下山殿御消息 第六段第四(真言師等の祈雨)
建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基
また、この経は両火房一人には限るべからず。昔をかがみ、今をもしれ。弘法大師の祈雨の時、二七日の間、一雨も下らざりしもあやしきことなり。しかるを、誑惑の心強盛なりし人なれば、天子の御祈雨の雨を盗み取って「我が雨」と云々。善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の祈雨の時も、小雨は下りたりしかども、三師ともに大風連々と吹いて、勅使をつけておわれしあさましさと、天台大師・伝教大師の須臾と三日が間に帝釈雨を下らして小風も吹かざりしも、たっとくぞおぼゆる、たっとくぞおぼゆる。
現代語訳
また、これらの経は両火房一人だけでなく、今日の例にもあてはまります。弘法大師が祈雨をした時、二週間の間、一雨も降らなかったことも不可解なことです。しかるに彼は誑惑の心が強かった人なので、天子自からの御祈雨によって降った雨を盗み取って自分の祈雨による雨であると言いふらしたのです。善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の祈雨の時も、小雨は降ったけれども、三師の場合には共に大風が長々と吹いて、その故に勅使を遣わされて追放されたのです。
その浅ましさに比べると、天台大師や伝教大師が須臾の間、あるいは三日のうちに帝釈により雨を降らせて、少しの風も吹かなかったことこそまことに貴く思われます。
講義
雨は人間生活にとって欠くべからざる天の恵みですが、農耕を主体とする社会ではなおさらです。中国及び日本において、雨を祈る儀式が行われていた例は、内道・外道にわたって枚挙にいとまがありません。仏教の中では特に真言密教による祈雨の例が多いが、天台宗でも頼まれて祈禱をした例があったようです。
中国の真言僧による祈雨の事例について、大聖人は「三三蔵祈雨事」、「報恩抄」に詳しく述べられています。例えば「三三蔵祈雨事」には善無畏の祈雨について次のように記されています。
「善無畏三蔵・漢土に亘りてありし時は唐の玄宗の時なり、大旱魃ありしに祈雨の法を・をほせつけられて候しに・大雨ふらせて上一人より下万民にいたるまで大に悦びし程に・須臾ありて大風吹き来りて国土をふきやぶりしかば・けをさめてありしなり」(御書全集1469頁3行目)
これは栄高僧伝巻第二の善無畏伝に基づいているものと思われます。
「暑天亢早に属し、帝、中官高力士を遣わし疾く畏を召して雨を祈らしむ。畏曰く、今の旱、数として当に然るべし、若し苦りて竜を召して雨を致さば、必ず暴ならん。適に損わるに足るのみ、なすべからずと、帝これに強いて曰く。人暑病に苦しむ。風雷と雖もまた意を快するに足る。辞することえざるのみと。有司のために請雨の具を陳ぶ。幡幢螺鈸備われり、畏笑って曰く。これをもって雨を致すに足らずと。急にこれを徹して、乃ち一鉢に水を盛り、小刀をもってこれを攪す。梵言数百、これに呪す。須臾にして物有り、竜の如し、その大きさ指の如く、赤色なり、首を矯め水面を瞰てまた鉢底に僭む。畏、且は攪し、且は呪す。しばらくありて、白気あり、鉢より興りて逕に上ること数尺す。稍稍にして引き去る。畏、力士に謂いて曰く。すみやかに去れ、雨至らんとすと、力士馳せ去りて廻願するに、白気の疾く旋りて講堂よりして西するを見る。一匹の素の空に翻って上るが如し。既にして、昏霾し大いに風ふきて震電す。力士纔に天津橋に及ぶに、風雨馬に随って驟く、街中の大樹多く抜かる。力士入りて奏す。しかして衣は尽く霑湿す。帝、稽首して畏を迎え、再三致謝す」
善無畏は雨を降らしても暴風雨になるから止めた方がよいと進言しましたが、玄宗皇帝は強いて祈雨を行わせしめました。はたして暴風雨となりましたが、それでも皇帝は善無畏に感謝したという内容です。善無畏の修法は鉢に水を張り、小刀で水をかきまぜながら呪文を唱えるというものでした。
次に金剛智について三三蔵祈雨事には「金剛智三蔵わたる、又雨の御いのりありしかば七日が内に大雨下り上のごとく悦んでありし程に、前代未聞の大風吹きしかば・真言宗は・をそろしき悪法なりとて月支へをわれしが・とかうしてとどまりぬ」(御書全集1469頁5行目)と記されています。
同じく栄高僧伝巻一には次のようにある。
「其の年正月より雨ふらずして五月におよぶ…乃ち智に詔して壇を結んで祈請せしむ…第七日に至り…午後まさに眉眼を開くに、即時に西北の風生じて、瓦を飛ばし樹を抜き雲を崩し雨を泄す。遠驚駭す。…所司、旨を希んで奏すらく、外国の蕃僧は遣わして国に帰らしめよと」
金剛智は祈雨の修法に臨み、7日目の午後にようやく雨を降らすことができましたが、暴風を伴ったために彼は危うく国外追放の憂き目にあうところであったといいます。
