下山殿御消息(第七段第一)

下山殿御消息 第七段第一(僭聖増上慢と大聖人の逢難)

 建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基

法華経に云わく「あるいは阿練若に納衣にして空閑に在って乃至利養に貪著するが故に、白衣のために法を説いて、世の恭敬するところとなること、六通の羅漢のごときもの有らん」。また云わく「常に大衆の中に在って我らを毀らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門・居士および余の比丘衆に向かって、誹謗して我が悪を説いて乃至悪鬼はその身に入って、我を罵詈・毀辱せん」。また云わく「濁世の悪比丘は、仏の方便、宜しきに随って説きたもうところの法を知らず、悪口して顰蹙し、しばしば擯出せられん」等云々。涅槃経に云わく「一闡提有って、羅漢の像を作して空処に住し、方等大乗経典を誹謗す。諸の凡夫人見已わって、皆『真の阿羅漢にして、これ大菩薩なり』と謂わん」等云々。
今、予、法華経と涅槃経との仏鏡をもって、当時の日本国を浮かべてその影をみるに、誰の僧か国主に六通の羅漢のごとくたっとまれて、しかも、法華経の行者を讒言して頸をきらせんとせし。また、いずれの僧か万民に大菩薩とあおがれたる。誰の智者か、法華経の故に度々処々を追われ、頸をきられ、弟子を殺され、両度まで流罪せられて最後に頸に及ばんとせし。眼無く耳無きの人は除く。眼有り耳有らん人は経文を見聞せよ。今の人々は、人ごとに経文を「我もよむ、我も信じたり」という。ただにくむところは日蓮ばかりなり。経文を信ずるならば、たしかにのせたる強敵を取り出だして、経文を信じてよむしるしとせよ。もししからずんば、経文のごとく読誦する日蓮をいかれるは、経文をいかれるにあらずや。仏の使いをかろしむるなり。

現代語訳

法華経勧持品第十三には「或いは山林の閑静なところにいて、ぼろを継ぎ合わせた法衣を着て、人のいない所にいて…自らの利益に執着するが故に、在家の人々のために法を説いて、世間の人々から六神通を得た羅漢のように尊敬される者があるであろう」とあり、また「常に大衆の中にあって我らを毀ろうとするが故に、国王や大臣・婆羅門・在家の有力者、及び他の比丘達に向かって我々を誹謗・中傷し…悪鬼が彼らの身に入って我らを罵り辱めるであろう」とあります。また「濁悪の世の悪比丘は、自分の信ずる教えは仏が人々の機根に随って方便として説いた教えであることを知らずして、悪口を言い、顰蹙し、しばしば追放されるであろう」等と説かれています。涅槃経には「一闡提の徒が阿羅漢の姿を装って静かな所に住し、方等大乗経典を誹謗するでありましょう。もろもろの凡夫は皆そうした人を見て、彼らこそ真の阿羅漢であり大菩薩であると思うであろう」等と記されています。

今、私がこの法華経と涅槃経の金言を鏡として現在の日本国を映し出してその姿を見ると、国主に六通の羅漢のように尊敬され、しかも法華経の行者を讒言して頚を切らせようとした僧はいったい誰でありましょうか。また万民から大菩薩と仰がれている僧はいったい誰でありましょうか。一方、法華経の故に度々所を追われ首をきられようとし、弟子を殺され、二度まで流罪にあい、最後には斬首されようとした智者はいったい誰でありましょうか。

眼がなく耳のない人はともかく、眼があり耳のある者であれば経文をよく見、聞きなさい。今の人々は誰もが「私も経を読んでいる、経を信じている」と言いながら、ただ憎むところは日蓮ばかりです。経文を信ずるというなら経文に明確に記されている三類の強敵を呼び起こし、これをもって経文を信じているという証拠としなさい。もしそうでなく、経文の通りに読誦している日蓮に対してか怒るのは、経文そのものを怒ることではないのでしょうか。それは仏の使いを軽んじていることになるのです。

講義

前段において、極楽寺良観の本質を祈雨の失敗という事実を通して指摘されましたが、本段では法華経・涅槃経の経文を引いて、末法の日本国において良観こそ法華経勧持品に予言された僭聖増上慢であり、大聖人は法華経の故に、その僭聖増上慢による種々の大難にあった法華経の行者であることを明らかにされています。そして、このような邪師・邪法を尊んでいる故に、政道が曲がり、諸天にも見捨てられ国も滅びようとしているのであると指摘されています。

初めに引かれている法華経の三つの文はいずれも勧持品第十三の文です。釈尊は見宝搭品第十一において、三箇の鳳詔をもって大衆に対して滅後の弘法を勧めましたが、これを受けて勧持品で薬王菩薩・大薬説菩薩をはじめとして、二万の菩薩眷属が此土の弘経を誓い、五百の阿羅漢、学無学八千、及び摩訶波闍波提比丘尼と六千の比丘尼が他土の弘経を誓願します。しかし、釈尊は黙然として、これに答えません。そこで不退の法輪を転じ諸の陀羅尼を得た八十万億那由佗の諸菩薩が十方世界の滅後弘通の誓いを発したのです。

