下山御消息 第十二段第六(法華経を貶する念仏の諸師)
建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基
此の由を弁へざる末代の学者等・並に法華経を修行する初心の人人かたじけなく阿弥陀経を読み念仏を申して或は法華経に鼻を並べ、或は後に此れを読みて法華経の肝心とし功徳を阿弥陀経等にあつらへて西方へ回向し往生せんと思ふは譬へば飛竜が驢馬を乗物とし師子が野干をたのみたるか将又日輪出現の後の衆星の光・大雨の盛時の小露なり、故に教大師云く「白牛を賜う朝には三車を用いず、家業を得る夕に何ぞ除糞を須いん」、故に経に云く「正直に方便を捨て但無上道を説く」又云く「日出でぬれば星隠れ巧を見て拙を知る」と云云、法華経出現の後は已今当の諸経の捨てらるる事は勿論なりたとひ修行すとも法華経の所従にてこそあるべきに今の日本国の人人・道綽が未有一人得者・善導が千中無一・慧心が往生要集の序・永観が十因・法然が捨閉閣抛等を堅く信じて或は法華経を抛ちて一向に念仏を申す者もあり、或は念仏を本として助けに法華経を持つ者もあり或は弥陀念仏と法華経とを鼻を並べて左右に念じて二行と行ずる者もあり或は念仏と法華経と一法の二名なりと思いて行ずる者もあり、
現代語訳
この次第を弁えない末代の学者等や法華経を修行する初心の人々は、阿弥陀経をありがたがって読み念仏を称え、あるいは阿弥陀経を法華経に鼻を並べ、あるいは法華経の後に阿弥陀経を読んで法華経の肝要であると考え、阿弥陀経等の功徳をたよりにして西方極楽浄土へ回向しようと思っています。
これらは、譬えば驢馬を乗り物とし、師子が野干を頼りとするようなものです。また阿弥陀経は太陽が出た後の星の光・大雨が降っている時の一滴の露のようなものです。
故に伝教大師は「大白牛車を賜った暁には羊車・鹿車・牛車は必要なく、また長者の家業を継いだ後にどうして糞掃除の仕事が必要でありましょうか。故に法華経方便品には『正直に方便を捨てて但無上道を説く』と説かれている」といい、また「太陽が出れば星はかくれ、巧みなものを見れば拙なさがわかる」と述べています。
法華経が出現した後は已今当の諸経が捨てられることは当然です。たとえそれらの諸経を修行するとしても法華経の所従として位置づけられるべきであるのに、今の日本国の人々は道綽の「未有一人得者」、善導の「千中無一」、慧心の往生要集の序、永観の「往生十因」、法然の「捨閉閣抛」等を堅く信じて、ある者は法華経をなげうってただひたすら念仏を称え、ある者は念仏を正行として法華経を助行とし、またある者は阿弥陀経と法華経とを同等なものとして鼻を並べる如く、ともに念じて二行とし、またある者は念仏と法華経とは名が異なっても同じ一つの法であると思って修行しています。
講義
ここでは、法華経を知りながら、不成仏・不往生の阿弥陀経と法華経を並べたり、あるいは法華経を軽んじて用いる愚かさを厳しく指摘されています。法華経以外の教えは用いてはならないとの文証として、伝教大師の顕戒論序分の文を引かれています。この顕戒論の文は、法華経譬喩品第三における三車火宅の譬え、信解品第四における長者窮子の譬えに基づいたものです。
《三車火宅の譬え》
長者の古くなった大きな家が、ある日突然火事になりました。ところが長者の子供達は、火事に気がつかずに家の中で遊びに夢中になっていました。父の長者は子供達を救おうとして、子供たちの欲しがっていた羊や鹿や牛の車が門の外にあるから、それで遊びなさい、すぐに家から出るようにと言いました。喜んで家から出てきた子供達に長者は大白牛車を与えたという。大白牛車とは一仏乗の教えである法華経を意味し、羊・鹿・牛の三車は仏が方便として説いた声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の法を譬えています。
したがって、「白牛を賜う朝には三車を用いず」とは、法華経が説かれたのちは、方便である爾前権教を用いるべきでないことを示したものです。
