下山御消息 第八段第三(慈覚の邪義)
建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基
しかれども、本師の跡を紹継する人々は叡山はただ七宗にてこそあるべきに、教大師の第三の弟子・慈覚大師と、叡山第一の座主義真和尚の末弟子・智証大師と、この二人は漢土に渡り給いし時、日本国にて一国の大事と諍論せしことなれば、天台・真言の碩学等に値い給うごとに勝劣・浅深を尋ね給う。しかるに、その時の明匠等も、あるいは真言宗勝れ、あるいは天台宗勝れ、あるいは二宗斉等、あるいは「理は同じく事は異なり」といえども、ともに慥かの証文をば出ださず。二宗の学者等、しかしながら胸臆の言なり。しかるに、慈覚大師は学極めずして帰朝して疏十四巻を作れり。いわゆる金剛頂経の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻なり。この疏の為体は、「法華経と大日経等の三部経とは、理は同じく事は異なり」等云々。この疏の心は、大日経の疏と義釈との心を出だすか。なお不審あきらめがたかりけるかの故に、本尊の御前に疏を指し置いて「この疏、仏意に叶えりやいなや」と祈せいせしところに、夢に日輪を射ると云々。うちおどろきて「吉夢なり。真言勝れたること疑いなし」とおもいて、宣旨を申し下す。日本国に弘通せんとし給いしが、ほどなく疫病やみて四箇月と申せしかば、跡もなくうせ給いぬ。
現代語訳
しかし、本師伝教大師の跡を継ぐ人々であれば、比叡山は唯七宗に限定すべきであるのに、伝教大師の第三の弟子である慈覚大師と比叡山延暦寺第一の座主義真和尚の末弟子である智証大師の二人は中国に渡られた折、天台と真言の勝劣は日本国において一国の大事であり諍論の的であったので、天台・真言の碩学に会われるたびにその勝劣・浅深について尋ねられました。
しかしながら、その時の優れた学者等も、ある人は真言宗が勝れていると言い、ある人は天台宗が勝れているといい、またある人は二宗は等しいと言い、またある人は理は同じで事において異なっていると言いました。しかしながらいずれも明らかな証文を示すことがなかったので、二宗の学者等は全く憶測で言ったにすぎないのです。
ところが慈覚大師は学を極めないまま帰朝し、二経の注釈書十四巻を作りました。いわゆる金剛頂経の疏七巻と蘇悉地経の疏七巻です。この疏の内容は法華経と大日経の三部経とは理においては同じであり事においては異なるというものです。
この疏の本旨は大日経の疏と義釈の要旨に基づいたものでしたが、それでも不審が残ったのか、慈覚大師は、本尊の御前にこの疏を安置し、この疏が仏意に叶っているかどうかと祈請したところ、夢に日輪を射たといいます。目をさまして吉夢です。真言が勝れていることは疑いないと思い、宣旨を願い出たのです。そして日本国に広く伝えようとされたが、ほどなく疫病にかかり四ケ月もしないうちに跡形もなく亡くなられたのです。
講義
伝教大師は真言宗の一宗を認めていなかったにもかかわらず、叡山第三代座主・慈覚と第五代座主・智証は、開祖の教えに背いて、真言宗を認めただけではなく、大日経は法華経より勝れているとの邪義を唱えたのでした。叡山の密教化はまさにこの二人に始まるのです。
慈覚は仁寿元年(西暦851年)に金剛頂経疏七巻、及び斉衡2年(西暦855年)に蘇悉地経疏七巻をそれぞれ著しましたが、秘蔵して世間に発表しませんでした。それは、これらの疏の内容が果たして正しいかどうか自信がなく、公表するのに躊躇していたためです。そして、これらの疏が仏意に通ずるか否かを祈禱したところ、日輪を射る夢を見たといいます。慈覚大師伝にはつぎのようにあります。
「斉衡二年、蘇失地経疏七巻を作る。大師、二経の疏を造り、功を已に成し畢って中心に独り謂えらく、この疏仏意に通ずるや否や、若し仏意に通ぜずんば、世に流伝せじと。仍って仏像の前に安置して、七日七夜,深誠を翹企して、勤修いて祈禱を行う。五日の五更に至って夢みらく、正午に当たって日輪を仰ぎ見て、弓を以て之を射る。其の箭日輪に当たって、日輪即ち転動すと。夢覚めての後、深く仏意に通達して後世に伝わる可しと悟れり」
すなわち慈覚は、仏像の前にこれらの疏を安置して7日7夜にわたり、心を込めて祈ったところ、5日目の夜明がたに至って夢を見ました。それは、太陽が輝いているのを仰ぎ見て弓をもってこれを射ると、その箭が太陽に命中し、太陽は動転して落ちた、というものでした。この夢によって、慈覚は自分の解釈が深く仏意に通達していると確信したというのです。