次に不空の場合は三三蔵祈雨事に「不空三蔵・雨をいのりし程三日が内に大雨下る悦さきのごとし、又大風吹きてさき二度よりも・をびただし数十日とどまらず、不可思議の事にてありしなり」(御書全集1469頁7行目)と述べられています。これも栄高僧伝巻一に伝えるところです。
「是の歳夏を終わりても愆陽あり。詔して雨を祈らしむ…空奏して孔雀王の壇を立て、末だ三日尽きざるに雨已にあまねし、帝大いに悦び…絹二百匹を賜う。後、一日大風卒に起こるによりて空に詔して禳止せしむ」
不空の祈雨も、雨は降ったが、すぐ後で突風が吹いて被害が出たので、皇帝は祈禱を止めさせたといいます。
日本では空海が天長元年(西暦824年)に守敏という真言僧と祈雨を競ったことが逸話として残っています。守敏は7日後に雨を降らしましたが、京洛のみで近畿一円は旱魃のままでした。続いて空海が京都の神泉苑で請雨経法を修しました。その状況を元亭釈禳書には次のように伝えています。
「また海に詔す。七日過ぐるも雨降らず。…海、奏して二日を延べ…散目に重雲震雷、大いに膏雨を注ぎ、池水盈溢して火壇の畔に至る。霖沛三日、天下皆洽う」
このように空海の場合は1週間で雨をふらすことができませんでしたが、2日間の延長をして祈雨に成功したとあります。しかし大聖人は諸御書で空海が日延べしたのは2日ではなく2週間、つまり14日、はじめの1週間と合わせると21日間ですが、それでも雨が降らなかったと次のように指摘されています。
「弘法にをほせつけられてありしかば七日にふらず二七日にふらず三七日にふらざりしかば、天子我といのりて雨をふらせ給いき、而るを東寺の門人等我が師の雨とがうす」(御書全集1469頁12行目)
淳和天皇が空海の祈禱の法験を待ちかねて自ら祈禱を始めたところ、日ならずして雨が降りました。空海はその天皇による祈雨を自分の功として世人を誑惑したのです。ところが、この天長元年の降雨は「お大師さまの雨」とされて何百年も言い伝えられることになったのです。大聖人はこの祈雨について先の御文の次下に「くわしくは日記をひきて習うべし」(御書全集1469頁14行目)と仰せられていることから、たしかな記録文書に基づいて指摘されたことは明らかです。
これが、応安年間の頃までに成ったとされる太平記になると、この逸話は大きく変質してしまっています。そこでは守敏が弘法と真言密経の効験を争って負け、天皇に笑われたことを恨みに思い、呪力をもって三千大千世界の龍神を捕らえて水瓶に押し込め、旱魃をもたらしたことになっています。これを見破った弘法が皇居の前に池を掘らせ、清涼の水をたたえて龍王の来臨を講うたところ、善女龍王が金色の八寸の龍に現じて、この池に来臨したので、龍王に種々の物を供えて、雨を降らしたといいます。
祈禱と降雨の因果関係については、現代に生きる人々が考え得るのは、次のような観点でありましょう。一つには起世経や経律異相に述べられているように、祈禱する師の心根・生き方が天地の運行と合めとする当時の人々の謗法を指摘され、とりわけ良観を指弾されています。
もう一つは、真言宗の諸雨の修法内容に関連しています。大雲輪請雨経や大孔雀呪王経に基づき、壇を設けて護摩の火を焚き、呪文を唱えるという祈雨の修法では、焚く護摩は、教義上神仏の供養という意味をもつのでしたが、現代において知られている人工雨の知識からすれば、大きな炎を作って上昇気流を作ることも、煙を空中に放出することも降雨の条件を創出するために理にかなっているといってよい。
簡単にいって、雨とは空気中の水蒸気が細かい塵を足場として凝結核を形成し、その核を中心に水滴ができてそれが地上に落下する現象です。したがって適温で空中に煙を放出し、上昇気流を作り出せば、雨が降る確率は高くなります。ワーテルローの砲撃戦の後に降った雨はこうしてできた人工雨と言われています。原子爆弾が炸裂した直後の広島で黒い雨が降ったというのもおなじでありましょう。
こうしてみると、請雨の修法は、人々の経験知に基づいたものであったかもししれません。しかしながら、善無畏の行ったように鉢に満たした水を小刀で混ぜる修法から考えると、護摩壇と人工雨の関係はむしろ偶然の一致であったと見た方がよいのかもしれません。いずれにせよ重要なことは、根源の法に背く祈禱は真実の祈りとはならず、かえって災いをもたらすということです。
さて、大聖人は本抄で、祈雨に失敗した真言僧の祈禱に対して、天台大師と伝教大師の祈雨を挙げられています。伝教大師の祈雨については既に述べたので、ここでは天台大師の例について見てみたい。大聖人は「三三蔵祈雨事」で次のように仰せです。
「天台大師は陳の世に大旱魃あり法華経をよみて・須臾に雨下り王臣かうべをかたぶけ万民たなごころをあはせたり、しかも大雨にもあらず風もふかず甘雨にてありしかば、陳王大師の御前にをはしまして内裏へかへらんことをわすれ給いき、此の時三度の礼拝はありしなり」(御書全集1469頁16行目)
