下山御消息 第十段第三(佐渡流罪と竜の口の法難)
建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基
今度、法華経の大怨敵を見て、経文のごとく、父母・師匠・朝敵・宿世の敵のごとく散々に責むるならば、定めて万人もいかり、国主も讒言を収めて、流罪し、頸にも及ばんずらん。その時、仏前にして誓状せし梵釈・日月・四天の願をもはたさせたてまつり、「法華経の行者をあだまんものを須臾ものがさじ」と起請せしを、身にあてて心みん。釈尊・多宝・十方分身の諸仏の、あるいは共に宿し、あるいは衣を覆われ、あるいは守護せんとねんごろに説かせ給いしをも、実か虚言かと知って信心をも増長せんと退転なくはげみしほどに、案にたがわず、去ぬる文永八年九月十二日、すべて一分の科もなくして佐土国へ流罪せらる。外には遠流と聞こえしかども、内には頸を切ると定めぬ。
余、また、兼ねてこのことを推せし故に、弟子に向かって云わく「我が願、既に遂げぬ。悦び身に余れり。人身は受けがたくして破れやすし。過去遠々劫より由なきことには身をば失いしかども、法華経のために命をすてたることはなし。我、頸を刎ねられて、師子尊者が絶えたる跡を継ぎ、天台・伝教の功にも超え、付法蔵の二十五人に一りを加えて二十六人となり、不軽菩薩の行にも越えて釈迦・多宝・十方の諸仏にいかがせんとなげかせまいらせん」と思いし故に、言をもおしまず、已前にありしこと、後にあるべきことの様を平金吾に申し含めぬ。この語しげければ、委細にはかかず。
現代語訳
今、法華経の大怨敵を見て、経文の通りに父母・師匠の敵、朝廷の敵、宿世の敵に対するように激しく訶責するならば、必ず万人も怒り、国主も讒言を聞き入れて流罪に処したり、首を切ろうとするに違いありません。
その時、仏前に誓いを立てた梵天・帝釈・日月・四天などの諸天善人の誓いをも果たさせ申し上げ、法華経の行者をあだむ者を瞬時たりとも見逃してはならないと誓ったことを自身の身にあてて試してみせましょう。
釈尊・多宝如来・十方分身の諸仏が法華経の行者と宿所を共にし、或いは衣で覆い、或いは守護すると懇切に説かれたことが、本当か嘘であるかを知って、信心をもさらに深めようと思って退転することなく励んだところ、思っていた通り、去る文永八年九月十二日に、全く科もないのに佐渡へ流されることになりました。
表向きは遠流と伝えられていたけれども、内々には首を切ると定められていたのです。私は、このことを前々から予測していたが故に、弟子に向かって言っていたのです。
「我が願いは既に成就しました。その悦びは身に余るものがあります。人として生を受けることは難しく、また失いやすいものです。過去遠遠劫の昔より無意味なことに命を失っても、法華経のために命を捨てたことはありません。私は首を刎ねられることによって、師子尊者で絶えた付法蔵の跡を継ぎ、天台大師・伝教大師の功績をも超えて、付法蔵の二十五人に一を加えて二十六人目となり、 不軽菩薩の修行にも勝って、釈迦・多宝・十方の諸仏に『いったいどのようにしてこの行者を遇すればよいだろか』と嘆かせ申し上げたいものだ」と。
またこの故に、言葉をも惜しまず、これまでにあったこと、これから起きるであろうことを平左衛門尉頼綱に言い聞かせ、警告したのです。この時の言葉は繁多であるから詳しくは記さないことにします。
講義
大聖人は、文永5年(西暦1268年)の蒙古の使者の来日を機に、ますます強く幕府を諌められました。このことが、文永8年(西暦1271年)の竜の口の法難、佐渡流罪へとつながっていきます。しかし、その陰には、祈雨の勝負で大聖人に敗れた良観の怨念による讒言工作があったことは、「種種御振舞御書」に詳しく述べられているところです。
文永8年(西暦1271年)9月12日、大聖人は幕府へ召喚され、平左衛門尉頼綱の尋問を受けられました。「種種御振舞御書」によれば、その際、大聖人は「故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し道隆上人・良観上人等を頚をはねよと申す、御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし、但し上件の事・一定申すか」(御書全集911頁4行目)と尋問されたといいます。
これに対して、大聖人は「その通りに言いました。ただし、最明寺入道・極楽寺入道が謗法を捨て正法に帰依しなければ地獄に堕ちるであろうということは二人の存命中に既に言ってきたことであり、二人の死後にはじめていったかのように非難するのはつくりごとです」との趣旨を述べられ、これらは国を思うゆえに言ったのであるから、仏法に関しては良観らと召し合わせて聞くべきです。それをしないで一方的に仏の使いである日蓮を害するならば、百日・一年・七年のうち必ず自界叛逆難と他国侵逼難の二難が起こると厳しく諌暁されたのです。
これに対して平左衛門尉は怒りを増長させただけで全く聞き入れようとしませんでした。そこで大聖人は平左衛門尉に反省を促すため、9月12日、書状を送られました。しかし、平左衛門尉は数百人の武装した兵士を率いて松葉ヶ谷の草庵を襲い、大聖人を捕らえ、重罪人のごとく鎌倉の街中を引き回した後、幕府へ連行しました。
