下山御消息 第五段第二(律宗僧侶は阿羅漢に似た一闡提)
建治3年(ʼ77)6月 56歳 下山光基
また一類の者等、天台の才学をもって見れば我が律宗は幼弱なる故に、漸々に梵網経へうつりぬ。結句は、法華経の大戒を我が小律に盗み入れて、還って円頓の行者を破戒・無戒と咲えば、国主は当時の形貌の貴げなる気色にたぼらかされ給いて、天台宗の寺に寄せたる田畠等を奪い取って彼らにあたえ、万民はまた一向大乗の寺の帰依を抛って彼の寺にうつる。手ずから火をつけざれども日本一国の大乗の寺を焼き失い、抜目鳥にあらざれども一切衆生の眼を抜きぬ。仏の記し給う「阿羅漢に似たる闡提」とは、これなり。
涅槃経に云わく「我涅槃して後、無量百歳、四道の聖人ことごとくまた涅槃せん。正法滅して後、像法の中において、当に比丘有るべし。律を持つに似像せて少しく経を読誦し、飲食を貪嗜してその身を長養す乃至袈裟を服るといえども、なお猟師の細めに視て徐かに行くがごとく、猫の鼠を伺うがごとし。外には賢善を現じ、内には貪嫉を懐く。啞法を受けたる婆羅門等のごとし。実には沙門にあらずして沙門の像を現じ、邪見熾盛にして正法を誹謗せん」等云々。この経文に世尊未来を記し置き給う。
現代語訳
また、律宗の一部のものどもは、天台の才能と学識からみると、我が律宗が幼弱なので次第に梵網経へ移り、結局は法華経の大戒を自宗の小乗戒に盗み入れ、かえって法華円頓の行者を破戒・無戒と嘲笑したので、国主は当時の律僧のいかにも高貴そうな外見に惑わされて、天台宗の寺に寄進していた田畠等を奪い取って彼らに与え、また万民も大乗の寺への帰依を止め、小乗である律宗の寺に移ってしまったのです。
これは自ら火はつけなくても日本一国の大乗の寺すを焼失させたも同様であり、抜目鳥ではないけれども一切衆生の眼を抜いたのも同様です。仏が記し置かれた“阿羅漢に似た一闡提”とは実に彼らのことです。
涅槃経には次のように説かれています。「私が入滅して後、無量百歳という長い年月を過ぎると、四道の聖人もまたことごとく入滅するであろう。正法が滅して後、像法時代になると次のような僧が現れるだろう。すなわち戒律を持っているように姿を似せ、わずかばかりの経文を読誦し、飲食をむさぼってその身を長養するような僧である。…袈裟を着ているとはいえ、布施を狙うさまは猟師が獲物を狙って細目に見ながら静かに近付いて行くような姿であり、猫が鼠を狙っているような姿である。外面はさも賢者で善良である如く見せかけ、内心には貪り・嫉みを懐き、法門のことについては唖法を行じている婆羅門の行者のごとく黙りこくっている。彼らは真の僧侶でもないのに外面は僧侶の姿をし、邪見が強盛で正法を誹謗するであろう」と。
この経文に世尊は未来を記し置かれたのです。
講義
大乗教の最高峰たる法華経を所依とした天台法華宗の教義と比較すれば、小乗教の戒律の遵守を説く律宗の教義が劣っていることは誰の目にも明らかであり、当時の律師たちも当然のことながらそのことを弁えていたでありましょう。そこで、西大寺の叡尊は、戒律を復興するにあたり、小乗戒の四分律に基礎を置きながらも、大乗経典の梵網経の十重禁戒・四十八軽戒を取り入れたのでした。
日本律宗開祖の鑑真も梵網経自体は用いていましたが、小乗戒を否定した梵網戒は用いなかったのです。しかし叡尊は、在家・出家にわたって授戒し、大衆化することを目指して梵網戒を採用し、弟子に対して「律宗は大乗の根本である」と説きました。このことを大聖人は「漸漸に梵網経へうつり結句は法華経の大戒を我が小律に盗み入れて」と指摘されているのです。
更に彼は、律宗とは本来無縁の慈善救済事業を宗教的実践として推進しました。「済度群生」を唱えた叡尊の考えを受けて良観は「非人・病者勧誘」を始めました。良観は叡尊に弟子入りし、十重禁戒を受けた延応元年(西暦1239年)の翌年には、非人宿に文殊菩薩像を安置する「七宿供養」を始めています。
また、本文に記されてはいませんが、叡尊は光明真言の祈禱を取り入れ、密教興隆の時代の風潮に乗って地頭・名主僧の心をつかむことに成功しました。それによって西大寺に寄進される田畑が著しく増大したといいます。叡尊は、斎戒を受けて真言の祈禱を行うならば、現世の所願は必ず成就すると説きました。叡尊の弟子・忍性は、これをそのまま受け継いで、鎌倉の地で幕府要人の信を得て、権威を誇ったのです。
このように、西大寺流律宗は、真言宗の祈禱、天台宗の菩薩戒、民間の文殊信仰を取る入れた混合宗教であったといえるでありましょう。
また、大聖人は、国主が天台宗の寺に寄進していた寺領を奪い取り、律宗に与えたものと指摘されています。これは、良観が建治元年(西暦1275年)10月、従来天台宗の寺院であった摂津・多田院の別当に補せられたことを指しているものと思われます。一方、民衆も天台宗などの大乗教の寺の信仰を捨てて、小乗の律宗寺院を信仰の依りどころとするようになってしまったのです。こうした仏教の混乱を引き起こした元凶である良観らのことを日蓮大聖人は、「手づから火をつけざれども日本一国の大乗の寺を焼き失い抜目鳥にあらざれども一切衆生の眼を抜きぬ」と厳しく非難され、これは「阿羅漢に似たる闡提」と釈尊が予言している通りの存在であると指摘され、涅槃経の文を挙げられているのです。
涅槃経如来性品第四の一には「我涅槃の後無量百歳に四道の聖人も悉く復涅槃せん」とあり、釈尊が涅槃した後、正法時代が過ぎると、正しく仏道を修めた四道の聖人もすべて涅槃するであろうと説かれています。
そして、次に、仏教が形骸化した像法時代には、次のような比丘が出現するであろうと経文には説いています。その比丘とは、「持律に似像し」とあるように、戒律を固く持っているように姿を似せていますが、経は少ししか読誦せず、逆に、飲食は大いに貪る。袈裟を身につけているけれども、布施を狙うさまは、あたかも猟師が獲物を狙って、目を細めて忍び足で近付くようであり、また猫が鼠をとる時に音もなく獲物に近くようであるという。そして、外面的には善良で立派な大徳のごとき姿を示しながら、心の中は貪欲と嫉妬の心が強く、法門については唖法を行ずる婆羅門のように何も言うことができない。このように、僧侶のように見えて実は僧侶ではなく、邪見の心をもって正法を誹謗するであろうと予言されています。