ここに挙げられた勧持品の初めの二文は、これら八十万億那由佗の菩薩が誓願を起こして述べた二十行の偈文のうち、妙楽大師が分類した、三類の強敵の中の第三の僭聖増上慢の部分にあたります。ちなみに第一の俗衆増上慢は「諸の無知の人の悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん我等皆当に忍ぶべし」と述べているのがそれで、第二の道門増上慢は「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心を充満せん」がそれにあたり、この後に「或は阿練若に」以下の文が続きます。

「開目抄」に「像法一千年・二千年すぎて末法の始に法華経の怨敵・三類あるべしと八十万億那由佗の諸菩薩の定め給いし」(御書全集225頁14行目)と仰せられているように、この勧持品の二十行の偈は、末法に法華経の怨敵たる三類の敵人が出現することを予言した未来記です。このことは同時に、法華経を弘通して、三類の強敵による難に値う人こそ真実の法華経の行者で 「悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に 未だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心を充満せん」であることを示しています。

妙楽大師は法華文句記巻八の四においてこの勧持品二十行の偈について「文に三あり。初に一行は通じて邪人を明かす。即ち俗衆なり、次に一行は道門増上慢の者を明かす。三に七行は僭聖増上慢の者を明かす」と三類に分類したあと、「故に此の三の中に初は忍ぶ可し。次は前に過ぎたり。第三最も甚だし、後後転た識り難きのを以ての故に」と、なかでも第三の僭聖増上慢による誹謗・迫害が最も甚だしく堪えがたい。それは、第一類よりも第二類、第二類よりも第三類と、後になればなるほどその本質を見抜くことが難しくなり、人々は容易に邪義に誑惑され、正法を持つ人に敵対してしまうからである、と述べています。

第一の俗衆増上慢について妙楽大師は「通じて邪人を明かす」と釈し、広く無智謗法の衆生を指しているとしています。大聖人は「唱法華題目抄」に、これらの経釈を引かれたうえで「文の心は此の一行は在家の俗男俗女が権教の比丘等にかたらはれて敵をすべしとなり」(御書全集6頁7行目)と述べられています。

また第二の道門増上慢とは、末だ悟りを得ていないにもかかわらず悟りを得たと思い込んで、法華経の行者に敵対する増上慢の出家者のことをいいます。

次に、第三の僭聖増上慢についてですが、大聖人はこれに関して諸御書でよく引かれているのは智度法師の釈です。すなわち法華経疏義鑚に「第三に或有阿練若より下の三偈は即是出家の処に一切の悪人を摂す。常在大衆より下の両行は公処に向って法を毀り人を謗ず」とある文です。「或有阿練若より下の三偈」とは、本文に引用されている最初の文と、次の一偈です。

「是の人悪心を懐き常に世俗の事を念い名を阿練若に仮って好んで我等が過をださん」

智度法師が「出家の処に一切の悪人を摂す」と釈しているのは、出家者である僭聖増上慢こそ、法華経の行者迫害の中心であるということでありましょう。つまり僭聖増上慢のもとに正法に敵対する一切の悪人が結集し、法華経の行者を亡きものにしようとするのです。大聖人は「開目抄」でこの智度法師の文を引かれて「出家の処」とは具体的に日本国のどこを指すのかとの問いを構えられ「華洛には聖一等・鎌倉には良観等ににたり」(御書全集228頁10行目)と述べられています。これは、勧持品二十行の偈のなかの「納衣在空閑」「為世所恭敬 如六通羅漢」の経文等に照らして指摘されたものです。つまり僭聖増上慢とは、世間的な意味での悪僧とは全く違うものであって「納衣在空閑」「為世所恭敬 如六通羅漢」との経文が示すように、見た目は、ひたすら修行に打ち込んでいる聖者であり、世間の人々からは立派な仏法者と仰がれている人物であります。

大聖人が良観と並べ挙げられている華洛の聖一とは、京都にある臨済宗東福寺の開山・弁円のことで、日本最初の国師号を授けられ、聖一国師の名で知られます。字を円爾といい、嵯峨天皇や亀山上皇、北条時頼に授戒を授けたといいます。元亨釈書巻第七に「正嘉元年寛元上皇、亀山宮に於いて禅門の菩薩戒を受けたまう。宮に留まること七日、法要を敷宣す。上皇自ら黄金扇を持して爾にあたえたもう。帝者の手づから授けたまうことは古来たぐいすくなし」とあります。また、同年、弁円は時頼に招かれて鎌倉に入り、聖一和尚の号が授けられています。

このように、良観と同様に弁円は常に権力者と深いつながりを持っており、世間から聖僧と仰がれていました。このことから、大聖人は、彼を良観と共に僭聖増上慢の一類とされたのでありましょう。