そして、幕府が決定した表向きの罪状は遠流でしたが、本抄でも指摘されているように、ひそかに斬首しようと内々決められていたのです。このことは「妙法尼御前御返事」にも「外には遠流と聞こへしかども内には頚を切るべしとて、鎌倉竜の口と申す処に九月十二日の丑の時に頚の座に引きすへられて候いき」(御書全集1413頁11行目)と仰せられています。
子の刻、役人たちは大聖人を引き連れて北条宣時の邸を出発しました。ここに大聖人を人目に触れず闇から闇へ葬ろうとの魂胆があったことは明らかでありましょう。
しかし、竜の口の刑場に到着し、大聖人の頸をいよいよ切ろうとした時、「種種御振舞御書」に「江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ人の面も・みへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥し兵共おぢ怖れ・けうさめて一町計りはせのき」(御書全集914頁1行目)と記されているように、突然夜空に光り物が出現して、結果として大聖人は斬首を免れたのです。
この竜の口の法難は、大聖人御一代の御化導において極めて重要な意義を持っています。それは「開目抄」に「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて」(御書全集223頁16行目)と仰せになっているように、この竜の口の法難を機に大聖人は発迹顕本されたからです。ここに、「迹」とは大聖人における上行菩薩の再誕としての垂迹の立場であり、「本」とは久遠元初自受用身如来としての本地を指しています。
他門流では、迹は凡夫たる日蓮大聖人で、本地を上行菩薩と誤って解釈しています。既に建長5年(西暦1253年)の立教開宗から竜の口の法難に至るまで大聖人の御化導は、まさに上行菩薩としての御振る舞いそのものであり、このことは諸御書の御指南に照らして明らかでありましょう。
「法華取要抄」に「日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(御書全集336頁8行目)と仰せのように、そもそも題目を唱え出されていること自体、付嘱なしでは不可能なことです。「御講聞書」には「今末法に入つて上行所伝の本法の南無妙法蓮華経を弘め奉る、日蓮・世間に出世すと云えども、三十二歳までは、此の題目を唱え出さざるは、仏法不現前なり」(御書全集830頁13行目)と御教示されています。
しかし、上行菩薩の再誕といえども外用の姿であり、その迹を発われて久遠元初自受用報身としての本地を顕されたのが竜の口の法難でした。
こうした法難が我が身にふりかかることを大聖人はもとより予想されていたので、弟子に向かって「我が願既に遂ぬ悦び身に余れり」と仰せられたといいます。弟子とは、おそらく竜の口の法難で、お供した四条金吾であろうと拝されます。
先の種種御振舞御書でも、知らせを受けて駆け付けた四条金吾に「今夜頚切られへ・まかるなり、この数年が間・願いつる事これなり、此の娑婆世界にして・きじとなりし時は・たかにつかまれ・ねずみとなりし時は・ねこにくらわれき、或はめこのかたきに身を失いし事・大地微塵より多し、法華経の御ためには一度だも失うことなし、されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養・心にたらず国の恩を報ずべき力なし、今度頚を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん其のあまりは弟子檀那等にはぶくべしと申せし事これなりと」(御書全集913頁12行目)と告げたことを記されています。
身命に及ぶ法難を身に余る悦びとされているのは、これによって成仏は疑いないがゆえです。「佐渡御勘気抄」には「仏になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと・をしはからる、既に経文のごとく悪口・罵詈・刀杖・瓦礫・数数見擯出と説かれてかかるめに値い候こそ法華経をよむにて候らめと、いよいよ信心もおこり後生もたのもしく候、死して候はば必ず各各をも・たすけたてまつるべし、天竺に師子尊者と申せし人は檀弥羅王に頚をはねられ提婆菩薩は外道につきころさる、 漢土に竺の道生と申せし人は蘇山と申す所へながさる、法道三蔵は面にかなやきをやかれて江南と申す所へながされき、是れ皆法華経のとく仏法のゆへなり、日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり、いたづらに・くちん身を法華経の御故に捨てまいらせん事あに石に金を・かふるにあらずや、各各なげかせ給うべからず」(御書全集891頁2行目)と仰せられています。
また、流罪の翌年の文永9年(西暦1272年)3月に著された「佐渡御書」には「世間の浅き事には身命を失へども 大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし」(御書全集956頁11行目)と述べられ、同年4月に同じく富木常忍に宛てられた御消息でも「日蓮が臨終一分も疑無く頭を刎ねらるる時は殊に喜悦有るべし、大賊に値うて大毒を宝珠に易ゆと思う可きか」(御書全集962頁2行目、富木殿御返事)と認められているように、大聖人は竜の口の法難・佐渡流罪という身命に及ぶ大難を一貫してむしろ喜ばしい限りであると法華経身読の歓喜を明かされながら、このような難こそ成仏のまたとない機会であることを弟子門下に繰り返し教えられているのです。