下山御消息(第十三段第三)

下山御消息 第十三段第三(予言的中に幕府の軟化)

 建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基

当時は予が古へ申せし事の漸く合かの故に心中には如何せんとは思ふらめども年来あまりに法にすぎてそしり悪口せし事が忽に翻がたくて信ずる由をせず、而も蒙古はつよりゆく、如何せんと宗盛・義朝が様になげくなり、あはれ人は心はあるべきものかな孔子は九思一言・周公旦は浴する時は三度にぎり食する時は三度吐給う賢人は此の如く用意をなすなり世間の法にもはふにすぎば・あやしめといふぞかし、国を治する人なんどが人の申せばとて委細にも尋ねずして左右なく科に行はれしはあはれくやしかるらんに夏の桀王が湯王に責められ呉王が越王に生けどりにせられし時は賢者の諌暁を用いざりし事を悔ひ阿闍世王が悪瘡身に出で他国に襲はれし時は提婆を眼に見じ耳に聞かじと誓い、乃至宗盛がいくさにまけ義経に生けどられて鎌倉に下されて面をさらせし時は東大寺を焼き払はせ山王の御輿を射奉りし事を歎きしなり、

現代語訳

今は、私がかつて申したことが現実のものとなったので、彼らは内心ではどうしたものかと思っているようだったけれども、長年の間あまりにも法外に謗ったり悪口をいったので急に態度を翻して帰依することができないでいる。しかも蒙古の脅威は次第に大きくなり、どうしたらよいのだろうかと、かつての宗盛や義朝のように嘆いているのです。

まことに、人は何事にもよく考えて対処すべきです。孔子は九思一言といい、周公旦は来客があれば洗髪の途中であっても三度握り、食事中であっても口中の食を吐いて客を待たせず三度も対応されました。賢人はこのようにして人に遇するにあたって心を用いるものです。また世間でもあまりに法に過ぎたことに対しては怪しむべきであるというのではないか。一国を治める者が、人が言ったからといって詳しく尋ねず流しまったことは、何とも悔やまれることでありましょう。

これは夏の桀王が湯王に攻められ、また呉王が越王に生け捕りにされた時に、賢者の諌暁を用いなかったことを悔やんだのと同じです。さらに阿闍世王が全身に悪瘡が出て、しかも他国から攻められた折、二度と提婆の姿を見たり話をしたりすまいと心に誓い、また宗盛が戦いに敗れて義経に生け捕られ、鎌倉に送られて恥をさらした時には、東大寺を焼き払わせたり日吉山王の御輿を矢で射たことを後悔したのです。

講義

自界叛逆難・他国侵逼難が必ず起きるとの大聖人の予言が的中したことによって、幕府も大聖人を迫害してきとことの誤りに気付いて、心の中では反省しはじめていました。しかしながら、大聖人を流罪に処するなどのこれまでの経緯からして、幕府も急に態度を改めて大聖人に帰依するまでには至りませんでした。こうした幕府の態度を、忠臣の讒言も聞かなかったために自らの滅亡を招いた、桀王や呉王・夫差の先例を引かれ、その類似性を指摘されています。

大聖人が文応元年(西暦1260年716日、「立正安国論」を北条時頼に提出され、正法に帰依せず謗法を重んじているならば、自界叛逆難・他国侵逼難の二難が起こるであろうと予言されたことを指しています。すなわち「立正安国論」に「若し先ず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば速に情慮を回らし忩で対治を加えよ、所以は何ん、薬師経の七難の内五難忽に起り二難猶残れり、所以他国侵逼の難・自界叛逆の難なり、大集経の三災の内二災早く顕れ一災未だ起らず 所以兵革の災なり、金光明経の内の種種の災過一一起ると雖も他方の怨賊国内を侵掠する此の災未だ露れず此の難未だ来らず、仁王経の七難の内六難今盛にして一難未だ現ぜず所以四方の賊来つて国を侵すの難なり加之国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱ると、今此の文に就いて具さに事の情を案ずるに百鬼早く乱れ万民多く亡ぶ先難是れ明かなり後災何ぞ疑わん・若し残る所の難悪法の科に依つて並び起り競い来らば其の時何んが為んや」(御書全集31頁10行目)と。

