下山御消息(第五段第三)

 建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基

そもそも、釈尊は、我らがためには賢父たる上、明師なり、聖主なり。一身に三徳を備え給える仏の、仏眼をもって未来悪世を鑑み給いて記し置き給う記文に云わく「我涅槃して後、無量百歳」云々。
仏の滅後二千年已後と見えぬ。また「四道の聖人ことごとくまた涅槃せん」云々。付法蔵の二十四人を指すか。「正法滅して後」等云々。像末の世と聞こえたり。
「当に比丘有るべし。律を持つに似像せて」等云々。今、末法の代に比丘の似像を撰び出ださば、日本国には誰の人をか引き出だして、大覚世尊をば不妄語の人とし奉るべき。俗男・俗女・比丘尼をば、この経文に載せたることなし。ただ比丘ばかりなり。比丘は日本国に数を知らず。しかれども、その中に三衣一鉢を身に帯せねば、似像と定めがたし。ただ持斎の法師ばかり相似たり。一切の持斎の中には、次下の文に「律を持つ」ととけり。律宗より外はまた脱れぬ。次下の文に「少しく経を読誦し」云々。相州鎌倉の極楽寺の良観房にあらずば、誰を指し出だして経文をたすけ奉るべき。
次下の文に「なお猟師の細めに視て徐かに行くがごとく、猫の鼠を伺うがごとし。外には賢善を現じ、内には貪嫉を懐く」等云々。両火房にあらずば、誰をか三衣一鉢の猟師・伺猫として仏説を信ずべき。哀れなるかな、当時の俗男・俗女・比丘尼等・檀那等が、山の鹿・家の鼠となりて、猟師・猫に似たる両火房に伺われ、たぼらかされて、今生には守護国土の天照太神・正八幡等にすてられ、他国の兵軍にやぶられて、猫の鼠を捺さえ取るがごとく、猟師の鹿を射死すがごとし。俗男・武士等は射伏せ切り伏せられ、俗女は捺さえ取られて他国へおもむかん。王昭君・楊貴妃がごとくになりて、後生には無間大城に一人もなく趣くべし。
しかるを、余このことを見る故に、彼が檀那等が大悪心をおそれず強盛にせむる故に、両火房、内々諸方に讒言を企てて余が口を塞がんとはげみしなり。

現代語訳

そもそも釈尊は我らにとっては賢父であるうえに明師であり、聖主です。一身にこの主・師・親の三徳を備えておられる仏が仏眼をもって未来の悪世を鑑みられて記し置かれた文に「私が入滅した後の無量の百歳」と言われているのです。これは仏入滅後二千年已後を指すと思われます。また「四道の聖人もまたことごとく入滅する」とは付法蔵の二十四人を指しているのでしょうか。「正法が滅して後」とは像法・末法の世と思われます。

「戒律を持っているように姿を似せた出家の比丘がまさに現れるであろう」とありますが、今の末法の時代にこの「比丘の似像」を選び出すとすれば、日本国においてはいったい誰を引き出して大覚世尊を不妄語の人であると言えるでありましょうか。世俗の男女・比丘尼のことはこの経文に記しておらず、ただ比丘とのみあります。比丘は日本国には無数にいます。しかし、そのなかで三衣一鉢を身に帯していなければ「似像」とはいえません。持斎をもった法師のみが該当するのです。一切の持斎の僧の中ではその次の文に「持律」と説いていることから律宗以外にはいません。

更にその続きの文に「わずかばかりの経文を読誦し」とありますが、これは相州鎌倉の極楽寺の良観房でなければ、いったい誰を指し出して経文の真実を証明することができるでありましょうか。また続きの文に「布施を狙うさまは猟師が獲物を狙って細目にみて静かに近づいて行くような姿である。外には賢善そうな姿を現し内心には貪りと妬みを懐く」等とあります。両火房でなければいったい誰を三衣一鉢の猟師伺猫の比丘として仏説を信じたらいいのでしょうか。

哀れにも、今日の俗男・俗女・比丘尼・檀那等は山の鹿・家の鼠となって猟師・猫に似た両火房にたぶらかされて、今世においては国土を守護する天照太神・正八幡等にも見捨てられ、他国の兵軍に攻めやぶられて、あたかも猫が鼠をおさえ取り、猟師が鹿を射殺すように、俗男・武士等は矢で射伏せられ刀で切り伏せられ、俗女は押え取られて、他国へ連れていかれるでありましょう。そして、王昭君・楊貴妃のようになって、後生には無間地獄に一人ももれなく赴くでありまそう。

しかるに私がこのことを知るが故に良観の檀那等の大悪心をおそれず強盛にせめたので、両火房はひそかに諸方に讒言して私の口を塞ごうと図ったのです。

講義

大聖人は、この涅槃経の文にある“持律に似像したる悪比丘”こそ良観房であると仰せられています。釈尊は、あらゆる人々にとって、賢父たる親の徳、明師たる師の徳、聖主たる主の徳の三徳を兼備しています。一身に主師親三徳を具備した仏がその仏眼をもって未来悪世の状況を考慮して書き残したのがこの経文であると述べられ、この経文を軽く考えてはならないと戒められているのです。