《長者窮子の譬え》
ある国に限りない財宝を持ち、何不自由ない暮らしをしている長者がいました。長者は、幼い時、家を飛び出して行方不明になっている息子を探していました。家を出て50年、諸国を流浪して窮迫した息子は衣食を求め、知らずしらずのうちに生まれた故郷に帰り、雇われ人として父の城にやってきました。ところが息子は、父のあまりに立派な姿を見てかえって恐怖の念を抱き、自分のようなものが働く所ではないと思って、そこを逃げ出しました。父は息子であることを知ってひきとめようとしたましたが、息子は長者が父であることがわからず、何の罪もなく捕らえられたのはきっと殺されるに違いないと思って、煩悶して地上に倒れてしまいました。そこで長者は一計を案じ、風采のあがらない人間を息子のもとにやり説得して使用人として雇い入れることにしました。まず便所掃除の仕事を与え、次第に大事な仕事を任せるようにしました。長者はいよいよ臨終の折、息子に真実を打ち明け、財産のすべてを相続させたといいます。
これはまさに「無上宝聚不求自得」を譬えています。無上の宝聚とは一乗真実の法華経です。
顕戒論の「実家を得るに夕に何ぞ除糞を須いん」との言葉は、息子が家業を継いで財産を相続したうえは、方便として与えられた便所掃除の仕事は最早必要ないことを述べたものであり、これもまた法華経が説かれた以上、爾前権教は不要となることを示しているのです。
また、「日出でぬれば星隠れ巧を見て拙を知る」の一文は、健抄及び禄内扶養にはその出典についての言及がなく、安国院日講の禄内啓蒙は、顕戒論の文ではないとしたうえで、類似の文が竜樹の大智度論に見られると指摘しています。また、禅智院日好は禄内捨遺で、天台法華宗伝法偈にある偈「今、日出て星収り、巧を見て陋を知る」との文を挙げて、大聖人が伝法偈の異本によったためかも知れないと推定しています。
いでずれにせよ、この文の意味するところは、高次の法門である法華経が説かれた後には、低次の爾前の諸法門は無用のものとなるということです。釈尊が無量義経において「四十余年未顕真実」と述べ、法華経の方便品第二で「正直捨方便・但説無上道」と説いているにもかかわらず、中国・日本の仏教者の中には法華経を阿弥陀経等よりも下位に位置付け、あるいは法華経は末法の浅機の衆生には難しすぎると称して易行の念仏を重視する人々が絶えなかったのです。
大聖人はここで、そうした浄土門の推進者の名を挙げ、その邪義を一言に要約して示されています。「道綽が末有一人得者」「善導が千中無一」「慧心が往生要宗の序」「永観が十因」及び「法然が捨閉閣抛」がそれです。善導の「千中無一」法然の「捨閉閣抛」については既に触れたので、ここでは道綽の「未有一人得者」の邪義に言及しておきたい。
周知のように、日本に広まった浄土信仰は、中国の曇鸞・道綽・善導の流れをくむものでした。まず道綽が往生論註を著し、竜樹の十住毘婆沙論の難行道と易行道の語を恣意的に引いて、十悪五逆の造罪悪人も易行道によって往生できると説きました。続いて、曇鸞の影響を受けた道綽が安楽集二巻を著し、往生論註の所説を大集経月蔵分により正当化しました。大聖人が引用された語句の前後には次のようにあります。
「問うて曰く、一切衆生皆仏性有り、遠劫より以来応に他仏に植えるなるべし。何に因ってか今に至るまで、仍自ら生死に輪廻して火宅を出でざるや、答えて曰く、大乗の聖教に依る良に二種の勝法を得て以て生死を排わざるに由る。是れを以て火宅を出でず。何をか二と為す。一には謂く聖道、二には理深く解微なるに由る。是の故に大集月蔵経に云く。我末法時中の億々の衆生は行を起こし道を修えんに、末だ一人も得る者有らず。当今は末法現に是れ五濁悪世なり。唯浄土の一門のみ有りて通入すべき路なり」
このように、道綽は釈尊の一代仏教を聖道門と浄土門に分け、五濁悪世の末法においては「一には大聖を去ること遥遠なるに由る。二には理深く解微なるに由る」という二つの理由から、聖道門は「末有一人得者」であるとして斥けたのである。そして、道綽は、その根拠として大集月蔵経の文を挙げたのです。