続高僧伝巻17によれば、つぎのように叙述されている。
「是の亢早す。百姓咸な謂らく、神怒ると。顗、泉源に到って、衆を率いて経を転ず。便ち雲興り雨のそそぐを感じ、虚誣自ら滅す」
天台大師の場合、法華経を読誦して「須臾」のうちに雨が降ったのです。
ところで、雨といってもさまざまな種類があります。本抄には天雨・竜雨・修羅雨・麤雨・甘雨・雷雨等と列挙されています。ここで挙げられている雨の種類の区別は「雨の降り方」と「人々の生活・感情」との関係を基準としています。望ましいものは民衆が雨を渇望している時に降り、しかもしとしとと降る雨でありましょう。天台・伝教の場合は、こうした基準からも申し分ないものだったのです。
大聖人は、こうした現証を引かれて「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(御書全集1468頁16行目)と喝破されているのである。
このように日蓮大聖人は、文証と理証、そして更には現証を通して良観を徹底的に破折され、その欺瞞と偽善のベールを剥ぎ取り、その本性を白日のもとにさらされたのです。良観は本来ならば、大聖人との約束通り大聖人の弟子となるべきところでした。
ところが、良観はかえって逆恨みし、大聖人を亡き者にしようと図ったのです。しかも、あくまで自分は表面に立たず事を進めようとしたのです。祈雨の勝負以前にも、良観は大聖人を第一の悪者として流言蜚語を飛ばしていましたが、祈雨に破北した後には、念仏者の念阿良忠・道阿弥陀仏と語らい、良忠の輩下にある浄光明寺の僧・行敏に、法論を挑ませることにしました。
行敏の論難の内容を要約すれば、
一、爾前無得道説
二、大小乗の戒律不要論
三、念仏無間の説
四、禅天魔の説
の四点でした。これらはすべて大聖人の年来の主張でしたが、行敏はこれを取り上げて「事若し実ならば仏法の怨敵なり、仍て対面を遂げて悪見を破らんと欲す」(御書全集179頁4行目)として大聖人に法論を挑んだのです。この法論は、行敏が個人的に挑んだという形をとって、大聖人の見方を見たのでありましょう。
このことを看破された大聖人は、この年の7月8日行敏の御状に対して、5日間返答をされず、13日になって返事を認められ、私的な法論ではなく、幕府への上奏を経た公場対決で是非を糾明すべきであると申し送られました。
そこで良観らは、行敏の名で、大聖人を謗ずる訴状を問注所に提出させました。そこには、教義上の問題よりもむしろ、阿弥陀・観音等の像を火に入れたり川に流したりしています。凶徒を室中に集め、兵刀を貯えているなどの讒言を連ねており、大聖人一門を、幕府にとっての危険分子であると中傷することによって、権力を動かそうとした底意がありありと見えます。大聖人は、この訴状に対して一つ一つ明確に反論されて問注所に届けられました。
そして、他宗の本尊を火に入れたり水に流したりしたことはないことを述べられ、良観らが罪をデッチ上げようとして「証拠無くんば良観上人等自ら本尊を取り出して火に入れ水に流し科を日蓮に負せんと欲するか」(御書全集181頁14行目)と論駁されています。また大聖人一門を危険集団のごとく言っていることについても、法華経守護のためには弓箭兵杖を所有することは経典に説かれていることであるとされたうえで、大聖人は、これまで種々の讒言によって、身に傷を受け、弟子等が殺されたではないかと切り返されています。
良観らは、大聖人と公場対決すればかなわないとわかっているので、いよいよ悪辣なる裏面工作を開始します。それは、権門に取り入って大聖人への様々な讒言を流すことでした。「種種御振舞御書」には次のように仰せです。
「さりし程に念仏者・持斎・真言師等・自身の智は及ばず訴状も叶わざれば上郎・尼ごぜんたちに・とりつきて種種にかまへ申す、故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し道隆上人・良観上人等を頚をはねよと申す、御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし、但し上件の事・一定申すかと召し出てたづねらるべし」(御書全集911頁3行目)
こうして、大聖人は文永8年(1271)9月10日、評定書へ召喚され、平左衛門尉頼綱の尋問を受けました。これに対して大聖人は「上件の事・一言もたがはず申す、但し最明寺殿・極楽寺殿を地獄という事は・そらごとなり、此の法門は最明寺殿・極楽寺殿・御存生の時より申せし事なり」(御書全集911頁7行目)と堂々と答えられたうえで、これらは国を思っていったのであるから、彼らと公場で対決させよと迫られます。しかし、頼綱は聞く耳を持たず、ますます怒り狂い、翌々日の12日には数100人の武装兵士を率いて松葉ヶ谷の草庵を襲撃し、大聖人を捕縛し、竜の口で頸を刎ねようとするに至ったのです。