下山御消息 第八段第四(慈覚・智証は仏法の大怨敵)
建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基
しかるに、智証大師は慈覚の御ためにも御弟子なりしかば、遺言に任せて宣旨を申し下し給う。いわゆる、「真言・法華斉等なり。譬えば、鳥の二つの翼、人の両目のごとし」、また「叡山も八宗なるべし」と云々。この両人は、身は叡山の雲の上に臥すといえども、心は東寺里中の塵にまじわる。本師の遺跡を紹継するようにて、還って聖人の正義を忽諸し給えり。法華経の「諸経の中において最もその上に在り」の「上」の字をうちかえして大日経の下に置き、まず大師の怨敵となるのみならず、存外に釈迦・多宝・十方分身・大日如来等の諸仏の讐敵となり給う。されば、慈覚大師の夢に日輪を射ると見しはこれなり。仏法の大科これよりはじまる。日本国亡国となるべき先兆なり。
棟梁たる法華経、既に大日経の椽梠となりぬ。王法も下剋上して王位も臣下に随うべかりしを、その時また一類の学者有って堅くこの法門を諍論せし上、座主も両方を兼ねて、事いまだきれざりしかば、世もたちまちにほろびずありけるか。
現代語訳
ところが智証大師は慈覚にとっても弟子であったので、慈覚の遺言に従い宣旨を願い出られました。いわゆる「真言と法華は同等であり、例えば鳥の二つの翼、人の両目のようなものであり、また叡山を中心とする七宗に真言宗を加えて八宗とすべきである」というものです。
この二人は、その身は比叡山の雲の上にあるといっても、その心は東寺の里中の塵に交わっているのです。本師伝教大師の遺跡を紹継するように見えて、かえって聖人の正義をないがしろにされたのです。法華経安楽行品第十四の「於諸経中最在其上」の上の字を打ち返して大日経の下に置き、まず伝教大師の怨敵となるのみならず、思いもかけず釈迦・多宝・十方分身・大日如来等の諸仏の仇となってしまったのです。
したがって慈覚大師が夢の中で日輪を射るのを見たとはこのことなのです。日本国における仏法の大科は実にここから始まりました。またこれは日本国が亡国となるべき先兆でもありました。棟梁であるべき法華経は既に大日経の椽梠となってしまったのです。
王法の世界においても下剋上の世となり、王位にある者がその臣下の者に従わなければならなくなったのですが、この時は、まだ厳正にこの法門、すなわち天台・真言の勝劣・浅深について論争を行う一部の学者もいたうえ、天台座主も法華経と大日経とをあわせ持ち、その論争にまだ決着がついていなかったので世もすぐには滅びなかったのでありましょうか。
講義
慈覚の理同事勝の誤った教判を受け継いで天台宗の真言密教化を決定的にしたのが叡山第五代座主智証大師円珍でした。
智証は、15歳で叡山に登り、義真に師事しましたが、智証自身、遺言に「余慈覚大師に随いて重ねて真言の奥旨を極めたり。余が門徒は、正月14日を以て、先師の為に曼荼羅供を奉修し、並びに10人の碩学の輩を堀請し、一乗の深義を講じ、大師の法楽に備えよ」と記しているように、慈覚を師と仰いでいました。そして慈覚が定観6年(西暦864年)に死去すると、その意志を継いで貞観8年(西暦866年)5月29日、「真言・止観・両教の宗同じく醍醐と号し、俱に深秘と称す」との宣旨を願い出ました。
同年6月3日の宣旨には、「止観真言、その義異なると雖も、于に仏法を説尽し、実教を究竟するに至れり。其れ到一なり。是れを以て、故伝燈大法師位最澄、詳かに両業一味なるを知んぬ。誓って、国を護るを以て、彼此兼行す。譬えば、猶人の両目、鳥の双翼の如き者なり。先師既に両業を開いて、以て我が道と為す。代々の座主相承して兼ね伝えざること莫し。在後の輩、豈旧迹に乖かんや。聞くならく、山上の僧等、専ら先師の誓いに違いて偏執の心を成ず。殆ど以て余風を扇揚し旧業を興隆するを顧みず。凡そ厥の師資の道、一を闕きても不可なり。伝弘の勤め、寧ろ兼備せざらんや。今より以後、宣しく両業に通達するの人を以延暦寺の座主と為し立て恒例と為すべし」とあります。
これは真言密教と法華経とを同等とする、いわゆる円密一致の業を上表したものです。ところで智証は、宣旨を願い出るにあたっては法華・真言同等としながら、著書においては理同事勝の義を唱えています。また、智証は慈覚の遺志を継いで、元慶2年(西暦878年)12月2日、金剛頂経疏・蘇悉地経疏を流伝すべく宣旨を願い出ています。