この大聖人の予言は次第に現実のものとなっていきました。まず他国侵逼の難については、文永5年(西暦1268年)正月16日に蒙古の国書が到来したことです。使節が九州の太宰府に到着し、太宰府守護の少弐資能に国書が手渡され、その翌月の閏正月18日に幕府に届けられました。この蒙古の牒状は表向きは日本との友好関係を要求したものでしたが、実際には日本の蒙古への服従を求め、それを聞き入れなければ武力で討つという、威嚇的なものでした。

幕府は、これに対して連日協議を重ねたものの結論を見ないまま、27日、朝廷に国書が届けられました。朝廷は、返書を送らないことを決め、直ちに異国降伏の祈禱を諸大社・寺院に命じたのです。

この蒙古の来牒を聞かれた大聖人は45日、「安国論御勘由来」を著され、そのなかで、「而るに勘文を捧げて已後九ケ年を経て今年後の正月大蒙古国の国書を見るに日蓮が勘文に相叶うこと宛かも符契の如し」(御書全集35頁2行目)と蒙古襲来によって「立正安国論」の予言が的中したことを指摘されています。

また、その年の1011日には、北条時宗等に十一通の書状を認め、送られました。そのうちの「北条時宗の御状」では「抑も正月十八日・西戎大蒙古国の牒状到来すと、日蓮先年諸経の要文を集め之を勘えたること立正安国論の如く少しも違わず普合しぬ、日蓮は聖人の一分に当れり未萠を知るが故なり、然る間重ねて此の由を驚かし奉る急ぎ建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めたまえ、然らずんば重ねて又四方より責め来る可きなり、速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給え、彼を調伏せられん事日蓮に非ざれば叶う可からざるなり」(御書全集169頁1行目)と厳しく諌められています。

翌文永6年(西暦1269年3月、再び蒙古の使者が日本にやってきました。この時の使節は、対馬の島民2人を捕らえて蒙古に帰りましたが、917日、捕らえられた島民2人を伴って対馬に着き、ついで太宰府に来て日本に返書を求めたのです。これに対して朝廷では返書を送ることにし、草案も作りましたが、今度は幕府の方でこれを握りつぶしてしまいました。

大聖人はこれを機として同年128日、「立正安国論を書写」され、これに奥書を加えられました。それが「立正安国論奥書」です。そこでは、「又同六年重ねて牒状之を渡す、既に勘文之に叶う、之に準じて之を思うに未来亦然る可きか、此の書は徴有る文なり是れ偏に日蓮が力に非ず法華経の真文の感応の至す所か」(御書全集33頁5行目)と仰せられて、他国侵逼難の予言が的中したことから、未来においてもまた、正法誹謗を続けるならば他国侵逼・自界叛逆の二難が必ずおきることを再び予言されています。

文永8年(西暦1271年6月から7月にかけて極楽寺良観が幕府の依頼で祈雨した折、大聖人は勝負を申し出られ、良観はこれを受けました。しかし雨は降らず、良観の負けとなりました。祈雨の勝負に敗れた良観の陰謀によって、大聖人は文永8年(1271910日、評定所へ召喚され、平左衛門尉頼綱の尋問を受けられました。

その際、大聖人は「世を安穏にたもたんと・をぼさば彼の法師ばらを召し合せて・きこしめせ、さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行わるるほどならば国に後悔あるべし」(御書全集911頁9行目)と仰せられるとともに、「日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし、梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門どしうちはじまるべし、其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし、其の時後悔あるべし」(御書全集911頁10行目)と、平左衛門尉に対して厳しく諌め暁されたのです。

これによって激怒した平左衛門尉は912日、数百人の兵士を率いて松葉ヶ谷の草庵を襲い、大聖人を逮捕したのです。その時、大聖人は再び自界叛逆・他国侵逼の二難を予言されました。「報恩抄」に次のようにおおせられている。

