八木二俵、送り給び候い了わんぬ。度々の御志、申し尽くし難く候。
夫れ、水は寒積もれば氷となる、雪は年累なって水精となる。悪積もれば地獄となる、善積もれば仏となる。女人は嫉妬かさなれば毒蛇となる。法華経供養の功徳かさならば、あに竜女があとをつがざらん。
山といい、河といい、馬といい、下人といい、かたがたなんかんのところに、度々の御志、申すばかりなし。
御所労の人の臨終正念、霊山浄土疑いなかるべし。
五月二十四日 日蓮 花押
御返事
現代語訳
米を二俵お送りいただきました。度々のお志はお礼の申し上げようもありません。
水は寒さが積もれば氷となるし、雪は年を重ねれば水精となります。同じように悪が積もれば地獄に堕ち、善行を積めば仏となります。女人は嫉妬が重なれば毒蛇となります。法華経供養の功徳が重なれば、竜女のあとを継いで成仏することは間違いありません。身延まで来るのに山といい、河といい、馬といい、下人といい、なにかとご苦労の多いところに度々のお志、申し述べようもありません。
病気であった人が臨終正念であったとのこと、霊山浄土は絶対に疑いありません。
五月二十四日 日 蓮 花 押
御 返 事
語句の解説
竜女
竜の女身である竜女は、大海の婆竭羅竜王のむすめで八歳であった。文殊師利菩薩が竜宮で法華経を説いたのを聞いて菩提心を起こし、ついで霊鷲山で釈尊の前で即身成仏の現証を顕わした。これを竜女作仏という。法華経が爾前の女人不成仏・改転の成仏を破折している。
臨終正念
死に臨んで、三毒の邪念を起こすことなく、成仏を信じて疑わないこと。
霊山浄土
釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。
講義
本抄は弘安元年(1278)5月24日、南条七郎次郎時光の夫人が米二俵を御供養したのに対する返礼の書である。御真筆はないが、日興上人の写本が大石寺にある。写本には月日のみで年の記載はないが、古来、弘安元年(1278)の書であるとされている。与えられた人についても「御返事」とあるだけで記されていないが、時光の夫人とすることに異説はない。
最初に米を「八木」といわれているのは、「米」の字を分解してこのように用いられたもので冒頭のこの字から、本抄には「八木書」「八木御書」の別名がある。米二俵の御供養は大聖人への御供養であることは当然であるが、文末に記されている「御所労の人」の追善供養の意義も込めてのものであったであろうと思われる。この「御所労の人」については詳細はわからないが、本抄を著される直前の4月1日に時光に与えられた御手紙(1545)に「石河の兵衛入道殿のひめ御前」について触れられ、亡くなったことが書かれているので、石河新兵衛の夫人が南条時光の姉であることを考えると「石河の兵衛入道殿のひめ御前」であることは、ほぼ疑いない。その書から新兵衛の娘は3月下旬に亡くなったものと考えられるので、本抄にしたためられている御供養は、満中陰を終えてのものであるとも考えられる。
供養の志に関連して大聖人は、世間・仏法の例をもってその尊さを教えらえている。「雪は年累つて水精と為る」との例は、水晶が雪深い山中にとれることから、こう考えられていたのである。かつてヨーロッパでも水晶は、アルプスに産するところから「氷の化石」と呼ばれていた。その他、シベリアや、日本では佐渡など寒冷地に産したといわれる。
水はつねに流動してやまないのに対し、氷は固く固定的である。雪はすぐ融けるのに対し水晶は不変である。水、雪は一つ一つの善悪の行為をさし、氷や水晶は生命の性分をさしておられる。行為の一つ一つは終われば消滅するが、それを重ねると、生命の不変的な性分となることを教えられているのである。
「悪」の行為も、その一つ一つは消えていく。しかし、それが積もり積もっていけば、やがて地獄の報を受けることは疑いない。逆に「善」をたゆまず積み重ねることによって、仏の大果報を得ることを教えられている。この「善」とは正法の実践であることはいうまでもない。
「女人は嫉妬かさなれば毒蛇となる」とは、女性について、古来、そのように考えられていたのを用いられたのであろう。能の「道成寺」も、安珍を恋うた清姫がその思いをつのらせたあまり大蛇となった物語を扱っている。天台大師の文句巻二にも「貪愛の母・無明の父」と、その特質を述べている。もし女性が貪愛に紛動され、それが重なっていけば、毒蛇のごとく人に忌み嫌われる存在となろう。しかし、御本尊への供養の功徳を積み重ねていけば、竜女のごとく成仏の大果報を得、人々を救う存在となることは間違いないのである。
竜女は畜身である。前の「毒蛇」と対比させておられる。「嫉妬」という悪を重ねていけば「毒蛇」の悪報を受けなければならないが、法華経供養の功徳という善を積み重ねていけば「毒蛇」転じて「竜女」となるのである。
今、時光の夫人は御供養の品を馬に積み、下人をつかわして山を越え川を渡り、「艱難の所」である身延の地に、たびたび供養の誠を重ねている。必ず竜女の後を継ぎ成仏することは疑いないと、その信心を称賛されているのである。
最後に、病気で亡くなった「ひめ御前」は、臨終正念であったから霊山浄土は疑いないと励まされ、本抄を結ばれている。