曇鸞の易行道・道綽の浄土門の考え方を踏まえ、道綽の弟子・善導が、中国浄土宗としてこれを組み立てたのですが、ここでは、もう少し曇鸞の難行・易行と道綽の聖道・浄土の考え方について見ておきたい。元来、道綽における聖道門と浄土門という一代仏教の立て分けが、曇鸞の難行道と易行道という立て分けに基づいたものであることは明らかです。
日寛上人は撰時抄愚記で次のように指摘されている。
「この師の聖道・浄土の二門は鸞公の難易の二道に異らず。故に選択集に云く『難行・易行、聖道・浄土は其の言は殊なりと雖も、其の意は是れ同じ』等云云。既に『其の意は是れ同じ』という。故にまたその謬りもこれ同じきなり」
すなわち、道綽の聖道・浄土二門は曇鸞の難行道・易行道をそのまま受け継いだものであるから、その誤りも曇鸞における難易の二道という立て分けにもともと由来しているといえます。そこで、道綽の難易の二道について若干掘り下げてみましょう。
曇鸞の往生論註の冒頭に次のようにあります。
「謹みて案ずるに竜樹菩薩の十住毘婆沙に云く、菩薩、阿毘跋到を求むるに二種の道有り、一には難行道、二には易行道なり。難行道とは謂わく。五濁の世、無仏の時に於いて阿毘跋致を求むるを難しと為す。…譬えば陸路の歩行は則ち苦しきが如し。易行道とは謂わく、但信仏の因縁を以て浄土に生ぜんと願すれば、仏の願力に乗じて便ち彼の清浄の土に往生することを得。…譬えば水路の乗船は即ち楽しきが如し。」
曇鸞は、竜樹の十住毘婆沙論に基づいて難易の二道を立てたのである。
ちなみに竜樹の十住毘婆沙論には次のようにある。
「阿惟超致地は是の法甚だ難し、久しくして乃ち得べし…汝、若し必ず此の方便を開かんと欲せば、今当に之を説くべし。仏法に無量の門有り。世間の道に難有り、易有り。陸路の歩行則ち苦しく、水道の乗船は則ち楽しきが如し。菩薩道も亦、是の如し。或は勤行精進する有り、或は信の方便を以て、易行にして疾く阿惟越致に至る者有り」
竜樹の十住毘婆沙論は、華厳経十地品に説かれる菩薩の十地のうち初地と二地を注釈したもので、発菩提心品第六から阿惟越致相品第八まで難行道が説かれ、易行品第九では易行道が説かれています。すなわち、菩薩が十地の第一である不退地に至るのに、自ら勤行精進して行く道を陸路の歩行に譬えて難行道とし、ただ仏力を信ずる道を水道の乗船に譬えて易行道としています。
ところが、曇鸞はこの竜樹の真意を曲げて使ったのです。この点について日寛上人は撰時抄愚記で、「本論違背」として次のように三点にわたって糾弾されている。
「この本論の意は、通じて仏道に難あり、通じて仏道に難あり、易あるを明かす。然るに鸞公ば別して無仏五濁の時に訳す〈第一〉
また本論の意は、歴劫長遠の教を以て難行と為す。故に『久しくして乃ち得べし』『勤行精人』等という。然るに鸞公は此土入聖を難行と為す。〈第二〉
また本論の意は、此土不退に約して易行を明かす。故に『此の身に欲せば』等という。然るに鸞公は、浄土に往生するを易行と為す〈第三〉
豈本論相違に非ずや」
すなわち、第一に竜樹が十住毘婆沙論において難行と易行に分けているのは、仏法に無量の門があるなか、広く菩薩道に難易の二行があるとし、ある時は信方便の易行を修し、ある時は精進して難行を修する旨を示したものであり、それを曇鸞は、無仏五濁の時に限定して解釈し、こうした濁世に阿毘跋致を求めることは難行であるとしています。これは明らかにスリカエです。
第二に、十住毘婆沙論における難行道の趣旨は、いまだ阿惟越到地に至らない菩薩のために示された歴劫修行のことを説いたものです。しかしながら、曇鸞は娑婆世界において凡夫が聖位に入ることが難行であると曲げて解しています。
