下山御消息 第十二段第五(二乗の成仏を説かない阿弥陀経)
建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基
阿弥陀仏は左右の臣下たる観音勢至に捨てられて西方世界へは還り給はず此の世界に留りて法華経の行者を守護せんとありしかば此の世界の内・欲界第四の兜率天・弥勒菩薩の所領の内・四十九院の一院を給いて阿弥陀院と額を打つておはするとこそうけ給はれ、其の上.阿弥陀経には仏・舎利弗に対して凡夫の往生すべき様を説き給ふ、舎利弗・舎利弗.又舎利弗・と二十余処までいくばくもなき経によび給いしはかまびすしかりし事ぞかし、然れども四紙の一巻が内すべて舎利弗等の諸声聞の往生成仏を許さず法華経に来りてこそ 始て華光如来・光明如来とは記せられ給いしか一閻浮提第一の大智者たる舎利弗すら浄土の三部経にて往生成仏の跡をけづる、まして末代の牛羊の如くなる男女・彼彼の経経にて生死を離れなんや、
現代語訳
阿弥陀仏は左右の臣下たる観音菩薩・勢至菩薩に捨てられて、西方世界へ帰られず、この娑婆世界に留まって法華経の行者を守護しようといわれたので、この世界の内の欲界第四の兜率天にある弥勒菩薩の所領の中の四十九院の一院を賜って、そこに阿弥陀院と額を掲げて住まわれているとうかがっています。
その上、仏は阿弥陀経においては舎利弗に対して、凡夫が往生する様子を説かれたのですが「舎利弗」「舎利弗」「また舎利弗」とその長くもない経典の中で二十数個所にもわたって呼ばれたのは騒々しいばかりでした。しかし、四紙の阿弥陀経一巻の中には、どこにも舎利弗等の声聞たちの往生成仏を許していません。法華経に至って初めて華光如来や光明如来という記別を与えられたのです。
一閻浮提第一の大智者である舎利弗ですら、浄土三部経では往生成仏したという事実の跡はありません。まして牛や羊のような末法の男女がこれらの経々によって生死の迷苦を離れることがどうしてできるでしょうか。
講義
浄土三部経によっては成仏できず、往生も空しいことを述べられているところです。なるほど、阿弥陀経には「凡夫の往生すべき様」を説いています。すなわち、釈尊は舎利弗に呼びかけて次のように述べています。
「若し善男子、善女人有りて、阿弥陀仏を説くを聞き、名号を執持すること、若しは一日、若しは二日、若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日、一心不乱なれば、其の人命終の時に臨んで、阿弥陀仏は諸の聖衆とともに、現に其の前に在す。其の人終わる時に心顚倒せずして、即ち阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを得ん」
しかしながら開目抄において「華厳・乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きかくさせ給へり」(御書全集197頁10行目)と指摘されているように、阿弥陀経も含めて爾前権教においては二乗自身の作仏が説き明かされていないのです。
阿弥陀経は経巻用の紙四枚で完結する極めて短い経典である。にもかかわらず、釈尊はその短い経の中で舎利弗の名前を30度も呼んでいる。
大聖人はこの阿弥陀経を取り上げ、舎利弗・舎利弗とやかましいほど呼びかけていながらも、この経は舎利弗の成仏は許していないことを指摘し、舎利弗など声聞の成仏は法華経にきて初めて許されたことを強調されています。つまり智慧第一の舎利弗ですら阿弥陀経においては往生も成仏も許されなかったのですから、まして、無智の末法の衆生が阿弥陀経によって極楽往生できるわけがないではないか、といわれているのです。
「一代聖教大意」には次のように仰せである。
「法華経已前の諸経は十界互具を明さざれば仏に成らんと願うには必ず九界を厭う九界を仏界に具せざるが故なり、されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず凡夫の身を仏に具すと云わざるが故に、されば人天悪人の身を失いて仏に成ると申す、此れをば妙楽大師は厭離断九の仏と名くされば爾前の経の人人は仏の九界の形を現ずるをば但仏の不思議の神変と思ひ仏の身に九界が本よりありて現ずるとは言わず、されば実を以てさぐり給うに法華経已前には但 権者の仏のみ有つて実の凡夫が仏に成りたりける事は無きなり、煩悩を断じ九界を厭うて仏に成らんと願うは実には 九界を離れたる仏無き故に往生したる実の凡夫も無し」(御書全集403頁9行目)
たとえ阿弥陀経で凡夫の往生が説かれていても、極楽浄土も、そこに住する阿弥陀仏自体も架空のものに過ぎないのです。阿弥陀経の極楽往生は、たんに九界を厭うのみに終わっているといってよい。それは凡夫の現世への執情を打ち破るために説かれたのであって、それ以上の意味はもらえないのです。ゆえに日寛上人は「開目抄愚記」で、このような爾前権教における成仏往生を有名無実と断じられています。
さらに、「小乗大乗分別抄」には、「法華経の心は法爾のことはりとして一切衆生に十界を具足せり、譬えば人・一人は必ず四大を以てつくれり一大かけなば人にあらじ、一切衆生のみならず十界の依正の二法・非情の草木・一微塵にいたるまで皆十界を具足せり、二乗界・仏にならずば余界の中の二乗界も仏になるべからず又余界の中の二乗界・仏にならずば余界の八界・仏になるべからず」(御書全集522頁1行目)と仰せられているように、一切衆生の十界のそれぞれに十界を具えている故に、十界の中の二乗が成仏しないということは、とりもなおさず他の八界に具わる二乗界も成仏しないということであり、そうであれば八界そのものの成仏もなく、結局、九界の衆生の成仏はありえないということにならざるを得ません。