「去ぬる文永八年九月十二日に平の左衛門並びに数百人に向て云く日蓮は日本国のはしらなり日蓮を失うほどならば日本国のはしらを・たをすになりぬ等云云、此の経文に智人を国主等・若は悪僧等がざんげんにより若は諸人の悪口によつて失にあつるならば、にはかに・いくさをこり又大風吹き他国よりせめらるべし」(御書全集312頁10行目)と。

また佐渡御書にも、「日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべしと去年九月十二日御勘気を蒙りし時 大音声を放てよばはりし事これなるべ」(御書全集957頁18行目)と述べられているように、主師親の三徳を具備された大聖人を処罰するならば、必ず二難がおこることを警告されたのでした。

また、佐渡に流罪になられて文永9年(12721月、塚原問答が行われた際には、守護代の本間六郎左衛門尉重連に、「只今いくさのあらんずるに急ぎうちのぼり高名して所知を給らぬか、さすがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし、田舎にて田つくり・いくさに・はづれたらんは恥なるべし」(御書全集918頁16行目)と、鎌倉にいくさが起ころうとしていることを教えられています。

この予言は一カ月後に的中しました。すなわち文永9年(西暦1272年211日に起きた北条一門による同士打ちがそれです。この同士討ちは「二月騒動」とも「北条時輔の乱」ともいいます。権力の座を奪おうとして、鎌倉の名越教時と謀りましたが、これを事前に察知した時宗が211日に名越時章・親時兄弟を誅殺するとともに、京都北六波羅探題の北条義宗に命じて4日後の15日には北条時輔を滅ぼさせました。

この自界叛逆難の的中によって「光日房御書」に「天のせめという事あらはなり、此れにや・をどろかれけん弟子どもゆるされぬ」(御書全集927頁16行目)と仰せられているように、大聖人の予言的中に驚いた幕府は、竜の口の法難の際に捕らえた日朗等の大聖人の弟子を釈放したのです。

また、本抄にすでに述べられているように、文永11年(西暦1274年)佐渡流罪赦免後の48日、時宗の意を受けた平左衛門尉と面会されたとき、質問に答えて年内の蒙古襲来を予告されました。この予言どおり、同年10月、蒙古の大軍が日本に押し寄せてきたのでした。いわゆる「文永の役」です。

蒙古の襲来を聞かれた大聖人は、同年11月の「曾谷入道殿御書」で「自界叛逆難・他方侵逼の難既に合い候い畢んぬ、之を以て思うに「多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地に所楽の処有ること無けん」 と申す経文合い候いぬと覚え候、当時壱岐・対馬の土民の如くになり候はんずるなり、是れ偏に仏法の邪見なるによる仏法の邪見と申すは真言宗と法華宗との違目なり」(御書全集1024頁1行目)とおおせられています。

こうして大聖人の予言が次々と的中したことにより、大聖人に対する幕府の態度も次第にやわらいできました。文永11年(西暦1273年214日に大聖人を佐渡流罪から赦免したのは、まさにその表れでした。この経緯について大聖人は「中興入道消息」に「科なき事すでに・あらわれて・いゐし事もむなしからざりけるかの・ゆへに、御一門・諸大名はゆるすべからざるよし申されけれども・相模守殿の御計らひばかりにて・ついにゆりて候いて・のぼりぬ」(御書全集1333頁14行目)と、それが執権・時宗の決断によるものであったことを述べられています。

また、文永11年(西暦1273年326日、佐渡から鎌倉に帰還され、48日、平左衛門尉頼綱と対面された際には「同四月八日平左衛門尉に見参しぬ、さきには・にるべくもなく威儀を和らげて・ただしくする上」(御書全集921頁2行目)と記されているように、あれほど大聖人に敵対していた平左衛門尉ですらも、かってとは、打って変った態度で大聖人に対していたことがうかがえます。

また日道上人の御伝土代には、「法光寺禅門、西の御門東郷入道屋形の跡に坊作って帰依せんとの給う」とあり、幕府はこの時大聖人に堂舎を献上して懐柔しようとしたようです。もとより大聖人はこうした幕府の懐柔を一蹴され、身延へ入山されたのです。

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