第三に、これは第二の点と関連していますが、竜樹の十住毘婆沙論の易行として立てているのは、「若し菩薩、此の身に於いて阿惟越致地に至ることを得て、阿耨多羅三藐三菩提を成就せんと欲せば、応当に是の十方の諸仏を念じて其の名号を称すべし」と述べているように、菩薩がこの娑婆世界において不退の位を得るために仏の名号を称することを言ったものなのであり、曇鸞が釈したように浄土に往生する行を易行としたのでは決してない。
このように、曇鸞は竜樹の十住毘婆沙論に則っているかのように装って、その実は我見を立てたのです。
さらに日寛上人は、曇鸞に、「執権謗実の失」があるといいます。つまり、竜樹の立てた難易の二道は、あくまで爾前権教の範囲において菩薩道を難行と易行に分けたものです。にもかかわらず法華経を雑行として排斥するのは、まさに先判の権教に執して後判の実教たる法華経を誹謗していることになります。
大聖人は「守護国家論」で次のように喝破されています。
「竜樹菩薩の十住毘婆沙論には法華已前に於て難易の二道を分ち敢て四十余年已後の経に於て難行の義を存せず、其の上若し修し易きを以て易行と定めば法華経の五十展転の行は称名念仏より行じ易きこと百千万億倍なり、若し亦勝を以て易行と定めば分別功徳品に爾前四十余年の八十万億劫の間の檀・戒・忍・進・念仏三昧等先きの五波羅蜜の功徳を以て法華経の一念信解の功徳に比するに一念信解の功徳は念仏三昧等の先きの五波羅蜜に勝るる事百千万億倍なり」(御書全集53頁15行目)
また「当世念仏無間地獄事」には、「十住毘婆沙論の一部始中終を開くに全く法華経を難行の中に入れたる文之無く只華厳経の十地を釈するに第二地に至り畢つて宣べず、又此の論に諸経の歴劫修行の旨を挙ぐるに菩薩難行道に堕し二乗地に堕して永不成仏の思を成す由見えたり法華已前の論なる事疑無し十住毘婆沙論の一部始中終を開くに全く法華経を難行の中に入れたる文之無く只華厳経の十地を釈するに第二地に至り畢つて宣べず、又此の論に諸経の歴劫修行の旨を挙ぐるに菩薩難行道に堕し二乗地に堕して永不成仏の思を成す由見えたり法華已前の論なる事疑無し」(御書全集109頁11行目)と述べられています。
そして、道綽の聖道・浄土の二門は、こうした曇鸞の難易の二道を基本的に受け継いだものであり、その意味で道綽に対する破折も以上の中にすべて含まれるといえますが、日寛上人は、別して道綽における二失を指摘されています。
一つには、所立不成の失であり、これについては次の三点を挙げられています。
第一に、道綽の安楽集では、すでに見たように、聖道門を斥け浄土門を立てる根拠として、「大聖去ること遥遠」「理深解微」を挙げていますが、道綽のいう聖道とは曇鸞の立てた難行道にあたっています。これは、歴劫修行の権大乗であり、釈尊在世においても難行・雑証であることに変りはない。したがって、道綽の「大聖を去ること遥遠なるに由る」という言葉は明らかに矛盾しているのです。
第二に、軽病は凡薬、重病には仙薬を与えるのは道理であり、したがって「理深ならば則ち解微に非ず、解微ならば則ち理深に非ざることを」弁えなくてはならない。もっとも勝れた教えであれば、下根の衆生をも救う力があるとするのが仏法の道理なのであるから、「理深解微」ということ自体、道理に反した考えです。
第三に、安楽集では「末有一人得者」の文証として、大集月蔵経を引いているが、同経にはこの文はなく、まったくの捏造に過ぎない。また、これを経文の取意の文としている見方もありますが、そもそも大集月蔵経では、五濁悪世の末法において白法隠没すると説いているのは「浅理穏没の義」です。ところが、安楽集では、これを「深理穏没の義」に曲解しており、取意の文にもなっているのです。つまり道綽は大集経の名を借りて己義を正当化しようとしたに過ぎない。このゆえに、日寛上人は「所立不成」と破折されたのです。
大聖人は「法華初心成仏抄」で次のように仰せです。
「浄土宗の人人・末法万年には余経悉く滅し弥陀一教のみと云ひ又当今末法は是れ五濁の悪世唯浄土の一門のみ有て通入す可き路なりと云つて虚言して大集経に云くと引ども彼の経に都て此文なし、其の上あるべき様もなし仏の在世の御言に当今末法五濁の悪世には但浄土の一門のみ入るべき道なりとは説き給うべからざる道理顕然なり」(御書全集549頁1行目)
