下山御消息 第十二段第七(三徳具備の釈尊を差しおく念仏者)
建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基
此れ等は皆教主釈尊の御屋敷の内に居して師主をば指し置き奉りて阿弥陀堂を釈迦如来の御所領の内に国毎に郷毎に家家毎に並べ立て或は一万・二万或は七万返或は一生の間一向に修行して主師親をわすれたるだに不思議なるに、剰へ親父たる教主釈尊の御誕生・御入滅の両日を奪い取りて、十五日は阿弥陀仏の日・八日は薬師仏の日等云云、一仏誕入の両日を東西二仏の死生の日となせり是豈に不孝の者にあらずや逆路七逆の者にあらずや、人毎に此の重科有りてしかも人毎に我が身は科なしとおもへり無慚無愧の一闡提人なり、法華経の第二の巻に主と親と師との三大事を説き給へり一経の肝心ぞかし、其の経文に云く「今此の三界は皆是れ我有なり其中の衆生は悉く是れ吾が子なり、而も今此の処は諸の患難多し唯我一人のみ能く救護を為す」等云云、又此の経に背く者を文に説いて云く「復教詔すと雖も而も信受せず、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」等云云、
現代語訳
これらは、皆、教主釈尊の御屋敷内にいながら、師でもあり主でもある釈尊をさしおいて、阿弥陀堂を釈迦如来の御所領内の各国ごとに各郷ごとに、また各家ごとに並べ建てて、あるいは一万遍・二万遍、あるいは七万遍と念仏を称え、あるいは一生の間ひたすらに念仏の修行をしているのです。このように主師親を忘れることさえ不可解なことであるのに、それに加えて親父である教主釈尊の御誕生の日と御入滅の両日を奪い取って、御入滅の十五日は阿弥陀仏の日、また御誕生の八日は薬師仏の日である等と言っています。
釈尊の御誕生と御入滅の両日を東方の薬師如来と西方の阿弥陀如来の誕生と入滅の日にしてしまったのであり、これはまさに不孝の者ではないか。師敵対・七逆罪を犯す者ではないか。彼らはそれぞれの重罪を犯しておりながら、しかもそれが自分には罪はないと思っている。まさに恥知らずで一闡提の輩なのです。
釈尊は法華経巻第二に主と親と師という三大事を説かれており、これがまさにこの一経の肝心なのです。その経文には「今この三界は皆我が所有である。その中の衆生は悉く我が子である。しかも今この世界は諸の苦悩に満ちている。これを救えるのは唯我一人である」と説かれ、また、この経に背く者に関しては「またいかに教え諭してもこれを信受しない。(乃至)この人の死後は必ず阿鼻地獄に堕ちるであろう」と説かれている。
講義
ここでは、法然の専修念仏のみではなく、それ以前から行われていた、釈迦仏と並べて阿弥陀仏を信仰するのも、主師親の三徳を具える釈尊への忘恩・師敵対の振る舞いであると厳しく指弾されています。そして、釈尊が主師親の三徳を具備していることを示した法華経譬喩品第三の文を再び引かれている。
引用された譬喩品の文について大聖人は次のように仰せられている。
「経に今此の三界は皆是我有なりと説き給うは主君の義なり其の中の衆生悉く是れ吾子と云うは父子の義な而るに今此の処は諸の患難多し、唯我一人能く救護を為すと説き給うは師匠の義なり」(0097:09)
上の御文を図示すれば次のようになる。
「今此の三界は皆是我有なり」 主徳
「其の中の衆生悉く是れ吾子」 親徳
「今此の処は諸の患難多し、唯我一人能く救護を為す」 師徳
本抄では先に、大聖人自身が日本国の衆生にとって主であり親であり師であられることを明かされましが、ここでは阿弥陀信仰が釈尊への師敵対となることを示すために、釈尊が主師親を具えた仏であることを強調されているのです。西方浄土の阿弥陀仏は娑婆世界の衆生に対しては全く主師親の三徳を具えた仏ではないゆえに、娑婆世界の衆生にとって、本尊として崇める対象とはなりえないのです。このことは諸御書でお示しです。
まず「一谷入道殿御書」には、「阿弥陀仏は十万億のあなたに有つて此の娑婆世界には一分も縁なし」(御書全集1328頁13行目)と。「祈禱抄」には「諸仏は又世尊にてましませば主君にては・ましませども・娑婆世界に出でさせ給はざれば師匠にあらず・又『其中衆生悉是吾子』とも名乗らせ給はず・釈迦仏独・主師親の三義をかね給へり」(御書全集1350頁9行目)と。阿弥陀仏等の諸仏は、世尊であるから、一応主君であるけれども、娑婆世界に出現して化導するのでないから娑婆の衆生にとっては師でもなく親でもない。娑婆世界の衆生にとって主師信の三徳を具備しているのは釈尊であることを示されています。
同じことは「南条兵衛七郎殿御書」にも、法華経譬喩品の「今此三界」の経文を引かれたうえで、「此の文の心は釈迦如来は我等衆生には親なり師なり主なり、我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども親と師とには・ましまさず、ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏に・かぎりたてまつる、親も親にこそよれ釈尊ほどの親・師も師にこそよれ・主も主にこそよれ・釈尊ほどの師主はありがたくこそはべれ、この親と師と主との仰せをそむかんもの天神・地祇にすてられ・たてまつらざらんや、不孝第一の者なり」(御書全集1494頁4行目)と仰せられています。
娑婆世界の衆生にとって主師親の三徳を備えた仏は釈尊のみであり、したがって釈尊こそ大恩ある仏であるといわねばなりません。
「念仏無限地獄抄」に「而るに浄土宗は主師親たる教主釈尊の付属に背き他人たる西方極楽世界の阿弥陀如来を憑む 故に主に背けり八逆罪の凶徒なり違勅の咎遁れ難し即ち朝敵なり争か咎無けんや」(御書全集97頁12行目)と仰せられているように、浄土宗は主師親である釈尊の命に背いて阿弥陀仏を崇めているのです。
これは、いってみれば主君の命に背く逆賊の徒であり、朝敵ともいうべき存在です。その罪は八逆罪に当たるのです。この八逆罪とは、主君に背く罪を八種に分けたものです。
さらにこの御文の次下には、「次に父の釈尊を捨つる故に五逆罪の者なり豈無間地獄に堕ちざる可けんや、次に師匠の釈尊に背く故に七逆罪の人なり争か悪道に堕ちざらんや此の如く教主釈尊は娑婆世界の衆生には主師親の三徳を備て大恩の仏にて御坐す此の仏を捨て他方の仏を信じ弥陀薬師大日等を憑み奉る人は 二十逆罪の咎に依つて悪道に堕つ可きなり」(御書全集97頁13行目)と。父に背くのは五逆罪に当たり、師匠に背くのは七逆罪に当たるとされ、主師親に背く罪は合わせて二十逆罪になると指摘されています。
日本中の人々は、こうした重罪を犯しているにもかかわらず、このことを自覚せず自分は何の罪もないと思っているために、大聖人はこれらの人々を「無慚無愧の一闡提人」と嘆かれているのです。