下山御消息(第十一段第一)

下山御消息 第十一段第一(御成敗式目と幕府権力の迫害)

 建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基

そもそも、日本国の国主となりて、万事を心に任せ給えり。何事も両方を召し合わせてこそ勝負を決し御成敗をなす人の、いかなれば、日蓮一人に限って、諸僧等に召し合わせずして大科に行わるるらん。これひとえに、ただ事にあらず。たとい日蓮は大科の者なりとも、国は安穏なるべからず。御式目を見るに、五十一箇条を立てて、終わりに起請文を書き載せたり。第一・第二は神事・仏事、乃至五十一等云々。神事・仏事の肝要たる法華経を手ににぎれる者を、讒人等に召し合わせられずして、彼らが申すままに頸に及ぶ。しかれば、他事の中にもこの起請文に相違する政道は有るらめども、これは第一の大事なり。日蓮がにくさに国をかえ身を失わんとせらるるか。
魯の哀公が忘るることの第一なることを記せらるるには、「移宅に妻をわする」と云々。孔子云わく「身をわするる者あり。国主と成って政道を曲ぐる、これなり」云々。はたまた国主はこのことを委細には知らせ給わざるか。いかに知らせ給わずとのべらるるとも、法華経の大怨敵と成り給いぬる重科は脱るべしや。

現代語訳

そもそも日本国の主となってすべては自分の思うがままであり、何事も双方の当事者を召し合わせて勝負を決し裁くべき人でありながら、何故に日蓮一人に限って諸僧たちと対決させることなく大罪に処されたのでありましょうか。これは全くただ事ではありません。たとえ日蓮が大罪の者であったとしても、このような理不尽がまかりとおっては国の安穏があるはずがありません。

御成敗式目を見ると五十一箇条を立てて、その最後に起請文を載せています。第一条・第二条には神事・仏事のことが記され、以下五十一箇条となっています。神事・仏事の肝要である法華経を手に持った者を讒言者等にも召し合わせないで彼等の言うがままに斬首しようとしたのです。それゆえ、他にもこの起請文に相違する政道はあるだろうけれども、これこそは最第一の重大事です。日蓮に対する憎さのゆえに国を滅ぼし身を失おうとされるのでしょうか。

魯の哀公が物忘れの最もひどい例として、転居の際に自分の移宅に妻を忘れたという故事を記しています。孔子がいうには「わが身を忘れる者がいる。すなわち国主となって政道を曲げている者がそれである」と。

それともまた国主はこのことを詳しくはご存知ないのでありましょうか。しかし、いくら知らないといわれても、法華経の大怨敵となってしまった重罪は免れることができるでありましょうか。

講義

ここでは、竜の口における斬首、佐渡流罪という幕府の大聖人に対する弾圧が、政道に外れた理不尽な処分であるとともに、仏法上からも大罪を免えることができないと厳しく指摘され、幕府を諌められています。

貞永元年(西暦1232年)時の執権・北条泰時は御成敗式目を制定しました。御成敗式目制定の直接の目的は、泰時の弟が駿河守北条重時に送った書状の中にも記されています。

「雑務御成敗のあひだ、おなじ躰なる事をも、強きは申とをし、弱きはうづもるヽやうに侯を、ずいぶんに精好せられ侯へども、おのづから人にしたがう軽重などの出来侯ざらんために、かねて式条をつくられ侯」

つまり、裁判では、強い方は自分の言い分を力で押し通し、弱い方が負けてしまうことが往々にしてあり、たとえ裁判に慎重を期しても、裁く人によって、その裁判の結果が異なってくることがあります。そうしたことが起こらないように式条を制定したということです。公平な裁判が行われるようにすることがその目的であったことがわかります。

それまでにも成分化した法典として、公家法といって、康保4年(西暦967年)に施行された延喜式がありました。この基本理念は律令であり、中国における制度を模倣したものでした。そのため公家法は用語・文章といった形式面がやたらと複雑で、発生した諸問題を解決する実質的な法としての能力は低かったのです。加えて、公家社会を対象としていた公家法が、異質な秩序体制を基本とする武家社会に対しては、なおさら役に立たなかったのです。