大聖人は「我涅槃の後無量百歳」とは仏滅後2000年以後「四道の聖人悉く復涅槃せん」とある四道の聖人とは付法蔵の24人を指し、また「正法滅後」とは像法・末法の世であるとされています。そして「当に比丘有るべし持律に似像し」とあることから、末法の日本にあっては、三衣一鉢を身につけて戒律を守っているように見せかけている「持斎の法師」がこれに該当すると指摘されています。

そして涅槃経の次下に「少し経を読誦す」とあることも踏まえると、これに該当する人物は、日本広しといえども極楽寺良観をおいて他にないと結論されています。次の経文に「猶猟師の細視徐行するが如く猫の鼠を伺うが如く外には賢善を現し内には貧嫉を懐く」と説かれているのもまた両火房すなわち良観以外には考えられず、そうでなければ三衣一鉢の威儀を持ちながら経文の猟師や猫にあたる人物が出るとの仏説は信じ難いとまで仰せられています。

こうして大聖人は、良観房にたぶらかされた民衆が、正法を捨てて邪法に帰依することによって無間地獄に堕ちることを深く嘆かれているのです。この故に大聖人は、真っ向から良観を破折し、その偽善を容赦なく指弾されているのです。しかし、幕府権力と癒着し、北条一門の手厚い外護を受けていた良観を敵に回すことによって、大聖人は権力の弾圧を受けざるを得なかったのですが、これはもとより覚悟の上であられたことはいうまでもありません。

 

良観の生涯と両火房の名称の由来

 

ここで、日蓮大聖人が指名して批判されている良観の生涯を簡単に記しておきたい。

良観は健保5年(西暦1217年)、大和の豪族伴貞行の子として生まれ、天福元年(西暦1233年17歳で出家し、東大寺で受戒しました。諱は忍性、法号は良観と称しました。24歳の時、西大寺の叡尊に師事して律師となりました。出家して以来、文殊信仰を続け、文殊信仰による慈善事業を取り入れて布教の手段としました。ただし、良観は、律宗教学の深化や学問の発展とは無縁でした。

叡尊と良観は鎌倉時代初期の西大寺流律宗を代表する律師であったものの、叡尊は自伝、講義録、行動記録を残し、教義上の発展に資しているのに比して、良観については、その死後、書かれた追善文や舎利瓶記や後世の伝記しか残されておらず、良観の自著は一切伝えられていません。良観は若年の時には断食や五字呪を唱える修行に専念し、長じてからは病人等救済、寺院復興のための勧進、道路や橋の工事などの事業経営に抜群の才覚を示しました。

先に述べたように、良観は建長4年(西暦1252年)関東に下向し、約10年間常陸の三村寺に住して西大寺流律宗の流布に努めましたが、この時期も、たびたび鎌倉に出向いて幕府権力の中枢に近づくことに心に砕いていたようです。弘長元年(西暦1261年)大聖人が伊豆に流罪された年に、良観は清涼寺内の釈迦堂に請じられました。これ以後、北条一門の信望を得て、弘長2年(西暦1262年)叡尊の鎌倉入りを契機に良観の立場は、鎌倉仏教界にあって揺るぎないものとなっていきました。大聖人が流罪を許されて鎌倉に戻られた時には、建長寺の蘭溪道隆と並んで、良観が鎌倉仏教界に君臨していたのです。

良観を表面的に見るならば、自らには戒律を厳しく課し、文殊信仰を説いて病人等の救済に力を注ぎ、祈雨や攘災の祈禱に長じた慈悲深く力量のある宗教人に映ったことでありましょう。鎌倉時代の民衆の多くが彼を「生き仏」のように崇めたのはそのためです。現代の学者もまた良観の社会事業・慈善事業を高く評価しています。

しかしながら、涅槃経の一字が予言していたのは、まさしく、そのように「外に賢善を現」す人のことであり、「持律に似像」する人のことでした。正法に敵対する僭聖増上慢は、「僭聖」との言葉が示すように、決して悪人には見えず、外に向けて善行を施す偉大な仏法者としか見えないのです。問題はその内面の本質でありましょう。

次に大聖人の御教示に従って、良観の本質に迫ってみたい。大聖人は本抄で良観のことを「両火房」と呼ばれています。これは、良観の下で起きた火災から、揶揄して与えられた名称です。建治元年(西暦1275年)王舎城事には次のように仰せられています。

「名と申す事は体を顕し候に両火房と申す謗法の聖人・鎌倉中の上下の師なり、一火は身に留りて極楽寺焼て地獄寺となりぬ、又一火は鎌倉にはなちて御所やけ候ぬ、又一火は現世の国をやきぬる上に日本国の師弟ともに無間地獄に堕ちて阿鼻の炎にもえ候べき先表なり」(御書全集1137頁10行目)と。

