下山御消息(第十一段第三)

下山御消息 第十一段第三(第三回国主諫暁と身延入山)

 建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基

しかるに、去ぬる文永十一年二月に佐土国より召し返されて、同四月の八日に平金吾に対面してありし時、理不尽の御勘気の由、委細に申し含めぬ。また「恨むらくは、この国すでに他国に破れんことのあさましさよ」と歎き申せしかば、金吾が云わく「いずれの比か大蒙古は寄せ候べき」と問いしかば、「経文には分明に年月を指したることはなけれども、天の御気色を拝見し奉るに、もっての外にこの国を睨みさせ給うか。今年は一定寄せぬと覚う。もし寄するならば、一人も面を向かう者あるべからず。これまた天の責めなり。日蓮をばわどのばらが用いぬものなれば、力及ばず。あなかしこ、あなかしこ。真言師等に調伏行わせ給うべからず。もし行わするほどならば、いよいよ悪しかるべき」由、申し付けて、さて帰ってありしに、上下共に先のごとく用いざりげにある上、本より存知せり、「国恩を報ぜんがために三度までは諫暁すべし。用いずば、山林に身を隠さん」とおもいしなり。また上古の本文にも「三度のいさめ用いずば去れ」という。本文に任せて、しばらく山中に罷り入りぬ。その上は、国主の用い給わざらんに、それ已下に法門申して何かせん。申したりとも、国もたすかるまじ。人もまた仏になるべしともおぼえず。

現代語訳

そして、去る文永十一年二月、佐渡の国より召し返されて同年四月八日に平左衛門尉と対面した時、佐渡流罪がいかに理不尽な罪であったかを詳しく説き聞かせたのです。更に「この国がいよいよ他国に攻め入れれようとしているのは情けないことです」と嘆いて言うと、平左衛門尉が問うて言うには「いつ頃、大蒙古は攻め寄せてくるであろうか」と。

そこで「経文にははっきりと年月を指し示していることはありませんが、天の様子を拝見してみると、ことのほかこの国を睨んでおられるようです。したがって、今年中には必ず攻め寄せて来ると思われます。もし寄せて来るならば、一人も面と立ち向かう者はいないでありましょう。これもまた天の責めなのです。日蓮のことをあなたがたが用いないのであるから致し方ありません。ゆめゆめ真言師等に蒙古の調伏を行わせてはなりません。もしそれを行わせたならば、ますます悪い結果になるでありましょう」という趣旨を申しつけて帰ったのです。

その後も国の上下共に以前と同じく私の諫言を用いそうにない上に、本より私は、国恩を報じるために三度までは諌暁しましょう。それでも用いられなければ山林に身を隠そうと決めていたのです。また古代の書の文にも「三度諌めて聞き入れられなければ去れ」とあり、この本文にしたがってしばらくこの身延の山中に入ったのです。

かくなる上は国主が諫言を用いようとしないのだから、臣下等にこの法門を話したところでどうにもならないでありましょうし、たとえ法門を説いたとしても国も助からないし、人々も成仏するとは思われないからです。

講義

文永11年(西暦1274年214日に幕府の赦免状が発せられ、38日に佐渡に届けられました。佐渡流罪赦免の理由は「中興入道御消息」に「科なき事すでに・あらわれて・いゐし事もむなしからざりけるかの・ゆへに、御一門・諸大名はゆるすべからざるよし申されけれども・相模守殿の御計らひばかりにて・ついにゆりて候いて」(御書全集1333頁14行目)と仰せられているように、大聖人の無罪が明確になったこと、他国侵逼の難の予言が的中したことを考慮して、北条時宗が周囲の反対を押し切って大聖人の赦免を決定したのです。

「光日房御書」には「文永十一年二月十四日の御赦免状・同三月八日に佐渡の国につきぬ・同十三日に国を立ちてまうらというつにをりて十四日は・かのつにとどまり、同じき十五日に越後の寺どまりのつに・つくべきが大風にはなたれ・さいわひにふつかぢをすぎてかしはざきにつきて、次の日はこうにつき・中十二日をへて三月二十六日に鎌倉へ入りぬ、同じき四月八日に平左衛門尉に見参す」(御書全集928頁2行目)と記されていることから、本抄の「二月に佐渡の国より召返されて」の部分は、赦免状が発せられた日を指して仰せられたと拝されます。