当初、鎌倉幕府では武士社会の規範や先例をもとに裁判を行っていましたが、基本原則が成分化されていないため、裁判基準が曖昧なことが多く、訴訟の当事者の身分の上下によって判決内容が変化することがしばしばで、身分の低いものに不利な結末を招くことが度々あったものと思われます。こうした裁判の不公平をなくし、これによって鎌倉幕府に以信を向上させることが御成敗式目の直接的な目的であったといえよましょう。

その他に実質的な目的もありました。それは植木直一郎著「御成敗式目研究」において指摘されているように、当時、公領荘園の領主と新進の地頭との間に領地問題が頻繁に起こっており、その訴訟を円滑に解決する必要に迫られたことです。この所領に関するトラブルはともすれば封建制度の基盤をゆるがすことになっただけに、ないがしろにはできなかったのです。

旧来の公領荘園領主と新進の地頭との間の争いが発生したのは、源頼朝が相伝の所領の他に後白河法皇より平家没官領を拝受したこと、さらには諸国の叛乱を取り締まるという名目で日本総守護、地頭職に補任されたことに原因があったといえます。

つまり地頭職となった頼朝は公領荘園に御家人を地頭として配置し、公領荘園における下地徴収権ならびに進止権を得ました。その権限を盾にとって地頭は度々公領荘園を不法侵略し、あるいは年貢公事の抑留を行って旧来の領主を悩ましたのです。このトラブルを何とか回避しようとして、多くの領主は領地の一部を地頭に分け与えて譲歩しましたが、なかには幕府に訴訟を起こすという対抗処置をとった者もいたのです。

歴史的に見ると、この公領荘園の武家による浸食は、以後ますます進行し、室町時代には完全に武家領に吸収されたのです。しかし、まだ、その進行過程にあった鎌倉時代には、公領荘園の領主・公家・そして武家との間の力関係が拮抗しており、幕府体制を安泰ならしめるためには、とくに地頭が関係していた領地問題を円滑に解決せねばならないという緊急の要請がありました。このことは51箇条から成る御成敗式目のうち、領地に関する条項が18箇条、守護・地頭に関するものが5箇条と多く含まれていることもうかがい知れましょう。

この領主と地頭との紛争は、日蓮大聖人御生誕の地・安房東条の郷でも起こっています。地頭東条左衛門景信は、極楽寺重時の強力なバックアップのもとで、その権力をかさに領家の尼から領地を略奪しようと図りました、しかし、「清澄寺大衆中」に「日蓮敵をなして領家のかたうどとなり清澄・二間の二箇の寺・東条が方につくならば日蓮法華経をすてんと、せいじやうの起請をかいて日蓮が御本尊の手にゆいつけていのりて一年が内に両寺は東条が手をはなれ候いしなり」(御書全集894頁15行目)と記されているように、大聖人が領家の味方となって応援されたことにより、一年にして裁判に勝訴し、清澄・二間の二箇寺も、東条景信の手から守ることができました。日蓮大聖人の強い祈りと、裁判に対する適切な指導により、領家は勝訴することができたのです。この領地争いに負けたことから、東条景信は日蓮大聖人への憎悪をいっそう募らせ、その後、小松原で大聖人を殺そうと謀ったのです。

御成敗式目は緊急に解決すべき問題に対して定められた部分法典です。このため51箇条という数少ない条項のみでは、現実の多岐にわたるトラブルを裁定できないということは、式目制定時に既に予想されていました。

そこで式目の適用能力を高めるためにとられた措置は、執行者の自由裁定を公忍したことです。この考えは、執行者が道理に則って、正当な裁判を行うであろうとの楽観的な見解に基づいてなされたものです。

事実、御成敗式目の最後の起請文に「裁判に際しては好き嫌いなく道理によって判断すべきである。そして権威を恐れず、正々堂々と発言せよ」との趣旨の内容が書かれています。このような精神は既に紀元前3世紀頃の中国の律において説かれたものですが、これはあくまで建前にしか過ぎず、現実には圧倒的多数の事例において裁判官の好みや感情によって判決内容が変化したのが、中国も含めて変らざる実態であったと言わざるを得ません。