次に、智度法師は「常在大衆より下の両行は公処に向かって法を毀り人を謗ず」と述べていますが、「常在大衆より下の両行」とは、法華経勧持品の次の文を指しています。

「常に大衆の中に在って我等を毀らんと欲するが故に国王大臣婆羅門居士及び余の比丘衆に向って誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人外道の論議を説くと謂わん」

この文の意は、僭聖増上慢が権力者や他の宗教者に対して法華経の行者を謗り、讒奏することによって権力者を動かし、法華経の行者を弾圧させるというのです。

次に「悪鬼其の身に入って」とは、法華経の行者を罵詈等するのは、悪鬼のしわざによることを表しているのですが、これを大聖人は御義口伝で次のように述べられています。

「悪鬼とは法然弘法等是なり入其身とは国王・大臣・万民等の事なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を怨むべしと云う事なり、鬼とは命を奪う者にして奪功徳者と云うなり」(御書全集749頁、第十二悪鬼入其身の事、1行目

そして邪法に毒された悪比丘が法華経の行者を誹謗することによって、正法の行者は一度ならず所を追われます。すなわち「数数見擯出」の難にあうのです。開目抄に「日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり」(御書全集202頁17行目)と仰せられているように、大聖人御一人が法華経の故にこの難に値われ、仏説が真実であることを証明されたのです。

以上の法華経勧持品の文に加えて、大聖人は更に、涅槃経の文を引かれています。これは、人々が真の阿羅漢であり大菩薩であると思い込むような一闡提が出現するであろうと予言したものです。

そして次に、これらの経文によって当時の世を照らしてみると、誰がこれらの経に述べられている僭聖増上慢・悪比丘・一闡提であるかが、明白であるとして、「今予・法華経と涅槃経との仏鏡をもって当時の日本国を浮かせて其影を見るに誰の僧か国主に六通の羅漢の如くたとまれて而も法華経の行者の讒言して頸きらんとせし、又いづれの僧か万民に大菩薩とあをがれたる」と仰せられています。

大聖人がここで挙げられている僭聖増上慢の要相は、

①国主から六神通を得た阿羅漢のように崇められている

②法華経の行者を讒言し、頸を切らせようとした

③万民から大菩薩と敬われている

の三点です。これに該当する人物が極楽寺良観以外にないことはもはや明白でありましょう。

このように、経文をもって良観の本質を明らかにされたうえで「誰の智者か法華経の故に度度・処処を追はれ頚をきられ弟子を殺され 両度まで流罪せられて最後に頚に及ばんとせし」と、経文の予言通りの大難を受けたのは、大聖人をおいてほかに誰もいないことを示されています。

大聖人はここで、御自身が受けられた数々の大難が、仏の予言に符合していることを簡潔に述べられています。

まず「度度・処処を追はれ」とは、具体的には、建長5年(西暦1253年)に清澄寺において立教開宗された際、安房東条郷の地頭・東条左衛門景信の難をさけるためにやもなく清澄山を出られたことがまず第一です。また、文応元年(1260)の松葉ヶ谷の法難もその一つと考えられます。松葉ヶ谷は立教開宗されて後、鎌倉に入られて最初に草庵を結ばれた地であり、文永8年(1271)竜の口の法難に至るまでの18年間の長きにわたって御化導の拠点とされたのです。

この法難については、本抄でも触れられていますが、立正安国論を最明寺入道時頼に上呈されて40日目の727日の夜半、大聖人を亡き者にせんとして、念仏者等が松葉ヶ谷の草庵を襲撃したのでした。このため大聖人は鎌倉を離れ、しばらく下総国・若宮の富木常忍のもとに身を移されました。

次に「頸を切られ弟子を殺され」とは、文永元年(西暦1264年1111日の小松原の法難を指しておられると拝されます。この法難は、大聖人が伊豆流罪赦免後、安房へ帰られた折、東条景信が家来を率いて、東条の小松原で大聖人一行を襲ったものです。この時、弟子の鏡忍房が殺され、駆けつけた工藤吉隆も重傷を負ってまもなく死に、大聖人自身も景信が斬りつけた刀によって、額に傷を受けるとともに、左の手を骨折されました。なお「頸をきられ」との仰せは、「頭を切られ」と読むこともできます。

更に「両度まで流罪せられて最後に頸に及ばんとせし」とは、いうまでもなく弘長元年(西暦1261年)の伊豆流罪、文永8年(西暦1271年)の佐渡流罪と、また佐渡流罪直前に起きた竜の口法難を指して、このように表現されたものです。

いずれにしても、大聖人は経文に予言されたような数々の大難を受けられたことをもって、「経文の如く読誦する日蓮」と御自身を規定され、その大聖人に敵対することは経文に背くことであり、仏の使いを軽んずることにほかならないと断じられています。ここに「仏の使」とは、地涌の菩薩の上首たる上行菩薩のことを意味しておられることは明らかです。

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