このように、道綽の聖道・浄土の二門によって唱えられた「末有一人得者」は根拠のない妄説に過ぎないのです。
また、善導も、教義的には曇鸞・道綽から受け継いでいるのですから、同じ誤謬を犯していることは当然です。のみならず、善導は正行・雑行という法門を立て、法華経等を「雑行」として貶め、浄土信仰を「正行」と称し、明確に法華経を排斥したのです。法然の「捨閉閣抛」の主張は、直接的には、この善導の「捨雑」を継承したものと言えます。
日本の専修念仏は法然から始まりますが、浄土信仰は飛鳥・天平に遡ります。また天台大師の法門の中でも念仏は修行の一つとして用いられていました。天台大師の摩訶止観に説かれる四種三昧のうち常坐三昧が雑行であるとして、助行の方便として阿弥陀仏の口唱をすすめました。これが日本天台宗における称名念仏の始まりであるとされています。
そうしたなかで天台僧源信(慧心僧都)は往生要集を著したのです。この著作は、極楽浄土に生まれることを意図して、それに必要な経論の文を集めて一書としたものであり、その序分に、「夫れ一に非ず。事理の業因、其の行惟れ多し。利智精進の人は末だ難しと為さざらんも、予が如き頑魯の者、豈敢てせんや。是の故に念仏の一門に依りて聊か経論の要文を集む。之を披いて之を修すれば覚り易く行じ易からん」とある通り、自分のように「頑魯の者」であっても修行できるのが念仏であるとしています。
この文について、大聖人は「守護国家論」で、「此の序の意は慧心先徳も法華真言等を破するに非ず但偏に我等頑魯の者の機に当つて法華真言は聞き難く行じ難きが故に我身鈍根なるが故なり敢て法体を嫌うに非ず」(御書全集53頁4行目)と仰せられています。
すなわち、この慧心の言葉は、末代の浅機の衆生にとって念仏が易行であることを述べたもので、法体そのものの勝劣を判じたものではない。元来、釈尊が無量義経において「四十余年未顕真実」といって爾前経を排したのは、法体に約して権実の相対を示したものです。慧心は、この法華経の意義をよく知っていたので、法華経を排斥することは毛頭のべていません。
大聖人は、慧心の往生要集について、「守護国家論」においては「慧心の意は往生要集を造つて末代の愚機を調えて法華経に入れんが為なり、例せば仏の四十余年の経を以て権機を調え法華経に入れ給うが如し」(御書全集54頁13行目)と述べています。後に著した一乗要決に意義があるとして、「権を先にし実を後にする宛も仏の如く亦竜樹・天親・天台等の如し」(御書全集55頁3行目)と仰せられています。
しかし、慧心の本意とは別に、その著は法然の専修念仏弘経に利用されるところとなりました。ゆえに「撰時抄」においては、慧心を慈覚・安然とともに「伝教大師の師子の身の中の三虫なり」(御書全集286頁14行目)と仰せられているのです。
この点について日寛上人は「例せば国家論には、法然を破せんが為に、浄土の三師は爾前経に於て勝劣を判じ、法華・真言を雑行とはいわずと判じたまう。恵心の往生要宗も、後に一乗要決を作る。前方便なる故に権を先とし、実を後にす。宛も仏の如しと称歎したまう。これは一応なり、諸御書に浄土の三師並びに慧心の往生要集を破したまう。これは、再往の実義なり」と御教示されています。
本抄においても、慧心の往生要集の序を道綽の末有一人得者、善導の千中無一、法然の捨閉閣等と並べ挙げられているのは、日寛上人のいわれる“往生”の意であることはいうまでもない。
次に、本抄では永観の十因を挙げられている。この永観は東大寺の僧で三論宗の学匠として知られ、阿弥陀仏の一行に十の功徳が具われるとして専修念仏に徹したといわれます。
その十の功徳がいわゆる往生の十因であり、以下に列挙しておきます。
①広大善根
②衆罪消滅
③宿縁深厚
④光明摂取
⑤聖衆護持
⑥極楽化生
⑦三業相応
⑧三昧発得
⑨法身同体
⑩随順本願