ところで、日蓮大聖人の佐渡流罪の刑は、表面的には、次にあげる御成敗式目第12条の「悪口の咎のこと」を適用したものと思われる。

「第12条:「悪口の罪について」

争いの元である悪口はこれを禁止する。重大な悪口は流罪とし、軽い場合でも牢に入れる。また、裁判中に相手の悪口をいった者は直ちにその者の負けとする。また、裁判の理由が無いのに訴えた場合はその者の領地を没収し領地がない場合は流罪とする」

鎌倉時代においては、世情が騒然としており、悪口から刃傷沙汰になった事件も多かった。このため悪口のひどい場合は流罪に処すというのです。しかし、いかなる内容の悪口をすると流罪になるかという具体的な罪状は規定されていません。

本抄で「都て一分の科もなくして佐渡の国へ流罪せらる」と仰せのように、大聖人は経文を基に仏法の正邪を訴えられたのであり、その大聖人を重い流罪の刑に処したことは、讒言を一方的に聞き入れた理不尽な裁判であったと思われます。こうした非法の裁判を可能ならしめたのも、「悪口」という内容に定義がなく、御成敗式目の自由裁量という制度を権力者側が恣意的に利用した結果であったともいえるでしょう。成文法典が制定されたといっても、大聖人の時代は法政治には程遠い状態でした。

次に、第12条の「悪口の咎の事」を見る限り、たとえどれだけ悪口を言っても死刑に処せられることはあり得ません。そのために「外には遠流と聞えしかども内には頚を切ると定めぬ」との御文の通り、平左衛門尉頼綱や幕府の要人は、表向きは流罪と定め、実際は闇にまぎれて大聖人を殺害しようと決めていたのです。それが文永8年(西暦1271年912日の竜の口の法難でした。

この理不尽な行為は鎌倉幕府の規範である式目に違背しているゆえに、若き執権時光には知らされていなかったようです。それを、本文では「将又国主は此の事を委細には知らせ給はざるか」と述べられたものと推測されます。

ただし、どんなに知らなかったと言ったとしても、仏法の次元から見た時、法華経の大怨敵となったことの罪は免れるものではないと厳しく指摘されています。

鎌倉幕府の裁判で刑事訴訟を扱う検断沙汰は、告訴がなければ審理は行わないという弾訴主義が取られていました。したがって、日蓮大聖人を悪口の咎で告訴した者がいたゆえに文永8年(1271912日、召し捕えられて審議が行われたのです。御成敗式目の精神からすれば、告訴側と大聖人の両方を召し合わせるのが当然であったでしょう。しかし、最後まで告訴人が明確でなく、正当な手続きを経た裁判とはなっていなかったと思われます。

また、式目の第1条は「神社を修理し、祭祀を専らにすべき事」、同じく第2条には「寺塔を修造し、仏事等を勤行すべき事」とあり、神事・仏事に関して定めています。さらに既に見たように式目の最後には起請文が記され、道理に違背した裁判を行ったなら神罰を受けると誓っています。

この起請文に記されている梵天・帝釈・四天王は法華経の行者を守護すると誓った諸天善神です。この法華経の行者を一方的な讒言により斬首しようとしたことは、起請文のこれらの誓いを破ったことになるのです。

こうした理由から、大聖人は「御式目を見るに五十一箇条を立てて終りに起請文を書載せたり、第一・第二は神事・仏事・乃至五十一等云云、神事仏事の肝要たる法華経を手ににぎれる者を讒人等に召合せられずして彼等が申すままに頚に及ぶ然れば他事の中にも此の起請文に相違する政道は有るらめども此れは第一の大事なり」と仰せられているのです。

ところで、式目の最後に起請文を載せたことは単なるアクセサリーではなく、現実的な意味がありました。

すなわち、鎌倉幕府では裁判の際、証文・証人・起請文という順に採用していましたが、この場合の起請文というのは、裁判の過程で偽りを言っているならば神仏の罰を受ける旨の起請文を書いて、例えば、一定期間神社の御堂に籠り、その期間中に病気等になって起請の失がおこったなら、それは偽証であると断定したシステムをいいます。

このようなことからも、式目の最後の起請文を幕府が自ら反古にしたことは、自ら裁判の基本原理を破壊したことに通じるのです。

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