下山殿御消息 第五段四(小乗戒は時機不相応の悪法)
建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基
また経に云わく「汝を供養せば、三悪道に堕つ」等云々。在世の阿羅漢を供養せし人、なお三悪道まぬかれがたし。いかにいわんや、滅後の狂惑の小律の法師原をや。小戒の大科をば、これをもって知んぬべし。あるいはまた驢乳にも譬えたり、還って糞となる。あるいは狗犬にも譬えたり、大乗の人の糞を食す。あるいは猿猴、あるいは瓦礫と云々。しかれば、時を弁えず機をしらずして小乗戒を持てば、大乗の障りとなる。破れば、また必ず悪果を招く。その上、今の人々、小律の者どもは、大乗戒を小乗戒に盗み入れ、驢乳に牛乳を入れて大乗の人をあざむく大偸盗の者、大謗法の者。そのとがを論ずれば、提婆達多も肩を並べがたく、瞿伽利尊者が足も及ばざる閻浮第一の大悪人なり。帰依せん国土、安穏なるべしや。
余このことを見るに、自身だにも弁えなばさてこそあるべきに、日本国に智者とおぼしき人々一人も知らず、国すでにやぶれなんとす。その上、仏の諫暁を重んずる上、一分の慈悲にもよおされて、国に代わって身命を捨てて申せども、国主等彼にたぼらかされて、用いる人一人もなし。譬えば、熱鉄に冷水を投げ、睡眠の師子に手を触るるがごとし。
現代語訳
また経には「あなたに供養する者は三悪道に堕ちるであろう」とあります。釈尊在世の阿羅漢に供養した人ですらなお三悪道はまぬかれがたいのです。まして仏滅後の世間を惑わす小律の法師どもに供養すればなおさらです。小乗戒に執着する大科はこの文によって知られるでありましょう。あるいはまた小乗の戒を驢乳にも譬えており、小乗の戒を持つ者は大乗の人の糞を食らうようなものです。そして更には猿とか瓦礫などにも譬えています。
したがって、時をわきまえず機を知らないで小乗戒を持つならば大乗の障害になり、その戒を破れば必ず悪果を招くことになるでしょう。そのうえ、今の小乗戒を持つ者どもは大乗戒を小乗戒に盗み入れ、驢乳に牛乳を入れるようにして大乗の人をあざむいています。これは大盗賊の者であり大謗法の者です。その罪を論ずるならば提婆達多も肩を並べがたく、瞿伽利尊者などは足元にも及ばない閻浮第一の大悪人です。これに帰依してその国土が安穏でありえましょうか。
私がこのことを見るに、自分さえわきまえていれば済むことでありましたが、日本国に智者と思われる人々が一人もこのことを知らず、国はいよいよ滅びようとしています。そのうえ、仏の諌暁を重んじなければならないし、また一分の慈悲に動かされて国のために身命を捨てて諌暁したのです。にもかかわらず、国主らは彼らにだまされて私の諌言を用いる人が一人もいません。かえって熱く焼いた鉄に冷水を注ぎかけた如く、眠れる師子に手を触れた如くに激しく反発し迫害を加えてきたのです。
講義
ここに引かれている「汝を供養する者は三悪道に堕つ」との文は、小乗教に執着する須菩提を責めて維摩詰が述べた言葉で、維摩経巻上弟子品第三に見えます。須菩提は、釈尊の10大弟子の一人で阿羅漢果を得て解空第一と称せられました。仏法において阿羅漢は衆生の供養を受けてよいことになっており、応供と呼ばれていました。しかし、大乗教が説かれた後も小乗に執着するならば、そのような声聞に施すことは福運を積むことにはならず、かえって地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちてしまうであろうと維摩詰は誡めたのです。