同年326日、佐渡より2年半ぶりに鎌倉に戻られた大聖人は、48日に平左衛門尉頼綱と対面されました。

「高橋入道殿御返事」には「ゆりて候いし時さどの国より・いかなる山中海辺にもまぎれ入るべかりしかども・此の事をいま一度平左衛門に申しきかせて日本国にせめのこされん衆生をたすけんがためにのぼりて候いき」(御書全集1461頁6行目)と述べられているように、流罪赦免後、佐渡の地からそのまま山でも海でもどこかに隠居してもよかったのですが、今一度、幕府を諌暁し、衆生を救わんがために鎌倉に戻ってこられたのです。

そして、平左衛門尉に会われた際に「やうやうの事ども・とひし中に蒙古国は・いつよすべきと申せしかば、今年よすべし、それにとて日蓮はなして日本国にたすくべき者一人もなし、たすからんとをもひしたうならば日本国の念仏者と禅と律僧等が頚を切つてゆいのはまにかくべし、それも今はすぎぬ・但し皆人のをもひて候は日蓮をば念仏師と禅と律をそしるとをもひて候、これは物のかずにてかずならず・真言宗と申す宗がうるわしき日本国の大なる呪咀の悪法なり、弘法大師と慈覚大師此の事にまどひて此の国を亡さんとするなり、設い二年三年にやぶるべき国なりとも真言師にいのらする程ならば一年半年に此のくにせめらるべしと申しきかせて候いき」(御書全集1460頁18行目)と3回目の国主諌暁をされました。

その時の様子は「種種御振舞御書」にも「同四月八日平左衛門尉に見参しぬ、さきには・にるべくもなく威儀を和らげて・ただしくする上」(御書全集921頁2行目)と述べられています。時宗の命を受けた平左衛門尉の態度は以前と異なり、威儀を和らげて法門のことや蒙古襲来の時期を問うた。それに対して、大聖人は必ずや今年中に蒙古国が攻めてくるであろうと予言されたのです。

しかしながら、大聖人の3度目の諌暁も結局、幕府の受け入れるところとはなりませんでした。そこで、大聖人は故事に従い、鎌倉を離れて身延に隠棲する決意を固められました。もとより、大聖人が身延に入られたのは、決して消極的な意味で世間から身を引いて閑静な地を求められたものではありませんでした。しかし、大聖人の身延入山に関して、これまで誤解や曲解が少なくないので、ここで身延入山の意義について確認しておきたいと思います。

まず身延到着の517日に著された「富木殿御書」に大聖人は、身延までの道中を示されたうえで「十七日このところ・いまださだまらずといえども、たいしはこの山中・心中に叶いて候へば・しばらくは候はんずらむ、結句は一人になりて日本国に流浪すべきみにて候、又たちとどまるみならば・けさんに入り候べし」(御書全集964頁3行目)と述べられています。

この短い御文から、①身延の山中が大聖人の当初のお考えに大体はかなっていたこと。②しかし、更にふさわしい地を求めて日本国中を巡ることもあるかも知れないと考えられていたこと、などの点が考察されます。つまり、大聖人にはっきりした目的意識があり、それにとりあえず叶っていたので身延にとどまられたということです。それを果たせば、他の所へ流浪すべき身であると仰せられているのです。故に本抄にも「且く山中に籠り入りぬ」と仰せられているのです。

では、なんのために大聖人は「身を隠さん」とされたのでありましょうか。ここから「隠栖」という言葉を当てはめたのであり、多くの人々は、「隠栖」という言葉から“世をはかなんで山に籠る”という印象を受けがちですが、大聖人の場合、決してそうではありません。

例えば、田村芳朗氏は「日蓮 殉教の如来使」という著書の中で先の富木殿御書の一節と南条殿御返事の「いかにも今は叶うまじき世にて候へば・かかる山中にも入りぬるなり、各各も不便とは思へども助けがたくやあらんずらん、よるひる法華経に申し候なり」(御書全集1535頁3行目)との御文を引いて「現実とのたたかいに刀おれ、矢つきた日蓮の姿が目にうかぶ」と述べていますが、これなどは勝手に描いたイメージであるといわざるをえません。

この南条殿御返事の一節は、大聖人が蒙古から日本国を守るために命がけで諌暁されたにもかかわらず、もはや幕府は聞く耳を持とうとしないので身延へ入山したことを述べられたものです。大聖人が517日に身延に着かれてから、1週間後の24日に「法華取要抄」という重書を書き上げられているという事実からも、「現実とのたたかいに刀おれ、矢つきた」というのは的はずれの想像に過ぎないことは明瞭でありましょう。