つまり、一応は、極楽寺と鎌倉市中の大火を「両火」と称されたのですが、再往は現世における火と来世の無間地獄における阿鼻の炎とを両火と称せられ、極楽寺の名称と無間地獄という対照の妙を示されたものと拝されます。また「両火」が「りょうかん」をもじっていることはいうまでもありません。

ここで大聖人は、単なる悪口や揶揄にとどまるのではなく、良観の謗法の善悪を、その本質から、ズバリと喝破されているのです。しかるに、これまでの多くの学者は、現実に病者・貧民を救済している良観に対して、大聖人を、その良観の名声に嫉妬し、悪意に満ちた非難を浴びせたかのように見なしてきたのです。しかし、現実の良観は、外面に示しているような善良な人物ではありませんでした。

日蓮大聖人は、弘長3年(西暦1263年222日、伊豆流罪を赦免になり、鎌倉に帰られました。しかし、現存する御書で、良観について初めて言及されているのは、文永2年(西暦1265年)の聖愚問答抄においてであります。そこには愚人の言として次のように述べさせています。

「極楽寺の良観上人は上一人より下万民に至るまで生身の如来と 是を仰ぎ奉る彼の行儀を見るに実に以て爾なり、飯嶋の津にて六浦の関米を取つては諸国の道を作り七道に木戸をかまへて人別の銭を取つては諸河に橋を渡す慈悲は如来に斉しく徳行は先達に越えたり、汝早く生死を離れんと思はば五戒・二百五十戒を持ち慈悲をふかくして物の命を殺さずして良観上人の如く道を作り橋を渡せ是れ第一の法なり」(御書全集475頁13行目

それに対し「居士・示して云く」として、そのようなことは、“浅ましき小乗の法”であり、しかも、今の律僧らは「布絹・財宝をたくはへ利銭・借請を業とする教行既に相違せり誰か是を信受せん」(御書全集476頁13行目)と破折されています。良観の社会事情をどう評価するかは別として、ここで大聖人は、良観の表面に現れる振る舞いの一つ一つに裏の意味があり、慈悲を表に出しながら自己の利益を追求していることを明確に指摘されているのです。

極楽寺は、東海道から鎌倉に入る要所にありました。当時鎌倉に入る道は7つあり、七切通と呼ばれていましたが、極楽寺坂はその一つです。良観は、これら主要街道に関所を設けて、通行税を人ごとに徴収し、また海路では鎌倉に入るための要所であった飯島や六浦の港では関米を取り立てていたのです。鎌倉は政治の中心都市であったから、そこから得た利益は莫大なものであったに違いありません。このように良観は、慈善事業を表看板にしながら、他方では利権を握って庶民の生活を圧迫していたのです。このことを大聖人は「道を作り橋を渡す事還つて人の歎きなり、飯嶋の津にて六浦の関米を取る諸人の歎き是れ多し諸国七道の木戸・是も旅人のわづらい只此の事に在り」(御書全集476頁14行目)と厳しく指摘されています。

更に大聖人は、文永5年(西暦1268年)に極楽寺良観宛に送られた書状で次のように仰せられています。

「日蓮去る文応元年の比勘え申せし立正安国論の如く毫末計りも之に相違せず候、此の事如何、 長老忍性速かに嘲哢の心を翻えし早く日蓮房に帰せしめ給え、若し然らずんば人間を軽賎する者・白衣の与に法を説くの失脱れ難きか、依法不依人とは如来の金言なり、良観聖人の住処を法華経に説て云く『或は阿練若に有り納衣にして空閑に在り』と、阿練若は無事と翻ず争か日蓮を讒奏するの条住処と相違せり併ながら三学に似たる矯賊の聖人なり、僣聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり、聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し」(御書全集174頁1行目

大聖人はこの書状の中で、良観が幕府に大聖人のことを讒奏したことを取り上げ痛烈に攻撃されています。他の修行者を罪に陥れることは、小乗戒で禁じられていることでした。口で250戒を説きつつ、他の修行者を陰で弾圧することは完全な言行不一致といわなければなりません。

ともあれ、この御状で「所詮本意を遂げんと欲せば対決に如かず」(御書全集174頁7行目)と公場での法論対決を申し込まれたにもかかわらず、良観は、大聖人と公場で対決しようともせず、書状による反論もしようとしませんでした。これは、正面きって反論できず、沈黙せざるを得なかったに過ぎません。鎌倉仏教界にあって第一人者として名声をほしいままにしていた良観にとって、大聖人はいわば目の上のたんこぶであり、心中では激しい憎悪を募らせていたでありましょう。

正面からの対決に勝ち目はないと自覚した良観は、裏で暗躍し、大聖人を亡き者にすべく様々な画策をしていきました。良観の対応策は、北条一門から信頼されている立場を利用して、大聖人を危険人物のように言い触らすことでした。そして、まさにこの讒言によって、大聖人は文永8年(西暦1271年9月、竜の口法難という最大の危機に陥れられることになるのですが、これについては次の段でのべることにします。

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