この維摩経の一節を引かれて大聖人は、釈尊在世の阿羅漢でさえもこれに供養した人は三悪道に堕ちるのであるから、まして釈尊滅後の悪世末法において、人々を誑惑する小乗教の律師に対して布施・供養することはもっと大きな罪になると厳しく警告されているのです。
次に大聖人は、小乗律を持つことの誤りを大乗経典で指摘した譬えを挙げられています。すなわち、例えば驢馬の乳のようなものであると仰せである。伝教大師は顕戒論巻中で次のように述べている。
「牛驢の乳、其の色別ち難く、両迦の果、其の形何ぞ別たん」
ここに「両迦の果」とは、迦羅迦果と鎮頭迦果をいい、前者は有毒の実で後者は無害ですが、形だけでは区別がつかないといいます。これと同様に、驢乳は牛乳と外見は同じであるが、大智度論巻第18には「譬えは牛乳と驢乳との如し、其の色は同じと雖も、牛乳を攅むれば則ち酥と成り、驢乳を攅むれば則ち尿と成る」と述べられています。つまり攪拌し精製すると牛乳は酥となり、更に醍醐となるのに対して、驢乳は悪臭を放ち糞尿になってしまうというのです。これは、仏法と外道の勝劣について譬えたものですが、大聖人はこれを転用して牛乳を法華経に、小乗の律宗を驢に譬え「還って糞となる」と仰せられているのです。更に大聖人は、小乗の律師を犬に譬え、大乗の人の糞を食らうようなものであると断じられています。
また、猿の譬えは、守護国界主経巻第十に出てきます。王の夢の中に10匹の猿が現れ、そのうち9匹は悪比丘に、残りの1匹が善比丘尼に譬えられています。これらの9匹の猿は、人々の心を擾乱し、少欲知足の猿を団結して追い出そうとする悪沙門であり、戒律を破り、種々の悪行をなし、国王や大臣等に向かって真実の沙門を非難し、国から追放しようとするといいます。
瓦礫の譬喩は、南都の小乗戒を批判して大乗戒の正当性を宣揚した慈覚の顕揚大戒論巻第一に「清浄毘尼経に判じて云く、瓦礫の破れたるが如く修補す可からず。是声聞の毘尼なり」とあるように、一度破れたら補修できないことから小乗戒に譬えたものである。
天台大師の摩訶止観第五上にも「設い世を厭う者も、下劣の乗を翫ぶは、枝葉に攀附し、狗が作務に狎れ、獼猴を敬うて帝釈と為し、瓦礫を是明珠なりと宗む、此れ黒闇の人なり」と、下劣の教えに執着する愚かさを指摘されています。
このように、大乗教と小乗教との間には天地雲泥の差があります。であればこそ伝教大師は小乗戒を破して大乗戒壇を建立したのです。したがって、良観等の律師らは既に伝教大師によって破折し去られた小乗戒をそのまま復活させるわけにはいかず、大乗戒を小乗戒に取り入れることによって、人々の目を欺いたのです。これは、まさに驢乳に牛乳を混ぜるようなものであり、大泥棒・大謗法というほかない行為です。故に大聖人は、その罪は提婆達多にも劣らないほど重く、瞿伽利尊者など足元にも及ばないほどであると指弾されるとともに、こうした律師らに帰依するならば、その国土は安穏であるはずがないと警告されているのです。
大聖人が良観と、それをバックアップしている幕府要人たちに対してこのように厳しく指弾されたのは、自分だけ知っていればよいということでしたが、国が滅びるのを黙視できないためにと「仏の諌暁を重んずる」が故、更に「一分の慈悲にもをされて」身命を惜しまず諌暁したと仰せられています。
しかしながら、鎌倉幕府の支配者はすべて良観に騙され、大聖人の警世の言辞を用いる人は一人もいなかったばかりでなく、かえって大聖人に迫害・弾圧を加えるに至ったのです。このことを、まるで灼熱の鉄に冷水を注いだようなものであり、眠れる獅子に手を触れて起こしたようなものであると述べられています。もとより、大聖人は「身命を捨て申せども」と仰せのように、そうした大難は覚悟の上であられたのです。