二巻と、修禅寺相伝日記二巻の全四巻からなる。私注の冒頭に「大唐貞元二十四年三月一日、四箇の法門を伝う。所謂、一には一心三観・二には一念三千・三には止観の大旨・四には法華の深義なり」とある。

「四箇の法門」のうち、私注二巻には一心三観と一念三千、日記二卷には止観の大旨と法華の深義、がそれぞれ記されている。

なお、伝教大師が相伝を受けたとされている「大唐貞元二十四年三月一日」は実際には存在しない。

伝教大師は貞元21年(08055月には日本への帰朝の途についており、また貞元という年号は218月に改元され永貞元年となっているからである。おそらくは、貞元21年(0805)が日本の延暦24年(0805)にあたるので、これが混同されたのではないかと思われる。

さて、修禅寺相伝口決の内容について、あらまし述べてみよう。

まず、修禅寺相伝私注二卷の第一巻では、一心三観の法門について、教談の一心三観・行門の一心三観・証分の一心三観と次第して教・行・証の三重に立て分けて論じている。次に、一心三観に十四種あることを明かしている。第二巻では、一念三千観について論じている。

次いで、第二巻では、法華の深義を明かしているが、あくまで天台大師の法華玄義の内容に関する解説という体栽をとっており、天台大師の説いた名・体・宗・用・教の五重玄をめぐり、別説の五重玄と総説の五重玄の二種類を展開している。

別説の五重玄は妙法蓮華経の一字一字各別に五重玄を解説したもので、本抄における十八円満の法門は、そのうちの「蓮」の一字について五重玄を釈するなかで説きあらわされている。また、総別の五重玄は妙法蓮華経の五字がそのまま五重玄であるとし、妙は名・法は体・蓮は宗・華は用・経は教、と釈するものである。

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