こうして、慈覚と智証の二人は、身は法華経最勝の法門を立てた伝教大師の末弟子でありながら、心は大日経を根本とする当時に寄せて、叡山を真言の邪義で汚してしまったのです。
伝教大師は法華宗句巻下において法華経迹門十四品の「此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於いて、最も其の上に在り」の文を引いて、次のように述べています。
「明らかに知りぬ、天台所釈の法華の宗は釈迦世尊所立の宗なることを。天台法華宗は諸宗に勝るとは所依の経に據るが故なり」と。
この文に明らかなように、伝教大師は法華経最勝こそ釈尊の真意であるとして、天台法華宗は釈尊の立てた宗であり、故に天台法華宗は他の諸宗に勝っていると断言しているのです。まして、先に見たように伝教大師は真言密経を一宗として認めることさえしなかったのです。それは、善無畏・金剛智・不空三蔵を経て中国に伝えられた真言密教が天台大師の法門を盗み入れたものであることを看破していたからです。
ところが、慈覚・智証は、顕劣密勝を唱え、開祖の正義を蹂躙し、師敵対の怨敵となってしまったのでした。釈尊の正意に基づいて宗を立てた伝教大師に敵対したことは、取りも直さず釈尊に、また仏の説法の真実なることを証明した多宝・十方分身の諸仏に敵対したことにほかなりません。更には、大日如来は、釈尊の垂迹仏であるから、法華経を大日経より劣るとしたことは大日如来にも背くことになります。ゆえに大聖人は本抄で「釈迦・多宝・十方分身・大日如来等の諸仏の讎敵となり給う」と仰せられているのです。
この意味において、慈覚が日輪を弓矢で射たという夢は、一切諸仏に弓を引いたことのあらわれであり、大謗法の邪義たることの象徴にほかなりません。まさにこの夢は日本国の亡国を招く先兆となる凶夢であったのです。
法華経を劣とし大日経を勝とすることは、本来、棟梁たる法華経を、本来の臣下たる大日経の従者としてしまうことです。この、仏法上の下剋上の故に、王法のうえでも下剋上が起こってしまったのです。大聖人は、こうした慈覚・智証の邪義に対して意義を唱えて論争した一類の学者がいて、またその後の天台の座主の中にも法華経と大日経を共に用いて、その勝劣を明確にしなかったために、国も急に滅びることはなかったのであろう、と仰せられています。
大聖人が仰せの「一類の学者」が誰を指しているかは詳かではありませんが、中興の祖といわれる第18代座主慈慧大師良源以降、慧心僧都源信等が叡山宗学を再興し、天台大師・伝教大師の法華一乗を宣揚したことを言われていると思われます。
源信は寛和元年(西暦985年)に唱名念仏こそ極楽往生の肝要であると説いた往生要宗を著して、浄土宗の開祖・法然に強い影響を与えた人ですが、寛弘3年(西暦1006年)頃には一乗要決を著して、法華経の一乗思想を大いに宣揚しました。大聖人は「守護国家論」において「往生要集の意は爾前最上の念仏を以て法華最下の功徳に対して人をして法華経に入らしめんが為に造る所の書なり、故に往生要集の後に一乗要決を造つて自身の内証を述ぶる時・法華経を以て本意と為すなり」(御書全集50頁2行目)と述べられています。
この源信を祖とするいわゆる慧心流から出た第46代座主の東陽房忠尋は、天台三大部の注釈書を著し天台宗学の興隆に努めました。また、法池房証真も三大部私記30巻を述作し、もっぱら天台学の研鑽・宣揚に力を注いだ一人です。
これらの人々は、慈覚・智証によって密教化された叡山の教学を天台大師・伝教大師の教義に立ち返って再興しようとしたといえるでありましょう。しかし、慈覚・智証は日本天台宗において聖祖として仰がれた人物であり、彼らにしてもその邪義を厳しく責めるまでには至らなかったようです。大聖人は、「太田殿女房御返事」に次のように仰せです。
「弘法.慈覚・智証等は此の法門に迷惑せる人なりとみ候、何に況や其の已下の古徳.先徳等は言うに足らず、但天台の第四十六の座主・ 東陽の忠尋と申す人こそ此の法門はすこしあやぶまれて候事は候へ、然れども天台の座主慈覚の末をうくる人なれば・いつわりをろかにて・さてはてぬるか、其の上日本国に生を受くる人はいかでか心には.をもうとも言に出し候べき」(御書全集1006頁3行目)と。