ところで、これらの疏の内容は「法華経と大日経等の真言三部経とは、説かれている法理は同じだが大日経には印・真言があるから、事相においては異なっている」というもので、善無畏の釈を一行が記した大日経疏と更に智儼・温古が校訂した大日経釈の邪義をそのまま踏襲したものでした。すなわち蘇悉地経疏巻第一・請問品第一で「彼の華厳等の経は、俱に密と為すと雖も、而も末だ如来秘密の旨を尽くさず。今、所立の真言経とは別なり。仮令、少しく密厳等を説くと雖も、末だ如来秘密の意を究尽すと為さず。今、所立の毘廬遮那・金剛頂等の経は、或く皆如来の事理具密の意を究尽す。是の故に別と為すなり」と述べられています。これは大日経・金剛頂経等の事理具密、その他の大乗教を理秘密とし、事相において真言が優れているというのです。慈覚は、それが正しいか否かの判断の根拠を日輪を射落とした夢に託し「智慧の矢すでに中道の日輪にあたりて」(御書全集281頁11行目、撰時抄)とし、智慧の矢すでに中道の日輪にあたりて、大日如来の心に通じたものと解釈し、これを弘める決意をしたというのです。
これは、まことに無責任な決断という以外にありません。知的営為を尽くして真理を探究することを放棄したもので、実に危険このうえないことでありましょう。
大聖人は、慈覚が、このように夢の判断の根拠としたことに対して「夢を本にはすべからず ただついさして法華経と大日経との勝劣を分明に説きたらん経論の文こそたいせちに候はめ」(御書全集282頁1行目、撰時抄)と厳しく破折されています。そして、更に「日輪を射るとゆめにみたるは吉夢なりというべきか」(御書全集282頁8行目、撰時抄)と難じられ「修羅は帝釈と合戦の時まづ日月をいたてまつる」(御書全集282頁11行目、撰時抄)「夏の桀・殷の紂と申せし悪王は常に日を身をほろぼし国をやぶる」(御書全集282頁12行目、撰時抄)などの事例を引かれ、慈覚の夢が吉夢ではなくむしろ凶夢であったと指摘されています。
太陽は尊ぶべき存在であるから、これを射ることは天照太神・伝教大師・釈迦仏・法華経を射ることの象徴であると述べられ、慈覚には愚かにも自分の智慧の矢が大日如来に通じた証拠と解したが「是れは慈覚大師の心中に修羅の入つて法華経の大日輪を射るにあらずや」(御書全集1024頁9行目、曾谷入道殿御書)と喝破されています。ゆえに本抄で、慈覚の夢が吉夢どころか「仏法の大科此れよりはじまる日本国亡国となるべき先兆なり」(御書全集353頁17行目)と断じられているのです。撰時抄にも「此の夢をもつて法華経に真言すぐれたりと申す人は今生には国を亡ぼし家を失ひ後生にはあび地獄に入るべし」(御書全集282頁15行目)と、現世において亡国・亡家の報いを受けるのみではなく、死後は無間地獄に堕ちると厳しく指摘されています。
慈覚の教判は、本抄で指摘されているように、基本的に善無畏の「理同事勝」を受け継いだものです。慈覚によれば、まず一代諸経は顕示教と秘密教に分けられ、そのうち顕教は世欲と勝義とが互いに隔たっていまだ円融していない故に三乗教であるのに対し、密教は両者が円融一体なることを説いている故に一乗教であるとしています。
さらに秘密教は理秘密と事理俱密の二教に分けられ、華厳・般若・維摩・法華・涅槃等の諸経は世俗と勝義との不二とを説いているが、いまだ真言密印の事を俱に説いている故に事理俱秘密にあたるといいます。ここに「世俗」とは凡夫が知る世間一般の道理をいい、「勝義」とは出世間の真理を指しており、いわゆる真俗二諦と同じ意味です。
この慈覚の教判は、善無畏が大日経疏で述べた「理同事勝」を繰り返しただけです。ゆえに大聖人は撰時抄で次のように指摘されています。
「釈の心は法華経と真言の三部との勝劣を定めさせ給うに真言の三部経と法華とは所詮の理は同じく一念三千の法門なり、しかれども密印と真言等の事法は法華経かけてをはせず法華経は理秘密・真言の三部経は事理倶密なれば天地雲泥なりとかかれたり」(御書全集281頁2行目)と。
天台座主記巻第一によると、慈覚は定観5年(西暦863年)10月18日に初めて熱病を患い、翌6年(西暦864年)正月14日になくなっています。金剛頂経疏を著したのは仁寿元年(西暦851年)、蘇悉地経疏は斉衡2年(西暦855年)ですから、慈覚がこの両疏の弘通を朝廷に願い出ようとしたのは、これらを述作して年月も経ち、臨終近くなってからのことでありましょう。それだけ、彼自身としてもこの内容には納得できないものがあったということでありましょう。
この点について、日好は録内扶老巻第十二で、慈覚大師は当時の王臣が帰依していた大徳であり、もし二経の疏を日本に流伝しようと宣旨を願い出ていれば、直ちに勅許があったことは必然であるとして、しかるに、既に勅許が下りないうちに逝去したのは、宣旨を願いでたのが臨終近い頃だったからであろうと推定しています。