むしろ「法華取要抄」において三大秘法の南無妙法蓮華経が末法弘通の正体であることを初めて整足して説かれたことを踏まえるならば、身延入山の意義は大聖人の御化導のうえで重要な段階に入られたものとして拝する必要があります。すなわち、法華経の身業読誦を終えられた大聖人は、いよいよ末法の御本仏としての内証の法門である三大秘法を顕されるために閑静な地を必要とされたのではないでしょうか。その御化導の第一声として三大秘法開顕の重書たる「法華取要抄」をただちに著されたのです。

そして、この三大秘法の開顕が、大聖人出世の御本懐たる三大秘法の大御本尊の建立へとつながっていることはいうまでもありません。したがって、身延入山は、大聖人の御化導の上において要請されたものであり、その根本の意義は、末法万年の民衆救済へ本門戒壇の大御本尊を建立されるところにあったと拝されるのです。

このことは、報恩抄の「賢人のならひ心には遁世とは・おもはねども人は遁世とこそ・おもうらんに」(御書全集323頁17行目)との御文や、報恩抄送文の「自身は内心は存ぜずといへども人目には遁世のやうに見えて候へば」(御書全集330頁4行目)との御文からも、大聖人が「遁世」という世間的な見方とは全く別の御気持ちで身延に入山されたことが明らかに拝察されます。

弘安3年(西暦1280年10月に認められた「四条金吾殿御返事」には、次のように仰せです。

「倩事の情を案ずるに今は我身に過あらじ、或は命に及ばんとし弘長には伊豆の国・文永には佐渡の島・諌暁再三に及べば留難重畳せり、仏法中怨の誡責をも身には・はや免れぬらん。然るに今山林に世を遁れ道を進まんと思いしに人人の語・様様なりしかども旁存ずる旨ありしに依りて当国・当山に入りて已に七年の春秋を送る」(御書全集1193頁9行目)と。

このように、大聖人は考える所があって身延の山に表面上遁れられたのであって、その御真意は、末法万年にわたる広宣流布・了法久住の礎を築かれることにありました。そしてその根本こそ、「法華取要抄」に「是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か」(御書全集338頁2行目)と仰せのように、本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目の三大秘法を建立し、未来永劫にわたる広宣流布の根本を樹立されることにほかならなかったのです。

言い換えれば、身延入山の究極の目的は、御内証の法体の確立にありました。その意味で、大聖人が弘安2年(西暦1279年1012日、熱原の法難を機として本門戒壇の大御本尊を御図顕され、出世の本懐を遂げられたことは、大聖人の御化導の特質を象徴的に示しているのではなかろうか。つまり、大聖人は熱原の法難において一文不通の庶民が示した、自分の生命よりも仏法を大事にするという不退転、不惜身命の信心の姿に大御本尊建立の機が熟したことを鑑みられたものであります。

勿体ない言い方ですが、たとえ大聖人が一閻浮提総与の大御本尊を建立されたとしても、もし身命を賭してこれを守り伝えゆく人がいなければ、大聖人の三大秘法を令法久住せしめることができないのです。しかも、武士や僧侶ではなく、圧倒的多数を占める庶民の中にこのような信心が確立したことは、大聖人の仏法が未来永遠に伝えられていく条件が整ったことになるのです。権力者の動向によって左右されることのない庶民の中にこそ、大聖人の生命は脈々と伝えられていくからです。

大聖人が身延に入られて弟子の育成に力を注がれたのも、すべては大御本尊の建立、末法万年にわたる広布の基盤を確立されるためであったと拝されます。

この意味において、本抄で「国主の用い給はざらんに其れ已下に法門申して何かせん申したりとも国もたすかるまじ人も又仏になるべしともおぼへず」と仰せられているのも、一見すると冷たく、突き放された御言葉に受け止められかねないですが、決してそうではありません。

これは幕府に対して諌暁をこれ以上続けたとしても、広布の進展はもはや期待できないことを述べられたものと拝されます。そして、広宣流布の遠い未来を展望され、庶民の中に広宣流布の確たる道を開かれるべく身延に入山されたと拝されるのです。それは、民衆に根差した大聖人の仏法の特質よりすれば、ある意味で必然であったといえるのです。

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